さりはま書房徒然日誌2024年7月28日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月一日を読む

ー世一の心とはほど遠いところにー

六月一日は「私は緑野だ」で始まる。
以下引用文。
世一の眼前に広がる「緑野」。
その「緑野」を眺める世一の心。
両者の心持ちとは遠いところにいる自分自身に気がつく。私は「それがどうしたなどと憎まれ口を叩く鳥」なのだなあと思い、ふと悲しみを覚える。

私にしても
   はたまた世一にしても
      ひたすら自分自身でしかあり得ないものを探し求め、

      偽りの生を本物の生から区別し
         真理に至る近道を通り
            幸運の星に恵まれたものと思いこみ
               美しい時代をくぐり抜けているものと信じこみ、

               だからこそ
                  おのれの寿命を数えたりせず、

                  それがどうしたなどと
                     憎まれ口を叩く鳥は
                        一羽もいない。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』177頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年7月27日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月三十日を読む

ー燃やされるブナの声ー

五月三十日は「私はブナだ」で始まる。
丸山先生を思わせる「いくら住んでもまほろ町に馴染めず さりとてほかの町へ移り住む気にもなれない」作家が、山からブナの若木を庭に移植しようとする。
でも上手くいかない。
五月に落葉樹のブナを移植するには無理があるのかもしれない。
枯れてしまったブナは引き抜かれ、「狙い通りの文章に組み立てられなかった原稿を燃やすための 耐火レンガ製の焼却炉へ投げ入れ」られてしまう。
そんなブナの最後の声を、丸山先生の内なる声のようにも思いながら読んだ。

灰と化してゆく途中で私は
   火が爆ぜる音を利用して
      そんな彼に説論を加えてやり、

      だらだらと読み継がれる
         安直な国民的な作品よりも
            百年後二百年後に日の目を当たるような
画期的にして先鋭的な作品を物するようにと言い、

               とはいえ
                  果たして心耳に届いたかどうかは定かではない。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』169ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月26日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十九日

ー詩情とは縁遠い存在が詩情を帯びてくるー

五月二十九日は「私はネオンサインだ」で始まる。
以下引用文。こういう詩的とは言い難いものに語らせる……というところが好きである。

まほろ町では最も古く
   最も毒々しい色合いの光を単調な間合いで点滅させている
      パチンコ店のネオンサインだ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』162ページ)

以下引用文。パチンコ店の主人はヤクザ者にからまれつつも、きっぱりとはねのける。主人とヤクザ者のやり取りが、ネオンサインの模様に反映されているような書き方も面白い。
また詩情に欠けているかに思えたネオンサインが最後「青い鳥そっくりに」という展開も意外で心に残る。

すると私は
   どんどん赤色を失ってゆき
      ついには青い鳥そっくりになった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』165ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月25日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十八日を読む

ーシビアな語りも「地力」が語れば穏やかに聞こえてくるー

五月二十八日は「私は地力だ」で始まる。「土中に含まれる酵素も酸素も飽和狀態に達し 水分も程良く保たれ」た地力とは、作庭にこだわる丸山先生らしい表現だと思いつつ読む。

以下引用文。そんな地力のある土がありながら、世一の父親はかつて夢中だった家庭菜園はもちろん、花の種すら播こうとしない。
そんな父親の人生を「地力」は以下引用文のように分析する。よくある人間像だが、もし「地力」でなく作者自身が語る形をとれば、あまりの辛辣さに耐えられなくなってしまうかもしれない。「地力」だからこそ、シビアな声もどこか遠くから響いてくるような気がする。

日ごとに老いている彼のその目には
   すでに夢のかけらさえ宿っておらず、

   貫き通すほどの素志も
      遂げなくてはならぬ本望も
         これといった趣味も持たなかった男は、

         この分だと
            晩年を根拠なき失意のうちに送る羽目になるやもしれない。

ほかの人々と同様
   本来はあらゆる可能性を秘めていたはずなのに
      いつしか地方公務員の枠内にちんまりと納まり返ってしまい、

      希望の目を育てることを放棄して
         あたらべんべんと
            徒に時をやり過ごし、



(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』160ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年7月24日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十七日を読む

ー戦後間もない風景だろうかー

五月二十四日は「私は缶切りだ」で始まる。まほろ町に流れてきた物乞いは旧式の缶切りに紐をつけて胸からぶら下げ、世一と言葉を交わしたりしている。
以下引用文。丸山先生が戦後間もない時代に目にした風景なのでは……?
もしかしたら男は帰還兵……?
もしかかしたら「この世にいるはずもない幼い弟と妹」とは、戦災で亡くなったのでは……?
そんな気がしてくるほど哀切さがある文である。

結局は全部食べてしまうくせに
   なぜか中身をきっちりと三等分し、

   もはやこの世にいるはずもない幼い弟と妹に向かって
      「さあ、みんなで食おうか」と呼び掛け、

   そう言いながら
      まずひとり分を平らげ、

      「なんだ食べないのか、勿体ない」と言って
          もうひとり分に手をつけ、

          残りのひとり分を
             通りかかった世一を呼び止めて
                無理やり食べさせた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』156頁)

以下引用文。「心の缶詰を次々に開け」という文に、かつての幸せを思い出しては浸っている男の様子が浮かび、切々とした思いが込み上げてくる。

また独りになると
   私を用いて心の缶詰を次々に開け
      懐かし過ぎる幸福の時代を
         ゆっくり味わうのであった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』157頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月23日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十六日を読む

ー矢の様子から色んな思いが伝わってくるー

五月二十六日は「私は矢だ」で始まる。
以下引用文。「天に向かって票と放たれ」た矢は地上のあらゆる姿を観察しながら天に向かうが、やがて力尽きて田舎町まほろ町に落下してしまう。
町への軽蔑の念が「腹立たしい限りの」という言葉に出ているようでもあり……。
「ぐさりと」という言葉から復讐をしたいとでも言いたげな「矢」の思いが迸るようでもあり……。
「ぶるぶるっと」から着地した様子が伝わってくるようにも、人の世界への嫌悪感が伝わってくるようにも思えるのである。

陰険な覚悟を固めないことには生きてゆけそうにない
   腹立たしい限りの惑星の面に
      ぐさりと突き刺さって
         ぶるぶるっと震える。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結』153ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月22日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十三日を読む

ーどこか童話的な世界ー

五月二十三日は「私は雷だ」で始まる。
以下引用文。不自由な少年・世一が住む丘に狙いをつけた雷だが、予想に反してオオルリも、世一もただならぬ喜び様となる。
世一とオオルリの雷に喜ぶ様子を読んでいると、「千日の瑠璃」はどこか童話めいたところもあるように思えてくる。

普通ならば間違いなく火の手が上がるはずなのに
   意外にもそうはならず、
      しかも
         その家で飼っているオオルリなどは
            却って喜悦のさえずりを発して
               声の調子を一段と高め、

               飼い主の少年に至っては
                  私に向かって手を振る始末だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』139頁)
        

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さりはま書房徒然日誌2024年7月21日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十二日を読む

ー生命の律動感ー

五月二十二日は「私は小魚だ」で始まる。「うたかた湖の純白の浜に」打ち上げられた「満身創痍の小魚」が語る。

以下引用文。不自由な少年・世一が瀕死の小魚を拾い上げて、仲良しの盲目の少女の手にのせる。「小魚」というものだと母親に教えられた少女が感覚器官を使って生命を探る姿、応えるような小魚の「ぴちっと」という動き、その動きに「あっ」と叫ぶ少女……どれも生命というものの律動感が読んでいる者の心にもありありと伝わってくる気がする。

好奇心まる出しの少女は
   人差し指を
      つづいて鼻を
         しまいには耳まで使って
            私を把握しようと努め、

            そんな彼女のために
               私は最後の力を振り絞って
                  尾鰭をぴちっと動かしてやった。


「あっ」と小さく叫ぶ少女の顔いっぱいに
    紛うことなき幸福がみるみる広がって、

    そのとき少年は
       事切れることを素早く察知して
          私を湖へ投げ、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』136頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月20日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十一日を読む

ー喪失の予感ー

五月二十一日は「私は友情だ」で始まる。身体の不自由な少年・世一と彼が可愛がって世話をしているオオルリとの間に芽生える友情が語る。

以下引用文。オオルリに夢中になっている世一の無邪気さ、天真爛漫さに微笑みかけている心に「互いに相手を失った際の深刻さについて理解が及ばず」という言葉が、なんとも不吉な、悲しい展開を仄めかす。

そんな風に思ってシュンとしてしまった読み手の心に、オオルリの思い描く様々な生き物の姿は一際悲しく、囀りが沁みるように響きわたる。

けれども
   当のかれらはまだ私に気づいておらず、

   ために
      互いに相手を失った際の深刻さについて理解が及ばず、


    きょうのオオルリは
       乱伐によって荒れ果ててしまった遠くの山々と
          供応のために小さな集落の片隅で絞殺された家禽、

          自由の大敵たる国家の片棒を担ぐおのれを嘆く男と
             テンの奇襲を受けてまる齧りされているマムシ、


             日々の営みが
                理由なき行為の連続でしかないという疑いを
                   どうしても拭いきれない学生、

                   そうした生き物を想い描いて
                      頻りにさえずる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』133頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年7月19日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3五月二十日を読む

ー倒影を眺めるとき、知らない自分と会話しているかもー

五月二十日は「私は倒影だ」で始まる。「倒影」の方が「実像では絶対に識別不可能なものまで くっきり表現している」という文が心に残る。
そういえば倒影を見るとき、影と対話している気分になることがあるかもしれない……倒影を眺めることは、知らない自分や世界に目を配ることなのかもしれない。

鳥の羽毛一枚
   草一本
      アブラムシ一匹
         花粉一個に至るまで精確に映し出し、

         そして
            元大学教授の徒爾に終わるかもしれぬ一生をも正しく映し、


         しかも
            実像では絶対に識別不可能なものまでも
               くっきりと表現している。

くだらないことで朝っぱらから夫婦喧嘩してしまった苦々しさ
   この世にいつまでも存することの苛立ちと哀しみ、


   この歳まで生きてこられたことへの感慨
      学者としてもう少しなんとかなったはずだという後悔、

      果ては
         不遇の鬱憤晴らしもできない惨めさ、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』127頁)

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