さりはま書房徒然日誌2025年3月25日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より二月四日「私は象だ」を読む

まほろ町の動物園に運ばれてきた高齢の象。
以下引用文。象が見つめる雪のまほろ町は、ただの田舎町ではない。どこかで宇宙ともつながっている存在らしい。そんな象の気持ちに自然と一体化する。

そうしているうちに、象が観察しては語る人々の有り様も、受け入れる気持ちになってくる。
もし、これが人間の視点で語られたら、反発するかもかもしれない人物スケッチなのだが……。
こんなふうに雪に無心になる象の言葉だと、自然に受け入れてしまうではないか。

運動場に降り積もった雪の上に側臥した私は
   細い目をさらに細めて
      雪といっしょに天から舞い落ちてくる
         白色の無限や
            透明の永遠などを
               ぼんやりと眺め、

そうやって片田舎に身を置きながらも
   宇宙の中心で生きることの醍醐味を
      存分に満喫していた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』366ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月21日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より二月三日「私は小屋だ」を読む

二月三日は冬の寒さに耐えられなくなった物乞いが、かえらず橋の下に建てた小屋が語る。
小さな小屋のおかげで生まれる束の間の安らぎ。何とも切ないと感じるべきか、それともしんどい状況でも心はこれだけ自由なのだと感じるべきか……迷う。
最後の「表札」で一気に現実に引き戻される。丸山先生は「表札」に何を託そうとして持ってきたのだろうか……表札をかけるその思いは?と表札をかけていない私はふと考えた。

ややあって
   温もりの心地よさに眠りへといざなわれ、

   不幸ではなかった時代における追憶の断片が
      夢となって次々に現れる惰眠を貪り、

夜中に目を覚ますと
   今度は
      表札なんぞを作り始めた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』

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さりはま書房徒然日誌2025年3月20日(木)

手製本基礎コース「柔らかい表紙 フレンチリンク」2/3回め

中板橋の手製本工房まるみず組の手製本基礎コース。
今日は「柔らかい表紙 フレンチリンク」2/3回め。

フレンチリンクとは、テープ状のものを支持体にして、背の部分を糸で模様を描きながらかがるものらしい。寒冷紗や背を貼らないで、この背の糸かがりを見せる製本方法のようだ。
French Link Stitch で調べると、なんとも綺麗な糸かがりが出てくる。こんな風に糸でかがることの出来る人がいるなんて!


こんな風に綺麗な糸かがりにはいつまでたってもならないだろうな……
手製本をしていると裁縫が得意な人間でありたかったと思う。そして本は紙と糸から出来ている……と普段忘れていた事実を突きつけられ本への見方、言葉への見方が変わってくる。



とりあえず今回は糊をつけて背固めをして、背をゆっくり弾きながら丸み出しをする。そして寒冷紗を貼って今日はおしまい。

(↓弾いているうちに垂直だった背が、何となく段々丸くなってきた)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月19日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月三十一日「私はウイロウだ」を読む

一月三十一日は「私はウイロウだ」と、「当たりの柔らかい極道者によって運ばれてきた 手土産としてのウイロウ」が語る。

私はういろうが好きである。悪阻で食事が出来ないときも、なぜかういろうだけは食べることが出来た。なんとも助けられた記憶がある食べ物なのである。

でも多分「砂糖を敵」とみなしている丸山先生にすれば、ういろうも体によくない食べ物として感じられているのかもしれない。
この「ウイロウ」というカタカナ表記にも、ういろうを疎ましく思う気持ちをチラッと感じてしまう。ウイロウ、ういろう、外郎ではどこか感じ方が違うように思うのは、私だけだろうか?

以下引用文。やはり極道者の男たちがウイロウを食べる様子である。荒んだ男たちとウイロウがよく重なる文だと思う。
ただういろう好きな私としては、ういろうが可哀想になってきてしまうのである。

にちゃにちゃくちゃくちゃという
   著しく品に欠けた音が
      甘い食べ物に飢えていた刑務所暮らしを甦らせて
         荒ぶる三つの心を壁際に押しつけ、

世間の裏側で生きるしかない立場を
   改めて再認識し、

暗澹たる未来よりも
   今現在に思いを馳せる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』350ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月18日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月三十日「私は相槌だ」を読む

一月三十日「私は相槌だ」は、「世一の父が 相手いかん 話の内容いかんにかかわらず ともかく打ちつづける 習慣的な相槌」が語る。

世一の父親というのは、よく見かけるタイプの人物だ。そういうありふれた人物の悲哀、哀れさを、場面ごとの相槌で表しているようで面白い。


以下引用文。世一の父親の、相槌に誤魔化すようにして生きる姿。読んでいる側の私のいい加減な姿にも思え、ハッとする。むやみやたらに相槌をうって誤魔化して生きるのはやめよう。

世一の父は
   どこの誰の言い分もまともに聞き入れず、

目上の者に命じられたことを
   忠実に実行したとしても
      必ずしも聞き入れたというわけではなく、


ひょっとすると
   自身の言葉すら信じていないのかもしれず、

とはいえ
   それでもなお
      私の出番が絶えることはなく、

本音と建前の狭間を
   巧みに縫って進んで行く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』349ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月17日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月二十九日「私は詩だ」を読む

一月二十九日「私は詩だ」は、三歳の幼児が辛口カレーを食べながら食卓の上に並べてゆく「暗い肯定の言葉」と「明るい否定」の言葉が語る。辛口のカレーという言葉がきたあと、こういう抽象的な表現がくるとカレーのおかげだろうか……わからない言葉も何だか理解出来たような錯覚に陥る。

以下引用文。よく見かける光景だなあと思い出す。赤ん坊の心に思いを寄せて見つめる丸山先生の言葉に温かみを感じる。

ほとんど商売用の言葉しか知らぬ彼の両親は
   早朝に仕入れてきた野菜や果物を店頭に配置する仕事や
      馴染みの客の対応に忙しく、

そのせいで
   わが子が即興で組み立てる
      意味深くて美しい韻を踏んだ言葉に
         まったく気づいていない。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』342ページ)

以下引用文。裏口から入ってきた世一が、赤ん坊と一緒にカレーを食べる場面。ここでもカレーという馴染み深い食べ物と口笛のおかげで、後半、少し想像し難いことを言われても想像出来ている気分になる不思議さがある。

すでにして気脈を通じている両人は
   スプーンをぶつけ合って挨拶を交わし、

口の周りを真っ黄色にしたかれらは
   満腹の悦びを表現したくなり、

幼児は
   どこかで寸法が狂った人々について
      高等派の調子で詠み、

すると病児が
   抒情の口笛でそれを補強する。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』342ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月13日(木)

製本基礎コース22回「やわらかい表紙 フレンチリンク 花布をとじる」1/3回目

中板橋の手製本工房まるみず組製本基礎コース22回め。「やわらかい表紙 フレンチリンク 花布をとじる」1/3回目。

まず538✖️810の大きな色つきの更紙四枚をペーパーナイフで荒裁ちして、全部で四十枚の紙片に。この本文となる更紙は、表紙に合わせてやわらかい紙とのこと。

紙を半分にするのは分かる。でも半分にした紙を五分割するには?と考え込んでいると、さっそく先生が教えてくれる。

一番下の写真、マスキングテープをカッティングボードに貼って目安にして化粧裁ちをする……というやり方も教えてくれる。自分では思いつかないものだ。


大きな紙から切り出して自分で化粧裁ちさせてくれる……のは、まるみず組の良いところだと思う。自分では、全紙から切り出そうとは思わない。でも、何度かまるみずでやっているうちに、自分でも切り出すことができるかも……という気がしてきた。

自分で切り出せると、本の大きさも自由にアレンジできるし、裁断料もかからないから安くなるし……。本を作りたい人は、全紙の裁断ができるといいかもと思う。



さて荒裁ち後さらに天地と左右を指定の大きさ160✖️130に化粧裁ちしていく。
余裕をもって切り出した筈なのに、ギリギリの紙もあったりして焦る。

横にいた外国の方はすでにこの製本過程を経験済み。
「やわらかい本文の紙とやわらかい表紙のこの製本が、私大好きなの」と英語で語られていたような……。
「たしかに柔らかい本ってpretty!」ということで意見が一致したような……おぼつかない英語ではあるが。
普通は、ハードカバーの方が立派という感じ方が一般的だと思うが、この方のような見方もあるのだなあとハッとした。


書店では、やわらかくて品があって可愛らしい装丁の本はあまり見かけない気がする。製本のしにくさとか、流通経路で本が傷む……とかのせいなんだろうか?
この切り出した本文の山がプリティな本になりますように。

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さりはま書房徒然日誌2025年3月12日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月二十八日「私は対岸だ」を読む

うたかた湖を前にする者が意識しないではいられない「遠くて近い 近くて遠い おぼろなる」対岸。その対岸が語る様々な人の姿。
それは丸山先生が近くの湖で観察してきた人々なのだろうか……。湖畔に佇む人の姿を観察して物語を紡ぐ丸山先生の視線を感じつつ、その目がとらえる人々に私も想いを巡らしてしまう文である。
人は対岸を見つめるとき、「遠くて近い 近くて遠い」対岸に思わず無防備になってしまうのかもしれない。

道理に適う生き方を崩さずとも
   歳を取って気弱になった者が
      私に向かってなんとも切ないため息を漏らし、

淪落の晩年を送らざるを得なくなった者が
   眠たそうな目で私をいつまでも眺めやり、

やること為すこと上手く運んで
   病気ひとつしたことがない果報者や、


ゆくゆくは美名を追求して
   虚名に酔いたがる
      徳操に欠けた学者になるであろう
         尊大な若造が
            大物気取りの呵々大笑を
               私に叩きつけてくる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』338ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月10日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月二十七日「私は座だ」を読む

一月二十七日は「私は座だ」と隠遁生活に入ったはずの大学教授が人々にかつがれてついた「会長の座」が語る。

丸山作品では具体的な物で置き換えられる箇所も、「座」のように抽象的な言葉にした文を時々見かける気がする。
良い悪いとかではなく、ここに散文と詩文の違いがあったりしないだろうか……と何となく最近思ったりもする。

私は学生時代、フランスのダダ以降の現代詩のゼミにいた(本当にまったく稼げないゼミである)。
さらに卒論のテーマに選んだのが、何を考えていたのやらフランシス・ポンジュという詩人である。
フランシス・ポンジュの代表詩集の題は「物の味方」である。石ころや牡蠣といった「もの」を、ひたすら感情を排して語り続ける。『そんな面白くなさそうな詩人をなぜ卒論に選んだのか?』自分でも分からない。

卒論を書きながら???の状態であったフランシス・ポンジュの石や牡蠣を語る言葉が、最近ふと映像と共に浮かんでくる。
感情を交えることなく言葉で物に迫ろうとしたポンジュの心が、ようやく少しわかってきた気もする。

散文の場合、これから展開するストーリーも大事だから、ポンジュみたいに「物の味方」的な見方はしないのだろう。そもそもポンジュのように石ころや牡蠣を淡々と言葉にしていたら、誰も読んでくれないではないか……

でも、なぜかそんなポンジュ作品を再度読んでみたい気がする昨今である。

そんなことを「私は座だ」の一文に思った。

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さりはま書房徒然日誌2025年3月7日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月二十六日「私は寒波だ」を読む

一月二十六日は「私は寒波だ」で始まる。破門されてしまい厳寒のまほろ町を行き場もなく彷徨う修行僧を苦しめる寒波が語る。

以下引用文。まほろ町の厳しい寒さが、雪洞やらボート小屋やら縁の下の描写を通して体に感じる寒さで書かれている。

厳寒を経験したことのない者には、無理な描写ではないだろうか。寒い地の人であっても、寒い中ウロウロ観察して歩かない限り見えてこない景色ではないだろうか。

寒さを知っていて、その寒さにも負けないで観察眼を発揮して歩きまわる丸山先生だからの文だと思う。

森のなかに雪洞を掘って滑りこんでみたが
   山男から聞かされていたほど暖かくはなく、

貸しボートが仕舞ってある小屋で三晩ほど過ごしたものの
   ひっきりなしの隙間風や
      うたかた湖の水があげる悲鳴が気になって
         一睡もできないありさまで、

あまびこ神社の社殿の縁の下に移っても
   やはり結果は同じで
      私から逃げ果たせることは無理だった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』331ページ) 

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