さりはま書房徒然日誌2025年2月19日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月十五日「私は式典だ」を読む

「もしかすると一生成人できないかもしれない二十歳」の成人式が参加者に向ける視線は冷ややかで皮肉たっぷりである。
今読んでみると、こうした様子は若者だから、ということではないだろう。

『千日の瑠璃』が刊行された1992年の人々の雰囲気をつかんでる気がする。学生運動も失敗に終わり、経済だけが回転している時代。そんな時代に生きる人々の顔が見えてくる。
2025年の今を生きる若者たちはこの時代と違い、あまりにも酷い世の中に向かって懸命に声をあげようとしている……のではないだろうか。

かれらは議論を好まず、
   持論を持たず、
      ときには酒の力を借りて手前勝手な意見を吐露しても
         自己愛に支えられた欲ボケのせいで
            論旨が今ひとつ定まらず、

結局はだんまりの世界に閉じ籠もって
   明日なき今を
      ただ漫然と生きつつ
         世間に調子を合わせているばかりだ。


 (丸山健二『千日の瑠璃 終結5』289ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年2月18日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月九日「私はリスだ」を読む

一月九日「私はリスだ」とリスが語る箇所を読むと、やはり大町の自然の中にいる丸山先生らしい描写だと思う。
「冬はむしろ最も優雅な季節」という発想は、自然とは遠い場所から冬の大町の動物を想像している私には無理である。

春までの食料をたっぷり貯めこんでる私にとって
   冬はむしろ最も優雅な季節であり

(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』262ページ)

日が落ちて間もなく
   雪がもたらす静寂よりも静かに襲ってきた梟に
      私は後ろ肢を上手に使った猛烈な反撃を加えて
         ものの見事に撃退し、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』265ページ)

ずいぶんと丁寧なリスの描写に思わず微笑んでしまう。やはり、これも大町に暮らす丸山先生ならでは、だろう。
私がよく行く伊東の街中でもリスを見かけるが、隙あらばパン屋の中に駆け込んでウロチョロするリスの姿は、どちらかというとドブネズミに近い。丸山先生のような視点でリスを眺めていなかったので、新鮮な驚きがあった。

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さりはま書房徒然日誌2025年2月16日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月七日「私は国家だ」を読む

『千日の瑠璃』が最初に刊行されたのは1992年。この欲張りぶりに、まだ当時の日本はよくも悪くも勢いがあったのだなあと思う。

私は国家だ、

今はやまむなく猫をかぶって神妙にし
   平和憲法と民主政治の常道を守ってはいても
      あわよくば皇国にして帝国という立場へ返り咲く機会を
         虎視眈々と狙っている
            性懲りもない国家だ


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』254ページ)

以下引用文。今わたしが生きる日本の社会のようでもある。ただ日本という国も、大国の「ひと睨み」にびくびくしているような気もする。現状は、国家を超える国家に呑み込まれかけているのかもしれない。

不穏な言辞を弄する輩の数は
   時代の潮流に呑みこまれて減りつづけ、

論敵として不足のない者も
   今ではあまり見かけなくなり、

ということは
   いよいよ愚民を束ねて扇動する機械の復活を意味し、

合いの手を入れるようにして
   見識張った意見を吐く者も
      私のひと睨みによって
         たちまち見解の相違という穴蔵へ
            さっさと避難してしまう。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』254ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年2月15日(土)

中原中也とその友・高森文夫のことを福島先生の講座で知る

NHK青山での福島泰樹先生の中原中也講座で、中也の友人である詩人・高森文夫のことを知る。講義の中から幾つか心に残ったことを……。

高森文夫は明治四十三年生まれ、宮崎に生まれ育ち、東大仏文科で学んだ詩人だそうである。実際に高森英夫に会って話を聞いた福島先生の話から、中也、高森英夫の青春の日々がよみがえる。
ずいぶん山深いイメージがある地だが、そんなところに青春時代の中也が友人と足をのばしていたとは!

中原中也が白い麻服を着こんで、日豊線富岡駅に降りて来たのは、たしか昭和九年(七年の間違いだそう)のことだった。それから一週間、僕の家に滞在した。まるで他の遊星から堕ちてきたようなこの男との一週間は随分と骨が折れた。朝から酒を飲み、夜は夜で山村の旅籠の二階や、居酒屋の店先で地酒やビールを飲んでは、休息もなく話しかけた。文学と詩と人生について。
(高森文夫「過ぎし夏の日の事ども」朝日新聞昭和30年5月17日、福島泰樹 中原中也の東京15番外・宮崎県東臼杵郡東郷村山陰に引用)

だが常に喋り、常に付きまとう中原中也に高森はやがて疲れ、こう叫ぶこともあった。
中也という存在のエネルギーの強さ、その疎ましさを思う。

朝から晩まで中原面突き合わせていることはとてもかなわない。僕はくたくたに疲れてしまう。腹が立ってくる。この男から一刻も早く逃げ出したくなる。だましてでも別れたくなる。
「畜生!まるでドン・キホーテとサンチョじゃないか。もう御免だ!」

だが高森文夫が中原中也との日々を大切に胸にしまっていたことが、その文からも、福島先生に語る思い出からも伝わってくる。
二人は出来上がっていた詩を見せていたのでは……中也は高森の詩に手厳しい批評をしていたのでは……との福島先生の言葉に、高森文夫の詩を読んでみたくなった。


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さりはま書房徒然日誌2025年2月13日(木)

製本基礎コースでアルバム製本ドイツ装第一回目

中板橋の手製本工房まるみず組での製本基礎コース、全三回にわたるアルバム製本ドイツ装の今日は一回目。

半紙サイズの紙から指定された大きさに切り出すには、どう配置すればいいか……という最初の製本計算ドリルの段階でモタモタする。

先生が実物を見せて説明してくれたのに、なぜか頭の中は紙を半分に折る普通の本のイメージで計算してしまい、モタモタ。

(ざっくり切り出した直後。化粧裁前)

ペーパーナイフでざっくり切り出して化粧裁。ざっくり切り出すのも、切ってしまってミスに気がついたら……と思うと恐る恐るになってしまう。


黒い綿テープを縦軸にして糸でかがっていく。
かがるための穴をつくるためにカッターで切り込み、針で穴を大きくしたら一箇所ビリビリ破れてしまった。


途中なんか変だなあと思いつつ糸でかがっていたら、やはり先生からも「変なところまでほどいてやり直すように」とのこと。またモタモタ。
糸でかがるだけで精一杯で「アルバムだからサイドがアコーディオンになるように重ねながらかがって」との言葉もすぐに飛んでしまう。


こんな風にモタモタしても、まるみず先生は優しく丁寧に教えてくださる。有難い。

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さりはま書房徒然日誌2025年2月12日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月六日「私は露だ」を読む

一月六日は「白一色の屋外を占める寒気と 電灯色に染まった屋内の暖気が鬩ぎ合うことで 窓ガラスに結ばれる」露が語る。
窓一枚を隔てた寒暖の差の激しい世界の感じ方は、やはり雪国に暮らす丸山先生らしい気がする。

以下引用文。湖畔の別荘に追いやられた狂女の目に映る窓の外。
窓の露に何かを映して見る……という場面はあるような気もする。
だがそこに自分の名前の字を書いて、その合間から窓の外を見る……という丁寧な設定が、狂女の名前の「光」を思わせる風景、光とは対照的な陰惨な風景、両方が存在する世界を印象づける。

そんな彼女は今
   人差し指の腹で私をそっと撫で
      音でも訓でも読める唯一の漢字
         当人の名前にも使われている〈光〉という文字を書き、

ぐにゃぐにゃに歪んだその文字のなかを
   雅な舞を演じつづける白鳥たちと、

凍死の危険を孕んだ
   明日なき立場の物乞いと、

三千世界における存在の基準と
   生命力はともかく
      生気の奔出がただ事ではない、


青いコートと白いマフラーという
   そんな装いの少年が
      密やかによぎって行く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』253ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年2月9日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月三日「私は破門だ」を読む

湖に飛び込むという無茶な修行をして、病院に搬送された若い僧は「破門」を言い渡される。
丸山先生は「宗教を信じない」といい、寺に関しては辛口の表現をされることが多い。
以下の文も丸山先生が寺に期待するもの、それとはかけ離れた現実が記されているのだろうか……と思いつつ読んだ。

人の魂を救う寺の遣り口としては
   あまりに心ない仕打ちであるという
      違和感と屈辱感を振り払い


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』240ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年2月8日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月一日「私は皮算用だ」を読む

元旦からリゾート計画による土地買収の皮算用で浮かれるまほろ町の人々。
世一の父親のやるせない呟き。
それに呼応する青い鳥の「さもありなん」という人の言葉でありながら、鳥の言葉にも思える調子の良さが印象的。

「というか
    これまで謂れのない罰をさんざん食らってきたんだから
       そろそろ帳消しされてもいい頃だ」

すると
   暖房のせいで冬場でもよくさえずる青い鳥が
      「さもありなん
          さもありなん」と鳴いて
             飼い主の一家に幸あれという意味を込めて
                今年初の美声を迸らせる。


( 丸山健二『千日の瑠璃 終結5』233ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年2月7日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十二月三十一日「私は大晦日だ」を読む

十二月三十一日は「私は大晦日だ」と「大晦日」が新年の決意を固めてもすぐにだらける人々を見つめ、そのなかで鳥籠の掃除に励む世一を見つめる。
「我を忘れた」というほど掃除に励む世一。たしかに掃除には嫌なこと、憂いごとを忘れさせてくれる魔法の力があるなあとおもう。
丸山文学の主人公たちは、よく掃除をする気がする。もしかしたら、丸山作品における「掃除」とは、俗世を、どうしようもならない自分を忘れる儀式なのかもしれない。

ところが
   酒をひと口飲んだ途端
      急にだらけてしまい
         あとはもうどうしようもないありさまだ。

少年世一は
   自室を隅々まで掃除し
      鳥籠をぴかぴかに磨き上げることで我を忘れた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』229ページ)


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さりはま書房徒然日誌2025年2月6日(木)

折丁の多いノートを入れる夫婦箱完成!
ー手製本工房まるみず組での製本基礎コースー

白い海のような大きな紙に緊張しながら、ペーパーナイフでざっくり切り出す。
こうして始まった三回のレッスンは、どれも初めてのことばかり。
先生のおかげでなんとか折丁の多いノートが出来上がる。


今度は、そのノートをしまう夫婦箱作り。こちらも二回ほどかかる。
夫婦箱は上の箱と下の箱がかぶさって、中の本が移動しないように保護するもの。
だからミリ単位での作業がとても大事……と知る。(夫婦箱だけではなく、製本はどれもそうだろうけど)
先生のおかげで計測ミスの失敗を回避すること二回くらいだったろうか。
おかげで時間はずいぶんかかったけど無事に完成。


白い大きな紙が、布が、自分の手でノートになるなんて!
ボール紙が、布が、夫婦箱になるなんて!
自分の手で作る……ということが稀になりつつある現代、手製本工房でのつくる体験はとても貴重だ。
それにスマホやパソコンが壊れても生きていけそうな自信が湧いてくる。



夫婦箱をつくるのはとても大変。
でも自分でせっせと書いたり、翻訳したりした文。あるいは短歌。
そうしたものをしまっておきたくなる魅力が夫婦箱にはある。
夫婦箱が作れるようになるように頑張ろう。

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