さりはま書房徒然日誌2025年5月22日(木)

製本基礎講座31回「改装本 布装・角背4 かがり、背中処理」

今回はかがり台を使って、それぞれの折丁を糸でかがっていく。これは七回前にもやっているのだが、すっかり忘れていて、かがり台の輪のセッティングからモタモタ。
先生は何度も説明、実演してくださるが、この輪っかが結べない。

 でも隣のフランスの方は「ムズカシイネ」と言いつつ、あっという間にセッティングしてしまう。
 私は国際基準に照らしても不器用かつ呑み込みが悪いのだろう。


 今回、折丁に和紙の足がついているので盛り上がらないように、一つ折丁をかがり終えたところでトンカチでトントン叩いて平らにする。叩くと本当に平になる。

ようやく最後の穴まできた!と嬉しくなって、糸のたるみを取ろうと引っ張ったら、最後の折丁がビリっと少し破けてしまう。どうしようと先生を見つめると、すぐ来てくださって対応してくださった。有難い。

最後の最後まで油断してはいけないと反省した次第である。

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さりはま書房徒然日誌2025年5月21日(水)

変わりゆく日本語の風景「しとしと」

今日文楽「芦屋道満大内鑑」を観ていたら「しとしとと歩く」というような詞章があった。

現代では「しとしと」と言えば雨に使われるイメージがある。

江戸時代、「しとしと」を足音に使っていたのだろうかと調べてみた。

以下、日本国語大辞典より「しとしと」の項である。
「しとしと」は足音にも使われていたし、「しとしと」以外にも面白い足音の表現が幾つもあるような印象を受けた。

足音に注意が向くほど、それだけ静かな時代だったせいなのだろうか
と羨ましくもなった。

(1)静かにゆっくりと物事を行なうさま、また、静かに歩くさまを表わす語。しずしず。

*日葡辞書〔1603~04〕「Xitoxito (シトシト)〈訳〉副詞。ものごとをゆっくり整然と行なうさま。例、Xitoxito (シトシト) モノヲ スル〈訳〉ものごとをゆっくり用心して行なう」

*絅斎先生敬斎箴講義〔17C末~18C初〕「重はばたつかぬ、しとしととあるく。てっしてっしとふみつけてあるこうとすると」

*浄瑠璃・吉野都女楠〔1710頃か〕かちぢの御幸「藤井寺を弓手になし馬手(めて)へさらさらしとしとしと、かつしかつしとあゆませて」

(2)雨などがしめやかに降るさまを表わす語。

(3)ひどく湿っているさま、また、濡れているさまを表わす語。じとじと。

(4)ゆっくりと強く打つさまを表わす語。



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さりはま書房徒然日誌2025年5月20日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より三月二十九日「私は介入だ」を読む

リゾート開発に反対する元大学教授。
彼の家にしつこくかかってくる深夜の無言電話。
それに応対する元教授の思いがけない様子に、「人間とは……」と考えてしまった。

パジャマ姿でベッドの縁に腰を下ろし
   電話のベルが鳴るたびに受話器を取ってはすぐに元へ戻すといった
      あまり馬鹿げたことを延々とくり返す際の
         彼の眼の輝きときたら、

もはや湖畔の別荘に引き籠もって余生を送り
   意に適わぬことが多かった半生を振り返るしかない男の
      それではなかった。


溌剌として若やいだ声で
   「くるならこい」と言うとき
       彼らしくもない不適な笑みを満面に湛え


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』

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さりはま書房徒然日誌2025年5月19日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より三月二十七日「私は口答えだ」を読む

「年がら年じゅう決まった時間に就寝させられている双子の兄妹が 生まれて初めて試みる」口答えが語る。
以下引用文。親に抗い、好きな時間に就寝するという小さな自由を手にした兄弟。
そして、すでにその自由の中に生きている少年世一。
就寝という小さなことながら、生きていく上で欠かせない営みさえ、あまり好きでもない仕事や学校にあわせている……ということにハッとする。

今夜を境にして
   兄弟は急成長を遂げ
      両親はその分だけ老けこんだ。

寝たいときに寝て起きたいときに起きる少年世一の口笛を
   勉強部屋で聞く少年は
      かくして自由への幸福に一歩近づいたことになる。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』173ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年5月18日(日)

変わりゆく日本語の風景 「たも」

文楽は、太夫さんが江戸時代の上方の言葉のまま、当時のアクセントのままで語る。

そんな文楽を観ていると、日本語が三百年ばかりの間になんて変わったことかと吃驚する。英語と比べるとエライ変化である。
可愛らしい娘さんの「私」にあたる言葉が「おれ」だったり、「わし」だったり。

浄瑠璃は五、七がベースなので、「この言葉が現代に残っていたなら、短歌をつくるときにいいのに」と思うことも度々。


そんな言葉の一つが「〜たも」である。
日本国語大辞典には、動詞に「て」のついた形について、補助動詞として用いる。……て下さい。……ておくれ。とある。

文楽には「いふてたも」「見せてたも」がしょっちゅう使われる気がする。
これを「言ってください」「見せておくれ」としたら、字数が多くなるし、元の「たも」の雰囲気が無くなる気がする。

「たも」には、人を悪の道へと唆すような小悪魔感がある気がする。
以下の文は、公金に手をつけた男が遊女に廓からの逃亡を迫る箇所。
「とんでたもやと」に変わる現代語はない気がしてならない。

それにしても「地獄の上の一足飛び」といい、「飛んでたもや」といい、恐るべきパワフルフレーズである。

せんぎに来るは今のこと、ぢごくの上の一そくとび、とんでたもやとばかりにてすがり

(近松門左衛門 冥途の飛脚)

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さりはま書房徒然日誌2025年5月15日(木)

手製本基礎コース第29回「改装本 布装・角背4/6回」

中板橋の手製本工房の製本基礎講座第29回、「改装本 布装・角背4/6回」。
次回、糸でかがる時のため、本をノコギリで目引きしたり。
分解した本に見返しをつけたり。
表紙用の布の裏打ちをしたり……色々やることがある。

その中でも印象深いのが「ギャルド・ブランシュ」のための作業。
ギャル・ド・ブランシュとは、先生の説明によれば


「改装本に仕立てる時、本文より前に何もない真っ白な折丁を前後に入れてあげることにより、より保護され、そしてゆとりのある本に仕立てます。この折丁のことをギャルド・ブランシュと呼んでいます」

そんなものがあるとは!知らなかった!

ギャルドは多分「守衛」「警備」「親衛隊」の意味ではないだろうか>
ブランシュは「白」
「白い親衛隊」とでもいう意味なのだろうか?どちらもフランス語である。

↑手締めプレスに本を挟んで、糸でかがる位置に直角定規をあて印をつける。
でも最後に数ミリ余ってしまい、やり直す。
中腰で私には腰の痛くなる作業。

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さりはま書房徒然日誌2025年5月12日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より三月二十三日「私は没頭だ」を読む

まほろ町の中学校の音楽教師の深まるばかりのシタールへの没頭が語る。

以下引用文。
「いつのきょうも 死ぬにも生きるにも絶好の日和」「各人各様に異常であり それ故に異常な世を生きることが可能」
丸山先生の気持ちが溢れてきたかのような言葉である。丸山文学ファンは、こういう考えに惹きつけられる人が多いのではないだろうか。

厄日や悪日などはいっさい存在せず
   いつのきょうも
      死ぬにも生きるにも絶好の日和であると保証してやり、

そのうえで
   人は皆
      各人各様に異常であり
         それ故に異常な世を生きることが可能で
            死ぬることもできるのだと
               力強くも神々しい音波で語る。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』153ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年5月11日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より三月二十日「私は意見だ」を読む

家の建つ丘をリゾート会社に売り払い儲けたい世一の父親。売り払うことなく鯉を飼いながら静かに暮らしたい世一の叔父。
二人の話し合いはすれ違いに終わる。
お茶のすすめを断って帰っていく叔父。

以下引用文は世一の叔父にあたるそんな男の、大切にしているものが象徴されている箇所なのではないだろうか。

物ではなく、追憶を土産として背負い、猛吹雪の奥へと帰っていく……という姿に、丸山先生が憧れる姿があるような気がする。

弟は「いつかそのうち」と言って
   甥への土産の鳥寄せの笛を手渡し、

自分への土産として
   この家で過ごした幼少時代の追憶を背負い
      春の嵐とも言うべき
         猛吹雪の奥へと分け入った。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』145ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年5月8日(木)

製本基礎講座29回 「改装本 角背 組み立て」

板橋の手製本工房まるみず組の製本基礎講座29回。引き続き改装本に取り組む。
表紙、帯、背、裏表紙のうち残しておかないといけない情報部分は残し、不要な部分は切り落として解体。

表表紙、背+裏表紙、帯前部分、帯後ろ部分+背に解体。さらに本文の大きさに合うように少し切断。↑

そして片端に「足」なるものを貼っていく作業。
何でもパッセカルトンの技法を少し取り入れたやり方だそう。まるみず組らしいやり方だなあと思う。

パッセカルトンにおける足とは……。調べてみたら、各折丁に同じ幅の「足」をつけ、その部分を綴じることにより、折丁がノドまでパカッとフラットに開くらしい。改装本の場合はどうなのだろうか。

本に足をつけることができるなんて知らなかった。
でも知らないこと、イメージできないことを作業するのは難しいもの。
下は作業後のもの。和紙の足がついている。貼るだけでは?と思うかもしれないが、ここでだいぶモタモタした。

貼る位置を間違えたり、
ノリボンドを塗る箇所を逆に塗ったり、
足の切断箇所を間違えたり、
足の幅7ミリになる筈が足りなくなったり、と色々ミスが発生。
気づいてくださる先生も大変である。でも根気強く、分かりやすく教えてくださる。

この和紙の足を切り出す作業、家でやったら和紙がボロボロになった…と先生に言えば、色々気をつかうポイントを教えてくださる。先生のそばで切ると、ちゃんと切れる。不思議だ。


表紙の「足」で本文の最初の折丁を包み、さらに帯の足で表紙をくるむ。
後ろ表紙も同様にくるみ、何とか今日の作業は終了。

果たして家で復習したとき再現できるやら心許ないが。

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さりはま書房徒然日誌2025年5月7日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より三月十九日「私は三月だ」を読む

まほろ町の三月に反応する植物、獣、様々な人間たちの様子が書かれている。中でも前後からするとおそらく世一の姉が宿した、たぶん祝福はされないだろう胎児の想いが鮮烈に印象に残る。

かろうじて人間と分かるほどの肉体に宿る自由への想いが、何とも丸山先生の言葉らしいのではないだろうか。

あげくに
   そろそろ人間でしかあり得ぬ形状を整え始めた
      極めて発育順調な胎児には、

ひとたび子宮の外に飛び出した暁には
   自分でも何をしでかすのか分からないほどの
      あり余る自由と
         あり余る野望を
            嫌というほど付与してやる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』141ページ)

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