さりはま書房徒然日誌2025年3月6日(木)

手製本基礎講座
やわらかい表紙の本 ひと折り中綴じ

中板橋の手製本工房まるみず組の製本基礎講座。今日は第21回 やわらかい表紙の本 ひと折り中綴じである。


ひと折り中綴じは、第3回の講座で学んだ。その後も繰り返し、ひと折り中綴じで製本した記憶がある。でも、すっぽり抜けていたり、忘れたりするところがあるのが悲しい。

今日も紙を一枚ずつ折っていたら、先生から「ひと折り中綴じのときは、一枚ずつ折るんじゃなくて合わせていっぺんに折って」と注意される。
第3回のテキストを見たら、確かに先生は大きく太字で「全てを合わせていっぺんに二つ折り」と書いてくださっている。
なぜ私は忘れているのだろうか……


同じ作業を品を変え、形を少し変えて反復復習させてくれるまるみずの講座は、製本という非日常的な作業を定着させるのにとても良いと思う。

今回は栞紐をつけた。
先生に栞紐について訊けば、織り方が特殊で横に伸びるような織り方でページに紐の痕がつかないように織られているとのこと。
「ページに紐の跡がついたら嫌じゃないですか」という先生の言葉に、本つくり、ものつくりを大切にする人の心を見る思いがした。



でも私の紐つき本の中には、やけに紐の痕がくっきりついているものもある。もしかしたら、その本は紐に適した紐を使っていないのだろうか……と思ったりもした。

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さりはま書房徒然日誌2025年3月5日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月二十五日「私は灯台だ」を読む

一月二十五日は「私は灯台だ」と、海辺の漁村から行商に来た娘が世一に説明する灯台が語る。

丸山作品には、灯台がよく出てくる。いつかオンラインサロンで、丸山先生自身も灯台に憧れがあるようなことも、灯台さながらご自宅の部屋から庭の暗がりを懐中電灯で照らしてみたりするようなことを語られていた記憶がある。

灯台の魅力は、以下引用文にあるように遠ざかる娘の胸のうちまでそっと照らす……そんな控えめな光も、魅力の一つなのかもしれない。
海を眺めながら遠くに光を投げかける……そんな灯台に憧れる丸山先生の心が少し分かる気がする。

丘の家に戻った世一は
   二階の窓から懐中電灯を突き出して
      ゆっくりと回転させ、

頼りなくもまほろ町の隅々まで届くその光に便乗して
   私は丘を離れ、

バスに揺られて海辺のわが家へと帰って行く娘の
   清らかな胸のうちをそっと照らし、

持ち前の明るさで苦境を乗り切ってきた彼女は
   首をねじ曲げて
      いつまでもその小さな光の点を見つめている。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』328ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月4日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月二十三日「私はトラックだ」を読む

一月二十三日は敵対勢力をやっつけようと、積荷の灯油入りドラム缶に火が放たれたまま深夜の町を走るトラックが語る。(それにしても何とも物騒な設定だ!)

「肢体が不自由な分だけ心が解き放たれている」という言葉は、小学校時代、当時の言葉で言う特殊学級に入れられ、結果、特殊学級の弱い子達と暮らし守ってきた丸山先生らしい言葉だと思う。

私たちが不自由だと思い込んでいる存在こそ、世間の競争や価値観から解き放たれて自由な存在なのだろうと思う。


「物の怪のごとき移動」という表現からも、世一の不思議な歩き方、表情が見えてくる気がする。

肢体が不自由な分だけ心が解き放たれている
   なんとも奇妙な動きの少年が
      私の前にひょっこり現れ、

何事かと思って
   こっちをじっと見つめ、

まるで物の怪のごとき移動によって
   みるみる迫ってくる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』315ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月2日(日)

初めての豆本制作

西荻窪のアトリエ・ハコで古本と手製本のヨンネ先生が開講された単発の豆本制作ワークショップに参加してきた。

左右25ミリ 天地30ミリの小さな豆本。
でも折丁を糸でかがり、革装で仕上げた豆本には、何とも言えない温もりがある。
ただ小さいだけに、ちょっとしたズレで本文がガタガタデコボコになってしまった。でも取りあえず何とか本に見えるものになった。


今回、初めて皮を扱ってメスで削ぎながら製本をした。
ヨンネ先生の「皮によって切れやすさが違う。その個体の健康状態とかが反映されているんだと思う」というお話に、あらためて皮という素材のデリケートさを思う。

金色の文字らしきものは、手製本工房のまるみず組がコテの会社に頼んで製本用に作ってもらったマルミズペンで書く。初めてなので加減が分からずヨレっとしてしまったが。
マルミズペンで箔をなぞって文字や絵を書けば、熱で溶けた箔が下の皮に形となって残る。皮だけでなく紙や布にも使えるらしい。これは便利。

この小さな豆本に好きな短歌をプリントして、いつでも持ち歩けたら素敵だなあと思う。これからも豆本制作にトライしてみよう。
ただ豆本におさまる本文づくりはどうしたものやら……考えてしまうが。

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さりはま書房徒然日誌2025年3月1日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月二十一日「私は太陽だ」を読む

一月二十一日は真冬の太陽と世一が飼うオオルリの対話。
小さな体で太陽に思いっきり反論するオオルリは、どこか丸山先生を思わせる。この生意気というか不思議な存在、オオルリに丸山先生は自身の理想像を投影しているのではないだろうか?

「質量に支配された地獄」と言われると、はて、どんな地獄だろう?と足踏みして考えてしまう。どうしたら「地獄」に「質量に支配された」という言葉が浮かんでくるのだろうか?不思議である。

向こうっ気の強いその相手は
   ならば
      この世に生まれてこなければよかったと思う
         全員の嘆きを綺麗に焼き尽くしてみるがいいと
            そんな反論を投げかけてくる。

あまりの剣幕と屁理屈に
   私が少しばかり怯んだところへ
      鳥の分を超えた稀有な鳥はずばり切りこみ、

存在の大小にかかわらず
   結局は質量に支配された地獄で足掻くしかない立場に
      なんら変わりはないのだから
         威張り散らすのは滑稽千万だと決めつけた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』313ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年2月27日(木)

完成!ドイツ装のアルバム

大きな全紙を切り出すところからスタートしたドイツ装のアルバムづくり。
今日はその最終回。アルバムを収めるスリップケース(函)をつく
る。


歳のせいだろうか。先生の説明を聞いて分かったつもりになっていても、手を動かし始めると、すぐに手順が頭から蒸発、「あれっ」とテキストを見返してしまう。


だが先生は優しく、箱の天の布の切り方貼り方の説明とデモンストレーションのあと、見れば手順がわかるように糊付けをしないで残しておいてくださった。

先生が見せてくれた天の面を眺めながら、真似をして自分で地の方も進めていく。


微妙にアルバムが函からはみ出そうな気配があったが、最後には丁度おさまってくれる。不思議!

今日は外国の方もイタリア、イスラエル、ジョージアの方々が受講。おまけにみんな違う作業をしている。


先生はそれぞれのお国訛りの英語に対応されたり、違う作業をしている中、私がコケそうなところは優しく配慮してくれたりで有難い限りである。

私なら違う英語、違う作業だとパニックになりそうだ。いや、違う作業でなくてもパニックなのだが。


受講生の立場だと、チラチラと違う作業が見えるのは自分の復習になったり、これからこんなことをするのだろうかと楽しみになったり、英語ではこんな風に言うのかと勉強になったりする。


今日も「お疲れ様でした」という日本語を聞いた外国の方が、早速「さようなら」と「お疲れ様」の違いを先生に質問されていた。

そんな説明が難しい質問にも、丁寧に英語で説明される先生は凄いなあと思う。


函入りの本を見かけなくなった昨今ではあるが、お気にりの作品にマイスリップケースをつくってみたくなった。

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さりはま書房徒然日誌2025年2月26日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月十日「私は吹雪だ」を読む

少し前に戻って一月十日「私は吹雪だ」の箇所について。
どこか丸山先生を思わせる作家が登場。

でも現実の丸山先生は朝すごい早い時間に起きて(私が寝るくらいの時間らしい)、毎日早朝に執筆されているらしい。「好きでもないのに なぜか執筆行為を止めるに止められない」訳ではない。


「捨て鉢な目」をされている訳でもなく、温かく見守ってくださるような優しい目をされている。いや呆れるのを我慢されているのかもしれない。


「私と対峙する」という思いは、確かにあるのだろう。

先日もオンラインサロンで「雪かき体質になってきた」と言われたくらいだ。雪国・信濃大町の冬は厳しい。

「迷夢を醒ましてくれそうな世一とオオルリ」世一に象徴される弱くも打算とは遠い存在。オオルリに象徴される自然。この二つが、丸山先生の書くエネルギーなのではないだろうか。


黒いむく犬は、昔飼っていたと書かれていた黒いチャウチャウ犬のことだろうか。「捨て鉢な目」が黒いむく犬のおかげで遠くに消えていく気がする。

特に好きでもないのに
   なぜか執筆行為を止めるに止められない
      どこか捨て鉢な目つきの小説家は、

自宅の方向へ歩を進めてから間もなくして立ち止まるや
   私と対峙するかのような
      挑発的な態度に切り換え、

付近一帯に
   迷夢を醒ましてくれそうな世一とオオルリの
      濃厚な気配を察知し、

思いこみがちなすべてを忘れ
   濁世の現実を受け容れ
      黒いむく犬を連れて帰った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』267ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年2月22日(土)

佐藤洋一『図説 占領下の東京』

占領下の東京に関する資料はとても少ない。『図説 占領下の東京』の筆者・佐藤洋一氏も本書の中で嘆いている。

その資料の少なさは、意図的なもの……と、以下の黒澤明の師匠・山本喜次郎の言葉で知る。


日本人(に限らないかもしれないが)は自分たちに都合の悪い歴史を忘れてきた。また同時に、アメリカからも同じように記憶しないように仕向けられてきた……のだと本書であらためて知る。


霞ヶ関のリンカーン・センター、永田町のジェファーソン・ハイツ、代々木のワシントン・ハウスをはじめ、都内に無数にあった接収地、そのなかの豊かなアメリカの生活、その外には戦災孤児やら食うのも厳しい日本人。
そんな消されかけている歴史が資料や写真と共につまった労作である。

「ところが、どっこい、焼跡を撮影することは、絶対まかりならぬと来た。占領政策の妨害になるというのである。自分で焼いておきながら、随分、勝手な理屈だと思ったが、しようがない。

「また、ルンペンだとか浮浪児だとか、壕舎生活とかヤミマーケットなぞの、ひどいのは、撮影することが出来ない。要するに『日本が負けたこと』『日本をアメリカが占領していること』の事実を画面に現すことを禁じられたのである。」

(「図説 占領下の東京」110ページ 黒澤明の師匠・山本喜次郎の文)

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さりはま書房徒然日誌2025年2月20日(木)

手製本基礎講座 アルバム製本ドイツ装 其の2

中板橋の手製本工房まるみず組、製本基礎講座第19回に行ってきた。
今回はアルバム製本ドイツ装の前回の続き。


前回、全紙サイズ1091✖️788の大きな紙から切り出すところからスタート。講義でやらないと、自分で大きな紙を切り出すのは億劫で中々やろうとは思わない。

でも自分で切らないと、思うような本の形にはならない。店で断裁を頼んだら、時間も断裁料もかかるし。

全紙から切るのは時間もかかるし場所も必要だからだろうか、体験させてくれる手製本講座は珍しい気がする。
だから、全紙からスタートさせてくれるまるみず組の講座はありがたいなあと思う。切るのは緊張するけど。

さて前回の続き、この状態からスタート。糸がバラバラだけど、私は手製本をやり始めて、実に久しぶりに針と糸をもったので……。

背に寒冷紗を張り、今回はクータなしで背固めするやり方にチャレンジ。

ドイツ装なので背表紙と平の部分の色を切り替える。

春よ早く来い……と平は小花の柄の製本クロス。背表紙は平の色に合わせて青系の製本クロス。

色々失敗したけど、先生のおかげでなんとか完成。それにしても思いがけない失敗をするものだ。その都度、さっと対応してくれる先生には感謝するばかり。

今日のミス其の1
背表紙のボール紙。なんと5ミリ多く測って切り出していた。先生が目視で「変!」と気がついてくださったから、余分な5ミリを切ってセーフ。

今日のミス其の2
背のクロス「表」にボンドを塗るところを「裏」に塗ろうとしていた。これも先生が気がついて、事なきを得た。

ちゃんと先生はテキストに「表に塗る」と書いてくださっているのに。

私以外にも受講生はいるし、それぞれ違う課題に取り組んでいる。
外国からの受講生で、英語で対応しないといけない方々もいる。
そんな中、私のように思いもしないミスをする受講生がいると、先生は優しく対応してくれるけどビックリされてるだろうなあと反省。

ミスのない人になりたいものだ。

↓大きな紙が無事なんとかドイツ装のアルバムに

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さりはま書房徒然日誌2025年2月19日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月十五日「私は式典だ」を読む

「もしかすると一生成人できないかもしれない二十歳」の成人式が参加者に向ける視線は冷ややかで皮肉たっぷりである。
今読んでみると、こうした様子は若者だから、ということではないだろう。

『千日の瑠璃』が刊行された1992年の人々の雰囲気をつかんでる気がする。学生運動も失敗に終わり、経済だけが回転している時代。そんな時代に生きる人々の顔が見えてくる。
2025年の今を生きる若者たちはこの時代と違い、あまりにも酷い世の中に向かって懸命に声をあげようとしている……のではないだろうか。

かれらは議論を好まず、
   持論を持たず、
      ときには酒の力を借りて手前勝手な意見を吐露しても
         自己愛に支えられた欲ボケのせいで
            論旨が今ひとつ定まらず、

結局はだんまりの世界に閉じ籠もって
   明日なき今を
      ただ漫然と生きつつ
         世間に調子を合わせているばかりだ。


 (丸山健二『千日の瑠璃 終結5』289ページ)

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