さりはま書房徒然日誌2024年6月2日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十三日を読む

ー自然描写に重ねる思いー

二月十三日は「私はハーモニカだ」で始まる。刑務所を出所して鯉の世話をしながら暮らす世一の叔父が吹き鳴らすハーモニカだ。
以下引用文。まほろ町の夕暮れから夜にさしかかる冬の描写が、丸山先生らしい奥行きのある表現に思える。自然を見つめながら、この世と別の世について思いを巡らす丸山先生の思いも伝わってくるようで好きな箇所である。
「希薄な存在感の太陽」はいかにも冬らしく、それでいて別の世界を示しているようにも思える。
「然るべき方向」も、いったいどの方向を指しているのやら……と考えてしまう。
「漠とした落日を漫然と迎える」というまほろ町も、人の生き方を暗示しているようである。
「いかにも啓示的な闇」とは?と考えてしまう。
自然描写に重ねる思いがあるようで、それを考えながら読んでいくのが面白い。

やがて
   希薄な存在感の太陽が然るべき方向へと傾き、

   まほろ町が漠とした落日を漫然と迎えるや
      いかにも啓示的な闇が
         地の底から湧き上がってくる。

すると
   厳冬の夜が私をたしなめて
      もうよさないかと言い

         そろそろやめてはどうかと言い、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」143ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年6月1日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十二日を読む

ー同じ望遠鏡から覗いた世界なのにまったく違って見える不思議さー

二月十二日は「私は望遠鏡だ」で始まる。世一の父親がゴミ捨て場からそっと拾ってきて、ピカピカに磨きあげた望遠鏡が語る。
同じ望遠鏡に目をあてているのに、世一の父親が覗く世界と世一が見つめる世界は全く異なる印象を受ける。見つめる人の視点、心の持ちようで、こうも異なるものだろうか。
以下引用文。世一の父親が覗いた世界。私の目に映る世界のようで、思わずため息をつきたくなる。

私をどの方角へ向けようと
   そこにはすでに知られている現実が存在するばかりで、

   もしくは
      辟易するおのれの五十数年間が
         呆れ返るほどだらしない格好で横たわっているだけで、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」139ページ)

以下引用文。冬の厳しさを描きながらも、世一が望遠鏡を通して見つめる世界は宇宙的神秘さのある世界。「虚無そのものの広がり」という捉え方が、何となく丸山先生らしいと思ったり、こういう世界を感じたいと反省したりもした。

最初に捉えたのは
   灰色がどこまでも広がる
      実に味気ない冬の空間で、

      鳥が飛んでいるわけでもなければ、
         雲が流れているわけでもない、

         なんの変哲もないというか
            虚無そのものの広がりにすぎなかった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」140ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月30日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十日を読む

ーヒトでない者の声が聞こえてくる「  」ー

二月十日は「私は氷だ」と、うたかた湖を隅々まで埋め尽くした氷が語る。
その氷の上で世一が「ときおり つつうっと滑ったり」という様子が微笑ましい。
以下引用文。そんな世一に警告しようとする「氷」。「軽すぎる体」「重すぎる魂」と氷が語る世一の姿は、人間界の常識を離れた姿にも思えてくる。

その都度私は不気味な音を発して警告を与え
   軽すぎる体のほうはともあれ
      あまりに重過ぎる魂まではとても支えきれないと
         そう言ってやり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」136ページ)

以下引用文。「氷」が心配するように湖の中に落ちることなく無事に帰ってゆく世一。
「氷」はふた言だけ呟く。
丸山作品では「  」の部分は普通の会話ではなく、天から響いてくる言葉のようでもある。
以下も「運」「不運」がコントラストをなして、やはり人間ではない者の言葉に聞こえてくる。

「おまえって奴はどこまで運に恵まれているんだ」と
    そう言ってから
       「そのくせ、どこまで不運な奴なんだ」とづづけ、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」137ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月30日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十日を読む

ー箒と箒売りの充足感に幸せとは?と思うー

二月十日は「私は箒だ」で始まる。
行商の男がまほろ町をまわったにもかかわらず、売れ残ってしまった箒が物語る。
以下引用文。箒売りの行商が丘の家の世一の家を見て「何かある」と感じて登り始める場面。箒の行商人という今ではあり得ない職業からもたらされるイメージが、仙人めいた千里眼的行動とよく合っている感じがする。

ただ気づいただけではなく
   そこにはきっと何かが在る
      ほかの家には絶対ない何かが在ると直感して
         心のどこかが激しく揺さぶられ
            すぐさま出かけてみようと思い立った。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」131頁)

以下引用文。世一の家にたどり着いたものの、いるのはオオルリだけ、あとは誰もいない。行商人は「お前をこの家にくれてやるからな」と箒を玄関の下駄箱の横に置いて帰る。
ただ、それだけの行為なのに、箒も、行商人も満ち足りてしまう……その姿に「幸せとは?」と思わず考えてしまった。

使ってもらってこその私であるのだから
   願ってもないことで
      元より異存などあろうはずもなく、

      雪に足を取られながら丘を下って行く男の後ろ姿が
         いつになく幸福の色に満ちあふれ
            夕日に染まったその背中には見るべき価値が感じられた。


 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」133頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月29日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月八日を読む

ー覗き見の効果ー

二月八日は「私は節穴だ」と、路地と歯科医の家を分かつ塀の節穴が語る。「截然と」(セツゼン)(意味は「区別のはっきりしているさま」)という見かけない言葉が、路地と歯科医の家の違いを強く主張しているように響いてくる。

節穴から歯科医の同級生が覗き込み、多少嫉妬混じりの小さな嫌がらせをする。
次に世一が覗き込むと、歯科医の息子の進路をめぐる家庭内騒動が持ち上がる。思わず世一も一緒に騒ぎ立て……と展開してゆく。

ここで思い出したのだが、他の登場人物が覗き込む中、物語が進行してゆく……というのは、浄瑠璃にとても多い設定である。文楽ファンなら、覗き見で進むストーリーには慣れすぎるくらいに慣れてしまっているのではないだろうか。舞台の左手からも、右手からも覗き見……で舞台が進むのは、浄瑠璃くらいではないだろうか。

覗き見という手法をとると、違う世界の人間でも、自分の所属とは違う世界であっても、我が事のように反応する様子を自然に観察できる……と「千日の瑠璃」のこの箇所に思った。

文楽の場合も、覗き見する方、覗き見される方、両方の人形の動きを眺めることで、物語の世界を重層化していくようにも思う。

それにしても覗き見が当たり前の浄瑠璃の世界。これはやはり塀や障子という覗き見しやすい日本の住環境が影響しているのだろうか?

私は節穴だ、

   ほんのたまにしか人の通らないうらぶれた路地と
      歯科医の家の敷地を截然と分かつ
         かなり古びた板塀の節穴だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」122頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月28日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月六日を読む

ーX線のごとき存在とは?ー

二月六日は「私はX線だ」と世一の身体を調べるX線が、その心までも情け容赦なく調べる。その結果は……以下引用文。
「醜悪な外貌」と対をなす「心の表情」という言葉には、喚起してくるイメージがたっぷりとあって、世一の心の豊かさを思わせてくれる。
「彼の魂は 不可視なものではなく」という箇所に、人間の魂を見通せる光があれば……とも想像する。人間の魂を見通せる存在……なんて嫌だし、煙ったいとは思うけれど、そういう存在が作家なのかも、とも思う。つまりX線は丸山先生自身のことなのかもしれない。

ひっきょう
   世一を見かけだけで誤解してはならず、

   彼のふた目と見られぬ醜悪な外貌は
      断じて心の表情と一致するものではなく、

   彼と接する連中の
      人間としての程度や真価を試すものでもない。

そして彼の魂は
   必ずしも不可視なものではなく
      残酷極まりない神に成り代わって
         この私がそのことを証明する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」117ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月26日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月五日を読む

ーパラレル・ワールドは救いか、絶望か?ー

二月五日は「私は星雲だ」で始まる。蠍座の星雲は、世一の飼っているオオルリの囀りを通して遥か彼方のまほろ町のことをよく知っていると語る。
丸山先生は以前、量子力学の観点からパラレルワールド、もう一つの世界は存在する……そんなことを話されていた。以下引用文にも、そんな丸山先生の考えがよく現れていると思う。

そして
   私のほうもまた
      自身のどこかにいる青い鳥が
         そっくり同じことをしており、

         つまり
            私のなかにもまほろ町が在り
               少年世一が存するのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」111頁)

以下引用文。己の星雲がある世界から、世一のいるもう一つの世界へ……そんな不思議なやり取りが書かれている。
くどくどとストーリーが展開するのを楽しむのでなく、もうひとつの世界を感じる大きな視点に気がついてハッとする。そんな楽しさが「千日の瑠璃」を始めとした丸山作品にはあるように思う。
その分、ストーリーを楽しんだり、教えを請う人には不向きなのかもしれないが……。

もう一つの世界でも私は「千日の瑠璃」を読んでいるのだろうか……そんなことを思うと、こちらの世界の諸々の不安が消えていくような気がする。パラレルワールドを信じることは救いになるのか、それとも同じ苦労をしていると絶望を深めるだけなのか?「千日の瑠璃」にその答えがあるのかもしれない。

きょうもまた私は
   そっちのまほろ町の
      そっちのオオルリに対して
         詳細な報告をし、

         それから
            こっちの世一が岸辺に佇むだけで
               うたかた湖の深浅を正しく把握できるまでに

                  成長した旨を伝え、

                  はてさて
                     そっちの世一はどうかと尋ねてみる。

 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」112頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月25日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月四日を読む

ー缶バッジが語れば、偉そうな物言いも何故か気にならないー

二月四日は「私はバッジだ」と、まほろ町に駆け落ちしてきた娘のセーターを飾る「青い鳥をかたどった 派手なバッジ」が語る。

以下引用文。バッジが実は自分が娘の行動を決めている……と語る。バッジにズバッとありえないことを宣言させるおかげで、普通に書いていたらモタモタしてしまいそうな余分な贅肉が削ぎ落とされスッキリしている気がする。
バッジという実に庶民的なものが、娘の行動を決める神のごとき存在……という設定も丸山先生らしいと思う。

彼女は私を気に入っているばかりか
   信頼しきっており、

   駆け落ちを決意させたのも
      実はこの私というわけで、

      まほろ町に住むことも
         スーパーマーケットで働くことも
            全部決めてやった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」106ページ) 

以下引用文。スーパーの先輩(世一の母親)と娘をバッジが観察する。もし、ここで作者が語っているなら「なんて失礼な」と思うかもしれないが、バッジが語っていると思うと不思議と気にならない。

どんなに厚化粧をしたところで
   生活の疲れを隠せないその先輩は
      素顔でも溌剌としている後輩をつかまえ
         冷ややかな物言いで
            「それ、なんて鳥なの?」と訊き、

             鳥の名を度忘れした娘は
                とにかく幸福を招く鳥だと答えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」107ページ)      

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さりはま書房徒然日誌2024年5月24日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月三日を読む

ー田舎暮らしの残酷さを思い出したー

二月三日は「私は散弾だ」と密猟者たちが禁猟区で放った散弾が語る。散弾が仕留めたのは白鳥。密猟者たちはなんと白鳥を解体して、少ない肉と肝臓を手に入れると、塩焼きにしたり、鍋料理にしたり、串焼きにしたりする。
以下引用文。「ぶっ殺してやる!」という部分も効いているし、「肉にめりこみ 血管を破り 内臓を裂き 骨を砕き」と畳みかけるような短い文も、インパクトのある動詞も、散弾の威力を効果的にあらわしている。

私は散弾だ、

   ひとえに炸薬の力を頼みとして
      「ぶっ殺してやる!」などとわめきながら風のなかに飛び出す
          やや大粒の散弾だ。


狙いは違わず
   ぶすぶすと獲物に命中した私は
      一瞬にして羽毛をぱっと散らせ
         肉にめりこみ
            血管を破り
               内臓を裂き
                  骨を砕き
                     指頭大の魂をも粉砕する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」102ページ) 

密猟で手にした白鳥を食べてしまう……といういささかショッキングなこの場面は、田舎の生活の残酷さも描いているのかもしれない。
みずから動物を仕留め、解体して、食べてしまう……という行為は、私も田舎暮らしでよく見かけた。そして「私には無理だ」と田舎暮らしを断念させた大きな要素でもある。
だって本当に伊東で窓の向こうを見たら、隣家の物干しに猪から剥ぎ取った毛皮がかけてあったり……
田舎に引っ込んだ元同僚は、町内会のメンバーと共に害獣駆除のため猪を仕留め、解体して、肉は冷凍して、耳は切り取って市役所に持参して報奨金をもらう……という仕事を、地域の一員として当然のようにこなしていた。
そんな姿に「私には田舎暮らしは絶対に無理だ」と思った。命をいただく行為、それを残酷と取るか、幸せととるかは人様々とは思う。また、すべての田舎がそうだとは限らないだろう。
でもとにかく私には田舎暮らしは絶対無理である……と思ったことを思い出した。

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さりはま書房徒然日誌2024年5月23日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月二日を読む

ー小さな大豆にも思いは尽きることなくー

二月二日は「私は大豆だ」で始まる。物騒な輩に知らずして土地を売ったため、町中から非難されるまほろ町の八百屋の主が、いわくつきの連中が住むビルに向かって豆をまく。ところがその連中が来て、豆を買いに来ると……。
先ほどまでの勢いはどこにやら?途端にびくびくし始める八百屋の主人の小物感。
そんな恐れられる連中でも豆をまく……という意外さに人間らしさを感じる。

極道者ですら鬼を忌み嫌い
   福に巡り合いたがっていることに八百屋の主人が気づいたとき、

   ビルの窓から撒かれた私を
      いかんともしがたい不幸を背負って歩く青尽くめの少年が
         ひと粒ずつ丹念に拾って食べている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」101ページ

小さな大豆でもよく観察すれば、忌み嫌われる者たちを、忌み嫌う者を、世一の心を表している……。
そんなことを思ううちに、亡くなった女流義太夫の三味線弾きさんが、亡くなる一ヶ月前にたしか可愛い赤鬼の仮面と大豆の写真をアップされ「鬼は外」と呟かれていた記憶がよみがえった。とても辛い、死を覚悟されながらの「鬼は外」、どんな思いであったのだろうか。
その三味線弾きさんとは幻想文学の講演会でたまたま席が隣だったり、愚息を連れて義太夫の公演に行った時も偶然席が隣になって愚息に「眠くなったら寝ちゃっていいのよ」と優しく声をかけてくださったこともあった。
そんなことを思い出すうちに、その三味線弾きさんの舞台での凛々とした音色も聴こえてくるような気がしてきた。
小さな大豆でもそこから紡がれる記憶は無限、それを発掘して残してゆくのも、人間の大事なミッションなのかもしれない。

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