さりはま書房徒然日誌2023年12月10日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーほとんどの行が平仮名で終わっている!ー
ー短歌&俳句歴の長い方は「風死す」にすっと入れた!ー

注意力散漫なせいだろうか。読んでいるときには素通りしていたけれど、入力してみて初めて気がつくことがある。

「風死す」各行はほぼ平仮名で終わっている……ということも、入力して初めて気がついた。
ざっと見たところ1巻100ページまでのうち、漢字で終わっている箇所は24頁「結果」と30頁「最中」の二箇所のみの気がする。

これはどういう意図なのだろうか?終わりが平仮名だと、やわらかく次の行につながる気もするのだが……。たぶん私には分からない意図が働き、きっと効果を生み出しているのだと思う。

「風死す」を短歌歴、俳句歴がおそらく半世紀以上の方に見せたら、レイアウトの美しさに感心され、短歌と同じ発想が働いている箇所がある!と教えてくださった。
そして「読んでみたい」と。
丸山塾の塾生も戸惑う「風死す」の世界に、丸山文学に馴染みのない、でも歌人歴、俳人歴の長い方が違和感なくすっと入り込んでいく。
その姿に、「風死す」の楽しみ方は通常の小説を読むようなスタイルではなく、散文詩のように読んでいくものなのだろうか……とも思った。
そうだ!「風死す」というタイトルそのものが、俳句の季語なのである。
「風死す」の世界に入るには、小説のことを忘れ、短歌や俳句の創作にトライするといいのかもしれない。

さて以下引用箇所である。
そんな散文詩のような世界にも、オンラインサロンとかで伺った話と重なる丸山先生自身の記憶が、形を変えて散りばめられているような気がした。

小さな家柄を鼻にかけていた養父母の
  敗色濃厚な人生模様を想像するや
    たちまちに忘恩の徒となって
      とうとう家出を決意した
        あの日のあの夕刻に
          端を発する際の
            勇気溌溂が
              復活し、

(丸山健二「風死す」97頁)

偽りの家族愛に溶け合う日々をいきなり見限ったかと思うと
  節くれだった気構えと 自主独立の心の持ち主に変身し

  幸福もどきの家庭環境の急激な失墜を全面的に受け容れ
    のみならず またとない好機と捉えて ギアを替え


(丸山健二「風死す」98頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月9日(土)

丸山健二「風死す」1巻を少し読む

ー無機質な言葉が詩的な衣をまとう不思議さー

引用箇所は、犯罪者にして詩人、末期癌患者の20代の心を語っている。

犯罪へと傾いていく心を語りながら、感情を表す言葉は少なく、むしろ反対の数学や物理と関係のあるような言葉「生の傾斜角度」「善の水準器」という言葉がイメージをふくらませ、不思議な詩的世界が現れている。

無機質な言葉が詩的に思えてくるマジックが、丸山文学の特徴の一つにも思える。

ちなみに写真は水準器(水平器)なるものだが、初めて見た。写真を見ると、ジワジワと殺意が高まる感覚が伝わってくる気がした。

何かにつけて空虚な弁解を発するばかりの さもしい心根が
  いつしか知らず屈折した 生の傾斜角度をきちんと測る
   冷酷無比にまで精度の高い善の水準器と定まったり

(丸山健二「風死す」1巻96頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月8日(金)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ー言葉の連想ゲームでイメージを紡ぐ楽しみー

以下引用文は主人公の青年が次々と人を殺めたあと、しばらくしてから出てくる文である。

「種皮を被っての発芽にも似た心地を」という思いがけない語句の組み合わせが、頭の中でリフレインする。さらにそうした心が「淡い色と形の鉢に活けられた野の花が連想され」とは、どういうことなのだろうか……分からないからアレコレ思いをめぐらして楽しい。

突拍子もない表現だけれど、私の頭の中にスッと入ってくるのは「種子」「野の花」と植物つながりの語であるからなのかもしれない。
人知れず生命を輝かせるイメージが、流離う主人公と繋がっていく気がする。

「風死す」には、こういう言葉の連想ゲームみたいな楽しみ方もできるのではないだろうか?

あと先日の田畑書店のポケットアンソロジーもそうだけれど、丸山先生と関わった人たちが分からないような形でそっと作品の中に出てきている気がする。

なんかこれは私によく似ている……という人物の一文も、最後の巻にあった。
そんな隠された丸山先生の記憶のピースを探すのも楽しみ方の一つなのかもしれない。

今となっては 固唾を飲むほど素晴らしい 胸が躍る光景を目の当たりにしたところで 
  理知的な渇きがすっと癒されることがなくても種皮を被っての発芽にも似た心地を 
    のべつ自覚することが可能で 淡い色と形の鉢に活けられた野の花が連想され

(丸山健二「風死す」1巻95頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月7日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー図形の比喩、かけ離れた言葉での比喩がイメージを広げる不思議ー

以下引用箇所も主人公の犯罪者にして詩人、末期癌患者の20代の心の言葉である。

丸山作品の中には、時々、図形が思いがけないところで比喩のような形で使われている。図形の比喩を用いることで、なぜか心に不思議なイメージが喚起される気がする。
「仮象の円弧」「流線形の決断力がますます冴え渡って」図形には人智を超越した、宇宙的な力があるのだろうか……無機質な筈の図形が豊かなイメージを生み出す事実に驚く。


それからもう一つ、かけ離れた語と語を用いる比喩を眺めていると、その言葉同士だけで一つの物語が生まれる気がする。


以下引用の「偽装染みた今生」「硫酸化鉄の青を想わせる色相の天空」「苦い思いのすべてを浮かんだ端から布のようにして気持ちよく裁断できる」とか……。

私は丸山塾で語と語が離れすぎていると「ぶっ飛びすぎている」と言われ、あまりに陳腐な語と語だと「語が弾けていない」と言われ……難しいものである。


このくらいの表現なら、語がかけ離れていてもOKなんだな……と、どこまで散文でジャンプできるのか探りながら読むのも楽しい気がする。

あくる日の夜明けまでには 見事なまでに美しい 仮象の円弧を描きながら
  まだるこしい永遠を前提としてどこまでも回転する 偽装染みた今生を
    なんとか無事に迎えられて 硫酸化鉄の青を想わせる色相の天空を
      どうにか振り仰ぐことが可能になったものの ただそれだけで

(丸山健二「風死す」1巻70頁)

苦い思いのすべてを浮かんだ端から布のようにして気持ちよく裁断できる
  流線形の決断力がますます冴え渡って 非業の死を遂げる最期に憧れ

(丸山健二「風死す」1巻89頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月6日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー「風死す」の主人公が常時携行しているのはポケットアンソロジー的な本!たしかにポケットアンソロジーが似合う!ー

以下二つの引用箇所に描かれた主人公ー犯罪者にして詩人、末期癌患者である20代ーの内面に、人間がバタバタと足掻いて生きる苦しさ、美しさを思う。

月の明らかな深夜に太陽に背いて立つおのれを夢想したところで意味はないと
  そう弁えながらも試さずにはいられず というか 気づいた際には実行し

(丸山健二「風死す」1巻60頁)

とうとう分解が不可能なところまで追い詰められた おのが乱れし身魂は
  またしても激しく揺さぶられて 湯玉飛び散る危険な沸点へと近づき

(丸山健二「風死す」1巻62頁)

上記引用の苦しみつつ生きる思いは分かるけれど、私はいい加減に生きているから……と思った矢先に、自分と重なる箇所を発見、途端に「同志よ」という気分になってくる。

以下引用箇所を読めば、「風死す」の主人公は田畑書店のポケットアンソロジーみたいな本を愛読しているではないか……と発見。

たしかに風のように生きる主人公にはポケットアンソロジーが似合うと思い、私でも分かる感覚のおかげでぐいと引き寄せられる。

数冊の小冊子を綴じ合わせて作った自分専用の本を常時携え

(丸山健二「風死す」1巻63頁)

さらに以下の引用箇所、薬を廃棄するのも、喧嘩を見物するのも、私みたいだ……と難解そうな「風死す」が一気に近く感じられてくる。
ただし「指呼の間にある彼岸」だけはどういう感覚なのだろう……と想像して楽しむ。

すべてがわかるわけでないから面白くもあるし、難しいなかに自分と重なる部分を少しでも見つけると距離が一気に縮まっていく。

処方箋によって調剤された薬を廃棄し

指呼の間に在る彼岸を前に嘆息し

街中の派手な喧嘩を見物し

(丸山健二「風死す」1巻63頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月5日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー意識を束ねてゆく言葉の力ー

私自身、駅のミルクスタンドで飲む牛乳も好きだし、深夜のホットミルクも好きなせいか、以下引用文が目に留まった。

主人公が駅の売店で購入したホットミルクを飲むほんの一瞬、意識に働きかけてくる様々な記憶が描かれている。

読んでいるときは気がつかなかったが、字数をレイアウトに合わせることで文が凝縮されてゆき、だんだん己に目が向いていく感じがある。
「強者には絶対付き従わず 獣の人間化に邁進し」という漢字が多いせいか強い印象のある言葉で思いが頂点に達するように見える。

「旅の空に病んで」からは緩み、詩的になり始めてゆく気もする。

「生の守備一貫を 投げ捨て 安らぐ」は、まさにホットミルクを飲んで様々な時を流離う主人公の思いを表現しているだろう。

人によっては、ホットミルクを飲んでいるだけではないか……と言うかもしれない。
でもホットミルクを飲んでいる一瞬を描きつつ、言葉が時を縦横無尽に束ねているようで、言葉の持つ可能性というものを考えた箇所である。

人混みに弱いことを自覚して身辺に気を配りつつ 駅構内を歩き
  売店で購入した温かい牛乳を飲むと 切実な問い掛けが生じ

  回避不能な無がひと塊りになって 心の上にどっとのしかかり

    必需品を納めた小物入れでも紛失したかのように狼狽し

      自我からいっさいの意味をみずからの手で消し去り

       異論百出が胸の四方八方を微動だにせず睥睨し

         昔時を現代という名の槍で激しく突き上げ

           政権の醜悪な争奪戦を冷ややかに眺め

             和菓子を調進する若い女将に惚れ

               角目立っての口論を受け流し

                 強者には絶対付き従わず

                   獣の人間化に邁進し

                     旅の空に病んで

                     生の首尾一貫を
                        投げ捨てて
                        安らぐ。

(丸山健二「風死す」1巻56頁57頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月4日(月)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ー人間の意識と無意識の境界を書いているような二行だと思ったー

人間の意識というものを散文で表現すると、引用文のような状態になるのかもしれないと面白く読んだ。

「人間的な規範」を考えていくと、たしかに「際どい放物線」を描いてゼロに近づいていくのだろうか……という気がする。
「際どい」とは、どういうことなのだろうか?否定されたり、肯定されたり……という営みを指しているのだろうか?
「その先には無が広がり」という感覚も、とても頷ける、素敵な文だと思った。

昨日、昔からの丸山文学ファンが散文詩のような文体を敬遠して後期作品から離れている一方で、私の拙いブログを読んでくださっているお若い方のように、いきなり後期の丸山作品を真摯に読んでくださっている方もいる……と書いた。

その違いは……?と考えているうちに、昔からのファンの方は今よりストーリー性の強い初期作品に馴染んでいたり、あるいはバイクに乗ったり、船に乗ったり……そんな丸山先生の若い頃の生き方に憧れていたのだろうかという気もしてきた。

一方、いきなり後期丸山作品を真摯に読んでくださるお若い方は、丁寧に一語一句を読んでくださっている。さらに図書館で朗読活動もされている方だ……おそらく細かく作品をイメージしながら、言葉を楽しみながら、読むことを習慣にされている方なのだろう。

たぶん後期丸山作品を楽しむには、朗読の準備をするような心持ちで、ゆっくりと読むことが必要なのかもしれない。

引用した文も、この数行だけで満足がある世界ではないだろうか?

人間的な あまりに人間的な規範のあれこれが 際どい放物線を描きつつ
  哲学的妄念に包みこまれて落下の一途を辿り その先には無が広がり

(丸山健二「風死す」1巻46頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月3日(日)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ーもう一人の自分が無数にある世界ー

丸山先生は作品にあわせて文体を変えるとよく言われる。

初期の簡潔な通信士のような文体からスタートして、時代ごとに随分と変化していると思う。

私は後期作品から丸山作品に入ったので、どちらかと言えば後期作品の方が読んでいて楽しい。

一方で初期の頃から読んでいた長いファンの方にすれば、散文詩のような後期の作品はどうも読みにくいらしい……。
そういえば、随分とお若い方が私のこちらのサイトを真剣に読んでくださっているようで有り難く思っている……。
昔からの丸山ファンの多くが後期作品から離れて行ったのに、とてもお若い方が後期作品を真摯に読んでくださる……この違いは何だろうか、わからない。
寺山修司にも、今でも20歳くらいの熱烈なファンがいると聞いたことがある。

余計なことながらミステリは、あまりその類の話を聞かない気がする。若者の好み、年配者の好みがくっきり分かれてしまっているのではないだろうか。
年齢差を乗り越えられる文学、年齢で層が固定してしまう文学の違いはどこにあるのだろうか……。

閑話休題。
丸山ファンも中々読破できないでいる「風死す」に戻る。
この作品は、丸山先生が、丸山先生の記憶や意識が、たくさん散らばった万華鏡のような世界だと思う。
先日も書いたと思うが、丸山先生の姿を発見しては「あ、こんなところにいた!」と楽しむこともできるのではないだろうか。

引用箇所一番目、左斜め下りのレイアウトが綺麗に再現できず読みにくいと思うが……。
ここで出てくる「突風」は丸山先生自身の姿、今の思いではないだろうか?そう思って読むと切なくなるような、しみじみしてしまう箇所である。


引用箇所二番目、「もう一人の自分」というのは量子力学的に必ず在ると丸山先生は確信をもって語られる。
「もう一人の自分」ドッペルゲンガーは、丸山作品の大切なテーマなのである。
「風死す」では、「もう一人の自分」が無数に出てくる気がする。だから混乱するのかもしれないが、矛盾だらけの一人の人間の内面を気楽に旅されるのもいいのかもしれない。

山間部の僻地にこそ相応しい 自由な分だけ奔放にして無頼な突風は
 やがて 草木と木木の植物で埋め尽くされた遠景へと呑みこまれ 
   途中で関わり合ったすべての人間に纏わる一身上の余所事に
     乾いた別離の言葉を投げて 妖しい光の奥へ吸いこまれ
       それきり消滅して その後に何ひとつとして残さず


(丸山健二「風死す」1巻34頁)

髪を逆立てて 心身を硬直させた 間抜けなもうひとりの俺のすぐかたわらに
  よしんば目玉をくり抜かれたところで見ることを止めない俺をそっと据え

(丸山健二「風死す」1巻38頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月2日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を読了

ー自然讃歌と人の世への糾弾を行きつ戻りつするうちに読了ー

「巡りが原」が語る物語、ゆっくり読んでいたせいかすごく長い時の流れのように感じていた。

だが最後に近づくと、巡りが原が「わずか半日」というようなことを繰り返して言うので、ハッと現実に戻される。
「トリカブトの花が咲く頃」は、ある日の午後のわずか数時間たらずを語った小説なのだ。

でもテーマの重さといい、自然の美しさといい、時間を自由自在にたわめ、いつまでも哀しい繰り返しを続けてしまう人の世を見つめているような小説だと思った。

引用文の逸れ鳥の囀り「世界は人間に無関心であり 救世主はいまだ到來せず 人間は平和に無関心であり ために戦爭が獣性の遺産となる」という身も蓋もない事実が、丸山文学の大切なテーマでもある。

一方で「あした開く花は欲も得もなく眠りこけている」という文は、毎日庭づくりに励まれている丸山先生だから出てくる文だと思う。

自然を語る美しい文、人の世を糾弾する厳しい文……そのあいだを行きつ戻りつするうちに、時の流れを忘れてしまう「トリカブトの花が咲く頃」には、たしかに「。」は不要なのかもしれない。

あの逸れ鳥が
 
 ひときわまばゆい光彩を放つ落日を背にし
  かなり皮肉な調子で
   こんなさえずりを放っている

世界は人間に無関心であり
 救世主はいまだ到来せず

人間は平和に無関心であり
 ために戦争が獣性の遺産となる

ほどなく
 「巡りが原」に淡い影を散らす夜が落ちかかり

美しいが上にも美しい
 多大の真理をふくんだ月光は
  現世におけるかぎりない試練の数々と
   死に満腹してしまったトリカブトの花々を優しく照らし

すえ枯れた花は「罪とは何か」を問いかけ
 きょう満開の花はひたすら至福の高みにあり
  あした開く花は欲も得もなく眠りこけている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻487頁488頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月1日(金)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー醜い人の世と自然の美しさのコントラストが鮮やか!ー

社会のあり方、人間のあり方について、丸山文学は手厳しいことを遠慮なく語る。
だが、そうしたものとは対極に位置する自然界を詩情豊かに、言葉を凝らして書く。
だから、いくら非難しても、決してスローガンにはならず、儚いものを言葉に刻む芸術としての美しさがある……以下、ラストに近い引用文にもそんなことを思う。


「巡りが原」の面……という引用部分に、先日の丸山塾での一コマを思い出す。私が無神経に「アブラナの上」と書いた箇所を、丸山先生は「菜花の面」と直された。「上」と「面」では、どうして喚起されるイメージがかくも違うのやら……ただただ不思議である。

月白は皓として輝き
 宵の明星が放つ金色はどこまでも清らかで

ほどなく
 雲ひとつなく
  しっとりとした夜が天空の堂宇をおおいつくす

つれなさをおぼえるほど深閑とした「巡りが原」の面には
 月の色をした霊気がゆるゆると立ち昇り

つまり
 心次第で在り方が決まってゆく生者の気配などはどこにもなく

多様多彩な有機体がひしめくあたり一帯には
 すり切れてゆくばかりの時間の断片や
  存在のちぐはぐな在り方や
   全能者の歯切れの悪い口調や
    幸運にみちた人生の儚さといったものを
     如実にあらわす蛍の光だけが
      不必要に数多く散見されるばかりだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」453頁454頁)

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