さりはま書房徒然日誌2023年11月10日(金)

ロアンの名前の響きの良さに惹かれて小沢蘆庵の歌を一首鑑賞する


昨日、西崎憲氏が制作された奥村晃作氏が短歌について語るドキュメンタリー動画を視聴していたら、「ロアン」なる昔の歌人の名前が頻出。
歌のことはまったく知らない私は、「ロアン」なんてすごく響きのいい名前!と印象に残り、動画終了後さっそく調べてみる。「ロアン」とは江戸時代の歌人「小沢蘆庵」のことらしい。
以下、日本百科全書の「小沢蘆庵」の説明より引用。

江戸中期の歌人。名は玄仲 (はるなか) 、通称は帯刀 (たてわき) 。観荷堂と号する。父はもと大和宇陀 (やまとうだ) (奈良県)の藩主織田 (おだ) 家に仕えた小沢喜八郎実郡(実邦)(さねくに) 。大坂で育ち、尾張 (おわり) 藩成瀬家(また竹腰家)の京都留守居役本庄勝命(ほんじょうかつな) の養子となり本庄七郎と称した。30歳ごろ冷泉為村 (れいぜいためむら) に入門して歌道を学んだが、51歳ごろ破門される。35歳ごろ小沢氏に復姓。このころから鷹司輔平 (たかつかさすけひら) に仕えたが、1765年(明和2)43歳のときに出仕を止められ、その後は歌道に専念する。享和 (きょうわ) 元年7月11日没。寛政 (かんせい) 期(1789~1801)京都地下 (じげ) 歌人四天王の一人に数えられ、伴蒿蹊 (ばんこうけい) 、上田秋成(あきなり) 、本居宣長 (もとおりのりなが) などと親交があった。門人には妙法院宮真仁(しんにん) 法親王をはじめ小川布淑 (ふしゅく) 、前波黙軒 (まえばもくけん) 、橋本経亮(つねあきら) など多くの歌人がある。歌は心情を自然のまま技巧を凝らさずに詠出すべきであるとする「ただこと歌」の説を提唱する。これが、教えを受けた香川景樹 (かげき) などによって、江戸後期の京坂地下歌壇の主流となる。家集に『六帖詠草 (ろくじょうえいそう) 』がある。歌論書に『ちりひぢ』『振分髪 (ふりわけがみ) 』『布留 (ふる) の中道 (なかみち) 』がある。古典和歌の研究にも熱心で、多くの歌書の写本を所蔵していた。
(日本百科全書)

ちなみに小沢蘆庵が唱えていた「ただごとの歌」は、日本国大辞典には以下のように説明があった。

「古今集」仮名序に示された歌の六義(りくぎ)の一つ。真名序の「雅(が)」に当たり、「ただごと」は正言の義で、雅の直訳。のちに、物にたとえていわないで直接に表現する歌、深い心を平淡に詠む歌と解され、小沢蘆庵の歌論の中心になる。(日本国語大辞典)

「魯庵」という名前の響きといい、唱えたという「ただごとの歌」という言葉の響きといい、響きだけで気になる。
ただ、比喩とかを楽しみたい私には「ただごとの歌」の精神は方向性が違う気もするけれど。
とにかく、こんな素敵な響きの名前や言葉を思いついた魯庵の歌を見てみようと、ジャパンナレッジに収録されている新編 日本古典文学全集68巻「近世和歌集」の小沢魯庵の歌を見てみる。


鶯はそこともいはず花にねて古巣の春や忘れはつらむ

意味
鶯は特に場所を定めるわけではなく次から次へと宿とすべき花を替えて、古巣で過ごした春のことをすっかり忘れているいるだろう。

解説
転居の多かった蘆庵のこと、あるいは自己像を重ねているのかもしれない。

語句解説
そこともいわず……特に場所を定めるわけではなく


(新編 日本古典文学全集68巻「近世和歌集」より)

ただごとの歌とは「物にたとえて言わないで直接に表現する」と唱えていたの割には、最初から「鶯」に自分自身を重ねている。

でも、この重ね方がなんとも可憐で風流である。

「日本の歳時記」によれば、「鶯」のことを「歌詠鳥」とも言うらしいから、たぶん蘆庵自身のことを言っているのだろう。

また鶯は季節によって住む場所を変える鳥だそうだ。
解説にあるように、転居の多かった蘆庵の人生を重ねているのかもしれないし、師に破門された自身の歌人人生を重ねているのかもしれない。
「花にねて」という言葉が飄々としてるから、破門された悲壮感がなく、少しだけ悲しみと諦念があって「忘れはつらむ」と自分に言い聞かせている気持ちに親近感を覚えた。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月9日(木)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー盲目の娘の輝ける生命、死、不甲斐ない人の世のコンストラストがひたすら美しいー

盲目の瞽女の娘は自死を思いとどまる。
蝶の群れが彼女を追いかける描写は、先ほどまで盲目の娘を追い詰めていた死の世界とコントラストをなすようで、ひたすら美しい。
蝶は「死」のシンボルでもあったと思うが、丸山文学の蝶は生の喜びに輝いている。
「敬慕の情を表す」なんて表現は、毎日庭仕事をされて、たぶん蝶も身近に感じている丸山先生ならの思いではないだろうか。

太陽の熱が高まったせいで
 思う存分怠惰に惚けたくなるような上昇気流が実感される頃

清々しい涼気に富んだ亜高山帯にのみ生息する
 大小さまざま
  色とりどりの蝶が

蜜たっぷりの花でも発見したかのように
 いっせいに娘をめざして飛来し

その一匹一匹が
 優雅にして華麗な飛翔により
  誰あらぬ彼女にむけて敬慕の情を表す

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」387頁)

以下の引用箇所。戦後の不甲斐ない時代を、娘の生命力と対比させることで鮮やかに描いていると思う。

そうした娘が

高地であるにもかかわらず草いきれがむんむんする草の原を
 戦時下よりもさらに悲惨さが増すことになった貧困を

敗戦によってもたらされた凋落した時代を
 自由を得てもまだ個性の消滅している社会を

無限に細分化されてゆく民主の気風を
 大局的に自主性を消失したままの不甲斐ない国家を

淀みながらも滔々と流れる大河のごとき
 しなやかな動きでもって
   苦悩の縛めを永久に解いてくれない現世を
     堂々と横切って行くさまは
       ただもうみごとと言うほかない

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」396頁)

以下、引用箇所。
「錯誤の時代はひとまず去った」とある。
だが今まさに渦中にある人の世を書いているようだ……。
やはり戦の世になると眠くなる巡りが原はもう眠りに落ちているかもしれない……と思いつつ読む。

 どう飾り立てて見せたところで国家の面汚しにすぎぬ現人神の前に諦めをもって膝を屈するしかない

無謀にも権力支配の永遠化を大真面目に図り
 民衆浄化の悪臭をぷんぷんさせ
  帝国主義の衣を剥がす正義の問いにたいして忌まわしい凶行でしか答えぬ

 そんなはなはだしい錯誤の時代はひとまず去った

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」405頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月8日(水)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー世に戦が近づくと眠りにつく巡りが原は、もう睡魔に襲われているのだろうかー

巡りが腹へとフラフラおぼつかない足取りでやってきた盲目の娘。
どうやら瞽女らしいと巡りが原は察する。
でも集団で行動する筈の瞽女がなぜ?と訝しむ。

瞽女の娘を観察する巡りが原の言葉から、娘の苦しい生活ぶりに寄せる温かい思いが感じられる。
また黒牛、逸れ鳥、巡りが原が瞽女の娘を歓迎して浮かれる様子はどこか微笑ましい。

破れた菅笠の下には使いこんだ手拭い

擦り切れた手拭いの下にはもつれた髪

緑の黒髪の下にはうっすらと汗ばんだ額

聡明そうな広い額の下には
 つぶらな眼と
  ちんまりとした鼻と
   形のいいおちょぼ口と
    円満な日々を象徴するかのごときふくよかな顎

円かな曲線で成り立つ顎の下には
 ほっそりとしながらも
  まんべんなくふくよかな肢体

全体としては素朴な造りの土雛を彷彿とさせる
 そんな風貌の彼女の気持ちをなびかせようとして

まずは
 黒牛が妙に上品ぶった声で鳴き

ついで
 保護色とは正反対のいろどりの逸れ鳥が
  情のこまやかさという点においては他をぬきん出ている
   如才のない声でさえずる

それは図らずも和声を奏でることになり
 うまの合う旋律となって三味線の音に同調する

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」348頁)

だが盲目の娘がトリカブトに顔を近づけた途端、巡りが原は娘が一人でここにやってきた目的を理解する。
こういう辛い状況にある人間に寄せる共感や理解も、丸山文学の魅力のひとつだと思う。

盲目の娘の訪問の目的
 それは自死にほかならない

おのれの生を無理やり終了させ
 みずからに死をさずけることが眼目だ

それ以外にはありえない

彼女の魂は重い障害を背負った肉体を避けたがっている

いや
 すっぱりと縁を切りたがっている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」355頁)

盲目の娘への共感がだんだん激してゆく巡りが原。
2014年の作品だが、後半の巡りが原の叫びは2023年現在の社会情勢とも被さってゆく。

さらに語っているのが高原だからこそ、読み手も反発することなく共感できるのだろう。
これが細かな人物設定とかしてある生身の人間だと、矛盾や破綻に気づいてしまい、ここまで共感はできない気がする。

おそらく
 トリカブトはぬきがたい困難をきれいに消し去ってくれるだろう

そして
 目もあやな安静へといざなってくれるだろう

なんなら私がいっしょに死んでやってもいい

「彼女のために死ぬのなら本望だ」

 そう言わざるをえないほど正気を失くした私がここにいる


もっとありていに言えば

もはや私は
 あまりにも冷酷な摂理の支配に身をゆだねるしかないこの世に飽き飽きしており

思弁的観念などまったく役に立たぬ過酷な現実社会と
 結局は戦争と平和のくり返しでしかない人間界と
  悪行のみが報われるという憂き世に
   とことんうんざりしているのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」365頁)

深刻な胸の内の吐露を聞きつつ、思わず次の言葉に笑んでしまう。
困難な状況が語られているけれど、語り手が「巡りが原」という高原だからこそ生まれる微笑み、ゆとりのようなものも感じる。

だが
 自殺の方法がわからない

果たして私はどうすれば死ねるのだろうか

なにせ数千株数万株にもおよぶトリカブトをやどしていながら命を長らえさせているくらいなのだから
 尋常一様なことでは死ねないだろう

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」368頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月7日(火)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー戦争の愚かさを思ったり、太陽の面白さを思ったり……視点が聖俗を彷徨うー

最近、この日誌にその日読んだ後期丸山文学について書いていることが多い。
後期丸山文学は、文体が散文詩のように変化、脱ストーリー性を志向している。
それまでの丸山文学ファンも「ついていけない」と離れていったようだ。
それなのに、私の拙い文で書いた日誌を読んでコメントくださるお若い方がいらっしゃる……ただ、ただ感謝あるのみ。

後期丸山文学の魅力は文体の面白さもさりながら、戦争へとむかってゆく人間の愚かしさを描く目が一段と冷静に、冴え渡っている点にあると思う。
同時にそんな嘆かわしい生き物である人間が存在する自然の美しさ、宇宙の大きさに思いを寄せずにはいられない視点が、神のごとき高さに思えてくる。
愚かしいもの、壮大で美しいものがシンフォニーのように響き合いながら詩のような文体で語られている……ところも魅力のように思う。


それにしても人間の愚かしさに向ける厳しい視線に、昨今の状況が重なり「やはり人間はダメだんだろうか」とも思う。
以下引用部分は、そんな人間の愚昧さを語る「巡りが原」の言葉。

だが
 人は常に思慮深い人生から離れたがり
  理性に反する行いに魅せられ
   邪心によって変調をきたす精神をよしとし

ために
 のべつそっちへむけて自身を焚きつけ
  鮫のように敏感に血の臭いを嗅ぎつけ
 知らぬ間に
  ご法度の最たるものである殺戮を堂々と世界のすみずみまでゆきわたらせてしまっている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻311頁)

「トリカブトの花が咲く頃」の文に、本の外の世界の状況に、このままだと人間は滅んでしまうのではないだろうか……とも思いかける。
そのとき、以下引用文のように「巡りが原」が太陽の愉悦を語る。
思わず読み手も太陽に、他の恒星に、大きな存在に目を向けたくなる文である。


地球上の人間がダメになって消え飛んだとしても、この宇宙のどこかにその愚かしさを見ている超越した存在があるのかも……と思えてきて、静かな心になってくる。

あまりにも真っ正直に高く昇り過ぎたことで
 結果として天空に身を売りわたすかたちとなった太陽は

残念なことに
 詩的緊張にみちた躍動の気配からいささか遠のき

自信たっぷりの意見表明を得意とする
 ともすると激情に流されやすい
  自己自身の本姿からも大分離れてしまう

とはいえ
 われらが太陽はそのことを少しも苦にせず

宇宙にごまんと在る
 ありふれた恒星としての地位を平静に保ち

のべつ生存の崩壊の危機に見舞われつづけている人間への
 くどいほどの心情的な関与を極力避け

核融合による究極の燃焼の持続という
 至上の快楽にひたすら熱中し
  感銘深い真昼の輝かしい時間帯に
   なんとか静止しようと努めている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻318頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月6日(月)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ーかくして戦争は始まった……と語る「巡りが原」の言葉に耳を傾けてほしいー

黒牛の鳴き声がこだまする「巡りが原」
牛の鳴き声に含まれる深いメッセージの数々が、巡りが原に象徴される自然の懐に連れ去ってくれる。
以下引用箇所は、そうした牛の鳴き声の一つ。

死は生の必須条件なり!

 
  かなり不人情な思いを込めて鳴き


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻279頁)

丸山先生は1943年生まれ。
幼い心に戦争の記憶が、戦争を体験した負傷兵や戦災孤児の記憶が刻まれているのだろう。

丸山先生が語る言葉は冷静に、戦争へと呑み込まれてゆく人々を仔細に語っている。
こういう風にして、戦争について語ることのできる作家は数少ないのではないだろうか。
もっと読まれてほしいと思う。
以下引用箇所は、巡りが原が戦争について色々思うところ。

国家間同士のおとなげない縄張り根性と底なしの強欲が原因で始まり
笑止千万な民族主義に毒されてしまったために
寛大な態度を保てなくなった国民全体が
臆病な不信のなかに落ちこみ
藁をもつかむ気持ちで天孫降臨説を信奉し

ついには
おのれの本分を全うすることはすなわち戦死であるという
あまりに自虐的にして短絡的な謬見を抱き

その結果
頭数だけあった意見がたったひとつに絞りこまれ
誠実と慎みにあふれた真っ当な愛国者が批判の矢面に立たされ
幼稚な恐怖にみちびかれることで際限なくふくれあがっていった
凶悪無惨な悲惨事……


それは
例によって少数の富裕層のふところをさらに肥やそうという
ただそれだけの目的のために強大な軍部がいつまでも強情を張り通し

どこからどう見てもありふれた人間の典型でしかない
疑いだせばきりがない伝統のみが頼りの天皇を神の座につかせ
名誉職を得たことのみで大満足している能天気な政治家を威圧し
真実を語る煙ったい相手を執拗に弾圧し
この難局を打開するにはほかに手立てはないという
一方的な結論を愚かな国民にやすやすと植え付け

厳密には誰もそんなことなど望んでいなかったはずなのに
いつの間にやら戦争が否定せざるをえぬ究極の悪ではなくなってしまい

それどころか
開戦が妥当な共通認識となり
たちまちのうちに異常事態へと発展し
怖れと怒りの入り混じった戦場における華々しい活躍こそが男子の本懐のすべてとなり

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻283頁)

以下引用箇所も、巡りが原が語る戦争についての言葉。すべての人の想いである筈なのに……と、人の世の現状との乖離が悲しい。

ただし
そんなかれらが頻繁にくり返す
民族の運命を賭けた戦と
それに類する行為にだけはどうしても慣れないし

できれば永久に無理解のままでいたいと思う


戦争だけはやめてほしい


意に染まないどころではない


一瞥することだってご免こうむりたい


戦という名の
暗黙のうちに公認されている
人間の営みの必須条件のせいで
この災厄の星の運命を読み取ることが一段と難しくなってきている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻291頁)

平和と戦争の分岐点を躊躇いもせずに、片方へと曲がりかけている今だからこそ……。
以下引用箇所で巡りが原が語る言葉を記憶し、戦争の兆しが見える風景に身をおいていないか問いかけたいもの。

平和の時代が分岐点にさしかかるたびに
衆愚の力を恃んで
大規模にくりひろげられる戦……


悲惨な状況から大衆の目を逸らして危険思想を植えつけ
どこまでも利己的な欲望に沿って
国策の大幅な方向転換を図る統治者……


兵役を強要され
人殺しの手ほどきを受けて修練をつまされ
敵の銃弾をかいくぐらなければならぬ青年たち……


双方互いに相手を等しく根絶やしにしてしまおうとする
反理性的な
根拠なき剥きだしの憎悪……


過激化の一途をたどるばかりの
元も子もなくしてしまいそうな
言語道断な新兵器の数々……


愛国だけを理由に遠ざけられる
自身にのみ服従するという
気高くして当然の権利……


ひとたび蔓延ってしまった戦争という名の巨悪の根を
どうあってもぬき取れない
生半可な教養と無知から出た利害への執心……

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻307頁)

まずは言葉で戦争とは……と知ることが、戦争の悲惨を抑止する第一歩になると思う。
だが、そう試みる書き手も、読み手も少なくなっている現状に、また暗い戦争の時代がシメシメと近づいてきているような気がする。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月5日(日)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー巡りが原の思いは丸山先生の思いでもあってー

青年僧のことを嫌っていた巡りが原だが、青年のふとした言動がきっかけで親しみを抱きはじめる。
親近感を感じる言葉の内容がいかにも丸山先生らしい。

以下引用部分。
高原・巡りが原が語る青空も、青年僧の毒舌も、島国の賃金労働者たちの生活も、それぞれの魅力があって、別の内容でありながら、最後には丸山先生の目となって融和して一つの世界になってゆく。

それぞれが微妙な曲面を呈す
真っ白な雲がぽっかり浮かんでいる
ただそれだけの青空にむかって
つぎつぎに矢を射こむ酔余の暴言は

何かしらのきっかけを得て
適当な時期におのれを虐待することをやめた売僧の
憮然とした面持ちによく似合い

存在することへの恨み辛みというありふれた執見と陳腐な嘆きを
卑劣きわまりない振る舞いを
手きびしく面罵するときの口調で
痛憤をこめて口汚く毒づいているばかりであるにもかかわらず

嫋々たる余韻の美しさと奥深さには洞察への並々ならぬ力量が示され
ただもう舌を巻くばかりだ


争いにみちた世界と老廃してゆく時代にいちゃもんをつけ
短兵急な主戦論にのめりこみ
社会的なむすびつきを強固にし過ぎた苦悩の島国にたいして
いくら罵声を浴びせてみても

富者が強いる犠牲の下でしか生きられぬ賃金労働者たちの
不平たらたらのありさまとは似ても似つかず

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻257頁)

青年僧がつく悪態も、丸山先生の歴史観がさりげなく語られている気がする。
ここは気がつかないでスルーしてしまう読者と「よく言ってくれた!」と拍手したくなる読者の分岐点ではないだろうか?
ここで頷く読み手なら、丸山先生の文体がいくら変わっていっても、追いかけていくのではないだろうか。

多くの愚者たちによって人間を超越した者と固く信じこまれている架空の存在を
自分なりに敷衍してあしざまに言う
この狂人まがいの素っ裸の男を


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻260頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月4日(土)

今日を静かに糾弾しているような塔和子さんの詩「嘔吐」
ぜひお読みください

ハンセン病資料館友の会の方々が、国立ハンセン病資料館映像ホールでドキュメンタリー映画「風の舞」を上映、映画終了後は宮崎信恵監督の講演会という企画を開催してくださった。

映画で初めて塔和子さんの姿を見た。

真剣に詩を書き、自分では動くことのできない体を起こしてもらって読者の手紙の音読に聞き入っている時の真摯な表情が忘れられない。

塔和子さんの言葉が読んだ人の心を救い、読んだ人の言葉が塔さんがこの世に生きている証になっている……そんな風にして、動くことのできない塔さんが言葉で人とつながってゆく姿に心を揺さぶられた。

塔和子さんは昭和4年8月31日生まれ。昭和16年ハンセン病により国立療養所大島青松園に入園。26年に歌人の赤沢正美と結婚して短歌を詠み始め、のち自由詩の創作を始める。平成11年第15詩集「記憶の川出」で高見順賞を受賞。平成25年8月28日死去。83歳。13歳で療養所に入所し70年にわたって療養所で生活した。

宮崎監督が幾篇か塔さんの詩を教えてくださった。

中でも「嘔吐」という詩が、他人の悲惨や不幸を見て冷笑している、そんな現在の状況にも通じるようで心に残った。

この詩に記されている冷笑は実に嫌なものだけれど、実際、今の世は冷笑にあふれている。
人の不幸に冷笑を浮かべて楽しむ……という人間の悲しい性を、塔さんは嫌というほど体験してきたのだろう。

以下、塔和子さんの詩「嘔吐」である。

嘔吐

台所では

はらわたを出された魚が跳ねるのを笑ったという
食卓では
まだ動くその魚を笑ったという
ナチの収容所では
足を切った人間が斬られた人間を笑ったという

切った足に竹を突き刺し歩かせて
ころんだら笑ったという
ある療養所では
義眼を入れ

かつらをかむり
義足をはいて
やっと人間の形にもどる
欠落の悲哀を笑ったという
笑われた悲哀を

世間はまた笑ったという
笑うことに
苦痛も感ぜず
嘔吐ももよおさず
焚火をしながら
ごく

自然に笑ったという

(塔和子さんの詩)


「嘔吐」だけでは悲しいので、きっと嫌な体験をされながらも塔さんが残された「蕾」という詩を以下に引用したい。



最も深い思いをひめて
もっとも高貴な美しさをひめて
もっとも明るい希望をひめて

明日へ
明日へ
静かに膨らみは大きくなる
こらえきれぬ言葉を
胸いっぱいにしている少女のように


つつましいべに色を
澄んだ空間にかざして
ボタンの蕾がふくらんでいる


(塔和子さんの詩)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月3日(金)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ーひとではない高原が語るおもしろさー

「トリカブトの花が咲く頃」の舞台でもあり、語り手である高原・巡りが原がおのれの役割について語る箇所。
他の丸山文学と同様、人でないモノ、高原が語るこの小説は幻想文学であると思うのだが、丸山文学を幻想文学として語った人は石堂藍から見かけない気がする。
丸山文学ファンは純文学としてのみ捉え、幻想文学としての魅力を語る人が殆どいないという現状をとても残念に思う。

標高千数百メートルに位置する
憐れみ深いこの地は

やむにやまれぬ理由でおとずれた者たちを
最後の手段として胸を圧する苦悶の縛めから解き放ってやり
この世にふたたび生を受けないようにしてやるための

すなわち
真の救済に直結する
神聖な死に場所なのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻210頁)

巡りが原も、すっかり俗物となってしまった青年僧だけは我慢ならず、かくも語る。
高原が語るから、どこか距離を置いて読むことができるような気がする。
人間なら余計な感情が入り込んでしまうと思う。

つまり
 月が太陽に席をゆずるたびに彼が支配力を強め
ついには
 私をさしおいて「巡りが原」の主人と化してしまうことだ


それだけはどうにも我慢ならない


だから
なんとしても阻止する

またここで大往生をむかえさせるようなことがあってもならない


ここで死なれても私にはなんの慰めにもならないどころか

その腐肉の一片の果てまで溶けてなくなり
 骨片のひとかけまで消え去ったあとでも
  不快な気分は長いことつづき

そして
 おぞましい残留物をすっかり追いはらえるようになるまでには

ひょっとすると
 つぎの戦争と
  そのあとに訪れる平和を待たなければならないかもしれない

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻223頁)

日本幻想作家名鑑に石堂藍が記した丸山健二の項目。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月2日(木)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー草原が語る、しかも人の世に戦いが近づくと眠くなる不思議な草原ー

何やら嫌な存在に気がついた黒牛は姿を消す。
牛が逃げてゆく様子を書く文から、高原の緑、草いきれ、光がどっと押し寄せてくるよう……。とても好きな文である。

夏に甘やかされた風を追いかけて
ふたたび草と光の中へ出て行き

たちまちにして陽炎の大渦に巻きこまれ
太初の混沌のごとき絢爛たる光彩を放つ季節のうち奥奧へと
あっさり呑み込まれてしまう

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻156頁)

おそらく第二次世界大戦のことだろう。戦いの気配に眠りにつき始める巡りが原。
高原が語る。
しかも人の世に戦いが始まれば眠りにつく高原……という設定が、なんとも幻想味があっていい。

突如として太平洋上から急激にひろがってきた
何やらきな臭い気配が
わが感覚的世界をおぼろにさせ
いかんともしがたい睡魔に襲われ

そのせいで

より精神的な生き物に昇華するための
「解脱」という世にも稀なる結果を見ることなく
私は急を要する事態に投げだされ

人間の魂とはかならずしも合致しない
わが魂の存立に必要不可欠な眠りに落ちてゆき

かくして
あとはそれっきりになった


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻165頁)

巡りが原が眠りから目が覚めてみれば、戦さの前とではすっかり変わってしまった巡礼僧の姿があった……。
戦争を体験してきた者の戦後から、戦争の悲惨を描こうとしてきた丸山文学。
「トリカブトの花が咲く頃」にも、そうした戦争への問いかけあるのではないだろうか……という予感がしてきた。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月1日(水)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー小さなトリカブトの花に、国家の嫌らしさを思い、弱き人々を思いー

私は山道に咲く花の名前を教えてもらっては、すぐにころりころりと忘れてしまう。
だが、それでも深い青色をしたトリカブトの花がひっそりと咲く様だけは忘れることができない。そんな訴えかけるものが、この花にはある。


以下の引用箇所。

「腹黒い国家体制や独占社会がもたらす底なしに根深い貧困」の中で、「経済的無力のほかに政治的無力にも突き落とされる」のは、我々のようでもあり、理不尽な恐怖に怯えている遠方の人々に重なるようでもある。

近年、こういう至極真っ当な怒りを書いてくれる書き手は、日本では非常に少なくなったように思う。

上層階級のふところを肥やすばかりの腹黒い国家体制や独占社会がもたらす底なしに根深い貧困と

そこに源を発する
病苦にみちた思い出やら
最小限の愛との断絶やら
人生の没落やらといったことから
絶えず圧力を受けつづけて気の休まる暇もなく

ついには
経済的無力のほかに政治的無力にも突き落とされるという
あまりに社会的立場の弱い人々が

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻139頁)

弱い立場にいる人々がトリカブトを目にしたとき心を駆け巡る思い。
こんなふうに思わせる魔力が、この花にはある。

花をとおして、国家を、弱い人を見る視点が丸山先生らしい気がする。

恥ずべき落ちこぼれである自分なんぞを大喜びでむかえ入れてくれるのはこの花だけだと
そう頭から決めつけてしまう


とたんに
それまで八方塞がりだった筈の眼路が広々と開け

執念深い虚無やだらしない厭世の統制下にあるおのれにはたと気づいて虫唾が走り
決め手を欠く人生に降りかかってくるのは不幸のみだと理会し
完璧な自由のなかでしか幸福の翼が羽ばたかないことを翻然と悟り

そしてしまいには
命からさえも自由になりたいと願わずにはいられなくなるのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻140頁)

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