さりはま書房徒然日誌2023年10月31日

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー丸山文学の文体は変われど、怒りの芯は変わらずー

こうしてチビチビと書いていると、たまには読んでくださる有難い方もいらっしゃるらしい。
中には、丸山文学の文体がかなり変わってしまったから……と最近の作品から遠のいてしまった方も、こうして見てみると丸山文学の芯は変わっていないでないか……。
そう思われたのか、神保町PASSAGE書店の私の棚から購入してくださった方もいらっしゃる。

実際、この独特のレイアウトで「小説じゃなくて詩だ」と敬遠して離れていった読者が多いような気がする。


だが私の知人で日頃それほど文学に馴染んでない人間も、最近の作品、このレイアウトで描かれた「おはぐろとんぼ夜話」から丸山文学に入って、すっかりハマってしまった。
知人は文学にほとんど関心なかったのだが、社会への怒りの炎をたぎらせていた人間だ。
その怒りのポイントが丸山文学とぴったり一致、「よくぞこの思いを語ってくれた!」という気持ちになるらしい。

「うまく言葉にできないでいる怒りを代弁してくれている!同志よ!」的感覚で読むことのできる方なら、丸山文学の文体が変わっていっても追いかけることができるのかもしれない。

以下、引用箇所も怒りを分かち合える人、そうでない人に分かれる箇所で、丸山文学が好きになれるかどうかの分かれ目になるポイントの一つかもしれない。

まず最初は、アナーキストのシンボルカラーの黒にも例えられた黒牛を語る箇所。
牛であって、でも牛ではないアナーキスト的存在の不思議さ。
これが人間として語られると、矛盾とか反感とかあると思うけど、牛だもの。思わず頷くしかない。

絶え間なき心変わりとはいっさい無縁そうな
まったき存在者としての
この牡牛にしっかりと具わり
特徴づけているのは

もっぱら真理のみに訴える
事をなすための生きた力であり

あくまで心眼に依拠した
事物の終わりまで看破できる
素晴らしい予見能力であり

苦悩の棘をあざやかにぬき取ってくれる
底なしの優しさであり

権力の中枢を狙って撃つ
無言の銃弾であり

強者の権利から派生する
いかなる誤りをも正さずにはおかぬ
真剣味であり

社会の底辺にうごめく
物言う術すら知らぬ
卑しく育たざるをえなかった人々にそそぐ
慈愛の眼差しであり

そして
生命のけなげな要求に救済の光を当てる
神の視点である

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻105頁)

以下の箇所は牛の角にとまった鳥の言葉だが、日本の歴史をどう俯瞰するか……で頷く人、否定する人に分かれる箇所だろう。
頷く人間にとっては、こういう歴史観で語ってくれる書き手の存在にただ感謝あるのみだ

理性の光の前に砕け散らぬ戦争はない!

敗戦のおかげで圧政の濃い影の下に立たなくてもいい時代が到来した!

未開の精神に支えられた国体をつらぬく死は
反楽園を楽園に変えるであろう!

だが
心せよ!
新たな悲劇の幕開けかもしれん!

なぜとならば
国民の塊に深々と突き刺さった毒針としての天皇は
まだ完全にはぬけ落ちていないからだ!

暴力が猖獗(しょうけつ)を極める時は
えてして知らぬ間に差しせまっているものだ!

武装解除できぬ世界は
死に瀕する世界にすぎん!

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻126頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月30日(月)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー巡りが原の自然への賛歌と国家や戦争への怒りがぶつかり合っている!ー

昨日は、丸山先生が素数、合成数を意識しながら文字数を考え、光の描写の箇所を書いたのではないだろうか……というところまで書いて終わってしまった。なぜ光の描写のところで素数なのか。何も意識しないで光を書いていけば、自然相手だもの、散漫になってしまうのではないだろうか。素数を意識することで、文に律が生まれるのかもしれない。
さて読み進めてゆくと、巡りが原の自然、それに対立するような人間世界……という二つの対立する世界に想いを巡らす文が渦巻いている。巡りが腹の自然はそれぞれ何かを象徴している気もしてくる……がはっきりとは分からない。
巡りが原の住人その1 ・・・シラビソ
シラビソってこういう木なんだと初めて知る。清々しそうな木である。「力強い慰め」とあるが、たしかに慰めてくれそうである。

ど真ん中に風格にあふれたシラビソの古木を一本だけあしらい
力強い慰めをあたえてくれるその巨木を軸にし

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻69頁)

巡りが原の住人その2・・・トリカブト

巡りが原の住人その3・・・一本道。きっとこの道から物語が展開していくのだろうという予感にあふれている

欲望の専制に従い
世間に順応し過ぎた罰として
生を奪うことも可能なトリカブトの花をまんべんなく散らし
蛇行して流れる川と並行した一本道が白っぽく輝く
目を見晴らせるほどの風景たりうる
危ない風土としての
この「巡りが原」には
とうてい適うまい

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻69頁)

巡りが原の住人その4・・・黒牛。黒牛の黒から無政府主義者の黒を連想するとは。この牛はどんな運命を辿るのだろうか……。

全身をぬりこめているつやつやの漆黒は
真理に仕える無政府主義者がまとう衣の色を想わせ
現世をいろどる無用な複雑さを一掃する力をひめており

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻87頁)

さて、これから引用する箇所は巡りが原と対照的な人の世界、国家。
丸山先生の怒りに頷くことがあれば、たぶんこの先を読み進めていっても大丈夫。
この怒りに同感するかどうかが、丸山文学の世界に入っていける鍵になるのかもしれない。
ということで鍵になりそうな文を三つ引用してみた。

絶大なる権限を手中におさめた
ひどく滑稽な分だけ醜怪な現人神という悪が
罪の世界の理想の地位に就くことによって

自由主義は当然
当たり障りのない無色無臭の思想までが弾圧の対象にされ

その間に

卑劣で臆病な愚者であることをいっこうに克服できない国民の数がますます増えてゆき
戦争の気配が煮詰まってゆくにつれて
まともな人間でありたいと本気で願う者の姿を見かけなくなり
しまいには声すらも聞かれなくなり
気配すらも感じられなくなり

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻85頁)

砲声轟く激戦地に送りこまれた兵士のごとき«捨てられる肉»でないことは保証できる

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻92頁)

事大主義が骨の髄まで染みついている
あまりにも嘆かわしく
あまりにも生ぬるい人々が

国民から主体性を奪いつづけ
人間性を圧迫しつづけて
血にまみれた結論しかひき出せぬ天皇と

打算の力で天皇制を担ぎ上げることによって
理不尽に過ぎる暴利をむさぼろうとする
性悪な資本家どもの
完膚なき搾取に甘んじてはいても

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻97頁)

この怒りの鍵が心にぴたりと合う方がいましたら、どうぞ引用箇所からでも少しずつ一緒に読んでいってくださいますように。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月29日(日)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー丸山作品によく潜んでいる不思議の数、素数を見つけてみませんか!ー

直進する光
回析する光
反射する光
入り乱れる光
影と連動する光……

自制心を欠いた光
分けへだてのない光
瞬間の情趣をやどした光
気持ちを激しくゆり動かされる光
人間の下等性を容赦なく暴き立てる光……

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻61頁)

ある時期から、丸山作品に何らかの形で素数が潜んでいることが多くなったのではないだろうか?

たしかオンラインサロンでどなたかに2011年『眠れ、悪しき子』のページが素数であることを質問されて、丸山先生がこう答えていたように思う。

「頁の行数が素数になるようにした。素数にこだわると、流されずに律して書くことができる。素数は未だ解明されていないところのある不思議な数字だ」
うろ覚えだが、そんなことを丸山先生は言われていた。

その時は「素数にこだわって書いて、そんなに効果があるんだろうか……?」と半信半疑だった。

だが今年四月より短歌創作の講義を受けるようになって、素数にこだわることでリズムと律する流れが生まれる!と思うようになった。

短歌は五七五七七と素数が基本となる文学形式である。
それなりの事情がある時は字余り、字足らずになる。
五、七の字余り、字足らずはどちらも合成数である。

状況引用箇所は、巡りが原の光について書かれた箇所。
自然なイメージ、プラスのイメージの箇所の文字数(音ではない)は素数。
乱れる箇所、負のイメージの箇所は、合成数の文字数になっている気がした。
たぶん素数、合成数の文字のリズムが、わたしの頭に知らずしてリズムを刻んでいるのだと思う。

行数だったり文字数だったり……丸山作品の思いがけないところに隠れている素数の法則、読むのに疲れたら気分転換に見つけてみませんか?余計疲れてしまうでしょうか……

直進する光 (5字)素数
回析する光 (5字)素数
反射する光 (5字)素数
入り乱れる光 (6字)合成数
影と連動する光……(7字)素数

自制心を欠いた光(8字)合成数
分けへだてのない光(9字)合成数
瞬間の情趣をやどした光(11字)素数
気持ちを激しくゆり動かされる光(15字)合成数
人間の下等性を容赦なく暴き立てる光……(17字)素数

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さりはま書房徒然日誌2023年10月28日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ーすぐ眠くなる「高原」が語るからこそ頷きたくなる過激な言葉ー

人の世に戦争が近づくと、意識朦朧となってクタッと眠ってしまう……そんな少し情けない高原「巡りが原」が語り手である。
だから戦争の愚かしい歴史や人類の今後について悲観的な見通しを語られても、「そうだよね」と思わず頷きたくなる。
これが人の形をしたもの、「木樵のお爺さん」とか「校長先生」や「天狗」とかだったらうるさく感じてしまうだろう。
すぐに眠たくなる高原・巡りが原が語るから、思わず納得するのである……という幻想文学らしい世界が、純文学読みには分かってないのかも……という感想を見かける気がする。

以下の引用箇所は、多分、先の大戦について巡りが原が語っている。あの戦争を語れば、まさにこういうことだった……と納得したり、発見させてくれたり、「私もこう言いたかった」と拍手したくなった箇所だ。
あと読点が一箇所だけあった。なくても大丈夫な気もする箇所だが、何か意図があるのだろうか?

はてさて
今回の終戦によって
果たしてどんな時代の入り口に立つことができたのだろう


前景へと踏み出せる勝ち戦だったのか


それとも、
後景へと退くしかない負け戦だったのか


現人神とやらの俗悪陳腐で悪趣味な偶像を
恥ずかしげもなく狭量な精神の軸に据え

本来同等の権利を持つはずの人間的尊厳を毛ほども尊重せず

国益の幅をまずます狭く限定し

地震列島の上を漂う
折衷案のない
押しつけがましい理念は
より徹底され
国民に窮乏生活を強いて軍事力を異様に肥大させ

戦争はもっと筋の通った合目的が必要だと唱える少数者を
拷問と処刑によって封じこめ
益なく血を流すことをなんとも思わぬ
破滅的な覇権主義に凝り固まり

とうとう狂気そのものの顔立ちになった帝国は
時代を衝動的欲求とも言える開戦へとひきずりこみ
有無を言わせぬ生き甲斐として戦死を強引に押しつけ
実際には人間の尺度に合わぬ戦争の極限に行き着いたのだ


そして恐ろしい神の仮面をつけた天皇の威信に惑わされ
弱い立場を宿命づけられ
一丸となって事大主義の虜となった魂の持ち主たる国民は

人格崩壊に突き落とされ
冷静な現実から切り離され
とてつもなく堅苦しい社会性を強いられ

その窮屈さから生じる
集団的にして感染的な怒りにかられ

白人の魔手をはね返すためのアジアの統一という
一理はある口実で捏造された欺瞞の理想をあたまから信じこみ

あまりに無謀な目的に囲いこまれたあげくに
みずからを拘束し

慈悲の心を完全にうしない
他国の人間を人間として認めぬ
大量殺戮を追う視線の果てに
いったい何を見たのだろう

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻35頁)

以下、戦争について、平和について、その間の歴史について語れば、確かにこうなのかもしれない……と内容と表現の格好良さに心惹かれた。

直感という名の羅針盤が
戦争と個人的な殺人についての終わりなき論争における
差異と類似のあいだでいまだに迷いつづけ
常に気まぐれで無責任なかたちで訪れる
平和の始点と終点のあいだをひっきりなしに行き来している

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻41頁

以下の引用箇所、やはり語り手が巡りが原という高原だから成立する言葉。人間が語り手だと、この思いはそっぽを向かれてしまうと思った。

死んだのは人間どもであって
山河ではない

より劣った生き物の特性として
自己疎外の葛藤を抱えこんだ人類の歴史は

空洞のごとき生から逃れんとして墓穴を掘り
みずからかくも残酷なきびしい裁きを下しつつ
陰々滅々とつづく

しかし

よしんば人間界に絶滅の戦争の嵐が吹き荒れることがあったとしても
究極の最終兵器によって人類が激越な最後の時代をむかえたとしても

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻56頁)

人間よりも大きな存在でありながら、巡りが原という少し頼りない高原が語っている……というところに面白さがあるのに、この面白さが感じられない人が多いのは残念なことだ。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月27日(金)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー人間でない「高原」が語り手になる面白さー
ー句読点がないのがこんなにスッキリ見えるとは!ー

私はごく最近丸山文学を読みはじめた。
それも余り人が読まない後期の作品から読みはじめた。
時の流れを遡るようにして、少しずつ丸山文学を遡ってゆくという天邪鬼的読み方だ。

最近では左右社から出ている三作品「おはぐろとんぼ夜話」「我ら亡きあとに津波よ来たれ」「夢の夜から口笛の朝まで」と幻想味あふれる作品を楽しんだ。

今回、もう一つ前の作品「トリカブトの花が咲く頃」を読むことにした。「トリカブトの花が咲く頃」も、後期の作品の特徴である斜めの形に文を揃える詩のようなスタイルである。
さらに「トリカブトの花が咲く頃」には句読点がない。
だが意味はとりやすいし、視覚的にも句読点がないのはスッキリする……というのが不思議な発見だった。
ざあっと見てみると、感嘆符は見かける。
なぜ、この後の作品では句読点が復活したのだろうか?

どうやら「トリカブトの花咲く頃」の語り手は「巡りが原」と呼ばれている高原らしい。
高原が語り手となってストーリーが進行する……とは、それだけで幻想文学読みの心を刺激するのではないだろうか……。

巡りが原が語る自分の姿。
客観的に語りながら、じつに生命の躍動感あふれる文だと思う。

動物で言うところの血管
植物で言うところの導管に匹敵する
わが体内を縦横無尽につらぬく水脈や
体外を好き勝手に走る細流の絶え間ない運動が
じつに生々しく自覚され

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻11頁)

巡りが原の真ん中に一本だけ生えているシラビソも、良識のシンボルなのだろうか?これも幻想的である。
さらに風が発する多様な言葉の面白さも、幻想文学読みを惹きつける気がする。

それまではたんなる草の海にすぎなかった私の真ん中に
一本だけ生えてきたシラビソの成長とともに

なんと
良識の徒を自負できるまでに育ち

私の意思の表れとしてさまざまな種類の嵐が発する
乾いた言葉や
偽りなき言葉や
辛辣な言葉や
空疎な言葉により

戦争と平和という
常に急を要し
幸福の根幹にかかわる課題について激論が交わされ
正義の尺度に波紋が投げかけられるようになり

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻28頁)

この不思議な巡りが原は、戦争が始まると眠りにつくらしい……。
巡りが原が戦いの気配を察知して、いつの間にか眠りにつく描写に、丸山先生の世界が始まる予感がする。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月26日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上下巻読了

ー明るくて詩人のようなドッペルゲンガーがしょっちゅう出てきた!ー

再度、砂浜に穴を掘ってドッペルゲンガーを埋めたところで、またしても大津波に襲われ、青年は穴に墜落。
だがドッペルゲンガーの上に落ちたかと思いきや、そこには誰もいなかった……。
去ってゆくドッペルゲンガーの姿が見えるのみ。

考えてみたら「我ら亡きあとに津波よ来たれ」は津波で死んだ青年、そのドッペルゲンガー、ドッペルゲンガーが映じる介護が必要な義母の忌まわしい思い出だけから成り立っている。

つまり実質、登場人物は一人だけなのである。たった一人の登場人物でこれだけ長い小説が書けるのか……と驚く。

「我ら亡きあとに津波よ来たれ」はドッペルゲンガーも主要登場人物で、しょっちゅうドッペルゲンガーが出てくる。

丸山先生がドッペルゲンガーをよく作品で取り上げるのは、量子力学にはこの宇宙と同じ宇宙が複数あるという考えがあるからとのこと。同じ宇宙があるなら、もう一人の自分は確実にいるとの考えがあるようだ。

そんな考えのもとに書かれるドッペルゲンガーはどこかユーモラスでもあり、哲学的でもあり……。

他の作家のドッペルゲンガー作品は不気味で、ドッペルゲンガーと会って主人公は死ぬ……という暗いパターンの短編が多い。

だが丸山文学のドッペルゲンガーは以下の引用箇所にもあるように、明るく、時も自由に駆けてゆき、どこか詩人のようである。そして不幸な生い立ちの現世とはかけ離れた姿をしている。
この他にはないドッペルゲンガーの捉え方こそが、「我ら亡きあとに津波よ来たれ」の魅力の一つでもある。

初回に匹敵する大津波の音が痛々しく響くなか、

どこまでも人懐っこい嘲弄を置きみやげに
おれを見捨てて
いずこへともなく去って行く、

高潔な態度と微温的な物腰の両方を持することによって
ほかの誰よりも人間的な風味を添え、
真っ当に生きて
幸福に死んだあ奴は、

なんと、

へだたりを広げるにつれてどんどん若返り、

たちまちにして少年時代を通り過ぎ、

今ではもうよちよち歩きの幼児そのものと化しており、


しかも、

いつしか孤立の状態から解き放たれていて、

驚くべきことに
その両側にはふたりのおとなの男女がぴったりと付き添い、
それは
誰が見ても生みの親に違いなく

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻579頁

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さりはま書房徒然日誌2023年10月25日(水)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー植物への愛情が滲む文は丸山先生ならではー


以下引用箇所は、庭づくり命!で毎日庭仕事をされている丸山先生にしか書けない文だと思った。

丸山塾で指導を受けていると、時々「その風の頃に咲く花は何?」と訊かれて狼狽えることがある。
丸山先生の頭の中には、季節の植物のカレンダーが組み込まれているのでは……とよく思う。
さらに丸山先生の植物カレンダーは信濃大町基準のカレンダーで、東京近郊とはずれがあるようだ。
とにかく植物と庭は丸山先生の人生の中心なのだろう。
「真剣そのものに咲き初める花々と 面白半分に咲き誇る花々」などという表現は、毎日いつも植物のことを見つめている丸山先生にしか書けない文だと思う。
「克服しがたい偏見のなかに見る影絵」という表現もはっきりとは分からないながら美しい文だと思う。

このあたりドッペルゲンガーについても面白い箇所があったが、寒さと雷がゆっくり体を休めるように……と言っているようだ。それはまた後日。

ごつごつした感触の終末の予感が処々方々で生まれかけている被災地に
真剣そのものに咲き初める花々と
面白半分に咲き誇る花々とが
克服しがたい偏見のなかに見る影絵のように
わが脳裏をかすめてゆくなかで

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻546頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月24日(火)

丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー丸山文学のドッペルゲンガーの面白さとは?ー

引用箇所で、主人公は自分のことを軽蔑しているドッペルゲンガーを仔細に観察している。
それが他のドッペルゲンガー文学にはない、丸山先生ならではの面白さである。
だいたいドッペルゲンガーが出てくる小説は、「ある日、自分のドッペルゲンガーを見た。しばらくして死んでしまった」というワンパターンが多い気がする。
怖がらせる存在に過ぎない多くのドッペルゲンガーと比べ、丸山文学では実に細かく観察している。
それは丸山先生が量子力学に基づいた多元宇宙というものを確信しているからだろうか?
現前すると同時に不在でもある畏友」というドッペルゲンガーの捉え方はいかにも丸山先生らしく、恐れずにもう一人の自分と対峙するところに丸山文学のドッペルゲンガーの面白さがある気がする。

やむなく、

所詮はおれの複製のくせに
現在することを盾に取って
抗弁らしき言葉をずらりと並べてみせ、

それでいて、

まさしくオリジナルそのものであるこのおれのことを
自分とは相容れない
はなはだ激しやすい性質の愚者と一方的に決めつけたらしく
敬遠を超えた嫌悪の素振りをあからさまに示し、

併せて、

完全に疎通を欠いてしまったことによる
痛々しいまでの自覚がほの見える体たらくを
いやというほどさらけ出したが、

しかし、

こう言ってよければ、
博愛心という固定観念を依然として存続するそ奴は
現前すると同時に不在でもある畏友
ということになるやもしれなかった。

(丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻502頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月23日(月)

丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー量子力学&パラレルワールドの影響から生まれた丸山健二文学のドッペルゲンガーの面白さ!ー

丸山先生になぜドッペルゲンガーがよく作品に出てくるのか質問したことがある。
丸山先生がドッペルゲンガーを書くのは、量子力学の影響が大きいらしい。
なんでも量子力学には、この世界が無数にある……というパラレルワールドの考えがあるそうだ(うろ覚え)。
この世界が無数にあるなら、もう一人の自分というものも確かにある……という思いからドッペルゲンガーを書かれているらしい。
ぼんやりした、うろ覚えの理解ではあるが)。
複数のページから一部ドッペルゲンガーの箇所を以下に抜粋した。
パラレルワールドを確信する丸山先生が書かれるドッペルゲンガーは、やけにリアル。
パラレルワールドの書き方も面白いと思う。
でもドッペルゲンガーと自分には微妙な差異がある。自分とドッペルゲンガーの違いを見つめ書いた作家というのは、あまり他にいないのではないだろうか?

げんに、

誰あらぬこのおれに化体し
真の自由への脈略をつける過程で頓挫した
知能も志も背丈も低いそ奴は、

紛うことなき死者のくせに
もっと大まかな言い方をすれば
<命を持たぬがらくた>であるにもかかわらず、

死者としての存在を拡大解釈しつつ
生者との境界を突き崩し、

本来生と同等の意味を持つはずの肉体から
魂の自由という権利をみずから剥奪して
あとはもう遺棄するしかない
無用なはずの身体を取り戻していたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻478頁)

呼吸音のみならず生きている人間そのものの臭いまで放ち

(丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻478頁)

あの世とこの世のどこの存在でもなく
恐れ入るほかない精緻な色合いの幻影の

(丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻483頁)

そうやって差し出される罪に関した言葉に大きな食い違いはなくても
実像としての本人のそれとは微妙な差異が感じられ、

たとえば、

前後の文言からして
地位や名誉という無化の宝以下の
死んだ価値を引きずっていることは確かで、

こちらの版元が出している丸山作品はどれも非常に幻想味があって好きなのだが、もう版元には在庫がないとのこと。
日本の古本屋にもあまりない。
だが図書館には比較的多く置かれているようだ。
幻想文学好きの方、丸山文学ファンの方が、図書館でこちらの版元の丸山作品に出会いますように。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月22日(日)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー丸山作品にトリスタン・ツァラ的精神を感じるー

丸山作品は後期になるにつれてストーリー性がどんどん薄くなって、言葉と記憶の断章の世界になってゆく……というようなことがよく言われている。
私もそう思う。
だがストーリー性が薄くなることを、難しくなるように捉えている人が多いが、果たしてそうなのだろうか?
学生時代、ダダやシュールレアリスムのフランス詩界隈が専門だった私にすれば、赤の他人がこしらえたストーリーにのって追体験することの方がはるかに難しく感じられる。
さらに他人が創ったストーリーを隅々まで記憶している人に出会うとびっくりする。
私は言葉は記憶しても、ストーリーはすぐに忘れてしまうところがある。

さて後期の丸山先生の作品を読んでいると、ダダの詩人トリスタン・ツァラの「帽子の中の言葉」を思い出す。
新聞の単語をチョキチョキ鋏で切って、帽子の中に入れて、取り出した単語を並べて、そのまま詩にする……というダダの詩の試みだ。
「帽子の中の言葉」というのは一種のポーズのような部分があるかもしれないが、アトランダムに並べられた言葉には機能性や意味性の手垢にまみれていない美しさを感じた。

後期の丸山作品にも、まったく思いがけない言葉と言葉を組み合わせることで、ある種の美しさが生まれ、新しい小宇宙が続々と誕生するような気がする。


トリスタン・ツァラで文学に触れた私にすれば、人生のカウントダウンをそろそろしようかな……というときに日本のトリスタン・ツァラと言いたくなる丸山文学に出会ったのは必然かも……と言うか、また出発点に戻ったという気がする。


思いもよらない言葉と言葉、概念と概念が出会って生まれる比喩の世界。面白いと思った箇所を抜き出してみた。

どこが面白いと思ったか分かって頂けるだろうか?

夕影がゆらめく生者と死者の夢幻的な境界という
神仏ですらうかつに接近できぬ帯域に身を置くことになり、


すると、

数千年ものあいだ収蔵されていた古文書を
なんの注釈を付けずにいきなり見せられたときに似た戸惑いを感じてしまい、

見境もなく我を忘れる混乱の終盤のあたりで
全的な人格崩壊に突き落とされ、

意味と尊厳を具えていたはずの人生が
たちまちにして没落してしまったのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻467頁)

妙音を奏でながら田園地帯を通過する村時雨のさなか
無紋の布地のごとき心になったかと思うと

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻473頁)

あたかも、

単調な歌を詠唱しながら
畜舎から逃げだした仔牛を連れ帰る農夫が味わうような、

心の堡塁のなかに
好ましい追憶と夢だけを集めることに成功したような、

さもなければ、

よもやま話を満載した夜船とすれ違うときにも似た
そんな豊かな印象をおぼえたような、

希望の光が射し始めたとしか聞こえぬ
年季の入った鳥笛の音を耳にしたような、

昔語りに時を忘れる懐かしき人々のかたわらを
そっと通り過ぎて行くような、

底なしに深い安堵感と
けっして限界づけられぬ崇高な陶酔感に
いっぱいに満たされた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻473頁)

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