2018.05 隙間読書 田中貢太郎「山の怪」

作者:田中貢太郎

文豪山怪奇譚収録

冒頭の「紫色に光る山蚯蚓」はどんな生き物だか知らないが、なんとも気味悪く、じっとりとした山の湿度が伝わってくる。山蚯蚓が蛙にのみこまれ、その蛙も…

蛇は蛙の傍へ往くとと鎌首をあげて、赤い針のような舌をちらちらと二度出した後に蛙の隻足(かたあし)をくわえた。蛙は驚いて逃げようとしたがどうしても逃げることができないで、その体は次第に蛇の口の中へ消えて往った。

不気味さが反復されるような描写は山蚯蚓、蛙、蛇のあとも繰り返され、今度は不気味な老僧が現れる。

老僧は斬りつけられるたびに分身となり増えていく。今度は人か…と怖くなると同時に、最後はどうなるのだろうと怖いやら、期待するやら。最後のうなされていた悪夢から覚醒するような終わり方も余韻に浸れてよかった。

読了日:2018年5月6日

 

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2018.05 隙間読書 火野葦平「千軒岳にて」

作者:火野葦平

文豪山怪奇譚(山と渓谷社)収録

のんびりまどろんでいた河童たちを千軒岳の噴火が襲う。最初は逃げ惑っていた河童たちも慣れると、宙を飛んで噴火口を覗きこみ…と、どこかユーモラス。そして河童たちが「蜻蛉の群れ」のように飛びまわる様は幻のよう。この幻は、最後のこの文によってより鮮やかに心に残る。

夜になれば、千軒岳の高原は無数の星によって満たされる。それはしかし星ではない。また蛍でもない。溶岩の中に身体は溶けてしまったけれども、いかなる高熱をもってしても溶けることのない河童の目玉のみが、鏤(ちりば)められた宝石のごとく、今もなお夜ともなれば溶岩の中に青白い光を放つのである。

河童の飛翔…という着想そのものがユーモラスであり、幻想的。その着想を短い作品の中に見事に描ききった筆力に圧倒された。

読了日:2018年5月6日

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2018.05 隙間読書 コルタサル「占拠された屋敷」木村榮一訳

作者 フリオ・コルタサル

訳者:木村榮一

世界幻想文学大全怪奇小説精華に収録

イレーネとぼくが二人で暮らしている古くて、広々とした屋敷。その屋敷が正体不明のものに次第に占拠されていき、やがて二人は追い出されてしまう。

翻訳小説で建物をどう訳すか…ということは難しいものだと思う。造りが違うし、専門用語をならべても分からないし…。

「占拠された屋敷」でも、屋敷の様子は細かく記され、この描写を思い浮かべることができれば楽しめるのに…と残念。これだけ広々とした屋敷のなかに不可思議なものが棲みはじめ、やがて二人を追い出してしまう。この広さ、屋敷内を思い浮かべることができたら、作品からうける怖さも違うのだろうか?

「家の間取りは今でもよく覚えている。ロドリゲース・ペーニャ街に面した屋敷の奥には食堂、ゴブラン織りの壁掛がかかっている客間、書斎、それに寝室が三部屋あった。樫材の頑丈なドアがそこと建物の前翼を分かっていたが、前翼にはバスルーム、台所、ぼくたちの寝室、それに中央のリビングがあり、そのリビングはぼくたちの寝室と廊下に通じていた。マジョリカ焼きのタイルを貼った玄関を通って中に入ると、内扉があり、その向こうがリビングになっていた。つまり玄関から入って内扉を開くと、リビングに出るというわけだ。そしてその両側にぼくたちの寝室があり、正面には建物の奥に通じている廊下が見える。その廊下をまっすぐ進んで、樫材のドアを通り抜けると、そこから後翼がはじまっている」

静かに暮らしていたイレーネとぼくがついに着の身着のまま通りに追い出される。誰も占拠された屋敷の中に入らないように鍵をかけて、その鍵は溝に捨てて…。

静かな二人を追い出すとはなんと狂暴な存在かとも思いつつ、この静かな二人の狂気が生み出した存在なのかもという気もしてきて、そう解釈するとまた別の怖さが生じてきた。

読了日:2018年5月3日

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2018.05 隙間読書 ジャン・レイ「闇の路地」森茂太郎訳

作者:ジャン・レイ

訳者:森茂太郎

世界幻想文学大全 怪奇小説精華収録

ロッテルダムの港で反故の積み荷から偶然にも拾い上げられたフランスの古雑誌。その間にはドイツ語、フランス語で綴られた二冊のノートがはさまっていた。ノートの書き手は互いに面識がないらしい。そのノートには、異次元がしのびよる者の存在が、異次元の空間が存在することが記されていた。

ドイツ語の手記には、三人姉妹と女中二人で暮らしている家から次々と突然人が消え、町の他の家からも人が消えていく様子が書かれている。同時に何かが家の中に存在し、その何かに姉妹のなかのメータは激しい憎悪をつのらせる。


見えない何かはなんだか可愛らしく、姉妹であるはずのメータの憎悪のほうが怖ろしい…ことに気がつき怖くなる。

「あれはだんだん無鉄砲になってきました。なんとかして、わたしに会いたがるのです。だしぬけに、わたしはあれの気配を感じます。うまく言えませんが、なんだか深々とした愛情に包まれたような気持ちになるのです。わたしは、メータが来るかもしれないということをわからせようと努めます。すると、風がふとやむように、あれの気配が消え失せるのです。」


メータは「わたし」が何かをかくまっていたことを罵る。

「牛乳を運ぶところを見たんだから、いまいましい悪魔の娘。おまえはあいつを蘇らせてしまった。そうよ、ヒューネバインさんが命を落とした晩、わたしから受けた傷のために、あいつはもう少しで死にかけていたのに。わかった? 不死身じゃないのよ、おまえさんの幽霊は! 今度こそ息の根をとめてやる。おまえたち亡霊を待ち受ける運命がどんなに怖ろしいものか、たんと思い知るがいいわ。つぎはお前の晩よ、あばずれ!覚悟はいいね?」


優しい存在だけど目に見えないなにかが侵入してくるし、身近な姉妹はかくも猛り狂うし、どこに行けばいいのやら…と不安な気持ちにさせながら、ドイツ語のノートは途中で切られている。


フランス語のノートには、異次元の空間が実際の空間と重なりあっている事実が示唆されている。読んでいるうちに私たちのまわりの現実がとても脆いもので、いつのまにか異次元にいるのではないか…そんな怖さにおそわれてくる。

金に困った「ぼく」はべレゴネガセの路地に足を踏み入れ、三つの扉のひとつを押し開け皿を盗んで骨董商に売る。

今度は三つの家に入ってみる。どの家もそっくり同じである。そこから皿を持ち出して売るが、翌日訪れるとまた皿は戻っている。

さらに今度は路地をまがると、また同じ家が三軒。さらに路地をすすむとまた同じ家が現れる。「ぼく」は現実の世界へ戻ろうと駆けだすが、べレゴネガセのざわめきは現実世界モレンシュトラーセのすぐそばまで追いかけてくる。

やがてモレンシュトラーセでは住民が姿を消していき、むごたらしい殺人事件が相次ぐ。そうした不可解な事件が起きているのは、あの不思議なべレゴガネセの路地のあたりだということに「ぼく」は気がつく。

最後、「ぼく」はべレゴガネセの路地に火をはなつ。火をはなつ前にのぞいた家にはやはり皿が戻っていた。そこにはなぜか女文字で書かれた手紙が。「ぼく」はその手紙だけをもらっていく。そしてノートは「吸血鬼(サラトーガ)がぼくを」という言葉で終わる。


この二冊のノートを読んだあと、「わたし」は古物商の孫を訪ねる。孫はノートには大火の前から起きていたとされる残虐行為が、大火の最中に引き起こされたものであることを伝える。

「言い伝えでは、この事件のあいだ、時間が圧縮されているんです。ちょうどべレゴガネセの運命的な路地では、空間が圧縮されていたようにね。たとえばハンブルク市の古文書を見ると、そこにはたしかに数々の残虐行為が記されています。ただこの残虐行為は、謎の犯罪組織によって、大火の最中に犯されたことになっているのです。未曾有の犯罪、略奪、暴動、血迷った群衆、どれも正真正銘の事実であることはたしかです。が、こうした事件はいずうれも災厄の前ー何日も前から生じていたのです。お判りでしょうな、時間と空間の収縮という、さきほど引いた言葉の意味は?」


異次元空間に迷い込んでいるというSFのような短編。だが街をさすらうときの抒情性、異次元のなかで現実に戻してくれるミルクやワインという食べ物の描写は、少しSFとは違うものなのかも…。いずれにしても確かだと思い込んでいる空間が、かくも脆いものとは…と怖くなった。

読了日:2018年5月3日

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2018.05 隙間読書 オラシオ・キローガ「羽根まくら」甕田己夫訳

作者:オラシオ・キローガ

訳者:甕田己夫

世界幻想文学大全 怪奇小説精華収録

守ってくれるはずのもの、身近にあるものが、実はそうではなかった…という現実に、根底から崩れるような不安定さを感じて怖くなる作品。


冒頭の段落も思わず「なぜ」と引き込まれて読んでしまう。ただ、よく考えてみると夫の性格に矛盾があるような…。これで「心底から妻を愛していたのである」ということになるのかと疑問だけれど。

「ハネムーンは長い慄きだった。金髪で純真、そして内気な、新婦の夢見がちな子どもらしさを、夫の厳格な人柄は凍りつかせてしまった。彼女は夫をとても愛していたが、時おり、夜二人して帰宅するときなど、もう一時間も黙り込んでいるホルダンの長躯を、かすかに震えながらそっと見上げることがあった。夫の方はと言うと、態度で表すことはなかったが、心底から妻を愛していたのである。」


新居も心休まる場所ではない。妻の心につのる不安に、読んでいる方も怖くなる。

「二人が住む家も、彼女のおびえに少なからず影響した。静かな中庭で絵様帯や円柱や大理石像が見せる白っぽいたたずまいは、魔法にかけられた宮殿の秋のような印象を与えている。屋内では、わずかな掻き傷もない高い壁に化粧漆喰が氷のように輝いて、そうした不快な涼しさをより強く感じさせた」

ただ「不快な涼しさ」という訳し方には、涼しいのが大好きな私としては少し疑問が残るのだが。


最後に妻アリシアは亡くなってしまう。その羽まくらは異様に重く、中をあけてみると…。これから先の描写は具体的すぎるあまり怖い。

夫も、家も、枕も信じることはできない…というメッセージに怖くなる作品。

読了日:2018年5月3日

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2018.05 隙間読書 エーヴェルス「蜘蛛」前川道介訳

作者:ハンス・ハインツ・エーヴェルス

訳者:前川道介

世界幻想文学大全 怪奇小説精華

不気味な場面のあとに可愛らしい場面がでてきても、「もしかしたら…」という思いに恐怖感がつのるだけ。可愛らしい恋人たちのやりとりに、まだ起きていない未来の事件を感じさせてしまう「蜘蛛」は怖い。

首吊り自殺のつづくパリのホテルに自ら志願して宿泊した医学生は、蜘蛛の雄が雌に食べられる場面を目撃する。「若々しい血をガブガブ吸った」という語りかけるような前川訳のおかげで本当に怖い。

「窓の桟に降りると、雄は渾身の力をふりしぼって逃れようとした。が、遅すぎた。雌は早くも雄をグイッと捕まえ、またもとの巣の真ん中へと引き上げていった。つい今しがた愛欲に身を焦がしたベッドが、今や一変した。先ほどの情夫は身をもがき、弱い脚をくりかえし拡げて、この荒々しい抱擁から逃れようとしたがだめだった。恋人はもう雄を自由にしてくれなかった。ニ三分後には糸を吹きかけて、がんじがらめにしてしまった。それから雌は鋭い口を胴に食い込ませ、若々しい血を思い切りガブガブ吸った」


主人公は向かいの建物の娘と部屋の中から、やりとりをかわすようになる。可憐なやりとりだけれど、首吊り自殺の部屋、雌蜘蛛に食べられる雄蜘蛛のイメージがかぶさってきて怖い。

「ぼくたちは奇妙なゲームを始めた。クラリモンドとぼくの二人でだ。そのゲームを日がな一日やるようになっている。こっちが挨拶を送ると、すぐに向こうも挨拶を返す。それから手で窓ガラスをぼくがコツコツと叩くと、見るか見ないかのうちにもう同じようにコツコツと叩き始める」


医学生の首吊り死体が発見される最後の場面は、蜘蛛に対する生理的嫌悪、しかも蜘蛛を噛みつぶすという嫌悪感で怖くなる。書かれてはいない噛みつぶすまでの過程を思い、怖くなる。

そして「ずたずたに」とか「へばりついていた」とか嫌悪感を強めるような前川訳も、ほんとうに怖い。

「そしてその歯の間には、ずたずたに噛みつぶされて、奇妙な藤色の斑点を持った大きな黒い蜘蛛が一匹、へばりついていた。」

読了日:2018年5月3日

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2018.05 隙間読書 キプリング「獣の印」橋本槇矩訳

作者:キプリング

訳者:橋本槇矩

世界幻想文学大全 怪奇小説精華収録

インドに暮らす英国人のひとりフリートは、地元の寺院で猿の神様ハヌマンの赤い石像に煙草の吸いかけをおしつけ、「獣の印」(正統でない異教の印)をつけたと言う。するとハンセン病の男が体をおしつけてきて、やがてフリートは獣と化していく。

ハンセン病という設定はいただけないが、見知らぬ男にフリートが抱きつかれる場面の描写も、獣と化していく場面の描写も怖い。

「そのとき、急に銀色の男はわれわれの腕をかいくぐって、オットセイの鳴き声にそっくりの声をあげながら、フリートの身体に抱きつくと、我々が引き離す間もなく彼の胸に頭をつけた。それから男は隅の方へ引きさがり、オットセイのような声を出し続けて座っていたが、その間にも増える群衆は戸口という戸口をふさぐように立ちはだかっていた」

銀色の男にしても、オットセイの泣き声そっくりの声にしても、立ちはだかる群衆にしても怖い。だが、この恐怖はキプリングはインドの人に対して抱いていた差別意識からくるものなのかもしれない…と思うと、翻訳してみようかなと思っていたこともあるキプリングだが、その気持ちも消えてしまったかな。

読了日:2018年5月2日

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2018.05 隙間読書 モーパッサン「オルラ」青柳瑞穂訳

「オルラ」

作者:モーパッサン

訳者:青柳瑞穂

世界幻想文学大全 怪奇小説精華収録

狂気にとりつかれる過程を克明に記す書き方は、モーパッサンならでは。冷静に、克明に狂気を語るその口調が怖い。

最初、幸せな光景であったセーヌ河を通る白い帆船が、のちに狂気の由来に暗転するという設定も、幸せが一瞬でぐらりと崩れそうで怖い。

「ああ!ああ!今こそ思い出す。去る五月八日、三本マストの美しいブラジル船が、セーヌ河を遡る途中、おれの窓の下を通ったことを思い出す!その時おれは、あの船をすこぶる美しいと、純白だと、軽快だと思ったものだ。あいつはその船に乗って、あいつの種族が発生したあの地方から来る途中だったんだ!そして、あいつはおれを見たんだ!おれの家もやっぱり純白なのを見て、急に船から岸へ飛びおりたんだ。おお!神様!」

昔、日本には、疫病は列車で運ばれる…という考えがあって、今でも駅と県庁が離れている都市があるのは、その名残とも聞くが。外国からの船が入ってくるヨーロッパでは、河が得体の知れない病を運んでくる…という恐怖もあったのだろうか…。

読了日:2018年5月1日

 

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2018.04 隙間読書 高木彬光「白昼の死角」

初出:1959年5月~1960年4月 週刊スリラー

これだけ長い小説の内容でありながら、タイトル「白昼の死角」は、法の盲点をついて各種詐欺をおこなう主人公、鶴岡七郎の物語をずばり凝縮している。まずタイトルからして印象の残る作品である。

帝国ホテルに宿泊できる日本人はごく限られた層…など、戦後間もない社会を描いた風俗小説としても楽しめる。

法の盲点、心の盲点をついて詐欺を行う鶴岡の頭脳にも脱帽。ただ、手形とか使ったことのない私にはあまりよく分からない部分があったけれど。


ただ男も、女も詐欺を働いては、その金で肉欲やら華奢に走る…という人物像がワンパターンで、登場人物像はあまり楽しめないかな…。

女性がダイヤの光に眼をくらまされることは、「金色夜叉」以来、不変の真理だと、そのとき七郎はふわりと思った。

トリックに重点をおくからなのかもしれないけれど、どうも人物の捉え方がワンパターンなような…。


鶴岡七郎が詐欺を働く動機もいろいろ書いてあるけれど、動機となる登場人物の描かれ方が弱いせいだろうか、どうも素直に納得できない気もする。


「憎い…。個人的には、なんの恨みもないとはいえるが、とにかく今度の戦争をまきおこし、日本を四等国に追いこみ、僕たちの友だちを無数に戦死させたのは、彼ら―いわゆる明治人たちの責任だよ」

「だから、今度は僕がそういう青年層の代表として、明治生まれの人間の代表としての彼と正面から一戦をまじえようというのだよ。頭と頭、腹と腹で対決して、いわゆる戦前派の連中に、あっと言わせてやりたいのだ」

たしかに憎いだろうが、そういう思いが明治生まれの人間に詐欺を働こうとする動機になるのだろうか?


もはや彼には、黄金は必需品ではなくなっていた。それなのに、彼は犯罪、詐欺のための詐欺を求めだしたのである…。

途中、作者は上記のように説明しているが、鶴岡という登場人物がそういう心境になるのだろうか…とも疑問。


法は力、正義の仮面はつけていても、決して正義ではないのです。私のこの十年の生涯は、力に対する力の闘争でした。

最後に鶴岡はこのように振り返るのだが、詐欺のテクニックはすばらしいと思うけれど、それを「力に対する力の闘争」と説明されても納得できないかも…と思いつつ頁を閉じる。

読了日:2018年4月30日

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2018.04 隙間読書 ペドロ・アントニオ・デ・アラルコン/堀内研二訳「背の高い女」

世界幻想文学大全 怪奇小説精華 収録 (筑摩書房)

「著名な森林技師」(どんなお仕事なのだろう?)ガブリエルの、土木学校時代の同期テレスフォロは不幸な出来事が起きる直前、かならず不気味な容貌の背の高い老婆に出会う。そしてテレスフォロ自身も老婆に会ってから亡くなってしまう。

テレスフォロの葬儀に参列したガブリエルは背の高い老婆見かけてしまう…災いの予兆である老婆の不気味さ、テレスフォロの不幸をガブリエルが引き継いでしまう不安感。読んだあとで、何とも嫌な気分になる作品である。

老婆である背の高い女がテレスフォロを追いかける場面を読んで、グラディス・ミッチェル「月が昇るとき」に出てくる老婆ミセス・コッカートンが主人公の少年たちを追いかける場面を思い出してしまった。


「でも、俺はあんたにとって何だというんだね? あんたは俺にとって何だというんだ?」

「仇敵だよ!」とぼくの顔に唾をひっかけながら老婆は答えた。それから、ぼくの手から身を振りほどき、膝の上までスカートをたくしあげ、猛スピードで走り出した。彼女の足が地面に触れても、なんら物音は聞こえなかった…「背の高い女」堀内研二訳


しかし、ぼくたちはかなり追い上げられていた。二人の少年がペチコートをバタバタ蹴りながら走る老婆を引き離すなんてわけもないことだ、と人は考えるかもしれない。しかし、この場合は違った。ミセス・コッカートンの走りはスパルタ人さながらで、力強いものがあった。そしてぼくたちがスロープを駆け上があって大通りに出ようとする時、あわや、追いつかれそうにさえなったのだ。

―グラディス・ミッチェル「月が昇るとき」好野理恵訳(晶文社)より


背の高い老婆に追いかけられる怖さ…というのはヨーロッパ圏の怪談の一つのパターンなのだろうか?「背の高い女」の老婆も、「月が昇るとき」ミセス・コッカートンも、どちらも怖い。

ただ「月が昇るとき」のミセス・コッカートンの方が「ペチコートをバタバタ蹴りながら」とか「スパルタ人さながら」とか、怖いなかにも滑稽さがあって、これがイギリスのユーモアなのかとも思った。

「背の高い女」はひたすら怖く、「月が昇るとき」は怖くもあり面白くもある…と、怖さにもいろいろ書き方があることをあらためて知る。

読了日 2018年4月25日

 

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