さりはま書房徒然日誌2024年12月11日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月十八日「私は絶叫だ」を読む

十一月十八日は「私は絶叫だ」と「絶叫」が語る。誰からも気がつかれない絶叫であり、「一瞬息を止めても すぐに私を錯覚と見なし」てしまう絶叫である。

そういう不可思議な絶叫も、以下引用文も、どこか現実の一本向こうにある不思議な世界の趣きがある。丸山文学の魅力に、こうした幻想めいたところがあると思うのだが、初期作品にはあまりこうした感覚はなく、徹底的に現実を見据えている気がする。

作品にどんどん幻想めいた要素が入り込み変化していったせいで、初期の読者はついていけなかったかもしれない。また幻想文学ファンは、初期作品のイメージが強くて、あまり手に取ろうとしないのかもしれない。残念なことだと思う。

それでも私は
   捨て身で敵陣を突破する兵士のように突っ走り
      四囲の暗黒の山に撥ね返され
         無人のボートが密かに死者の魂を運ぶ山上湖をさまようのだ。


丸山健二『千日の瑠璃 終結5』57ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年12月10日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月六日「私はマツタケだ」を読む

十一月六日は「私はマツタケだ」と「マツタケ」が語る。
ちっぽけなマツタケがとらえる世一の姿の不可思議な複雑さに、人間の神秘を感じ、色々あれどそう捨てたものではない……という気持ちになってくる。
それにしても七割、二割、一割……という表現とか、どうしたら思いつくのだろうか。

というか
   私のほうがその少年を発見したと言うべきであり、

ヒスイなんぞよりはるかに珍しく
   もしかすると希元素よりずっと貴重な存在かもしれぬ
      七割の青
         二割の白
            そして一割の影をもって
               不自由な身を固めている病児との出会いは
                  奇跡と呼べる遭遇だった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』46ページ)

事の本質を喝破しそうな眼差しを注いできて

(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』47ページ)

本心の在り処がまったくわからぬその少年は
   沈黙と凝視によって
      なんとも奇妙な威圧感をつづけ、

(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』48ページ)

存在の価値というものがいかに曖昧であるかという意味の
   いかにも残忍な嘲笑を浴びせかけるのだった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』49ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年12月9日(月)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』より「時は常に朧なり」を読む

大町で暮らす丸山先生が庭の花々の開花に陶然とする言葉の勢いに圧倒されつつ、大町の冬の厳しい寒さを思う。
寒い分だけ春の訪れを堪能できる丸山先生の心と、私が身を置いている冬もぬくぬく暮らせる便利さとではどちらがいいのだろうかとも思う。
花々の開花をこんな風に感じることはできない己に、冬の間おそらく雪で真っ白な世界に暮らす丸山先生が羨ましくなる。

でもやはり雪も寒さも嫌なのだが。

それらの開花が複雑に絡み合って織り成す空間のど真ん中に八十年間生きた身をそっと置き、色とりどり、形状さまざまな花が奏でる、不協和音を多用した現代音楽的な交響曲に陶然となる数日間、

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』30ページ

精神の蟄居が突然解除されたかのような、あるいは魂の餓死から免れたかのような、そんなひと時に浸ることができれば、

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』30ページ


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さりはま書房徒然日誌2024年12月8日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月十三日「私は自転だ」を読む

十一月十三日は「私は自転だ」と少年世一を軸にした自転が語る。
「夜と思えば夜」「昼と決めれば昼」「早くもなり遅くもなり」と自転をつかさどる世一。
思うようにならないことが多い世だけれど、言葉を使い考えるときだけは、私たちも世一のように自転をつかさどって、時まで支配することができるのかもしれない。
それこそが言葉を使う意味であり、文学の役割であるのかもしれない。

少年世一を軸に
   人知れず
      人物のたぐいにも知られずに
         密かに回っている
            まほろ町の自転だ。

私には周期というものはなく
   世一が夜と思えば夜
      世一が昼と決めればそこには昼が存在し、

彼の望み次第
   好み次第によって
      私は速くも遅くもなり
         ときには完全に停止することさえあり、


しかしながらその認識は
   生死のいずれも関知しない彼には
      見事なまでに欠落している。

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』34ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年12月7日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月十二日「私は観菊会だ」を読む

まほろ町の観菊会に来ても、菊はそっちのけで飲み食いに夢中になる年寄りの見苦しい一行。その有り様を擬音語を使って強調、菊人形にまで反映している文が面白いなあと読む。

がつがつ食べ
   がぶがぶ飲み
      ずるずるすすりこむ音が
         私の雰囲気をいっぺんでぶち壊し、


一番繊細な種類などは
   花弁を散らせてしまうありさまで、

菊人形の大半がその上品な顔を曇らせた。


丸山健二『千日の瑠璃 終結5』32ページ

 私は、観菊会の菊はあまりに作り込まれた感じがして好きではない。でも苦心して作られた不自然な菊も、それをいっぺんでぶち壊す老人も、どっちも自然な美しさとはかけ離れている点ではどっちもどっちだろうか

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さりはま書房徒然日誌2024年12月5日(木)

製本基礎講座 「帙」(ちつ)をつくる

まるみず組の基礎製本講座で「帙」を二回かけて作る。今日はその一回め。
「帙」は和綴本をくるりと包んで保護する巻物。私が作った帙は天地がない。面だけ保護する。あとは並べて積んでおくらしい。

世界大百科辞典で「帙」を調べていると、「黄巻青秩」という表現が出てきた。以下説明より

布には濃紺,書物そのものには黄ばんだ紙が用いられることが多かったので,書庫に積み上げられた蔵書の山を〈黄巻青帙〉と形容することがある。帙でおおわれると,本が横になってその上下の黄色い面が露出するためである。

今の生活では馴染みがなく、私は製本講座で「帙」という言葉を知った。だが日本には八世紀頃から存在していたらしい。また中国から伝わってきたものらしいので、中国ではもっと昔から使われていたのだろう。

昔から存在するものだろうと製本の大事なポイントは同じ。「角は直角になるようにすっきり」が出来てなくて、天地がダブダブした状態に。最後、先生が丁寧にもう一度そのダブダブ部分をやり直してくださった。
製本のときは直角マインド、忘れないようにしたい。

(まだ途中までながら私の作っている帙。次回、爪や紐、内側に布や紙を貼る予定)

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さりはま書房徒然日誌2024年12月4日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月八日「私は水晶だ」を読む

十一月八日は「私は水晶だ」と、世一の亡くなった祖父と世一しか存在を知らない、岩の奥にひっそりと存在する水晶が語る。
『千日の瑠璃』は「私は◯◯だ」と物に語らせる掌編を千以上書いてから、床に散らしたその文を拾いあげ、だんだんと一つのストーリーにしていった……というような成立過程を、丸山先生のオンラインサロンで伺った記憶がある。

以下引用文。
このあたりで欲望について記した文をまとめたのだろうか……という気もする。


一つ前の十一月七日では、世一の家族に大金を掲示して、丘の上の家と湖を結ぶケーブルカーの話をする女二人が出てくる。

十一月八日は、ひっそりと存在することに飽きてしまった水晶が、欲望の視線を求め、こう語ってみせる。

以下引用文で人間の欲望について語る水晶。その姿の不思議な佇まいに読んでいる方も思わず手に取って眺めてみたくなって、自然に欲望にかられてしまう。

私が見たいのは
   欲望を剥き出しにした
      ぎらぎらと燃えるような眼であり、

徒労とわかっていながら
   なお執拗に迫ってくる
      擦過傷だらけの腕であって
         それ以外ではなかった。

その辺にいくらでも転がっている石ではなく
   豆粒大のちっぽけな水晶でもない
      稀有な私は
         その中心部に青い鳥の羽毛を閉じこめている
            まさに奇跡の宝石なのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』17ページ)

 

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さりはま書房徒然日誌2024年12月3日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月六日「私は神輿だ」を読む

十一月六日は「私は神輿だ」と、「神輿」がまほろ町の住人たちを語る。

以下引用文。神輿が少年世一に呟かせる「高がこれしきの世を生きるのに 何を斟酌する必要があろうかという」という言葉、そういう思いはあっても、やはり祭りの勢いの中でないと呟けない、強気な言葉なのかも知れない。いや普段から、こうした思いを抱いて生きたいもの、と思った。

最後に私は
   酒なんぞ飲まなくても四六時中千鳥足で歩くことが可能な少年に
      高がこれしきの世を生きるのに
         何を斟酌する必要があろうかという
            そんな意味の言葉を呟かせ、

とはいえ
   それが本当に彼の口から出たのかどうかは疑わしく、

ひょっとすると
   彼自身の魂から迸り出た
      天の声なのかもしれない。


      
丸山健二『千日の瑠璃 終結5』9ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年12月2日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十一月四日「私は徘徊だ」を読む

十一月四日は「私は徘徊だ」と「子どものいない夫婦によって ペットとして飼われているホルスタイン種の牛が ふと思いついて深夜に試みた」徘徊が語る。
丸山先生をどこか思わせる夫妻である。牛は飼ったことはないと思うが、大型犬を飼われていたとき、こんな脱走劇があったのでは……と想像してしまう。
以下引用文。そんな脱走を試みるペットの心情に、自分の理想とする生き方とのギャップを重ねた文が心に残る。
そういう満ち足りた環境から脱出したい……と思う心から、まず言葉が、文学の芽が生まれてくるものなのかもしれない。

何不自由ない暮らしと
   惜しげもなく注がれる慈愛に
      押し潰されるのではないかと危惧した牛は
         降り注ぐ青々とした月光に刺激されて悶々とし

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』398ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月30日(土)

見台の敵を知る

根津美術館で開催された浄瑠璃「傾城阿波鳴門 順礼歌の段」を聞きに行く。太夫は呂勢太夫さん、三味線は藤蔵さんである。

この企画は、阿波徳島藩主・蜂須賀家に伝来した重要文化財「百草蒔絵薬箪笥」の展示に合わせたもの。ぜひ徳島ゆかりの浄瑠璃を美術館で!と文楽好きの学芸員さんが願い、実現したとか。ありがたい限りである。


浄瑠璃の前に呂勢太夫さんのお話が20分ほどある。呂勢太夫さんは、若太夫襲名のときの口上も鮮やかであったが、本当にこういうトークも軽妙洒脱、ユーモアと博学の混ざった語りが楽しい。


色々印象に残る話をしてくださったが、そのなかでも特に記憶に残ったことをひとつ。

それは漆で塗られた見台は乾燥に弱い、ということ。劇場は乾燥しているので、見台が一日でひび割れたりすることもあるとか。そんなに乾燥しているとは!意外であった。

見台がそれほど傷むなら、人形のお肌や髪もダメージを受けるのでは?などと思ったりもした。新しくなる筈の国立劇場が、太夫さんが見台へのダメージを心配することなく置いておけるような劇場になれば、とも思ったりした一日であった。

↑呂勢太夫さんの今日の見台。見台の漆細工は客席からよく見えるようにデザインされたものが多く、根津美術館に展示されているような近くで眺める漆細工とは趣が違うそうだ。

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