さりはま書房徒然日誌2024年5月25日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月四日を読む

ー缶バッジが語れば、偉そうな物言いも何故か気にならないー

二月四日は「私はバッジだ」と、まほろ町に駆け落ちしてきた娘のセーターを飾る「青い鳥をかたどった 派手なバッジ」が語る。

以下引用文。バッジが実は自分が娘の行動を決めている……と語る。バッジにズバッとありえないことを宣言させるおかげで、普通に書いていたらモタモタしてしまいそうな余分な贅肉が削ぎ落とされスッキリしている気がする。
バッジという実に庶民的なものが、娘の行動を決める神のごとき存在……という設定も丸山先生らしいと思う。

彼女は私を気に入っているばかりか
   信頼しきっており、

   駆け落ちを決意させたのも
      実はこの私というわけで、

      まほろ町に住むことも
         スーパーマーケットで働くことも
            全部決めてやった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」106ページ) 

以下引用文。スーパーの先輩(世一の母親)と娘をバッジが観察する。もし、ここで作者が語っているなら「なんて失礼な」と思うかもしれないが、バッジが語っていると思うと不思議と気にならない。

どんなに厚化粧をしたところで
   生活の疲れを隠せないその先輩は
      素顔でも溌剌としている後輩をつかまえ
         冷ややかな物言いで
            「それ、なんて鳥なの?」と訊き、

             鳥の名を度忘れした娘は
                とにかく幸福を招く鳥だと答えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」107ページ)      

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さりはま書房徒然日誌2024年5月24日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月三日を読む

ー田舎暮らしの残酷さを思い出したー

二月三日は「私は散弾だ」と密猟者たちが禁猟区で放った散弾が語る。散弾が仕留めたのは白鳥。密猟者たちはなんと白鳥を解体して、少ない肉と肝臓を手に入れると、塩焼きにしたり、鍋料理にしたり、串焼きにしたりする。
以下引用文。「ぶっ殺してやる!」という部分も効いているし、「肉にめりこみ 血管を破り 内臓を裂き 骨を砕き」と畳みかけるような短い文も、インパクトのある動詞も、散弾の威力を効果的にあらわしている。

私は散弾だ、

   ひとえに炸薬の力を頼みとして
      「ぶっ殺してやる!」などとわめきながら風のなかに飛び出す
          やや大粒の散弾だ。


狙いは違わず
   ぶすぶすと獲物に命中した私は
      一瞬にして羽毛をぱっと散らせ
         肉にめりこみ
            血管を破り
               内臓を裂き
                  骨を砕き
                     指頭大の魂をも粉砕する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」102ページ) 

密猟で手にした白鳥を食べてしまう……といういささかショッキングなこの場面は、田舎の生活の残酷さも描いているのかもしれない。
みずから動物を仕留め、解体して、食べてしまう……という行為は、私も田舎暮らしでよく見かけた。そして「私には無理だ」と田舎暮らしを断念させた大きな要素でもある。
だって本当に伊東で窓の向こうを見たら、隣家の物干しに猪から剥ぎ取った毛皮がかけてあったり……
田舎に引っ込んだ元同僚は、町内会のメンバーと共に害獣駆除のため猪を仕留め、解体して、肉は冷凍して、耳は切り取って市役所に持参して報奨金をもらう……という仕事を、地域の一員として当然のようにこなしていた。
そんな姿に「私には田舎暮らしは絶対に無理だ」と思った。命をいただく行為、それを残酷と取るか、幸せととるかは人様々とは思う。また、すべての田舎がそうだとは限らないだろう。
でもとにかく私には田舎暮らしは絶対無理である……と思ったことを思い出した。

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さりはま書房徒然日誌2024年5月23日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月二日を読む

ー小さな大豆にも思いは尽きることなくー

二月二日は「私は大豆だ」で始まる。物騒な輩に知らずして土地を売ったため、町中から非難されるまほろ町の八百屋の主が、いわくつきの連中が住むビルに向かって豆をまく。ところがその連中が来て、豆を買いに来ると……。
先ほどまでの勢いはどこにやら?途端にびくびくし始める八百屋の主人の小物感。
そんな恐れられる連中でも豆をまく……という意外さに人間らしさを感じる。

極道者ですら鬼を忌み嫌い
   福に巡り合いたがっていることに八百屋の主人が気づいたとき、

   ビルの窓から撒かれた私を
      いかんともしがたい不幸を背負って歩く青尽くめの少年が
         ひと粒ずつ丹念に拾って食べている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」101ページ

小さな大豆でもよく観察すれば、忌み嫌われる者たちを、忌み嫌う者を、世一の心を表している……。
そんなことを思ううちに、亡くなった女流義太夫の三味線弾きさんが、亡くなる一ヶ月前にたしか可愛い赤鬼の仮面と大豆の写真をアップされ「鬼は外」と呟かれていた記憶がよみがえった。とても辛い、死を覚悟されながらの「鬼は外」、どんな思いであったのだろうか。
その三味線弾きさんとは幻想文学の講演会でたまたま席が隣だったり、愚息を連れて義太夫の公演に行った時も偶然席が隣になって愚息に「眠くなったら寝ちゃっていいのよ」と優しく声をかけてくださったこともあった。
そんなことを思い出すうちに、その三味線弾きさんの舞台での凛々とした音色も聴こえてくるような気がしてきた。
小さな大豆でもそこから紡がれる記憶は無限、それを発掘して残してゆくのも、人間の大事なミッションなのかもしれない。

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さりはま書房徒然日誌2024年5月22日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月一日を読む

ー「退学」が語る学校ー

二月一日は「私は退学だ」と、普通の高校生が当人の事情でした「退学」が、学校をやめて解放感に溢れている高校生の喜びを語ることで学校という存在の矛盾を問いかける。

以下引用文。「退学」が見つめる学校の在り方は、丸山先生の心にある思いなのだろう。まさにその通りの場である。
でも最近では「優秀な労働者」どころか、物言わぬ労働者、物言わぬ市民を大量生産するための場になり下がっているいる気もする。
「おのれの意志と決断」「飛び出した」という言葉に、「退学」した若者の心がよく表されている気がする。

従順で在りながら
   適度に優秀な労働者となる若者を選りすぐるための
      窮屈で堅苦しい
         疑問だらけの場、

         彼はどこまでもおのれの意志と決断でもって
            そこから飛び出したのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」95ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月21日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月三十一日を読む

ー遺影もじっと見ているのかもしれないー

一月三十一日は「私は遺影だ」で始まる。「胸が潰れるほどの悲しみを撥ね返してくれそうな 金ぴかの仏壇の前に」飾られた、松林で首をつって死んだ娘の遺影が語る。
「遺影」を語り手にしてみたら、家族のそれぞれの勝手な思いやら、線香をあげにきた友人の虫のいい願いやらを、感情を交えることなく、じっくりと人ごとのような視点で物語れるものと思った。
そういえば「遺影」を前にしたときは、自分の心を隠すことなく、正直になっている気がする。
以下引用文。線香をあげにきた世一の姉が、自分の恋はあなたと違って上手くいきそうだ、と勝手な思いを語る場面である。
「凝然として動かぬ私」という言葉にたしかに「遺影」はそうだなあと思い、「くどくどと」「見つめ直し」「一方的な頼み」という言葉から世一の姉が浮かんでくる。

つまり赤の他人同然の異性について
   くどくどと語り、
   
   あげくに
      凝然として動かぬ私をまじまじと見つめ直し、

      どうにかこの恋の行方を見守っていてほしいと
         好ましい出発を願ってほしいと
            そんな一方的な頼みをする。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」93ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月20日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十九日、三十日を読む

ー想像するのが楽しくなる色の語り方ー

一月二十九日は「私は雪道だ」で始まり、三十日は「私は口紅だ」で始まる。二日通づけて対照的な色が出てくるので印象に残る。
ただし「雪道」の方では様々なものを「白い」と表現しているのに対して、「口紅」の方では具体的な色の描写は出てこない。色の表現方法が違うにもかかわらず、どちらも色が浮かんでくる不思議さを感じた。

以下引用文。「私は雪道だ」の二十九日より。「時間」や「父と子の心」のように抽象的なものを白いと表現しているので、どんな時間か、どんな心か想像する楽しさがある。

その重さに耐えられずに折れてしまった無数の枝が
   私の上にも無惨に散らばっていて、

   しかし
      一様なためにさほど見苦しくはなく
         どうにか清らかな白を保っており、

         辺りに漂う大気も白く
            穏やかに流れる時間も白く、

         はたまた
            私に沿って歩きつづける父と子の心も白い、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」82ページ)

以下引用文は三十日「私は口紅だ」より。はっきりと色の名前は書かれていないが、「シクラメンの花の色にもよく似合い」「浮いた立場にもぴったりと合っている」「不確定な要素を孕んだ」と表現される口紅の色を想像する楽しさがある。

シクラメンの花の色にもよく似合い
   彼女の浮いた立場にもぴったりと合っている
      かなり不確定な要素を孕んだ口紅だ。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」86ページ)

白、口紅の色と出てきたあと、最後は世一の着ている服の色で終わる。「娼婦に成るべくして生まれついた」女を引き寄せるオオルリの色のセーター。最後に世一の、オオルリの力を感じる。
どの色にしても想像するのが楽しくなる書き方だと思った。

娼婦に成るべくして生まれついたような女の目は
   不治の病に侵された少年が纏っている衣服の青の素晴らしさに見惚れていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」89ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月19日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十八日を読む

ー反復されることで本心からの叫びに思えてくるー

一月二十八日は「私はビデオテープだ」とレンタルビデオ屋から大学教授夫妻のもとへと貸し出されたビデオテープが語る。観た後、大学教授夫妻は内容について散々けなす。
以下引用文。けなした後で大学教授の妻が野鳥への愛を語る場面。
「名画であろうと名作であろうと」が繰り返され、「たとえば」が反復されることによって、野鳥への賛歌が大学教授の妻の心の底からの思いにも聴こえてくる。

妻の言葉に思わず納得したところで聞こえてくるのは、世一のオオルリを真似たさえずり。絶妙なタイミングに、この少年は人間なのだろうか、それとも……と世一が人間を超えた存在に思えてくる。

窓の向こうに広がる
   一面雪に覆われた雑木林に目を移し、

   いかなる名画であろうと名作であろうと
      結局のところ
         野鳥一羽分の感動すら与えることができず、

         傑作中の傑作というのは
            たとえばオオルリであり
               たとえばクロツグミであり
                  たとえばミソサザイであり
                     それを超えるものはないと

                        言い切った。

ちょうどそこへ
   オオルリのさえずりを上手に真似る少年が通りがかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」81ページ)  

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さりはま書房徒然日誌2024年5月18日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十七日を読む

ー「風死す」を思わせる書き方ではー

一月二十七日は「私は境界だ」で始まる。目には見えない「境界」によって、あらゆるものを区切る……そうすることで浮かんでくる様々な存在が、わずか四ページの中におよそ41にわたって書かれている。
語を、短い文を連ねることで境界で区切られる姿をあらわそうとする書き方は、最後の長編小説「風死す」にもつながるのでは……と興味深く読んだ。
そして41は素数である。もしかしたら素数を森羅万象を律するリズムにして、まほろ町の様々な境界を描こうとされたのだろうか。

私は境界だ、

   言ってしまえば有象無象の集まりから成るまほろ町を
      入り組んだ線でもって複雑に区切っている
         けっして目には見えない境界だ。


分けつづけ

   分けずにはいられない私は

   生者と死者を
      死者と統治者を、

   肥立ちのいい赤ん坊を背負っていそいそと立ち働く若妻と

      嬌態のすっかり板に付いてしまった淫をひさぐ女を、

      堅忍不抜の精神で日夜勉学に勤しむ若者と
         家名を著しく落として悪友の下宿に転がりこんだ放蕩児を


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」74ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月17日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十六日を読む

ーありえないモノの視点で語るからこそー

一月二十六日は「私は忠告だ」で始まる。昼休みを利用して空の別荘で逢引きをしている町役場の職員たち。そんな二人に気がついた上司(世一の父親)が男を呼び出して与える「忠告」が語る。スキャンダルが大好きな田舎の住民の好奇心に晒されてもいいのか、自分も面白がっているのだから……などと忠告する。
「忠告」が情景を描写する……という有り得なさがなければ、こうした場面は安っぽい陳腐な場面になりがちではないだろうか……と以下引用文を写しながら思った。
もし作者が語るような形で「そんなことで色を着けるしかない人生」とか「男の干物になり下がっている」とか「面白くもなんともない仕事」と書いてしまえば、そこには反感が芽生えるかもしれない。だが「忠告」が語るという形だからこど、何となくアイロニーもユーモアも感じられるのではないだろうか。

目を伏せて頷く部下の肩にそっと手を置いて
   気持ちはわかると呟き
      そんなことで色を着けるしかない人生だものと言い、

      定年まで勤め上げて
         退職金や年金をもらう頃には
            いっさいの色恋沙汰と縁がない
               男の干物に成り下がっていると
                  きっぱり結論付けた。

そして
   いい歳をしたふたりは
      午後の面白くもなんともない仕事へと戻っていった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」73ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月16日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十五日を読む

ー散文ならではの魅力、詩歌と変わらなぬ魅力ー

一月二十五日は「私は氷原だ」と、「俘虜としてシベリアの厳冬を体験した男が 全面結氷したうたかた湖から激しく追走する めくるめく氷原」が語る。
以下引用文は、そんな元俘虜の男の目がとらえた現代社会だ。
この文を写しているうちに、散文の良さを教えてくれる文のような気がしてきた。


「跡目を継ぐことになった」という微妙な表現に、こうした制度への疑念やらが感じられてくる。
「隙あらば」「少しでもいい思いをしよう」という言葉から、現代社会を抜け目なく渡ってゆく黒い輩の姿が浮かんでくる。
「無知」「動物的な習性」という言い方に悲しき私たちの在り方を思う。

不可思議な制度を、ずる賢い連中たちを、哀れなる私たち自身を、まさに無駄のない的確な言葉の三連発でずばりと語った後にくるのは、「〈蟻の思想〉の扶植」である。
「〈蟻の思想〉の扶植」というよくは分からないながら、イメージをモコモコ自由に喚起させる不思議な語句が待ち受けている。無駄のない表現の後だから、この不可思議な言葉の結びつきが心に迫って、「自由にイメージせよ」と呼びかけてくる。
こうした構成に散文ならではの魅力を思う
またストーリーから離れて、読み手に発想を自由に委ねてくれる……そんな詩歌と変わらない魅力が本来なら散文、小説にはあるのだなあと思う。

跡目を継ぐことになった次の天皇を
   隙あらば象徴以上の地位に返り咲かせて
      少しでもいい思いをしようと企む輩は、
         国民の無知と強い者には訳もなく従うという動物的な習性に付け入って
            またしても〈蟻の思想〉の扶植に熱を入れ始めていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」67ページ)

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