さりはま書房徒然日誌2025年2月26日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月十日「私は吹雪だ」を読む

少し前に戻って一月十日「私は吹雪だ」の箇所について。
どこか丸山先生を思わせる作家が登場。

でも現実の丸山先生は朝すごい早い時間に起きて(私が寝るくらいの時間らしい)、毎日早朝に執筆されているらしい。「好きでもないのに なぜか執筆行為を止めるに止められない」訳ではない。


「捨て鉢な目」をされている訳でもなく、温かく見守ってくださるような優しい目をされている。いや呆れるのを我慢されているのかもしれない。


「私と対峙する」という思いは、確かにあるのだろう。

先日もオンラインサロンで「雪かき体質になってきた」と言われたくらいだ。雪国・信濃大町の冬は厳しい。

「迷夢を醒ましてくれそうな世一とオオルリ」世一に象徴される弱くも打算とは遠い存在。オオルリに象徴される自然。この二つが、丸山先生の書くエネルギーなのではないだろうか。


黒いむく犬は、昔飼っていたと書かれていた黒いチャウチャウ犬のことだろうか。「捨て鉢な目」が黒いむく犬のおかげで遠くに消えていく気がする。

特に好きでもないのに
   なぜか執筆行為を止めるに止められない
      どこか捨て鉢な目つきの小説家は、

自宅の方向へ歩を進めてから間もなくして立ち止まるや
   私と対峙するかのような
      挑発的な態度に切り換え、

付近一帯に
   迷夢を醒ましてくれそうな世一とオオルリの
      濃厚な気配を察知し、

思いこみがちなすべてを忘れ
   濁世の現実を受け容れ
      黒いむく犬を連れて帰った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』267ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年2月22日(土)

佐藤洋一『図説 占領下の東京』

占領下の東京に関する資料はとても少ない。『図説 占領下の東京』の筆者・佐藤洋一氏も本書の中で嘆いている。

その資料の少なさは、意図的なもの……と、以下の黒澤明の師匠・山本喜次郎の言葉で知る。


日本人(に限らないかもしれないが)は自分たちに都合の悪い歴史を忘れてきた。また同時に、アメリカからも同じように記憶しないように仕向けられてきた……のだと本書であらためて知る。


霞ヶ関のリンカーン・センター、永田町のジェファーソン・ハイツ、代々木のワシントン・ハウスをはじめ、都内に無数にあった接収地、そのなかの豊かなアメリカの生活、その外には戦災孤児やら食うのも厳しい日本人。
そんな消されかけている歴史が資料や写真と共につまった労作である。

「ところが、どっこい、焼跡を撮影することは、絶対まかりならぬと来た。占領政策の妨害になるというのである。自分で焼いておきながら、随分、勝手な理屈だと思ったが、しようがない。

「また、ルンペンだとか浮浪児だとか、壕舎生活とかヤミマーケットなぞの、ひどいのは、撮影することが出来ない。要するに『日本が負けたこと』『日本をアメリカが占領していること』の事実を画面に現すことを禁じられたのである。」

(「図説 占領下の東京」110ページ 黒澤明の師匠・山本喜次郎の文)

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さりはま書房徒然日誌2025年2月20日(木)

手製本基礎講座 アルバム製本ドイツ装 其の2

中板橋の手製本工房まるみず組、製本基礎講座第19回に行ってきた。
今回はアルバム製本ドイツ装の前回の続き。


前回、全紙サイズ1091✖️788の大きな紙から切り出すところからスタート。講義でやらないと、自分で大きな紙を切り出すのは億劫で中々やろうとは思わない。

でも自分で切らないと、思うような本の形にはならない。店で断裁を頼んだら、時間も断裁料もかかるし。

全紙から切るのは時間もかかるし場所も必要だからだろうか、体験させてくれる手製本講座は珍しい気がする。
だから、全紙からスタートさせてくれるまるみず組の講座はありがたいなあと思う。切るのは緊張するけど。

さて前回の続き、この状態からスタート。糸がバラバラだけど、私は手製本をやり始めて、実に久しぶりに針と糸をもったので……。

背に寒冷紗を張り、今回はクータなしで背固めするやり方にチャレンジ。

ドイツ装なので背表紙と平の部分の色を切り替える。

春よ早く来い……と平は小花の柄の製本クロス。背表紙は平の色に合わせて青系の製本クロス。

色々失敗したけど、先生のおかげでなんとか完成。それにしても思いがけない失敗をするものだ。その都度、さっと対応してくれる先生には感謝するばかり。

今日のミス其の1
背表紙のボール紙。なんと5ミリ多く測って切り出していた。先生が目視で「変!」と気がついてくださったから、余分な5ミリを切ってセーフ。

今日のミス其の2
背のクロス「表」にボンドを塗るところを「裏」に塗ろうとしていた。これも先生が気がついて、事なきを得た。

ちゃんと先生はテキストに「表に塗る」と書いてくださっているのに。

私以外にも受講生はいるし、それぞれ違う課題に取り組んでいる。
外国からの受講生で、英語で対応しないといけない方々もいる。
そんな中、私のように思いもしないミスをする受講生がいると、先生は優しく対応してくれるけどビックリされてるだろうなあと反省。

ミスのない人になりたいものだ。

↓大きな紙が無事なんとかドイツ装のアルバムに

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さりはま書房徒然日誌2025年2月19日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月十五日「私は式典だ」を読む

「もしかすると一生成人できないかもしれない二十歳」の成人式が参加者に向ける視線は冷ややかで皮肉たっぷりである。
今読んでみると、こうした様子は若者だから、ということではないだろう。

『千日の瑠璃』が刊行された1992年の人々の雰囲気をつかんでる気がする。学生運動も失敗に終わり、経済だけが回転している時代。そんな時代に生きる人々の顔が見えてくる。
2025年の今を生きる若者たちはこの時代と違い、あまりにも酷い世の中に向かって懸命に声をあげようとしている……のではないだろうか。

かれらは議論を好まず、
   持論を持たず、
      ときには酒の力を借りて手前勝手な意見を吐露しても
         自己愛に支えられた欲ボケのせいで
            論旨が今ひとつ定まらず、

結局はだんまりの世界に閉じ籠もって
   明日なき今を
      ただ漫然と生きつつ
         世間に調子を合わせているばかりだ。


 (丸山健二『千日の瑠璃 終結5』289ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年2月18日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月九日「私はリスだ」を読む

一月九日「私はリスだ」とリスが語る箇所を読むと、やはり大町の自然の中にいる丸山先生らしい描写だと思う。
「冬はむしろ最も優雅な季節」という発想は、自然とは遠い場所から冬の大町の動物を想像している私には無理である。

春までの食料をたっぷり貯めこんでる私にとって
   冬はむしろ最も優雅な季節であり

(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』262ページ)

日が落ちて間もなく
   雪がもたらす静寂よりも静かに襲ってきた梟に
      私は後ろ肢を上手に使った猛烈な反撃を加えて
         ものの見事に撃退し、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』265ページ)

ずいぶんと丁寧なリスの描写に思わず微笑んでしまう。やはり、これも大町に暮らす丸山先生ならでは、だろう。
私がよく行く伊東の街中でもリスを見かけるが、隙あらばパン屋の中に駆け込んでウロチョロするリスの姿は、どちらかというとドブネズミに近い。丸山先生のような視点でリスを眺めていなかったので、新鮮な驚きがあった。

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さりはま書房徒然日誌2025年2月16日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月七日「私は国家だ」を読む

『千日の瑠璃』が最初に刊行されたのは1992年。この欲張りぶりに、まだ当時の日本はよくも悪くも勢いがあったのだなあと思う。

私は国家だ、

今はやまむなく猫をかぶって神妙にし
   平和憲法と民主政治の常道を守ってはいても
      あわよくば皇国にして帝国という立場へ返り咲く機会を
         虎視眈々と狙っている
            性懲りもない国家だ


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』254ページ)

以下引用文。今わたしが生きる日本の社会のようでもある。ただ日本という国も、大国の「ひと睨み」にびくびくしているような気もする。現状は、国家を超える国家に呑み込まれかけているのかもしれない。

不穏な言辞を弄する輩の数は
   時代の潮流に呑みこまれて減りつづけ、

論敵として不足のない者も
   今ではあまり見かけなくなり、

ということは
   いよいよ愚民を束ねて扇動する機械の復活を意味し、

合いの手を入れるようにして
   見識張った意見を吐く者も
      私のひと睨みによって
         たちまち見解の相違という穴蔵へ
            さっさと避難してしまう。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』254ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年2月15日(土)

中原中也とその友・高森文夫のことを福島先生の講座で知る

NHK青山での福島泰樹先生の中原中也講座で、中也の友人である詩人・高森文夫のことを知る。講義の中から幾つか心に残ったことを……。

高森文夫は明治四十三年生まれ、宮崎に生まれ育ち、東大仏文科で学んだ詩人だそうである。実際に高森英夫に会って話を聞いた福島先生の話から、中也、高森英夫の青春の日々がよみがえる。
ずいぶん山深いイメージがある地だが、そんなところに青春時代の中也が友人と足をのばしていたとは!

中原中也が白い麻服を着こんで、日豊線富岡駅に降りて来たのは、たしか昭和九年(七年の間違いだそう)のことだった。それから一週間、僕の家に滞在した。まるで他の遊星から堕ちてきたようなこの男との一週間は随分と骨が折れた。朝から酒を飲み、夜は夜で山村の旅籠の二階や、居酒屋の店先で地酒やビールを飲んでは、休息もなく話しかけた。文学と詩と人生について。
(高森文夫「過ぎし夏の日の事ども」朝日新聞昭和30年5月17日、福島泰樹 中原中也の東京15番外・宮崎県東臼杵郡東郷村山陰に引用)

だが常に喋り、常に付きまとう中原中也に高森はやがて疲れ、こう叫ぶこともあった。
中也という存在のエネルギーの強さ、その疎ましさを思う。

朝から晩まで中原面突き合わせていることはとてもかなわない。僕はくたくたに疲れてしまう。腹が立ってくる。この男から一刻も早く逃げ出したくなる。だましてでも別れたくなる。
「畜生!まるでドン・キホーテとサンチョじゃないか。もう御免だ!」

だが高森文夫が中原中也との日々を大切に胸にしまっていたことが、その文からも、福島先生に語る思い出からも伝わってくる。
二人は出来上がっていた詩を見せていたのでは……中也は高森の詩に手厳しい批評をしていたのでは……との福島先生の言葉に、高森文夫の詩を読んでみたくなった。


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さりはま書房徒然日誌2025年2月13日(木)

製本基礎コースでアルバム製本ドイツ装第一回目

中板橋の手製本工房まるみず組での製本基礎コース、全三回にわたるアルバム製本ドイツ装の今日は一回目。

半紙サイズの紙から指定された大きさに切り出すには、どう配置すればいいか……という最初の製本計算ドリルの段階でモタモタする。

先生が実物を見せて説明してくれたのに、なぜか頭の中は紙を半分に折る普通の本のイメージで計算してしまい、モタモタ。

(ざっくり切り出した直後。化粧裁前)

ペーパーナイフでざっくり切り出して化粧裁。ざっくり切り出すのも、切ってしまってミスに気がついたら……と思うと恐る恐るになってしまう。


黒い綿テープを縦軸にして糸でかがっていく。
かがるための穴をつくるためにカッターで切り込み、針で穴を大きくしたら一箇所ビリビリ破れてしまった。


途中なんか変だなあと思いつつ糸でかがっていたら、やはり先生からも「変なところまでほどいてやり直すように」とのこと。またモタモタ。
糸でかがるだけで精一杯で「アルバムだからサイドがアコーディオンになるように重ねながらかがって」との言葉もすぐに飛んでしまう。


こんな風にモタモタしても、まるみず先生は優しく丁寧に教えてくださる。有難い。

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さりはま書房徒然日誌2025年2月12日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月六日「私は露だ」を読む

一月六日は「白一色の屋外を占める寒気と 電灯色に染まった屋内の暖気が鬩ぎ合うことで 窓ガラスに結ばれる」露が語る。
窓一枚を隔てた寒暖の差の激しい世界の感じ方は、やはり雪国に暮らす丸山先生らしい気がする。

以下引用文。湖畔の別荘に追いやられた狂女の目に映る窓の外。
窓の露に何かを映して見る……という場面はあるような気もする。
だがそこに自分の名前の字を書いて、その合間から窓の外を見る……という丁寧な設定が、狂女の名前の「光」を思わせる風景、光とは対照的な陰惨な風景、両方が存在する世界を印象づける。

そんな彼女は今
   人差し指の腹で私をそっと撫で
      音でも訓でも読める唯一の漢字
         当人の名前にも使われている〈光〉という文字を書き、

ぐにゃぐにゃに歪んだその文字のなかを
   雅な舞を演じつづける白鳥たちと、

凍死の危険を孕んだ
   明日なき立場の物乞いと、

三千世界における存在の基準と
   生命力はともかく
      生気の奔出がただ事ではない、


青いコートと白いマフラーという
   そんな装いの少年が
      密やかによぎって行く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』253ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年2月9日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月三日「私は破門だ」を読む

湖に飛び込むという無茶な修行をして、病院に搬送された若い僧は「破門」を言い渡される。
丸山先生は「宗教を信じない」といい、寺に関しては辛口の表現をされることが多い。
以下の文も丸山先生が寺に期待するもの、それとはかけ離れた現実が記されているのだろうか……と思いつつ読んだ。

人の魂を救う寺の遣り口としては
   あまりに心ない仕打ちであるという
      違和感と屈辱感を振り払い


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』240ページ)

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