さりはま書房徒然日誌2025年3月13日(木)

製本基礎コース22回「やわらかい表紙 フレンチリンク 花布をとじる」1/3回目

中板橋の手製本工房まるみず組製本基礎コース22回め。「やわらかい表紙 フレンチリンク 花布をとじる」1/3回目。

まず538✖️810の大きな色つきの更紙四枚をペーパーナイフで荒裁ちして、全部で四十枚の紙片に。この本文となる更紙は、表紙に合わせてやわらかい紙とのこと。

紙を半分にするのは分かる。でも半分にした紙を五分割するには?と考え込んでいると、さっそく先生が教えてくれる。

一番下の写真、マスキングテープをカッティングボードに貼って目安にして化粧裁ちをする……というやり方も教えてくれる。自分では思いつかないものだ。


大きな紙から切り出して自分で化粧裁ちさせてくれる……のは、まるみず組の良いところだと思う。自分では、全紙から切り出そうとは思わない。でも、何度かまるみずでやっているうちに、自分でも切り出すことができるかも……という気がしてきた。

自分で切り出せると、本の大きさも自由にアレンジできるし、裁断料もかからないから安くなるし……。本を作りたい人は、全紙の裁断ができるといいかもと思う。



さて荒裁ち後さらに天地と左右を指定の大きさ160✖️130に化粧裁ちしていく。
余裕をもって切り出した筈なのに、ギリギリの紙もあったりして焦る。

横にいた外国の方はすでにこの製本過程を経験済み。
「やわらかい本文の紙とやわらかい表紙のこの製本が、私大好きなの」と英語で語られていたような……。
「たしかに柔らかい本ってpretty!」ということで意見が一致したような……おぼつかない英語ではあるが。
普通は、ハードカバーの方が立派という感じ方が一般的だと思うが、この方のような見方もあるのだなあとハッとした。


書店では、やわらかくて品があって可愛らしい装丁の本はあまり見かけない気がする。製本のしにくさとか、流通経路で本が傷む……とかのせいなんだろうか?
この切り出した本文の山がプリティな本になりますように。

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さりはま書房徒然日誌2025年3月12日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月二十八日「私は対岸だ」を読む

うたかた湖を前にする者が意識しないではいられない「遠くて近い 近くて遠い おぼろなる」対岸。その対岸が語る様々な人の姿。
それは丸山先生が近くの湖で観察してきた人々なのだろうか……。湖畔に佇む人の姿を観察して物語を紡ぐ丸山先生の視線を感じつつ、その目がとらえる人々に私も想いを巡らしてしまう文である。
人は対岸を見つめるとき、「遠くて近い 近くて遠い」対岸に思わず無防備になってしまうのかもしれない。

道理に適う生き方を崩さずとも
   歳を取って気弱になった者が
      私に向かってなんとも切ないため息を漏らし、

淪落の晩年を送らざるを得なくなった者が
   眠たそうな目で私をいつまでも眺めやり、

やること為すこと上手く運んで
   病気ひとつしたことがない果報者や、


ゆくゆくは美名を追求して
   虚名に酔いたがる
      徳操に欠けた学者になるであろう
         尊大な若造が
            大物気取りの呵々大笑を
               私に叩きつけてくる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』338ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月10日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月二十七日「私は座だ」を読む

一月二十七日は「私は座だ」と隠遁生活に入ったはずの大学教授が人々にかつがれてついた「会長の座」が語る。

丸山作品では具体的な物で置き換えられる箇所も、「座」のように抽象的な言葉にした文を時々見かける気がする。
良い悪いとかではなく、ここに散文と詩文の違いがあったりしないだろうか……と何となく最近思ったりもする。

私は学生時代、フランスのダダ以降の現代詩のゼミにいた(本当にまったく稼げないゼミである)。
さらに卒論のテーマに選んだのが、何を考えていたのやらフランシス・ポンジュという詩人である。
フランシス・ポンジュの代表詩集の題は「物の味方」である。石ころや牡蠣といった「もの」を、ひたすら感情を排して語り続ける。『そんな面白くなさそうな詩人をなぜ卒論に選んだのか?』自分でも分からない。

卒論を書きながら???の状態であったフランシス・ポンジュの石や牡蠣を語る言葉が、最近ふと映像と共に浮かんでくる。
感情を交えることなく言葉で物に迫ろうとしたポンジュの心が、ようやく少しわかってきた気もする。

散文の場合、これから展開するストーリーも大事だから、ポンジュみたいに「物の味方」的な見方はしないのだろう。そもそもポンジュのように石ころや牡蠣を淡々と言葉にしていたら、誰も読んでくれないではないか……

でも、なぜかそんなポンジュ作品を再度読んでみたい気がする昨今である。

そんなことを「私は座だ」の一文に思った。

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さりはま書房徒然日誌2025年3月7日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月二十六日「私は寒波だ」を読む

一月二十六日は「私は寒波だ」で始まる。破門されてしまい厳寒のまほろ町を行き場もなく彷徨う修行僧を苦しめる寒波が語る。

以下引用文。まほろ町の厳しい寒さが、雪洞やらボート小屋やら縁の下の描写を通して体に感じる寒さで書かれている。

厳寒を経験したことのない者には、無理な描写ではないだろうか。寒い地の人であっても、寒い中ウロウロ観察して歩かない限り見えてこない景色ではないだろうか。

寒さを知っていて、その寒さにも負けないで観察眼を発揮して歩きまわる丸山先生だからの文だと思う。

森のなかに雪洞を掘って滑りこんでみたが
   山男から聞かされていたほど暖かくはなく、

貸しボートが仕舞ってある小屋で三晩ほど過ごしたものの
   ひっきりなしの隙間風や
      うたかた湖の水があげる悲鳴が気になって
         一睡もできないありさまで、

あまびこ神社の社殿の縁の下に移っても
   やはり結果は同じで
      私から逃げ果たせることは無理だった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』331ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2025年3月6日(木)

手製本基礎講座
やわらかい表紙の本 ひと折り中綴じ

中板橋の手製本工房まるみず組の製本基礎講座。今日は第21回 やわらかい表紙の本 ひと折り中綴じである。


ひと折り中綴じは、第3回の講座で学んだ。その後も繰り返し、ひと折り中綴じで製本した記憶がある。でも、すっぽり抜けていたり、忘れたりするところがあるのが悲しい。

今日も紙を一枚ずつ折っていたら、先生から「ひと折り中綴じのときは、一枚ずつ折るんじゃなくて合わせていっぺんに折って」と注意される。
第3回のテキストを見たら、確かに先生は大きく太字で「全てを合わせていっぺんに二つ折り」と書いてくださっている。
なぜ私は忘れているのだろうか……


同じ作業を品を変え、形を少し変えて反復復習させてくれるまるみずの講座は、製本という非日常的な作業を定着させるのにとても良いと思う。

今回は栞紐をつけた。
先生に栞紐について訊けば、織り方が特殊で横に伸びるような織り方でページに紐の痕がつかないように織られているとのこと。
「ページに紐の跡がついたら嫌じゃないですか」という先生の言葉に、本つくり、ものつくりを大切にする人の心を見る思いがした。



でも私の紐つき本の中には、やけに紐の痕がくっきりついているものもある。もしかしたら、その本は紐に適した紐を使っていないのだろうか……と思ったりもした。

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さりはま書房徒然日誌2025年3月5日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月二十五日「私は灯台だ」を読む

一月二十五日は「私は灯台だ」と、海辺の漁村から行商に来た娘が世一に説明する灯台が語る。

丸山作品には、灯台がよく出てくる。いつかオンラインサロンで、丸山先生自身も灯台に憧れがあるようなことも、灯台さながらご自宅の部屋から庭の暗がりを懐中電灯で照らしてみたりするようなことを語られていた記憶がある。

灯台の魅力は、以下引用文にあるように遠ざかる娘の胸のうちまでそっと照らす……そんな控えめな光も、魅力の一つなのかもしれない。
海を眺めながら遠くに光を投げかける……そんな灯台に憧れる丸山先生の心が少し分かる気がする。

丘の家に戻った世一は
   二階の窓から懐中電灯を突き出して
      ゆっくりと回転させ、

頼りなくもまほろ町の隅々まで届くその光に便乗して
   私は丘を離れ、

バスに揺られて海辺のわが家へと帰って行く娘の
   清らかな胸のうちをそっと照らし、

持ち前の明るさで苦境を乗り切ってきた彼女は
   首をねじ曲げて
      いつまでもその小さな光の点を見つめている。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』328ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月4日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月二十三日「私はトラックだ」を読む

一月二十三日は敵対勢力をやっつけようと、積荷の灯油入りドラム缶に火が放たれたまま深夜の町を走るトラックが語る。(それにしても何とも物騒な設定だ!)

「肢体が不自由な分だけ心が解き放たれている」という言葉は、小学校時代、当時の言葉で言う特殊学級に入れられ、結果、特殊学級の弱い子達と暮らし守ってきた丸山先生らしい言葉だと思う。

私たちが不自由だと思い込んでいる存在こそ、世間の競争や価値観から解き放たれて自由な存在なのだろうと思う。


「物の怪のごとき移動」という表現からも、世一の不思議な歩き方、表情が見えてくる気がする。

肢体が不自由な分だけ心が解き放たれている
   なんとも奇妙な動きの少年が
      私の前にひょっこり現れ、

何事かと思って
   こっちをじっと見つめ、

まるで物の怪のごとき移動によって
   みるみる迫ってくる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』315ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月2日(日)

初めての豆本制作

西荻窪のアトリエ・ハコで古本と手製本のヨンネ先生が開講された単発の豆本制作ワークショップに参加してきた。

左右25ミリ 天地30ミリの小さな豆本。
でも折丁を糸でかがり、革装で仕上げた豆本には、何とも言えない温もりがある。
ただ小さいだけに、ちょっとしたズレで本文がガタガタデコボコになってしまった。でも取りあえず何とか本に見えるものになった。


今回、初めて皮を扱ってメスで削ぎながら製本をした。
ヨンネ先生の「皮によって切れやすさが違う。その個体の健康状態とかが反映されているんだと思う」というお話に、あらためて皮という素材のデリケートさを思う。

金色の文字らしきものは、手製本工房のまるみず組がコテの会社に頼んで製本用に作ってもらったマルミズペンで書く。初めてなので加減が分からずヨレっとしてしまったが。
マルミズペンで箔をなぞって文字や絵を書けば、熱で溶けた箔が下の皮に形となって残る。皮だけでなく紙や布にも使えるらしい。これは便利。

この小さな豆本に好きな短歌をプリントして、いつでも持ち歩けたら素敵だなあと思う。これからも豆本制作にトライしてみよう。
ただ豆本におさまる本文づくりはどうしたものやら……考えてしまうが。

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さりはま書房徒然日誌2025年3月1日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月二十一日「私は太陽だ」を読む

一月二十一日は真冬の太陽と世一が飼うオオルリの対話。
小さな体で太陽に思いっきり反論するオオルリは、どこか丸山先生を思わせる。この生意気というか不思議な存在、オオルリに丸山先生は自身の理想像を投影しているのではないだろうか?

「質量に支配された地獄」と言われると、はて、どんな地獄だろう?と足踏みして考えてしまう。どうしたら「地獄」に「質量に支配された」という言葉が浮かんでくるのだろうか?不思議である。

向こうっ気の強いその相手は
   ならば
      この世に生まれてこなければよかったと思う
         全員の嘆きを綺麗に焼き尽くしてみるがいいと
            そんな反論を投げかけてくる。

あまりの剣幕と屁理屈に
   私が少しばかり怯んだところへ
      鳥の分を超えた稀有な鳥はずばり切りこみ、

存在の大小にかかわらず
   結局は質量に支配された地獄で足掻くしかない立場に
      なんら変わりはないのだから
         威張り散らすのは滑稽千万だと決めつけた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』313ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年2月27日(木)

完成!ドイツ装のアルバム

大きな全紙を切り出すところからスタートしたドイツ装のアルバムづくり。
今日はその最終回。アルバムを収めるスリップケース(函)をつく
る。


歳のせいだろうか。先生の説明を聞いて分かったつもりになっていても、手を動かし始めると、すぐに手順が頭から蒸発、「あれっ」とテキストを見返してしまう。


だが先生は優しく、箱の天の布の切り方貼り方の説明とデモンストレーションのあと、見れば手順がわかるように糊付けをしないで残しておいてくださった。

先生が見せてくれた天の面を眺めながら、真似をして自分で地の方も進めていく。


微妙にアルバムが函からはみ出そうな気配があったが、最後には丁度おさまってくれる。不思議!

今日は外国の方もイタリア、イスラエル、ジョージアの方々が受講。おまけにみんな違う作業をしている。


先生はそれぞれのお国訛りの英語に対応されたり、違う作業をしている中、私がコケそうなところは優しく配慮してくれたりで有難い限りである。

私なら違う英語、違う作業だとパニックになりそうだ。いや、違う作業でなくてもパニックなのだが。


受講生の立場だと、チラチラと違う作業が見えるのは自分の復習になったり、これからこんなことをするのだろうかと楽しみになったり、英語ではこんな風に言うのかと勉強になったりする。


今日も「お疲れ様でした」という日本語を聞いた外国の方が、早速「さようなら」と「お疲れ様」の違いを先生に質問されていた。

そんな説明が難しい質問にも、丁寧に英語で説明される先生は凄いなあと思う。


函入りの本を見かけなくなった昨今ではあるが、お気にりの作品にマイスリップケースをつくってみたくなった。

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