さりはま書房徒然日誌2024年12月23日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月二十六日「私は報復だ」を読む

十一月二十六日は「私は報復だ」で始まる。三人組の男達が大男を殺して森に埋める……そんな「報復」が語る。

以下引用文。
死体を埋めながら蹴りつける……場の近くを通り過ぎる世一の静けさはなぜなのだろうとも思う。
「死者の骨が折れる音」というおぞましさを打ち消す「青尽くめの少年」という言葉の清々しさ。

「徘徊の名人」というこの世のものではない感じ。
「危ない風土を照らす皓月の真下」という聖と俗をイメージさせる言葉。
そうしたものから世一の不思議な存在が喚起されるのかもしれない。

死者の骨が折れる音を聞いたのは
   当事者たちのほかには
      おそらく私などとは生涯に亘って無縁であろう
         青尽くめの少年で、

足音はほとんど立てず
   闇に紛れて徘徊する名人としての彼は
      暴力の世界を面白がって生きる
         非道な連中に気づかれることなく
            危ない風土を照らす皓月の真下を
               密やかによぎって行った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』89ページ)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年12月22日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月二十四日「私は荒れ地だ」を読む

十一月二十四日は「私は荒れ地だ」で始まる。
『雑草一本とてまともに育てられるかどうかもわからぬ」と自ら語る荒れ地が、それでも耕すことを諦めない老いた農夫や世一を見つめる。


以下引用文。
諦めずに時間をかけてせっせと面倒を見てくれる老農夫。一方、荒地は農夫の献身を疎ましく思い、「彼の死を心の底から願っている自分」に気がつく。こんな身勝手さも、荒れ地だからあまり嫌悪感なく読めてしまう。もし人間なら……そこでストップしてしまうかも。


「死ぬことを知らぬ」も、「生きることしか知らぬ」も、どちらも同じことなのかもしれないが、両者の足音は違った響きで聞こえてくる。
顔つきとか服装とかではなく、足音に、農夫や世一の存在が滲む不思議さを思う。

ほどなく
   死ぬことを知らぬかのような頑健な農夫の足音が遠のき、

代わりに
   ともあれ生きることしか知らぬ少年の
      か細いと言えばか細い
         溌剌としていると思えばそうも聞こえる
            摩訶不思議な足音がこっちへ迫ってくる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』81ページ)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書徒然日誌2024年12月21日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月二十三日「私は気体だ」を読む

十一月二十三日は「私は気体だ」と、湖で坐禅を組んでいる修行僧と湖の底に沈む観音像の「難解にして執拗なやり取りを運ぶ なんとも頼りない気体」が語る。

以下引用文。修行僧と観音像の間野やり取りを運ぶ気体という目に見える筈のないものが、一瞬心に浮かんでくる一文のような気がする。
心に浮かんでくる……というよりも、「破滅の色の鱗」とか書かれると思わずどんな色なんだろう……その小魚をかき分けるとはどんな気体なんだろう……と考えてみたくなる。
わかるように書かれるよりも、思わず立ちどまって考えたくなる不思議さの残る文の方が、イメージしたくなる気が。

そして
   破滅の色の鱗に覆われた小魚の群れをかき分けながら沈んでゆき、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』75ページ)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年12月19日(金)

製本基礎講座で「折本」と「大福帳」にトライする

まるみず組の製本講座で「折本」と「大福帳」をつくった。
まず講座前の製本ドリルという復習で、縦目の紙、横目の紙、それぞれから切り出すのに最適な形を考える……簡単な筈のドリルなのに、またここで一問つまずく。


そのドリルでの確認をもとに、大きな全紙サイズの和紙から紙をペーパーナイフで切り出してゆく。

さらにサイズを揃えるために一枚一枚化粧裁ちをして折って、蛇腹になるように糊をつけ……。
最後の確認、ドキドキ、蛇腹になるだろうか……?
粗忽者の私、やはり一箇所糊を忘れていた。
慌てて糊を塗って、とりあえず完成。

またザクザク和紙を全紙サイズから切って、ざっくり感を残したまま大福帳をつくる。
大福帳とは、江戸時代の商家の売掛帳のこと。
横向きに使うらしいけれど、私が達筆ならこのまま短歌を墨字で書くのに……と思い、金釘文字の己を残念に思う。

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年12月18日(水)

東秩父和紙の里で紙漉き体験

手製本工房まるみず組企画の東秩父和紙の里紙漉き体験ツアーに参加してきた。
埼玉の方から「埼玉でも和紙を作っているなんて知らなかった」と驚かれたが、なんでも東秩父村の細川和紙はユネスコ無形文化遺産に登録されているそうである。
到着後まず埼玉県伝統工芸士の女性が楮(こうぞ)畑に案内してくださる。

↓楮は生育が旺盛で、これからの時期に刈り取るそうである。
刈り取った楮の皮を剥き、内側の白い皮だけを使うらしい。

畑から工房へ。剥ぎ取った楮の皮は、工房外の水槽につけた後、工房内の釜でアルカリ薬品で四時間煮て、また外の水槽で洗うとのこと。

↓井戸水でチリ(筋や汚れ)取り。とても大変そうな作業である。手前はチリ(黒い点)があるダメなもの。

チリが混ざってしまうと和紙に黒い点ができて損紙(使えない紙)になってしまう。

↓チリの名残の黒点。これだけでもダメなのだそうである。

↓チリが混ざったため使い物にならず損紙になった紙の山

↓チリを取り除いて、薙刀ビーターで楮を切り裂いたり。ちなみにこうした道具は地元の鉄工所に作成してもらっているらしい。

↓棒で楮を叩かせてもらった。「シャンプーした後の犬の毛みたい」と言われている方がいたが、たしかにそんな感触である。

↓こうして手間暇かけて楮やトロロアオイを混ぜ、私たちが思い浮かべる紙漉きの場面に。

ただし、こうした紙漉きに使うスアミ(紙をすくう御簾みたいなもの)を支える職人や物が非常に少なくなってきている現状らしい。
スアミに使われるヒゴを作るヒゴ職人もほとんどいなくなり、ヒゴをつなぐ絹糸も手に入らなくなってきているとか。


↓スアミ

手漉き和紙体験施設に移動して、私もトライ。薄いところ厚いところとムラが出来て難しい。

↑東秩父和紙の里にある手漉き和紙農家を移築した建物。


和紙の優しい風合いの背後には、職人さんたちが手間隙かけての丁寧な作業があると知った。それにも関わらず、技術を支える様々な職人さんたちが消滅しかけていることも。

時間があればぜひ東秩父和紙の里を訪れ、そうした世界を見て頂けたらと思う。
蕎麦打ち体験もできるし、蕎麦屋のお蕎麦もとても美味しい。素敵な和紙製品も販売、農産物販売所(水曜日定休)もありますよ。


↓道の駅で食べた蕎麦。蕎麦粉の風味が豊かでとても美味しかった。


知らない世界を見せてくれたまるみず組、東秩父和紙の里に感謝しつつ帰途につく。

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年12月17日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月二十日「私は仮面だ」を読む

十一月二十日は「私は仮面だ」で始まる。夢想家の域に達しつつある青年は、湖畔でひとり醜悪をテーマに踊る。その踊りのために作った仮面が語る。
仮面は青年に「刹那の夢さえも与てやることができず」、ついには「おまえはおまえでしかない」と言い放つ。
以下引用文。仮面をもらった世一の「おれはおれでいいや」という言葉に丸山先生らしい生き方の理想を見る。
最後の「〈醜悪〉の一から十までが 粉々に砕け散った。」という箇所、「一から十までが」という風変わりでしつこい表現も、「粉々に砕け散った」という表現も心に残る。
ふだん仮面をつけて生きている自分を感じ、その仮面を壊してみたい……そんな己の願望にふと気がつく。

昼夜のなかに残された少年は
   しばし私を眺め
      被ろうとして寸前で止め
         「おれはおれでいいや」と
             聞き違いでなければそんな意味の言葉を漏らし、

渾身の力を込めて
   私を松の根元に叩きつけるや

      〈醜悪〉の一から十までが
           粉々に砕け散った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』65ページ)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年12月15日(日)

フランス装に再挑戦

飯田橋にある美篶堂さんの本づくり協会でフランス装の製本講座を受けてきた。


たしか秋にもやはりこの場所でフランス装の製本講座を受けた。これで二度目である。
製本とは普段やらないせいか、それとも歳のせいかすぐ忘れてしまう。

また少しは余裕ができるのだろうか、二度めには色々新しい発見もある。
手製本の工房は、工房によって使う道具も少しずつ違って、手順も少し違ったりもする……だから金太郎飴のように「何でも同じ化」が進んでいる現代社会にあって、他にはあまりない面白さがある気もする。
(用意してくださった道具も、他とは少し違っていたりして興味深い)


使う道具とか手順には少し違いはあっても、大切にされているマインドは同じ気がする。
先日どなたかが言われていた「手製本は急ぐとたいてい失敗する」という言葉は、現代社会と逆行するものかもしれない。
でもそんな丁寧な時間がどの手製本の工房にも確かに流れ、そこで本をつくる人の雰囲気や心をつくっているように思う。
ひとときでもそうした空気を吸い込みながら本を作っていると、出来はともかくとても心穏やかになる……のが私にとって手製本の魅力の一つでもある。
そうした時間と場所を提供してくださっているすべての方々に感謝!


(本日のフランス装。きちんと折る難しさを感じましたでも並装にカバーをかけたフランス装は、自分の文を紙にするなら一番作りやすいかなあ、きちんと折れなくても。)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年12月14日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月十九日「私は耳だ」を読む

十一月十九日は「私は耳だ」と、世一の友達である盲目の少女を支える鋭い耳が語る。
「耳」はリゾート開発計画に浮かれ騒ぐ人々の声をとらえ、その喧騒とは対照的な世一がたてる物音もとらえる。
以下引用文。
少女の耳がとらえる世一の気配は、どこか妖精じみた存在で、開発だの金儲けとは無縁である。そしてどこか温かさがあり、痛みを共感してくれる存在である。
こうした在り方こそ、丸山先生が人間に求めるものなのではないだろうか?

この私が聞きたいのは
   その手の音声ではなく、

見掛けはともあれ
   優しい心根の少年世一のゆったりとした足音であり
      彼が没我の境に入ったときに吹き鳴らす口笛であり、

不規則でも好ましい息遣いであり
   体内を経巡る血液やリンパ液の音であり、

ときとしてきしきしと軋む
   胸の痛みの音である。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』61ページ)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年12月13日(金)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』より「美の基準はどこに」を読む

美の基準というものを考える言葉にも、ずっと大町で花を見つめてきた丸山先生らしい視線がある。
たとえばサルスベリを疎ましく思う「夏中ずっと衰退の気配すら見せないために、鑑賞者の目は次第に濁りを帯びてゆき」という言葉。
そんな言葉や以下引用文を読むと、美は一瞬……という気もすれば、丸山先生が一年中鮮やかな花が咲き続ける南国に住んでいたら、小説は書いていなかったのでは……と信濃大町の厳しい自然に感謝したくなる。

結局のところ美は錯覚の産物にすぎません。時と場所、そして出会いのきっかけと回数などによって、美の尺度は人それぞれなのです。また、同一人物であっても、その時の気分によって微妙に異なってきます。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』34ページ)


カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年12月12日(木)

製本基礎講座で「帙」を作る

板橋の手製本工房まるみず組の製本基礎講座、不器用者の私も今日でなんとか十回めを迎えた。
今回は和綴をしまう「帙」作り後半である。

前回作ったものにツメをつけ、ツメに紐をつけ帙に通し、背にツメをひっかける紐をつけ、内側に内張り用の紙を貼り……なのだが、予想外のハプニングが度々起きる。

まず私の紐の幅の測り方が甘かったのだろう。帙に穴を開けても、中々紐が通らない。穴に紐を通すのがこんなに難しいとは!
せっかく紐が通ったと思っても、ツメの向きが逆だったり、ひっくり返っていたりで再三やり直し。自分の注意散漫を反省。

内張り用の紙を貼るにしても、中々バランスがとれない。

それにしても和綴じ本とは、気軽につくることができるけれど、まあ時間もかかること(私が不器用なせいもありますが)。
以前、若いフォロワーさんが和綴じ本作りの動画を見ながら、自分の研究されていることを見よう見まねで和綴じ本にまとめ、はるばる大阪から東京に持ってきてくれたことを思い出す。
あのフォロワーさんのひたむきさ、情熱を思い出しつつ、切ったり貼ったりして何とか完成!

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: | コメントする