さりはま書房徒然日誌2024年6月5日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十六日を読む

ー「見る」とは?ー

二月十六日は「私は炎だ」で始まる。盲目の少女の前に置かれ、やがて消えてしまうロウソクの炎が語る。
以下、三箇所からの引用文。
盲目の少女の目、世一の目に映る炎、世一の心眼に焼きついた炎、それぞれが描写されている。

同じ「見る」行為とはいえ、どこで見るのか、どう映るのかは様々なのだと思う。
そして書き手が言葉によって読み手に「見せる」行為とは……とも考える。それは最後の引用文にあるように、読み手の心眼に時も次元も超えた炎を宿らせることなのではないだろうか……そんなことも思った。

少女の見えない目と
   彼女の膝の上にちょこなんと座っている白い仔犬の純一無垢な瞳には
      それぞれ私が鮮やかに映じており

      その四つの虚像は
         ひとつの実像をはるかに超越した
            かなり見事なものであり、

            しかしながら
               彼女の魂に結ばれた映像の素晴らしさには
                  遠く及ばず、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」155頁)

もちろん少年の目にも私が映っており
   ところが
      彼の瞳のなかの私ときたら
         なぜか虚像ですらないほど頼りなく、

         にもかかわらず
            実像より数倍も生々しいのは
               いったいどうしたことだろう?


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」157頁)

瞬時にして少年の心眼に焼き付いた私は
   またしても激しくなってきた雪のなかを
      いかにも危なかっしくゆらゆらと揺れながらも
         けっして消えることなく
            まほろ町のあちこちを
               住民たちの有りようを照らしつつ
                  どこまでも進んで行く。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」157頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月4日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十五日を読む

ー自然に人間の世界を重ねるー

二月十五日は「私はカモメだ」と猛吹雪で海岸線を見失い、山の中まで迷ってしまったカモメが語る。
以下引用文。迷い鳥のカモメがまるでさすらいの旅人のようにも、カラスが俗物根性丸だしの人間たちのようにも思えてくる描写である。
丸山先生の目は、自然界の在り方にも人間の世界を重ねて見ているのだろうか?

いよいよ天運尽きた私は覚悟を固めたことで
   さばさばした気分になり、

   雪の重みで押し潰されそうになった長い桟橋の突端で翼を休め
      眼前に広がる見慣れぬ光景を夢心地で眺めた。


すると
   閉鎖的で排他的な田舎者根性まる出しのカラスどもが
      迷い鳥の私をいびり殺そうと集まり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」152頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月3日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十四日を読む

ー風船一個を語るにも語り口が印象的ー

二月十四日は「私は風船だ」と「くたくたになって山と湖の町へ辿り着いた 青い風船」が語る。
私なんかがこの風船を語るなら、「空色の丸い風船」とか安直にすぐ書いてしまいそうだが、丸山先生はそうではないと知る。
以下引用文。丸山先生は、風船の青い色を「〜のようだ」と語るのではなく、「〜にも似ておらず」と否定の形で語る。「水」「空」「死に顔」「オオルリ」にも似ていない青って、どんな色なのだろう……と読んでいる方の心にぽっかり「想像してごらん」という声が谺する穴をあけられる気がする。

私の色は
   水にも空にも
      そして
         死に顔にもオオルリにも似ておらず、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」146ページ)

以下引用文。風船の動きを「彼女の体熱と町そのものが暖めた大気によって上昇し」と語り、また「人魂を思わせる形状を保ったまま」と描写することで、風船がただの物からどこか人間らしさを帯びて感じられてくる気がする。

彼女の体熱と町そのものが暖めた大気によって上昇し
   人魂を思わせる形状を保ったまま
      一軒家の方へと引き寄せられて
         二階の部屋の窓枠に引っかかる。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」148ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月2日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十三日を読む

ー自然描写に重ねる思いー

二月十三日は「私はハーモニカだ」で始まる。刑務所を出所して鯉の世話をしながら暮らす世一の叔父が吹き鳴らすハーモニカだ。
以下引用文。まほろ町の夕暮れから夜にさしかかる冬の描写が、丸山先生らしい奥行きのある表現に思える。自然を見つめながら、この世と別の世について思いを巡らす丸山先生の思いも伝わってくるようで好きな箇所である。
「希薄な存在感の太陽」はいかにも冬らしく、それでいて別の世界を示しているようにも思える。
「然るべき方向」も、いったいどの方向を指しているのやら……と考えてしまう。
「漠とした落日を漫然と迎える」というまほろ町も、人の生き方を暗示しているようである。
「いかにも啓示的な闇」とは?と考えてしまう。
自然描写に重ねる思いがあるようで、それを考えながら読んでいくのが面白い。

やがて
   希薄な存在感の太陽が然るべき方向へと傾き、

   まほろ町が漠とした落日を漫然と迎えるや
      いかにも啓示的な闇が
         地の底から湧き上がってくる。

すると
   厳冬の夜が私をたしなめて
      もうよさないかと言い

         そろそろやめてはどうかと言い、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」143ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年6月1日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十二日を読む

ー同じ望遠鏡から覗いた世界なのにまったく違って見える不思議さー

二月十二日は「私は望遠鏡だ」で始まる。世一の父親がゴミ捨て場からそっと拾ってきて、ピカピカに磨きあげた望遠鏡が語る。
同じ望遠鏡に目をあてているのに、世一の父親が覗く世界と世一が見つめる世界は全く異なる印象を受ける。見つめる人の視点、心の持ちようで、こうも異なるものだろうか。
以下引用文。世一の父親が覗いた世界。私の目に映る世界のようで、思わずため息をつきたくなる。

私をどの方角へ向けようと
   そこにはすでに知られている現実が存在するばかりで、

   もしくは
      辟易するおのれの五十数年間が
         呆れ返るほどだらしない格好で横たわっているだけで、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」139ページ)

以下引用文。冬の厳しさを描きながらも、世一が望遠鏡を通して見つめる世界は宇宙的神秘さのある世界。「虚無そのものの広がり」という捉え方が、何となく丸山先生らしいと思ったり、こういう世界を感じたいと反省したりもした。

最初に捉えたのは
   灰色がどこまでも広がる
      実に味気ない冬の空間で、

      鳥が飛んでいるわけでもなければ、
         雲が流れているわけでもない、

         なんの変哲もないというか
            虚無そのものの広がりにすぎなかった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」140ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月30日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十日を読む

ーヒトでない者の声が聞こえてくる「  」ー

二月十日は「私は氷だ」と、うたかた湖を隅々まで埋め尽くした氷が語る。
その氷の上で世一が「ときおり つつうっと滑ったり」という様子が微笑ましい。
以下引用文。そんな世一に警告しようとする「氷」。「軽すぎる体」「重すぎる魂」と氷が語る世一の姿は、人間界の常識を離れた姿にも思えてくる。

その都度私は不気味な音を発して警告を与え
   軽すぎる体のほうはともあれ
      あまりに重過ぎる魂まではとても支えきれないと
         そう言ってやり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」136ページ)

以下引用文。「氷」が心配するように湖の中に落ちることなく無事に帰ってゆく世一。
「氷」はふた言だけ呟く。
丸山作品では「  」の部分は普通の会話ではなく、天から響いてくる言葉のようでもある。
以下も「運」「不運」がコントラストをなして、やはり人間ではない者の言葉に聞こえてくる。

「おまえって奴はどこまで運に恵まれているんだ」と
    そう言ってから
       「そのくせ、どこまで不運な奴なんだ」とづづけ、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」137ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月30日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十日を読む

ー箒と箒売りの充足感に幸せとは?と思うー

二月十日は「私は箒だ」で始まる。
行商の男がまほろ町をまわったにもかかわらず、売れ残ってしまった箒が物語る。
以下引用文。箒売りの行商が丘の家の世一の家を見て「何かある」と感じて登り始める場面。箒の行商人という今ではあり得ない職業からもたらされるイメージが、仙人めいた千里眼的行動とよく合っている感じがする。

ただ気づいただけではなく
   そこにはきっと何かが在る
      ほかの家には絶対ない何かが在ると直感して
         心のどこかが激しく揺さぶられ
            すぐさま出かけてみようと思い立った。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」131頁)

以下引用文。世一の家にたどり着いたものの、いるのはオオルリだけ、あとは誰もいない。行商人は「お前をこの家にくれてやるからな」と箒を玄関の下駄箱の横に置いて帰る。
ただ、それだけの行為なのに、箒も、行商人も満ち足りてしまう……その姿に「幸せとは?」と思わず考えてしまった。

使ってもらってこその私であるのだから
   願ってもないことで
      元より異存などあろうはずもなく、

      雪に足を取られながら丘を下って行く男の後ろ姿が
         いつになく幸福の色に満ちあふれ
            夕日に染まったその背中には見るべき価値が感じられた。


 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」133頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月29日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月八日を読む

ー覗き見の効果ー

二月八日は「私は節穴だ」と、路地と歯科医の家を分かつ塀の節穴が語る。「截然と」(セツゼン)(意味は「区別のはっきりしているさま」)という見かけない言葉が、路地と歯科医の家の違いを強く主張しているように響いてくる。

節穴から歯科医の同級生が覗き込み、多少嫉妬混じりの小さな嫌がらせをする。
次に世一が覗き込むと、歯科医の息子の進路をめぐる家庭内騒動が持ち上がる。思わず世一も一緒に騒ぎ立て……と展開してゆく。

ここで思い出したのだが、他の登場人物が覗き込む中、物語が進行してゆく……というのは、浄瑠璃にとても多い設定である。文楽ファンなら、覗き見で進むストーリーには慣れすぎるくらいに慣れてしまっているのではないだろうか。舞台の左手からも、右手からも覗き見……で舞台が進むのは、浄瑠璃くらいではないだろうか。

覗き見という手法をとると、違う世界の人間でも、自分の所属とは違う世界であっても、我が事のように反応する様子を自然に観察できる……と「千日の瑠璃」のこの箇所に思った。

文楽の場合も、覗き見する方、覗き見される方、両方の人形の動きを眺めることで、物語の世界を重層化していくようにも思う。

それにしても覗き見が当たり前の浄瑠璃の世界。これはやはり塀や障子という覗き見しやすい日本の住環境が影響しているのだろうか?

私は節穴だ、

   ほんのたまにしか人の通らないうらぶれた路地と
      歯科医の家の敷地を截然と分かつ
         かなり古びた板塀の節穴だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」122頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月28日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月六日を読む

ーX線のごとき存在とは?ー

二月六日は「私はX線だ」と世一の身体を調べるX線が、その心までも情け容赦なく調べる。その結果は……以下引用文。
「醜悪な外貌」と対をなす「心の表情」という言葉には、喚起してくるイメージがたっぷりとあって、世一の心の豊かさを思わせてくれる。
「彼の魂は 不可視なものではなく」という箇所に、人間の魂を見通せる光があれば……とも想像する。人間の魂を見通せる存在……なんて嫌だし、煙ったいとは思うけれど、そういう存在が作家なのかも、とも思う。つまりX線は丸山先生自身のことなのかもしれない。

ひっきょう
   世一を見かけだけで誤解してはならず、

   彼のふた目と見られぬ醜悪な外貌は
      断じて心の表情と一致するものではなく、

   彼と接する連中の
      人間としての程度や真価を試すものでもない。

そして彼の魂は
   必ずしも不可視なものではなく
      残酷極まりない神に成り代わって
         この私がそのことを証明する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」117ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月26日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月五日を読む

ーパラレル・ワールドは救いか、絶望か?ー

二月五日は「私は星雲だ」で始まる。蠍座の星雲は、世一の飼っているオオルリの囀りを通して遥か彼方のまほろ町のことをよく知っていると語る。
丸山先生は以前、量子力学の観点からパラレルワールド、もう一つの世界は存在する……そんなことを話されていた。以下引用文にも、そんな丸山先生の考えがよく現れていると思う。

そして
   私のほうもまた
      自身のどこかにいる青い鳥が
         そっくり同じことをしており、

         つまり
            私のなかにもまほろ町が在り
               少年世一が存するのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」111頁)

以下引用文。己の星雲がある世界から、世一のいるもう一つの世界へ……そんな不思議なやり取りが書かれている。
くどくどとストーリーが展開するのを楽しむのでなく、もうひとつの世界を感じる大きな視点に気がついてハッとする。そんな楽しさが「千日の瑠璃」を始めとした丸山作品にはあるように思う。
その分、ストーリーを楽しんだり、教えを請う人には不向きなのかもしれないが……。

もう一つの世界でも私は「千日の瑠璃」を読んでいるのだろうか……そんなことを思うと、こちらの世界の諸々の不安が消えていくような気がする。パラレルワールドを信じることは救いになるのか、それとも同じ苦労をしていると絶望を深めるだけなのか?「千日の瑠璃」にその答えがあるのかもしれない。

きょうもまた私は
   そっちのまほろ町の
      そっちのオオルリに対して
         詳細な報告をし、

         それから
            こっちの世一が岸辺に佇むだけで
               うたかた湖の深浅を正しく把握できるまでに

                  成長した旨を伝え、

                  はてさて
                     そっちの世一はどうかと尋ねてみる。

 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」112頁)

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