さりはま書房徒然日誌2024年6月15日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十三日を読む

ーフィルムにはない文章表現ならではの魅力ー

三月十三日は「私はカメラだ」で始まる。まほろ町に新婚旅行に訪れた夫婦は、通りがかった世一に写真を撮ってくれと頼む。
以下引用文。世一が体を揺らしながら写した風景。フィルムに摂りこまれた風景を映像で見れば一瞬で過ぎ去ってしまう。
でも、こうして文で描かれると一つ一つの情景が別々に心にたちのぼってくるようで、文章ならではの表現の魅力を感じる。

しかしながら
   私がフィルムに摂りこんだのは
      着水に失敗して無様につんのめる
         経験不足の若い白鳥と
            ボートを浮かべてワカサギ釣りを楽しむ隻腕の男、

            ほかには
               結婚式までしか考えていなかった男女の
                  頼りない笑みの底にこびり付いている
                     一抹の不安のみだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」255頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月14日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十一日を読む

ー「焦燥」が語ればー


三月十一日は「私は焦燥だ」で始まる。世一の姉に取りついた恋の焦燥が語る。
以下引用文。焦燥の語る言葉。姉が自分の言葉で語ったりすれば、あまりにも生々しくなりすぎるかもしれない。作者の視点で語れば、冷たく感じられるかもしれない。
でも「焦燥」という有り得ない視点で語ることで、娘の様子が哀れにも、コミカルにも思えてくる気がする。

「これまでおまえに興味を示した男がひとりでもいるのかな?」と訊き
   「いなければ、これからだって絶対に現れないぞ」と決めつけ、

   その意味においては
      弟の方がまだましというもので、

      オオルリという連れ合いがいるばかりか
         住民のほぼ全員に関心を持たれており
            その意味においては幸福な人生だと
               嫌みたっぷりにつづける。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」249頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月13日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十日を読む

ー文章で出会う世界ー

三月十日は「私は雪崩だ」と「うつせみ山の南側の急斜面に発生すべくして発生した」「雪崩」が語る。

長年、信濃大町に住んでいる丸山先生らしい感覚にあふれた箇所だと思う。まだ雪崩を体験したことがない私は、その音や気配、雪崩を迎える山国の人の心境を知る。私なら思わず怖くなって布団を頭から被ってしまいそうだが、山国の住民にとっては「春を知って 束の間心をときめかせ」るものと知って意外だった。

それほど大した規模ではない私であっても
   だが音だけは立派で
      たちまちのうちに落ちかかる雷火のごとき轟音に成長したかと思うと
         まほろ町の夜明けをびりびりと振動させ、

         物凄まじい気配で目を覚ました住民たちは
            いよいよ間近に迫った春を知って
               束の間心をときめかせ、

               根拠に頼ることなく
                  何やらいいことが起きるのではないかと
                     本気で期待する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」242頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月12日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月六日を読む

ー「自由」ー

三月六日は「私は自由だ」で始まる。
「この島国の無能さを徹底的に暴露するに至ったあの戦争は 彼から家と家族をあっさりと奪い ついでに希望のひとかけまでをも根こそぎにし」と書かれる物乞いの老人。その老人の「かれこれ半世紀ものあいだ付き纏って離れない」自由が語る。

「自由」は、自由を選ぶことでとても厳しい状況になろうとも、丸山先生自身が一番大事にされていること。
丸山文学の主人公たちも自由を求めて流離う姿が心に残る。

そんな丸山先生が「千日の瑠璃」で自由を見出している登場人物は、戦争で家も家族も失った物乞いの老人。
それから身体と脳に不自由なところがある世一……。
そんな設定に丸山先生の考える自由の在り方を見る思いがする。そして、世一がこれからどんな自由を求め旅を始めるのか……と楽しみにしているうちに、ふと己の不自由を忘れる自分がいる。

そして
   いつ果てるとも知れぬ放浪の日々のなかから
      この私を発見して手元に引き寄せたのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」227頁)

すると彼は
   仰向けに倒れた亀のようにもがく少年の目のなかに
      私をはるかに凌ぐほどの
         ほとんど無碍に近い自由を見て取り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」229頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月11日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月五日を読む

ー「瑠璃色の才能」とはー

三月五日は「私は春一番だ」で始まる。まほろ町に吹き始めた春一番が語る。
以下引用文。「雪の白に幽閉されて」という部分と「生来の瑠璃色の才能が徐々に開花してゆく」という部分、コントラストの鮮やかさが心に残る。細々としたことは語らずして、色が与えるイメージだけで物語ってゆくような箇所である。「生来の瑠璃色の才能」ってどんな才能なのだろう……と思わず立ち止まって考えたくなる。

雪の白に幽閉されて
   魂を縮こめているしかなかった少年世一の
      意味も目的もなしに
         淡々と命を長らえさせるという
            重い病と引き換えに付与された
               生来の瑠璃色の才能が
                  徐々に開花してゆく。

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さりはま書房徒然日誌2024年6月10日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」を読む

ー「髪」が語ればー

三月四日は「私は髪だ」で始まる。
以下引用文。「四十三年間生きてきた」女の髪が語る。まるで竹下夢二が描く女を思わせる描写でありながら、作者が「女」のことを語るのでなく、「女の髪」が「女」を語ることで変な生々しさは消え、女の生命力が歌うように書かれているような気がした。

それでも私は
   山間を流れる小川のように
      どこまでもしなやかで、

      彼女のすっと気持ちよく伸びた華奢な首にも
         逃げ水のごとく儚い感じのうなじにも
            よく似合っており、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」218頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月9日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月三日を読む

ー一瞬の光が時をかけてゆくー

三月三日は「私は乱反射だ」で始まる。うたかた湖の水面と氷の乱反射が語ってゆくのは、世一の生き生きとした姿、死の直前の老人、死後の魂……一瞬の光のきらめきから生、死、死後を描き切る文に、肉体の縛りからも、時の縛りからも解き放たれて自由になった気がしてくる。
以下引用文。「乱反射」を「縫い針の束をぶちまけた」と語る描写が心に残る。

うたかた湖の大気よりも澄みきっている水と
   急速に溶けてゆく氷とが相まって生み出す
      まるで縫い針の束をぶちまけたような乱反射だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」214頁)

以下引用文。世一の目に「ひとつの巨大な光源」とも写り、「めざましい躍動」を楽しむ「うたかた湖」は、生を感じさせる存在である。

雪解けが進んでどろどろにぬかった丘の道を
   ふらふらと下ってくる青尽くめの少年は、

   あたかも湖面全体がひとつの巨大な光源であるかのように錯覚して
      私のめざましい躍動を存分に楽しんでいる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」215頁)

以下引用文。「眠るがごとく寂滅してゆく」老人の目に映る乱反射。「顔を向け」「瞳孔いっぱいに私を取りこんで」という丁寧な描写に、瀕死の老人のノロノロした動きを感じる。
「おのれの非を悟る」という言葉に、「乱反射」が罪を映し出す鏡のようにも思えてくる。

やおら起き上がった彼は
   湖の方へ顔を向け、

   開きかけている瞳孔いっぱいに私を取り込んでから

      翻然としておのれの非を悟る。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」216頁)

以下引用文。老人が亡くなって魂となってゆく場面。
「坂道を転がり落ち」「仮眠中の絶命」「「ひっそりと息を引き取る」と言葉を変え、丁寧に描写してゆく文から、老人の死への敬意が感じられる。
さらに「魂のきらめき」「増すばかりだ」という言葉に丸山先生の死生観が強く感じられ、老人の死が新たな旅立ちのように思えてくる。

だがしかし
   太陽が位置を変えることで
      私が天井から離れてしまうと
         彼はみるみる衰弱の坂道を転がり落ち、


         世一のように全身を震わせたりせずに
            あたかも仮眠中の絶命のようにして
               ひっそりと息を引き取ってゆくものの
                  その魂のきらめきは一向に衰えず
                     むしろ増すばかりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」217頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月8日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月一日を読む

ー丸山作品の「  」の不思議さー

三月一日は「私は骸骨だ」で始まる。まほろ町立中学校の理科室の教材用骸骨が、こっそり忍び込んできた世一を相手にする。
以下引用文。丸山先生は会話でストーリーを進める書き方を大変嫌っている。たしかに他の丸山作品と同様に以下の会話も、形こそ「   」で括られて、一見会話の形はとっている。

でも日常会話ではなく、どちらかと言うとアフォリズムのような趣きがある。丸山作品で「  」が出てくると、だらだらと会話でストーリーが展開するのではなく、ピリッと閃く丸山先生の思いに触れる気がする。

いかにも気怠げな口調で
「おまえ、誰?」と訊き、

    そこで私は
       わざと無念やる方ない表情を作り、

    「おれか、おれはおまえだよ」と

        素っ気なく答えた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」207頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月7日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月二十八日を読む

ーあたえる者へー

二月二十八日は「私はすき焼きだ」で始まる。まほろ町の湖畔の旅館・三光荘の女将と長逗留の女客が食べていた「すき焼き」が語る。
以下引用文。二人の女に招かれて、世一も一緒にすき焼きを食べる。
何も持っていないし、食べる動作さえ苦労する世一なのに、一緒にいると二人の女は「希望とも言えぬささやかな希望を感知」して、「心のあちこちに穿たれてしまった風穴が 一時的であるにせよ 確実に埋まってゆくのを覚えた」のである。
 何も持たない者、世から疎まれる者が与える者になる一瞬を信じているし、そんな瞬間を見い出すのが丸山作品の魅力だと思う。そして、そんな視点は特殊学級に入れられてしまった小学校時代、特殊学級の仲間たちとの交情から生まれてきたものではないだろうか。

ひっきりなしに身をよじりながら私を相手に格闘する
   健気な少年をつくづく眺めているうちに
      ふたりの女はなんだか不思議な心持ちになり、


      つまり
         希望とも言えぬささやかな希望を感知し、

         生きるために余儀なくした陰気な行為のあれやこれやに蝕まれて
            心のあちこちに穿たてしまった風穴が

               一時的であるにせよ
                  確実に埋まってゆくのを覚えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」203頁

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さりはま書房徒然日誌2024年6月6日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十八日を読む

ー意外な本への思いー

二月十八日は「私は頭痛だ」で始まる。都会を離れ、山暮らしを始めた元大学教授がまほろ町の図書館を訪れ、久しぶりにたくさんの本を目にしたときに襲ってきた「頭痛」が語る。
以下引用文。大学教授という本を通して物事を見てきた筈の人が、こんな思いを本に抱くとは……一瞬、意外に思う。
でも丸山先生自身、いつかオンラインサロンで好きな書店は?と訊かれて、「リアルの書店に行くのは好きでない。本に囲まれると圧迫感を感じる」というような意外な答えをしていたのを思い出した。そんな丸山先生だから、こんな言葉が出てくるのではないだろうか?

確か彼は
   本には二度と手を出すまい
      これからは他人の言葉を通さずに現実を直視しよう
         おのれの目で見ておのれの頭で判断しようと
            そう自身に誓ったはずで、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」163頁)

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