さりはま書房徒然日誌2025年1月7日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十二月五日「私は木枯らしだ」を読む

十二月五日は「私は木枯らしだ」と、「木枯らし」が語る。

以下引用文。
木枯らしが吹きつけるまほろ町の胡散臭い様子も、そこで暮らす人々のギスギスした感じも、風の無常感も、こんな風に言えばスッと読み飛ばすことなく、頭に情景を浮かべて、何となく物寂しい心地になるものだと思った。

人々を欺く角度で傾斜した地層の上に横たわる
   この田舎町
      まほろ町を今年もまた訪れた私は
覚醒の教訓を込めた一喝を加えるべく
            ぴゅっと吹きつけ、

世知賢い者たちの気配が
   たっぷり残る名もない通りや、

時運に乗ってちっぽけな成功を収めた連中の
   夢のかけらが落ちている路地を、

できるだけ何も見ないようにして
   すっと走り抜けて行く。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』122ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年1月6日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十二月四日「私は灯火だ」を読む

十二月四日は「私は灯火だ」で始まる。
「行き場を失った魂の波に弄ばれて 漫々たるうたかた湖をさまよう 朽ちかけたボート その舳先に掲げられた灯火」が語る。

以下引用文。丸山先生が語る風景は、ときにとても幻想味を帯びることがある。その幻想世界が、どこか他の幻想文学の作家とは違うのはなぜだろうと思う。
丸山先生は、初期の作品はとても現実直視の世界からスタートされた。
丸山先生の場合、現実をとことん突き詰めて眺め書いていくうちに、その向こうに存在するパラレルワールドが見えてきたのだろうか。
大町の自然を冷静に眺めることによって見えてくる、丸山先生ならではのもう一つの幻想世界、その成立を可能にしている筆力が、独自の魅力なのかもしれない。

今宵の乗船客である精霊たちを慰めてやり、

死者の未練をすっぱりと断ち切って
   物質としての存在を諦めさせてやることこそが
      わが本来の務めであり、

そんな私は
   新顔の死者たちに
      うたかた湖の北の岸辺に群生している
         極めて短命な植物の躯を見せ


森や林の奥で
  今まさに無惨な死を遂げた
     禽獣の姿を見せてやる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』119ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2025年1月4日(土)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』より「奴隷にならない」を読む

本書は後半の方に、丸山先生らしい、辛口の本音が出ているのかもしれない。「酒を飲むのは人間だけ」の章にしても、その次の「奴隷にならない」にしても、そうだ。
もしかしたら読者の反発を避けるために、本音部分は後半になったのだろうか……
本書は北アルプスの自然やご家族と暮らす心境を綴られた最初の部分から、後半の辛口部分までグラデーションのような色彩のエッセイ集である。

 理想的に思える政治体制であっても、国家とは結局、支配層のために存在するのです。このことは、現実中の現実であり、真理中の真理であって、体裁の違いこそあれ、今の時代も根本は中世の時代となんら変わりはありません。
 特定少数の支配層は、不特定多数の人々に国民の一員であるという偽りの自覚を持たせながら、実に巧妙な手口で奴隷化を進めてきました。これが近代社会の実態です。


(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』240ページ)

 今の日本社会を考えるとき、近代の用語を使うよりも、江戸時代の言葉をあてはめて考えた方が、何だかしっくりくることがある。
「政府」じゃなくて「幕府」、「税金」じゃなくて「年貢」……そんな言葉で自分を見つめた方が、幻想が崩れて現実を直視できる気がする。上記引用文にふとそう思った。

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さりはま書房徒然日誌2025年1月3日

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』より「生きたまま現世を超える?」を読む

 

ハナバチの羽音を聴きながら、花殻を摘み取るときの至福野原因は何だろう……と丸山先生は以下のように思いを巡らす。それでも答えはでない。

 花殻は摘んだ方がよいと分かっていながら、大急ぎで花殻から目をそらして逃げてしまう私には、こういう至福があるのか……と心底びっくりした。

 今度、私も花殻摘みにトライしてみようか?
 でも今日、食べて美味しい文旦の収穫すらウンザリして嫌になった。食べられない花殻摘みに、私が至福を感じるのは難しい気がする。

掛け替えのないその気分をどう表現していいものやら、物書きのくせに、これがなかなか難しいのです。
癒しを帯びた安らぎでしょうか。
それとも、地上にも天国が存在するという確信でしょうか。
はたまた、知的な困惑に陥り易い職種にありがちな必然的な欲求としての、立場における束の間の亡失なのでしょうか?

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』63ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年1月2日(木)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』より「死が癒してくれるよ」を読む

八十一歳を迎えた丸山先生の、どこか自分を無理やり鼓舞するような思いが私には感じられた。
まず以下引用文のように、ズバリ言い切る。

つまり消えてなくなるのが存在の宿命なのです。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』60ページ)

さらにこう続ける言葉は、どこか丸山先生自身に言い聞かせるようにも響いてくる。草花を見て、ここまで思うのは大町の自然の中に暮らす丸山先生らしい。
もしかしたら高齢者が夜遅くまで辛そうな顔をして働いている都会にいたならば、「散り際の幸い」を望む声が聞こえてくるのかもしれない。大町に暮らす大変さと同時に素晴らしさを思う。

 開花を間近に控えた千草も、満開を迎えた花木も、当然ながら散り際の美などを念頭に置いてはいないはずです。ましてや朽ち果てる定めに付き纏う醜についてもいっさい思い浮かべたりはしないでしょう。
 生物としての存在はかく在るべきです。そう思うことに決めました。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』61ページ)

以下引用文。瀕死のコオロギは丸山先生自身を託した姿なのだろう。その皮肉めいた声も、ボロボロの姿も心に突き刺さるものがあって、やはりこの世で生きていく大変さを思う。
「死が癒してくれる」という言葉も皮肉にしかならないこの世は、やはり大変」だなあと思う。

「何があったにせよ、いずれ死が癒してくれるさ」と皮肉を込めて呟いたのは、秋の終わりにデッキの下でぼろぼろの羽を声帯代わりにする、瀕死のコオロギでした。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』61ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年1月1日(水)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』より「苦悩と情熱にあふれかえる現世」を読む

以下引用文。
蝶を呼び寄せる花ブッドレアを眺めているうちに、丸山先生の脳裏にはブッドレアがなくても小さな生き物たちが集まってきた昔が甦る……。


このエッセイ集は、いやエッセイだからと言うべきか、全体のトーンが明るい。

でもその明るさの下には、こんな思いが潜んでいるのか……こうした思いを抱え、丸山先生は庭仕事をされて、毎日コツコツ執筆されているのか……とブッドレアのにぎやかな花も哀しく見えてきた。
生きるとは、本当にしんどいことである。

時間の恐ろしさには凄まじいものがあるのです。
時は流れ、さらに流れて、その間、世界も私たちもさまざまなものを喪失してゆきました。だからといって嘆くつもりはありません。
ただ、「時間も世代も好ましい方向には進んではいないんだな」という切ない思いがどんどん募ってゆくばかりです。
 悟ったような言い方を気取れば、人は皆こうした観想に至って生涯の幕を閉じてゆく悲劇的な生き物なのでしょう。


(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』54ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年12月26日(木)

製本基礎講座で「列帖装(れつじょうそう)」にトライ

板橋の手製本工房まるみず組の製本基礎講座で「列帖装」にトライする。

まずは講座前の製本ドリル。
636✖️939のY目菊版の紙から、Y目の紙をこれだけの枚数取るとき、効率のいいカットをするにはどう配置?という類の問題が二問。
考えたんだけど一問間違える。



今日の講座は、このドリルで出した答えに基づいて菊版の和紙からペーパーナイフでザックリ切り出していく。
ここでもボーっとすると、どこまでも乳白色の和紙の世界で方向を失って、向きを間違えて切りそうだ……緊張する。

三枚で重ねて一つの折丁に。全部で折丁が五つ!

針でかがる箇所、四箇所にカッターで切り込みを入れる……
きちんと測ったつもりでズレていたり、重ねた折丁がズレていたのだろうか。
完成品は糸がユワユワ不揃いである。反省。

切り込みに針を通したつもりが、別の箇所を針で刺していてズレに気がつき、またもほどいて後戻りする。
失敗ばかりの私、ほどくのだけはスピードアップした。
私のモタモタを優しく見守ってくださるまるみず先生に感謝。


何とか完成したものの反省点多々。
ただ列帖装の良さを知る。
まず和紙なので軽い、手触りがいい。


それから背表紙がなく、糸でかがっているのでフルフラットにひらく。

私は普段重しをおいたりしながら本を開いて、じっくり熟読することが多い。重しをしなくてもフルフラットに開く!なんて素晴らしいと思う。
自分の勉強本は糸でかがって、フルフラットに開くようにしたい。頑張ろう。


今日も外国の参加者が複数。それぞれ素敵な本を作っていらした。紙の本を愛する人間は世界中にいる……のが何となく嬉しい一日でもあった。

↓フルフラットに開く

↓先日、東秩父和紙の里で私が漉いた和紙と葉書も頂いた。
柔らかな光の世界。



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さりはま書房徒然日誌2024年12月25日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月三十日「私は視力だ」を読む

十一月三十日が「私は視力だ」と始まる。
以下引用文を読んでいると、「見えないものを見 見なくていいものを見てしまう」世一が神秘的にも思えてくる。
また「憂わしい表情の顔を丘の上の家の窓から突き出すとき」という文に、思い描いていた世一とは違う、どこか絵画の中にいる少年に思えてくる……のは「憂わしい」という言葉のせいか、それとも「窓から突き出す」という動作のせいなのだろうか……?

私は視力だ、

見えないものを見
   見なくていいものを見てしまう
      ただ生きるだけでも大儀な
         少年世一に具わった視力だ。

そんな彼が
   憂わしい表情の顔を丘の上の家の窓から突き出すとき
      私はしばしば
         遥か彼方をたどたどしい足取りで独り行く
            もう一人の自分の憐れ深い姿を捉え、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』102ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年12月24日(火)

田中箔押所を見学!

手製本工房まるみず組が企画された田中箔押所見学ツアーに参加、箔押しを見学させて頂く。


田中箔押所は新御徒町にある。付近には皮工房も多く、革製品への箔押しもされている。箔押しの済んだ革製品もあったが、なんとも言えない温もりがある。

この箔押しの機械の前に、田中箔押所の先代社長が座って、丁寧に時間をかけて箔押しを黙々と進めてゆく。
箔押しがこんなに時間と手間がかかるものとは……ビックリする。

↑まず私たち其々が押したい文字の大きさに合わせて、活字を探して拾ってゆく。
こんなにたくさん活字があるとは!ビックリ!


まるみず先生の説明では、かつて新聞を活字から印刷していた時代、新聞は刷る部数が多いので一回で摩滅。印刷が一回終わる都度、文字を溶かしてまた活字を作っていたそうだ。書籍の場合は、活字を紙に押して鉛で型をつくり……だったそうだ。そんな時代があったとは!


パソコンが普及した現在、活字屋さんがどんどん廃業、田中箔押所の近くにあった活字屋さんも廃業したらしい。寂しいことである。

↑活字は一個ずつ作っているので厚みが違うとのこと。でこぼこしていると箔にムラが出来てしまう……ムラが出来ないように紙を一枚ずつ重ね、厚みを均等にしていくそう。

とても大変な、職人さんの勘が必要な技に思える。

↑幾度も幾度も定規で測る。

↑箔の色は何色も豊富にある。金だけでも赤みを帯びた金から純粋な金と色々。

出来上がりを見ると、やはり箔の色によって、同じ金でも印象がだいぶ違う……ことにビックリ。

↑上の金属部分に手を近づけては温度を確認される。箔を押す素材によって温度も異なってくるとのこと。

↑私も「2025」と箔を押して頂く。このノートは、まるみず組に入る前に私がつくった角背上製本のノート。角が潰れていたり、端がダブダブしていたり見苦しい。


でも箔はムラなく均等にシャープに入っている。さすが!
家にある箔押しされている本と比べると、田中箔押所の箔はクリアでシャープな気がした。

このノートはSOLIDAの棚に非売品で置く予定なので、お時間のある時に90代の箔押し職人の技をご覧下さい。
長い年月をかけて積み上げた職人さんの技を側で見学させて下さり、素敵な箔押しをして下さった田中箔押所さま、得難い体験ツアーを企画して下さいました手製本工房まるみず組に心から感謝!

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さりはま書房徒然日誌2024年12月23日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月二十六日「私は報復だ」を読む

十一月二十六日は「私は報復だ」で始まる。三人組の男達が大男を殺して森に埋める……そんな「報復」が語る。

以下引用文。
死体を埋めながら蹴りつける……場の近くを通り過ぎる世一の静けさはなぜなのだろうとも思う。
「死者の骨が折れる音」というおぞましさを打ち消す「青尽くめの少年」という言葉の清々しさ。

「徘徊の名人」というこの世のものではない感じ。
「危ない風土を照らす皓月の真下」という聖と俗をイメージさせる言葉。
そうしたものから世一の不思議な存在が喚起されるのかもしれない。

死者の骨が折れる音を聞いたのは
   当事者たちのほかには
      おそらく私などとは生涯に亘って無縁であろう
         青尽くめの少年で、

足音はほとんど立てず
   闇に紛れて徘徊する名人としての彼は
      暴力の世界を面白がって生きる
         非道な連中に気づかれることなく
            危ない風土を照らす皓月の真下を
               密やかによぎって行った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』89ページ)

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