さりはま書房徒然日誌2025年4月1日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より二月十四日「私は民謡だ」を読む

老いた芸者が久しぶりに歌うまほろ町の民謡。もう半ば忘れてしまった歌詞を、自身の体験と混ぜながら歌う。

「娘は今」「彼女は今」で繰り返しながらの語りは、音楽のようでもあり、芸者の若い頃のようでもあり、あるいは民謡の中の娘のようでもあり……繰り返しが哀切を生んでいるように思った。

音楽が好きな丸山先生らしい書き方だと思う。どんな曲をイメージされて書いたのだろうか。

私の全体を構成する
   しとやかな挙措の麗しい娘と
      彼女が辿る数奇な運命を、

濃厚な闇や
   夜の向こうに横たわって滔々と流れるあやまち川へ
      そっと流した


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』7ページ)

そして娘は今
   山野に早春の気が漲る朝まだき
      静かに実家を離れ、

それから数年後に
   霊魂のみの里帰りを果たした。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』9ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月29日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より二月八日「私は日差しだ」を読む

体も、そして頭も衰弱している老女、老女が愛するサクラソウを暖める日差しが何とも優しく感じられる。
老女の老いとは対照的に、サクラソウの生命力の何と頼もしいことか。毎日、庭で植物と向かい合っている丸山先生ならではの見え方かもしれない。

すると彼女は
   もはや心火を燃やすことがない皺だらけの魂を
      安心して私に委ね、

鉢植えのサクラソウは
   私に向かって
      可憐にしてしぶとい命を
         精いっぱい伸ばしてきた。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』381ページ)

以下引用文。世一の足音も、老女の体の動きも、サクラソウの動きまで仲良く調和した有り様で心に浮かんできて、思わず幸せになる終わり方。

私とほぼ同格の価値を
   その病児にも認めている老女は
      近づいてくる独特の足音に惹かれて
         窓辺へぐっと身を乗り出し、

なんと
   サクラソウの花までがそれに倣った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』385ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月27日(木)

製本基礎講座「やわらかい表紙 フレンチリンク 花布をとじる」完成!

中板橋の手製本工房まるみず組の製本基礎講座へ。
三回にわたる「やわらかい表紙 フレンチリンク 花布をとじる」も、すべて終わって何とか完成。

この三回を思い出すと、まるみず組の良いところが詰まっているように思う。
GOOD POINTその1。大きな紙から、自分で紙の目や大きさを考えて切り出すところ。

そんなことを私なんかが出来たのも、まず講義の前の製本ドリルでその大きさに紙を切り出すための問題を計算する
先生に確認してもらい、切り方も教わったりで、不器用な私も無事に切り出せた。

GOOD POINTその2。今回、フレンチリンクという背中に模様ができる綴じ方をした。
まるみず組では、どんな本でも糸でかがって綴じてこそ手製本、という考えがあるのだと思う。

強力な接着剤が開発されている昨今、糸でかがることをしないで接着剤だけのところが大半だと思う。
でも、まるみず組では糸でかがってこそ手製本、なのだろう。そう言えば、まるみず組のシンボルマークも、糸で本をかがっている人だ。

裁縫が苦手な私は、糸でかがることにとても苦労する。
今回もよく見たら糸がゆわんとしている箇所もある。
それでも一針一針地道にかがっていくと、自然に本を、言葉を大切にしなくては……と書くことへの意識が変わってくる。だって切り出すのも、糸でかがるのもすごく大変なんだもの。

GOOD POINTその3

毎回、講義のときに、先生が作ってくれたその日の制作内容の手順プリントが渡される。このプリントがビックリするくらいとても丁寧で、イラストや図入りで書かれている。
やるそばからすぐに手順を忘れてしまう私も、このプリントさえあれば安心、一人でも何とか作れる気がしてくる。

↓花布を自分で作って、さらに刺繍糸で本に縫いつけた!
大きな紙からふんわり丸い本の完成!



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さりはま書房徒然日誌2025年3月26日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より二月五日「私は火影だ」を読む

新しい障子に映る火影、外は大粒の雪。
こんな美しい風景ももはや小説や映画の中だけであり、失われてしまっていることにハッとしながら読む。

張り替えて間もない障子に
   くっきりと映し出されて
      少年世一をさかんにいざなう
         盲目の少女の美しい火影だ。

無風状態のせいで真っすぐに落下する大粒の雪を浴びて立つ世一は
   もうかれこれ一時間近くも私に見とれ、

(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』370ページ)

最後、世一の口笛への少女と犬の小さな反応が、この雪の火影の静けさをさらに強く印象づける気がする。

そうは思ったものの
   彼女と犬の耳はしっかり反応している。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』373ページ)

静けさが恋しくなってくる文章である。でも、こんな静かなときも、場所も見つけがたいことに気がつき悲しくなる。

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さりはま書房徒然日誌2025年3月25日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より二月四日「私は象だ」を読む

まほろ町の動物園に運ばれてきた高齢の象。
以下引用文。象が見つめる雪のまほろ町は、ただの田舎町ではない。どこかで宇宙ともつながっている存在らしい。そんな象の気持ちに自然と一体化する。

そうしているうちに、象が観察しては語る人々の有り様も、受け入れる気持ちになってくる。
もし、これが人間の視点で語られたら、反発するかもかもしれない人物スケッチなのだが……。
こんなふうに雪に無心になる象の言葉だと、自然に受け入れてしまうではないか。

運動場に降り積もった雪の上に側臥した私は
   細い目をさらに細めて
      雪といっしょに天から舞い落ちてくる
         白色の無限や
            透明の永遠などを
               ぼんやりと眺め、

そうやって片田舎に身を置きながらも
   宇宙の中心で生きることの醍醐味を
      存分に満喫していた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』366ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月21日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より二月三日「私は小屋だ」を読む

二月三日は冬の寒さに耐えられなくなった物乞いが、かえらず橋の下に建てた小屋が語る。
小さな小屋のおかげで生まれる束の間の安らぎ。何とも切ないと感じるべきか、それともしんどい状況でも心はこれだけ自由なのだと感じるべきか……迷う。
最後の「表札」で一気に現実に引き戻される。丸山先生は「表札」に何を託そうとして持ってきたのだろうか……表札をかけるその思いは?と表札をかけていない私はふと考えた。

ややあって
   温もりの心地よさに眠りへといざなわれ、

   不幸ではなかった時代における追憶の断片が
      夢となって次々に現れる惰眠を貪り、

夜中に目を覚ますと
   今度は
      表札なんぞを作り始めた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』

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さりはま書房徒然日誌2025年3月20日(木)

手製本基礎コース「柔らかい表紙 フレンチリンク」2/3回め

中板橋の手製本工房まるみず組の手製本基礎コース。
今日は「柔らかい表紙 フレンチリンク」2/3回め。

フレンチリンクとは、テープ状のものを支持体にして、背の部分を糸で模様を描きながらかがるものらしい。寒冷紗や背を貼らないで、この背の糸かがりを見せる製本方法のようだ。
French Link Stitch で調べると、なんとも綺麗な糸かがりが出てくる。こんな風に糸でかがることの出来る人がいるなんて!


こんな風に綺麗な糸かがりにはいつまでたってもならないだろうな……
手製本をしていると裁縫が得意な人間でありたかったと思う。そして本は紙と糸から出来ている……と普段忘れていた事実を突きつけられ本への見方、言葉への見方が変わってくる。



とりあえず今回は糊をつけて背固めをして、背をゆっくり弾きながら丸み出しをする。そして寒冷紗を貼って今日はおしまい。

(↓弾いているうちに垂直だった背が、何となく段々丸くなってきた)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月19日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月三十一日「私はウイロウだ」を読む

一月三十一日は「私はウイロウだ」と、「当たりの柔らかい極道者によって運ばれてきた 手土産としてのウイロウ」が語る。

私はういろうが好きである。悪阻で食事が出来ないときも、なぜかういろうだけは食べることが出来た。なんとも助けられた記憶がある食べ物なのである。

でも多分「砂糖を敵」とみなしている丸山先生にすれば、ういろうも体によくない食べ物として感じられているのかもしれない。
この「ウイロウ」というカタカナ表記にも、ういろうを疎ましく思う気持ちをチラッと感じてしまう。ウイロウ、ういろう、外郎ではどこか感じ方が違うように思うのは、私だけだろうか?

以下引用文。やはり極道者の男たちがウイロウを食べる様子である。荒んだ男たちとウイロウがよく重なる文だと思う。
ただういろう好きな私としては、ういろうが可哀想になってきてしまうのである。

にちゃにちゃくちゃくちゃという
   著しく品に欠けた音が
      甘い食べ物に飢えていた刑務所暮らしを甦らせて
         荒ぶる三つの心を壁際に押しつけ、

世間の裏側で生きるしかない立場を
   改めて再認識し、

暗澹たる未来よりも
   今現在に思いを馳せる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』350ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月18日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月三十日「私は相槌だ」を読む

一月三十日「私は相槌だ」は、「世一の父が 相手いかん 話の内容いかんにかかわらず ともかく打ちつづける 習慣的な相槌」が語る。

世一の父親というのは、よく見かけるタイプの人物だ。そういうありふれた人物の悲哀、哀れさを、場面ごとの相槌で表しているようで面白い。


以下引用文。世一の父親の、相槌に誤魔化すようにして生きる姿。読んでいる側の私のいい加減な姿にも思え、ハッとする。むやみやたらに相槌をうって誤魔化して生きるのはやめよう。

世一の父は
   どこの誰の言い分もまともに聞き入れず、

目上の者に命じられたことを
   忠実に実行したとしても
      必ずしも聞き入れたというわけではなく、


ひょっとすると
   自身の言葉すら信じていないのかもしれず、

とはいえ
   それでもなお
      私の出番が絶えることはなく、

本音と建前の狭間を
   巧みに縫って進んで行く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』349ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年3月17日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より一月二十九日「私は詩だ」を読む

一月二十九日「私は詩だ」は、三歳の幼児が辛口カレーを食べながら食卓の上に並べてゆく「暗い肯定の言葉」と「明るい否定」の言葉が語る。辛口のカレーという言葉がきたあと、こういう抽象的な表現がくるとカレーのおかげだろうか……わからない言葉も何だか理解出来たような錯覚に陥る。

以下引用文。よく見かける光景だなあと思い出す。赤ん坊の心に思いを寄せて見つめる丸山先生の言葉に温かみを感じる。

ほとんど商売用の言葉しか知らぬ彼の両親は
   早朝に仕入れてきた野菜や果物を店頭に配置する仕事や
      馴染みの客の対応に忙しく、

そのせいで
   わが子が即興で組み立てる
      意味深くて美しい韻を踏んだ言葉に
         まったく気づいていない。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』342ページ)

以下引用文。裏口から入ってきた世一が、赤ん坊と一緒にカレーを食べる場面。ここでもカレーという馴染み深い食べ物と口笛のおかげで、後半、少し想像し難いことを言われても想像出来ている気分になる不思議さがある。

すでにして気脈を通じている両人は
   スプーンをぶつけ合って挨拶を交わし、

口の周りを真っ黄色にしたかれらは
   満腹の悦びを表現したくなり、

幼児は
   どこかで寸法が狂った人々について
      高等派の調子で詠み、

すると病児が
   抒情の口笛でそれを補強する。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』342ページ)

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