さりはま書房徒然日誌2024年11月29日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月二十九日「私は想起だ」を読む

十月二十九日は「私は想起だ」と、「少年世一のどこまでも不完全でありながら 同時に完全でもあり、 万事にあけすけな脳から次々に生まれる 変幻自在の想起」が語る。

以下引用文。
私たちの脳裡をとりとめもなく過ぎっていく想起の数々。
いったい何処から生まれるのだろう。過去の日々か現在の無意識か未来の予感、それとも別次元に存在している知らない私の記憶?
理解できていなかったり、意識になかったり、そのときには意味もなかった場面や言葉が浮かんでくる記憶の不思議さを思う。
たしかに「想起」こそ人間の証拠なのかなあと思う。

ときとして彼は
   生まれてくる前にどこかで得た体験とどこかで仕入れた知識でもって
      私を仰天させることがあり、

たとえば
   笛や太鼓に囃されてひと差し舞った日々や
      たとえば
         立憲君主制の打倒に欠かせぬ言葉の数々が
            突如として甦ることが間々あり、

それこそが
   人間のなかの人間である
      何よりの証拠なのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』375ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年11月28日(木)

和綴じ・麻の葉綴じにトライする……難しい、でも楽しい!

まるみず組製本基礎コースで、和綴じ・麻の葉綴じにトライする。
かがり糸が一筆書きになるように、麻の葉模様になるように考えた昔の人はすごい。中国の綴じ方を部分的に取り入れた麻の葉綴じ(と思う)は、アジアの知恵が詰まっている。

そんな知恵の結晶、スイスイ作るのは難しい。

今日もかがっている途中で「あれ、変!」と思うこと二度。その度に糸を解いて後戻り……しようとしても和綴じは丈夫、頑丈。中々解けない。自分の失敗を解くことすら出来なくなって先生に解いて頂く……こと二度。情けない限り。

私は麻の葉を見たことがないが成長旺盛で、健康に育つシンボルだそう。そんな願いを糸で表現する昔の人の雅を感じながらの麻の葉綴じ。また家で練習して、今度はしくじらないようにしたい。

↓今回は裏打ちした布を表紙に使用。柄物だと穴の印が見にくいことに気がつく。糸に悪戦苦闘しているうちにヨレヨレになってしまい、本文が表紙からはみ出している!

天地を半分にしたサイズで作れば、詩集に向くのではないだろうか。和紙で出来た詩集もいい気がする。頑張って復習制作しよう。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月27日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月二十八日「私は棘だ」を読む

十月二十八日は「私は棘だ」と、バラの棘が世一の母を語る。

私は棘だ、

枯れた花を見下しがちな世一の母親の人差し指の腹を突き刺すことにより
   バラとしての威厳を保とうとする
      針のように鋭い棘だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』170ページ)

「千日の瑠璃」でバラが出てきたのは、このページが最初だったのではないだろうか。
バラの庭をつくってきた丸山先生が、まず最初に棘に語らせるとは!たぶん手入れをされながら、散々棘に刺されてきたのではないだろうか?
その棘にも「バラとしての威厳を保とうとする」と見るあたりに、バラへの深い愛情を感じてしまう。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月26日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月二十二日「私は教室だ」を読む。

十月二十二日は「私は教室だ」と教室が語る。
まず冒頭の教室の様子や場所を語る「なんとも古びた木造校舎の あやまち川に最も近い教室だ」という言葉に、丸山先生から見た教育の危ない有り様が端的に語られていると思う。

以下引用文。そんな教室の中で育てられる子供たちの姿。これは今も変わらないのだろう。だから不登校の生徒が年々増えてきているのかも、真っ当な感覚の持ち主なら耐え難いものがあるのかも、と思った。

これまで私が仕立て上げてきたのは
   お上の後ろ盾を得たときのみ屈強になり
      果断な行動に出る
         ロボット的な兵士と
            教唆煽動や威嚇に弱い腰抜けの国民のみで


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』348ページ)

以下引用文。深夜の教室に少年・世一が忍び込んで、教師役、生徒役を演じる。生徒の言葉に丸山先生が理想とする思いが滲んでいるように思う。


教師は黒板にオオルリの絵を描いて
   「ぼくはこの鳥に従うが、きみはどうかね?」と
       そう尋ね、

すかさず生徒は
   「従わせようとしない者に従う」と
       そうきっぱり答え、

授業はそれきり終了し
   あとに残されたのは
      自立の精神の余韻と
         自由の息吹だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』349ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月25日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月二十一日「私は精進料理だ」を読む

十月二十一日は「私は精進料理だ」と精進料理が語る。
丸山先生の作品にはよく禅寺や禅僧が出てくる気がするが、どちらかと言うと批判的な視点で書かれていることの方が多い。ごくたまに神秘的な存在として書かれていることがあっても、揶揄するような視線が感じられる。
以下引用文もそうではないだろうか?

応量器と呼ばれる漆器の鉢に盛られた
   彼らの情よりも薄い粥、

石と石頭で漬けこまれたタクアンと
   胃袋に溜まった怒りを鎮めるためのゴマ塩
      それが朝餉のすべてであり、

昼餉は
   歯応えがあり過ぎる麦飯と
      少しはまともな味がする汁


飛竜頭と名付けられた
   未練がましいがんもどきと
      野菜の煮付けにタクアン、

そして夕餉は
   その残り物。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』342ページ)

禅寺の台所の戸口から覗き込んでいるようなリアルさが、言葉にあるような気がする。
応量器と呼ばれる漆器の鉢に盛られた 彼らの情よりも薄い粥という言葉に、何があったのだろう……禅僧への怒りが「応量器」や「薄い粥」という言葉に皮肉たっぷりに込められている
それにしても禅寺の食器のことを応量器と言うなんて、ここで初めて知った。私には禅寺の精進料理は、身体に良さそうな食事に思えてならないのだが。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月24日(日)

手製本・和綴・四つ目綴じに再度トライ

今月まるみず組の製本基礎講座で四つ目綴じにトライしたばかりなので迷ったが、飯田橋にある本づくり協会で美篶堂さんの四つ目綴じ講座を受けてきた。
こちらでも学ぶこと多々、再度トライしてよかった。

手製本の世界にいる方々は、どこの工房の先生も丁寧に、手を抜くことなく、それぞれ独自の工夫を凝らしている。今の社会には珍しくどこでも同じやり方……ではない。それぞれに良いところがある


そしてどこの工房でも五感をフルに働かせて、私のモタモタの原因を教えてくださる……指摘される私のマズイ点がその都度違う。私って360度改善の余地があるんだ……と驚くやら、呆れるやら、感心するやら。


そうした指摘は、それぞれの先生方の日頃の工夫があるからかなあ……と余り具体的に書かないようにしているのだが、この位なら許されるだろうか……

目打ち(千枚通し)を和綴にあて、かしわ棒(たたく木の棒)で叩き、表紙、本文、裏表紙に穴をあけようとしていた時のことだ。
私の叩く音が「ドンドン」と低くどこか変だ……と先生が耳をすます。それから和綴の押さえ方、かしわ棒の握り方、手首の曲げ方、肘の角度……を色々変えて試してみる。
するとそのうち音が「ドンドン」から「トントン」と高い音に変わって、目打ちが紙にスッと入っていってくれた、アラ不思議。
この話を友人にしたら「そんなことが」と笑っていたが、本当に持ち方が変わると音も変わり、穴もあけやすくなる。


伊那にいらっしゃる美鈴堂の上島松男親方(十五歳で製本職人になられた)は、かしわ棒をとても軽快に打つらしい。伊那の空に親方の「トトントントン」というかしわ棒のリズムが響く様子を想像する。いいなあ…。

多分、かしわ棒も目打ちも日常生活では縁がないから、この握り方の感触をすぐ忘れてしまうだろうけど、「トトントントン」というリズムで本を作る製本職人さん・上島親方の話はきっと忘れない。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月23日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より「私は相似だ」を読む

十月二十日は「私は相似だ」と意地の悪い双子の姉妹の相似が語る。相似が語るとは不思議……な気もする。

以下引用文。
最後の方で相似(今度は世一のドッペルゲンガー)が追いかけるあたりで、丸山文学によく出てくるドッペルゲンガー的世界になる。

「もう一人の世一」とか言わないで「相似」とだけ言い切ることで、もう一人の自分の存在がシンプルに、強く感じられる気がする。
丸山先生によれば、物理学的にもう一つの世界は存在する……とのこと。

彼と瓜ふたつの
   もうひとりの少年を錯覚させてやり、

だから行く先々で
   自分と同一人物に出会ってしまうのだ。

石段で頭を打って人事不省に陥ったおのれを
   湖岸に佇んで怒気を含んだ声を発しているおのれを
      万物を弁えるために生まれてきたおのれを、

はたまた
   宇宙の茫漠たる広がりの一隅にうずくまっている
      救いがたいおのれを
         至るところで目撃する。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』341ページ)
    

この場面を想像しながら読むと、そんな自分に出会ったら嫌だなあ、怖いなあと思う。自分のドッペルゲンガーと遭遇したら近いうちに死んでしまう……という言い伝えがあるのも無理もない気がしてくる。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月22日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月十九日「私は鵺だ」を読む。

丸山文学の意外な魅力にこの世と別の次元に彷徨わせてくれる幻想文学的な部分がある。でも昔からの丸山ファンは、そういう風にはほとんど思わない。幻想文学ファンも、丸山健二と幻想文学を結びつけないのが残念である。
以下引用文。怪鳥鵺の飛びまわる様子が幻想的だなあと思う。引用はしていないが、この声を聞いた人々の心の変化も印象的である。

濛々と降り注ぐ陰雨がまほろ町の夜に持ちこまれ
   発情した鹿が林野を駆け巡るのをやめ
      沼沢地で水禽が灰色の眠りに就く頃、

私は密かに山を下り
   屍蝋と化した獣のかたわらをすり抜け
      古い町並野外れに存する
         これまた古い神社へと潜りこみ、


そして
   落雷やら人々の願いやらに捻じ曲げられた
      杉の御神木の梢に止まり、


弱者の耳朶を打つ奇声を
   おもむろに張りあげる。

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』337ページ

エックスの投稿を読んでいたら、ある物書きさん&編集者&蔵書家の人が、「日本の小説家はもっと真面目に小説を書いてほしい。ぜんぜん面白くない」と書かれていた。
エックスの短い文だと意図されていたところはよく分からないが、小説とか短歌や詩文はこの現実世界への鵺の叫び声的部分もあるのでは……ギョッとしたり息を止めることがあっても、面白さだけを求めるのは違うんじゃないだろうか……そんなことを思ったりもした。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月21日(木)

製本基礎講座で和綴じ・亀甲綴じ・くるみ綴じにトライする……亀甲がバラバラだ

手製本工房まるみず組の製本基礎コースも今日で七回目。モタモタしつつも丁寧なご指導のおかげで何とか七回目を迎えた。

手製本は非日常的な作業。しかも私は不器用。なので毎週一度一年の講座は、ちょうど忘れた頃にやる感があってよい。
ちなみに二年かかるが月一度、一日午前午後とフルに受ける同じ基礎講座もある。
だが私の場合、一つ作るだけで頭がパンパンになる気がするので、週に一度通う今のペースがいい気がする。

五回目から講座開始前に復習の製本ドリルというものがスタート。二問くらいのドリルで、ちょうど理解があやふやなところ、大切なところを復習できるので有難いし、この歳でドリルという体験も新鮮である。


製本講座も毎回少しずつ反復しながら複雑な(私にとっては)内容に進む感じで、覚えては忘れ、思い出しては忘れ……の繰り返しが良い。


和綴じも前回が四つ目綴じ、今回が亀甲綴じ、次回が麻の葉綴じ……と複雑さがアップしていく。


前回四つ目綴じをやったのに、もう忘れている。糸でかがっている途中で形が変なことに気がつく。後戻りしようにも和本の綴じ糸はすごく頑丈で解けない。
なんとか完成したが亀甲の模様がバラバラ。


でも先生のは形も大きさも同じ亀甲が並んでいて素敵!
和綴は作りやすい、軽い、丈夫……の利点がある。自分で日常的に読む本や書き溜めた文や短歌のアウトプットは、和綴で作りたいなと思った。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月20日

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』より「駄目なものは駄目」を読む

「ソメイヨシノを軸にした有名観光地の桜のたぐいは間違っても植えまい」と決心した丸山先生。柑橘系の方向を放つ「匂い桜」という品種を数本植え楽しまれていたのだが、ある大きさになると弱り、枯れ始め、やがて全滅。
桜から撤退するも「庭にぽっかりと生じた虚無的な空間を他の草木では埋められない」とマメザクラを五本植え、やがて開花。

「駄目なものは駄目なんですよ」とは、植物に詳しい知人の言い得て妙なる真理です。

「植えてみて十年くらい経たなければわかりませんよ」もまた彼の名言なのです。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』28ページ)

 私はヒメシャラのツルツル光る赤みを帯びた樹皮が好きなので、家に植えてみた。植えて十五年経過した。まあまあ元気だったのだが、今年の暑さが暑さに弱いヒメシャラにはこたえたようで半分くらい枯れてしまった。さて、どうしようかと途方に暮れている最中なので、この言葉が心に沁みた次第である。
(↓ヒメシャラ。花は椿みたいな白)

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