さりはま書房徒然日誌2024年5月15日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十四日を読む

ー与える者へー

一月二十四日は「私は縫いぐるみだ」で始まる。愛犬が老衰のせいで死んでしまった盲目の少女。彼女の哀しみを癒そうと与えられた犬の縫いぐるみが語る。
以下引用文。縫いぐるみは世一のことを「小癪な奴」だと思うが、次の瞬間には……。
不自由な筈の世一が、少女の心を本当に慰めることのできる「生きた本物の仔犬」を渡すのだ。
この世における世一の役割と存在が、弱く、憐れまれる者から、与えることのできる者へと変わる一瞬。その劇的な変換が、「少年は突然奪って 突然与え」という短い繰り返しに表されているようにも思った。

少年は突然奪って
   突然与え、

   つまり私は
      あっという間に彼の手に移ったかと思うと
         すぐさま今度は
            雪よりも白い
               生きた本物の仔犬が少女の手に渡ったのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」64ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月14日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十三日を読む

ー目にするものから物語が無限に生まれる!ー

一月二十三日は「私は無精髭だ」と「無精髭」が語る。
周囲にいる知らない人をそっと観察することから、小説は生まれてくる……丸山先生がそんなことを以前言われていたような気がする。

以下引用文からも、無精髭を生やしている人をそっと観察している丸山先生の様子が想像される。丸山先生の眼を通すと、街ですれ違う人の無精髭からもストーリーが無限に生まれてくるのだなあと思った。

彼はさかんに私を撫で回しながら
   うちなる何かとのべつ闘い、

   あるいは
      自分で自分を痛めつける言葉でも探していたのかもしれず、

      あるいはまた
         私を仮面の代わりにして
            まったく別の人間になろうとしていたのかもしれず、

            さもなければ
               おのれ自身を私のなかへ埋没させて

               完全に消し去ろうとしていたのだろうか。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」59ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年5月13日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十二日を読む

ー偏見は生まれたときからなのかー

一月二十二日は「私は手だ」と「乳児の 魂そのものよりも柔らかい手」が語る。
乳児の手を語る文にその形や動きを思い浮かべ、納得しつつ途中まで読む。
以下、「   」内はすべて丸山健二「千日の瑠璃2」より。

「たとえ天変地異に見舞われたとしても親を放すまいとする 
    凄い圧力を秘めた私」

「私自身の接し方は
    猫にも人間にも分け隔てがなく」

以下引用文。そんな乳児の手も、世一のことは忌み嫌う……と書かれたのは、なぜだろうか。
人間の心には、理不尽な偏見が生まれついたときから根付いている……そんな思いもあって、こうした文を入れたのだろうか?
そうだとしたら人間の心に生まれついた時から巣食う偏見に、世一は
どう向かい合っていくのだろうか?
今後の展開が楽しみになってくる。

しかし
   何事にも例外があり、

   勝手に頭がぐらぐら動いてしまうせいで脇見が普通になっている
      あの少年がそれで

      私が忌み嫌うそいつが
         今また無断で敷地内に入りこみ
            庭を横切って迫ってくる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」56ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月12日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十一日を読む

ー「暖炉」が象徴する様々なものー

一月十二日は「私は薪ストーヴだ」と、世一の姉が好きになったストーヴ作りの職人に注文して完成した薪ストーヴが語る。
世一の家へと向かう坂道を「古い毛布をあてがった製作者の背中に 登山用のロープでしっかりと括りつけられ」運ばれてゆく薪ストーヴの言葉を読んでいると、このストーヴが象徴しているのはゆらゆら揺れる炎さながら「世間一般の声」であり、「青年」「世一の姉」それぞれの愚かしく哀しいまでの生き方であるような気もしてきた。
以下引用文。薪ストーヴの声は世間の声にも思えてくる。

ついでに
   隙あらば彼の将来をも併せて押し潰そうと企み、

   あげくに
   「こんな女はやめておけ」と忠告し、

   それから
      「結局は前の女のときと同じことだぞ」と脅かしつけてやる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」51ページ)

以下引用文。青年が背負う薪ストーヴの重みは、これから背負うことになる世一の姉の重みでもある。

男はまったく動じず、

恐ろしく滑り易い急坂を一歩一歩着実に突き進む彼自身は
   再度の失敗をまったく想定しておらず、

   私のみならず
      すでに長いこと暗欝のなかに生きてきた
         ために
            その反動としての幸福に期待し過ぎる
               そんな女までをも背負うつもりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」52ページ)

以下引用文。世一の姉の青年への思いは、ストーヴの炎にうっとりと見とれる人のものでもある。

片や女はというと
   烟突のみならず      
      ふらつきながら自分の前を行く男の
         なんだか胡散臭い半生を
            ときめきに惑わされて
               まるごと抱えこもうとしている。

薪ストーヴというものに、様々な立場を反映させているようで面白く読んだ。それにしても薪ストーヴを背負って坂道を登るとはすごい。


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さりはま書房徒然日誌2024年5月11日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十日を読む

ー小難しい漢字が入ると文が老人めいてくるー

一月二十日は「私は老衰だ」で始まる。途中まで「老衰」が語る箇所は、「私は懸河の弁を揮って」の「懸河」とか、「後進を誘掖したのも」の「誘掖」など小難しい漢字が出てくる。
ちなみに日本国大辞典で調べれば
「懸河」(けんが)は「弁舌のよどみのないさまのたとえ」
「誘掖」(ゆうえき)は「みちびき助けること。補佐すること」だそうである。
いかにも老人らしい、気難しい表現が続いた後、世一のオオルリが「常に強い心組みで臨むべし」「そのひと言をもって瞑すべし!」と囀ると、老衰は素直な言葉で語り始め退散してしまう。
小難しい漢字を入れると、老人らしくなる……と思った。

鳥の言葉とは到底思えぬ
   気高い勢いに気圧され、

   生きる意味などとうとう得られなかった
      得ようともしなかった
         締まりのない生涯に
            今さらながら気づかされた私としては
               もはや早々に退散するしかなく

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」49ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年5月10日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十九日を読む

ー見方を変えれば「檻」の意味も変わってくるー

一月十九日は「私は檻だ」とまほろ町営動物園の「人間とそうでない物の領域をきっちりと分け隔てる 頑丈この上ない檻」が語る。
檻の中の麒麟の様子を語る文に、キリンの動作やキリンといる時間が思い出されてくる。たしかにキリンなんだけれど、自分ではこう書けないのはなぜなのだろうとも思う。

舞台女優並みの大仰な瞬きを物憂げにつづけて
   ふざけきった形の口をもごもごさせながら
   
   おのれの身の上を決して悲観せず
      時間を時間とも思わずに
         ゆったりとくつろいでいる。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」42ページ)

キリン専用の檻。キリンという動物以外には意味のない檻だし、普通の価値観で考えたら「檻」なんて鬱陶しいものである。その常識を突き破って檻に憧れる世一に、今まで抱いていた価値観がひっくり返される不思議さを感じる。

だが少年世一だけは
   キリンではなく
      この私のことを主役と認めて
         多大な関心を払ってくれ、

         それだけに留まらず
            一度でいいから私の中へ入ってみたいと
               そう真剣に願っているのだ。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」44ページ)

以下引用文。キリンの檻に入りそうになっている世一を見つけた飼育係は背後から抱き止めながら、こう語る。
飼育係にとって檻は檻だし、病の世一の体もまた檻なのである。
何を檻と見なすかで生き方や価値観も変わってくる……と、そっと教えてくれているような気がした。

「それでなくてもおまえは病気に閉じこめられているんだぞ!」と
    そう言ったあと
       「その檻から生きて出られんぞ!」と怒鳴る。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」45ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月9日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十八日を読む

ー書き手と読み手が共有できる色のイメージー

一月十八日は「私は敵意だ」で始まる。「鋼鉄製の反社会的な形状の扉」に向かってぶつけられようとした「敵意」が跳ね返され、そのまま置き去りにされたところで徘徊中の世一と出会う。

以下二つの引用文。色の使い方が印象に残る。意外と色は人によって喚起されるイメージが違うもの……と短歌をつくっていて思うようになった。
でもオオルリの羽のイメージと世一のピュアな心を表しているだろう「青々とした印象の少年」にしても、簡単に「白い」とは言わずに「雪と同じ色の吐息」と表現される白にしても、色からイメージを喚起しつつ、作者の思い描くイメージと読者の描くイメージにズレがないなあと思った。

ところが
   その青々とした印象の少年は付け入る隙がまるでなく
胸のうちに潜りこめる余地もなく、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」41ページ)

だが憐れな病児は
   雪と同じ色の息を吐き散らしながら
      手と足をもつれさせるだけもつれさせ
         却って寂しさを募らせるばかりの街灯を縫って進み、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」41ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年5月8日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十七日を読む

ーありふれた風景を変えてしまう力ー

一月十七日は「私は桟橋だ」で始まる。昨日の「十字路」もよかったが、この箇所も好きな箇所である。私はありふれた日常風景に詩情を感じ、別の意味を感じる心が気になるらしい。
以下引用文も、場面としては湖に突き出た桟橋で不自由な世一が遊んでいる……ただ、それだけの場面である。
だが、そんな風景に次元を超えた世界への憧れを込める作者の視点が好きである。

うたかた湖の南側の岸辺から北の沖へ向かって
   もしかすると来世へと繋がっているかもしれぬ
      是非そうあってほしい
         不必要なまでに長い桟橋だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」34ページ)

以下引用文。桟橋にいる世一はもう不自由な少年ではなく、妖精のように自然と語り戯れる存在である。そんな風に視点を変える力が「千日の瑠璃」の魅力のようにも思う。

危なっかしい足取りで突端まで進み出て
   陶酔の面持ちを深め
      今現在を吹く風の精髄を全身でしっかりと感知し、

      物怖じせずに

         一部の隙もない自説を得々と述べる波音に
            そっと耳を傾ける。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」35ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月7日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十六日を読む

ーありふれた空間が意味をもってくる不思議さー

一月十六日は「私は十字路だ」とまほろ町の中心部にある「なんの取り柄もない 平々凡々たる十字路」が語る。
以下引用文。平凡な道ではあっても、十字路とは思いがけない者同士が出会う不思議な空間であることに気がつく。
現実には、十字路で世一と丸山先生を思わせる作家がばったり出会った……ただ、それだけの場面である。
その風景を散文にすると、こんなふうに意味を持たせ、別の時が流れているように書けるのかと思った。

そんななか
   霧の海を泳ぐようにして
      北の方角から忽然と現れたのは
         あの少年世一で、

         時を同じくして
            南の方から
               黒いむく犬を連れた
                  よんどころない事情で小説家になった
                     いかにも我の強そうな男がやってくる。


そして
   西の通りから〈肯定〉が悠然と近づき
      東の通りから物知り顔の〈否定〉が悠然と迫り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」31ページ)  

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さりはま書房徒然日誌2024年5月6日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十五日を読む

ー人ではない存在「橇」が語れば子供の遊びもこう見えてくるー

一月十五日は「私は橇だ」と「少年世一を乗せて」走る「安っぽいプラスチック製の橇」が語る。
以下引用文。世一を「この際思いきって変えてしまおう」と橇は思いたつ。
実際には橇に世一がはしゃいでいる場面かと思うが、人間ならざる存在「橇」の視点に寄せて語れば、不自由な筈の世一が超人のように思えてくる。
それは「生きる者に変え」という畳みかけるリズムの繰り返し、
漢字の多い行頭からその漢字のイメージから離れた言葉で行末を終える意外な展開の続き(例「惻隠の情」と「蹴散らす」)
「俯瞰できる者」から「鳥に近づけ」というように上昇してゆくイメージを膨らませているせいなのだろうか。

競争激甚の世をすばしこく生きる者に変え
   降りかかる災難を事前に察知する者に変え
      惻隠の情を蹴散らす者に変え、

      はたまた
         徒手空拳で生きる者に変え
            社会の安寧を乱す者に変え
               まほろ町を俯瞰できる者に変える。

そして世一は
   速度が増すにつれて
      その存在をどこまでも鳥に近づけ、

      私がちょっとした瘤に乗り上げて宙を飛ぶ一瞬などは

         完全に鳥の目で世間を眺めており、

 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」26ページ) 

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