さりはま書房徒然日誌2024年11月20日

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』より「駄目なものは駄目」を読む

「ソメイヨシノを軸にした有名観光地の桜のたぐいは間違っても植えまい」と決心した丸山先生。柑橘系の方向を放つ「匂い桜」という品種を数本植え楽しまれていたのだが、ある大きさになると弱り、枯れ始め、やがて全滅。
桜から撤退するも「庭にぽっかりと生じた虚無的な空間を他の草木では埋められない」とマメザクラを五本植え、やがて開花。

「駄目なものは駄目なんですよ」とは、植物に詳しい知人の言い得て妙なる真理です。

「植えてみて十年くらい経たなければわかりませんよ」もまた彼の名言なのです。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』28ページ)

 私はヒメシャラのツルツル光る赤みを帯びた樹皮が好きなので、家に植えてみた。植えて十五年経過した。まあまあ元気だったのだが、今年の暑さが暑さに弱いヒメシャラにはこたえたようで半分くらい枯れてしまった。さて、どうしようかと途方に暮れている最中なので、この言葉が心に沁みた次第である。
(↓ヒメシャラ。花は椿みたいな白)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月16日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月十八日「私はルアーだ」を読む

十月八日は「私はルアーだ」で始まる。まほろ町に駆け落ちしてきた青年が悪事に手を染め、その代わり豊かになって、うたかた湖で釣りを楽しむひとときが描かれている。
以下引用文。この何も考えていないように思われる青年の、なんとも頼りない無軌道さ。釣りに不安、遣る瀬無さを紛らわす姿。そうした心がルアーさながらまやかしの派手な色となって、眼前に漂って見えてきそうな気がする。

竿がぐっとしなって
   私がびゅっと飛び出して行くたびに
      彼の未来は
         さほどの根拠もなく
            湖面のように輝く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』331ページ)

裕福の味の片鱗を知った彼は
   タバコ銭にも困っていた
      ちょっと前の自分を
         私の先に引っかけて湖底へ沈め、

それと同じようにして
   駆け落ちを決意した際の情熱やら
      貧苦に耐える力やら
         異郷で暮らす侘しさやらを
            山上湖のあちこちに投げ捨てる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』333ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月15日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月十六日「私は少数意見だ」を読む

十月十六日は「私は少数意見だ」で始まる。「まほろ町の議会において少しも尊重されず 相手にもされないで あとはもういじけるしかない 他勢に無勢もいいところ」の、裏社会の人間の権利を擁護しようとする少数意見が語る。

丸山文学の魅力に、少数意見の立場、見方をよく行き届いた、愛情深い筆致で書いている点があると思う。
以下引用文。少数意見をねじ伏せようとする議員が「自分たちの体にも良い細菌だけが巣くっているわけではなく 悪い菌もうじゃうじゃいて そのバランスが命を保っている」と語る。

反対派は「あの菌は 数が少なくても命取りになりかねぬ最悪の菌ではないか」と反論する。

そのときある声が響いてくる。自分たちが正しい、強いと思い、少数意見を菌扱いする心の思い上がりを静かに語ってくるような場面。

するとそのとき
   「何もおまえらが良い菌とは限るまい」という
       そんな声が議場に飛びこんできて、

痛いところを突かれた一同は
   束の間怯んで沈黙し、

ややあって気を取り直し
   きっとなっていっせいにそっちを見やり、

ところが
   窓の向こうにいる人間は
      重い病を背負って歩きつづける
         健気な少年ただひとり。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』325ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月13日(水)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』より「いいよねえ、この感じって」を読む

「いいよねえ」で五文字、「この感じって」で七文字、最後の五文字はない。丸山先生が五七五を意識したのかは知らないが、何が入るのだろう?と読む前にまず考え、心が惹きつけられる。
そして読み終わった後も、「いいよねえ、この感じって」で一句出来そうで何が入るかと延々考えて愉しんでしまう。

丸山先生は「春一番とおぼしき風が感知された」瞬間、そのあとのご自身の変化、奥様やペットのオウム、バロン君の変化を見えるように書かれ、そういう変化が「いいよねえ、この感じって」なのである。

以下引用文。春一番を感知した瞬間の丸山先生の思い。春一番を感じると、「埃っぽい」「目が痛い」とブツブツ言っている私とは大違いである。この感性の差は言葉に影響大なのだろう……どうすればいいのだろうか、途方に暮れるばかりである。

夢見るような心地の刹那、季節の境界線とやらが眼前を過ったのです。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』20ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月12日(火)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』より「幸福は葉陰から覗くサクランボ」を読む

この章のタイトル「幸福は葉陰から覗くサクランボ」は一字だけ字余りだけど、五、八、五になっている……。
思わず脱線してサクランボを季語にした俳句を眺めてみる。だが、どうもしっくりこない……句が多いのは、日常的な風景のようでいて、実はちょっと高い果物だからなのだろうか。


その点「幸福は葉陰から覗くサクランボ」は、丸山先生の普段目にする光景から自然に出たような勢いがあって、心打たれるものがある。
「葉陰」も、「覗く」も、「サクランボ」も、それぞれの言葉が「幸福」のイメージを醸している気がする。


スノードロップやスノーフレークの花に囲まれている時の心境を記した丸山先生の文に、「幸福とはこういう状態であった……」と教えてもらう気になる。


名前にも、居場所にもこだわる自分の心を反省。「足取りも軽く故郷へと向かう若者の後ろ姿」が脳裏に浮かぶ心境に近づきたいもの。

 そうした救済の意味を込めた小花に囲まれているうちに、自分の名前なんぞは必要に思えなくなり、さらには自分自身の居場所へのこだわりがたちまち薄れてゆくのです。
 併せて、ねじくれていた思考が水平に戻りました。ついで、足取りも軽く故郷へと向かう若者の後ろ姿が、ぽっと脳裏に浮かびました。


丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』18ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年11月11日(月)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』より「この世のいっさいは幻想」を読む

丸山先生の庭仕事は冬の間もお休みにはならないらしい。「落下した枯れ枝を拾い集め」、細かく細断して落ち葉と混ぜて土に還して肥料にする様子が書かれている。


枯れ枝を同じように、かつて飼っていた大型犬たちも寿命が尽きたとき、先生の手で庭の一画に葬られ、やがてそこに美しいバラが咲く。


以下引用文。生と死が隣り合わせている……緊張感のある感覚が、大町の庭を見つめ養われ、丸山先生の小説に根づいているのだと思う。

やがて理想的な養分と化したかれらは、オールドローズやワイルドローズの花を立派に咲かせて、まだ死んでいない人間の目を楽しませたものです。そしてちょっと切ないその感動は、共に過ごしたその時間へといざなってくれました。

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』15ページ

枯れ枝を小脇に抱えてしばらくその場に佇んでいるうちに、生と死が延々とくり返されることで成り立つこの世に、なんとも遣る瀬ない愛おしさを覚えるのはどうしてなのでしょう。

「この世のいっさいは幻想なんですよ」と朽ち木が口を揃えて言いました。

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』15ページ16ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年11月9日(土)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』より「何が面白くて生きるのか」を読む

ー八十歳の作家が語る老いは辛くもあり、癒しもありー

本書の魅力は、八十歳になる丸山先生の心境が率直に丁寧に書かれているところにもあるのかと思う。だいたい男性作家の方は早くに亡くなる方が多い。八十歳の心境をかくも真摯に見つめ書いた男性作家は稀なのではないだろうか。

八十歳になっても「焦燥感」や「不安」や「怯え」から解放されないものか……と生きる辛さを思う。

でも長寿社会ならではの老いに北アルプスの自然を重ね、奥様とオウムのバロン君と共に日々を過ごす生き方には癒されるものがある。


「そう長い寿命を与えられているわけでもないのに、青春時代に覚えたような安っぽい焦燥感に駆られます」11ページ

「一介の凡夫としての私は、生きても生きても悟りの境地とやらに迫ることができず、不安と怯えの数が増すばかりで、救いようがない体たらくです」12ページ


「何が面白くて生きているのか?」とバロン君が毎朝仏頂面で尋ねてきます。 13ページ

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』より

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さりはま書房徒然日誌2024年11月7日(木)

製本基礎講座へ
ーくるみ綴じ 四つ目綴じにトライー

製本講座も落ちこぼれつつも、まるみず先生のご指導のおかげで何とか6回目を迎えた。しばらく和綴じの講座が続く。

今回は「くるみ綴じ 四つ目綴じ」である。たしか、この製本方法は体験レッスンでやったのに、綺麗さっぱり忘れている。だから何度やっても新鮮……なのは喜ぶべきか、悲しむべきか。
色々失敗したのだけど、その一つは端まで糸を通すところを手前でリターン(プリントには丁寧な図解があるのだけど、だんだん作業していると頭がぼーっとしてきて見えなくなる)。途中で気がついて糸をほどこうとしたら、ほどけない。和綴って丈夫なんだと思いつつ、最初からやり直す。


隣席の方はイタリアから来た方らしく、高度な製本をされていた。
私がようやく出来上がると、”Do you finish?”と声をかけてくださる。私がもたもた作った和綴本を手にのせて表紙の和紙や本文の半紙の感触を楽しむ表情に、和紙ってこんなに外国の方の心にアピールする魅力があるんだ……と知る。
そして、まるみず組の手製本の技術にも、はるばる異国から何度も学びに訪れたくなる魅力があるんだ……と知る。


でも小説を書いたり、短歌を詠んだりする界隈にいる者は(私も含めて)、こうして外国の方の心を強烈に惹きつける日本ならではの本づくりをほとんど意識していないのでは……と反省。少し反映できるようになるといいな。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月6日(水)

北村透谷『蓬莱曲』を読む

ー自費出版の時代は活字が綺麗な時代でもあったー

1889年に自費出版をした『楚囚之詩』に続いて、1891年(明治24年)に自費出版された第二冊目が『蓬莱曲』である。戯曲でもあり、長編詩でもある。北村透谷といい、宮沢賢治『春と修羅』といい、その他にもあまたある自費出版をした明治、大正の詩人、作家のエネルギーを思いながら読む。

量的にも、文章の流れるような調べも、第一作の『楚囚之詩』よりパワーアップして、第一作からの三年間にわたってコツコツと書き続ける北村透谷の姿が思い浮かんでくる。

以下の引用文に、明治45年になると「自由」という価値観がだいぶ日本に浸透したのだなあとも思う。
またこの年夏目漱石「彼岸過迄」の連載が朝日新聞に開始された。北村透谷が書き綴る文と新聞でもてはやされる夏目漱石の文……そのギャップに苦しみもあったのでは……と思いつつ、透谷の調べを味わうようにして読む。

自分の弟のところから自費出版で出したようだが、活字がとても綺麗な気がする。現代の書籍より活字が語りかけてくる感じがある。なぜなのだろう?印刷は同じ京橋の印刷屋に頼んだらしい。この時代、ルビもこんなに綺麗に入れられたのだ……と明治の印刷職人さんに感心してしまう。

またわが術にして世の、見えずして権勢【ちから】つよきものの緊縛【なわめ】をほどく「自由」てふものを憤【いか】り概【なげける】ものの手に渡し、嬉【たの】しみの声を高く挙げしむる。

(北村透谷『蓬莱曲』より)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月4日(月)

中綴じとスイス装の手製本ワークショップへ参加

手製本と古本のヨンネ先生が西荻窪アトリエハコで開催された「手のひらスイス装(中綴じとスイス装)」に参加してきた。
最初ヨンネ先生からスイス装の「弱い」という弱点も教えてもらい、でもZINEとか薄くて手のひらサイズの小さい冊子なら壊れにくいし可愛くなる……というような説明を聞く。

↑は出来上がった私のスイス装ノート。たしかにスイス装の手のひらサイズって可愛らしさに溢れている!

この生地はタイの手織り布パーカオマーを裏打ちしたものだそう。

スイス装は片側の見返しを接着しないので、開くと裏表紙と見返しがパカリと見える……のも可愛らしい。

綴じ糸はいつものようにユワユワしてしまった、反省。

ZINEを作成している方、数部だけでも好きな色の糸で綴じ、やはり好きな見返しをつけると楽しいのではないだろうか?

同じようなことをまるみず組で学んだばかりなのに、やり方を忘れていること多々。
さらに出来ないことだらけの私は、講座を受ける都度異なる改善すべき点を指摘される……ので飽きない。

今日も先生から目視で一ミリのズレを指摘される。定規で測ったつもりなのに……ミリ単位できちんと測れるようになりたい、といつもの反省である。

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