さりはま書房徒然日誌2024年6月26日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月三十一日を読む

ーひたすら観察ー

三月三十一日は「私は凄みだ」で始まる。
以下引用文。丸山先生を思わせる作家にやくざ者が凄みを放つ瞬間である。

悪趣味とはいえ
   それなりのセンスでめかしこんだ
      長身痩躯の若いやくざ者が
         およそ小説を書くしか能がない男に対して
            振り向きざまに放った凄みだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」326頁

以下引用文。やくざ者や世一のあとを付け回す作家にやくざ者は「なぜ?」と凄みをきかせて問いかける。
丸山先生は、周囲をよく観察して、観察結果をミックスして書かれるような話をされていたことがある。
こんな風に凄みのある男を観察していたことも、もしかしたら本当にあったのかもしれない。
観察して混ぜ合わせた事実のコラージュを、ご自分の言葉で別の世界に創り出しているのだなあと思う。

すると
   窮地に陥ったその中年男は
      懸命に作り笑いを浮かべて
         自分の仕事がいかに特殊なものであるかを説明し、

         とはいえ
            けっして詫びたりはせず
               二度としないという約束もしなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」328頁)           

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さりはま書房徒然日誌2024年6月25日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十七日を読む

ープランクトンを語り手にすることで見えてくるものー

三月二十七日は「私はプランクトンだ」で始まる。うたかた湖の動物性のプランクトンが自身を、そして身体に不自由なところのある少年・世一を語る。

以下引用文。もし人間の視点で語れば「世一は体を揺らして湖面を見つめていた」で終わってしまう場面である。

プランクトンが語り手となることで、「数億年の進化の隔たり」という科学的にして大袈裟な言葉もしっくりとくる気がする。
「不敵な夢想家の眼差し」「この世における存在の意義なんぞを探っている」という実際にはあり得ない描写も、プランクトンが語ることで説得力をもってくる。

この世における文学の役割は、固定化された見方から解き放って、人を自由にするところにもあるのかもしれない。

体全体が意思に反して波のごとく揺れ動く少年が
   岸辺にしゃがみこみ
      数億年という進化の隔たりをものともしない
         不敵な夢想家の眼差しで
            私のことをじっと見つめ
               この世における存在の意義なんぞを探っている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」313頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月24日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十六日を読む

ー田舎暮らしを冷静に見つめる視点ー

三月二十六日は「里心」が語る。湖畔の別荘で過ごそうとする元大学教授の夫婦を振り回す都会生活への「里心」が語る。
里心が指摘する「まほろ町」の欠点。私も伊東にある山小屋に移り住もうかなと思う度に、「いや、やはり」と足踏みをしてしまう田舎暮らしの欠点が幾つか重なっていた。
さすが田舎に暮らしながら、田舎暮らしの欠点を冷静に観察している丸山先生らしいと思った。
伊東のスーパーは欠品中の商品もチラホラあったり、値段も東京下町よりも客が少ないせいか高い。

特に魚は地元にまわらないのか、地元民は魚の値段を把握しているのか東京近郊より少なく、値段も高い。美味しい金目鯛のお頭とかは、東京近郊だと100円以下で売っていたりするが、伊東の方は500円近くする。
静寂をいいように解釈してドラムの練習やカラオケが大音量で響いてきたりする。
油断しているとゴミ焼却場が近くに建設…ということも聞く話である。

あと丸山先生は書かれていないけど、病院はあっても病院の選択肢がない……というのも伊東の山暮らしの欠点である。丸山先生はあまり病院に行かないような気がするから関係ないのかもしれない。

家庭菜園をしようにも、野生動物を追い払うためにフェンスを張ったりしなくてはならずコストがかかってしまうのも、伊東の山暮らしの欠点である。丸山先生は菜園を作ったりはしないだろうから、これも関係ないのかもしれない。
丸山先生は自分の周りを冷静によく観察して文を書かれていると、あらためて思った。

ここには文化の香りというものが皆無であり
   身近に広がる自然美への自覚も持たず
      無為に生きることが慢性化しており、

      山の冷気が
汚染された都会の空気よりも老化を早めると
            思いつくままにまくし立てた。

ろくな商品がなく
   もっと大きな街のスーパーマーケットで売れ残った商品が回され、


   静寂も度が過ぎると有害で
      違法なゴミ焼却が目当ての産廃業者が横行し、

      民度があまりに低くて
         動物並か
            それ以下で、

            近頃では
               雪かき作業が煩わしい。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」307頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年6月20日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十五日を読む

ー元兵士の悲惨ー

三月二十五日は「私は夕闇だ」で始まる。
以下引用文。「まほろ町にひたひたと押し寄せる いつもながらの」夕闇だけを友とする男。その男が背負う戦争の体験を、丸山先生は以下のように語る。
戦争から帰ってきた元兵士の心の悲惨、戦災孤児の悲惨をずっと書いてきた丸山先生らしい箇所である。

家々を焼き払い
   無辜の民を大量に屠った
      異邦の地における言語道断の日々と
         幾度殺しても飽き足らぬおのれを
            しっかりと再確認する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」304頁

以下引用文。そんな戦争の記憶をいまだ心に引きずる男に、夕闇はこう諭してみる。いつまでも癒えることのない戦争の傷というものをあらためて思う文である。

ついで
   旧時を知る人も少なくなったのだから
      そろそろこの辺りで自分を赦してやったらどうかと
         真心を込めて説得しても、

         きのうと同様
            なんの効果も認められない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」304頁

以下引用文。少年・世一が現れ、銃声の口真似をしてみせる場面。口真似の銃声に男はよろめくが、その顔に深い安堵が浮かんでいた……という描写に、生きて帰ってきても死ぬまで戦場の記憶から解放されない元兵士の悲惨を思う。

私のなかへ逃げ込もうとする男の背中を狙って
   口真似した銃声をだしぬけに浴びせかけ、

   すると
      撃たれた相手は大きくよろめいて私に倒れかかり、

      その一瞬の顔には
         深い安堵の色が浮かんでおり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」305頁

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さりはま書房徒然日誌2024年6月18日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十一日を読む

ー映像より雄弁に語る文ー

三月二十一日は「私は大波だ」で始まる。「うたかた湖では十年に一度おきるかどうかもわからぬ」大波が語る。
以下引用文。大波が「ありきたりな波と化し」ていく場面。映像なら一瞬で終わるかもしれないし、こんな風に同時にいくつもの存在をいきいきと語ることは難しい気がする。
ひいてゆく波に被せるようにして、オオルリから時代の風潮まで森羅万象を語る文が心に残る。

ありきたりな波と化して
   沖へ静かに引いて行く私に付いてきてくれるのは、

   丘のてっぺんから絶え間なく迸る
      美し過ぎることで却って虚しく響くオオルリのさえずりと、


   うつせみ山の禅寺の墓地に葬られてようとしている
      長寿を全うした誰でもいい誰かの親戚縁者が漏らす
         安堵を込めたため息と、

         長身痩躯の若いやくざ者が拳銃の試し撃ちをする
            断続的な銃声と、


            無欲な暮らしをとことん嘲笑い
               辛辣な揶揄を浴びせる
                  不純な時代の冷笑のみだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」289頁)   

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さりはま書房徒然日誌2024年6月17日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十日を読む

ー「燻されたタヌキ」という言葉に場面を想像してしまうー

三月二十日は「私は恥だ」と「恥を恥とも思わぬ若者が 今後の身の振り方について かなり真剣に考えているときに初めて知った」恥が語る。

以下引用文。恥に詰られた若者が突拍子もない行動に出る様子がユーモラスに書かれている。

すると彼は
   燻されたタヌキのように
      堪らず土蔵の外へ飛び出して
         しどろもどろで何やら言い訳めいたことを呟き、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」284頁)

以下引用文。「生き恥」をテーマに踊る青年と一緒に世一も踊り出す。二人して踊っているうちに、恥というものがどうでもよくなってしまう。
踊る部分のあたりは平仮名で書かれている文字が多いせいか、青年と世一が無邪気に踊る場面が自然と浮かんでくる。
後半、恥が自然消滅してゆく箇所は心なしか漢字が多く、恥というものが概念であることが伝わってくる気がする。

すると
   そうやってかれらがいっしょに踊る最中
      私はいつしか自然消滅の道を辿り、

      要するに
         さほど大した価値観ではなくなって
            無の底へと堕ちて行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」285頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月16日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2 」三月十四日を読む

ー単純だけど心に残る会話ー

三月十四日は「私は落書きだ」で始まる。ドライブインの塀に描かれた落書きが語る。
以下引用文。落書きの中でも、無抵抗の世一を塀に押しつけて三色スプレーを吹きかけて描かれた落書き。
愛犬が「わん」と吠えたことで、その落書きに気がついた盲目の少女の反応と言葉が心に残る。

丸山先生は滅多に会話を使わないけれど、その分、使う時は雄弁に物語る会話になっている気がする。「ああ、よいっちゃんだ」という簡潔な言葉に、盲目の少女の声音、表情が浮かんでくるような、世一への思いが溢れている。
「しまいには 単なる平面にぴたりと自分の体を寄せた」という少女の行動の後だけに、「私が心底からおのれのことを誇るに足る存在と感じたのは それが最初で最後だった。」という落書きの言葉は深く納得してしまう。

すると少女は
   少しもためらうことなく
      まっしぐらに私のところへ近づき
         指先の感触のみを頼りに
            たちまち世一を探り当て、

            「ああ、よいっちゃんだ、よいっちゃんだ」と幾度も呟いて
                しまいには
                   単なる平面にぴたりと自分の体を寄せた。

私が心底からおのれのことを誇るに足る存在と感じたのは
   それが最初で最後だった。


(丸山健二 「千日の瑠璃 終結2」261頁」  

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さりはま書房徒然日誌2024年6月15日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十三日を読む

ーフィルムにはない文章表現ならではの魅力ー

三月十三日は「私はカメラだ」で始まる。まほろ町に新婚旅行に訪れた夫婦は、通りがかった世一に写真を撮ってくれと頼む。
以下引用文。世一が体を揺らしながら写した風景。フィルムに摂りこまれた風景を映像で見れば一瞬で過ぎ去ってしまう。
でも、こうして文で描かれると一つ一つの情景が別々に心にたちのぼってくるようで、文章ならではの表現の魅力を感じる。

しかしながら
   私がフィルムに摂りこんだのは
      着水に失敗して無様につんのめる
         経験不足の若い白鳥と
            ボートを浮かべてワカサギ釣りを楽しむ隻腕の男、

            ほかには
               結婚式までしか考えていなかった男女の
                  頼りない笑みの底にこびり付いている
                     一抹の不安のみだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」255頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月14日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十一日を読む

ー「焦燥」が語ればー


三月十一日は「私は焦燥だ」で始まる。世一の姉に取りついた恋の焦燥が語る。
以下引用文。焦燥の語る言葉。姉が自分の言葉で語ったりすれば、あまりにも生々しくなりすぎるかもしれない。作者の視点で語れば、冷たく感じられるかもしれない。
でも「焦燥」という有り得ない視点で語ることで、娘の様子が哀れにも、コミカルにも思えてくる気がする。

「これまでおまえに興味を示した男がひとりでもいるのかな?」と訊き
   「いなければ、これからだって絶対に現れないぞ」と決めつけ、

   その意味においては
      弟の方がまだましというもので、

      オオルリという連れ合いがいるばかりか
         住民のほぼ全員に関心を持たれており
            その意味においては幸福な人生だと
               嫌みたっぷりにつづける。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」249頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月13日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十日を読む

ー文章で出会う世界ー

三月十日は「私は雪崩だ」と「うつせみ山の南側の急斜面に発生すべくして発生した」「雪崩」が語る。

長年、信濃大町に住んでいる丸山先生らしい感覚にあふれた箇所だと思う。まだ雪崩を体験したことがない私は、その音や気配、雪崩を迎える山国の人の心境を知る。私なら思わず怖くなって布団を頭から被ってしまいそうだが、山国の住民にとっては「春を知って 束の間心をときめかせ」るものと知って意外だった。

それほど大した規模ではない私であっても
   だが音だけは立派で
      たちまちのうちに落ちかかる雷火のごとき轟音に成長したかと思うと
         まほろ町の夜明けをびりびりと振動させ、

         物凄まじい気配で目を覚ました住民たちは
            いよいよ間近に迫った春を知って
               束の間心をときめかせ、

               根拠に頼ることなく
                  何やらいいことが起きるのではないかと
                     本気で期待する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」242頁)

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