さりはま書房徒然日誌2024年3月10日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー連想ゲームみたいに連なる言葉から見えてくる姿ー

十一月二十三日は「私は薄笑いだ」で始まる。
まほろ町にあらわれた白いクルマを乗りまわして薄笑いを浮かべる青年に、町の人は恐れをなしてしまう。

この青年の職業?が書かれていなくても、青年の様子や町の人の反応で何となく察せられるところろが面白い。
そんな青年にびびる町の人たちの様子に、なんとも情けない小市民ぶりが出ている。悪に反応する様子から、常識人たちの虚を描いているところも面白い。

以下引用文。青年の薄笑いを真似ようとする世一。その様子を残酷なまでに思い描かせる言葉の展開を興味深く読む。
「骨なし動物」「奇妙な動き」「つかつか」「穴があくほど」「恐ろしく締りのない」「さかんに歪める」「ぐにゃぐにゃ」
……そんな風にイメージが繋がる言葉が続くことで、世一の姿を絵のように容赦無く浮かび上がらせてくれる気がした。

ところが
   骨なし動物のごとき不気味な動きをする少年だけは別で、

   つかつかと進み出た彼は
      穴があくほど青年をまじまじと見つめ、

      あげくに
         私を真似ようとして
            恐ろしく締りのないその唇を
               さかんに歪める。


だがどうしても上手くゆかず
   しまいには収拾がつかなくなってぐにゃぐにゃになり
   それでも思わず吹き出したのは
         結局のところ私だけだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年3月9日(土)

神奈川県立図書館第四回ボランティア朗読会「ともに……」へ

ー知らない本との出会いをつくってくれたことに感謝ー

神奈川県立図書館は新しく建て替えてまだ二年……らしい。閲覧席から青空や港のビルが目に入る開放的な建物である。
またLib活「本を読み、本を朗読する講座」なるものを開講、受講者の方々は県立図書館ボランティアとして活動される……という素敵な試みをされているらしい。そういう取り組みのない自治体に住んでいる身としては羨ましい限りである。

知っている方がこの講座を受講され、第四回朗読会で朗読をされるので聴きに行ってきた。

文学作品を耳から味わう……という体験は、振り返ってみれば演劇、文楽、女流義太夫、落語……と色々してきているのだけれど、図書館ボランティアの朗読はそうした語りとはまた別の良さ、素晴らしさがあると思った。


前者のグループの場合、こちらも聞くときにガチガチに緊張しているなあと気がついた。そのうちベッドに寝たきりになったら浄瑠璃がある!と思っていたが、浄瑠璃のテンションの高さ、緊張を強いる語りはベッドの上の弱った身には無理かもしれない……と今日ふと思った。

図書館ボランティアの方の朗読を聴いていると、穏やかに、静かに、すーっと自然に体が海水に浮遊するみたいに作品の中に入ってゆく。まるで病床で何かを読み聞かせてもらっているように、リラックスした気分で物語が染み込んでくる。
病院でベッドの上で聞くなら、浄瑠璃よりも、こういう朗読の方がいいかも……と考えをあらためた。

今、図書館の棚に「共に生きる」をテーマに人権に関する本が並べられているそうだ。
朗読会も「ともに……」をテーマにして、ボランティアの方々が様々なジャンルから選書されたとのこと。おかげで知らない本にたくさん出会えた。

なかでも非常に興味深く印象に残ったのは知里幸恵「アイヌ神謡集」という本との出会いだ。知里幸恵さんはアイヌの方。アイヌで初めて物語を文字化したそうだ。
「アイヌ神謡集」を本にするもわずか19歳で亡くなる。
知里さんの言葉を朗読して頂いて、静かな、祈るような言葉が心に残る。
ちなみに「アイヌ神謡集」が本になって一ヶ月後、関東大震災が襲う。

https://www.ginnoshizuku.com/知里幸恵とは/


「くまとやまねこ」は、毎日の朗読練習の様子を聞いているだけに、クリアな声も、くま、鳥、それぞれの動物たちの個性あふれる声も、メリハリのある読みも、いつまでも情景が残る語りも楽しみつつ、ここまで上達されるにはどれだけ練習を重ねたことか……と、背景に隠された時間の積み重ねに感謝しつつ聞いていた。

昨夜の講義で、福島泰樹先生が情感たっぷりに一人称の朗読をされた方のことを、「これまでこの人はずっと対話の朗読をしてきたから、それぞれの語り手の感情を込めて読むようになって、今、一人称の文をこれだけ感情移入して読むのですよ」などという趣旨のことを言われていた……と「ああ、なるほど」と思い出した。
これから、どんな朗読を聞かせてもらえるのだろうか……また人生の楽しみが一つ増えた思いである。

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年3月8日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー影は影でも語り方でずいぶん違ったものに思えてくるー

十一月二十二日は「私は影だ」と様々な影が語り手となる。どれも同じ影の筈なのに、其々の人生を色濃く滲ませ書かれているのが心に残る。

以下引用文。「長く且つ憂色の濃い」という言葉に、思わずどんな影なのだろうと想像してしまう。

私は影だ、

   へとへとにくたびれ果てて帰宅を急ぐ工員たちが
      砂利道の上に落とす
         長く且つ憂色の濃い
            くっきりとした影だ。


私をあたかも足枷のように引きずり
   浮かぬ顔で歩を進めるかれらのなかには


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」210ページ)

以下引用文。「匍匐性の外来植物」「しぶとくてがっちりと」「大地をつかみ」「びくともしない」としつこいイメージを連ねて表現することで、影もずいぶんとたくましく違ったものに見えてくる。

しかし
   ともあれきょうの私はというと
      地力の衰えた耕地をびっしりと覆い尽くす匍匐性の外来植物のごとく
         どこまでもしぶとくてがっちりとまほろ町の大地をつかみ
            天下無敵の少年
               あの世一に踏まれてもびくともしない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」213ページ)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年3月7日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー凡庸な地に詩情あふれる名前を、人間にはいつも同じような名前をつけることで浮かんでくるものー

十一月二十一日は「私は橋だ」で始まる。
「鉄筋コンクリート製の 当たり障りのない形状の 要するに無骨一点張りの橋だ」というロマンに欠けた橋が語り手だ。
正式な名称があるにもかかわらず、町民は「かえらず橋」と呼んでいる。

「千日の瑠璃」に限らず、他の丸山作品もそうだと思うが、ありふれた町や山や橋に、詩情あふれる名前がついている……「まほろ町」「かえらず橋」「うたかた湖」「うつせみ山」「あやまち川」。

それとは逆に人間にはありふれた名前、いつも同じような名前ー男なら忠夫、女なら八重子だっただろうかーがついている。

凡庸な風景に思いもよらない名前をつけることで、平凡な場面が一気にポエジーの域に達する気がする。

そして人間には、いつも同じような名前をつけることで、どんな人間にも共通する想いに集約されてゆく気がする。

以下引用文。なんと「まほろ町」「かえらず橋」「あやまち川」という名前にそぐわない町であることか!
この現実と地名の乖離が、不思議な詩情と幻想へつながってゆく気がする。

あれからすでに十二年という歳月が流れていても
   まほろ町にさしたる変化はなく
      期待された高利益はもたらされず
         いまだに旧態依然たる田舎町の典型でしかなく、

         私の下をくぐり抜けるあやまち川と同様
            華やかな時代は
               ただ通り過ぎて行くばかりで、

               文明も文化も
                  所詮は他人事でしかない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」207ページ 

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年3月6日(水)

ジョージ・オーウェル「動物農場」(高畠文夫訳)を読む

ーこれは今の日本と同じではないか!ー

「動物農場」は農園の専制君主ジョーンズ氏を追い出した動物たち。最初は上手くいっていたが、動物たちの権力闘争やら離脱もあって、やがて豚が人間に代わって権力を握りしめ独裁者と化してゆく……というストーリーである。

若い頃の私には「動物農場」の恐ろしさ、面白さがよく分からなかった。いま読んでみれば、まるで現代の日本について皮肉たっぷりに書かれたような作品である。

でも「動物農場」は、解説によれば「ソビエト的ファシズムをの実態を広く世界に訴え、警告を与えたい」という意図のもとに書かれたとのこと。
そうか……いま私がいるこの日本は、民主主義の仮面を被ったソビエト的ファシズムの国なのだ。

以下引用文。
農園主ジョーンズ氏を追放して独立を勝ち取った動物たち。だが主人に支配される状態を当たり前としてきた感覚から、そう容易く脱出できない。まるで私たちのように。

動物たちの中には、自分たちが「主人」と呼んでいるジョーンズ氏に対して忠実であるのは、むしろ義務とであるというものや、「ジョーンズさんが、われわれを養ってくれているんだぜ。もしあの人がいなくなったら、われわれは飢え死にするじゃないか」という、幼稚な発言をするものがいた。

(ジョージ・オーウェル「動物農場」より)

以下引用文。豚の横暴な支配下、厳しい暮らしを我慢している動物たち。でも人間に支配されていた頃はもっと酷かったと、現実を正しく見ることができない。そう、私たちのように。

彼らは、現在の生活がきびしい最低のものであること、しょっちゅう腹がペコペコだったり寒かったりすること、眠っていないときは、たいてい働いていることなど知っていた。しかし、あのころは、たしかに今よりもっとひどかったのだ。彼らは心からそう信じた。

(ジョージ・オーウェル「動物農場」より)

以下引用文。
引退年齢を迎えた馬である。
人間から独立した当初は、引退年齢が定められ、その年になったら労働を免れる筈であった。だが豚が横暴な支配者になるにつれ、そんな話は消えてしまう。
今の日本のようだ。

彼女は、引退年齢を二年も過ぎていたが、実際、ほんとに引退した動物は、まだ一ぴきもいなかった。老齢退職した動物のために、放牧場の一角を保留しておくという話は、とっくの昔に立ち消えになってしまっていた。

(ジョージ・オーウェル「動物農場」より)

「動物農場」の恐ろしさを我が事のように読んでしまう今の日本。だからこそ読みたい本である。

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年3月5日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「モノ」だからこそ「私」が連発されても気にならないし、かえって興味がわいてくるー

十一月二十日は「私は火花だ」で始まる。火花に魅せられて、ストーヴ作りをするようになったーそれも火花がよく見える夜にー男を火花が語る。

書き写していると「千日の瑠璃 終結」には、「私」が本当に多いと思う。
人間でないモノたちが語るからこそ、こんなに「私」が出てくるし、出てきても気にならないのだろう。それどころか「私」って「火花」ではないか、何を言うつもりか?と気になってしまう。

以下引用文。

火花に見惚れる男。その男をじっと見つめる世一の姉。その傍に立つ世一……という構成が、短い行数にもかかわらず、それぞれの心を語って深みを醸しているように思えた。

彼のほかに
   垣根越しに私をじっと見つめる者がいて
      ひとりの女が我を忘れて……、

      否、そういうことではなく
         彼女が私に魅了されたわけではなく
            私が照らし出す男を注視しており、

            そして今そのかたわらには
               奇妙よりも奇怪という表現がぴったりの少年が
                  前後左右に全身を揺らしながら立っていた。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結1」205ページ)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年3月4日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「北」からこんなに物語が生まれるとは!ー

「私は北だ」で始まる十一月十九日。なんと「北」が語り手である。もし「北」をテーマに物語を作れ、短歌を作れ……と言われたら、どんな文が思いつくだろうか……と自問自答してしまう。

丸山先生は「北」を語り手にして、人間社会の理不尽を撃ち、そして束の間の幻想を見せてくれる。

以下引用文。「理不尽」が「大津波のごとく どっとなだれこんだ」という表現に、すべての男たちが兵隊にとられた時代への丸山先生の怒りを感じる。

そして
   年寄りと子どもを除いた男という男を
      ひとり残らず兵士に仕立てずにはおかぬ
         恐るべき理不尽は
            東の方から
               大津波のごとく
                  どっとなだれこんだ。


丸山健二「千日の瑠璃 終結1」199ページ

以下引用文。いかにも死の象徴らしい「北」が、「さまよえるボートを差し向けるから それに乗って遊びにくるがいいと唆す。」という言葉に表されている。童話の一節を読んでいるような気がしてくる箇所である。

この町で私のことを差別しない唯一の人間
   少年世一は今わが主張を口笛で代弁し

   その礼と言ってはなんだが
      できることなら彼の辛過ぎる悲しみを取り去ってやりたくて
         こっちへこないかと誘い、

         さまよえるボートを差し向けるから
            それに乗って遊びにくるがいいと唆す。



ところがとんだ邪魔立てが入り

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」201ページ

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年3月3日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「 」の会話文にしないことで生まれる効果ー

「私は弱音だ」で始まる十一月十八日。
「不治の病に浸された」世一の母親が勤務先のスーパーでレジ打ちをしながら漏らす「弱音」が語り手である。

この箇所を、普通の書き方にして母親の言葉を「 」の会話文にしてしまうと、感情に走ったり湿っぽいだけの文になってしまうと思う。

だが以下引用文のように、母親から吐き出された「弱音」が自在にスーパーの店内を駆け巡って聞き手を探したり、客の様子を観察したりする。

そんなあり得ない情景はどこかユーモラスであり、湿った悲哀から解放してくれる。それでいながら母親の孤独を語ってくれるのではないだろうか?

そして
   さまざま憐笑の間隙を縫って突き進み
      親身になって私の話に耳を傾けてくれそうな相手を
         あるいは
             私などもう恥じ入るしかない
                もっと凄い悲劇を背負った母親を
                   懸命に探し回る。


しかし
   どの客もしっかりと財布を握りしめて
         まずまずの幸福の領域に身を置き、

      生鮮食品を品定めする鋭い眼差しは

         ともあれきょうを生きることに満足して
            それなりの輝きを放っている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」194ページ  

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年3月2日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー言葉を尽くして書くことで見えてくるものー

十一月十七日は「私はくす玉だ」で始まる。
くす玉の中から放たれた「貧乏くさい白い鳩」が、「オリンピックのメダルを手にして故郷に錦を飾ることができず」というマラソン選手の頭から、「厄介な病のせいで走ることなど思いも寄らぬ少年の頭」へ移動してゆく。
それにつれて人々の反応が変わってゆく様子を、動かぬ身であるくす玉がよく観察しているところが面白い。

以下引用文。「私が今し方放ったばかりの白い鳩」がマラソン選手の青年の頭に止まった瞬間、人々が浮かれる様子が「気」やら手を打つ様子、歓声で描かれている。
どよめきもありがちな会話で進めてしまうのではなく、「まだ期待が持てるかもしれないという意味に相違ない どよめきが広がってゆく」と丁寧に書かれている。

最近よく見かける小説なら、“「すごい」と拍手した“、と一瞬で終わるだろう箇所が、これだけ言葉を尽くして書かれることで、やけに立体的な文に見え、白い鳩のシンボルやら人々の愚かさ、可愛らしさを考えてしまう。

しかし、くす玉も最近ではほとんど見なくなった気がする。鳩入りのくす玉にはお目にかかったことが一度もないかもしれない。

ただそれだけのことで和やかな気が漂い
   一同は手を打って喜び
     ちょっとした歌が渦巻き、

     もしかすると
まだ期待が持てるかもしれないという意味に相違ない
           前向きなどよめきが広がってゆく。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」193ページ)


カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年3月1日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー普段意識しない存在の意義を見つめる視線ー

十一月十六日は「私は空気だ」で始まる。
以下引用文にある空気が語る、自身の役割が私には新鮮である。「しっかり結び付けるために」「生と死を仲違いさせないために」……そう言われてみたらそうなのかもしれない。大きな視点にたち、人間以外の在り方に目を向ける姿勢が、従来の小説とは違うと思う。

さらには
   植物と動物を
      動物と鉱物を
        鉱物と植物をしっかり結び付けるために、

        あるいは
           生と死を仲違いさせないために
              仲介の労を執る。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」188ページ

以下引用文。そんな結び付ける働きをする「空気」が見えれば、世一は「絶望的なくいちがいなどひとつとして読み取っていない」存在なのだ。
普段「結び付ける」とか「くいちがい」とか全く意識しないで暮らしているので、そんな当たり前に意義を見出す視線が印象に残る。

しかしこの私だけは
   彼のなかに絶望的なくいちがいなどひとつとして読み取っていないし
      来るべき破局も予見しておらず
         彼ほどの現世的な原理に則った存在を他に知らないのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」189ページ

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする