さりはま書房徒然日誌2024年1月20日(土)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー言葉がつないでゆくイメージの美しさよ!ー

1巻396ページ「唄え!」の前2ページに配置された菱形部分は、片側が死について、片側が生と格闘する主人公についてイメージを喚起するように書かれている。

引用箇所について。
まず死が聴覚的、絵画的に語られた後、犯罪者である主人公と重なる悪のイメージへと展開してゆく。
「個体の終末」「雨音にかき消され」「悪事は狂的な信仰」「古びた港まで曳航される老朽船」この言葉による連想の仕方が、意識下に深い映像を送り込むようで面白い……というか、この送られてくる映像がすごく気に入った。


「古びた港」から「掃き溜め」と、飛躍しているようで「水っぽくてゴタゴタしている」というイメージがつながり、無数の生の泡が見えてくる気がする。


それから生の没義道ぶりを語って、次のページの犯罪者の主人公へと繋げていっているのではないだろうか?


そんなふうに言葉の連想ゲームで脳内に不思議な絵画が描かれるひとときを楽しんだ。

         死
      は個体
     の終末とい
    う声が雨音にか
   きけされてゆく 悪
  事は狂的な信仰 さもな
 ければ 古びた港まで曳航さ
れる老朽船 ともあれ 掃き溜め
 に棄てるほどある生命は 法
  に即しての行為をけっし
   て求めず 自由に敵
    対するものとし
     て排除した
      がるの

       

(丸山健二「風死す」1巻

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さりはま書房徒然日誌2024年1月19日(金)

変わりゆく日本語の風景 ーういなやつー

文楽にしょっちゅう出てくる言葉の一つに「ういなやつ」がある。
「うい」は漢字で書くと「愛い」で、意味としては「健気な」という意味があって、年下を褒めるのに使われるようだ。

「近頃河原の達引』では、こんな風に会話文で使われている。

ムムでかした愛【う】いなやつ

(「近頃河原の達引 四条河原の段」より)

「ういな」という語感のせいだろうか? 他の言葉に置き換えても、しっくりしない気がする。「ういな」という言葉のリズムには、相手への愛情が滲んでいる気がする。

日本国語大辞典で「うい」の意味、用例などを調べると、以下のように書かれている。

好ましい。愛すべきだ。殊勝だ。けなげだ。主に目下の者をほめるのに用いる。

*浄瑠璃・本朝三国志〔1719〕一「うゐわかい者。出かした、出かした」

*浄瑠璃・義経千本桜〔1747〕二「今の難義を救ふたるは業に似ぬうい働」

*浄瑠璃・本朝二十四孝〔1766〕四「それを取得にお抱へなされて下されうなら、望んでなりと御奉公仕度きお屋敷。ホホ出かした愛(ウ)い奴」

ヨキ、ヨイ(好)の転か〔大言海〕。

(日本国語大辞典より抜粋)


浄瑠璃文に出てくる「ういなやつ」に滲む愛情は、どうも現代の日本語には見つけることが出来ない気がする。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月18日(木)

変わりゆく日本語の風景

ーかつて「道理」という言葉には共感があったのではないだろうか?ー

文楽は、江戸時代の上方の言葉のまま上演されているそうで、言葉のタイムトラベルを楽しむ楽しさもある。

ずいぶん変わった言葉もあれば、言葉そのものは変わっていないけど、ただ意味合いというかニュアンスがだいぶ異なっていると思う言葉もある。


「道理」も、形は現代と同じだけど、使われ方が違うのでは……という言葉の一つである。


文楽作品では、若い娘も、ヒロインもやたら「道理」を連発する。
同じ言葉を連発されると、普通うんざりしてくるのだが、「道理」にはそれがない。
まず若い娘も、ヒロインも日常会話の中で「おお、道理、道理」とよく繰り返す。そんな使われ方からして、現代の「道理」の少し硬いイメージとは違うのではないだろうか……という気もしてくる。

道理の意味は現代と違いはない気もするが……

正しいことわり。筋道。そうあるべきこと。

(小学館全文全訳古語辞典)

日本国語辞典の説明の最後の一文に、「道理」という言葉が文楽作品で発する哀しさがあるのだろうか……という気もする。
もしかしたら「世間一般には分かってもらえないかもしれないけれど、私には分かります」という気持ちも込められた言葉だったのではないだろうか。

現代では、物事の正しい筋道・論理・必然性等を広く指すが、種々の物事についての個別的な筋道・正当性・論拠などの意でも用いられ、特に政治・法律に関わる分野に用例が多い。

この語は、古くは正当性の基準をかなり具体的に持つことがあった。たとえば、除目における「道理」の場合、才能・芸能・栄華・年労・戚里といった、人事の基準を示すものであって、一般的・普遍的な正当性を示すものではない。従って、一般的・普遍的には不当と思われることでも、個々の分野の基準としては「道理」になり得るわけである。

(日本国語大辞典)

文楽2部「伽羅先代萩」に出てくる命を狙われる若君を守る乳人・政岡は、毒殺を避けるため他からの食べ物は拒んでひもじい思いをしている若君に

ヲヲ御道理でございます

「御道理」という言葉を幾度も繰り返す。現代の「道理」にはないシンパシー、労りを太夫さんの語りに感じつつ聞いていたが、さて当時の「道理」にはどんな思いがあったのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年1月17日(水)

変わりゆく日本語の風景ー「未来」ー

文楽公演3部「平家女護島」「伊達娘恋緋鹿子」を観に行った。
文楽によく出てくるキーワードの中には、現代の日本語とは少し意味が違うかな……という言葉も結構ある。


その一つが「未来」だ。
以下引用文は「伊達娘恋緋鹿子」のお七の言葉より。

死なば一緒と言ひ交はした私を捨てて死なうとは胴欲なむごたらしい。別れ別れに死ぬるとも、未来はやつぱり変わらぬ女夫、言うた詞違やうか

お七の言う「未来」は、私たちが「明るい未来」というように使う意味ではない。「未来世」、つまり死後の世界のことである。

この時代にも、これから起きる世界という意味で「未来」が使われることはあったようである。

ただ文楽、浄瑠璃作品での「未来」は圧倒的に死後の世界を指しているのではないだろうか……。

いい加減なダメ男が、恋人には今を誓い、妻には未来、死後の世界で一緒……と誓う作品もあったような気がする。


今、日本の政治家が「皆さんの未来のために」とか抜け抜けと言っているのは、果たしてどちらの意味での未来なのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年1月16日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー魔術みたいにイメージが繋がっていく!ー

丸山先生が次々と切り出す思いがけないイメージが愉しい。
突拍子もない言葉と言葉が、丸山先生の文で繋がって、何だか世界が思いがけない方向に広がっていく爽快さがある。

「大型回遊魚」という少し獰猛そうな生き物の気泡から思い起こされるのは、流れるように生きている主人公。

「高層ビルの先端の揺れがわかる地震」「執拗な余震」という嫌なイメージから一気に「美しい暮夜」「きらめき」と美しく反転。

「絶壁の上に生えた高木」「するするとよじ登り」とまた揺れるイメージが復活。

「朝春の潮」「凄まじい怒号」と音が喚起されたところで、「胸に納め」最後に「微笑む」の三文字にパンチを感じる。

大型回遊魚の気泡を思わせる奔放な気性と
  それに伴う現状に一も二もなく休んじ


  高層ビルの先端の揺れがわかる地震と
    執拗な余震がすっかり収まった頃
      密やかに訪れた美しい暮夜が
        まだ震える際にきらめき



        絶壁の上に生えた高木に
          するするとよじ登り
            浅春の潮を眺め



            凄まじい怒号を
              胸に納めて
                微笑む。


(丸山健二「風死す」1巻388ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月15日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー万物の視点で語ることのできる、散文ならではの可能性ー

「私は落ち葉だ」(十月十三日 木曜日)
「私は神木だ」(十月十四日 金曜日)
「私は怒りだ」(十月十五日 土曜日)
「私は日曜日だ」(十月十六日 日曜日)


落ち葉、神木、怒り、日曜日が、不自由なところのある主人公・世一を語っていく。


一人称で語りながら、人以外のあらゆるものの視点で語ることができる……というのが、散文の大きな特徴というか、強みなのだ……と、短歌を少しかじって思うようになった。


短歌は必然的に一人称詩型である。ただ自分以外の誰かの視点に降り立ち、代わりにその人物の思いを歌うことができる

「千日の瑠璃」は、物の、感情の、曜日の、万物の視点に立って語ることのできる散文……の忘れられている可能性を示していると思う。


そんな人ではない存在たちが見つめる世一は、次第にただの憐れむべき不自由な存在から不思議な力を持つ少年に見えてくる……。

それも人ではない存在が語るからではないだろうか?

以下引用文は、日曜日が語っている。日曜日だからこそ、「覗きこむ」ことも、「逃げ帰る」こともできるのであり、そうした日曜日の姿?に世一のこの世のものではない力を感じる。

そのオオルリは
   まさに囚われの身でありながら
      飼い主のそれにも匹敵する
         非の打ち所がない
            無碍の境地に達しているかのように思えてならない。


きょうという新鮮さをバネにして
   私は世一とオオルリの双方の心を覗きこもうとしたものの、


   残念ながら
      影と闇とが複雑に入り混じる
         底なしの淵に引きずりこまれそうになり、

         慌ててそこを飛び出し
            光輝の世界へと大急ぎで逃げ帰る。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」65ページ 

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さりはま書房徒然日誌2024年1月14日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーすごく大きな存在から小さな存在まで僅か数行で語る対象が変化する!ー

以下引用文。
語られている対象は、まずは人智を超えた大きな存在である。
それが段々と身近な存在や主人公自身の感情へと収縮してゆく。
そんなふうに対象が変化してゆく過程をとおして見ると、意外とちっぽけな人間にもロマンがあるのだなあと心打たれるものがある。

「定かなる宿命と 定かならざる運命」というフレーズに、まず運命の神様みたいな語り口で格好いいと惹きつけられる。

最初の段落が「高らかに舞い上がり」で終わり、次の段落が「東の空に利鎌のごとき月が架かる」と空の高いところにある月の描写で始まっている。
よくは意味が分かっていなくても、何となく「高い」繋がりでイメージが連続するから、分かっているような錯覚に陥る。

同じように「利鎌」「月」「銀泥」とイメージがかすかに心の中で結びついている。

「銀泥のような」ではなくて、「銀泥に酷似した」と言えば「のような」のオンパレードを避けられると学習する。

……ああ心に残る文!と思い、なぜだろうと野暮なことに追及してしまった。

定かなる宿命と 定かならざる運命が複雑に絡み合って
  天命の潮流が宇宙の彼方から運んでくる快楽主義が
    疲労の極に達して埃と共に高らかに舞い上がり


    東の空に利鎌のごとき月が架かる秋の夕間暮れ
      銀泥に酷似した色合いの大海原を前にして
        花筵の上で密やかに茶を立てる粋人が
          はっと思い当たったことに驚いて
            思わず張り上げた短い叫びが
              蛇行した河岸を独り行く
                俺の胸にいたく響き


(丸山健二「風死す」1巻375頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月13日

佐多稲子「私の東京地図」を読む

ー関東大震災前後の東京の風景が実に細かく書かれているー

先日受けた福島泰樹先生の「文学のバザール浅草」講座の資料に出てきた佐多稲子の浅草を語る文の鮮やかさ、躍動感に惹かれて、佐多稲子「私の東京地図」(講談社学芸文庫)を手にする。
「私の東京地図」「版画」「橋にかかる夢」「下町」「池之端今昔」「挽歌」の六篇を読む。

関東大震災前後の上野、浅草、日本橋界隈の風景が実に細かく書かれている。だが、どんなものなんだろうか……と想像し難いものも結構あって、さらに街並みも今とはすっかり違って、まったく知らない国を旅している気分になる。
たまに不忍池の描写が出てくると、「ああ、変わらない」と安堵したりする。

今とは色々違うことばかり……

この時代、棺桶は丸桶だったんだ……葬儀屋の人夫さんが死体の足をポキポキ折って丸桶に座らせるんだ……

足袋屋さんでは「文数に合せた木型に足袋をはめて、竹べらで指先の切り込みを押え、木槌で叩いて型を仕上げてくれた」(佐多稲子「池之端今昔」)

丸善の入り口には下足番のお爺さんが二人いた……。

丸善の左右に内側へ開く入口のとっつきに、赤い鼻緒の麻うらがずらりと並べてある。下駄の客はこれに履きかえて下足の札を子の老人たちから受け取って店内へ上る。靴の人は、この老人たちに茶っぽい靴カバーをはめてもらう。東京の町の道路がまだそういうことを必要としていた。

(佐多稲子「挽歌」)

丸善で佐多稲子の同僚女性は、大杉栄が洋書売り場にいたと騒ぐ。

「大杉栄の目はすごいわよう。キラキラ光っているわよ。あの目だけで魅惑されてしまうわよ』

(佐多稲子「挽歌」)

こんなに書店員からキャーキャー騒がれる大杉栄が惨殺されたのだから、世間への衝撃、あるいは見せしめの度合いはさぞ……と思ってしまった。

関東大震災前後の東京の街が、そこで逞しく働く佐多稲子の動きが、映画を観ているように浮かんでくる作品である。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月12日(金)

短歌の師、散文の師……二人の師の共通する教え

不思議にも短歌の師・福島泰樹先生と散文の師・丸山健二先生は、教えががぴたり重なることがよくある。
たぶん会ったことはない二人の師が同じことを言われるのに驚き、片方の師の講義のおさらいをしている気分になることしばしば。
真摯に書く……という創作行為の原点は短歌であれ、散文であれ、共通するものがあるのだろうか?

そんな共通する教えの一つが「いつも手帳を」。
今日も「言葉は降ってくるものだから、いつも手帳を用意して言葉を受けとめるように、言葉はすぐ消えてしまうから」と福島先生から教えて頂く。
「いつも手帳を」は、丸山先生もよく言われていることだ。
ただし手帳の使い方は、やはりそれぞれ違うようだ。詩文と散文の違い故だろうか?具体的な使い方を知りたければ講義を受けてみてはどうだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年1月11日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し再読する

ー「口笛」という見えない語り手が見えてくる!ー

十月十日は「私は口笛だ」で、十月十一日は「私は噂だ」で、十月十二日は「私は靴だ」で始まる。

不自由な世一が吹き鳴らす「へたくそのひと言ではとても片づけられない 切々たる響きを伴う口笛」を語る以下引用文に、不思議な者としての世一の存在を感じる。

けっしてきのうの延長などではない
   未知なるきょうに向かって吹かれ、

   控えめな進行ではあっても
      確実に狂ってゆくこの世に向かって吹かれ


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」38ページ)


遠くの山々に谺する口笛を描く以下引用文。高峰に寄せる想いに「そういう感情もあるなあ」と気がつく。気持ちが高きへ向かった後なので、世一の口笛に反応する家族の反応がリアルに感じられる。

きらきらと輝く陽光がもたらす風によってはるか遠くまで運ばれ
   亡き者の面影を偲びたがる人々が必ず仰ぐ高峰
      うつせみ山に撥ね返された私は
         ふたたびこの片丘へと舞い戻り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」39,40ページ)


「私は靴だ」で始まる文を読み、「靴」で世一の父親の外見から人生、心境をこんなに語れるものか……と丸山先生の観察眼に驚いた。

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