さりはま書房徒然日誌2024年1月10日(水)

福島泰樹短歌絶叫コンサートへ

ー「風に献ず」と「賢治幻想」の世界を楽しむー

福島泰樹短歌絶叫コンサートを聴きに吉祥寺のライブハウス曼荼羅に行ってきた。ぼーっと聴いていたから、間違いも多々あるかもしれないが、当てにならない記憶に残っていることを少しメモ。

毎月10日に開催されている短歌絶叫コンサートは、今年で40周年を迎えるそうである……。

今回ギターを演奏して歌ってくれた佐藤龍一さんと福島先生が最初に短歌絶叫コンサートを開いたのは、アテネ・フランセ……という場所も意外であった。

短歌絶叫コンサートをはじめたキッカケは、「当時は詩人が詩のコンサートをよく開いていた。でも短歌の歌といえば、宮中の歌会の節回しか牧水の歌のようなリズムしかなかった、短歌は歌謡なのに」という思いから始められた……と語られていた気がする。

短歌は短いから苦労もあったようだが、まず福島先生がコンサートの台本を書き、その台本を見て佐藤龍一さんたちが音楽を作り……。その逆の場合もあるそうだ。
それにしても40年、1200くらいのステージをこなしてきたとは凄いなあと思う。

今回はまず岸上大作の歌を歌い、福島先生の第一歌集「バリケード1966年2月」を歌いながら、「詩の使命とは、文学の使命とは次の世代に伝えていくこと」と語る。
そして「学生たちがこれほど熱意をこめて社会を変えようとした時代があったのに、72年の連合赤軍から流れが変わってしまい、そうした動きを避けるように、語らないようになってきてしまった」とも嘆かれる。
たしかにこれだけの学生たちの熱量が蒸発してしまった背景……もっと知らなくてはとも思った。

福島先生が中原中也の「別離」について、「こんなにいい詩なのにあまり知られず論評もされていない」と残念そうに言われていた気がする。「別離」は短歌絶叫コンサートではしょっちゅう歌われるから、とても有名な詩なのかと思い込んでいた。

佐藤龍一さんの詩「合わせ鏡」も、合わせ鏡に合わせたようなイメージが次々と繰り出される詩で、こんな風にイメージが膨らませられるのかと驚いた。

私が今書いている長文でも、実は合わせ鏡のイメージを使っているのだが、こんなに展開していない……と反省することしきり。
もう今からでは遅いし。でも「合わせ鏡」ってイメージを刺激する存在だよね、と思いついた自分を褒めて納得する。

以前も引用したと思うが、中原中也の別離を以下に。
この詩は聞くたびに印象が変わる。
朗読者が何に別離を言おうとしているのかで印象が変わるのかもしれない。

別離

中原中也

さよなら、さよなら!
  いろいろお世話になりました
  いろいろお世話になりましたねえ
  いろいろお世話になりました

さよなら、さよなら!
  こんなに良いお天気の日に
  お別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い
  こんなに良いお天気の日に

さよなら、さよなら!
  僕、午睡ひるねの夢から覚めてみると
  みなさん家をけておいでだつた
  あの時を妙に思ひ出します

さよなら、さよなら!
  そして明日あしたの今頃は
  長の年月見馴れてる
  故郷の土をば見てゐるのです

さよなら、さよなら!
  あなたはそんなにパラソルを振る
  僕にはあんまりまぶしいのです
  あなたはそんなにパラソルを振る

さよなら、さよなら!
さよなら、さよなら!

 僕、午睡から覚めてみると、
みなさん、家を空けてをられた
 あの時を、妙に、思ひ出します

 日向ぼつこをしながらに、
つめ摘んだ時のことも思ひ出します、
 みんな、みんな、思ひ出します

芝庭のことも、思ひ出します
 薄い陽の、物音のない昼下り
あの日、栗を食べたことも、思ひ出します

干された飯櫃おひつがよく乾き
裏山に、烏が呑気に啼いてゐた
あゝ、あのときのこと、あのときのこと……

 僕はなんでも思ひ出します
僕はなんでも思ひ出します
  でも、わけて思ひ出すことは
わけても思ひ出すことは……
――いいえ、もうもう云へません
決して、それは、云はないでせう

忘れがたない、にじと花
  忘れがたない、虹と花
  虹と花、虹と花
どこにまぎれてゆくのやら
  どこにまぎれてゆくのやら
  (そんなこと、考へるの馬鹿)
その手、そのくち、そのくちびるの、
  いつかは、消えてゆくでせう
  (みぞれとおんなじことですよ)
あなたは下を、向いてゐる
  向いてゐる、向いてゐる
  さも殊勝らしく向いてゐる
いいえ、かういつたからといつて
  なにも、おこつてゐるわけではないのです、
  怒つてゐるわけではないのです

忘れがたない虹と花、
  虹と花、虹と花、
  (霙とおんなじことですよ)

 何か、僕に、食べさして下さい。
何か、僕に、食べさして下さい。
  きんとんでもよい、何でもよい、
  何か、僕に食べさして下さい!

いいえ、これは、僕の無理だ、
    こんなに、野道を歩いてゐながら
    野道に、食物たべもの、ありはしない。
    ありません、ありはしません!

向ふに、水車が、見えてゐます、
  こけむした、小屋の傍、
ではもう、此処からお帰りなさい、お帰りなさい
  僕は一人で、行けます、行けます、
僕は、何を云つてるのでせう
  いいえ、僕とて文明人らしく
もつと、ほかの話も、すれば出来た
  いいえ、やつぱり、出来ません出来ません。

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年1月9日(火)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ー比喩は難しいけれど面白いー

「這い纏わる蔓草の奧」も不気味、「じっと潜む薬用の蛇」も不気味……と進んだところで、「発煙筒を使って燻し出す」と大きく展開するから、一瞬呆気にとられる。
そのあと「幸運を無造作につかもうとした」という行為が重なるから、さらに驚きつながらも「薬用の蛇」と「幸運」とは重なるものか……薬効という点で重なるのかも……と強烈に印象に残る。
「はっと我に返り」で「蛇」に重ねて読んでいた方も目が覚める気がする。
比喩ってかけ離れている方が面白いと思うけれど、それがこんな風に上手くハマる……のは難しいと思う。

這い纏わる蔓草の奥にじっと潜む薬用の蛇を 発煙筒を使って燻し出すように
  幸運を無造作につかもうとした一時期が 懐かしく思い出されたところで
    はっと我に返り その際に覚えた恥辱のために 心の沈黙を強いられ

(丸山健二「風死す」1巻363ページ)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年1月8日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「雨」から「風土」まで万物の視点から自在に語ることができるところに散文の凄さがあるのかも!ー

「千日の瑠璃 終結1」と「風死す」を交互に読んでいくと、あらためて文体がまったく違う、どっちもチャレンジフルなんだけど違う……と思う。

「千日の瑠璃 終結」は散文がスキップしながら思いがけない表現にジャンプする感じだけど、「風死す」は最初から哲学詩、物理詩……という感じがする。
この違いはどこから来るのだろうか?「千日の瑠璃 終結」は、まだストーリーというものが核にあって、小説寄りだからなのかもしれない。

十月六日は「私はため息だ」で始まる。
世一の姉がつくため息が、田舎の図書館に勤務しつつロマンス小説にはけ口を求める切ない彼女の日々を語る。

十月七日は「私は九官鳥だ」で始まる。
世一が捕まえたオオルリの幼鳥と比べたら「オオルリと比べたらおまえなんぞ鳥のうちに入らん」とペットショップの主人に罵倒される九官鳥が語る。
鳥を飼うのが大好きな丸山先生らしい箇所である。

十月八日は「私は雨だ」で始まる。
雨は「もう長いこと生活にくたびれ果てていることに まったく気づいていない母親の目を覚まさせる」のだが、そんな母親を語る口調が雨らしく、時にしっとりと、時に荒々しいのが面白い。

十月九日は「私は風土だ」で始まる。まほろ町の風土が語る田舎の嫌な雰囲気は、ずっと田舎に住んでじっと田舎の人間模様を観察してきた丸山先生だから書ける文だろう。

ひたすら権門に媚び
   後難を極度に恐れ
      弱者の心を汲み取るような気高い観点が苦手で


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」35ページ

権力と金力を背景に国家を牛耳ろうとする野心家に
   一も二もなく盲従する態勢を常に備えている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」35ページ

そういう田舎町に暮らす丸山先生を彷彿とさせる小説家も登場する。

芸術家にあるまじき堅物でありながら
   病的なほど穿鑿好きな小説家も
      私のことを文学の宝庫と買い被ってくれており、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」37ページ

田舎の醜い部分には、人間模様が濃縮されているのだろうか……?
一番最初の勤務がど田舎で、「田舎の人間関係は私には無理!」と思った私には、田舎に身を置いて冷静に観察して小説を書く丸山先生はすごいと思う。
「私は◯◯だ」と、九官鳥から風土に至るまで万物の視点で語ることができる……というのは、散文の凄みなのかもしれない。


カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年1月7日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー今この瞬間は脈略のない追想でいっぱいなのかもー

以下引用文の後半の方で「著しく脈略に欠けた追憶の目まぐるしさ」と書かれているように、前半は主人公の、いや丸山先生の一瞬の意識に反映されている過去のバラバラの断片なのだろう。

追憶と言えば、美しいもの、甘いもの、哀しいもの……というイメージがあるが、実際には苦いものから格好悪いものまで追憶は様々。
そうしたチグハグな記憶から、私たちの現在の一瞬は成立しているのかもしれない。

ただバラバラの追憶なんだけれど、イメージが喚起されるようにそれぞれの場面がうまく言葉で表されている。

それに「静まり返った法廷」から「連日の大入満員に沸く大相撲」、そして「陸稲の畦道」へ……ほんとうに目まぐるしい追憶である。

比べると、私の追憶はモノトーンの単調な画面かもしれない。

検事の論告に静まり返った法廷を想わせる重苦しさのなかで自身の靴音を聞き

  連日の大入り満員に沸く大相撲を余生の糧にする人々が殉教者に思え

    陸稲の畦道で松露を掘っていた農夫が急に悪心を催して激しく吐瀉し


      アルコールを溶媒に用いた安直な香水が 解熱剤の役目を果たし


        すべての紛争の内因は差別待遇にあると 年長けた男が呟き


          今冬に病が難路に差しかかるという予感は 見事に外れ




          そのような 著しく脈略に欠けた追憶のめまぐるしさが
            肉に属する霊の付け根の辺りをちくちくと刺激して
              真っ当であるべき思念を惑わせて感傷を抑制し


(丸山健二「風死す」1巻359ページ)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年1月6日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ークラゲのパンチ力ー

ガンという病に侵されつつ逃亡する主人公の心細さがよく伝わってくる箇所だと思った。

元素まで持ち出すことで人間的なドロドロしたものが消え去って、ポツンとした感じだけが残る。「うつけ」と「クラゲ」と「ふらふら」というイメージが重なり、「クラゲ」から「うっすらとした」にも「ひしと抱きつき」にも違和感なくイメージが飛んでゆく気がする。

「クラゲ」が効いている文だと思った。

すべての元素が融合を開始した大宇宙の初めまで遡って
  あらゆる存在がうつけのように思えてしまう空間を
    クラゲにでもなった気分でふらふらと漂いつつ
      うっすらとした自己認識にひしと抱きつき

(丸山健二「風死す」1巻340ページ)

丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」を少し読む

ー作者の身近な物が語ると作者の姿がよく見えてくるー

十月四日は「私は鳥籠だ」と漆塗りの和籠が語り、十月五日は「私はボールペンだ」とボールペンが語る。どちらも丸山先生が普段から親しんでいる存在だから、文の至る所に作者の気配がする。

以下引用文。野鳥が大好きな丸山先生ならではのリアリティあふれる文だと思う。幼鳥の嘴が柔らかいという感覚は、言われると納得するのだが、自分ではとても思いつきそうにない。


それから餌の蜘蛛は脚をもぎ取るのか……私には鳥を飼うのはとても無理そうだ。

餌鉢にまだ柔らかい嘴を近づけて
  逃げ出さないよう肢を全部もぎ取ってある
    大小の蜘蛛つつき回し


丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」17ページ

十月五日の「書くために生きるのか 生きるために書きつづけるのか」わかっていない、分かろうともしない小説家……には、丸山先生の姿が濃く反映されているのだろう。

「仔熊にそっくりな黒いむく犬」をハンドルにしがみつかせてスクーターで走る姿も、
「悩みらしい悩みを知らぬ妻とふたりきりで 粗末だが幸せな食事をとる」という姿も、
「言葉に頼り過ぎて本質を見失った書き手が多過ぎる」という思いも、
すべて丸山先生自身のものであろう。

そして最後の呟きも、おそらく丸山先生の思いではないだろうか?

安物の原稿用紙をぐいと引き寄せ
  蚊の鳴くような声で「それでも書いてやる」と呟いた

丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」21ページ

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年1月5日(金)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー比喩は難しいけれど面白い!ー

「風死す」や他の丸山文學の後期作品を読んでいると、散文の比喩はここまで可能なんだ……言葉と言葉の組み合わせもここまであり得るんだ……と、ホーっと感心することしばしば。
でも丸山健二塾でトライしてみると、「ぶっ飛びすぎている」と言われたり「ありきたり」と言われ、中々比喩の著地點決めるのは難しいものだと思う。


 
引用文について。犯罪者にして詩人、癌患者という青年が逃亡の日々の中で、「腹持ちのいい 美味なおかずのみを小皿に取り分けるようにして」「精神的な飢餓をどうにか凌いでやり」と語る文は、比喩とそんな主人公の身の上が重なって、妙にぴったりくる表現だと思った。

「からからの方寸への注水」という擬音語、「方寸」「注水」という語の組み合わせも、こんな組み合わせが可能なんだ……やけに喚起するものがあると思った。

「粘着性に富んだ生き方をしてきらめき」は、こういう人たちのことを「粘着性に富んだ」と言うのか……「粘着性」という言葉が放つイメージに驚いた。

あまりにも重い疲労困憊を少しでも癒そうと 宿泊の予定を延長して
  指名手配の写真とはいっさい無縁な 深い山奥の温泉場へ埋没し


    腹持ちのいい 美味なおかずのみを小皿に取り分けるようにして
      脳裏に芽生えかけている精神的な飢餓をどうにか凌いでやり



      だからといって 慈雨により田畑の作物や庭先の樹木が潤う
        そうしたたぐいの劇的な効果はまったく得られない上に
          からからの方寸への注水やら いつまでもあたわず


            ひとりひとりゴボウ抜きにされる デモの参加者や
              ある日突然失業して 食い詰めた一家のほうが
                まだ粘着性に富んだ生き方をしてきらめき

(丸山健二「風死す」1巻323頁〜324頁)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ー隣りあう生と死ー

「千日の瑠璃」は早く先を読みたくもあり、でも一日分の話だけで完結しているような世界なので、一日一話をゆっくり読みたくもあり……心迷う作品であるが、やはり味読派になろう。

十月三日は「私は棺だ」で始まり、「白木の棺」が世一の家族があまり豊かでないことを、死んだ祖父の弔いをするために集まった人々の様子を語る。

世一は棺の上に瀕死の幼鳥をおく。棺の蓋を打ちつけようとした拍子に世一がこさえた指の傷から滴る血をすすると、鳥は元気を取り戻す。

棺にできた血の微かな染みが、うたかた湖の形だった……という場面が、なぜかイメージ鮮やかに浮かんでくる。

よくよく目を凝らしてみるとその染みは
  なんと
    うたかた湖の形状と寸分変わらず、

    私はその発見をよしとし
      ほぼ望み通りの最後を迎えた死者自身もまた
        それをよしとした


(丸山健二「風死す」1巻13ページ)

わずか四ページに、生と死というテーマが語られている。
血のしたたりをすすって生が蘇る鳥、うたかた湖と同じ形状の棺の血の染み、よしとする死者……を読むうちに、生と死の近さ、生がもたらす不思議、生きている者たちを見守る死者たち……がひしひしと感じられてくる。語り手が棺だもの……。


カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年1月4日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーリズムを感じる!ー

ぼーっと読んでいる私は、幾度も繰り返される「風死す」の後にだけ「。」があるのに、ようやく今日気がついたような気がする。

「風死す」を他の人に見せると「章がない……」と驚かれることもある。章の代わりに、全体を律するリズムのようなものをつくり出そうとされて、文のレイアウトに、全く脈略のない記憶の流れのように見える文に、工夫が凝らされている気がする。


以下引用文は、普通の小説で言えば、章と章の区切れにあたる部分だと思う。現世へのやりきれなさが左斜め下りのレイアウで記され、やがて「風死す。」と終わる。


次の菱形部分を半分くらいだけ引用してみた。最初「死んだ思想は」で始まるが、「幸あれ」とだんだん浮上してくる感がある。こうして次なる章が始まる……。


そんなリズムを感じながら読んでみよう。

立ちこめる霧の魅惑に身を委ねて
  現世の存在に不審を抱きつつ
    悲しみを強いる出来事に
      軽々に扱われがちな
        おのれの存在を
          不憫に思い

          その一瞬後
            風死す。


        死
       んだ思
      想は 無の
     底へと沈んでゆ
    く 家を捨てて放恣
   な生活を送る者に幸あれ
  混じりけなしの悲しみが徐々
 に薄らいでゆく 

 
(丸山健二「風死す」1巻311頁からページ数のないページより)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1巻を少し読む

ー闇と明け方にコントラストを、バトンタッチを感じる!ー

十月二日は「私は闇だ、」で始まって「いつもながらの闇」が語り手となる。

そんな闇の存在感を「さざ波と力を合わせ」とか「これ以上ないほどの優しさを込めてそっと包みこむ」と、池に横たわる老人の骸への接し方であらわす視点も面白いなあと思う。


あと「そら豆に似た形状の頭」という幼鳥のあらわし方も、「そら豆」でグッと喚起される気がする。

ここでなんと言っても光を放つのは、「麻痺している脳のせいで 意思に関係がない動きを選択しがちな肉体を授けられ」という少年世一の存在感だ。
「双方の目と目が合った刹那 鳥は鳥であることを忘れ 少年は人である立場を忘れ」というように、鳥と心を通わす不思議な存在。


祖父の骸から幼鳥を助け出すと、世一は祖父のことは忘れて家に戻る。
そのとき死者が倒れてゆく描写が、命をバトンタッチしたという安堵感に溢れていて好きだ。

「私は闇だ、」で始まるこの箇所の最後が、以下引用文のように、祖父の骸を染めてゆく朝陽というのも、対照的で鮮烈に心に残るし、バトンタッチというテーマが繰り返されているような気もする。

「 」内は「千日の瑠璃 終結1」より引用。

そして
   私といっしょに輝ける昧爽へすっと呑みこまれたかと思うと
      大気をまんべんなく染める黄金色の坩堝に
         無造作に投げこまれて
                  どろどろに溶かされてゆく


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」9ページ 

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年1月3日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー作者の影がひっそりまぎれこんでいるように感じることもあるー

以下引用箇所を読むと、いぬわし書房のオンラインサロンで丸山先生が語っていた自らについての言葉が思い出される。

「風死す」の主人公は、時として著者自身の心情が濃厚に反映されているのかも……。そんな風に、ふと思ってしまうような文言がさりげなく散りばめられている。

幼心にも悲しかった 何かに付けて隣人が浴びせかけてくる 極めて露骨な白眼視やら
  複雑さ故の悲しい出生に纏わる 聞こえよがしの悪口やらを ふと思い出すたびに
    それが反発心の種となって ついつい過剰に生きてしまう原動力へと変換され

(丸山健二「風死す」1巻304頁)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

一「生」と「死」がテーマの散文詩のような最初の四頁ー

前回「トリカブトの花が咲く頃」を読み終えたあと、次の丸山文学は何を読もうか……?と迷いつつ、中々決め難かった。

私は比較的最近の読者である。後期の丸山文学から読み始めたので、読んでいない作品がたくさんある。

丸山先生のお庭見学の時に他の方と「風死す」の話を他の方としたことがきっかけで、なんとなく「風死す」の再読を始めた……。

すると初読時には気がつかなかったことが次から次に出てくる。
やはり、「風死す」は何度も再読したい本だ。

でも他の作品も読みたい……と迷っていたら、神保町PASSAGE書店に借りている棚から「千日の瑠璃 終結」1を、どなたかが購入してくださった。
この本を読んでいる人がいる……と思うと、釣られて読みたくなるものである。それに「千日の瑠璃」は、最初の方しか読んでいないし……と読むことにした。

「千日の瑠璃 終結」は見開き4ページで一日が一話になって進む形になっている。
出だしは「私は◯◯だ」と、人間でないものたちが少し不自由なところのある少年与一を物語っていく。

十月一日は「私は風だ、」で始まる。
「名もなき風」が語る「一段と赤みを増した太陽」、「不憫な老人」の死、老人の死体に温もりを求める「ちっぽけな野鳥」……。
このたった四ページだけで生と死が存分に語られているような充足感がある。

十月一日の最後は以下引用の、紅葉の描写で終わる。大町に住んでいる丸山先生だから浮かんでくる紅葉風景だと思った。

どこまでも天界に近い峰々の紅葉が燃えに燃える
  静寂と絢爛の錯綜に終始した
    なんとも優雅にして平和な
      掛け替えのない黄昏時のことであった


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」5頁)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年1月2日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー「記憶の流れ」とは読むのも、書くのも楽しいものかもしれないー

作家の晩年の作品は、わりとこの登場人物はもしや作者自身なのだろうか……と、作者に似た登場人物を発見することがよくある気がする。

「風死す」は、丸山先生自身が「記憶の流れ」と言われているように、至る所に丸山先生の記憶が飛び散っている。ただし語り方、表現の仕方は様々な形に変えて……。

今まで丸山文学を読んできた読者なら、「こんなことを思っていらしたのだろうか」と感慨に打たれるかもしれない。
丸山文学を読んだことがない方でも、詩や短歌に関心がある方なら「こんな表現が、こんなレイアウトができるのか!」と興味をもって頂けるようだ。

以下引用文も、丸山先生の八十年間の人生のどこかの断片、いや瞬間を語っているのではないだろうか?

引用箇所の二番目の段落。
意味の世界(どういうことだろう?実在の社会ということだろうか?)の復活を「舌触りが良くない焼き菓子の」「ほぼ半分程度の美味さ」と味覚に関連づけて例えているから、あまり居心地の良くなさそうな世界を感覚的に捉えることができる。

三番目の段落。
「断じて触れてはならない」という「生の要点と骨子」とは何だろうか。最後に来ている「青みがかった夏の夜を堪能」が幾つものストーリーを示している気がする。

意気地なしにして陰険な 不逞な考えと行為が病み付きになった
  健全な社会から除外すべき奴輩の黒い影が急速に滲んでゆき


    意味の世界が徐々に復活して 舌触りが良くない焼き菓子の
      ほぼ半分程度の美味さを 自己破壊的な精神力で味わい

      生の要点と骨子については 断じて触れてはならないと
        声なき声が切言する 青みがかった夏の夜を堪能し


(丸山健二「風死す」1巻297頁)

小説では「記憶の流れ」に任せて……という形は珍しいと思うが、短歌では「記憶の流れ」を文字にしているような部分もあるのではないだろうか?
自分の記憶の流れを追いかけ文字にする過程は、案外楽しいものかもしれない……と、まずは短歌で「記憶の流れ」をあらわしたいと思う。
小説だと、やはり私なんかが試みるとバラバラになりそうだが、五七五七七のフォルムがある短歌なら、なんとか分解しないで少しは形になるだろうか……。
そう考えてみると、散文で「記憶の流れ」を記した丸山先生はすごいなあと思う。

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年1月1日(月)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ー言葉の冒険をしているようでしっかりイメージが湧いてくる!ー

詩人でありガン患者である主人公の思いを、「言表行為」という固い表現を使うことで、一見、冷静に観察しているようにも思える。
でも「言葉同士が互いに排除し合って」というように、ここまで言葉の冒険ができるんだな……と思える部分もある。


二段落め。死者や死後の世界を語りながら、どこかユーモラスな印象も受けるのは「後を絶たない無数の死者たち」「これまで通り揃って似たような処遇」「次々に呑みこまれていった異空間の実体と実情」という思いもがけない言葉で、死後の世界の不思議さを語っているせいなのかもしれない。

三段落め。主人公が自分を語る「悪や善とのべつ境を接しつづけてきた欠点だらけの未完成なる自我」というシンプルで的確な言葉。
その後に続く「隈なく吟味などせぬ」という意外な言葉が心に残る。

名もなき一介の詩人が 語り手としての言表行為から取り逃がしてしまった 哀悼の辞は
  苛々するほどまだるこくて 言葉同士が互いに排除し合ってばかりで 埒が明かず

  後を絶たない無数の死者たちが これまで通り揃って似たような処遇を受けながら
    次々に呑みこまれていった異空間の実体と実情がどうであっても少しも構わず

まず差し当たっての不可欠な心構えは 悪や善とのべつ境を接しつづけてきた
      欠点だらけの未完成なる自我を隈なく吟味などせぬという固い決意であり


(丸山健二「風死す」1巻287頁)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする