さりはま書房徒然日誌2023年11月22日(水)

丸山健二「風死す」を少し再読する

ーもう一人の自分がたくさんいるー

たしか「風死す」には、主人公の「もうひとりの自分」的存在にあたるものが、名前は忘れてしまったが三つくらい出てきたような気がする。
わたしたちの記憶の中では、複數のもうひとりの自分が叫んで、それぞれの物語を紡いでいるのかもしれない……。
だが、そんなことを深く気に留めずに一回目は読んだ
今度は主人公の複数の「もうひとりの自分」の声に耳を傾けながら再読したいものだ。

宿命の延長としか思えぬ身の縮む思いの数々や 居場所を与えられぬための煩悶が
 常に方図もないことを言いつづけるもうひとりの自分に 丸ごと呑み込まれ


(丸山健二「風死す」18頁)

色々書き方は変化すれども、以下引用文のように丸山先生の思いは変わらず。かつてよりも強烈に、鮮明になってきているかも。

殊のほか手間取った国家予算編成に纏わる 思わぬ弱点の数々が
 次から次にさらけ出されて公益優先の原則と原理が無視され


 か弱き立場の国民が支配者層に死ぬことを求められる機会は
  愛国と護国の美名の下に急速に増大しつつあると見なし

(丸山健二「風死す」23頁)


丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー帰還兵の悲惨を知るー

巡りが原に衰弱した帰還兵が現れる。
今まで私が抱いていた帰還兵のイメージとは、無事に帰ってきたことを喜び、周囲から祝福される姿だった。
だが巡りが原が語る帰還兵の身の置き所のなさ、やるせなさに、戦争に行った兵士たちの死ぬも地獄、生きて帰るも地獄……を思う。
同時にそういう若者を大量に生み出しながら、「おめおめと」居座り続ける存在が、それを問うこともない社会のいい加減さが見えてくる。

ことほどさように急激な秩序の崩壊と権威の失墜のなかにあって
 唯一の拠り所であった武力にいきなりくつわを嵌められ
  だしぬけに戦闘とは何も関係ない事柄にぐるっと包囲されてしまった生き残りの兵士のひとりとして

 この若者もまた
  あまりにも開けっぴろげな強国によって新たに敷かれた国家的枠組みと社会的基盤にどうしても馴染めず
 駐留軍の兵士が投げかける勝ち誇りの眼差しと蔑みのほほ笑みにいつまでも憤れず
 望みもしない時代に強く拘束されることに耐えきれなくなり
  未来が何ひとつ実を結びそうにないように思え
   心の空白を何によって埋め合わせていいのかわからなくなってしまったのだろう


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」176頁)

相も変わらず不条理な高みに鎮座まします天皇と同様
 いまだにおめおめと生きており
  荒廃した祖国に冷徹自若として佇んでいるおのれにどうしても我慢ならなくなったのだろう

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」178頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月21日(火)

丸山健二「風死す」1巻少し再読する

ーちまちま韻律を見つける楽しさー

記憶の流れがテーマの「風死す」は、様々な断片が散りばめられている。
そのピースがバラバラになってしまわないように、丸山先生は独自の韻律で束ねようと試みられていると思う。
まず形。菱形、テーマを歌うような四、五行まとまりの斜め長方形、そして斜め左下りに連なる文。
説明しにくいので、いぬわし書房のサイトに掲載されている「風死す」の写真を使わせていただく。

再読してようやく右頁下の左下り文が、頁をめくるごとに徐々に行数が増えていっているのに気がつく。

左下りの文の連なりが最初に終わる12頁では、「覚える」の一語が右頁一番下にポツンと配置されている。(写真一番上)
もう一頁めくって、14頁の右頁一番下の左下がりの文は3行。(写真真ん中)
16頁は5行(3行、スペース、2行)以下(、)でスペースひとつ
18頁は6行(1行、3行、2行)
20頁は5行(3行、2行)
22頁は5行(1行、1行、、3行)
24頁は10行(3行、、4行、、3行)
26頁は12行(3行、、2行、、2行、、3行、、2行)
28頁は16行(2行、、2行、、4行、、2行、、2行、、2行、、2行)
30頁は20行(3行、、2行、、3行、、3行、、3行、、2行、、4行)
32頁は22行(2行、、1行、1行、1行、1行、、5行、、2行、、5行、、4行)

それぞれの段落?の構成行数も、もしかしたら何か意味のある数字なんだろうか?とカッコの中に書いてみたが、わからない。
とにかくだんだん行数が多くなっていって、また振り出しに戻って同じ形が繰り返される。

ラベルのボレロみたいに音が繰り返されながら、終局に向かって段々音が強くなっていくイメージ。

こんな試みをちまちま見つけるのも楽しい。

なかには「それがどうした?」と言われる方もいるかもしれない。でも短歌を学んで、韻律は言葉の表現の要、侮れないと思うようになった。
そして自分ならどんな形の韻律を考えてトライしようか……小説の韻律とは……と考えてみるのも楽しい。

短歌や詩歌と比べ、小説の歴史はとても浅い。
歴史の長い短歌には色々とそれまでのあり方を覆そうとする試みがあったようだけれど、小説にはそこまでの変化があまり起きていないと思う。

小説は新聞や雑誌に効率のいい形で発展していったが、その母胎となっていたメディアは今や衰退した。
読者もゲームや漫画、映画にかなり分散していった。

小説もこのまま衰弱死するのだろうか?たしかに映像で一気に伝え、迫ってくる映画や漫画には負ける部分がある。
でも言葉が喚起するイメージは無限大。言葉の魅力を追求していく形でこそ魅力的にひっそり生きながらえるのではないだろうか?とも思う。

そしてPASSAGEの棚主をみれば、丸山先生的試みの詩集を継続的に刊行されている詩の若い書き手さんとかがいらっしゃる。
新しい在り方を試みようとしている流れはすでに始まっているのだ。それを楽しみにしている人も多くはなくても、確実にいる。

だから「風死す」を眺めつつ、どんな韻律が使われているのか見つけ、他にどんなフォルムや言葉が可能か、丸山先生がやっていないことを考えるのも楽しい。生意気だが……


「風死す」のようなボリュームにいきなりトライはできないけれど、20頁くらいの小冊子なら色々実験できると思う。墨の色に濃い淡いがあるように、内容によってフォントの色をかすかに変えていくとかそんなことをあれこれ思いながら、読んでいくのも楽しい。

以下、表現が面白いなあと心に残った文。

至福感の極みとやらをデフォルメした 黄金色の夢と幻を強く暗示し
(丸山健二「風死す」1巻10頁)

悪い環境に染まって発熱した心を認め
(丸山健二「風死す」1巻13頁)

悪と罪の裂け目を満たすのは
きめの粗い狂熱くらいで
(丸山健二「風死す」1巻15頁)


丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー他の作家が言わないことをばっさり語ってくれる有り難さー

或る出版社のブログを拝見していたら、かつて富岡多恵子が日本芸術会会員となったことについて、そういう選択をする人だったとは思っていなかった……と失望した旨が書かれていた。
詩人が、作家が、国家に認められ、そしてその象徴たる存在のお墨付きをもらい、ご褒美としての芸術院会員の年金をもらうということが、これほど厳しい目で見られるとは……と思ったものだ。
ただ伝統芸能の世界では、芸術院会員とかはめでたいという感覚のようだから、伝統芸能に詳しい冨岡多恵子にすれば何ら問題を感じることなく受け容れてしまったのかもしれない。

以下引用文を読みながら、冨岡多恵子へのそんな失望の声を思い出した。引用文のかくもはっきり咎める声に爽快感を覚える。
ただ今の若い人たちは、かなり勉強のできる人であっても天皇や皇后の名前も知らず、宮内庁なる組織の名前すらも知らず……完全に無関心である。

このままフェードアウトしていってくれるのか、それとも無知につけ込まれていいように復活するのか……とも迷ったりもする昨今である。

それから
 命そのものであったはずの神道の衣をあっさり脱ぎ捨てたかと思うと
  今度はその精神を一挙にアメリカ主義に転化させ

   国民を象徴する
    人格高潔にして善良で聡明な存在という
     苦肉の策からもたらされた異様な地位に活路を見いだし

あろうことか

見え見えの権威に手もなく欺かれ
 どれほど話にならぬような酷い時代であってもすんなり受け容れてしまう
  無思慮にして無分別な国民に急接近を試み

じつは自分も国民と同じ人間なのだという
 苦笑する気にもなれないほどあけすけで
  あまりにも厚かましく
   あまりにもくだらない
    まさに噴飯ものの宣言を臆面もなくやってのけたのだ

そうやって天皇は
 苦悩と腐心を精いっぱい装うことによって人目をくらまし

相前後して
 卑屈なまでにぎごちない恭順な態度を取り
  どこまでも作為的で不器用な愛想笑いを浮かべて戦勝国の元帥にすり寄り

 側近の入れ知恵でもあるそうした策がみごと功を奏し
  多少の失態は演じたものの
   侵略戦争に象徴される国家的犯罪と手をむすんだことなどただの一度もありはしない
 要するに
  一滴の血にも穢されていない
   戦前の天皇をはるかに凌ぐ公明正大な温厚な人物として

    当分のあいだ価値観の大きなゆらぎと極度の貧困にあえがなければならない国民から
 好感をもって迎え入れられることに成功したのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」174頁〜176頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月20日

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー自然の美と戦争ー

以下引用文は、巡りが原の風景を、その上を進んでゆく牛、鳥、盲人を語っている。語り手は巡りが原。
句点のない文から、「踊る陽炎」「草の海」「綾織模様」「謎絵」「魔術的風景」と巡りが原の自然を語る言葉から、巡りが原の自然が美しく、草が揺れるように脳裏に無限に広がってゆく。

言葉の魔力を感じる箇所である。

そして
 踊る陽炎と草の海とが目にもあざやかな綾織紋様を描きだす
  謎絵のごとき魔術的風景をかき分けていくらも行かないうちに
   牛と鳥を引き連れての盲人の旅という
    まったくもって荒唐無稽な組み合わせによる純粋な体験がたちまち発酵状態にたっし

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」150頁)

「トリカブトの花が咲く頃」に限らず、丸山文学は片方の手で自然の美しさを書き、もう片方の手で戦争の悲惨さや矛盾を、終わった後に帰還してきた兵士や戦災孤児、平然と居座る者たちを通して書いている。
この二つの対立する世界を追いかける視点と文に魅力を感じる。
詩のような文体に移行してから、このテーマがさらに強烈になっていったのではないだろうか。
それなのにテーマの重さゆえか、文体ゆえか、段々読む人が少なくなっていったことは残念である。

彼は紛れもなく戦争そのものの犠牲者であり
 私は戦争の歴史を長いことくぐりぬけられたことによる犠牲者であり

両者は
 たんに時代の表皮が変わったにすぎぬ時の流れに翻弄されるばかりの
  いつ沈むかわかったものではない木の葉の舟に乗せられて激流を下る蟻のごとき存在なのだ

 戦争!
  ああ
   なんたる愚行!

 戦争!
  ああ
   なんたる悲劇!

 戦争!
  ああ
   なんたる徒労!

 戦争!
  ああ
   なんたる常習!


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」166頁)


丸山健二最後の長編「風死す」一巻を少し再読する

ー「風死す」を楽しむには……私の場合ー

丸山先生の最後の長編小説「風死す」を購入された方々と話をすると、中々読み進めることができないでいると言われる方が多い。
読むそばからストーリーを忘れてゆく私が、とりあえず「風死す」全巻を読破したのは何故だろうと不思議な気がしている。
もしかしたら、すぐにストーリーを忘れていくキャパシティの小さな脳ゆえに読了したのかもしれない。

丸山先生は「文体について教えてくれる人は誰もいなかった」というようなことを言われていたと思う。

作品ごとに一人で文体を変え、「風死す」の文体に到達した丸山先生。

そんな丸山先生の文章についての考えと、歌人・福島泰樹先生の教えはぴったり重なることが多くて驚く。

短歌のことをよく知らない私が言うのもなんだが、丸山先生は文体を極めようと努力されるうち、短歌的発想とオーバーラップするところもある文体に近づいたのでは……?
日本語の文体を極めようとすれば、知らず知らずのうちに短歌の考えと重なってくるのでは?……とも思う。
丸山先生は短歌的発想で文体にこだわりながら、この長大な作品「風死す」を書いたのではないだろうか。

丸山先生は「風死す」を記憶の流れと言い、福島先生は「短歌は追憶再生装置」であると言い……。

以下の福島泰樹「自伝風 私の短歌の作り方」で示されている福島先生の考えは、短歌だけではなく「風死す」の世界を楽しむときの鍵になるような気がしている。

人体とはまさに、時間という万巻のフィルムを内蔵した記憶再生装置にほかならず、短歌の韻律とは、その集積した一刹那を摘出し、一瞬のうちに現像させてみせる追想再生装置にほかならない。現在もまた刻々の記憶のうちに、溶解され闇に消えてゆくのである。

(福島泰樹「自伝風 私の短歌のつくり方」246頁)


「風死す」の本文に入る前の文にも、「風死す」で記憶の流れを追いかけていく……という丸山先生の思いが、爽快に語られている気がした。

とうとう生の末期を迎えてもなお
  不幸にして意識がしっかり保たれているとき

 さまざまな想念やら体験やらが
    なんの脈略もないまま
       しかも生々しく脳裏に蘇り

       だがそれは
         人生の一部でありながら
            その全体も象徴し


(丸山健二「風死す」前書きより)

「風死す」には約35頁おきごとに、菱形に文字が配置された頁がある。

以下引用箇所もそうした菱形に文字を配置したものである。ただし本文は縦書きである。
たしか丸山先生はスペインの詩集でこの形を見かけ、「目」のようと言われていたか、それとも「窓」のようと言われていたか明確に覚えていないが、興味を持たれたらしい。


形はともかく、以下引用文を音読してみれば、80歳になろうとする丸山先生の追想が、そのまま聞こえてくるような文である。


さらにこうしてじっと見つめていると、「流」「生」「死」「影」「美」という文字が浮かび上がり、「俺たちは丸山文学の大事なテーマ!」と叫んでいるようでもある。


あと丸山先生がこだわる神秘の数字、素数で文を引き締めている気がする。
引用箇所はほとんどの箇所の文字数が素数。
ただし死と光の箇所は素数でない、乱調だからだろうか?
素数で文に律を持たせようとするところも、素数の文学である短歌と重なる。

       
      思うに
     流れても流

    れなくても 生
   は生でしかなく 死
  は死でしかなかった 影
 が薄まる瞬間は ただもう美
しく 光が強まる刹那は ひたす
 ら切なかった


      (丸山健二「風死す」)

この菱形に納められた散文の後には、一語の命令形がきて、斜め下りの文が続いてゆく。
以下引用箇所も、今の丸山先生はこういう心境なのだろうかとも思った。

すでにしてこの世に住んでいない人々の まだまだおのれの内部に掟を有する
 不特定多数の霊と共に手に手を携えて 炎天下の扇状地を横滑りしてゆく

(丸山健二「風死す」より)

あと以下は、ほぼ「五、七、七」になっているから、「五、七」を上に付け加えたら短歌になるかな……と考えるうちに、ストーリーを完全に忘れ楽しむ。私の場合。

さらさらと たださらさらと吹き渡って

(丸山健二「風死す」より)

「風死す」は丸山先生になった気分で音読してもよし、
クロスワードをするみたいに文字をじっと見つめてもよし、
素数を見つけるもよし、
丸山先生の文は素敵な五七調になっている箇所も多いから五七探検して短歌にしちゃうのもよし……
とにかくストーリーを忘れ、文が内包する一瞬一瞬を色々楽しんでしまえばいいのではないかという気がする。

(「風死す」写真はいぬわし書房のサイトより使用しました)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月19日(日)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー戦後の日本社会を糾弾する言葉は厳しくも、どこか抒情性があるー

戦争の間、眠りについていた高原・巡りが原が覚醒してゆけば、吹き渡る風がこの国の戦後を語りかける。
手厳しい言葉ではあるけれど、人間を超越した風や高原が語れば、まさに真実と素直に耳を傾けたくなる。

同時に戦後の社会を糾弾しながら、やはり風だもの、高原だもの、語る言葉は決してプロパガンダにならず、権威の象徴を乗せた列車も「はるか遠くできらめく玻璃の海に沿った線路をがたごと走って行き」「すっとぼけた音色の汽笛ときたら」とどこか抒情性がある。

非難しつつもその言葉には美しさがある……点も、丸山文学の魅力の一つと思う。
ただ、その非難に心を重ねられる人が圧倒的に少ないのが現状だろうか……それでも声をあげ続ける丸山文学を読んでいきたいと思う。

さまざまな方向からさまざまな風が「巡りが原」を通過するたびに
 敗戦によって弱体化されたこの国のありさまが
  長い眠りから目覚めた私のなかでどんどんあきらかになってゆく

時折しも
 恥も外聞もない命乞いが功を奏してからくも処刑を免れ
その感謝のしるしとして
 全国津々浦々にお詫びの行脚に赴く天皇を乗せた特別仕立ての列車が
  菊の紋という威光の残渣を象徴してやまぬ白い蒸気と
   行い澄ました救済を装う黒い煙を懸命に吐き散らし
    人間宣言をした後もいまだ現人神としての影響を色濃く投げかけながら
 はるか遠くできらめく玻璃の海に沿った線路をがたごとと走って行き

また
 すっとぼけた音色の汽笛ときたら
  どう頑張ったところで困惑をおぼえずにはいられぬ
   ほとんど破滅的な惑溺に根ざした響きを有し
    所詮はたんなる空語にすぎない
     口先だけの謝辞を端的に表している

しかし
 依然として皇室は民望をうしなっておらず

帝国主義によって精神が去勢されたままの国民は
 自分たちの血を無駄に流させたばかりか
  魂そのものまでをも足蹴にしたにもかかわらず
   いまだ罰せられることもなく存続する天皇にたいし
    人間を超越した無垢なる対象とみなして
     過多なる敬愛の眼差しを投げ

それだけにとどまらず
 心をそっくり統握されてもかまわぬ相手というほどの入れ込みようで
  手足をもがれた傷痍軍人までもがなにがしかの尊敬をはらっているらしいのだ

それが証拠に
 人心の混乱は最小限におさえられ

天皇制の是非についてとことん突きつめて論じられることもなく
 地球規模の巨悪にたいして由々しい非難を浴びせることもなく

  取り返しのつかぬ大罪を犯した張本人をあっさりと赦し
   新時代に咲く復活の花という解釈でふたたび認容され

ゆえにどうにかして再生を果たした《朕》は

 無邪気に過ぎるどころの騒ぎではない
  孤独で冷たい自由よりも圧政下の不自由に温もりと郷愁を感じてやまぬ
   そんな幼児以下の愚民にたいし
    あっけらかんと戦時中の労をねぎらい
     勿体ぶった言い回しで感謝の意を表し
      通り一遍の励ましの言葉を掛け
       少しも説明になっていない言い訳でもって責任の所在についてお茶を濁すのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」128頁〜131頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月18日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー句点「。」のない文体が表しているものは?ー

以前、丸山先生が主宰する「いぬわし書房」のオンラインサロンで、「トリカブトの花が咲く頃」の文体について質問したことがある。

「トリカブトの花が咲く頃」には、読点「、」や感嘆符「!」は少なめながら存在する。
だが句点「。」は一箇所もない。

そして「トリカブトの花が咲く頃」以降の作品では、句点「。」が復活している。
それはなぜなのでしょうか?」と質問した。

丸山先生の答えは、「作品のテーマや内容によってふさわしいスタイルに変えている」とのこと。

「トリカブトの花が咲く頃」は、なぜ句点なしのスタイルが相応しいのか……としばらく考えていた。

すると以下引用箇所の文が目にとまった。

生い茂った夏草が暑気のせいでうなだれ
 長い年月を費やして強い光と熱をものともしない変種になったトリカブトの花が
 不気味な艶やかさを放って咲き乱れ
 おそろしく丈の長い陽炎がそこかしこで
  くねくねした淫らな踊りを踊っているばかりだ


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻75頁)

この作品は、トリカブトの花が咲き乱れる高原・巡りが原を舞台にしている。

本で読んでいると、一行一行がトリカブトの茎にも思え、高さの不揃いな行も野草が生えている様にも思えてくる。

本作品では余白は土、一行一行が植物の一本一本なのではないだろうか。

そうであるなら、句点「。」というものは不要なのかもしれない……あくまで私の勝手な想像ではある。
丸山先生が聞いたら苦笑されるかもしれないが。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月17日(金)

移りゆく日本語の風景を文楽の中に少し見る

ー「でえす」から「です」へー

時々、人形浄瑠璃文楽を観に行く。
文楽で語られる言葉は、江戸時代の上方の言葉がそのままの形で、当時のイントネーションで語られているそうだ。
だから文楽を観ていると、社会背景や風俗だけでなく、太夫さんの語りによって言葉のタイムトラベルを楽しんでいる気分がしてくる。
そんな私に「これは江戸時代の言葉」と教えてくれる方もいる。
「でえす」も、そんな風にして教わった言葉の一つだ。
現在、私たちが「です」と発音している言葉は、江戸時代は「でえす」と発音していたそうで、文楽でもしょっちゅう「でえす」という形で語られる。
今日見てきた「双蝶々曲輪日記」でも、しょっちゅう相撲取りの主人公が「でえす」を連発していた。

「イヤ、コレ関取、何やら話したいことがあると人おこさんしたはそのことでえすか」

(「双蝶々曲輪日記」より)

「コノ長吉は方便商売でえすわい」

(「双蝶々曲輪日記」より)

「でえす」を日本国語大辞典で調べてみれば、以下の通り。

(「えす」は「あります」または「ござります」の変化した「えんす」がさらに変化したものか。活用形は「でえす」の形しか見られない)
…です。近世、多く男伊達、遊女などの間で用いられた。丁寧の意は薄く、尊大な語感を伴う。

今度は「です」について、やはり日本国語大辞典で調べてみる。

〔二〕(「でござります」→「でござんす」→「であんす」→「でえす」→「です」の経路で生じたものという)丁寧な断定に用いる。
(イ)江戸中期は、遊女・男伊達・医者・職人など限られた人々の間でほとんど文末の終止にだけ用いられた。でげす。

「でえす」が「です」になるまでの間、少しずつ言葉が変化、意味合いも「尊大な語感」から「丁寧な断定」へと変化していったのかもしれない。文楽を見ていると、たしかに「でえす」を使う人物は男伊達や遊女たちのような気がするし、自分で発音してみると「でえす」だと尊大な心持ちになってくる。
文楽を通しての言葉のタイムトラベル、これからも少しずつ楽しんでいきたい。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月16日(木)

小豆洗はじめ「季節の階調 冬」を読む

ー詩人が言葉を紡いで詩集を編むことの素晴らしさを、詩人の言葉に出会えるPASSAGEという存在の魅力を思った一冊でしたー

小豆洗はじめさんの詩に出会ったのは、一棚一棚に棚主がいる神保町PASSAGE書店でのこと。
小豆洗はじめさんもPASSAGEの棚主の一人で詩集を中心に取り扱う棚を持たれている。

その棚の中でも小豆洗さんがご自分で編まれた小ぶりの詩集のシリーズが、ベージュの色といい、小ぶりの形といい、なんとも目をひく。
手にとってみれば、小豆洗さんは季節ごとに、テーマごとに詩を書かれ、ご自分でレイアウトやフォントまで細かく考えて詩集を作られている。

表現しつつ、詩集を制作するという小豆洗さんの創作姿勢も、詩人が自分の言葉を棚に置くことができ、ふらりと立ち寄った者がその言葉を持ち帰ることができるPASSAGEという存在も、共に素敵だなあと思う。

今回、購入した「季節の階調 冬」のフォントの色は空色で始まり、雪景色の写真の次のページから濃い青のフォントが続く。最後の「幻」「尺八の景色」「あとがきにかえて 川原のオリオン」で真っ黒なフォントに変わる。フォントの色の変化に、一日の雪景色の変化を見るような思いがした。


罪のない子供達が一方的に殺されてゆく悲しいニュースがあふれる世のせいか、「天使のパン」という詩が心に染みた。以下、「天使のパン」の冒頭より。

天使のパン

ときどき現れる
「天使のパン」という名の本屋で
手にした本は
まるで天使のようなこどもたちの心の
血肉となり栄養となって
かれらを支えつづけると聞く


(小豆洗はじめ「天使のパン」より)

小豆洗さんの見つめる世界は私も確かに見ている世界。でも詩人のレンズをとおして見ると、世界がまったく違って見えてくる。だから詩を手にすることは面白いと思う。

戻る過去は一定ではなく
そのたび新たな場所と時間を
はじめていることに

いつしか気がつくことだろう

(小豆洗はじめ「the day」より)

幻、という漢字を書くとき、いつも線を一本描き忘れているような気がして、頼りない。

(小豆洗はじめ「幻」より)

「季節の階調 冬」には「津軽三味線」「尺八の景色」と和楽器をテーマにした詩が二篇入っている。なぜかは分からないが、和楽器と冬はイメージが重なると思う。
そういえば、私にとって詩集を読むときの場所というものがすごく大事なのだが、「季節の階調 冬」は国立文楽劇場で開幕までのひとときや幕間のざわめきの中で読んだ。和楽器が近くにある場所で読むと、小豆洗さんの「季節の階調 冬」の言葉が浮かび上がってくるような気がした。


以下、神保町PASSAGE書店小豆洗はじめさんの棚のURLです。いろいろ詩の本やらご自分の詩集やらポストカードやらがありますよ。

https://passage.allreviews.jp/store/QY4PCVLSFTCSQ64XUZ3VPDXD


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さりはま書房徒然日誌2023年11月15日(水)

ロマンチック過失漫画
山﨑まどか「山﨑ノ箱」(けいこう舎)を読む


ー極限状況にある人たちが教えてくれるメッセージー

山﨑まどかさんは、けいこう舎が刊行されている短編を楽しむ文芸誌「吟醸掌篇」の表紙の装丁を1号から手がけているイラストレーターさんである。同時に福祉施設の支援業務に携わり、そこでチラシ制作や山谷の冊子「あじいる」掲載の作品も描いているいる方だ。
そんな山﨑さんがご自身の結婚や出産、仕事を見つめ語る言葉が詩のように鋭く、そして優しく、生きづらい世を語る。

そして冷たい世にそれでいいのかと問いかける。
そのメッセージをどこか童歌の世界を思い出させる優しさにあふれた漫画が包み込み、そっと心の奥まで届けてくれる。

どんなに早く走ろうと焦っても
スローモーションのように
地団駄踏むばかり

(山﨑まどか「山﨑の箱」 第一話 赤縄より)

押し寄せる突起物のうねり
眠ることを拒む道の果てに
人はどんな夢を見るというのか


(山﨑まどか「山﨑の箱」 第五話 眠れぬ森の美女より)

 児童養護施設で育ち、路上生活をしているところを「ほしの家」シスターに救われた木村史代さんの作品も、心象風景が切々と伝わってくるようで心に残る。
病で48歳で亡くなるまでの間に「ほとばしるように生み出された切り絵や詩、短編作品は膨大な量にのぼります」「作品は今も『ほしの家』で大切に保管されています」とあった。
極限状況で表現を続けた木村さんの生に、表現することの意味を思う。

「禅略 三太様。」で始まる「あんぽんたん三太」は山谷の雑誌「あじいる」に掲載された作品とのこと。
その中に出てくる三太さんの話も、刑務所で俳句に出会った三太さんの世界が変わっていく様子に、やはり表現することとはと思い、また過去のせいで犯罪を犯した人への社会のあり方も考えさせられた。

生まれて初めてのことだった。
何者にも
何事にも
邪魔されず

かき乱されず
目の前の文字を追い
言葉だけに
向き合い、
吸収していく。

この時
肉体は閉じられた空間に在りながらも
三太の意識は

どこまでも自在に
広がっていった。


考えもつかなかった
他者の生き方や思想
哲学、宗教。

三太は
辞書を引き、
猛烈に本を読み
そして俳句に出会う。

秋時雨 小鳥は寝屋に急ぐなり

三太の句は刑務所の中で開かれた
全国大会で二席に選ばれ

表彰された。

自らが感じた世界を
言葉によって表現し、
他者に響いて
認められる体験となった。

水を得た魚のように
自分の中に
感じた世界を
句にしていく。


(山﨑まどか「山﨑の箱」 『あんぽんたん三太』より)

山﨑さんたちは「ホームレス」とは言わずに、「野宿経験のある仲間」と言う。
そしてその仲間から、色々辛い時の過ごし方を学ばれて本書で伝えてくださっている。
私も山﨑さんから、そして仲間の方々から教えて頂いたように思う。
たとえば以下引用のこんな心も……。

だから多くの道の上に
繰り返し
「どうぞ」と椅子を
置きつづける


(山﨑まどか「山﨑の箱」 第五話 眠れぬ森の美女より)

カバーをはがすと、カバーとは少しだけ違う絵があらわれます。



現在、山﨑まどか「山﨑ノ箱」は神保町PASSAGEさりはま書房の棚にもあります。よければご覧ください。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月14日(火)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー絶望的な人の世と対極的な自然、宇宙ー

丸山文学は冷徹に容赦なく人の世を語ってくれる。
ふだんぼんやりと思っていた怒りや不安をずばりと言葉にしてもらい、その通りだとあらためて気がつく。
一方で、あまりに救いがない世である事実に途方にくれる。
だが丸山文学は人の世について糾弾しながらも、私達の視線を自然界へと誘い、地球の外へと向かわせようとする。
もしかしたらこの島国ごと消えてしまうのではないだろうか……という気もしてくる昨今の状況である。
だが人が消えても宇宙の彼方に静かに存在する恒星があるという事実に思いを向けてくれる丸山文学は、ある種の救いでもある。

以下、二つの引用箇所は高原・巡りが原が太陽について語る箇所。太陽の存在が、まるで人のようにも思えてくる。

ストーリーは、また娘に襲いかかろうとした僧の成れの果ての青年を、黒牛が角で宙に飛ばして娘を助けるというように進行していく。

そして
 燦々と照り映える陽光が
  天から見放された土地であるかのような「巡りが原」にまことに優雅な甘美さをさずけ

 想定外の奇異な事態の真上にでんと居座るこの恒星は
  今の今まで無責任な傍観者に徹していたくせに

   事ここにいたって太陽という絶対者の立場をあらためて思い出したのか
    急に無関心ではいられなくなり
     才気煥発な存在者を気取っていきなり口を開き

罪に継ぐ罰という因果律の定番でも念頭においてるのか
 迂遠な心理であっても簡単に喝破しそうな
  画定がきわめて困難なはずの識閾を自由自在に出入りできそうな
   そんないかにも偉そうな言い回しで
    思慮分別に富んだ
     定義可能な生き方について声高に語るのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻94、95頁)

いずれにしても
 無為無策にして無定見の
  野次馬根性まるだしの太陽の世迷い言にいちいち耳をそばだてる酔狂者は私しかおらず

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻99頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月13日(月)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー今の時代を予見するような言葉ー

「トリカブトの花が咲く頃」が刊行されたのは2014年。
東日本大震災から3年、まだまだ辛い状況にある人々もいるけれど、2023年の今日のように円が弱くなって、まさに引用文にあるように「資本主義経済にいきなり強烈な肩すかしを食わされ」という状況になっていると予見した者がどれだけいるだろうか。

丸山先生が厳しい言葉で語る過去から現在の歴史は、なかなかそうはっきり書いてくれる作家は少ないように思うけど、まさにそのとおりだと思う。
そうであるなら、文の最後の方に書かれている未来もそうなるのだろうか……。
でも、こうして真実をはっきりと語る作家が多くなれば、忌まわしい未来は避けられるのかもしれないが、さて、どうだろうか。

以下引用部分は、高原・巡りが原が裸になって洗濯をしている娘を眺めているうちに、この国の過去から現在を語る言葉。


このあと、この娘に淫らな心を抱いて落ちぶれた僧侶の青年がやってくるが、娘の反撃に遭い、いったん諦める。

むろん
 天運に精選された偉大な傑物が颯爽と登場したところで
  今すぐにどうにかなるはずもなく

なぜとならば
 およそ精細を欠いた国民に巣くう事大主義という名の病根はあまりにも深く

しかし
 実際には子ども騙しの値打ちもない
  噴飯ものの現人神を大真面目に担ぎあげた皇国のプロパガンダによって均一化されていた
 異様に熱い思念が急激に冷めてゆき

全体主義の恐るべき威力によって恐ろしいまでに平準化されていた個人が
 てんでんばらばらの性格へと立ち返る


そして
 無知から知への道をたどり始め

常に新兵器の開発競争に勝利しながら
 世界制覇を念頭に置いて密議に明け暮れる超大国の将来を見据えた打算によって
 辛うじて処刑を免れた天皇といっしょに押しつけられた民主主義と自由の方向へと頭を切り替える


とはいうものの
 ろくすっぽ考えもしないで新たなる国家体制をよしとし
  身の皮を剝ぐ暮らしを送りつつも
   未来につながる努力と確信して
    ただもうひたすらに過酷な労働に献身し

ために
 あとはもう
  猛烈に欲するいびつな本能と冷徹なる利便性に支えられた経済が暴力的なまでの活況を呈し
 金力をバネにして暗過ぎる過去からの遁走を図るしかないのだ

 やがて
  あくまで見せかけの信用本意社会における
   なりふりかまわぬ利潤追求の市場が殷賑をきわめ

    民生の向上が限界にたっした
     将来のある日

 ありとあらゆる物質を支配できるはずの資本主義経済にいきなり強烈な肩すかしを食わされ

 才覚次第でたんまり儲けることができる幸福は後日のために控えているという期待感が
 結局は幻想や妄想のたぐいでしかなかったことを思い知らされ

 その果てに
  膨張しすぎた繁栄が狂喜乱舞のうちに虚ろな音を立てて破裂するという蹉跌をきたし
 成り上がり者の立場から一挙に転落した人々にありがちないじけた劣等意識が蔓延し

それの強烈な反動として
 平板な自尊心をくすぐってくれることで人口に膾炙された愛国主義の雛型に情緒的意義をおぼえるようになり

神道と天皇制のあわいに生まれた
 哲学的奇想よりもはるかにお粗末な虚構をまる呑みし

すると
 異様なまでの国民的結束にしか救いと未来が感じられなくなり
  隣国にたいしての謂われなき侮蔑が正義の皮をかぶった憤慨へと移行し

そうした怒りは殺してやりたいほどの憎悪へと変わり
 双方ともに相手の立場に身を置いての発想が不可能になり

ほどなくして
 犠牲者の数が十倍以上にものぼるであろうつぎの戦争へとかり立てられ
  またしても国土の大半が血なまぐさい乱闘の場と化す羽目におちいるのだろうか

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻44〜46頁)

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