さりはま書房徒然日誌2023年9月30日(土)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ードッペルゲンガー君も慣れると親しみがわくみたいだー

津波を生きのびた青年が無人の被災地をさまよい、自宅にたどり着けば、寝台に横たわる裸の男。
男は死んでいた。
しかも自分のドッペルゲンガーだった。
青年はドッペルゲンガーを地中に埋めた。
だが、ふと気がつくつと丘に乗り上げた船のマストの上に、ふたたび砂まみれのドッペルゲンガーがいた……。

以下、緑の引用部分はドッペルゲンガーを眺め、観察し、最後には呼びかける……という情景を描いた一つの文

引用部分の中でも、「吹きつのる爽快な風にすっかり心を奪われて、見張り台の上から色鮮やかな罪が世界を睥睨し」という言葉に心惹かれる。

「吹きつのる爽快な風」で五七ではないか!

「色鮮やかな罪が世界を睥睨し」も七七五ではないか!
「色鮮やかな罪」とか「色鮮やかな悪」とか「色鮮やかな恋」を練り込んだ短歌をつくってみるのも面白そう……と、まずこの部分の表現に目がゆく。

せっかくだから、この長い一文を写してみようと思い、入力すると、読んでいときはスルーしていた部分も心に引っかかってくる。

ドッペルゲンガーにもだいぶ慣れたのか、呼び方も「そ奴」と親近感がある。

ドッペルゲンガー体験も「面妖なこと」とどこかユーモラスに言い聞かせている。

「いろいろさまざま」と似たような言葉を平仮名で繰り返すことで、本当に無尽蔵にある感じが出ている。

少し青年は無理をしているんだな……という文がリピートされ「平静さを装い」のあと、「吹きつのる爽快な風にすっかり心を奪われて、見張り台の上から色鮮やかな罪が世界を睥睨し」という文に心がスカッとする。

「その肉体からその霊魂から全部ひっくるめておのれの死を愛し」というフレーズも、「その」の反復で全部という感じが強く伝わり、「おのれの死を愛し」という言葉がグサリと心に突き刺さる。

ドッペルゲンガーを語る「神の伴侶を自任しそうな やんごとなき身分の愚者にも似た相手を、」という面白い言葉に、どんな存在なのだろうと思わず立ちどまって考えてみたくなる。

「振り仰ぎ」の箇所……
丸山健二塾の個人レッスンで私の「仰ぐ」という言葉を、「振り仰ぐ」と訂正された後、丸山先生は「『仰ぐ』とだけ書くより『振り仰ぐ』の方が動きが出ます」と言われていた……と懐かしく思い出す。
たしかに動きが出る。

長い文の最後、「それでも、おれはおれなんだ!」「で、おまえは誰なんだ?」とドッペルゲンガーとの対話はどこかユーモラスでもあり、谺のようでもあり……と思いつつ、長い文を読み終える。

色々ちまちまと語ったが……。
今年4月から受講している福島泰樹先生の短歌創作講座では、いきなり他の受講生の歌についてどう思うか、三十一文字の世界について感想や意見を求められる。

三十一文字について、私はまだ思うように語れない。

でも他の皆さんは歌の内容だけではなく、語彙や表現の可能性、文体について感想をさっと言われる。

小説の批評で、語彙や表現、文体についてのコメントを目にしたことは余りない気がするが……。丸山先生の作品は短歌的視点で語ってみたくなる……舌足らずの近眼的視点だけれども。

さりとて、

絶対に説明の要があるそ奴の復活を気にもとめずに放置したり、

世の中にはそんな面妖なこともあるのだと自分に言い聞かせて黙許したり、

容認しうるいろいろさまざまな現象に無理やり分類したりするわけにもゆかず、

そこで、

ひとまず恐怖心のたぐいを残らず取り下げ、

不平をもたらすほど肝が据わっている者を演じ、

おのれの勇気を頼みとし過ぎることによって直面する危機を自覚し、

あたかも再々あることだと言わんばかりの平静さを装いながら、

吹きつのる爽快な風にすっかり心を奪われて、
見張り台の上から色鮮やかな罪が世界を睥睨し、

その肉体からその霊魂から全部ひっくるめておのれの死を愛し
神の伴侶を自任しそうな
やんごとなき身分の愚者にも似た相手を、

半信半疑のまま
いや
頑強な対立者として
多少の敬意を払いつつ
振り仰ぎ、

そして、

別段挙動不審というわけでもない侵入者に
さらなる好奇の眼差しを向け、

「それでも、おれはおれなんだ!」
と言い張れる自分をはっきり感じつつ、

ずばり
「で、おまえは誰なんだ?」という
当然至極の質問を投げつけてやった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻11頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月29日(金)

藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」を読む

短歌とは「五七五七七」としか知らず、福島先生の短歌創作講座を受講したのが今年四月。

たしか福島先生はこう言われた。
「短歌という詩型の歌う主体は、宿命的にこの<私>である。この一人称詩型短歌の<私>を逆手にとり、「不特定多数の<私>」に降り立つことができる」
そんなことができるのか!……と、この言葉が強烈に印象に残った。

「不特定多数の私の視点におりたつ」という考えで歌をつくると、文楽人形の気持ちになったり、関東大震災で自警団に惨殺された青年の視点になったり……自由自在に万物になった気分で、とりあえず楽しく歌もどきを詠むことができた。

藤原氏は、「不特定多数の視点におり立つ」という福島先生の短歌を三人称短歌として語られている。

福島泰樹の短歌の世界でのポジションが微妙に変化をみせ始めるのは、次の歌集『中也断唱』(1983年、思潮社)以降である。つまりこの時期から福島泰樹は活字メディアのみの現行為にはあきたらず、ライヴ即ち短歌絶叫という新たなジャンルの創造に挑み始めたからだろう。
 これは同時に、ある特定の存在に成り変わって詠うという三人称短歌の実現の過程でもあった。

(藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」109頁)

藤原龍一郎氏は、この文の次に福島先生のこの三首を紹介している。
哀切な響きと地名が心に残る歌である。

ゆくのだよかなしい旅をするのだよ大正も末三月の事

さなり十年、そして十年ゆやゆよん咽喉(のみど)のほかに鳴るものも無き

中也死に京都寺町今出川 スペイン式の窓に風吹く

(福島泰樹)

福島先生は毎月一回10日に短歌絶叫コンサートを開催されている。
絶叫とは何か……について、福島先生はこう語られているそうだ。

「だから、なぜ叫ぶかというと、それは自分だけの叫びじゃない。彼らの無念をおれが体現しているんだ。おれの体で肉体で受け止めて、それぞれの時代の無念、死んでいった彼らの無念をおれが歌うんだ、そういう思いが絶叫だね。それが絶叫コンサートの意義というかな。」

(藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」111頁福島先生の言葉)

そして藤原龍一郎氏によれば、「彼らの無念」の「彼ら」とは以下であるそうだ。

彼らとは、中也に限らず、寺山修司や岸上大作や村山槐多や沖田総司といった志なかばで斃れていった者たちのことだ。

(藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」112頁)

短歌絶叫コンサートは毎月行っても、その度に聞こえてくる響きが違って飽きることがない。
福島先生の鎮魂の思い、無念の思いを抱く者たち……その都度、両者が異なる叫びを発しているのかもしれない。
そして何度読んでも、聴いても飽きない……というところが、詩歌の魅力だろうか。

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さりはま書房徒然日誌2023年9月28日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻読了

ーひとつの文の中に、ひとつの物語が内包されているようでもありー

津波を生きのびた青年。無人の被災地をさすらううちに、自分の家でおのれのドッペルゲンガーの死体を見つける。その死体を土に埋めるも……。

引用箇所はこれで一つの文。実に長い一つの文である。

長い文の中に読者の心を掴む導入、スイッチオンにする箇所、ドッペルゲンガー再来を予告するような箇所、だんだんやわに崩れようとする心が語られる。

一つの文の中に、一つのストーリーが内包されている。

長い文が始まる冒頭部分は、「朝の歓喜」とか「匂い立つ歓喜」という心を思わず引き寄せる言葉が並んでいる。
だから長い文も気にすることなくスッと入っていける。

次の「翼をいっぱいに広げた怪鳥」「いにしえのい日々」で、この長い文が語ろうとする世界へと、グッと心のスイッチが入る。

さらに「愛と憎悪の幻影」「無二の大舞台」と、このあとにまた復活するドッペルゲンガーを予告するような言葉が並んでいる。

だが「けだし」のあとに並べられている言葉は、凡庸な生き方へ堕ちてしまおうか……という自棄への誘惑である。

そういう言葉すらも「魂の方位盤が示す四方」「夢がふたたび若返る」「国家権力がもたらす害毒の呪縛」と魅力的な言葉が並び、いかにも丸山先生らしい考えが表れている。

世俗的考えに流されそうになったところで、このあと地中に埋めたはずのドッペルゲンガーが泥まみれの裸でマストの上に現れる。

丸山文学によく出てくるドッペルゲンガー……それは喝を入れるような存在なのだろうか?

すると、

夏のあいだずっと保たれそうな朝の活力を彷彿とさせる
匂い立つ歓喜が辺り一帯に放散されるなかで、

目もあやな空を背に巨大で頑丈な翼をいっぱいに広げた怪鳥にさらわれ
言葉を失うほど遠いいにしえの日々へと連れ去られ
世界観を曇らせる偏見のあれこれがことごとく払拭されたかのような
そんなさっぱりした心地になり、

しかも、

暗黒物質のさらなる増大によって天と地が分かたれるという
めくるめく偉大な物語の登場人物の一員であることが生々しく自覚され、

じつは、

始まりも終わりもないこの宇宙こそが
多大の犠牲を払いつづけるという苦い経験を通して
自身の胸から芽吹いた愛と憎悪の幻影を存分に楽しめる
唯一にして無二の大舞台ではないか、


さもなければ、

偏向なき自由意思によって
嬉々として破滅へ堕ちてゆくことが可能な
ほかのどこにも存在しえない天国ではないかと
そう思えてきて、


けだし、

ありとあらゆる悲劇や不幸のたぐいをいっさい含めて楽しむべきではないか、

人生の苦杯を舐めつづけるおのれを語ることになんの意味もないのではないか、

魂の方位盤が示す四方に沿って精神が純化されるという説は嘘ではないか、

精神生活が無為のうちに尽きてゆくことを恐れなくてもいいのではないか、

常に変わらぬ孤独に愛着をおぼえるのはあまりに危険ではないか、

遂げられなかった夢がふたたび若返ることなどないのではないか、

知性に依存する立場に正当な論拠を与えることは不可能ではないか、

面目躍如たるものがある反逆的行為など幻にすぎないのではないか、

国家権力がもたらす害毒の呪縛を脱することなど無理ではないか、

という
そんな結論にもならない結論が
速乾性の接着剤のように急激に固まりつつあった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻553頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月27日(水)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ー「ラウンド・ミッドナイト 風の言葉」(田畑書店)に採られていた言葉を発見!
このフレーズには定時制高校の生徒も惹きつけられていたと思い出す!ー

津波を生きのびた青年が無人の被災地で遭遇した死体。
それは自分のドッペルゲンガーだった。
おのれのドッペルゲンガーを葬ろうとして、もう一人の自分と対話するうちに前向きになってくる……
そんな場面。

さて、この箇所で丸山文学の素敵な言葉を集めた「ラウンド・ミッドナイト 風の言葉」(田畑書店)に採られている言葉を二つ発見。


「罪のうちに埋没する世界」と「おれがおれを生きるのに誰に遠慮がいるものか!」の二つだ。

「ラウンド・ミッドナイト 風の言葉」は弾き語りのthetaさんと言う方が言葉を選び、歌にされている。

thetaさんが歌う「ラウンドミッドナイト 風の言葉」を、いぬわし書房さんが素敵な動画に作成されたものがあった。リンクを下の方に貼らして頂く。

ちなみに、かつてこの歌を勤務していた夜間定時制高校のクラスの生徒に聞かせたことがあった。

生徒それぞれに、心に響く歌のフレーズがあるようだった。

引用箇所の「おれがおれを生きるのに誰に遠慮がいるものか!」と言う言葉は、断トツで定時制の生徒たちの心を捉えていた。

中には、この歌の歌詞に「(丸山先生のことを)尊敬します」ときっぱりと断言した生徒もいた。(非常に辛い過去と現在を生きる、尖った眼差しの生徒であった)

夜間定時制高校の生徒たちは過半数が外国籍の親のもとに育ち、非常にハードな人生を歩んできた者が多い。
そうした生徒たちの心を捉えるとは!と驚いた……。
丸山文学は、アプローチ次第では、厳しい状況の若者の心を捉える力だってある。
難しいと決めつけないで、もっと色々な人が読んでくれたら……と願う

そこで、

罪のうちに埋没する世界と
墓場へと急ぎ立てる嘆かわしい現状に抗して
自己の生存競争を遂行するという、

生の先頭に立って
独自の価値を熱望する
かくのごとき者を演技しながら
重大な経験によって鈍くなった曇りのない心を四方八方に飛ばし、

ややあって、

どうでもいい古い過去の追憶といっしょに
凡庸にして立派な訓戒のあれこれを視界から遠ざけながら
しこたま毒気を含んだ攻撃的な姿勢に切り替え、

目下推進している事態を正当に評価しつつ
「さあ、なんでもござれ!」
だの
「まさにこの時においてなすべきことをなせ!」
だのという
肉弾戦の先陣を切る者のように雄々しい
おのれ自身の力強いひと声で心を奮い立たせ

「おれがおれを生きるのに誰に遠慮がいるものか!」
という
古き良き時代の産物である
正当な権利に基づく主張を幾度もくり返した。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻537頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月26日(火)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む
ーひとつの文のなかに込められた問いかけやら比喩やら思索にときめいてー

以下引用の文はこれで一つの長い文。

まず、読み手の心を誘いかける「時はもう夕暮れ」という柔らかな響きの言葉で始まる。

そして作者の思考を感じさせる「横暴を生む母体」「罪の舞台」という言葉が、読み手に問いかけてくる。

ため息をつきたくなったところで「生彩と独創性に満ちた清夜」と言う美しい言葉に気を取り直す。

「骨灰を思わせる真白き月」と言う思いがけない比喩に、読んでいる私の感情も一気に高ぶる。

その勢いで「陳腐な価値評価が異様なまでの高まり」と言う謎に満ちた言葉も理解したかのような幸せな誤解に包まれる。

丸山先生の思考に裏打ちされた言葉を完全に分かったとは言えないけれど.…。
「星影の表現が不明確で粗雑」「豊麗な星々が押し合いへし合いする」「天啓のごとき雰囲気を具えた流星」「没落の未来」「底意地の悪い将来」「命の環状線」「沈黙に侮辱されながら」
……と宝石箱から溢れたような比喩の数々を愉しむ。

そうこうしているうちに長い文も終結となって、「生と死のいずれが存在の実相」という謎めいた問いかけの語句で、この文は終わる。

たった一つの文を読むだけなのに、宇宙の奥まで、思考の深淵まで旅した気分になる……そんなときめきを感じた。

時はもう夕暮れ
日も落ちようとしており、


やがて、

たとえば心無い因襲の徒に具わりがちな不滅の活力に支えられ
横暴を生む母体としての
あからさまな罪の舞台にあって、

万事よしと自信をもって判断できるほどの
生彩と独創性に満ちた清夜を迎え、

すると、

骨灰を想わせる真白き月の下で
世界は公正であるとする陳腐な価値評価が
異様なまでの高まりを見せ、

どんなに星影の表現が不明確で粗雑であっても
べつにこれといった不都合は感じず、

おかげさまと言うかなんと言うか
狂気染みた情熱に恵まれたこのおれは、

偏在性への漠然とした懐疑や
移ろいやすい超越主義が無制限にあふれて
豊麗な星々が押し合いへし合いする
宇宙の大偉観に圧倒され、

ゆえに、

あたかも天啓のごとき雰囲気を供えた流星が
没落の未来を暗示することなど間違ってもなく、

過去をもう一度生き直さざるをえないような悲しみに包まれるという
大きな錯誤が永続的に作用することもなく、

ひどく底意地の悪い将来によって
自己依存の行き着くところが呑みこまれてしまうこともなく、

好むと好まざるとにかかわらず
命の環状線を一巡して
沈黙に侮辱されながら帰途に就くしかないという
そんな無防備な孤立状態に気づかされてうんざりすることもなく、

また、

生と死のいずれが存在の実相であるにせよ
それ式のことではもはや驚かなくなっていた

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻495頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月25日(月)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む
ー自分のドッペルゲンガーを前にした時に思い出されることを言葉にすればー

津波から助かった青年が無人の被災地をさすらううちに、自分の家にたどり着く。
我が家の新台には、裸で男が死んでいた。
よく見れば、その死んだ男は自分自身だった……。

以下引用の長い、でも一つの文は、そんなドッペルゲンガーを見つめ埋葬を決意するまでの、青年の心に思い浮かんでくるあれこれを語っている。

長い文の最初は「波打つ草のごとき切なる追想に耽りつつ」と引き込むような美しい言葉で始まる。


そして続くドッペルゲンガーと「たわいもない局部的な過ちの染みについて」交わす会話。
その内容は具体的には書かれていない。
そのかわりに「たとえば」と繰り返すことで、読み手の方でイメージをどんどん膨らませていくことができる。


そう、一番最後の「たとえば」だけ、「娼館を女手ひとつで切り回していた育ての親」とやけに具体的なのはなぜなのだろうか?
読み手の意識を現実に引き戻す合図だろうか?

一つの文の中に、作者の意図が色々働いている気がする。

しばしのあいだ、

波打つ草のごとき切なる追想に耽りつつ
たわいもない局部的な過ちの染みについて
もうひとりの自分かもしれぬそいつを相手に無言の語らいを始め、

たとえば
神格化が可能なほど絶対的な孤立、

たとえば
おのれの涙にまみれた明けの明星、

たとえば
本来の人間に帰するための動と反動、

たとえば
中間的な存在である万物がもたらす粗雑な結果、

たとえば
八方の境界を超えてほとばしる新しい眺望、

たとえば
憎しみが恍惚に昇華してしまう光明なき時代、

たとえば
逃避を許さぬ荒涼たる空虚、

たとえば
娼館を女手ひとつで切り回していた育ての親、

そんなこんなを
思いつくままに喋りまくったあと、

地面の下が本当にふさわしいかどうか
念入りに再確認しようと
もう一度遺骸の前にしゃがみこんだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻455頁)

丸山先生も、短歌の福島先生も共通するお叱りのフレーズは「それは説明的すぎる」という言葉。

わかりやすく書くのではなく、かけ離れた語と語を結びつけてイメージの花束を読み手に差し出す……ことを理想とされているのではないだろうか。
読み手は、差し出された言葉の花束を自分の思考回路に流して自由に造形していく……という読み方を、丸山先生も福島先生も理想とされているのかもしれない……とふと思った.

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さりはま書房徒然日誌2023年9月24日(日)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ードッペルゲンガーの存在に疑念を抱かせない語り方ー

若い頃、歌人・高瀬一誌から指導を受けた歌人(福島先生ではありません)にこう教えて頂いた。
高瀬一誌が常々言っていたのは「他人と似ていない歌をつくれ」との言葉だと。
高瀬一誌に指導を受けたその方は「短歌は長くつくっているうちに自分の文体ができてきます」とも励ましてくださった。


小説でも、文芸翻訳でも「他人と似ていない」「自分の文体」ということは、あまり大事にされていない気がする。
(今の厳しい出版社サイドにすれば、少しでも多く売れてくれる……だけで精一杯なのかもしれないが。)

だが丸山先生も、そういう視点をすごく大事にされていると思う。

丸山先生の今の文体は、「丸山健二」という名前がなくても、一目でパッと「丸山先生の文だ!」と分かる。


そして私も、丸山先生とも似ていない自分の文体を作らなくてはいけない……とは思うが、いつになるやら。

でも「他人と似ていない」「自分の文体」を目指すところが、短歌や散文を書く醍醐味であり、苦労なのかもしれない。

さて「我ら亡き後に津波よ来たれ」だが……。

津波を逃れた青年は無人の被災地をさすらううちに、見覚えのある我が家にたどり着く。
中に入れば、寝台には裸の男。
よく見れば、男は死んでいた……
さらによく見てみれば、死んだ男は自分自身。
自分のドッペルゲンガーを見ているのだった。

そんなドッペルゲンガーとの出会いにつづく文は、不思議な状況に疑念を挟む隙を与えないような、格調の高い文だと思う。

「獄門が閉ざされてから吹き渡る」「上々吉の風」「異形の風」「裁きの庭のごとき」「夜々草のしとねに伏す悲しみ」「静かに輝く草原というたぐいの夢さえ尽き果てた現世の暗闇」……と畳みかけられたら、ドッペルゲンガーがたしかにいる気になってくるではないか!

また
ほんの少し視点を変えれば、

獄門が閉ざされてから吹き渡る上々吉の風とは真逆の
異形の風に導かれて可能になったこの異様な出会いは
永遠に未熟な魂同士の融合と言えるのかもしれず、

さもなければ
震撼の世におけるただ一度の歓喜の巡り合いということなのかもしれず、


早い話が、

特異な性格を具えた異端者同士が
生々躍動する秩序の崩壊にあまねく覆われた
あたかもたじろぐしかない戦いの場のごとき
もしくは裁きの庭のごとき
この被災地に濃い影を落としていることになるのやもしれず、


そして今後は、

夜々草のしとねに伏す悲しみを負う胸のうちをぶちまけ合い、

互いに赦し合い、

心地よい孤独を知覚し合い、

肝胆をかたむけて一夜語り合い、

思い詰めた瞳の奥に折り重なる言葉の影をつぶし合い、

大気に孔をうがつほどの光の狂乱を夢見合い、

天高く輝く魂の避難所という幻想を徹頭徹尾無視し合いながら、

静かに輝く草原というたぐいの夢さえ尽き果てた現世の暗闇を
手に手を取ってさまようことになるのかも知れなかった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻407頁)

ただしドッペルゲンガーも登場してやや経過すると、だんだん語り方が砕けたものになってくる。
おかげで青年や読み手とドッペルゲンガーとの距離が、縮まったようにも思えてくる。
それからドッペルゲンガーとの距離を喩える表現の連続「遠方の恋人同士」から始まる文も面白いなあと思った。

早い話が、

おれはどこまでもおれでありつづけ
そ奴はあくまでそ奴でありつづけ、


相手はというと、


無に等しい罪深さしか知らぬ
未確定な未来への到達を心待ちにし
常に喜びもまたひとしおといった面貌の
死後の幸福までまんまとせしめてしまうような楽天家であり、


当方はというと、


夢見ることもあたわぬ
怒るにつけ悲しむにつけ眼下に心の碧譚を望むしかない
そうであればこその苦境に追いこまれつづける
流竄の詩人であって、

ともあれ、


両者はそれ以外の何者でもなく、

遠方の恋人同士のように、

離婚して久しい男女のように、

別々の飼い主に引き取られた仔犬のように、

暗黒の空間ですれ違う小惑星のように、

互いに干渉し合う必要などない存在だった。


(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻421頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月23日(土)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ーひとつの文が長い記憶の旅路にも思えてー

1966年の「夏の流れ」から五十年の年月を経ての作品「我ら亡きあとに津波よ来たれ」
両作品の文体の違いに、「我ら亡きあとに津波よ来たれ」の文体に到達するまでの丸山先生の文体への試行錯誤の過程を思う。

「夏の流れ」の簡潔で、引き締まった美しさのある文。

そして「我ら亡きあとに津波よ来たれ」以下緑の引用文は、これで一つの、実に長い文である。

津波を生きのびた青年の意識をかけめぐる記憶の流れのような、目前にひらける海原のような、たゆたう流れを感じる素敵な文だと思う。

この長い一文の始まりは、「月光の金杯を満たす沈黙の語りとは似ても似つかぬ」という魅力的な語の組み合わせだ。
意味は定かに分からないながら、素敵な響きにあっという間に文に引き込まれる。

そして丸山文学によく出てくるテーマである「もうひとりのおれ」とのやりとりが出てくる。
「船上と岸壁で互いを呼び交わすような無意味にして虚しい押し問答」という文で、絵画を見るかのようなイメージ喚起力で「もうひとりのおれ」とのやりとりが喩えられている。

そして「もうひとりのおれ」にかき乱される記憶が悶々と文の闇間に散る。

長い一文の最後は、「いちいち未来に楯突く明日を思わぬ心といっしょに無窮と無限を孕んだ玻璃の海へと」
なんだか心がスーッとする言葉がきて、浄化された思いになってようやく一つの文を読み終えた。

丸山先生が一つの文を書くのに込めた思いを想像し、そうした時が凝縮された本がずしりと重く感じられてくる。

すると、

月光の金杯を満たす沈黙の語りとは似ても似つかぬ
自分に都合のよいときだけくどくどしく述べ立て
結局はぼやきで終わりそうな
呆れ返るほど単調な物思いが始まり、

それから、

うすうす感づいているおのれの不気味さと
幾多の謎を投げかける胸に咲く花を誰よりも強く意識した
もうひとりのおれとのあいだで
船上と岸壁で互いに呼びかわすような
無意味にして虚しい押し問答がくり返されたものの、

相手をへこますどころか
逆に言い負かされてしまい、

ひとしきりの沈黙の後、

まるで十年ぶりの再会に匹敵しそうな
官能とたわむれるしかなかった青春の放胆さに直結する
まことに奇妙な懐かしさに奇襲されて
不覚にも落涙しそうになり、

不幸と欠乏に付きまとわれっぱなしの生来的な自然人として
今もなお遁走の真っ最中であるおのれの体内に
望んでも得られぬ定めや
することなすこと裏目に出るという汚辱が
トラックに轢かれた蛇のようにのたうっていることが再認識させられ、

それでもなお、

いつまでも経済的に自立しないせいで
消費からの解放という理念が際限なく無価値なものとなるような
延々と切れ目なしにつづく灰色の日々のなかにあって、

借り物の力に復してしまわないほどに、

スノビズムからの解放を必要とする世俗世界の秩序を黙殺できるほどに、

いっさいの敬慕の念を頭から振り払えるほどに、

神仏に化託してみずからの心情を語れるほどに、

心を強化してくれそうな人生の慰めを求め、

また、

ひとえに絶望的な混乱をはっきりと物語る陸を離れたい一心から
いちいち未来に楯突く明日を思わぬ心といっしょに
無窮と無限を孕んだ玻璃の海へと
どこまでも強情を張りそうな
恐ろしいまでに血走った目を飛ばすのであった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻361頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月22日(金)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む
➖死を悼む万物の声を喩えるなら➖


津波から助かった青年が誰もいない地を彷徨う途中、心に聞こえてくる言葉……。
死者の言葉だろうか?それとも死者を悼む万物の言葉なのだろうか?

以下、緑の一番目の引用箇所について。
津波でみんな死んでしまった……を散文で表現すると、「平等この上ない死を理詰めで肯定し あっという間に生命線を断たれてしまった」になるのかと思い、そう書くことで伝わってくる感情を考えてみる。

「平等この上ない死を理詰めで肯定し」で逃れられない感がひしひしと迫ってくる。

「あっという間に生命線を断たれてしまった」で命のあっけなさ、無情さに胸が締めつけられる。

「遠雷」や「舟唄」「家鳴り」「つぶやき」の比喩が「のように」と繰り返されることで、悲しみの声があちらこちらから谺するような気がしてくる。
比喩の言葉の思いがけなさも面白い。「舟唄」や「家鳴り」に喩えるとは!


「非難の的の透明性を濁らせるつぶやきのように、」という一文がすごく気に入って、今日の文を書こうと思った。


切なくて不合理なイメージが湧いてくるけれど、具体的に何か……自分の心に作用する過程をきちんと説明することはできない……そして正確に説明はできないけれど、心に何かが伝わってくる、こういう表現が私は好き。


「分かるように文章は書きなさい」という実務志向の世の流れには逆行するのだろうけれど。
明確に説明はできないけれど、心がいいと叫びたくなる表現はいいのだ。

息をとめて心耳をかたむければ、

平等この上ない死を理詰めで肯定し
あっという間に生命線を断たれてしまった
目に見えない人々の生涯を飾る最期にふさわしい魂のこもった言葉が、

山の彼方で轟きわたる遠雷のように、

水路を巡りながら口ずさまれる舟歌のように、

歴数千数百年を経る古刹の家鳴りのように、

非難の的の透明性を濁らせるつぶやきのように、

ほんのかすかに聞こえてくるのだった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻302頁)

以下、二つの引用箇所は丸山先生の考えがよく現れて魅力的な箇所と思う。

一つめのところ……。

震災のせいで国家が瓦解したら、個人を抑えつけていたものが取っ払われるのだろうか? 
それとも丸山先生ご自身もよく言われるように、天災に乗じて国家が好き勝手に抑えにかかる方向に進むのだろうか?

「断固たる民意という列柱」という言葉も重い。今の日本のように望ましくない国家を支えているのも民意なのだろうか……と。


断固たる民意という列柱によって支えられた
国家的な目標という大屋根が取っ払われたせいで
個人の自由を留保しつづけてきた権威主義が溶解し
情熱的にして騒然たる時代の幕開けが強く予感され、

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻323頁)

次の引用箇所。
ラジオを見つけた青年がスイッチを入れても何も聞こえてこない……という場面。
まさに今の日本絶望をそのまま語っているような文だと心に残る。

つまり、

真っ当な希望に裏付けられた至高の統治者の登場など夢のまた夢でしかない
無定見にして無節操な経済力に支えられ
無知の代償としての間断なき堕落にさらされていたこの島国は、

可死的な存在という色合いに塗りこめられて
人間における反動物的なただひとつの側面である
無気力という精神上の危機を迎え、

各人がおのれの持ち場を放棄するという反社会的な自殺によって
未来を拒否する弱小な国家に成り下がってしまったのかもしれず、

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻341頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月21日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

かけ離れた語と語なのに、ぴったり結びつく比喩の愉しさー

丸山先生に比喩のことを何やら訊いたとき、「これからもどんな比喩が生み出せるか挑戦はずっとつづく」的なことを言われていた記憶がある。

丸山先生の考える思いがけない比喩を目にすると、日常のグダグダした思考からバッサリ切り離してくれるようで、私は爽快感を感じる。

でも比喩のウルトラCに「ついていけない」という思いの読者も多くなってしまったのかもしれない。

ただ「黒死館殺人事件」の中で、小栗虫太郎もギリシャの哲学者の言葉として「比喩には隔絶したものを選べ」と書いている。

結びつかないものを言葉の力で結びつける発想力……が、詩歌や散文を読んだり、書いたする楽しみの一つだと思う。

残念ながら、実用的な文章読解力要請を目指すという昨今の国語教育を受けてきたり、心地よくストレートに感動できるアニメだけで育ってしまうと、こうした比喩の面白みが分からない人が多いのではないだろうか……と残念に思う。

私も理解できたとは言えないけれど、丸山先生ならではの比喩に心惹かれ、答えは出ないけれどなぜこうなるのだろうと、せっせと駄文を連ねる。

さて以下引用部分は、津波から助かった青年の心境が海辺へと降りてゆく途中でだんだん変わる過程を書いている。

「急務でも背負う」と「こけつまろびつ」でよろよろ海へと下る姿が浮かぶ。

「危ない状況から生まれた忌まわしい怪物」で津波に衝撃を受けた青年の姿が見えてくる。

「はてさて、」で軽やかに風向きが変わる。

「発酵状態にある」「良識」も「有機的な」「心情」も目にしない語の組み合わせなんだけど、こうして結びつけると強く頷ける表現。

「ありうべからざる」と「正しい位置」の組み合わせも強烈に心に残る。

「死者と」「紙一重の」「倦み疲れた心身の持ち主」も新鮮な言葉の組み合わせだけど、思いがひしひしと伝わってくる。

「サンドブラストに掛けられた鉄錆のように」「きれいに滅しかけたのだ。」という組み合わせも鮮やか。
サンドブラストで始まるこの一文が好きなので、今日の文を書こうと思った次第。

すると、

あたかもより本質的な当面の急務でも背負うかのようにして
こけつまろびつしながら海へと近づいて行くおれ自身が、

かくもふさわしい状況のもとで
実在の一定の調和を保っているかのように思え、

さもなければ
危ない状況から生まれた忌まわしい怪物にでもなった気分で、

はてさて、
その根拠についてはまるで想像つかないのだが
少なくともかつては存在しなかった人生の幸福な瞬間を感じていることは確かで、

発酵状態にある良識と同様
常に有機的な心情を胸に忍ばせながらも
これまで疎んじられてきた穏やかな感情が勝手にぐんぐん膨張し、

ついで、

存在の基準を自己のうちに持つゆるぎない立場がはっきりと自覚され、

共存不能なものなど皆無であることがつくづくと思い知らされ、

どこまでも意味に即した迫真の観念が充分にありうるものとして解釈され、

連綿とつづく精神性の上昇発達がとてもあざやかに認識され、

ありうべからざる正しい位置につけたような心地になり、

きのうまでは死者と紙一重の倦み疲れた心身の持ち主だった記憶が

跡かたもなくかき消され、

かくして、

苦痛と死をもたらす人生最後の問題にはありがちな
精力を消耗するばかりの息が詰まる思いも、

サンドブラストに掛けられた鉄錆のように
きれいに滅しかけたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻287頁)

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