さりはま書房徒然日誌2023年9月20日(水)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ー平仮名の副詞を多用するか、漢字を多用するかで文体の印象が違ってくる気がするー

大津波を逃げのびた青年が、周りに生者が誰もいない状況で、徐々に落ち着きを取り戻して物思う場面。

このとき青年の心を駆けぬける思いの数々、
「国家にがんじがらめに縛りつけられていない」
「集団社会がもはや成り立っていない」
などは丸山先生が大事にされている考えとも重なる。
災害ですべてが崩れたとき、こうした考えが蘇るかどうかはわからないが、でも心に響く言葉だと思った。


引用箇所は同じ箇所からだが、途中で色を変えてみた。
写している途中で、前半、後半で文体が少し違うかも……という気がしたのだ。

前半紫字部分は「きれいさっぱり」「がんじがらめに」「もはや」「あっさりと」などの平仮名の副詞が文の色合いを深め、スピード感を増しているような感じがした。

後半赤字部分は、多用されている漢字のせいで、しっかり確立してゆく精神が表現されている気がしたのだが……。

ひいては、

自由を支配する普遍的な秩序がきれいさっぱり消え失せていることに気づき、

がっちりと形成された国家にがんじがらめに縛りつけられていない立場を思い知り、

個人を堕落させて窒息させる集団社会がもはや成り立っていないことを発見し、


さらには、

これまでしがみついてきた歪みのない尺度のあれこれをあっさりと棄て去り、

再評価すべき頑強な精神力に期待したくなり、

辺鄙な土地でくり広げられる粗雑な人生がそうでないものに感じられ、


そして、

野蛮な状態へ投げこまれた無用ながらくたという自覚がすっかり影をひそめ、

精神の存立に必要不可欠な感覚的世界が一段と輝きを増し、

孤独への倦怠を恐れながらも自己に専念することが可能に思え、

思考の細部の価値を捨象する作用が働き始め、

生の糸を切断しかねない無力感の残渣がすっとかき消えたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻235頁)



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さりはま書房徒然日誌2023年9月19日(火)

藤原龍一郎「歌集 202X」を少し読む

ー社会への大きな問いかけ、近未来或いは現在を語るSF的物語性に富んだ刺激的な歌にドキリとするー

2020年に刊行された歌集。

現代の日本の状況を糾弾し、読み手に大きく問いかける歌であふれている。

折にふれて頁をひらいては、鈍磨しがちな情けない己に喝を入れたくなる……そんな刺激的メッセージに富んだ歌集である。

短歌がこんなに社会に問いかけてくるものだとは……福島泰樹先生の歌にも、藤原龍一郎氏の歌にもメッセージ性の強さに驚く。

監視されている不気味さのある現代社会を詠んだ幾首かの歌、お洒落だけれど不気味さのある装丁(真田幸治)がとてもマッチしている。

ちなみに真田幸治氏が、こんなに不気味感のある装丁をされるとは思わなかった。でも不気味だけどセンスのいいところは、さすが真田幸治氏だと思う。

以下藤原龍一郎「202X」より引用
監視社会への懸念、問題意識がひしひしと伝わってくる。

夜は千の目をもち千の目に監視されて生き継ぐ昨日から今日 (11頁)

明日あらば明日とはいえど密告者街に潜みて潜みて溢れ (11頁)

詩歌書く行為といえど監視され肩越しにほら、大鴉が覗く (17頁)

スマホ操る君の行為はすでにしてビッグ・ブラザーに監視されている
(52頁)


反知性、思考停止の隷従の君はビッグ・ブラザーに愛されている (53頁)

上記引用の歌のなかでも、「肩越しにほら、大鴉が覗く」という結句の歌について……。

ポーの大鴉からくるイメージ性で心象風景が広がり、さらに「肩越しにほら」「覗く」で不気味さ、黒いユーモラスが際立つ。
「、」の句点で思わずドキリとする。
不気味だけれど物語性に富んだ歌だと思う。


この歌集については、まだ語りたいことは多々。それはそのうち後日に。

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さりはま書徒然日誌2023年9月18日

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

➖天気の急変の描写に社会への思いを重ねた比喩の面白さ➖

大津波から助かった青年が見つめる星空の空模様が、だんだんあやしくなってゆく。

天気の移り変わりにかぶせるようにして、あっけなく崩壊してゆくこの世の思想のあれこれを列挙して畳みかけてくる。

そうした喩えのイメージから聞こえてくる音、伝わってくる不穏な気配が、雷雲が近づく空模様と重なって読み手の心に揺さぶりをかける。

喩えの一番最初に「政府なき自由」がきている。
個人がそっと心の中で国家に背を向ける「国境なき意思団」という考えが大切……とよく語られる丸山先生らしいと思う。

あれほどまでに澄みきって晴れ渡り
流星群が光の鎖をなして降り注いでいた
深い瞑想による清らかな暮らしをどこまでも支えてくれ
単独の人間の行為のうちにいつまでも安んじていられそうな夜空が、

政府なき自由が嵐を巻き起こすという、

魂の炎さえ絶やさなければ恒久的に生を燃え立たせられるという、

真に恐るべきは群衆のなかの一員に堕することであるという、

辛抱強く待ち望めば道徳的な生活は実現するという、

人の心の善良性は思うがままに疾走するという、

精神の欠如によって命の影が薄まるという、

理性に反する美は死に絶えるという、

体勢への順応主義は去勢されるという、

悪が生の揺籃の役割を果たすという、

そうした種概念の
得手勝手な主観の持つ理念のように
どんどん怪しくなっていった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻171頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月17日(日)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

➖怒れども文に美しさが残る理由➖

大津波で助かった青年が矛盾だらけの社会に見切りをつけ、一歩踏み出す場面。

丸山文学の魅力の一つは、ふだん不平不満に思っている社会への怒り、疑問を、丸山先生が見事に言葉にしてくれる点にもあると思う。
こんなに私の怒りを代弁してくれる書き手は余りいない気がする。

ただ「次の自民党総裁にふさわしいのは?という世論調査の一位が小泉進次郎、二位が石破茂、三位が河野太郎」という時代である。
以下、引用箇所を読んでも、まったく心に響かない人の方が多いのではないだろうか?
たぶん圧倒的に読む人が少ないだろう状況でも、ビシッと書いてくれる姿勢に感謝する。

それから、
途方途轍もない不平等な状況がもたらす
ただただ落胆するほかない徒労感でいっぱいの
たわいのない老衰した社会と、

前世紀に一大勢力を築き損ねた帝国の悪夢に未だ毒されている愚民たちの
あまりに強過ぎる民族感情こそが却って国家の価値を低めるという
常識中の常識を無視した
命取りにもなりかねぬ品性のいやらしさを持て余したあげくに、

自由の精神を窒息させる異様に肥大した非人間的な機構に愛想を尽かし、

特権階級の奉仕者たちときっぱり袂を分かち、

欲望を騒然とさせるしか能がない都市景観に見切りをつけ、

政治的幻想でいっぱいの不毛の領域に別れを告げ、

絶対者をあっさり容認してしまう大衆の理性に背をむけ、

文明と人種の運命を決定する痛ましい危機を予感し、

停滞期に入って久しい人知の全部門から身を離し、

寄る辺ない身の上を恐れるにはおよばないと決めつけた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻162頁)

ただ、こういう内容の文を私なんかが書くと主義スローガン調になって、散文の面白さが消えてしまいがちで難しい……と思う。

「我ら亡きあとに津波よ来たれ」言いたいことは心に残るようにしっかり伝えられつつも、散文の美しさが残っている理由を考えてみる。

「途方途轍もない」と大袈裟に、漢字の圧力で不平等感を強調されている気が。

「たわいのない」と「老衰した」が「社会」にかかっているのも、どんぴしゃりと死にゆく社会のどうしようもなさを巧みに表現している感がある。

「絶対者をあっさり容認してしまう大衆の理性に背をむけ」という文も、「あっさり」という一語から、丸山先生の感じている歯痒さ、苛立ち、皮肉が伝わってくる気がする。

憤りを書く時であっても、こんな風に言葉と言葉を見えないところで複雑に結びつける冷静な視点が働いている。
それが読む者の心をグラグラ揺さぶるのではないだろうか?

それから、特にこういう文を書くとき、難じる分だけその人の心根が上から目線とか、はっきり見えて嫌になってしまうことがある。

丸山先生の場合、「痛ましい危機」の「痛ましい」に、「寄る辺ない身の上を恐れるにはおよばない」という文中の「寄る辺ない」に、寄り添おうとする気持ちを感じるから、しみじみと心打たれるのかもしれない。


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さりはま書房徒然日誌2023年9月16日(土)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ー寄せては返す波のうねりのような文体を愉しむー

丸山先生はよく「散文は本当は詩歌に劣らず凄いものなんだ」と悔しそうに言われる。

下記の引用箇所に、私でもそんな散文の凄さを感じた。

読み手がチラ見で理解できるようにと思うなら、「命拾いをしたようだ」「だんだん穏やかになる波の音が聞こえてきた」とワンフレーズで書くかもしれないが。

丸山文学に慣れていない人のために引用箇所ごとに色分けしてみた。最初の紫の引用箇所は、平板に言うと「命拾いをしたようだ」と言う箇所である。

紫の引用部分を読むときの私の心を追いかけてみた。
「心の投影」でウーン、どんな心だろう……と考える。
「おぞましき獄門」でさらに考えはじめる。
ぼんやりした頭を「ぴしゃり」という言葉が襲いかかる。この「ぴしゃり」が効いているなあと思う。

やがて、

命へのひたむきさをもう一歩押し進めて
とうてい人知のおよぶところではない溌剌たる生気を急速に回復し
生者の不可逆的な時間の流れに乗れるところまでどうにか漕ぎつけ、
一種謎めいた物言わぬ動物にでもなった心地で
ふたたび現世の魅力に惹かれてゆくうちに、

詩美にいちじるしく欠ける
心の投影としての
おぞましき獄門が
ぴしゃりと閉じられた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻128頁)

以下、赤字の引用箇所は津波から助かった青年が、だんだん穏やかになる波音を認識する箇所だと思う。

丸山塾での指導されるとき、先生は同じ言葉の使用を嫌う……と言うより許してくれない。
語彙貧弱な私はすぐに言葉が出尽くしてポカンとすることもしょっちゅうだ。
そういうとき丸山先生は優しく、まるでドラえもんのポケットのように、「こんなふうに言うことができる」と惜しみなく秘密の言葉の武器の使い方を教えてくださる……。
そんな丸山先生の講義を思い出してしまった。

ここでは、まず波という言葉が手を変え品を変え、「音波」「音韻」「懐かしい声」と繰り返される。

次に「〜でなく」と否定する形で、「幸福の残骸の摩擦音」「過去のこだま」「絶望の叫び」「良心の叫び」ではない……と否定してみせる。

そして「笑い声」「百千鳥の合唱」「独言」「薄幸のため息」と比喩をパワーアップさせてゆく。

肯定の比喩、否定する形での比喩、さらにパワーアップした肯定の比喩……と文を展開させながら波を表現してゆく文体は波のうねりそのもののようだ……
と、ここの文体に心地よくなる理由を考えてみたが、どうだろうか?


さらには、

失地回復のための魂の自殺をうながす
霊妙なる楽の調べのような
度が過ぎるほど抗しがたい音波に魅了され、

純粋な個人を不断に干渉する音韻にじっと耳をかたむけているうちに
常に危険に身をさらして生きる動物的な精気から一挙に離脱するという
思ってもみなかった鎮静の効果が得られ、

ほどなくして、

心を許した血縁者がおれの名を呼ばわる
なんだか懐かしい声のように思え、
星を頂いた天空の処々方々に
万物は神の影などではないとする
そんな自己発揚の楚然たるきらめきが
無数に星散しているのであった。

だからといって、

過去に呑みこまれてゆくばかりの幸福の残骸の摩擦音というわけではなく、

幽界の人となった者が聞くという過去のこだまでもなく、

飽和点を超えた絶望の叫びでもなく、

ましてや俗耳に入り易い良心の呼び声などでもなく、

むしろそれとは真逆の、

野に遊ぶ小娘たちの切れ切れな慎ましい笑い声や、

常夏の国を想わせる風光のなかでくり広げられる百千鳥の合唱や、

行方定まらぬ二重の意識を持つ屈折者の独言や、

いかな悲しみであっても共有できそうな薄幸のため息……、

そういったものに近く、

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻129頁)

国語教育が実用的な文の理解に重点が置かれるようになった今、こういう文の愉しさを理解する人は非常に少なくなってきているのではないだろうか。
そんな現状を寂しく思う限りである。

それから「星散」(せいさん)という言葉、意味は日本国語大辞典によれば「星が大空にまいたように散らばっていること。転じて、あちこちに散らばること」……なんとも綺麗な日本語だと思った。


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さりはま書房徒然日誌2023年9月15日

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ースッとは分からないけれど、読んでいるうちに心にリズムが生まれる不思議な文体ー

丸山文学を読み始めた当初……

漢字の読みも、意味も分からない言葉があったり(しかも私の場合は結構たくさんあった)、他の作家のなるべく読みやすく……という親切心で書かれた作品とは違って、深い意味を理解するまで、何度も往復して読みを繰り返したり……したものだ。

いや、今でもそうである。

でも多少意味がわからなくても読んでいれば、不思議にも心地よいリズムが生まれてくる。

丸山健二塾で指導を受けているとき、「の」の繰り返しが三回になってしまったことがあった。
文芸翻訳を勉強していたとき、翻訳家から三回「の」を繰り返すな……と教わった記憶がある。
丸山先生に「の」が三回ですがいいのですか……と質問したところ、先生はニヤリと笑って「五回『の』を繰り返すことだってある」言われた。

原著者の言わんとするところをなるべく正確に近い文体で分かりやすく伝える翻訳……。
文体のリズムに自分の叫びを刻もうとする丸山先生の散文への姿勢….
小説の翻訳と創作、両者は根本的に違うのだなと思った。

東日本大震災の被災地を実際に見てから数年後の丸山先生の叫びは、やはりこの文体なのだろう。
ちなみに当然ながら私の叫びはまた全く違う文体なのである….これが散文を書いたり、読んだりする面白さなのかもしれない。

以下の引用箇所は、最後の長編小説「風死す」に発展してゆく文体のような気がする。

丸山文学初めての方のために、内容で色分けしてみた。


紫の部分は、大地震の余震の凄まじさを書いている。
赤字部分は、地震によって否定されてしまう人間らしい諸々を、繰り返し連ねている。
読み慣れるとこの反復によって、リズムが、イメージが生まれてくる。

そのあとを継ぐ、

あたかも
ありったけの元素を強引に融合させてしまうかのごとき
とてつもなく重量感にあふれた大混乱をもたらし、

目もくらむような恐怖を差し招いて
空想上の歴史の到達点を現実のものとしたのかもしれぬ、

永遠の因果律を支える
非人間的で悪魔的な自然界の発作的な大激怒は、

いよいよもって人類滅亡という幻日が昇ったかの観を呈しつつ
およそ生命原理の根底からの崩壊を免れそうにない
恐ろしい必然に支えられた無限なる不幸を象徴し、

さらには、

神仏の意思をはるかに超えて
細心綿密に組み上げられたこの惑星が
無何有の郷には遠くおよばず
結局は砂上に描かれた要塞でしかなかったことを冷ややかに証明し、

また、

自分にできないことはないと高言してやまぬ
断然強い守護者という幻の存在を
にべもない解釈で斬って捨てたあと
陰鬱な後味を残す嘲笑に付し、

それから、

正義の原則なるものを、

我らを導く愚かな期待を、

共通の基盤に立つ世間の通念を、

形而上の世界と気脈通じる最良の日々を、

単に墓に下る者ではない人間らしい人間としての生涯を、

かけそき楽の音のごとき詩的香気を放つ言霊を、

万人のうちに本性的に具わる隣人愛を、

真っ正直に澄みきった知性を、

心を明るく照らす生きた力を、

良く生きるための崇高な善を、

慈悲深い美的行為を、

油然と湧いてくる詩想を、

醜怪な幻として

もしくは
慢性の凶器として
情け容赦なく斥けた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻100頁)

よく分かったとは言えないけど、リズムを感じながら読み進める……という読み方に丸山文学で慣れたせいだろうか。
今度、素天堂さん追悼読書会の課題本「黒死館殺人事件」も筋をよく把握していないけれど、読んでいるうちに不思議なリズムが心に生まれる過程を楽しんでいる気がする。

引用箇所に出てくる「無何有の郷」(むかうのさと)とは、日本国語大辞典によれば「物一つない世界の意味」で荘子に出てくる「架空の世界sw、無意・無作為で、天然・自然の郷。むかゆうきょう。ユートピア」だそうだ。
初めて知った。日本語の豊穣なることよ。

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さりはま書房徒然日誌2023年9月14日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに 津波よ来たれ」上巻を少し読む

ー様々な色が一つの人格をなす人間はステンドグラスさながらの存在ー

丸山健二塾でご指導頂いているときに、「この人物はすごく嫌な人間なのに、そういう風に表現すると嫌な部分が減ってしまうのでは?」と質問をしたことがあった。

丸山先生は「こういう人間だ……と決めつけて書くのはすごく古い書き方で、色んな矛盾をはらんだ存在として書くべき」というようなことを答えられたと思う。


丸山作品を読んでいると、やはり一人の人間の中に色んな面を見いだそうとする視点を感じる……。

たとえば「我ら亡きあとに 津波よ来たれ」で、大津波にのまれて三日間さまよいなながら、主人公が己を語る言葉も実に多様な姿を映している。

そんな自分のことを、

無責任な影法師に見せかけたがるやくざな根なし草、

あらゆる無法な特権が許される狂人、

他人に嫌悪を催させる
情の深い清廉な人物、

自身が国家であるという普遍的な叫び声を発する
熱烈な激情を秘めた道化役者、

青春の日は翳ってもなお心湧き立つ
反逆的な激情の持ち主、

どこまでも楽な暮らしをしたがる
根性の腐った奴、

常に万人と共に在る
夢見るような自由人、

それほど厄介ないつまでも超脱できない自分自身にのみ服従する
真っ正直と言えば真っ正直な無能な人種へと、

安産の過程のごとく
じつになめらかに移行してゆくのだった

(丸山健二「我ら亡きあとに 津波よ来たれ」上巻75頁)

人間とはステンドグラスのように様々な相反する色をはらみつつ、調和して生きる存在なのかもしれない。

写真は2枚とも、パリのノートルダム大聖堂のステンドグラス。

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さりはま書房徒然日誌2023年9月13日(水)

1969年11月3日、三島由紀夫が国立劇場屋上で楯の会のパレード行進を挙行。
そのときに小劇場で上演されていた文楽の演目は?


今日は国立劇場で文楽1部、2部を鑑賞。
今月で建て替えのため、この劇場は長い歴史をいったん閉じる。


劇場が建てられて間もない頃、三島由紀夫が国立劇場の屋上で楯の会結成一周年記念のパレード行進をした……という話を聞いたことがある。
いくら三島由紀夫とはいえ、よくぞ国立劇場が屋上を解放したものだ……と思っていた……。

だが、やはり許可をもらって……という形ではなかったようである。

パレードを行った1969年当時、三島由紀夫は国立劇場の非常勤理事をしていた。
さらに三島が書いた『椿説弓張月』を国立劇場で11月5日から上演することになっていた。
当然のことながら、三島は足繁く国立劇場に通っていた。


1969年5月には、国立劇場の技官に頼んで3階の屋上に通じる鍵を開けてもらい、歩いて時間をかけて屋上の広さやらを測って下見をしていたらしい。
1969年11月3日、三島は2日後に上演を控えていた自作『椿説弓張月』の舞台稽古に立ち会っていた。

だが途中で「あとはよろしく」と姿を消した。

そしてその日15時、三島は楯の会会員80人、来賓50人を連れて国立劇場3階から屋上に通じる人一人がやっと通れる階段を登ってパレードを挙行……したのだそうだ。
大劇場は、三島の『椿説弓張月』の舞台稽古中であった。


ちなみに小劇場の方は……
文春オンライン記事によれば「上演中だった下の小劇場では、照明器具を吊るす細長いバトンが揺れて、ライトの当たりが狂って大変だったそうです」とのこと。


この日、小劇場で上演中の演目は?と調べてみると、文楽「本朝廿四孝」が大序から道三最後までフルに通しで上演されていた。
今の演者の方で、三島が屋上でパレードしていたときに舞台に出ていた方は?と調べてみたら、和生さん、清治さん、呂太夫さん、団七さんは出演されていたようである。

今月、幕を閉じる国立劇場。
その長い歴史の中で、こんな出来事もあったのか……。

舞台では「本朝廿四孝」の狐火が縦横無尽に踊り、屋上では軍服を着こんだ縦の会会員が整列歩行をする……。
そのとき国立劇場の建物は、どんな思いで相矛盾する人間界を眺めていたのだろう?

国立劇場の長い歴史を思いつつ……

三島がパレードをするその下で舞台に出ていらした演者の方々が、今日も元気に舞台をつとめている文楽のパワーというものに驚嘆する次第である。

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さりはま書房徒然日誌2023年9月12日(火)旧暦7月27日

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を途中まで読む

ー死で、溺れゆく者たちで始まりてー

(絵は「出雲日乃御崎」川瀬巴水 出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」より )

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」を読了し、次に読む丸山健二作品はどれにしようか……と考えた。

ずっと丸山健二文学を読んできた歴史の長いファンとは違って、私は四、五年くらい前に読んだ「争いの樹の下で」が初めて読んだ丸山作品だ。

どちらかと言えば、読む人の多かった初期作品よりも、「ついていけない」とそれまでの読者が離れていった後期作品の方が好きである。読解力があるというわけではないが。

ただ後期作品の方が幻想味が強くなって、言葉が一段と研ぎ澄まれている感があると思う

まだ読んでいない丸山作品はたくさんあるのだが、後期作品の「我ら亡きあとに津波よ来たれ」(2016年左右社より刊行)を読むことにする。

おそらく東日本大震災を念頭に書かれた作品ではないだろうか。
大津波の場面ではじまる。

最初の60頁くらいを読み、てっきりこれは津波で死んだ死者の視点で語られているのか……と思うくらい、死というものが迫ってくる。

だが版元の作品紹介を見ると「養いの親を手に掛け、放浪に身をやつした青年を襲う大津波。三日三晩を生き延びたとき、あたりにはただのひとりも生者の姿はなかった。」とある。
どうやら生き延びた青年の視点らしい。

死者が語っているかと思うくらい、死というものがズバリと語られている。

「死」について言葉を連ねた以下の引用箇所、「たしかに死とはこういうことと思う。

得て勝手な心の遍歴の断絶、
天命を自覚するばかりの人間の営為の終了、
当を得た恐るべき非情、
のしかかってくる存在の解消、
大地に根づかせた命の雲散、
つまり
これぞまさしく
劫初以来逃れる術もない死というものであったのだ

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻35頁)

主人公の青年が大津波にのまれ、ぼんやりとした意識で語られる言葉。
ここで青年が語っているのは、かつて出会った人間なのか、それとも近くの水面を漂う人間の姿なのか……哀しい姿の数々。

ついで、

古色蒼然とした良識の枠に嵌められてしまった者や、

未完成を喜びとするような泥細工の精神が脈打つ者や、

俗悪な欺瞞のたぐいを万人が共有する財宝とする者や、

かなり厳しい条件付きの生殖力を大いに嘆く者や、

涙ぐましい策を弄して飽食の至福を得ようとする者や、

骨の折れる労働の連続によって肉体が崩壊しかけている者や、

幸先よいはずだった人生が初っ端で挫かれた者や、

救いがたい罠に落ちる罪なき者……、

そうしたたぐいの人種にでもなった心地で、

いつしか知らず希望の空費たる夢の迷路に誘いこまれ、

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻43頁)

冒頭からいきなり死が、溺れゆく人間が語られる「我ら亡きあとに津波よ来たれ」だが、このあとはどんな言葉が連なるのだろうか……。



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さりはま書房徒然日誌2023年9月11日(月)旧暦7月26日

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」読了

〜人の思いを読み取る不思議な吊り橋「渡らず橋」を舞台に、現在と過去が、生者と死者が交差する! 幻想文学ファンも殆ど知らない素敵な幻想文学〜

吊り橋「渡らず橋」のもとにクルマで現れた青年。
彼が幼い頃、両親は村を出てしまい、祖父の手で育てられた。
青年が口笛を吹けば、とうに亡くなった筈の父と母が姿を現す……
作者・丸山健二は丁寧に書くことで、そんな不思議に説得力をもたらす。
特に引用箇所の最後「ぐいと」という一語が、不思議を可能にしてしまう力強さがある。


いかにもおぼろげなその様相は、
じっくりと意を配った口笛の高まりにつれて濃密へとむかい、
それから卒然として一挙に凝縮され、
古くもなければ新しくもない、
かなり広い含みを持つ何かが空中いっぱいに満たされ、

ついには、
思いもかけぬこととして、
中間的存在としての万物が構成する次元の限界をあっさり超えてしまう、
絶対に予測しえない驚くべき作用がもたらされ、

なんと、数年前のなお遠くにある過去の一角がぐいと引き寄せられたかと思うと、
結末のない物語にでも登場しそうな、
一抹のお情けをもってしても救われそうにない、
青白く痩せた男女ふたりのまったき姿を、
森の暗闇と非現実の極みの奥からすっと誘い出したのだ

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」395頁)

生きている青年と過去に死んだ筈の両親が向かい合う瞬間……。
以下引用部分の表現に、抜群の説得力と格好良さを感じる。


しかし、
奇しくも、
過去の夜と現在の夜が今宵のこの時にぴたりと重なり合ったという、
厳然たる事実に疑いを差し挟む余地はなかった。

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」400頁)

以下、口笛の響きと時の流れの移ろいを繊細に描く文に、人の無力さを思う。
男親、女親の不甲斐なさ、醜さが最初に書かれているから、若者の口笛の純粋さが心に沁み渡る。


女親の心のすすり泣きと、
男親の自己弁護のつぶやきと、
かれらの子である若者のさまよえる光のごとき口笛とが、
入り乱れて交差する時が素早く流れ、
まもなく、
神秘にしてはるかな響きと化したそれは曇りのない静寂に包みこまれ、

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」408頁)

吊り橋が人間の思いを感じて心象風景を描いたり、死んだ筈の両親を連れてくる口笛、死者と生者の対峙……という不思議の数々を、ぴたりとした言葉によって表現した素敵な幻想文学だと思う。

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