さりはま書房徒然日誌2023年10月10日(火)

福島泰樹短歌絶叫コンサート「大正十二年九月一日」へ

吉祥寺のライブハウス曼荼羅で毎月10日に福島泰樹先生が開催されている短歌絶叫コンサートに行ってきた。

このライブハウスはそんなに広くはないけれど、入るとなぜか安堵を感じる。

まず内装がどこか少しロマネスクの石でできた素朴な教会を思わせるところがあるからだろうか。

周囲の席を見渡せば、早稲田の短歌創作講座やNHK青山カルチャー「人間のバザール浅草」で一緒に受けている方々の優しいお顔があちこちに見えて、さらにリラックスする。

ステージには、華道の池田柊月さんという方がその時のステージのテーマに合わせたお花を献花してくださるのが毎回楽しみ。

空間とそこにいる人間が醸す心地よさが、ステージ開始前から短歌絶叫コンサートにはある。

ステージが始まれば、岸上大作や樺美智子、寺山修司……道半ばにしてこの世を去っていった者たちの言葉が谺する……福島泰樹先生の「残していった言葉がある限り、死者は死んではいない。ここに戻ってくるんだ」の想いに支えられながら。

今回は袴田巌さんのお話や、大逆事件で死刑にされたアナーキストたちの歌、関東大震災で軍隊が活躍したこともあって震災後すぐに戦争へと進んでいった大正と現代を重ねる言葉が心に残った。

危機を鋭く予告、告発するのは、小説よりも、書き手の叫びである詩や短歌の方が適任なのかもしれない……という気もした。

「いい言葉だけを残して死んでいけばいいんだよ」という福島先生の言葉が心に残りつつ、こうして駄文を連ねてしまう。



私の駄文の口直しに以前にも引用したが、短歌絶叫コンサートの締めによく朗読される中原中也「別離」を引用する。

別離

中原中也

さよなら、さよなら!
  いろいろお世話になりました
  いろいろお世話になりましたねえ
  いろいろお世話になりました

さよなら、さよなら!
  こんなに良いお天気の日に
  お別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い
  こんなに良いお天気の日に

さよなら、さよなら!
  僕、午睡ひるねの夢から覚めてみると
  みなさん家をけておいでだつた
  あの時を妙に思ひ出します

さよなら、さよなら!
  そして明日あしたの今頃は
  長の年月見馴れてる
  故郷の土をば見てゐるのです

さよなら、さよなら!
  あなたはそんなにパラソルを振る
  僕にはあんまりまぶしいのです
  あなたはそんなにパラソルを振る

さよなら、さよなら!
さよなら、さよなら!

 僕、午睡から覚めてみると、
みなさん、家を空けてをられた
 あの時を、妙に、思ひ出します

 日向ぼつこをしながらに、
つめ摘んだ時のことも思ひ出します、
 みんな、みんな、思ひ出します

芝庭のことも、思ひ出します
 薄い陽の、物音のない昼下り
あの日、栗を食べたことも、思ひ出します

干された飯櫃おひつがよく乾き
裏山に、烏が呑気に啼いてゐた
あゝ、あのときのこと、あのときのこと……

 僕はなんでも思ひ出します
僕はなんでも思ひ出します
  でも、わけて思ひ出すことは
わけても思ひ出すことは……
――いいえ、もうもう云へません
決して、それは、云はないでせう

忘れがたない、にじと花
  忘れがたない、虹と花
  虹と花、虹と花
どこにまぎれてゆくのやら
  どこにまぎれてゆくのやら
  (そんなこと、考へるの馬鹿)
その手、そのくち、そのくちびるの、
  いつかは、消えてゆくでせう
  (みぞれとおんなじことですよ)
あなたは下を、向いてゐる
  向いてゐる、向いてゐる
  さも殊勝らしく向いてゐる
いいえ、かういつたからといつて
  なにも、おこつてゐるわけではないのです、
  怒つてゐるわけではないのです

忘れがたない虹と花、
  虹と花、虹と花、
  (霙とおんなじことですよ)

 何か、僕に、食べさして下さい。
何か、僕に、食べさして下さい。
  きんとんでもよい、何でもよい、
  何か、僕に食べさして下さい!

いいえ、これは、僕の無理だ、
    こんなに、野道を歩いてゐながら
    野道に、食物たべもの、ありはしない。
    ありません、ありはしません!

向ふに、水車が、見えてゐます、
  こけむした、小屋の傍、
ではもう、此処からお帰りなさい、お帰りなさい
  僕は一人で、行けます、行けます、
僕は、何を云つてるのでせう
  いいえ、僕とて文明人らしく
もつと、ほかの話も、すれば出来た
  いいえ、やつぱり、出来ません出来ません。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月9日(火)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ーはっきりと分からないながら格好よく思える表現、よく分かるって文の場合あまり格好よくないのかもー

津波を生きのびた青年が、死せるおのれのドッペルゲンガーに出会い、自死するまでの記憶を思い出す。
以下引用部分は、義母の介護に耐えられなくなって殺害へとどんどん心が傾きはじめる場面。これでワンセンテンスである。

しょっぱなから「晦渋な言い回しによって互いに罰し合う存在と無のごとき」と、ほんとうに晦渋な、でも格好いい言い回しで始まっているのが心に残る。

烈風を「恐ろしげな連中の刃にかかるほうがまだましに思えるほど」と形容するのも面白い。

「民意の写しにほかならぬ劣悪な住環境」という言葉も、丸山先生の社会への痛烈なパンチが効いた表現だと思う。

「死に神が名誉をかけて取り持つ仲となり」は、青年が義母に殺意を抱いたということなのだろうか……こういう言い方もひたすら格好いいと思う。

絶望のどん底という状態も、「心に点る灯明の明確な輪郭を失ってしまった」と言えば、やるせ無さがひしひしと伝わってくる。

「まさしく地獄へ通じているにちがいない 繊細ながらも角張った開口部」という表現も、どんな感じなのだろうと存在しないものを見せようと仕向ける表現である。

最後「粗雑な判断の結果ということは言を俟たない 猛悪な情念の眼目が鮮明になったのだ」は漢字のインパクトが強い文で、これから不吉なことが起きる……と予言しているようである。

そして、

晦渋な言い回しによって互いに罰し合う存在と無のごとき
凄まじいその流れに沿って、

今の今まで社会の底辺のまたその底辺で怖れと怒りの入り混じった変遷を重ね
苔むしたい岩の下で一生を過ごす虫けらのようにひっそりと生き
将来への希望を託すものとはいっさい相容れない日々を送ってきた、

悲惨な限りの養母と
孤独な限りの養子は、

恐ろしげな連中の刃にかかるほうがまだましに思えるほどの烈風のせいで
温かく思いやりに満ちた中流階級など見たくても見られない
民意の写しにほかならぬ劣悪な住環境がさらに乱されることによって
老朽家屋群がほとんど半壊状態に陥った
その夜を境に
死に神が名誉をかけて取り持つ仲となり、

人間の面汚しどもが暗躍する悲惨な貧困の世帯の片隅で
過剰なしがらみにぐいぐいと締めつけられ
心に点る灯明の明確な輪郭を失ってしまった双方は、

殺す者と殺される者という
立場における本質的な違いに対して
一点の疑念も感じぬまま
みるみる低落から消滅へと急接近し、

それが証拠に、

まさしく地獄へ通じているにちがいない
繊細ながらも角張った開口部が
あたかも天国の門のごとき華やかさでもって楚然として識別され、

なかば闇の状況にあっても決着をつけてしまおうと
ともあれ腹をくくって
そこをくぐり抜けるや
とたんに
無自覚のまま気が立ち、

粗雑な判断の結果ということは言を俟たない
猛悪な情念の眼目が鮮明になったのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻232頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月8日(日)

文学的才能についての丸山先生の「真文学の夜明け」にある言葉は当たっている……と思った

ミステリ読書会をひらくようになって数年。
ありがたいことに、たまに小説の書き手の方々も参加してくださることもある。
そうした書き手の方々を見ていると、丸山先生が「真文学の夜明け」という本の中で書かれている以下の文は、まさにその通りだと思う。

狂気と正気のあいだをひっきりなしに往復する際に飛び散る火花を
異様に素早い言語中枢の働きによって捉えることが可能な者こそが
まさしく文学的才能の持ち主というわけで、

もっと具体的に言うならば
生来饒舌な人間が適しており
それが基本中の基本となっている。

(丸山健二「真文学の夜明け」182頁)

丸山先生もどんな質問や相談をぶつけられても、言葉が途切れることなく、溢れるように次から次へと答えてくださる。

読書会に参加してくださった書き手の方々も、言葉が湧き出る泉のようにスラスラと出てくるのに驚く。
おかげで小説の書き手の方が参加してくださると、心地よい饒舌を愉しむことができる。

引用文は以下のように続いてゆく。文学者のイメージはこうだけど、実はそうではないんだ……という趣旨の文である。

一般的に文学者というのは
寡黙で
瞑想に耽りがちで
人間嫌いで
内向的に過ぎ
女々しく
破滅的で
いつ自殺してもおかしくないような
そんなイメージが固定しており、

(丸山健二「真文学の夜明け」182頁)

今回参加してくださった二人の書き手は、他の参加者が職場で日の丸を拒否したらどうなったか……という顛末を話したところ、二人ともパチパチと拍手してくださった。
あまり読書会でのことは書かないようにしているのだが、これからどうなるのか先行き不明な、暗い世において、書き手が強い視点を失わない姿に光明を感じて嬉しくなった。
そしてそういう書き手たちの作品、ぜひ読んでみたいとも思う。


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さりはま書房徒然日誌2023年10月7日(土)

変わりゆく日本語の風景ー釜飯ー

先日、福島泰樹先生の「人間のバザール浅草」講座を受けたとき、何気なく雑談で、私たちが昔からあるように思っているけれど、中原中也の青春時代にはなかった……という食べ物を幾つか教えてくださった。
今日は、その一つ「釜飯」について調べてみた。
今では日本中どこに行っても見かける釜飯である。駅弁にもなっている。さぞ昔からあったのだろう……と思っていた。だが福島先生が言われたように、比較的近年になって登場した食べ物なのだ。
世界大百科事典で「釜飯」を調べてみると、関東大震災以後に登場した食べ物なのである。

本来は、釜で炊いた飯を飯櫃 (めしびつ) などに移さず、直接釜から取り出して食べるのをいうが、小さい釜型容器に盛り込んだ駅弁などを釜飯と称するように、釜飯の語意は二義ある。一般に釜で飯を炊くようになったのは明治以降で、共同生活の食事や給食などは大釜で飯を炊いた。そこで、同じ釜の飯を食べた仲間はお互いに親近感がある意が転じて、同じ職場で働いた者の意にも用いる。関東大震災(1923)直後の焼け跡で、ありあわせの釜で炊いた飯を、釜からじかに、または器に移して食べた人が多かった。これにヒントを得て、まもなく1人前用の小さい釜を用意して種々の変わった具を入れて炊くのを釜飯と称するようになった。それを専門または売り物にする業者ができ、その後、釜飯を一度に数多く炊く専用の炊事器もできている。また、陶器の釜型容器に種々の炊き込みご飯を詰めての市販品は、全国各地でみられる。

日本国語大辞典で「釜飯」の例文を調べてみると、少ない。わずか一つしかない。

「天下に釜飯くらゐ旨いものはないと言ってる」

(縮図〔1941〕〈徳田秋声〉)

関東大震災(1923年)以前には、どうやら釜飯はなかったらしい。


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さりはま書房徒然日誌2023年10月6日(金)

篠田真由美「螺鈿の小箱」より「人形遊び」を読む
ー聖女と人形をテーマにした幻想短編を二度読みするー

螺鈿細工は持っていないけれど、螺鈿の妖しい光は好きである……という理由で、タイトルに惹かれて本書を開く。
怪奇幻想短編が七篇おさめられている

まず冒頭の「人形遊び」を読む。
乱歩の「人でなしの恋」を読んで、文楽を観に行くようになった私としては、「人形」テーマの幻想譚は嬉しい。
興味惹かれて読み始めれば、アッと驚くラストに思わず二回読んでしまった。

それぞれの登場人物の語りで話しが進行する。最初は、抱きかかえた人形に亡き母から聞いた聖女たちの受難を聞かせる娘。
思わず私も一緒に聞いている心地になって、素直に娘の語りに耳を傾けてゆく。
聖女たちはこんなに惨たらしい受難に遭遇したのか……。
語り口から、作者の聖女たちの歴史への関心の深さと同時に、宗教の残酷さを厭う気持ちが伝わってきて、思わず素直にウンウンと頷いて読んでしまう。

語り言葉で進行してゆく物語の場合、時々、ちょっとしたところに作者の素顔が感じられることもあって、その視点が相入れない時は読み続けられなくなるものだ、私の場合。
だが、「人形遊び」は聖女たちへの視点、聖女たちになれなかったその他大勢の人を思う視点、ひとりで生きていかなければいけない若くもない女の視点……と語りに素直に耳を傾けたくなるものがあった。

てっきり最初はどこか外国が舞台なのか……と思いつつ読んでいたが、舞台は西伊豆と出てきたので驚く。
ひとけのない奥まった地……というイメージには西伊豆はピッタリなのかもしれない。平坦地が少ないから洋館を建てるのは大変な気もするが……。

ラストは誰なんでしょうね。
誰であってももっともであるような、其々に切ない理由がある気がした。
あとに残るのが不思議さ、切なさ……であって、嫌な後味でないのが私的にはよかった。

それにしても文楽人形にしても、人形の果たす大きな役割は「ころりと落ちる首」……(文楽では、首桶に入れておいた首をすり替えておく……とか生首トリックが出てくる)
首が落ちるのは、人形の宿命、それとも人形の象徴なのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2023年10月5日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む
ー主人公が義母殺害の決心をする箇所は、表現が知らずぐんぐん迫ってくる!ー

ツィッターが不安定だから、こちらのブログを再開。ブログに移行してよかった……と思うのは、ツィッターだと字数の関係で「いいな」と思った箇所も、文の中のごく一部しか紹介できなかったが、ブログだと字数も写真も無制限だということ。丸山先生の文は、長い文の中にも、緻密に計算された構成がある……ことに入力していて初めて気がつくこともしょっちゅう。やはりワンセンテンスはそのままの形で、途中や前後を省略することなく引用したい気がする。

さて、これまでの筋は……。
津波を生きのびた青年……
自分のドッペルゲンガーの死体と遭遇した青年……
自死したことを思い出した青年……
彼の心に義母を介護する辛い記憶がよみがえったようだ。


この箇所を引用しようと思ったのは、途中に心ときめく表現が集中している箇所があるから。

文のなかば、「ひっきょう」から「認められたのかもしれず」の箇所だ。


まず私の好きな「百家争鳴」と言う言葉が、小説で使われているのを初めて見た。

「百家争鳴」とは、デジタル大辞泉によれば「多くの知識人・文化人がその思想・学術上の意見を自由に発表し論争すること。中国共産党の文化政策スローガンのひとつ」だそうだ。

この言葉を知ったのは割と最近で、文楽関係のとても博識なフォロワーさんが、自己紹介のところに「百家争鳴する、自由闊達な世界が理想」と書かれていたので、初めてこの言葉を知った。

滅多に使われない「百家争鳴」が使われている!

しかも「百家争鳴といった観がある 実存主義の鉛直的な広がりも嘲笑する」とはっきり分からないながら魅力的な配置で!
「実存主義」と「鉛直」を並べた形の不思議さ!
こう眺めてみると「実存主義」は水平じゃなく、「鉛直的な広がり」の方が相応しいのかも……。
はっきり分からないながら心に残る。

さらに次の箇所「全宇宙の真空に君臨するという 欺瞞の上に成り立っている非人格的な誰かの配慮」も、人地の及ばない、どうしようもない運命の力感がある!

罪の宮殿」という言葉も、これからの展開を何とも魅力的に象徴している!

長い文の最後にくれば、おそらく、この青年は要介護の義母を殺害するのでは……という今後が「そっちの方向へ」と示唆される。


そして、私が比喩やら表現にときめいた箇所は、青年が殺人を決意する箇所。

きっと読み手の心に青年の決意が響くように、丸山先生が精魂込めて書かれたのではないだろうか?

かくしておれは、

生き恥をさらさぬための奥義のなかの奥義などとはいっさい無縁な、

ただひとつの癒しの道である絶対の孤独から逃れられない、

自身と世界の関係を変える毒素が混入してしまっている、

ために
常に心して生の本題に立ち返ることができる者ではなくなり、


その代わりと言ってはなんだが、

他人の気を悪くさせるような側面をあれこれ具えたうえに
のべつろくでもない画策を包み隠し、

憮然とした面持ちで
外からの助けなしでは自分自身を支配できない
などと
臆面もなく
しゃあしゃあと嘘をつくたびに、
殊のほか凶暴な怒りがよく似合う
ある種の階級の人々に属したような心地になり、


ひっきょう、

天上のどこかに住まい
危険な生業からいつまでも足を洗えぬ件の者をもろに愚弄して楽しみつつ
百家争鳴といった観がある
実存主義の鉛直的な広がりも嘲笑する、

全宇宙の真空に君臨するという
欺瞞の上に成り立っている非人格的な誰かの配慮によって、

何をしたところでけっして厳しい裁きが下されることのない
罪の宮殿に立ち入ることが認められたのかもしれず、

だからといって、
悪それ自体を求める熱情が結局何になるかということについては
まったくもって知るところではないと自分に言い聞かせながら、

どの命も日限が定められているのだという真実に目をつぶり
不合理さが付きまとう微妙な局面を無視して、

いちじるしく緊張感に欠ける分だけ不愉快な体験を断ち切るための
それ相応のちゃんとした理由がある殺害行為を
この荒天が成功に導いてくれるものと確信して
稲妻と烈風に背中を押されながら
ぎしぎしと軋みつづけるぼろ家に引き返し、

今にも吹き飛ばれそうな玄関の戸を押し開け
横殴りの雨といっしょに素早く入りこみ、


それでもなお、

良心とやらに最後の忠告を与えられて
正気の自分自身に引き戻されることなどいっさいなく、

つんと鼻を突く汚物の激臭をものともせずに
敢えてそっちの方向へ
土足のままぐんぐん迫っていった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻215頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月4日(水)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む
ー降る雨を語る言葉は心のざわめきと重なりてー

津波を生きのび、自分の死せるドッペルゲンガーと出会った青年。
青年は実は自死していた。
その過去が語られ、義母の介護に追い詰められてゆく言葉も心に刺さったが……。

自分と対話するうちに耐えきれなくなって、大雨の中に飛び出してゆく以下引用部分、青年の心のざわめきが伝わってくる表現が並んでいて、非常に印象深いものがある。
やはり、これで一つのワンセンテンスである。

文頭、「精神に鋼鉄の焼きなましのごとき効果」は、青年の激しい苦しみがぶちまけられる感がある表現である。


「この天体上で起きる全てのことを水に流し」
「正当な怒りが沈黙」
「非人間的な世界を浄化」
「まともに息もつけないほどの豪雨のなか」
と激しい雨に青年の苦しい心情がオーバーラップして切ない。

「突飛で」「斬新で」「偉大な」という三文字の言葉が並ぶ箇所は、なんだか言葉の雨粒みたいで面白いと思った。

「人生に刺さった棘としての粗野なおのれ自身を抜こうと、」は、なんて辛い、強い自己否定の言葉だろう。

「桜の若木といっしょに横倒しになった心情をほったらかし」も、散る花が美しい桜の若木だからこそ、青年が「いっしょに横倒し」と語る言葉もぴったりくる。

漢字が連なる思考の過程を経て、「悪しき存在」「ふた心ある神々」「一刻の猶予もなく排除されるべき」と次なる展開を暗示する言葉で文が終わる。
文の終わりを何となく次の文に繋がるイメージの言葉で終わらせる……のも、後期丸山作品の特徴のように思う。

そして、

そうすることで
精神に鋼鉄の焼きなましのごとき効果が得られれば
それで充分と思いながら
ひどい面構えの恐るべき痴鈍者を演じて
その方向へと過たずに肉迫し、

この天体上で起きる全てのことを水に流し
正当な怒りが沈黙させられる非人間的な世界を浄化してくれそうな
まともに息もつけないほどの豪雨のなかを、

突飛で
斬新で
偉大な
至高の意識に満ちた哲学的な意図でも探すかのように、

あるいは人生に刺さった棘としての粗野なおのれ自身を抜こうと、

全身濡れ鼠になって右往左往し、

そのうち、

吹きつのる風をまともに受けて
桜の若木といっしょに横倒しになった心情をほったらかしにし、

どこまでも自分自身の自由を行使することで他者を混乱に陥れてやり、

法的や論理的な解決が不可能である以上は力尽くが望ましいと思い、

同情を誘う立場からの逸脱はいかにして可能なのかと考え、

不完全ながらも突出した自由の尊厳をどこまでも守ろうと決め、


そうなると
あとはただもう、

自分にとっての悪しき存在者が
ふた心ある神々と同様に
一刻の猶予もなく排除されるべきだと
そう強く願うばかりだった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻170頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月3日(火)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ーなんとドッペルゲンガーを見ている青年は自殺していた!
ということは、どっちがドッペルゲンガーやら?=

津波を生きのびた青年が、自宅で見つけた男の死体。それは自分のドッペルゲンガー。土中に埋めた筈なのに、いつの間にか復活しているではないか!
ドッペルゲンガーと対峙しているうちに、男は自分の過去を思い出す。

自殺したこと……。
辛い母子家庭の境遇……。

なんと、この青年は自殺していたのか!


すると幽霊が、幽霊のドッペルゲンガーを見ていることになるのか?
どういう展開になるのだろうか?

先は分からないながら、自死したことを思い出した青年の幽霊が、ドッペルゲンガーと向かいあう場面
これも一つの長い文、ワンセンテンスである。

前半の、青年の幽霊がおのれのドッペルゲンガーを語る言葉は、どこかユーモラスに観察している気がする。

「見かけだけは完璧なまでにおれ自身」
「そら音を吐くことが上手そう」
「至れり尽せりの環境でもって促成栽培」
……と突き放して、辛辣に自分のドッペルゲンガーを観察している。

それが段々非難めいた口調に移り変わってゆく。
「言語道断」「恩知らず」「からかうような挙」「面当て」「嫌味ったらしい芝居」と厳しい。

「第二幕」を語るあたりから、青年の幽霊はおのれのことを
身に覚えのない異界への参入を余儀なくされた ただひとりの観客」
とかなり被害者めいた意識で捉えている。

ドッペルゲンガーには「罪多くして死に至ったのかもしれぬ己を棚に上げ」と辛辣である。

文の最後は「自死を決意する直接の引き金」「冷酷無比に模写しよう」と次の暗くなりそうな展開が仄めかされる

一つの文の中で、トーンがユーモラス、非難がましい、被害者めく、辛辣と変わってゆく。

丸山先生から指導を受け、丸山先生の文にはたまたまそうなった……ということがないと知る。

丸山先生は隅々まで考えて言葉を選んでいる。
たとえ私をはじめ、殆どの読者が気がつかなくても絶対に手を抜かない。
そこから緊張感が生まれ、作品を引き締めているように思う。

さて、

今や見かけだけは完璧なまでにおれ自身である、

肩をそびやかしながらそら音を吐くことが上手そうな、

ちゃんとしたおとなに諭されているそばから大はしゃぎするような、

至れり尽せりの環境でもって促成栽培されたかのごとき、

二十歳そこそこの若造はというと、

死から復活して生を為す者を装うだけでも言語道断だというのに
恩知らずにも
埋葬してやった者をからかうような挙におよび、

ともすると山頂にそっくり移設させた建造物のように思えてしまう
大津波に押し上げられた漁船を舞台に見立てて、

そっとしておいてやりたい亡霊個人の活動の範疇をはるかに逸脱した
まったくもって面当てとしか思えぬ
目を背けたくなるような
嫌味ったらしい芝居をだらだらとつづけ、


それだけならまだしも、

いい加減にしてほしい
その第二幕においては、

おのれ自身との調和を達成できるという
かなり明確な世界観に至っていたにもかかわらず
身に覚えのない異界への参入を余儀なくされた
ただひとりの観客に
さらなる苦渋を与えんがために、

気随気儘な生により罪多くして死に至ったのかもしれぬ己を棚に上げ、

憂慮すべき歴程としての
つまり
自死を決意する直接の引き金となった直前のこのおれのありようを
冷酷無比に模写しようと
大づかみながら明晰な熱演を繰り広げていた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻133頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月2日

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む
ーこの世のものとは思われない風景が見えてくるような文、そこには作者の姿も見えた!ー

旧ツィッター(エックス)のフォロワーさんのなかに、毎日、朗読の練習をされては、どの箇所が、なぜ面白いのか考えて、投稿文を書かれている方がいる。

お若い方なのに偉いなあと思う。

私なんか若い頃は本の感想を聞かれても「面白かった」としか言えず、「どこがどんな風に面白いのか具体的に説明しなさい」と叱られたものだ。

今でも、いいなあと思った箇所があると、こうして写したりしているが、なぜいいと思ったのか……問われると答えにつまるところがある。

「いいと思ったからいいのだ」と答えたくなるが、お若いフォロワーさんがきちんと自分の言葉でいいと思う理由を説明されている姿に、「いけない」と反省する……。

さて引用文は、「心のぼろ船」で精神の旅に出た青年の心の旅を語る文。

長い文である。これで一つの文である。文そのものが旅しているような文である。

真ん中くらいの箇所「浮き世の波のまにまに漂よいながら」という一帯に、この世には実在しない風景がいっとき見える気がする……。
そんな視覚に訴えてくるパワーを感じて心惹かれた。
読んでいる方も、旅しているような錯覚に誘い込む文である。

そしてこの文には、丸山先生自身の姿も色濃く反映されている気がする。

「人類の御世が」から「不滅性」までのの嘆きや感慨は、丸山先生の思いそのものではないだろうか。

「そんな複雑怪奇な つかみどころのない世界のなんたるかを知りたくて」という言葉も、丸山先生の心からの叫びのような気がする。

「単なる傍観者であり目撃者であるにすぎぬ 自称<自由の回復に関する精通者>にして<傑出の詩人>という青年の姿に、丸山先生の姿が重なるようで感慨深く読んだ。

しかし写すだけで疲れる長い一文である。この文を書くのに、丸山先生はどれだけ言葉と想いの火花を散らされたことだろうか……。

さらに、

滑走とも言うべき奔放な推進の作用と反作用を存分に弁え
だしぬけの座礁や嵐による転覆や不注意がもたらす船火事といった
悲惨きわまりない遭難をとっくりと覚悟しながらも、


あるいは、

人類の御世が終わりを告げつつあるという認めがたい現実や、

世相を如実に活写する言葉などはもはや無用であることや、

偽装された不純な時代の終焉や、

今やすっかり色蒼ざめてしまった晴朗の世や、

人間の所業とは思えぬ行為と常に境を接している事実や、

天空の高みに息づいている不滅性といったことなどを、

それこそ充分過ぎるほど承知しつつ、


それでもやはり、

一方においては
色とりどりの多様性に満たされていることによって
ときとして美的作用が導き出されることもあり、

他方においては
万物をつかさどる自然の摂理によって
生類たちをその台座ごと打ち倒すこともある、

そんな複雑怪奇な
つかみどころのない世界のなんたるかを知りたくて、


もしくは、

聴く耳だけを持ち
どこまでも受動的な存在でしかない
騒乱のうちに影のように座している絶対者の幻影にいざなわれて、

浮き世の波のまにまに漂よいながら
ときおりじれったげな罵声を発して
うららかな朝空の下に満ちる静寂を乱したり
沈みゆく太陽のバラ色の頂を穢したりするばかりの
単なる傍観者であり目撃者であるにすぎぬ
自称<自由の回復に関する精通者>にして<傑出の詩人>は、

そのさすらいの最深の根底に
きっと喜ばしい何かが横たわっているものと確信し
苦い経験と甘い経験が相まって最善の答えを出すものと盲信して、

まるで肉欲のはけ口が見つかったときさながらに
瞳をらんらんと燃え上がらせ、

際限のない破壊という
最も顕著な結果に支配された
現世という大海原に乗り出し、

あとはもうよくなるばかりという崇高な宿命を予感し
「いかなる命も必ずや実り豊かな成果をもたらす
それが自然の法則というもの」
などと口走りながら、

どんな啓発も厭いはしない
終わりなき漂流を始めていたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻82頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月1日(日)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー「心のぼろ船」の航海を喩える言葉に心惹かれてー

引用部分の半分以降、「心のぼろ船」の航海の喩えに心惹かれる。

思いもよらない語と語の結びつきを文の中に幾度も見かけ、そのあとには言葉によって刺激された私の意識が以前とは違った速度で流れている。

「擦り切れてゆく命によってすっかり錆びついた怒りを揚げ」とか、

「永遠の逼迫という残酷な型で打ち抜かれた人生の港」という表現もとても好きである。
ぼんやりとしか分からないながら、人生とはほんとうに辛くシンドいもの……と思えてくる。

「流動の波紋を描く生のしなやかな発露」も「流動」「波紋」「しなやか」も斬新な組み合わせながら、不思議とイメージが重なり合う表現だと思う。

「今を盛りとはびこる破局の毒針」も「今を盛りとはびこる」「破局の毒針」という語の意外な組み合わせに、切なくなってくる。

それにしても、どの表現も「五文字」「七文字」が多い。「五」「七」は、日本語の表現で魔法の響きを生み出す数字なのだと思う。

ために、

過ぎた日を語ろうとも思わず
いかなる状況におちいっても無限を志向してやまぬ性情という
どうして今の今まで気づかなかったのか不思議でならぬ
これに過ぎたるものはない有利な一面を自認したおれは、


生きてもいなかったし死んでもいなかった失意の立場を放棄し
この世との懸念に満ちた和解を放棄すべく、

度を越えたものにただならぬ愛着をおぼえ、

より真実らしい響きを持った言葉への激しい反発をおぼえ、

悪の最たるものとしての理想的満足をおぼえる、

おのれの命の主人たる詩魂のみを乗せた
放逸のための時は成就したと言わんばかりの心のぼろ船を
どうにか出航させようと意を決し、


ほどなくしてそれは、

空々しい日々のなかで擦り切れてゆく命によってすっかり錆びついた錨を揚げ、

永遠の逼迫という残酷な型で撃ち抜かれた人生の港を離れ、

おのれの運命に絶えず付きまとう不安の雲気を追い風にして帆走し、

どんどん迫ってくる重苦しい現実の決定的な超克を得るという目標を掲げ、

流動の波紋を描く生のしなやかな発露に導かれ、

今を盛りとはびこる破局の毒針を巧みに避け、

言葉にならない言葉を発しながら快適な軌道上をするすると滑り、

沈黙の語らいを天体の輝きに覆われた夜を音もなくよぎって行った。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻80頁)

丸山先生が書く津波後の国家が崩壊した世界。

実際、関東大震災後は「法に拘束される者は皆無」となったせいで流言飛語、虐殺が起きたわけだ。

だが本書では違う方向に展開しそうな気もする。果たして、どうなるのだろうか?

維持されつづける富者の支配体制に貧者が馴致されつづけるという
所詮は金の番人でしかない国家の均衡を大きく破れたせいで
権力の崩壊と死滅を望む神聖な性格を帯び
圧政に反逆して単身闘う者がかもすような雰囲気に呑みこまれてゆき、


つまり
服従と忠誠を要求できる決定的な役割を持つ者はいなくなり、

厳密に言えば
法に拘束される人間はもはや皆無となったにちがいなく

((丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻72頁)

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