さりはま書房徒然日誌2023年12月2日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を読了

ー自然讃歌と人の世への糾弾を行きつ戻りつするうちに読了ー

「巡りが原」が語る物語、ゆっくり読んでいたせいかすごく長い時の流れのように感じていた。

だが最後に近づくと、巡りが原が「わずか半日」というようなことを繰り返して言うので、ハッと現実に戻される。
「トリカブトの花が咲く頃」は、ある日の午後のわずか数時間たらずを語った小説なのだ。

でもテーマの重さといい、自然の美しさといい、時間を自由自在にたわめ、いつまでも哀しい繰り返しを続けてしまう人の世を見つめているような小説だと思った。

引用文の逸れ鳥の囀り「世界は人間に無関心であり 救世主はいまだ到來せず 人間は平和に無関心であり ために戦爭が獣性の遺産となる」という身も蓋もない事実が、丸山文学の大切なテーマでもある。

一方で「あした開く花は欲も得もなく眠りこけている」という文は、毎日庭づくりに励まれている丸山先生だから出てくる文だと思う。

自然を語る美しい文、人の世を糾弾する厳しい文……そのあいだを行きつ戻りつするうちに、時の流れを忘れてしまう「トリカブトの花が咲く頃」には、たしかに「。」は不要なのかもしれない。

あの逸れ鳥が
 
 ひときわまばゆい光彩を放つ落日を背にし
  かなり皮肉な調子で
   こんなさえずりを放っている

世界は人間に無関心であり
 救世主はいまだ到来せず

人間は平和に無関心であり
 ために戦争が獣性の遺産となる

ほどなく
 「巡りが原」に淡い影を散らす夜が落ちかかり

美しいが上にも美しい
 多大の真理をふくんだ月光は
  現世におけるかぎりない試練の数々と
   死に満腹してしまったトリカブトの花々を優しく照らし

すえ枯れた花は「罪とは何か」を問いかけ
 きょう満開の花はひたすら至福の高みにあり
  あした開く花は欲も得もなく眠りこけている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻487頁488頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月1日(金)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー醜い人の世と自然の美しさのコントラストが鮮やか!ー

社会のあり方、人間のあり方について、丸山文学は手厳しいことを遠慮なく語る。
だが、そうしたものとは対極に位置する自然界を詩情豊かに、言葉を凝らして書く。
だから、いくら非難しても、決してスローガンにはならず、儚いものを言葉に刻む芸術としての美しさがある……以下、ラストに近い引用文にもそんなことを思う。


「巡りが原」の面……という引用部分に、先日の丸山塾での一コマを思い出す。私が無神経に「アブラナの上」と書いた箇所を、丸山先生は「菜花の面」と直された。「上」と「面」では、どうして喚起されるイメージがかくも違うのやら……ただただ不思議である。

月白は皓として輝き
 宵の明星が放つ金色はどこまでも清らかで

ほどなく
 雲ひとつなく
  しっとりとした夜が天空の堂宇をおおいつくす

つれなさをおぼえるほど深閑とした「巡りが原」の面には
 月の色をした霊気がゆるゆると立ち昇り

つまり
 心次第で在り方が決まってゆく生者の気配などはどこにもなく

多様多彩な有機体がひしめくあたり一帯には
 すり切れてゆくばかりの時間の断片や
  存在のちぐはぐな在り方や
   全能者の歯切れの悪い口調や
    幸運にみちた人生の儚さといったものを
     如実にあらわす蛍の光だけが
      不必要に数多く散見されるばかりだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」453頁454頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月30日(木)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー自然を語る言葉の面白さ、平仮名と漢字のメリハリを思うー

未読の方も多いだろうから、粗筋は最低限にとどめ、文体や作者の考え方に魅力を感じたところを取り上げてきたつもりである。

さてラスト近くになってきた。黒牛、逸れ鳥、瞽女の娘、特攻隊くずれの青年、堕落した僧侶……それぞれの不思議な結末を巡りが原は見届ける。


ラストが近づいてきた以下引用箇所、「闘争好きのつむじ風」「自由のすべてを排除してしまうような勢いだった雲」「稲妻と雷鳴の数が激減」「目減りする一方の陽光」と、自然を語る言葉は私が今まで見たこともない言葉が使われていながら、物語が生まれるような美しさがあると思う。


それから入力していて、とりわけこの箇所は風景について語る文は平仮名が多く、精神や思考を表す言葉で漢字が使われているような気がした。

平仮名で書くことによって巡りが原の柔らかな緑が浮かび、漢字を眺めると思いの複雑さを感じる気がするのだが……はたして、どうなのだろうか?

ほどなく
 あちこちに渦巻いていた
   闘争好きのつむじ風が空中に散らばり始め

あれほどまでに濃密で
 自由のすべてを排除してしまうような勢いだった雲がみるみる薄まってゆき

それにつれて稲妻と雷鳴の数が激減し
 ついには消え消えとなり
 「巡りが原」の様相が玄妙にして不可思議な寂寞へとむかう


代わりに真昼の陽光がもどってくるのかと思いきや
 それはなく

というのも
 すでにして太陽が山陰に隠れかけていたからで

ひたすら長い影を草原に落とすシラビソの巨樹は
 何事もなかったかのように
  雨のしずくをやどしてきらきらと輝き
   おのれの根本に発生したとほうもない怪事にたいしてもいっさい私情をまじえず
然りとも否とも言わず

 目減りする一方の陽光のなかにあって
  静かで高尚な自己満足にひたりながら
   あくまで素知らぬふりを決めこんでいる

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻445頁〜447頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月29日

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー太陽の問いに躊躇する巡りが原におのれが重なるー

瀕死の特攻隊くずれの青年を救おうとする瞽女の娘を見て、巡りが原は助けたいと思えども、望むように動けぬ身に苛立つ。

そんな巡りが原の葛藤は、私たちが毎日できるだけ考えないように誤魔化している生の不安に他ならないのではないだろうか?

語の繰り返しは嫌う丸山先生だけれど「『ぎらぎら』という言葉は別。繰り返しても大丈夫」と言われていた記憶がある。
たしかに「ぎらぎら」には繰り返されても、どきりと迫る何かがある。

いや
 是が非でも助けてやらなければならず

また
 それくらいのことができずして
  意識と知性と慈愛をさずかっている「巡りが原」の存在意義はないのだ

 ぎらぎらの太陽が
  ぎらぎらの言葉で
   ぎらぎらの問いをこの私に投げかけてくる


そもそも汝は何者ぞ?


しかし
 自己の根拠を何に求めていいのか
  どうやって自分自身に折り合いをつけていいのか
   さっぱりわからぬ私としては
    ただただこう答えるしかない

それを問いたもうな!

なぜとなれば
 すべての存在がその件で思い悩み
  苦しんでいるのだから!

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻405頁〜406頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月28日(火)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー死に神も生き生きと美しくー

巡りが原にやってきた瀕死の特攻隊崩れの兵士。瞽女の娘はシラビソの木の下でなんとかその命を救おうと試みる……。

「巨樹の形を無断拝借した」という表現に、死の気配すらも自然の一部分として受けとめ、少し忌々しく思いながらもユーモアを保ち、死にも美を感じているような作者の視線を感じる。

青年の上に奇怪な影を落としているのは
 四季を通じて超然とした態度を保ち
  耐えて逆境に打ち克つシラビソなどではなく

たぐい稀なる巨樹の形を無断拝借した
 この世のいたるところで跳梁し
  暗躍している

   生を圧迫し
    生者を葬り去ろうとしてやまぬ
     額に無情のしわをきざんだ死に神にほかならない

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻390頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月27日(月)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ー最後の「風死す」に至るまでの間に風も変化している!ー

詩人にして犯罪者、末期癌患者の20代青年が主人公の「風死す」。
ストーリーがないようでいながら、最後「風死す」に至るまでの間に風もじわじわ変化している……と、以下引用箇所に思う。


最初は「最小のつむじ風」とか「ケチな規模の旋風」であったことに、再読で気がつく。
ストーリーが進むにつれて風も変化してゆくのだ。
今度は、風の移り変わりにも注意しながら読んでいってみよう。

やくざな根なし草の典型として 旅烏や流れ者や風来坊と称され
  重苦しい立場に纏わる胸のうちを 最小のつむじ風が渦巻き

(丸山健二「風死す」25頁)

さらに しばらくの後 そのケチな規模の旋風は 薄っぺらなおぼろ雲に似て掻き消え

(丸山健二「風死す」25頁)

以下引用箇所、主人公の選択に迷う気持ちを表現している。二十代の青年が迷うのに相応しい、格好いい表現だなあと思う。

蒼穹を仰ぎ見るか小流を渡るかのいずれかで

(丸山健二「風死す」27頁)

ストーリーがないようでいながら、底に流れる丸山先生の思いはやはり変わらず……と以下引用箇所に思った。

高額な報酬やまずまずの出世をすっかり諦めた官僚よろしく
組織からの解放が至上の喜悦であることを再確認した後


(丸山健二「風死す」27頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月26日(日)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」

ー巡りが原の言葉に生きることのしんどさを思うー

以下引用部分は高原・巡りが原がおのれを語る箇所。
巡りが原のことでもあり、丸山先生自身のことを語っているようでもあり、人間全般を語っているような箇所だと思った。


「生の存在であることからは そう簡単に脱出できない」という言葉に、生きていることへのしんどい思いも感じられる。


そういえば、いつかオンラインサロンで死後の世界を尋ねられた丸山先生が、たしか「もう一つの世界は物理学的に必ずあると思っている。でも、また生きていくのなら、それはしんどい、勘弁してもらいたい」というようなことを言っていたと思い出す。

夢を抱きやすく夢を放棄しやすい
 そのくせいつまでも目を覚まさぬ
  自分に都合のよいときだけ強がりを言ってみせる弱者でいっぱいの
   いたずらに騒々しい俗世間に近似している

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」354頁)

けっして放恣な想像力から生まれたわけではなく
 現世における空虚な付け足しでもないこの私が

無防備な意識と
 果てしない倦怠と
  望んでも得られぬ定めをさずかった
   生の存在であることからは
    そう簡単に脱出できない

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」355頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月25日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー刹那の美、発見!ー

醜いこの世をコテンパンに描く丸山文学だけれども、それでも読み手が倦むことなく読み続けるのは、言葉と言葉が刹那の美を喚起してくるからであり、悲劇的な状況でも視線が未来を追いかけているからのような気がする。

「トリカブトの花が咲く頃」に出てくる自然は、巡りが原にしても、黒牛にしても、それぞれ象徴するものがあるように思う。


なかでも黒牛の角にとまっている逸れ鳥は、丸山文学の魅力である「刹那の美」「未来」を象徴しているようで心に残る。


以下、逸れ鳥が出てくる引用箇所。

他方

日々を織りなす現実になんの不都合も感じず
 およそ頓挫というものを知らぬように思えてしまう

  あたかも富裕な門閥のごとき
   はたまた抑圧者の権勢のごとき

    傲岸不遜な雰囲気を具えた
     韜晦趣味が似合いそうな
      そのくせ喧嘩早そうな逸れ鳥はというと

相変わらず陽気に過ぎる歌を朗唱し
 疑問の余地なき自明の理としての自由を讃歌し

なおかつ
 生まれゆく世界と死にゆく世界のあわいに存し
  まさに消えんとする今現在そのものの明確な意図をどこまでも絶賛し

太初以来連綿としてつづく過去にはいささかも拘泥せず
 未来にたいしてはあり余るほどの秋波を送る

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」306頁〜307頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月24日(金)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー詩と散文のあわいを進む文ー
ー巡りが原とは誰?ー

以前、どなたかが丸山先生に「詩と散文の違いは?」と尋ねられていたことがある。
先生が何と答えたかは定かに記憶していないが、「詩になりかけながら、踊るようにして散文を書いたっていいじゃないかと思う」そんなことを言われていたような記憶がある。

以下引用文にそんな言葉がよみがえってきた。
たしかに踊りながら散文と詩のあわいを進んでゆくような、丸山先生ならではの独自の文体だと思う。

げんに

祝婚の歌と踊りが似合いそうな
 今を盛りとはびこる豪奢な夏のなかにあって
  それぞれが運命を読み解く鍵を握っているにちがいない万物が

   存在者としての節度を守りつつも
    こぞってこんなことを叫んでいる


「現世は虚構にすぎん!」

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」288頁〜289頁)

以下の引用文を読んで、「いかなる権力にも従わぬ」「常に独立している」という巡りが原は、丸山先生自身の姿を投影した存在なのだと思った。
高原に作家が自分の思いを託して語ると、人間が語るときにはないような深み、ユーモア、説得力があるように思う。

いくらひろがっても全体をうしなうことのない
 底なしに明媚な碧緑の地のなかで
  不可視なる波目模様を描きつつ
   入り乱れながら野を飛ぶ光と風は

狂騒の季節の完璧を期すべく
 無欲な暮らしが似合いそうな
  あっけらかんとした夏空を背にして
   自由奔放さをいかんなく発揮し

深い無関心を装いながらも
 ある種の呪力をもって

「巡りが原」という
ひょっとすると不滅かもしれぬ民間伝承の名を穢すことなく
いかなる権力にも従わぬことを旨とするこの私を再構成し
常に独立しているわが哲学をさらに錬成するのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」304頁〜305頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月23日(木)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー悲惨さから広大無辺へ、小さな命の輝きへと視線を向けさせてくれるー

環境破壊、繰り返される戦争……このままだと人間そのものが、みずから自然消滅していってしまうのではないだろうかと憂鬱になる昨今である。
丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」でも、戦死した者たちの悲惨を下記引用文のようにピシャリと書いている。

戦死者からのいっさいの意味を奪い去り
 行き場を失くしたかれらの魂をほったらかしにし


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」256頁) 

だが丸山文学の素晴らしさは、徹底的に糾弾はしても、読み手の視線を悲惨さから、もっと広い存在へと向けさせる点にある。

先ほどの引用文のすぐ後には、空を語る文がつづく。下に引用した「始まらんとする命が何よりもまず天をふり仰ぐのもそのせいで」の言葉に、私の視線も思わず上を向いてしまう。

その次に「天体の輝きを彷彿とさせる」と天と繋げるようにして、小さな甲虫の命を言葉を尽くして書く。

私の心の中で、人間である悲惨さ、空の無限、小さな甲虫の輝きが、ひとつになって浮かんでくる文である。

忌避しえぬ未来にしっかりと食いこんでいる
  青い球形の
   ひょっとすると存在と無の境界かもしれぬ
    現世の天蓋としての空は
     かならずしも逃れる術もない束縛の世を象徴するものでもなく

 そうではなくて
  重力の薫陶よろしきを得た万物が持ちつ持たれつの関係にあることをそれとなくほのめかすものであり

  また
   つぎからつぎへと湧きあがる傲慢な欲望を吸い取る受け皿としての役目もきっちりと果たしており

 時代が一新され
  刷新されつづけるのはひとえにそのせいで
   始まらんとする命が何よりもまず天をふり仰ぐのもそのせいで

 はたまた
  今回の平和はたんに言葉だけのものではなさそうだという
   人間の無能さにもとづいた
    毎度お馴染みの錯覚が堂々とまかり通っているのも
     じつはそのせいなのだ

 華々しい引退をもくろむ天体の輝きを彷彿とさせる
 色とりどりの宝石をちりばめた黄金の王冠のごとき反射光を放つ鞘翅【さやばね】をいっぱいにひろげ
 凄まじい勢いでそれをぶるぶるとふるわせながら
  恐るべき不羈【ふき】の力を発揮し
   ひとつ間違うと命取りにもなりかねぬ熱風に逆らって果敢に飛ぶ甲虫のたぐいは

 目が覚めるほど美しい光芒を辺りに拡散させることによって自然の非情な部分をぐっと和らげ

 蜂とはひと味ちがう重厚な羽音を響かせることによって悪だくみとは無関係な軽微な罪を赦し

 夢見るような曲線的な飛行をもってして
生きているだけで事足れりとする柔和な雰囲気を押しひろげる

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」258頁〜260頁)

丸山先生は諸々にNOと言い、糾弾し続けたせいで、色々と失ったものも多かったと思う。
それでも否と言い続けてくれることに、読む者の目に、広大無辺な天空から小さな命の美しさを、言葉であらわしていってくれることに、ただ感謝しつつ読む

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