さりはま書房徒然日誌2024年11月7日(木)

製本基礎講座へ
ーくるみ綴じ 四つ目綴じにトライー

製本講座も落ちこぼれつつも、まるみず先生のご指導のおかげで何とか6回目を迎えた。しばらく和綴じの講座が続く。

今回は「くるみ綴じ 四つ目綴じ」である。たしか、この製本方法は体験レッスンでやったのに、綺麗さっぱり忘れている。だから何度やっても新鮮……なのは喜ぶべきか、悲しむべきか。
色々失敗したのだけど、その一つは端まで糸を通すところを手前でリターン(プリントには丁寧な図解があるのだけど、だんだん作業していると頭がぼーっとしてきて見えなくなる)。途中で気がついて糸をほどこうとしたら、ほどけない。和綴って丈夫なんだと思いつつ、最初からやり直す。


隣席の方はイタリアから来た方らしく、高度な製本をされていた。
私がようやく出来上がると、”Do you finish?”と声をかけてくださる。私がもたもた作った和綴本を手にのせて表紙の和紙や本文の半紙の感触を楽しむ表情に、和紙ってこんなに外国の方の心にアピールする魅力があるんだ……と知る。
そして、まるみず組の手製本の技術にも、はるばる異国から何度も学びに訪れたくなる魅力があるんだ……と知る。


でも小説を書いたり、短歌を詠んだりする界隈にいる者は(私も含めて)、こうして外国の方の心を強烈に惹きつける日本ならではの本づくりをほとんど意識していないのでは……と反省。少し反映できるようになるといいな。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月6日(水)

北村透谷『蓬莱曲』を読む

ー自費出版の時代は活字が綺麗な時代でもあったー

1889年に自費出版をした『楚囚之詩』に続いて、1891年(明治24年)に自費出版された第二冊目が『蓬莱曲』である。戯曲でもあり、長編詩でもある。北村透谷といい、宮沢賢治『春と修羅』といい、その他にもあまたある自費出版をした明治、大正の詩人、作家のエネルギーを思いながら読む。

量的にも、文章の流れるような調べも、第一作の『楚囚之詩』よりパワーアップして、第一作からの三年間にわたってコツコツと書き続ける北村透谷の姿が思い浮かんでくる。

以下の引用文に、明治45年になると「自由」という価値観がだいぶ日本に浸透したのだなあとも思う。
またこの年夏目漱石「彼岸過迄」の連載が朝日新聞に開始された。北村透谷が書き綴る文と新聞でもてはやされる夏目漱石の文……そのギャップに苦しみもあったのでは……と思いつつ、透谷の調べを味わうようにして読む。

自分の弟のところから自費出版で出したようだが、活字がとても綺麗な気がする。現代の書籍より活字が語りかけてくる感じがある。なぜなのだろう?印刷は同じ京橋の印刷屋に頼んだらしい。この時代、ルビもこんなに綺麗に入れられたのだ……と明治の印刷職人さんに感心してしまう。

またわが術にして世の、見えずして権勢【ちから】つよきものの緊縛【なわめ】をほどく「自由」てふものを憤【いか】り概【なげける】ものの手に渡し、嬉【たの】しみの声を高く挙げしむる。

(北村透谷『蓬莱曲』より)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月4日(月)

中綴じとスイス装の手製本ワークショップへ参加

手製本と古本のヨンネ先生が西荻窪アトリエハコで開催された「手のひらスイス装(中綴じとスイス装)」に参加してきた。
最初ヨンネ先生からスイス装の「弱い」という弱点も教えてもらい、でもZINEとか薄くて手のひらサイズの小さい冊子なら壊れにくいし可愛くなる……というような説明を聞く。

↑は出来上がった私のスイス装ノート。たしかにスイス装の手のひらサイズって可愛らしさに溢れている!

この生地はタイの手織り布パーカオマーを裏打ちしたものだそう。

スイス装は片側の見返しを接着しないので、開くと裏表紙と見返しがパカリと見える……のも可愛らしい。

綴じ糸はいつものようにユワユワしてしまった、反省。

ZINEを作成している方、数部だけでも好きな色の糸で綴じ、やはり好きな見返しをつけると楽しいのではないだろうか?

同じようなことをまるみず組で学んだばかりなのに、やり方を忘れていること多々。
さらに出来ないことだらけの私は、講座を受ける都度異なる改善すべき点を指摘される……ので飽きない。

今日も先生から目視で一ミリのズレを指摘される。定規で測ったつもりなのに……ミリ単位できちんと測れるようになりたい、といつもの反省である。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月3日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月十一日「私は蚊だ」を読む。

十月十一日は「私は蚊だ」と蚊が語る。少年・世一の血を吸った蚊の気持ちがなんともユーモラスに書かれている。血を吸ったときの蚊の気持ち……を書いた文は、これが初めてではないだろうか?

なんて酷い味だ
   私が知っているなかでは最悪の血だ、

吸えば吸うほど頭がくらくらして
   ひょっとすると
      吸われているのはこっちのほうかもしれないと
         そう思った途端
            長の患いから派生した恨み辛みが
               どっと侵入してきて、


その余りの勢いに押されて
   たじたじとなる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』305頁)

北村透谷『楚囚之詩』を読む

北村透谷が20歳のとき自費刊行した長編叙事詩『楚囚之詩』を読む。経歴を見てみると、自由民権運動に感化されるも過激さを増してゆく運動から離脱。結婚。この詩集を刊行。そして25歳で自殺。
そんな濃くも激しい人生を暗示しているような処女作。獄中にある自分、やはり獄中の花嫁や仲間……合わせて四人がいる獄中……を思い、当時はきっと費用のかかった自費刊行をするとは……。何が北村透谷をここまで追い込んだのだろうか?

 獄舎は狭し
 狭き中にも両世界ー
彼方の世界に余の半身あり、
此方の世界に余の半身あり、
彼方が宿か此方が宿か?
 余の魂は日夜独り迷ふなり!


北村透谷『楚囚之詩』

ちなみに「楚囚」とは、日本国語大辞典によれば「とらわれた楚の人。転じて、敵国にとらわれの身となって、望郷の思いの切なる人。囚人。とりこ。」だそうである。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月2日(土)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』(田畑書店)「何はともあれ、生きてみようか」を読む

ーお見舞いにもよいし、エッセイの書き方を学ぶにもよい本ー

『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』の目次を眺めていると、なんとも前向きになれそうな言葉が並んでいる。一章あたりの長さといい、前向きな章題といい、病院に入院している人へのお見舞いにもよさそうな本である。

大町の庭の自然に人生をかぶせ、長野の風景から思いを語る本書は、今時の日本の作家には珍しく哲学とユーモアが溶け合って、エッセイの醍醐味に満ちている。


四季も自然も失われつつあり、国語教育でも実用的な文書が重んじられる昨今、こういう深くて軽妙なエッセイに触れる機会が少なくなったのでは?


エッセイを書いてみたい方にとっても、本書は良い指針になるのでは無いだろうか?

そしてこの冬もまた、厳寒に閉ざされたがために発生した御神渡りよろしく、魂の湖面を人間的にして文学的な言葉が突き破って飛び出しました。創作活動を止められない所以が、きっとここにあるのでしょう。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』10ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月1日(金)

宮沢賢治『ポラーノの広場』を読む

『ポラーノの広場』に限らず、宮沢賢治作品にはよく知っている場所に出来た異空間を覗きこむような味わいがある。

モリーオ市、イーハトーヴォ、センダードの市、にぎやかながら荒んだトキーオの市、ポラーノの広場……という岩手を、東京を思わせながら異国風の地名。
主人公のモーリオ市の博物館に勤めるキュースト。
キューストが知り合う少年ファゼーロとその友達で羊飼いのミーロ。
地主のテーモ。
山猫博士のボーガント・デストゥパーゴ。

馴染みのある地、想像ができる人物なんだけど、どこかこの世のものではない響きがある名前の人物が、異空間を覗かせるような地名の地で、こんな言葉を発すると、もう心は遠くどこかを彷徨うのではないだろうか。

「おや、つめくさのあかりがついたよ」
 なるほど向うの黒い草むらのなかに小さな円いぼんぼりのような白いつめくさの花があっちにもこっちにもならび、そこらはむっとした蜜蜂のかおりでいっぱいでした。

宮沢賢治『ポラーノの広場』上23ページ田畑書店ポケットアンソロジーより

さらに大正末期、昭和初期に書かれた作品なのに、登場人物は夏用フロックコートを着ていたり、カフスをしていたり、現代の大量生産のフリース姿が歩いている街より、服装も個性的である。
さらに食べ物もオートミールとか……。

宮沢賢治の財政面での豊かさが、嫌味のない形で異空間に溶け込んでいる気がする。
ポラーノの広場の語源は、種子ポランに由来するという説も聞いたことがある。そうかもしれないが、人民を意味するイタリア語ポポラーノの意味もあるといいなと思いつつページを閉じる。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月31日

製本基礎講座第5回

ー製本ドリルスタート!バインダー作りー

製本基礎講座も第5回。


今日から講座の開始時に製本ドリルというおさらいの短いドリルがスタートした。今まで学んだことについての確認を短いドリル形式で講座開始前にやるそうである。

緊張するけれど、少しずつコツコツ積み重ねていける(私の場合、積み重なっていないけど)のが、手製本工房まるみず組の講座の魅力の一つだと思う。


今日のドリルは紙の目について。よく分かっていなかったところである。なので早速答えを間違え、先生に再度説明して頂き、家でまた調べ、薄ぼんやり「紙の目」なるものが感じられてきた(呑み込みが悪い)。


製本をする方々はみんな「目」「目」「目」と言われ、「目」って本を作る上で大事なものなのだ……と、そこだけは理解。
でも編集者や書き手、ZINEを作成している人たちで「紙の目」にこだわっている人、知っている人はあまりいない気がする。仕事の種類が違うせいもあるかもしれない。

でも製本をするサイドが心から大切にしている紙の目を、編集者、書き手、ZINE発行者がほとんど意識されていない……というギャップに、どちらも本を作っているのに脳内に浮かぶ本という存在が違うのでは……それでいいのだろうかとも考える。
紙あっての本……という意識が薄い本づくりは、だんだん本としての魅力を失っていくのでは?

などと偉そうなことは言えない。
今日のバインダー作り、測る場所を間違え、正確にラインを引いたつもりが2ミリの誤差が。
さっと見ただけで2ミリの誤差に気がつく先生はすごい。言われると確かに2ミリ分おかしく見える。
それにしても定規を使っていたのになぜ私は正確に測れないのだろうか……。

先生のおかげで無事に完成したバインダー。布、糊、ボール紙、金具だけで形になるとは……不思議である。


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さりはま書房徒然日誌2024年10月30日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月七日を読む

ー最期の瞬間に垣間見る緑の火ー

私は火だ、

不幸にして生後日ならずしてあっさり死んでしまった嬰児が
   短い滞在期間であったこの世を離れる
      その最期の瞬間に垣間見た
         緑がかった火だ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』286ページ)

私の父は亡くなる前日だったろうか、病院の個室の白い壁を見て「綺麗な緑の光だなあ」と晴明な意識の中で言い、何も見えていない私の様子に悟った顔をした。
あのとき父が見た緑の光とは薬の副作用なのか、あるいは彼岸の世界が見えていたのだろうか……。
それとも丸山先生が「そして私は 周辺の森や林で造られた酸素を 精根込めていっぱいに摂りこみ」と書かれているように、現実世界が父を送り出そうと見せてくれた火だったのだろうか。
いずれにしても、この世を去る直前、私には見えない、なんとも美しい緑の光に心打たれていた父の顔の安らかさ、純真さをふと思い出した。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月29日(水)

私だけのポケットアンソロジーRAEDING NOTEBOOKつくりにトライして、製本基礎講座「一折り中とじ」の復習をする

ーチリが現れる筈なのに……!ー

手製本工房まるみず組製本基礎コースで教えてもらった「一折り中とじ」を復習する。一折り中とじは、絵本によくあるようなページ数の少ない時の製本方法である。

田畑書店ポケットアンソロジーは色んな短編や詩歌を綴じない形で販売。素敵なファイルが各種販売されているので、読者はみずからがアンソロジストとなって好きな短編を選び、ファイルに綴じていくことができる。


READING NOTEBOOKはポケットアンソロジーと同じ書籍用高級用紙を使い、同じスタイルをとりながら、中は自由に感想や絵が描けるように白紙になっている。

(以下、READING NOTEBOOKの元々の姿。ページをめくると白紙になっている)


製本講座のときは本文から折っていくが、ポケットアンソロジーはもう折丁になっているから少し楽である。

でも相変わらず、思いがけないところでつまずく。

背に貼る寒冷紗はどちらも同じ感触に思え、どちらが糊ボンドを塗る面なのだろう……と迷う。

糸でかがっていくけど、最後まで来てどこか違う……よくテキストを見たら「一つ飛ぶ」と注意書きのあった箇所をスルーしていたのに気がつき、最初からため息をつきつつかがり直す。

ボール紙も相変わらずカッターでは中々切れない。ボール紙無間地獄にいる気分になりながら、カッターをいつまでも滑らせる。

折丁の背と表紙の背を糊ボンドでつける……でも中々くっつかない。

ようやく見返しと表紙をくっけるところまで到達。くっついた!でも「ちり」が現れない。薄く小さいだけにミリ単位できちんと測らないとと反省。一応ミリ単位で測ってはいるのですが、測る、切るって難しい。

下の写真が失敗作。ブヨブヨしているのは、やはりミリ単位できちんと測れていないせいだと思う。

反省する点の多い失敗作だけれど、それでも私だけのREADING NOTEは愛おしいもの。

田端書店のポケットアンソロジー、素敵なファイルに綴じてもよし、頑張って私だけのこの世に一冊の手製本作りにトライしてもよし、色んな楽しみ方がありそうである。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月28日(月)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』(田畑書店)より「初めまして」を読む

この本について年下の女性が「最初、私自身が読んでから、そのあと両親にプレゼントするつもりなんです。両親からどんな感想がかえってくるか楽しみなんです」と言われていた。そうか、この本に限らないけれど、良い本というものは異なる年齢をつなぐ存在なのだなあと思った。
以下引用文に年をとる切なさを思い、でも切ないだけではない素晴らしさも思う。「言の葉が束になってどっと溢れ出」る八十歳になってみたいものだ……その前に夜明けの執筆ができるように夜更かし生活を変えなくては……と反省。

芽吹きを待つ気持ちが募り、というか今年が最後の花見になるのではないかという切ない焦りに駆られたりもします。
たぶん、その反動のせいでしょう。凛とした夜明けの執筆では頭が異常なまでに冴え返り、言霊に限りなく近い言の葉が束になってどっと溢れ出ます。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』6ページ)

昨夜は気がつかなかったが、この本は表紙、花ぎれ(本文の天と表紙の間のリリアンみたいなもの)、しおりの色合いが美しい。他社の本と比較してみたけれど、こういう美しさを感じる本はなかった。
製本講座を少し受けてみて、ここまでビシッと決める難しさを知るようになった。
花ぎれやしおりを選ぶ頃には疲労困憊してヨレヨレで、適当に選んでしまっていた……のを反省。奧付きを見れば、装丁は「田畑書店デザイン室」とある。これから田端書店の本の装丁、隅々までじっと見て学ばせて頂くことにしよう。

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