さりはま書房徒然日誌2025年11月26日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より八月十四日「私は長談義だ」を読む

若き僧侶とその雇い主であるボート小屋の親父の間でかわされる「湿って濁った断片的な言葉」

二人は豪雨のあと、周囲の伐採された山から土砂が流れ込み濁ったうたかた湖を眺めながら会話する。

モノトーンの墨絵の世界が似合いそうな会話に、「揚げパンを頬張っては牛乳を飲み」という現実感あふれる文がリアリティを添えている。

丸山先生が書く食べ物は、本当に日常にあるありふれた食べ物だけだ。

そのせいで作品の世界がとても近くなる気がする。

僧侶は
   この湖はもうじき死ぬと言い、

おやじは
   この世に死なないものなどはないと言ってから
      問題なのはその死に方であって
         これは最悪の末路であると決めつけ、

ついでふたりは
   昼食の揚げパンを頬張っては牛乳を飲み
      遣る瀬ないその視線を
         湖面からおのが内面へと移して
            似たようなため息を漏らした。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』330ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年11月24日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より八月十二日「私は洞窟だ」を読む

訳あって家を失ってしまった若者が転がりこんだ洞窟。

その洞窟が語る若者の追い詰められた心情。

その心をよく見つめていながら、「洞窟」という第三者?に語らせることで冷静な視点を保っているように思い、その分感動が強まる気がする。

遣りきれない孤独感も
   底なしの虚しさも
      容赦のない煩悶も
         好き勝手に出入りして
            自由に暴れ回るのだが、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』323ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年11月22日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より八月十一日「私は容態だ」を読む

錦鯉を毒殺された怒りのあまり寝込んだ世一の叔父。

世一を連れて兄が見舞いにくる。

世一をここに残して欲しいと願う叔父の言葉に、何もできない筈なのに癒しを与えてくれる世一の不思議な力を思う。

世一にそんな力を考えた視点に、弱い者を描きつつその力を信じる丸山文学の魅力を思う。

手土産の羊羹を置いて帰ろうとする兄に
   甥を残していってくれないかと頼み、

「こんな鬱陶しい奴がいたんじゃ下がる熱も下がらんぞ」
   「むしろ気が休まるんだ」という
      そんなやり取りの後、

(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』319ページ)

本当に至福の時に思える。

甥は私に寄り添うようにして寝そべり
   心が通じ合った者同士に成立する沈黙の心地よさに浸っていると


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』319ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年11月21日(金)

並装から上製本へ改装 その1

昨日は中板橋の手製本工房まるみず組へ。

しばらく並装から上製本へ、糸かがりで改装本にするレッスンを受けることに。

短歌の会でお世話になっている方の歌集を題材に。

まず分解して分からなくならないように、ノンブル(ページ数)の入っていないページも特徴をメモ。

16ページ一折の折丁にした場合、何折と何ページになるか計算。



短歌の場合、作業をしながらしみじみ心で口ずさみながら作業出来るのがよい。

これが自作だと、改装するより文章を丸ごと書き換えたくなってくるから、あまり自作ではやりたくない。

ノリボンドでしっかりくっついている本文、見返し、表紙を、じわじわ力を入れて剥がしてゆく。

破ることなく分解成功。

ヘラでノリボンドを背中に押しながら、一枚ずつ剥がしてゆく。

剥がしながら歌を読み、のんびり剥がしてゆく。

ノリボンドが厚く塗られているので結構力がいる。

本文も一枚ずつ剥がして分解完了。

真ん中の千歳飴みたいなのが、並装の本を支えているノリボンド。

先生に「ノリボンドは劣化しないのですか?」と訊く。

やはりノリボンドも空気に触れ、乾燥してゆくうちに劣化して、パキッと割れてしまうとのこと。
同じように紙も劣化してゆくとのこと。

関西の修復工房の方も

「今、ホチキスでとめていた頃の雑誌のホチキスが一斉にボロボロになる時期にさしかかっている。

全国の図書館からホチキスから和綴にしてもらいたいと修復の依頼がある」と言われていた。

ノリボンドもホチキスと同じように一斉に劣化、糸かがりでない本がバラバラになる時期がくるのだろう

本も読んでもらうためのエコノミーな本、それからタイムカプセル的発想で長い時間に耐えられる製本で作った本と分けて作ってもいいのかも。
タイムカプセル本は図書館に寄贈して。


などと思いつつ本日の作業はおしまい。

次回までに見返しに使う赤い紙、

本文の前後に挟んで保護するギャルドブランシュに使う本文と似た紙を用意しなくては。

多分和紙を細長く切って、各ページの端に貼り付け、糸でかがっていく作業なるのだろう。

どうかうまくいきますように。

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さりはま書房徒然日誌2025年11月18日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より八月七日「私は霞だ」を読む

「まほろ町にゆらゆらとたなびく 季節外れの霞」が語る。

以下引用文。なんとも霞らしい言葉である。そして読んでいると、霞の言葉に心が楽になる。

そして私は
   少年世一をも含めた
      まほろ町の住民全員に向かって、
         「何事も運任せに生きよ」という
             あまりに投げやりな言葉を発し、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』304ページ)

以下引用文。「ろくでなしの太陽」「一気に私を殺しにかかる」という強い言葉で終わる結末が、それまでの霞のふわふわした感じをひっくり返す意外さが面白い。

ところが
   早くも夏の短夜が明け渡ったかと思うと
      ろくでなしの太陽が一気に私を殺しにかかる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』305ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年11月17日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より八月六日「私は巨鯉だ」を読む

開発された山を襲った集中豪雨。

そのあと、うたかた湖の主である巨鯉が遠浅の浜でひっそり腹這いになっている。

世一だけが巨鯉に気がつく。

巨鯉の背を撫でる世一。

天候について気休めを言ってくれる「赤く滲んだ月」

その設定だけでこの世の隅に連れて行ってくれる不思議な力がある。


私の事を誰にも喋らないと
   そう世一は約束して
      背中を撫でてくれ、

赤く滲んだ月が
   当分のあいだ災いをもたらす雨は降らないだろうと
      そんな気休めを言ってくれた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』300ページ)

そんな隅っこから眺めてみると、以下引用文の世一の言葉も、巨鯉の言葉もありえない筈なのに、不思議なリアリティを帯びてくる。

そんな状況にあって世一は
   私に付き添いながら口笛を吹き鳴らし
      あるいは
         青々とした歌を唄う。

感激のあまり私は
   うたかた湖の代弁者として命を落としても構わないと言い、

すると
   見るからに利発そうとはゆかないまでも
      生き抜くための優れた資質の持ち主たる病児は
         死ぬことでどうにかなったためしはないと
            そんな意味の言葉を呟いたが
               果たして
                  本当にそうなのだろうか。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』301ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年11月16日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より八月五日「私はスターマインだ」を読む

夜空に打ち上げられたスターマインが語る。

以下引用文。

冷ややかで美しい花火を語るのに、こんな書き方があるとは思わなかった。


花火が見ているのは観客ではなく、観客の酔眼に映るおのれの映像……。

人間の愚かさと花火のナルシズム的美しさの対比が面白い。

だが私の興味は
   だらだらとありきたりな営みを重ねて
      ほとんど誰にも影響や感銘を与えることなく死んでゆく
         そんな連中に在るのではなく、

わが関心のすべては
   いつだって
      かれらの朦朧とした酔眼にくっきりと映し出される

         私自身に在るのだ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』297ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年11月15日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より八月三日「私は集中豪雨だ」を読む

以下引用文。

まるで集中豪雨が意思を、自然破壊をする人間への怒りをもって行動しているように感じる。

最後の「マツムシソウの群生地」という箇所が切々と自然破壊の惨たらしさを語りかけてくる。

私が例年になく粗暴な振舞いに及んだのは
   湖に面した西側の山々がまる裸にされたからで、

樹木を失った山をひと想いに押し流してやろうと
   大量の土砂を湖へ運び入れ、

ために
   魚の鰓や水草の気孔を塞いでしまい、

深夜になって崩した小さな山が大きな土石流となって
   造成中の別荘地へどっと襲いかかり、


家がまだ一軒も建てられていない雑木林の一角と
   マツムシソウの群生地である草原の一部を
      完璧なまでに叩きのめした。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』 287ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年11月13日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より七月二十九日「私はダリアだ」を読む

旅館の女将と長身痩躯の青年はダリアを眺める……

ダリアには可哀想だが、人工的なところのある花にふさわしい描写。

そんな作り物めいた花を見つめている男女の関係、行く末を暗示するような文である。

「男と女がダリアを見ていた」の一文で終わりそうな文に、これだけ含みを持たせ、この後も続いていく。

映画なら一瞬の場面が、言葉を使う表現でかくも広く、深くなるのかと思った次第。

転作を余儀なくされた農家の苦肉の策から生じた私は
   結局のところ出荷されぬまま
      周囲を暗くさせるほどの明るさでもって
         徒に浮き立ち、

しかも
   せせらぎの音と野鳥たちの声を
      幸福もどきの色で染めあげる。

そんな私を見ている両人には
   ひよっとすると
      ただそうやって生きているだけでも間違いではないという
         まばゆい印象の暗示を与えやり、

のみならず
   存外いい組み合わせのかれらのあいだを
      上手く取り持つ役まで果たそうとしている。


 (丸山健二『千日の瑠璃 終結7』266ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年11月11日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より七月二十八日「私は蛾だ」を読む

以下引用文。少年世一がしゃがみこんで、その背中に蛾がとまった……という場面。普通ならそう書くだろう。

でも、その一瞬に世一の、蛾の、存在を問いかける眼差しが丸山文学の魅力なのだと思う。

そんな一瞬に意味をもたせてもうるさくならない。

それは「おのれ自身の薄い影にじっと見入り」とか
「蝶などには決して味わえないであろう 日陰者としての安らぎ」
という言葉に共鳴したくなるものがあるからだろう。


ただし共鳴しない人が殆どの世、だとは思うが。

暗夜に輝く蛍火の群舞を堪能するまで見物した後
   その少年は今
      街灯の真下にしゃがみこんで
         おのれ自身の薄い影にじっと見入り、

そして私は
   そんな彼の背中にべったりと張り付くことで
      蝶などには決して味わえないであろう
         日陰者としての安らぎを得ており、
         そこは自分にとっての
            究竟の隠れ家である。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』262ページ)

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