さりはま書房徒然日誌2025年7月19日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より五月十四日「私はヘルメットだ」を読む

「しばしば熊の仔に見間違われるむく犬が 安全のためという理由でかぶせられた 飼い主と揃いの 青いヘルメット」が語る。

多分、丸山先生が飼っていた黒のチャウチャウ犬がモデルなのだろう。もしかしたら青いヘルメットも本当にあったことなのかもしれない。

そんなユーモラスさがありながら、己を正しく認識することが幸せなのか……という鋭い問いかけが潜んでいる。

以下引用文。青いヘルメットを被せられた犬の思い込みのユーモラス。

ひとえに私のせいで
   自分が犬であるという自覚を忘れることができたのかもしれず、

さもなければ
   犬の立場を超越した
      もっと上等な
         別の生き物になれたとでも思いこんだのだろうか。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』363ページ)

以下引用文。むく犬の滑稽な思い込みの拠り所であるヘルメット。それを己が手にするペンに重ねる鋭い目。

むく犬の飼い主を長年包みこんでいる錯覚とまったく同じで、

彼が四半世紀ものあいだ握りつづけてきたペンは
   おのれがありふれた人間のひとりにすぎないことを忘れさせ、

あるいは
   ときとして人間以外の何かになり得たという幻覚に晒され


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』364ページ)

以下引用文。人間たる所以を思う。

むく犬が幸せなのは
   ひとえにそのことに気づいていないからで、

飼い主がしばしば悲劇的な影を落とすのは
   はっきりとそれに気づいているからで、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』364ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年7月18日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より五月十三日「私は砂漠だ」を読む

世一の部屋に貼られた観光ポスターの真ん中にある砂漠が語る。
限りある人間の視点で語れば、語ることも限られてくる。
でも、ここでは砂漠が語り手だもの、砂漠に丸山先生の価値観をかぶせることができるのだな、と思った。
人間がポスターを見て、「  」と思った、という文ではとてもこうは書けない。
ただ書き手の心に砂漠にも通じる思いがなければ、こうは書けないのだろう、とも思う。

そうかと思うと
   至る所に浄化作用と解毒作用が満ちあふれていることを教え、

この世が生きるに値するという確たる証拠を
   あり余るほど示してやり、

あらゆる生命が
   その誕生から寂滅に至るまで
      気高い意義を具えているいることを知らしめ、

抽象的自我の単なる影法師などではなく
   極めて明瞭な意味を有する存在だということを
      翻然と悟らせてやる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』360ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年7月17日(木)

手製本基礎講座39回「改装本 丸背4/12回 かがり、背中処理」

中板橋の手製本工房まるみず組の手製本基礎講座第39回へ。
引き続き「星の王子さま」の改装本、丸背4/12回である。
今回はかがり、背中処理をやった。

手製本をやるまで裁縫、糸、針には無縁というか避けてきた不器用な私には、かがりの作業はハードルが高い。

でも先日、かがり台と一生付き合おうと決心。
まるみず組でかがり台の購入申し込みをしたから、使えるようにならなくては……。
ちなみに他のところで制作しているかがり台も比べてみたが、使いやすさ、重量では、まるみず組特注のかがり台の方が使いやすそうに思えた。
他のところで扱っているかがり台は私には重く、持ち上げたらギックリ腰になりそう。

かがり台を使っての作業はこれで三回目。
反復して学習できるのがまるみず組の良いところ。
それにしてもいい加減マスターしてもよさそうだが、それでもモタモタする。

まずセッティングからモタモタ。
かがり台の麻紐の輪っかに麻糸を結んでいく。それだけなのにモタモタ。
先生のようにやったつもりだったが……


今日のかがりの作業を終えて、縦糸を輪っかから外す時のこと。
先生がデモでやってくださった糸は、引っ張るとスルリと外れる。
でも私が結んだ糸はガチガチにくっついて離れない。
必死に針でほぐしてはずしたが相当時間がかかった。
結び方、大事と身をもって学んだ次第。

本は直角大事!

折丁の順番を間違えないように、
各折丁の真ん中に糸を通すように……
ここを間違えてしまうと全てやり直しになってしまう。
間違えていないといいのだが。
折丁の真ん中を確実に開いて針を動かすのは意外と間違いやすい。

先生は真ん中にハサミとか道具を置いてデモ。
これなら間違えないで確実に真ん中に針を通せる。

ちょっとした一工夫でミスが防げるもの……と知る。このさりげない一工夫が学べるのも有難い。

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さりはま書房徒然日誌2025年7月16日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より五月十一日「私は印鑑だ」を読む

最初の文の「鬼火」とか「夜と同じくらい青い少年」という言葉に心惹かれて読み始める。
いろんなものに無邪気に印鑑を押してまわる世一の姿、印鑑という代物に作者は何を被せたのか。どこか幻想めいていて、どこか皮肉めいていて色々考えさせられた。

冒頭部分。「鬼火」「夜と同じくらい青い少年」という言葉と「誰の物でもなさそうな 合成水晶の印鑑」のコントラストに詩情を感じる。

湖上に鬼火が燃える晩
   その夜と同じくらい青い少年に拾われた
      使い古されてはいても
         結局は誰の物でもなさそうな
            合成水晶の印鑑だ。

 (丸山健二『千日の瑠璃 終結6』350ページ)

作者が印鑑に被せたものは何なのだろうか。最後の行と呼応する箇所である。

少年はまず
   自分の掌に強く押しつけ、

そこで私は
   彼が他の誰でもないことをきっちりと証明して
      完全に保証し

 (丸山健二『千日の瑠璃 終結6』350ページ)

ぺたぺた押してまわる世一の無邪気さ。
押される様々な物、人物も心に響く。

がらんとした通りを歩き
   道筋に整然と立ち並ぶ電柱の一本一本に私を押し、

 (丸山健二『千日の瑠璃 終結6』352ページ)

自我を超えて離郷を実行する
   前途有望な若者の心にもぺたんと押した。

 (丸山健二『千日の瑠璃 終結6』353ページ)

証明の拠り所とする印鑑を証明してくれるものはないという皮肉めいた最後。

そして
   生きとし生けるものの営みのすべてに押しつづけたにもかかわらず

      私を証明し
         私を保証してくれる代物はどこにも落ちていなかった。

 (丸山健二『千日の瑠璃 終結6』353ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年7月13日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より五月八日「私は剃刀だ」を読む

山中の草庵にひとり暮らす老人。
剃刀の放つ輝きに、老人の心に甦る過去の記憶。
老人はかつて「どこまでも血なまぐさい雰囲気を有した 元陸軍一等兵」だった。
その記憶と自己嫌悪のせめぎ合いを記した文に、丸山先生にとって大きなテーマの一つ「帰還兵の悲惨」を思う。

げんに彼は
   幽谷に咲く美花を求めて山路を辿る少年が目に入るや
      銃床でもって撲殺した大陸の子どもの断末魔の姿を
         生々しく思い出し、


少年の震える体の動きが
   痙攣しながらたちまち虫の息となった
      異国の子どもたちにそっくりで、


だからといって
   慌てて眼を閉じても間に合わず、


正真正銘の悪行が鮮明に甦るばかりで
   大分薄れていたはずの自己嫌悪が
      津波のごとく押し寄せる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』341ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年7月12日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』五月六日「私は朝だ」を読む

まほろ町の公園に「ひっそりと訪れた 清々しくもどこか切ない印象の」朝が語る。
まだ公園にはいつもの人たちの姿はなく。
朝はそうした人たちの姿をシビアに語る。


以下引用文。世一もまだ来ていない。
世一の不在へのコメント「私はそのことにいたく満足しており そのことにいささか不満を感じている」というどこかユーモラスな文に、見えない朝という存在がどこかやけに人間じみたものに感じられてくる。

あとはもう人間を辞めて鳥にでもなるしかなさそうな
   痙攣する肉体を纏いつづける
      あの少年もいない。

私はそのことにいたく満足しており
   そのことにいささか不満を感じている。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』333ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年7月10日(木)

製本講座38回「丸背改装本 3/12回 目引き、見返し仕立て」

製本講座基礎コースも38回。残すところあと10回となった。
不器用で呑み込みの悪い私がよく続いたもの。
これも丁寧に指導してくれる先生のおかげであり、製本という非日常的な動作が定着するようによく考えられたカリキュラムのおかげと感謝する。
あと自分で書いた言葉に本という紙の住まいを与たい……という気持ちもあるのだろう。

今日は以前やった作業を繰り返す。復習になって良い。
まずは本文をガードするギャルドブランシュつくり。本文の大きさに切る。↓


ボール紙も本文の大きさくらいに切る。

手締めプレスに本を挟んでから、かがる位置を測って計算して印つけ。
二種類のノコギリでキコキコ、かがる位置に目引きする


見返しの紙を切り出して貼って終了。

表紙は先日作ったマーブリングペーパーと革を組み合わせるそう。
どの色にしようか迷ったけれど、下の右から二番目の緑に色々混ざった紙にしたくなった。

そこで見返しも緑系の色に。

今、緑っぽい気分なのかなあ。
手製本はその時々の気分で少しずつ変える楽しさがある。


グーテンベルクの時代の本は、本ごとに少しずつ違いがある、どうやら印刷するたびに少しずつ訂正していったようだ……そんな話を見かけた記憶がある。
少しずつ変化のある本が生まれる……のは、手製本ならではの楽しさなのかもしれない。

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さりはま書房徒然日誌2025年7月9日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より五月五日「私は巨樹だ」を読む

以下引用文にずっと大町に暮らし、毎日庭の手入れをしている丸山先生だから、こんなふうに巨樹が見え、樹液が絶望のように感じられるのかもと思った。
巨樹と会話をしている世一の伯父は、もしかしたら丸山先生自身の思いを代弁しているのかもしれない。

荒れ野のど真ん中にでんと屹立して
   天心に輝く星を指し示す、

幹の傷口から樹液やら絶望やらを滲ませた
   孤高の巨樹だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』326ページ)

「ほんとにこれでいいのか?」と
    彼は幾度も同じことを尋ね、

その都度私は
   「それでいいのだ」という同じ答えを繰り返し、

つまり
   錦鯉のほかに何も求める必要はなく、

さらには
   世帯を持つ必要もなければ
      子孫を残す必要もなく、

独りでこの地に耐え果てよという
   身も蓋もない結論だ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』328ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年7月8日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より五月四日「私はひらめきだ」を読む

ストーブ作りの男が「青い流星がうたかた湖の面に映し出された一瞬に」得たひらめきが語る。

男の恋人である世一の姉は妊娠をしている。二人はなんとか生活を成り立たせようと色々考える。そのひらめきが語る。

「際限なく膨らんでゆくことはあっても 萎んだり 破裂したりすることはない。」とひらめきが己を語る言葉に、希望やらお腹にいる胎児の未来やらが重なってくる

風鈴を作ろうというひらめきも、風鈴そのものが希望にも、胎児が眠る子宮のようにも思えてくる。

将来の生活設計で頭がいっぱいの妊婦は
   ストーヴよりも単価が安いことを気にしながらも
      失敗した際の赤字が少なくて済むという理由から
         しぶしぶ同意し、

試してみる価値があるという結論の下
   私は彼らの子どものために
      際限なく膨らんでゆくことはあっても
         萎んだり
            破裂したりすることはない。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』325ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年7月6日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より五月三日「私は挽歌だ」を読む

「放火癖のあった天才児」の死を悼んで、世一の友のオオルリが囀る挽歌が語る。
挽歌という形のないものを姿があるように書いている文ゆえだろうか。まほろ町の雰囲気やら余り悲しんでいるようではない両親の様子やらが、やけに現実味と詩情の双方を帯びたものに感じられてくる。

切々たる調子の私は
   やりきれぬほど重くて湿潤な大気を押し退けて丘を下り、

深閑とした夜のまほろ町の片隅へと
   ひたひたと忍び寄ってゆき、

そして
   たった今点灯したばかりの粗末な家の前に
      ひっそりと佇む。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』318ページ)

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