さりはま書房徒然日誌2025年7月5日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より五月二日「私は『まさか』だ」を読む

まほろ町の街道に身を投げて轢死した少年ー実は放火癖のある少年ーの死をめぐって、人々の口から飛び出す「まさか」という言葉が集まってきた人々を観察して語っていく。

様々な反応の合間に残される不思議が心に残る。

以下引用文。死んだ子供が潰れた指を使いながら書いた文字。

そのままの言葉を伝える「   」の中には、子供が残す筈のない言葉。
このあり得なさ、不思議さが伝えようとする世界を思わず懸命に考えてしまう。

文字はどれもしっかりして
   それ以外の読み方などあり得ず、

   なんと
      「このよにふかいりしすぎた」とあったのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』316ページ) 


丸山先生らしい男も登場しては「素晴らしい詩人になったのに」と言いつつ「失望感はさほどでなく」、さらに死んだのが世一出ないと知って安堵の溜息をつく。

このあり得ない距離感が、不思議なリアリティを生んでいる気がする。

以下引用文。丸山先生らしき男は、更なる不思議に気がつく。青尽くめの少年世一の不思議さ。「私にどんと背中を突かれ」とすることで、ただ順に書いていけば怪奇風味のある小話が、深みのある世界になっているように思う。

見物している青尽くめの少年の人差し指が
   赤く染まっていることに気づいて
      私にどんと背中を突かれ、

「合作ってことかな」と言ったあと
    しばらく考えこんでいた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』317ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2025年7月4日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より四月二十九日「私は錠前だ」を読む

「内へ内へと籠りがちな若者」が暮らす土蔵の錠前が語る。

鉄格子の窓、コンビニ弁当、湯冷まし……と味気ない言葉が続いた後にくる「追憶にくるまれたリンゴ」は何とも美味しそうで、どんな色形をしているのだろうと想像してしまう。
暗い土蔵がたったリンゴ一個で明るくなるようなインパクトがある。

鉄格子の嵌まった高いところの窓から射しこむ月明かりを頼りに
   味気ない夕食を始め、

コンビニで買ってきた弁当を食べ
   湯冷しを飲み
      食後のデザートとして
         追憶にくるまれたリンゴを齧った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』302ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年7月3日(木)

手製本講座37回「改装本 丸背・革装 2/12回 組み立て」

本の表紙には直線が潜んでいる!

角背の改装本のときにやった作業をもう一度反復して復讐。
全ての折丁、表紙、帯の大きさを揃え、背に和紙を貼っていく。後日、この和紙部分を糸でかがっていく。

一度やったことなのだが、早くも忘れている。帯の部分への和紙は付けては先生に間違いを優しく指摘され、もう一度やり直してはまた間違え……情けない限りである。

でもなんとか今日の作業は完成。(極薄の和紙をカッターで切るという作業もうまく出来なくて、和紙がビリビリになってしまい、上から重ね貼りした)



表紙の大きさを揃えてカットしていくとき、先生が「表紙に潜んでいる直線を探して、切った時に直角が生まれるように」と教えてくれた。
言われてみれば、表紙のタイトルも、背のタイトルにも、裏表紙の出版社名も、すべてきちんと直線上にある。

装丁をされている方々は、直線になるように心を配りながら作業されているに違いない。そんな見えない配慮が本をつくっている……と思った。

↓表紙のタイトルも直線上にある

↓背のタイトルも直線上

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さりはま書房徒然日誌2025年7月2日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6」より「私は労働だ」を読む

まほろ町の人々の「霊肉をせっせと蝕む」労働が語る。

以下引用文。労働の本質というものを、漢字混じりの固い文でビシッと言い当てている気がする。

阻害者であり
   暴圧者であり
      独裁者でもある私は
         単調と退屈を武器にしてかれらを日々責め立て、


勤惰いかんによって彼らを類別し
   のみならず
      この世における待遇まで決め、

僅かなことを聞き咎め
   のべつ苦言を呈し
      着意すべき点を徹底的に叩きこむ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』310ページ)

以下引用文に労働に翻弄される自分達の姿を見る思いがする。

それでいながらかれらは
   私を拒否せず
      しばしば私に泣きつき
         私のために陰湿な謀を巡らせるようになり
            多忙に取り紛れて生の本質を完全に見失い、

あげくに
   私なしでは生きる意味も甲斐もなく
      ために一日たりとも生きていられないと
         本気で思いこむ始末だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』311ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年7月1日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より四月二十四日「私は下界だ」を読む

不自由な世一と全盲の少女が散策するうちに、生まれて初めての郷里の外に踏み出す。その下界が語る

二人の感動を伝えるのに、二人の視点ではなく、感動を向けられている下界の視点で書く……という発想が斬新。
下界の高鳴りを読んでいると、幼い二人の感動がひしひしと伝わってくる。

漢字ではなない「ふたり」という平仮名に仲良く歩く姿が感じられる。
「私のなかの空気」という「なか」も、やはり平仮名ゆえ風が感じられるようで心地よい。


「私ごとき取り柄のない者」「今の今まで 一度も」という大袈裟な言い方が、下界というあり得ない存在をはっきり見せてくれる気がする。

峠を越えたふたりは
   確かにまほろ町の外へ十数歩ばかり出て
      間違いなく私のなかの空気を呼吸しており、

高鳴る心を抑えなければならないのは
   むしろ私のほうで、

なぜとなれば
   私ごとき取り柄のない者が
      そこまで人を感激させたことなど
         今の今まで 一度もなかったからだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より283ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年6月29日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より四月二十三日「私は海だ」を読む

優しさのあるボート屋のおやじ。その波瀾万丈な生涯を簡潔に、読み手に想像させるような文。
無理がたたって妻をなくしてから、どんな思いでこの男はうたかた湖を眺めてきたのだろうか……と色々思う。

覇権を握るための
   ただそれだけのための
      爛れた戦争が
         案の定
            この上なく無様な終局を迎え、

時代がさらに険悪な様相を呈してくると
   両人は流れる暮らしを始め、

流れ流れたあげくに
   まほろ町へと漂着し、

ともあれ
   湖畔に掘立小屋を建てて住み着いたのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』279頁) 

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さりはま書房徒然日誌2025年6月28日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より四月二十一日「私は頬杖だ」を読む

以前オンラインサロンか講演会のとき、どうやって語彙を豊かにされたのか質問を受けた丸山先生は「哲学書、法律書、物理学の本。そういうものを読んで増やした」と答えていらしたように思う。
そういう分野の本から語彙を増やせるのだろうかと驚いた記憶がある

だが、そうした語彙で文にしていくと、丸山先生の世界になるのかもしれない……
まほろ町の商人宿に泊まる男の頬杖が語る以下の文にそんなことを思った。


「成人男子の平均を五グラムほど上回る重さの顎」という何だか科学書の文のような一文が、その男の風貌や来し方を物語る面白さがある気がする。

成人男子の平均を五グラムほど上回る重さの顎を支える私は
   併せて
      一次逃れの姑息な術策のみで世間の荒波をくぐり抜けてきた
         恐ろしく長い歳月をも支えていても、

資金調達に馳せ回り
   即座の機転に頼って土地を買い漁り
      三日後にはもう売り飛ばすというやくざな日々は
         今や彼を支える力になり得ていない。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』270ページ)



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さりはま書房徒然日誌2025年6月28日(土)

中原中也「北の海」

福島泰樹先生の中原中也講座へ。そこで読んだ中原中也の詩の一つ「北の海」を以下に。

北の海

海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。

曇った北海の空の下、
浪はところどころ歯をむいて、
空を呪っているのです。
いつはてるとも知れない呪。


海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。

講義によれば、この頃の中也はシェークスピアを読んでいて、人魚は「夏の夜の夢」にでてくる人魚から連想したのでは……とのこと。

ランボーの「海」の影響も感じられ、中也の自分を育てあげてくれた詩人への想いから生まれた詩とも言われていた。

漢字と平仮名の使い方がうまく、「歯をむいて」の「むいて」も漢字にすると強くなり過ぎてしまう。「いつはてるとも」の平仮名も……。

そんなふうに歌人の視点で説明されて、中也の詩に惹きつけられる理由が少し分かった気がする。

中也がそれまで大切に抱えて生きてきたものを言葉に紡いだ詩だから、思わず呟きたくなるものがあるのだろうか?

ただ最近、教科書に中原中也の詩があまり掲載されていないせいだろうか?若い方々の多くは、中原中也を知らない気がする。
そんな若者に「汚れちまつた悲しみに……」を教えると、困ったような顔をして「こういう言葉にどう反応すればいいのか分からない」と言う。
国が実用的な国語育成を目指してきた結果なのかもしれない。
中也の詩を呟く楽しさが分からない若者を大勢育ててしまった……ことに、前の世代に生きている者として心に罪悪感を感じないではいられない。


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さりはま書房徒然日誌2025年6月26日(木)

製本基礎講座32回「改装本 丸背1 データつけ・修理解体」

中板橋の手製本工房まるみず組の製本基礎講座32回。
これから「星の王子さま」を丸背の改装本に、丸背用スリップケースも作って、十二回かけて仕上げてゆく。
今日はそのためのデータの取り方、解体方法を教わる。

使用するのは岩波書店から刊行されている「星の王子さま」。

学生時代、フランス語の時間に「星の王子さま」を翻訳したりしたなあと懐かしく思い出しながら、本のサイズやページ数などデータを記入。

まずは見返し、「ごめんなさい」と詫びつつ本文を表紙から引き離す。だが、なかなか手強い。
先生が「製本はこの前見学に行った牧製本印刷」と奥付を示して教えてくださる。さすが広辞苑や六法全書の製本をされている会社の製本だけあって、簡単に解体できない。

↓奥付に製本会社の名前がない本が大半だが、この本はちゃんと「牧製本印刷」とある!

苦闘しつつ表紙を本文から引き離す。さらに表紙裏に貼ってあるボール紙を引き離して、表紙をただの紙の状態にしてから水で濡らして和紙を糊で貼り付けて裏打ち。↓

この表紙は改装本に大切に綴じ込む。

次に折丁をバラしていく。
牧製本印刷のすごい勢いで動いていた糸かがり機械を思い出しながら、それぞれの折丁の真ん中を開けて、かがってある糸をスパチュラで摘んでハサミでパチンと切る。それから、折丁を引き離す。


でも力が変なふうに入って少し「ビリビリ」と破れてしまう。とりあえず作業を続ける。
通りがかった先生は「ビリビリ」の部分に気がついて、微笑んで「糊でなんとかなるから」と慰めてくださる。


完成見本↓。表紙はマーブリングペーパーと皮。私の本もこんな風になるのだろうか?



ビリビリ解体して思ったけれど、私が製本するとヤワになるところは、とりわけ頑丈に製本されている気がした。製本会社はさすが!と思う。

それにしても丸背の上製本なんて、出版社も「星の王子さま」にはコストをあまり惜しまず本を作っているのだなあ。
図書館や子供、大人と幅広く購入される本だし、作者の著作権が切れているから著者への印税支払いの心配も要らないせいだろうか?


手製本を学んでから、本を手に取ったとき、出版社がコストをかけている本、かなり抑えている本、それぞれの事情やら思いやらを考えるようになった。
今のご時世、ほとんどの本が後者であるが。

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さりはま書房徒然日誌2025年6月20日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より四月二十日「私は批判だ」を読む

「少年世一の 死よりも重く 宇宙よりも深い瞳のなかに まほろ町の比較的善良な人々がふと感じる 自己自身に対する批判」が語る。
世一が批判しているのでなく、澄んだ世一の目に映る己の姿に、思わず人々が自分に向ける様々な批判。

以下引用文。ただ少年世一だけは批判することもなく、すべてを受け入れている。そんな世一の生き方の軽やかさが感じられる。

そんななかにあって少年世一は
   すれ違う人々のすべてを光や風のごとく容認し
      生々流転の小さな渦を撒き散らしながら
         足に任せての徘徊を存分に満喫している。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』369ページ)

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