さりはま書房徒然日誌2023年7月22日(土)旧暦6月5日

勤め人人生のデトックスを……

勤めている頃は、みんな休日の終わりが哀しくて仕方なかった筈なのに…

退職すると、意外にも職場が恋しくなる人が多い気がする。

かつての同僚たちと畑仕事をしたり(退職後も管理職、ヒラとはっきり別れて別々に畑仕事をしている姿には笑ってしまった)、

旅行に出かけ、

何か少しでも職場繋がりの集まりがあれば参加する……そんな人が業種を問わず多い気がする。

人生の大半を職場で過ごし、嫌々であっても価値観を共にしてきたのだから、母体である職場消失に耐えられないのかもしれない。

そんな個人を見透かしたように、国は定年延長だの、再任用だの唱え、職場が永遠の運命共同体になるように仕掛けている。

でも可能なら仕事を離れる期間は必要だと思う。そのまま仕事を辞めるなら、職場からのデトックスを心がけなければ……と思う。

職場の価値観よ仲間よサヨウナラ、ハロー本来の自分新しい自分……そんなデトックス期間が必要だし、デトックスに踏み切れるだけの余力を残して働かなくてはいけない気がする。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

丸山作品を読んでいて心打たれることのひとつに、ありふれた生を送っていた人たちの終焉の描き方に言葉を尽くして心をこめて送り出している……という点。

感嘆するほかない

雪と見紛う亜高山帯に咲く純白の花々のなかで

大きく深呼吸をした際に

いきなり体調に乱れが生じたかと思うと

以後

それきり再起不能に陥ってしまい、

ほどなく

だしぬけに気が転倒したあげく

突風をくらった案山子のごとく

ばたんと卒倒し

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻345頁)

あるいはこんな風にも……。

淡雪を巡って春の光がゆらめくなか

風にかしぐ草を思わせる乱髪の老人が

寂滅の意味をやすやすと超越した絶命を迎え、

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻351頁)

とても辛辣な描写をすることもあるけれど、普通の人の最期をかくも美しく書く心に、凡庸な生へのレスペクトがあるように思う。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月21日(金)旧暦6月4日

白熊が恋しくなる……

連日の猛暑。カップアイスの白熊でなく、お店で白熊が食べたいなあと思う。

白熊をご存知ない方もいるかもしれない。鹿児島天文館むじゃきが昭和24年に販売を開始したとされるかき氷だ。

氷にかかった程よい甘みのシロップ。まるで白熊の顔になるようにフルーツで飾った氷の愛らしさと言ったら……。氷の外側と内側に添えられた煮豆も素朴な美味しさ。

白熊を食べると、昭和の右肩上がりの時代に迷い込んだような感じになって、お先真暗な時代の閉塞感が忘れられそうだ。

東京近郊では、有楽町駅前鹿児島物産館のレストランで食べられる。白熊だけでもOKだったと思う。ただし混んでいる店なので、昼時、夕飯時は外した方が無難。通常サイズだとあまりにも大きいので、ベビー白熊の方がおすすめ。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

屋形船おはぐろとんぼが露草村の村人たちのことを語る。

おはぐろとんぼの脳裏に浮かぶ村人一人一人の記憶が、それぞれ二行くらいの文で語られてゆく。

通常の小説なら、誰がどうした……次に誰がどうした……と進行するところ、丸山健二は二行単位の文で様々な記憶を連ねてゆく……。

最後の長編小説「風死す」を思わせる文体である。慣れてしまうと、こちらの方が様々な人間群像が浮かんで頭に入ってくる。

文字数をざっと目で数えると、以下の引用箇所は(34字19字 合計53字)(27字31字 合計58字)(27字20字 合計47字)である……。短歌の文字数にも近い……。

でも文を切ることなく、個々の村人を語る文を連ねてゆき、大きなひとつの流れを創り出している。人の頭の中を覗きこむような思いにもなる。

斜め後ろから飛ばされる険悪な視線を感じてふり返るたびに

そのつどそこに別な自分を発見し、

何気なく口走った冗談がもとで知己を傷つけて

せっかく築きあげてきた八十年来の親交を絶たれ、

ぼろぼろの人生の薄汚い舞台裏がお似合いの

無力にして無責任な影法師と化し、

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話)中339頁)

丸山文学によく出てくるもう一人の自分が出てきている……この自分は嫌な奴だなあと思わず引用。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月20日(木)旧暦6月3日

俳句や短歌雑誌の発行部数の多さは予想外!

失礼ながら、つい最近まで、俳句や短歌雑誌なんてあまり一般人は読まない……リタイアしたお年寄りの読み物……無知とは怖いものながら、そんなふうに私は思っていた。

それが短歌創作の講座を受け、短歌や俳句の本を読むようになってイメージが一変する。講座には若者からシニアたち、幅広い年齢層のひたむきな創作パワー&日本語への愛があふれているではないか!

さて短歌や俳句雑誌の発行部数を見てみれば、

角川「俳句」50000部(月刊)

角川「短歌」36000部(月刊)

文藝春秋「文学界」10000部(月刊)

「新潮」(月刊)&「群像」(月刊)6000部

ハヤカワミステリマガジン(奇数月刊)15000部

ちなみにAERAが64300部である。

単純に数字で比較してしまえば、小説の文芸誌よりも短歌や俳句の雑誌の発行部数の方が多いことになる。

この発行部数の違いをどう考えるべきなのだろうか……と時々思う。

私が知らなかっただけで、短歌や俳句を創作する人たちはとても多く、年齢も多岐にわたって裾野が広いということもあるだろう。

短歌や俳句の場合、読者であると同時に其々が創作者である……という状況も、専門誌を熱心に手に取らせるのだろう。

小説の文芸誌の場合、手にするのは一部の読み手か、自分も書いてみようと思う書き手だろうか……どっちにしても大した数ではあるまい。

中身にしても、「俳句」や「短歌」にはハッとする日本語に必ず遭遇できる楽しさがあって、永久保存にしておきたい密度がある。さらに電書で購入できるし、紙版がよければ図書館には必ずある。

それにしてもこんなに発行部数があるとは……部数がすべてではないだろうが、関心を持っている人の存在をあらわしてはいる。

小説や翻訳物を読む層の減少を感じる昨今、まずその数に驚き、理由を色々思う次第である。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月19日(水)旧暦6月2日

青空文庫で大杉栄「奴隷根性論」を読む

「奴隷根性論」で滑稽なくらいの奴隷の姿をこれでもか……と大杉栄は例としてあげ、こう述べる。

「服従を基礎とする今日のいっさいの道徳は、要するにこの奴隷根性のお名残である」

そんな話は大杉栄の時代……と笑う人もいるかもしれない。だが職場でも、学校でも、家庭でも、相手を奴隷としてしか見ることのできない人種とは、今でも結構多いものだ。

相手を奴隷視する、いつの間にか奴隷になってしまっている……という状況は無理やりそうなったのかと思っていた。

だが大杉栄の文を読んでいると、そういう感覚はもともと私たちのDNAに組み込まれているような気がしてきた。そう、気をつけないと、すぐに奴隷になってしまうし、相手を奴隷扱いしてしまう……。

主人に喜ばれる、主人に盲従する、主人を崇拝する。これが全社会組織の暴力と恐怖との上に築かれた、原始時代からホンの近代に至るまでの、ほとんど唯一の大道徳律であったのである。

 そしてこの道徳律が人類の脳髄の中に、容易に消え去ることのできない、深い溝を穿ってしまった。服従を基礎とする今日のいっさいの道徳は、要するにこの奴隷根性のお名残りである。

 政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたりするのは、何でもない仕事である。けれども過去数万年あるいは数十万年の間、われわれ人類の脳髄に刻み込まれたこの奴隷根性を消え去らしめることは、なかなかに容易な事業じゃない。(以上、大杉栄「奴隷根性論」)

すでに私も奴隷になりかけているようなものではないか……納税奴隷……マイナンバー奴隷……教育プロパガンダ奴隷……。

知らないうちに奴隷になっているこの状態から脱出するには、どうすればいいのだろうか?

まずは何者にも邪魔されず一人自分と対話すること、その思いを書きとめてゆくこと……そうした時の過ごし方が奴隷的思考から解き放つ一歩につながる気がする。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月18日(火)旧暦6月1日

堀田季何「俳句ミーツ短歌」を読む

万葉集の頃から現代の、そして海外の動きまで詳しく解説。短歌や俳句と言えば、不動のスタイル……かと思っていたが、そうでもなく少しずつ形を変えてきていることがよくわかった。

いにしえから現代までたくさん引用されている俳句、短歌も、その解説も楽しい。

でも不自由なところもあるんだなあ……と思ったり。例えば俳句についての以下の文。第五章より

師系が異なると俳句についての価値観が根本的に違い、どの結社にいるかで俳句の読み、解釈はまったく変わってきます。短歌にも結社や師系はありますが、俳句の方が「解釈共同体」の側面が強いです。

解釈共同体は嫌だなあ……と思う。

縁語についての説明もわかりやすく、そうか……と納得。以下、青字は第四章「難波潟短き葦の節の間も遭わでこの世を過ごしてよとや」の縁語についての説明より。

言葉と言葉を関係づけることで、「会ってほしい」という気持ちは強調されます。言葉がつながりによって導かれることによって、作者が訴えたい心情は必然的なもの、逃れられない運命的なものとして立ちあらわれるのです。

本を読み終えたとき、なぜか心に一番残ったのは渡邊白泉の次の句である。戦争の擬人法という有り得ない感が、なぜかピッタリのリアリティを生み出しているからだろうか?

戦争が廊下の奥に立つてゐた

憲兵の前で滑って転んぢやつた

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さりはま書房徒然日誌7月17日(月)旧暦5月30日

大阪のコーヒーはなぜ苦い?

この暑さにうつらうつらしていると、大阪の薬のように濃いコーヒーの味がふと恋しくなる。

大阪の喫茶店すべてのコーヒーが……というわけではないだろうが、文楽劇場近くの伊吹珈琲店、丸福珈琲店のコーヒーは驚くほど味が濃い。

日経新聞2017年11月9日に「大阪のコーヒー なぜ濃い? 茶道の「お濃茶」意識(もっと関西)」という見出しの丸福珈琲店についての記事があった。

その記事によれば、濃く淹れるために豆や焙煎にこだわるのはもちろん、抽出器具も濃く出るように工夫を凝らし、ミルクも濃いコーヒーに合う特別なミルクを頼んでいる……らしい。

そこまで濃いコーヒーにこだわる理由について、同記事によれば

「(丸福)創業者の伊吹貞雄氏が茶道に精通しており、少量で口をさっぱりさせるお濃(こい)茶の役割をコーヒーに求めたという。「伊吹貞雄は東京の洋食店でシェフをしていた関係で洋食コースの最後に、茶懐石で提供するお濃茶のようなコーヒーを出したいと考えていた」(伊吹取締役)」

たしかにお濃茶ようなコーヒーである。

丸福珈琲の取締役が伊吹さん……黒門市場にある濃いコーヒーの伊吹珈琲店とは名前が同じ。もしかしたら親戚なのだろうか……?

丸福も伊吹も私にとっての大阪の味である。この夏も懐かしい大阪の味を飲むために早く夏バテから回復しなくては……。

なお丸福珈琲は全国にある。コーヒーと合うミニプリンも美味しいし、コーヒーが苦手ならフレッシュジュースも美味しい。丸福で大阪を味わってはどうだろうか?普段は砂糖もミルクも入れないが、丸福の場合はまずブラックで楽しみ、次に砂糖を入れて、最後にミルクを入れて……と三段階の飲み方を堪能できる。

コーヒーの俳句を眺めていて心に残ったものを以下に引用。

コーヒーとでこぽん一つゆめひとつ/臼井文法

コーヒー代もなくなつた霧の夜である/下山英太郎

珈琲の香にいまは飢ゆ浜日傘/横山白虹

青空文庫にて幸徳秋水「翻訳の苦心」を読む

最近、国家の手で無残な死を遂げた人たち、その素顔は……という思いで彼らが書いた文を読む。大杉栄、伊藤野枝……気配りと同時に貪欲な知識欲にあふれる人柄がうかがえ、なぜ……?という思いにかられる。

幸徳秋水「翻訳の苦心」を読み、この時代に早くも翻訳の苦労、喜びを適切につかんでいる明治人の知性に圧倒される。以下、青空文庫へのリンク

https://www.aozora.gr.jp/cards/000261/files/48337_38450.html

師の中江兆民が翻訳について語った言葉。厳しいようだが、その通りだと思う。原著者の文体の良し悪しを見極め、欠点を補うつもりで翻訳しないといけないと思う。

例えば季刊さりはまで訳しているチェスタトンの場合、近い行で、あるいは同じ行で無駄な語の反復が非常に多い。リズムをとっているというよりも、気が緩んでいるとしか言いようがない。

兆民先生は曾て、ユーゴーなどの警句を日本語に訳出して其文勢筆致を其儘に顕はさうとすれば、ユーゴー以上の筆力がなくてはならぬ、総て完全な翻訳は、原著者以上に文章の力がなくては出来ぬと語られた

高徳秋水が目指した文体。実現すれば……と残念に思う。語学力、漢文力のある明治人だから可能な文体だったろうに。

一篇の文章の中でも、言文一致で訳したい所と、漢文調が能く適する所と、雅俗折衷体の方が訳し易い所と、色々あるので、若し将来、言文一致を土台として、之を程よく直訳趣味、漢文調、国語調を調和し得たる文体が出来たならば、翻訳は大にラクになるだろうと思はれる。

以下の文に明治の頃から翻訳は割のいい仕事ではなかったと思いつつ

斯く苦心を要する割合に、翻訳の文章は誰でも其著述に比すれば無論拙い、世間からは案外詰らぬことのやうに言ふ、割の良い仕事では決してない、

翻訳の魅力を語る言葉に、そうなんだよなあ、私もだから翻訳してみたいんだなあと頷くことしきり。

而も能く考へれば一方に於て非常な利益がある、夫は一回の翻訳は数十回の閲読にも増して、能く原書を理解し得ること、従つて読書力の非常に進歩する事、大に文章の修練に益する事等である、

翻訳の社会的必要性をアツく語る幸徳秋水。こんな知性あふれる人間が、なぜ犯していない大逆罪を着せられて半年ほどの審議で死刑に処せられなければならなかったのだろうか……?

是れ唯だ一身の上より云ふのであるが、社会公共の上より言へば、文芸学術政治経済、其他如何の種類を問はず世界の智識を吸収し普及し消化する為めに、翻訳書を多く出さんことは、実に今日の急務である、従つて技倆勝れたる翻訳家は、時勢の最も要求する所である。

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さりはま書房徒然日誌7月16日(日)旧暦5月29日

削り氷が「あてなるもの」(高貴なもの)に思えてくる暑さ!

酷暑の毎日にかき氷が恋しくなる。かき氷はいつ頃から食べられていたのだろうか?

枕草子には早くも登場…「あてなるもの(高貴なもの)……けずりひにあまづら(甘味料を採取するツルの一種)入れて、あたらしき金椀(かなまり)に入れたる」

当時は高貴な人しか食べることのなかった削り氷(けずりひと)。新しい金属のお椀に入れて食べたら美味しかっただろうなあと思う。

山口誓子のかき氷の句を引用…

匙なめて 童たのしも 夏氷

私も夏風邪か熱中症で数年ぶりに体調が良くない。かき氷を思い出して大人しくしていよう。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月15日(土)旧暦5月28日

朝顔を見かけない夏

以前ならこの時期、道を歩けばあちらこちらで目にした朝顔。

今年はまだ一鉢も見かけていない。

育てる人が少なくなったのか、朝顔にはあまりに暑すぎる夏となってしまったのか。

私の知っている夏ではないようで寂しい気がする。

以下、正岡子規の俳句より朝顔の句をいくつか。

かれかれになりて朝顏の花一つ

なかなかに朝顔つよき野分かな

朝顔やきのふなかりし花のいろ 

「かれかれ」とか「なかなかに」という言葉の語感や色合いが面白いなあと思った。

いぬわし書房のオンラインサロン「自我とは?」

いぬわし書房のオンラインサロンを視聴。丸山健二先生が多岐にわたって話してくれる90分間。

今回も夏バテ対策という軽めの話題からスタート

「自分を見失う」「自分を見失わない」とは?という話。

最近の小説を二作品取り上げ文体についてのコメント。

夏らしい表現と盛りだくさん……の90分。

特に心に残った「自我とは?」の話をふりかえって私的に勝手に思い出してメモ。青字は丸山先生の言われたことのメモだけど、勝手に都合よく解釈している部分が多々かも。

(1)「望んだ自分でない自分」と「望んだ自分」……自分はどこに?

風貌にしても自分の選んだものではない、環境だって自分で決めたものではない。私たちは望んだ自分でない自分と一生付き合っていかないといけない。「望んだ自分」というものが本当の自分なのだろうか?自分は別のところにいるとしたら、二重の人物だということになる。

丸山文学によく出てくるドッペルゲンガーは、こうした思いから現れるのだろうか……と思った。

(2)自分を見失わないように対処するには?青字は丸山先生の考え

たった一人になったときにどうやって過ごすかが大事。

グタッとしてストレス解消をしようと考えがちだが、愚痴りたくなって愚痴を止める者がいない。

また丸山先生は個人の自由を最優先したいと考えているが、孤立した個人であってはいけない。殻に閉じこもってはいけない。

殻に閉じこもると自分が絶対になって、他を認めない。言葉を表現する人にとってはナルシズムに陥るから危険。

大事なことは

人前でリラックスすること。個人に立ち帰ったときに気を抜かないこと。

丸山文学は、よく主人公が立ち去るときに綺麗に掃除して去っていく。私ならここで掃除するなんて思いもよらないのに……と思いつつ読むことしばしば。

「個人に立ち帰ったときに気を抜かない」という精神のあらわれかも……と思った。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月14日(金)旧暦5月27日

伊藤野枝「青鞜 編輯室より」を読む……伊藤野枝は故意に悪く語られすぎていないか?

大杉栄、伊藤野枝を世間は「悪魔」と非難し、二人は悪魔の子ならと居直って長女に「魔子」と名づけた。

悪魔とも言われた大杉栄……その手紙はおおらかで、優しく、向学心、感性にあふれている。悪魔では決してあり得ない。

同じく悪魔と言われた伊藤野枝。今でもWikiの説明を読むと平塚雷鳥から「青鞜」を奪い取った悪女のように非常に悪く書かれている。

事実か?と、伊藤野枝が書いた「青鞜 編輯室より」を青空文庫で全部読んでみる。

見えてくるのは出産などで千葉の御宿で過ごす平塚雷鳥。

伊藤野枝は出産、育児中の平塚をフォローするように原稿を待ち、応援者も10人と少なくなってきた青鞜を支える。

新聞ではスキャンダラスに評され、「お前ら殺してやる」という脅迫手紙も舞い込み、刊行予定の青鞜が発禁になって経済的に逼迫している中、なんとか発行を継続しようと奮闘している。

以下の文から、そんな伊藤野枝の一人奮闘する仕事ぶりが伺えるのではないだろうか?野枝は当時19歳で育児中。

広告をとりにゆく、原稿をえらぶ、印刷所にゆく、紙屋にゆく、そうして外出しつけない私はつかれきつて帰つて来る、お腹をすかした子供が待つてゐる、机の上には食ふ為めの無味な仕事がまつてゐる。ひまひまを見ては洗濯もせねばならず食事のことも考へねばならず、校正も来ると云ふ有様、本当にまごついてしまつた。その上に印刷所の引越しがあるし雑誌はすつかり後れそうになつてしまつた。広告は一つも貰へないで嘲笑や侮蔑は沢山貰つた。

『青鞜』第四巻第一〇号、一九一四年一一月号

ときに弱音も吐く。そんな姿に親近感を覚える。野枝は当時18歳。

校正つて本当に嫌やな仕事です。厄介な仕事です。出ない間ボンヤリして機械の廻る音を聞いてゐますと気が遠くなつてしまひます。

[『青鞜』第三巻第七号、一九一三年七月号]

催促しても集まらない原稿、販売金の回収……野枝の苦労がひしひしと伝わってくる。

欧洲戦争の為めに洋紙の価が非常に高くなりまして此の頃では以前の倍高くなりましたので情ない私の経済状態では思ふやうな紙も使ひきれなくなりました

こう書いた後、次の号から「青鞜」は休刊になってしまう。無理もない、むしろよく頑張ったと言いたい気がする。

野枝の文は強さ、パワーにあふれている。

政府が女権運動を取り締まろうという気配を見せても怯まない。野枝二十歳。

もし真に必要にせまられた、根底のある、権威のある運動ならばどうしたつて官権の禁止位は何でもなく抵抗が出来る筈だ。またそんなことを気にもしてはゐないだらう。

『青鞜』第五巻第五号、一九一五年五月号

「殺してやる」という長い脅迫状が届いても平然と楽しむ。強い。野枝18歳

中学あたりに通つてゐる坊ちやんのいたづらか、或は不良少年のいたづら位だらうと思ひました。とにかくおもしろいと手を叩いて笑つたのです。

『青鞜』第三巻第六号、一九一三年六月号

次の文を書いたとき、野枝はわずか二十歳。すごいパワーと可能性を秘めた女性だったのに……と彼女を悪く言い、惨たらしく殺し、今でも非難する声の背景とは何か……知りたくなる。

自分の歩いてゆく道をぢつと見てゐるとおもしろい。この頃私は自分の目前に展開して来る事象について多く考へるやうになつた。それ丈けでもよほど自分の歩いてゐる道が以前から見るとちがつて来たことが自覚される。ましていろいろな細かいことを考へてゐたら随分さういふ実証はあげられるだらうと思ふ。自分にその歩いてゆく道の変化が見える間は大丈夫だとひそかに思つてゐる。それがわからなくなつたときは、墓をさがす時だ。何時までも進んでゆきたい。

『青鞜』第五巻第五号、一九一五年五月号]

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

屋形船おはぐろとんぼの記憶は、突如、20年前の盗賊団の頭との出会いに飛ぶ……ということを散文を極めた形で表現するとこうなるんだなと思った。

旧態依然とした生物学の範疇にはけっしておさまらない

命を凌駕する命を授かった私を

直ちに二十年前に遡らせたかと思うと

なんと

あの日

あの時

あの出来事を

かたわらの品物を取るようにして

一挙に手元に引き寄せたのだ。

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中191頁)

窃盗団の頭が屋形船おはぐろとんぼに乗って逃げた……という文も、こう語ればワクワク不思議な人生になると面白く思った。

散文的人生とか散文は馬鹿にされるけど、本当は詩歌にも負けないイメージ喚起力があるのだと思う。

語るに値しない人間存在の基盤などとはまったく無縁な

路地という路地が抜け裏になっているかのごとき神話的空間を

純粋に所有する激情をもって遡り

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中237頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年7月13日(木)旧暦5月26日

松下竜一「ルイズ 父に貰いし名は」読了、大杉栄「獄中書簡」を読む

大杉栄の四女ルイズに取材した「ルイズ 父に貰いし名は」を読了。

大杉栄・伊藤野枝の娘だから……と言われつづけた辛い人生に静かに耐え、大杉・伊藤の娘ではなく「ルイズ」として生きようとした強さに心打たれる。

それにしてもなんと辛い人生であったことか……。

学校でも「同じクラスにしたくない」など差別の目に常に晒され……。

好きな青年との結婚を諦め……。

それでもいいと求婚した別の男とは、相手の親に許してもらえないまま結婚……。

満州に渡るときも常に尾行がついて監視され……。

東邦電力に就職するも上司は同僚に「大杉栄の娘だから親しくしないように」と忠告……。

労働運動をしていた夫が解雇されると「大杉の娘と結婚したから」と言われ……。

ルイズが40歳くらいの頃、中卒の勤労青年たちに勉強を教えていたことから、公民館運営委員に推薦される。でも、「親の思想が悪いので」と自治会長、小中学校校長、地域婦人会会長、PTA会長からなる審議委員会は大杉栄・伊藤野枝を理由に拒否……。

大杉たちの同士からはアナキストの娘にふさわしい人生をと望まれ……。

ルイズばかりでなく、他の子供たちも大杉栄・伊藤野枝の娘である辛さを背負った人生である。

大杉栄の残したシンボル的存在であった長女•魔子も、その期待に押しつぶされていったようにも本書からは思える。

魔子が残した言葉

「私たち、大杉の娘として生まれて、損なことばかりだったわね」

でもルイズには親の記憶がないのに、社会を見るその目には、やはり大杉栄・伊藤野枝の血が確実に流れていると思った。

中国では、中国人や朝鮮人を人間扱いしない日本人が嫌になり……。

「日本人の子供までが中国人や朝鮮人の大人をなぶって当然としている」

博打好きの夫を責めることなく心のゆとり、家庭の明るさを大切にするおおらかさ。また夫の借金返済の内職の合間に、ルソー「エミール」を5ページ、お金をかき集め「大杉栄全集」を購入して少しずつ読み……。

私生児だから父の名前がないのはともかく、長女、二女という数字のところにまで黒線を入れられた戸籍簿に「国家の厳たる秩序を目的とする法律の意思」を見て、「大杉たちが否定した法律というものを、もっとよく知りたい」と「憲法の構成原理」という本を書写し……。

普通高校をでて勤めている娘が夜間高校に入りたいと

「夜間高校の方に本当の教育がある気がする」言ってきたときも

娘の言葉を信じ応援し……。

晩年、ルイズは朝鮮人被爆者の救援運動の中心となるが、権力を相手に戦うことの厳しさ、怖さを思い知らされ……。

そんなルイズの困難だらけの人生を思いつつ、ルイズやその子にまで受け継がれる大杉栄・伊藤野枝の確固たる信念を感じた。

ルイズが「不屈の意志」「余裕を喪わない優しさ」を感じたという大杉栄全集、獄中からの幸徳秋水宛書簡を引用する。

政治寄りではなく、文学や詩に心が寄り添っているアナーキスト大杉栄の感性を感じる文である。他の書簡も、向学心に燃え、家族や周囲への気遣いにあふれている。

同時になぜ彼がなぶり殺しにされなければらなかったのか?そういうことをする国家という組織の恐ろしさを思う。

「バクウニン、クロポトキン、ルクリュス、マラテスタ、其他どのアナキストでも、先ず巻頭には天文を述べている。次に動植物を説いている。そして最後に人生社会のことを論じている。やがて読書にあきる。顔を上げて、空をながめる。先づ目に入るものは日月星辰、雲のゆきき、桐の青葉、雀、鳶、烏、更に下って向ふの監舎の屋根」

(幸徳秋水宛の獄中書簡明治40年9月16日)

下記リンクは青空文庫の大杉栄「獄中書簡」

https://www.aozora.gr.jp/cards/000169/files/4962_15425.html

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

山吹岳から雪崩と共に流されてきた二つの遺体のエピソードを読む。

山里の春の訪れを美しく描いた後だけに、それぞれ別の家庭がある男女の遺体の哀れさも、家族の思いの醜悪さも目立ち、人間であることの醜さを思ってしまう。

水ぬるむ徒然川の両岸に

もの思う花々が眼路の限り咲き乱れ

結局は短命に終わるしかない幻想の幸福感を巡って

春の鳥が頻繁に色鮮やかな姿を見せるようになり

おつに澄ましている

母親に生き写しの顔の娘が

野の草を踏みしだいているうちに旅心をそそられ

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻93頁)

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