さりはま書房徒然日誌2023年7月12日(水)旧暦5月25日

松下竜一「ルイズ 父に貰いし名は」と大杉栄「鎖工場」を読む

(大杉栄)

大正時代、大杉栄や周囲の人が社会、文学に与えた影響の大きさを知り、まず大杉栄とはどういう人だったのか……近い人の視点で語られた本を読むことに。

松下竜一「ルイズ 父に貰いし名は」は、大杉栄・伊藤野枝の娘ルイズに、一年半かけて取材して完成した本。途中まで読む。

関東大震災から二週間後。

時の政府は災害後の不安定を利用し、朝鮮人や労働運動関係者や無政府主義者を取り締まろうとしていた……

ルイズの両親(大杉栄・伊藤野枝)と6歳の従兄弟は憲兵隊にいきなり連行される。

三人が扼殺(何箇所も骨折するまで蹴られ、首を絞め殺され、裸にされてコモでまかれて井戸に放り込んで土で埋められた)されたとき、ルイズはわずか一歳三ヶ月であった……。

ルイズが父の作品の中で一番理解しやすく、印象が鮮明だと語る「鎖工場」を読む。私が初めて読む大杉栄作品だ。

現代に刊行されても強い印象と共感を与えるメッセージ性に驚く。もしお時間があれば、寓意性に富んだ短編なのでぜひ。

大杉栄「鎖工場」(青空文庫)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000169/files/1007_20610.html

ルイズは「鎖工場」について語る。

「大杉も野枝もこの鎖を断ち切って立ち上がったために殺されたのだと」

「大杉と野枝を殺したのが単なる個人の行為とは思えなかった。鎖に連なっている群衆が二人を取り囲んで」

人目を忍んで大杉栄・伊藤野枝の墓に手を合わせていた小間物売りの老婆がルイズに語った言葉に、田舎の庶民にまで大杉栄の考え方が浸透していたのかと驚く。

「あなたのおとうさんおかあさんが生きとんしゃったら、わたしらのくらしももうちょっと楽になっとりましたろうばってんね……」

国家にとっては、庶民に慕われる大杉栄・伊藤野枝の存在がさぞ脅威であったことだろう……と想像ができる。

ルイズという名前はフランスの無政府主義者でパリ・コミューンの闘志ルイズ・ミッシェルにちなみ、大杉栄が命名したもの。

だが学校でルイズは大杉栄の子供であるということで

「子供と同じクラスにしたくない」など保護者からも同級生からも差別の嵐に晒され……

教師からも露骨に「親の仇はうちたいか?」など集会で訊かれ……

エスペラントを学べば、暗号を使っていると通報され……

大杉栄の子供・ルイズにとっても至難の人生であった

それでも父母のことは語られることもなく育ちながら、両親の考えの核心部分をルイズが把握していたことに驚いた……。

(伊藤野枝)

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

亡くなっている校長、その教え子の少し知恵が遅れている大男……と人間について饒舌に語った後……

視点は徒然川に、伊吹岳に、山での遭難者に……と、自然、それから死に戻ってゆく。

丸山先生も信濃大町で日々こんなふうに山と対話されているのだろうか……。

色々心に残るけど、最後、登山者を見かける季節をふたたび迎えた山が人間味を急に帯びてきたように感じられ、表現が面白いなあと思った。

「頂を極めるためには為すべきことを為せ」という

単純明快な内容を

舌端火を吐くように熱く論じる

筋金入りの扇動家顔負けの山吹岳は

そうした紋切り型の教唆の言葉の陰で

暗くじめついた意図をちらつかせ

またしても死へいざなうための微笑を

にんまりと浮かべてみせるのだった。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻91頁

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さりはま書房徒然日誌2023年7月11日(水)旧暦5月24日

政治家や国家に与しない芸術家に憧れて

こんな暑い日に涼しくない話題を書かなくても……とも迷ったが。

私がとてもがっかりするもの……。

政治家と親しい関係にあることをしきりにPRする芸術家たちである。交流写真をアップしたり、あまり芸術がわからない政治家に文を書いてもらったり。

たしかに政治家は動員力も資金力も差配する力もあるだろう……弱い立場にある芸術家にとって心強いだろう……ステイタスアップの存在だろう……頼りたくなる気持ちはわかる。だが、とても嫌なのである。

さて昨夜、そうした政治家と仲良くしたい芸術家とは真逆の路線をいく福島泰樹先生の短歌絶叫コンサートへ行ってきた。

「大正十二年九月一日」という題のコンサートである。

関東大震災から三日後。

内務省警保局が海軍船橋送信所から「朝鮮人は各地に放火し、爆弾を所持し、放火する者あり。厳重なる取り締まりを加えられたし」との電文を各地方長官に送信。国家が朝鮮人虐殺に加担しながら謝罪しないまま百年経過。

(リンクは東京新聞の関連記事)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/242997

この事実に、小池知事が謝罪に来ない事実に、福島先生は怒りの絶叫を咆哮する。怒りが生む短歌の、朗読の、言葉の尊さよ……と拝聴。

芸術とは、政治家や国家に与せず、怒り、喜び、悲しみの感情の火花をいかに散らせるか……普通の人よりいかに早く、政治家や国家の悪を見抜くか……にある気がする。

丸山健二先生も、芸術家を炭鉱のカナリアに例えていらした……社会の悪、矛盾に普通の人より早く声をあげる存在なのだと。

福島泰樹先生や丸山健二先生、怒るべきところで怒ることのできる芸術家が私は好き。

芸術家が政治家や国家に与してしまったら、怒るべきところで怒ることができなくなる、それは芸術家の死を意味すると思う。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

「おはぐろとんぼ夜話」中巻27頁から47頁まで20頁にわたって、屋形船おはぐろとんぼの船頭、大男で少し知恵の遅れた男についての描写が続く。

一人の人間について、これほど言葉を尽くして語ることができるのか……。

一人の人間にこれほど複雑な世界が広がっているのか……。

と驚く。色々と気に入った文があるが、その中から「かくありたし」と思った文を一つ選んで引用したい。

茫漠とした荒野に等しい世界が長いこと沈黙しても

平気の平左で過ごせ

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中45頁)

大男とは反対の人生を生きる普通の人たちを語る言葉もとても心に残る

ゆるやかな楕円軌道を描きつづける

色調を失った生を背負って息づくそれとも大きく異なり

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中45頁)

ゆるやかな楕円軌道の生を歩いている……と思うと、なんだか悪くない生のように思えてきた。言葉は偉大なり。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月10日旧暦5月23日

伊藤裕作「寺山修司 母の歌、斧の歌、そして父の歌 鑑賞の試み」をPASSAGEに搬入

編著者の伊藤裕作さんをはじめとして、寺山修司をこよなく愛する六人が寺山短歌の魅力を語った本「寺山修司 母の歌、斧の歌、そして父の歌 鑑賞の試み」をPASSAGE書店さりはま書房の棚に搬入してきた。

「寺山修司は一筋縄では行かない。だから六人がかりで」との言葉がこの本のどこかにあった。

たしかにそれぞれの人生にもとづいた解釈の火花が飛び散っていて、あらためて寺山修司という世界の深みを思う。

最後、「跋文にかえて」で伊藤さんは寺山修司のこの言葉を引用する。

「100年たったら帰っておいで、百年たてばその意味わかる」

寺山修司の歌を読むということは、万華鏡を覗くようでもあり、天体望遠鏡ではるか彼方の星を探すようでもあり……なのかもしれない。

そんな寺山ワールドに魅せられた六人の言葉に耳を傾けてみませんか?

それにしても表紙の寺山修司、なんともいい表情をしていますね。

PASSAGEにて購入した小豆洗はじめ「季節の階調 夏」を読む

詩人・小豆洗はじめさんは神保町PASSAGEの棚主さん。自分でつくられた詩集や詩関係の本を扱われている。今日、購入した「季節の階調 夏」も小豆洗さんが一年前にご自分でつくられた詩集だ。

「季節の階調 夏」には自分で……という手作りの良さ、目配りが随所に感じられる。

途中までインクは心地よい青。

蝉がジジジ……と鳴いて

空を横切っていった

という最初の頁の次に広がるのは青い海の絵。蝉の声と海に暑さも消え、夏の広がりと静けさだけが心に沁みて夏の詩へと誘う。

青いインクで印刷された様々な夏を切り取った詩が続いたあと、

最後に近づいたところで、闇に視力を失う「Mr. Indianとの夜」の詩で文字が黒くなる……ああ、闇だ……と思わせる効果がある。

最後の読経の声と蝉の合唱を記した文も、読経のイメージが文字の黒インクと合っていて素敵だなあと思う。

蝉ではじまって蝉で終わる試みも印象的。同じ蝉なのに夏の詩を読んだ後では心に聞こえてくる声が違う気がする……。不思議

幾何学模様の詩も二箇所ほどだろうか……あいだに挿入されている。かたちと詩句が自然に溶け込んでいる……でもご苦労されたのでは……と思う。

「胡瓜」という詩の例え。初めて聞くけど、胡瓜をかじる感覚はたしかにそんな気がする……と頷いてしまった。

胡瓜をかじったら

夏の空があふれた

種の粒つぶが奥歯ではじけて

蝉の声が止んだ

詩や文だけでなく、インクの色、絵、幾何学模様の詩、蝉の声……を工夫して散りばめた素敵な詩集。さらに小豆洗さんのすごいところは、定期的に発行されているところ。

こうした個人の詩集に出会えるPASSAGEにも感謝。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月9日(日)旧暦5月22日

クロモジの香りが恋しい季節

(クロモジの黄色い花)

蒸し蒸しとした日が続くと、ミントをさらに甘く、清涼感のある香りにした味わいのクロモジ茶をアイスティーで飲みたくなる。

ただしクロモジ茶の場合、葉ではなく、おがくずのような、クロモジの木の屑を煎じて飲む。香りはわりと抜けやすいようで、欲張って大袋で買ったら香りがしなくなってしまった。ただ味と風味は残っている。

クロモジは爪楊枝として使われることも多い。

調べてみれば、その他の効能としては保温、芳香性健胃、頭髪の脱毛やフケ防止などがあるそうだ。真偽のほどは知らないが、いかにも効果がありそうな香りである。以下、wikiの説明。

https://ja.wikipedia.org/wiki/クロモジ

クロモジの花の季語は春。次にクロモジを詠んだ俳句を紹介。

くろもじを燻べて春の炉なごむかな 古沢太穂

黒文字と和菓子と八十八夜かな 玉木克子

黒文字を矯めて香らす垣手入れ 武田和郎

身近なところにクロモジのある生活がなんとも贅沢に思え、羨ましくなる句である。

丸山健二作品にもクロモジが出てきたことがある。

「銀の兜の夜」だっただろうか……(心許ない)。なんと死体の臭いを隠すためにクロモジを使用していた。

クロモジはそのくらい強く、清々しい香りである。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

上巻の終わり近くになってきた。

屋形船おはぐろとんぼが廃校跡の荒地に倒れている校長像を見かけ、生前から船の上で亡くなるまでを回想する。

これまでおはぐろとんぼが眺めてきた一貫した流れのある自然の世界から、突如、幾重にもわたって相反する校長の思いが渦巻く世界。

人間を構成する思いの複雑さに、この校長の箇所は思わず二回繰り返して読む。

丸山文学のテーマである「もうひとりの自分」が、ここでは何人もいるかのような思いにかられた。

もうひとりの自我とのあいだに

ぞっとするような沈黙が介在して

決定的な不和が生まれ

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻531頁)

校長が屋形船おはぐろとんぼの上で息絶えてゆく箇所の描写は、言葉を尽くして描かれとても美しい。

それから校長の死を見つめる船頭の大男も印象的。船頭は校長の教え子で知恵が遅れたところがある。

大男が語る校長の親切と優しさ。

それは丸山先生の記憶から生まれたのではないか。

丸山先生自身、小学校時代、皇室の誰かの死への敬礼を拒否したためか特殊学級に入れられた。

だが特殊学級の担任の先生も、体の弱い仲間たちも心温かく居心地のよい場所だった……そう。そんな特殊学級で過ごした体験がにじむ文章のように思う。

それというのも恩師が

知恵遅れという括られ方では差別をしないから

ほかの子とまったく同じように扱うから

教材のたぐいは全部用意してやるから

学業の遅れなど少しも問題にしないから

でかい図体のことでからかう生徒は厳しく罰するから

その気になったときだけ顔を見せてくれればいいからと

そう言ってしきりに登校を勧めてくれ

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上579頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年7月8日(土)旧暦5月21日

谷中生姜の風景も移り変わって

先日、畑から採ったばかりの谷中生姜を頂いた。根が美味しいのはもちろん、葉っぱもレモングラスのような香りがして冷蔵庫の脱臭をしてくれる気がする。

効能も免疫力アップ、体を温めるなど色々あるようだが、最近、地元の庶民的なスーパーでは見かけない気がする。高級スーパーなら扱いはあるのだろうか……。

谷中生姜の季語は夏。谷中生姜をテーマにした俳句を幾つか。

貧しさや葉生姜多き夜の市 (正岡子規)

朝川の薑(はじかみ)洗ふ匂かな(正岡子規)

一束の葉生姜ひたす野川哉(正岡子規)

子規の時代、谷中生姜は貧しい生活を彩る季節の匂いだったのだろうか……。生姜だけでも見える風景はずいぶん変わったものである。

仁木悦子「白い部屋」を読む

小説現代80年5月号収録。現在は短編集「赤い猫」に収録されている。亡くなる6年前、52歳の時の作品である。

文庫本にして50頁ほどの中短編である。

そこに病室のメンバーたち、アパートの住人たち、もと華族の子息たち、お屋敷のお爺さんと令嬢を登場させるものだから、人物の差が描ききれていない感がある。非ミステリ読みとしては、こじつけ感にあふれている気がして面白くない。

なんとか頁数を稼ぐために登場人物をむやみに登場させたのではないか……と思うくらいに冗長である。初期短編にキラっとしていた仁木悦子の輝きは失われているようで残念である。

ただ宝くじ、新幹線、黄色と淡緑のキオスクの紙包み……とか昭和感には満ちていて、なんだかそんな包装紙を見たことがあるなあと懐かしくはなった。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月7日旧暦5月20日

中央区立図書館本の森ちゅうおうへ

今日は八丁堀早稲田校での短歌講座、夜はNHK青山で人間のバザール浅草と福島泰樹先生の講座をダブルで受けた。合間に中央区立図書館本の森ちゅうおうに滞在。

本の森ちゅうおうは快適な図書館である。中央区在住、在勤でなくても貸し出しカードを作成して利用可能とのこと。平日と土曜日は夜9時までと遅くまで開館。緑を眺めながら閲覧できる席や美味しいカフェ。

快適、便利な図書館が大都市に限られる現状は残念ではあるが……。

歌誌「月光」79号

早稲田八丁堀校での福島泰樹先生の講座「実作短歌入門」は、ふだんは前回に決まったテーマで短歌を三首詠んで、前々日までに福島先生に送信。当日は皆さんの歌を見ながら……というスタイル。他の方の話では、どうやら「短歌を詠む」ことに徹した講座は珍しいらしい。鑑賞と抱き合わせで……という講座が多いようだ。

だが今日は夏期講座の第一回ということで、福島先生の主宰誌「歌誌 月光79号」を題材に色々短歌について講義して頂く。

まず79号まで続いている事実がすごいなあ……と思う。

同じ講座をとっている方々のお名前も表紙に連なっていて、皆さん努力されて素敵な歌を詠まれていることに、すごいなあと思う。

福島先生の歌から印象に残った歌を以下に紹介させて頂く。4月28日東京大空襲前夜、雪が降った……という証言があるらしい。ガソリンをまかれ、そのあとでナバーム弾を落とされ10万人が命を落とした事実に目がゆき、前夜の雪について語る人は少ないようだが……。福島先生は東京大空襲を「史上最大のジェノサイド!」と語ったあとで、こう詠まれている。

ジェノサイド語り伝えてゆくからに前夜の雪は浄めにあらず

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さりはま書房徒然日誌7月6日(木)旧暦5月19日

幼子の笑顔は記憶攪拌装置

夏空に誘われたのか、日中、ゼロ歳から二歳くらいの幼子を連れた母親たちを何人も見かけた。年齢別人口を考えると、これだけ幼子たちに遭遇するのは珍しく、ラッキーな日だと思う。

なぜか幼子の無心な笑顔が呼び水となって、心に眠っていた意識が揺さぶられる。そんな風にして思い出したことを取り留めもなく二つほど。

かつて勤務していた夜間定時制高校で、たしか何かの新聞記事のコピーを配布したときのこと。

その記事にあった「教育は未来への投資」「若者は貴重な未来の資源」という言葉に生徒たちは敏感に反応した。

「教育が投資」という感覚も嫌だし、「私たちは資源じゃない」と反発。自分たちを利用するものとしてしか考えていない存在を見抜く感覚を頼もしく思うと同時に、そんな繊細な彼らが不登校生として長く過ごすことになった学校とは?と考えた。

もう一つ。たまに見かける双子用ベビーカーだが、バスの乗り降りのときお母さん一人だけではすごく大変そうだ。

車椅子と同じように、バスのステップに平板をかけてもらったら楽になるだろうに………と思う。

街で見かけた幼子の笑顔が、人を利用せんと貪ることかれ、優しい世界に生きよ……と呼びかけている気がした。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

屋形船おはぐろとんぼが荒地となった廃校に見つけた枝垂れの八重桜。

おはぐろとんぼがこの桜を見る眼差しに、丸山先生がこの世を見つめるときの理想と重なるものを感じる。

そしてその桜は

自立して存在することを執拗に阻む

底意地の悪い現今社会において

実り豊かなはずの理念が立ち消えてゆくなかにあっても

表情たっぷりの

爽やかに輝いた面持ちをしっかりと持続させ

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻494頁

八重桜はトンネル工事の犠牲者たちに衷心からの回向をたむけつつも語る言葉は、丸山先生のこの世とは別な世界がある……という世界観が反映されているように思う。読んでいるうちに、せかせかした現世が遠ざかってゆく……のが丸山文学の魅力だと思う

たとえいかなる悲劇が生じたとしても

たかがそれしきのことで嘆くことはないと

悠然たる笑みを浮かべつつ

そう耳もとでささやき

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻496頁

八重桜に国家との関係の在り方も語らせている。この考え方も魅力だし、同じことを人間が語ればうるさくなるところ、桜ならば素直に頷ける。

惰性的な慣習としての国家への帰属は

良心を棄て置いて

真っ当な答えを弾き出そうとするようなものだと

あっさり言ってのけ

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻496頁

福島泰樹「歌集 百四十字、老いらくの歌」より「桜花爛漫の歌」を読む

「桜花爛漫の歌」を読んでいると、とりわけ寺山修司について詠んだ歌が、寺山修司とはそういう辛い生い立ちの人だったのか……寺山修司のイメージはたしかに刹那を生きる人だなあ……と心に残る。以下に二首ほど引用する。

戦争で父を喪い夭(わか)くして母に棄てられつくつく法師

「存在と非罪」のせめぐ黄昏を寺山修司、笑みて消えゆく

次の歌は、私も福島先生のように生きたいもの……と怠惰を反省した。

暁闇に目醒めて朝をなすことは夢を呟き 歌を書くこと

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さりはま書房徒然日誌2023年7月5日旧暦5月18日

アゴラとは逆方向を目指す街

今日は所用で千葉駅西口広場方面へ。千葉駅西口はだだっ広い広場に小さな、寝転べない意地悪ベンチが二つあるのみ。改札に行く通路にもベンチはなし。駅のホームにもベンチは見かけなかった気がする。

なぜ人が足を休め、談笑する場をつくろうとしないのだろうか……?

そういう発想がないのか?それとも意識的に人が休めないようにしているのか?

南フランスの田舎町ペルピニャンの広場をふと思い出す。

ペルピニャンでは広場を囲むようにテラス席のあるカフェが並んでいる。夜になれば家々から皆カフェにやってきてテラス席で好き勝手なことを喋り、最後は広場で手を繋いで輪になってバスク地方のダンスを踊る……。

田舎町でもアゴラがある……そんなペルピニャンの夏が遠い風景に思われた。

デジタル大辞泉によれば、アゴラとは

古代ギリシャの都市国家の公共広場。アクロポリスの麓にあって神殿・役所などの公共建築物に囲まれ、市民の集会や談論・交易・裁判などの場になった。

人が休めない街とはただ不親切なだけではなく、集会や談論からも遠ざける街なのだと思う。こんなアゴラとは逆方向を目指す街が、日本中に増殖している気がする。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

丸山先生の大切なテーマのように思える生と死。生なき存在である筈の屋形船おはぐろとんぼが四季を生き生きと語ることで、不思議な妖しい美しさが風景に宿り、生と死というテーマをくっきり際立たせるように思う。

花の笑む頃になると

きまって気持ちが浮つく性分……

白南風がそよと吹き始める頃になると

必ず湧き上がる胸の泉……

屹然として聳える山吹岳の遠くに

蜘蛛手に弾ける花火が見える頃になると

ひたひたと押し寄せる充足感……

夢ならぬ現実として

銀色に輝く尾花の波が押し寄せる頃になると

ふんわりと包みこんでくる哀調……

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻415頁

福島泰樹「百四十字、老いらくの歌」を読む

福島泰樹「百四十字、老いらくの歌」より「道玄坂の歌」を読む。この本は、福島先生が毎日ツィッターに投稿した373首だそうだ。「ツイート文が長歌なら、短歌は反歌だろう」と帯にある。長歌があるおかげで、短歌の思いも分かりやすい。

「道玄坂の歌」には、戦争で、東北地方大震災で、色々思いを残して亡くなっていった死者を詠んだ歌がある。

この季節、道に咲く紅白のオシロイバナの花を見ていると、花々の影に歌に詠まれた死者の姿が見えてくる気がする。

百四十字、老いらくの歌」の「道玄坂の歌」 より、そうした死者を詠んだ福島泰樹先生の歌を次に五首ほど紹介させて頂く。

戦争で死んだ母さん、歴史とは……波に呑まれてゆきし人々

炎に灼かれ叫ぶ人々黒焦になった人々、ぼくは見ていた

死者は死んではいない 髪や指の影より淋しく寄り添っている

燃えながら逃げゆく人を 泣きながら背中に隠れ見ていたのだよ

暗い眼でおれを見据える男あり はるか記憶の闇のまなこか

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さりはま書房徒然日誌2023年7月4日旧暦5月17日

なぜ教育委員会の人は文を書くのが苦手なのか?

定時制高校で働いていた頃、不思議に思ったことの一つ……。

教育委員会の人たちは大量の通知文書を作成するのに、なぜか自分の言葉で文章が書けない……ということ。上手、下手ということではなく、ほんとうに文章を書くことができない……と思った

勤務していた定時制高校では、卒業式に発行する広報誌に教育委員会からの「卒業おめでとうございます」の文を毎年掲載していた。その関係で10月に1月初旬あたりの締切で頼む………

だが1月下旬になっても原稿があがらず、教育委員会の人どの人もナンダカンダと理由をつけて締切をひたすらのばす……が毎年の恒例。

勤労青年も多い定時制高校の卒業式への祝辞、書くネタはたくさんあるだろうに。なぜか言い訳ばかり、ひたすら締切を伸ばす……。

教育委員会の人は文を書けない……と思った理由、その二。各学校のホームページの校長挨拶は、普通の学校は4月中旬には更新される。

だが教育委員会から4月に赴任した校長がいる高校(教育委員会の人が校長になるのは、たいていすごい名門校だ)は、まだ校長挨拶が更新されず空白のままである。

なぜ教育委員会の人たちは、こうも文章を書けないのだろうか……と考えるうちに、文章を書く行為というものが少し見えてくる気がした。

文書を大量作成する教育委員会の人にとって、文をつくるとは文科省から降りてきた決定事項を漏れなく伝える伝達ミッションでしかない。文書作成のときには自分という存在は無色透明にして、ひたすら優秀なメッセンジャーたらんとする……のだろう。

でも本来、文章を書くということは、「卒業おめでとう」のように小さな文にしても、自分の内心を伝えるという行為。自分という核がないと言葉にまとまっていかない。

ふだん透明人間になって文書を大量生産してきた教育委員会の人たちにとって、伝えるべき文科省の伝達文もないシチュエーションで、思いを少しでも伝える……という行為には恐怖に近いものを感じるのかもしれない。

教育委員会の人たちの逆路線をいって、国からの言葉を忠実になぞるメッセンジャーなんて真っ平!と逆らおうとする精神から、もしかしたら文章の雛は生まれてくるのかもしれない。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

屋形船おはぐろとんぼが河辺の墓地に感じる妖しい雰囲気に、死がぐっと近いものに思えてくる。

生年も没年も不明のままのの古い墓が

いつもながらの非常に艶かしい燐光を発している

そのかたわらを通過する時には

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻355頁)

その直後に生と死の入り乱れた関係が示唆されて、自分がいるのはどっちなのだろうか……という思いにかられる。乱打される生と死の響き……それが丸山文学の魅力の一つだと思う。

生と死の密接な結び付きが

隠された意図を明らかにできぬまま

その意味を灰と化したように思え

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻356頁)

「うたで描くエポック 大正行進曲 福島泰樹歌集」を読み終わった!

大正時代にこんなに激しい思いを抱いて短く散っていったアナーキスムの作家、画家、俳人がいたとは……。彼らの笑顔、無念が伝わってくる歌集だった。短歌にあまり関心のない方も、大正という時代を知ることのできる素晴らしい歌集だと思う。

最後の章「髑髏の歌」より有島武郎情死を詠んだ福島先生の歌を二首、次に引用させて頂く。

腐乱して垂れ下がってる揺れている牡丹の花と謳われし女(ひと)

ぽたぽたと白い雨降る変わり果て牡丹の花や髑髏となりし

跋文に福島先生が記されていた文が心に残る。

「歴史とは、それを意識する人々の中に、常に現在形として在り続ける。それが。一人称誌型にこだわり、歌を創り続けてきた私の実感である」

まさに目の前に、歌の中の人たちが現れるようなひとときを体験した。これまで知らなかった大正という時代を、短歌の力を、この歌集から教えてもらった。

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さりはま書房日誌2023年7月3日旧暦5月16日

水田を知らない若者たち


昨日は半夏生だった。
旧暦の時代、半夏生は田植え完了の目安だったらしい。
現代では稲の銘柄のせいか、気候が早く進んでいるせいか、家族構成の違いのせいか、連休あたりから田植えを開始、半夏生の一ヶ月前には田植えを完了ではないだろうか?

旧暦の風景に想いをはせたいという思いから、さりはま書房日誌には旧暦も記している。

同時に今の若い人達はどんな風に季節を感じるのか……重なる部分、相違点も気になる。

かつて定時制高校で英語を教えていた頃のこと。

教科書の英文に「水田」が出てきた。どうも生徒たちの反応が鈍いから、もしや……と確認してみたところ、誰一人として白米の元が稲穂であることも、稲が水田に育つという事実も知らなかった。

外国籍の親御さんのもとに育った生徒も多い、小学校低学年から不登校の生徒も多い……という定時制高校ならではの特殊事情もあるのかもしれない。

でもキラキラした感性はあれど、水田というものを知らない今の若者たち……彼らに言葉を使ってどう日々の感動を伝えればよいのだろうか……自問しつつ、まずは私自身に旧暦の感性をたらしてみることから一歩。

「うたで描くエポック 大正行進曲 福島泰樹歌集」より「大八車の歌」を読む

甘粕事件について、この歌集で初めて知る。https://ja.wikipedia.org/wiki/甘粕事件

大杉栄だけでなく、産後間もない妻の伊藤野枝も、わずか六歳の甥っ子・橘宗一も、いきなり連行してすぐに殺害。裸にして井戸に投げ込んだ残虐さ。

指示したと見られる甘粕正彦の写真の穏やかな顔、甘粕の母の「子供好きだった」という言葉に、人間性を変えてしまう国家や権力の恐ろしさに慄然とする。

現代にも通じる国家悪への怒りがほとばしる歌に心うたれ、福島泰樹先生の歌を次に五首引用させて頂く。( )内は、歌の前に書かれていた説明の言葉。

「巨悪のテロルは常裁かれず」の言葉の重さよ……。

(橘宗一いまだ六歳 憲兵隊本部の庭に絶えし蜩)

大逆罪震災虐殺白色の 巨悪のテロルは常裁かれず

(大正十二年十月八日、第一回軍法会議)

逆徒大杉榮屠りし甘粕正彦は天晴れ国家に殉じし者よ

「國法」よりも「國家」が重い其の故に甘粕見事と言い放ちけり

(女らのいとけきかな奔放に生きしは井戸に投げ捨てられき)

裁判を暴け国家を、銃殺を命じし者らは猛く眠るを

(村木源次郎市谷刑務所で臨終)

さようなら縛られてゆく棺桶の 大八車の遠ざかりゆく

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を少し読む

屋形船おはぐろとんぼが語る徒然川の岸辺に咲くタキユリの群落。

美しい花の暴力的な生命……

生への不信……

生のすぐ近くにある死の気配……

そういうものが入り乱れた瞬間を切り取るのが丸山文学の魅力の一つだなあと思う。

まさに絶妙な均衡によって

気品の白に情念の赤を散りばめたその妖花の

むせ返るほど濃密な香りは

ゆるゆるの意識の深層に深く入りこんだ

獣的な粗暴さを刺激しそうな恐ろしい力を秘めながらも、

死を意識する頃に

生の不信のどん底に墜ちこみ

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻317頁

屋形船おはぐろとんぼに向かって、国家を静かに罵り、宣戦布告をする徒然川。この怒りがこれからどう炸裂していくのだろうか……楽しみである。

国家の原汚い支配層によって欺かれつづけてきた人々の

口先ではない本当の怒りがはじまるのは

これからなのだとのたまい

為政者どもの良心を疑っているうちに

国家を相手に戦いを宣する

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻325頁

仁木悦子「赤い猫」を読む

不幸な生い立ちの娘が孤独なお金持ちの老婦人と力を合わせて母親殺しの犯人を突きとめ、シンデレラに……という展開。心癒されるという人もいるだろうけど、私には安易で、あまりに偶然に頼りすぎている……これでいいのだろうか。ほんわかしたムードはあるが、ありえない感の方が強い。

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