さりはま書房徒然日誌2023年9月23日(土)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ーひとつの文が長い記憶の旅路にも思えてー

1966年の「夏の流れ」から五十年の年月を経ての作品「我ら亡きあとに津波よ来たれ」
両作品の文体の違いに、「我ら亡きあとに津波よ来たれ」の文体に到達するまでの丸山先生の文体への試行錯誤の過程を思う。

「夏の流れ」の簡潔で、引き締まった美しさのある文。

そして「我ら亡きあとに津波よ来たれ」以下緑の引用文は、これで一つの、実に長い文である。

津波を生きのびた青年の意識をかけめぐる記憶の流れのような、目前にひらける海原のような、たゆたう流れを感じる素敵な文だと思う。

この長い一文の始まりは、「月光の金杯を満たす沈黙の語りとは似ても似つかぬ」という魅力的な語の組み合わせだ。
意味は定かに分からないながら、素敵な響きにあっという間に文に引き込まれる。

そして丸山文学によく出てくるテーマである「もうひとりのおれ」とのやりとりが出てくる。
「船上と岸壁で互いを呼び交わすような無意味にして虚しい押し問答」という文で、絵画を見るかのようなイメージ喚起力で「もうひとりのおれ」とのやりとりが喩えられている。

そして「もうひとりのおれ」にかき乱される記憶が悶々と文の闇間に散る。

長い一文の最後は、「いちいち未来に楯突く明日を思わぬ心といっしょに無窮と無限を孕んだ玻璃の海へと」
なんだか心がスーッとする言葉がきて、浄化された思いになってようやく一つの文を読み終えた。

丸山先生が一つの文を書くのに込めた思いを想像し、そうした時が凝縮された本がずしりと重く感じられてくる。

すると、

月光の金杯を満たす沈黙の語りとは似ても似つかぬ
自分に都合のよいときだけくどくどしく述べ立て
結局はぼやきで終わりそうな
呆れ返るほど単調な物思いが始まり、

それから、

うすうす感づいているおのれの不気味さと
幾多の謎を投げかける胸に咲く花を誰よりも強く意識した
もうひとりのおれとのあいだで
船上と岸壁で互いに呼びかわすような
無意味にして虚しい押し問答がくり返されたものの、

相手をへこますどころか
逆に言い負かされてしまい、

ひとしきりの沈黙の後、

まるで十年ぶりの再会に匹敵しそうな
官能とたわむれるしかなかった青春の放胆さに直結する
まことに奇妙な懐かしさに奇襲されて
不覚にも落涙しそうになり、

不幸と欠乏に付きまとわれっぱなしの生来的な自然人として
今もなお遁走の真っ最中であるおのれの体内に
望んでも得られぬ定めや
することなすこと裏目に出るという汚辱が
トラックに轢かれた蛇のようにのたうっていることが再認識させられ、

それでもなお、

いつまでも経済的に自立しないせいで
消費からの解放という理念が際限なく無価値なものとなるような
延々と切れ目なしにつづく灰色の日々のなかにあって、

借り物の力に復してしまわないほどに、

スノビズムからの解放を必要とする世俗世界の秩序を黙殺できるほどに、

いっさいの敬慕の念を頭から振り払えるほどに、

神仏に化託してみずからの心情を語れるほどに、

心を強化してくれそうな人生の慰めを求め、

また、

ひとえに絶望的な混乱をはっきりと物語る陸を離れたい一心から
いちいち未来に楯突く明日を思わぬ心といっしょに
無窮と無限を孕んだ玻璃の海へと
どこまでも強情を張りそうな
恐ろしいまでに血走った目を飛ばすのであった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻361頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月22日(金)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む
➖死を悼む万物の声を喩えるなら➖


津波から助かった青年が誰もいない地を彷徨う途中、心に聞こえてくる言葉……。
死者の言葉だろうか?それとも死者を悼む万物の言葉なのだろうか?

以下、緑の一番目の引用箇所について。
津波でみんな死んでしまった……を散文で表現すると、「平等この上ない死を理詰めで肯定し あっという間に生命線を断たれてしまった」になるのかと思い、そう書くことで伝わってくる感情を考えてみる。

「平等この上ない死を理詰めで肯定し」で逃れられない感がひしひしと迫ってくる。

「あっという間に生命線を断たれてしまった」で命のあっけなさ、無情さに胸が締めつけられる。

「遠雷」や「舟唄」「家鳴り」「つぶやき」の比喩が「のように」と繰り返されることで、悲しみの声があちらこちらから谺するような気がしてくる。
比喩の言葉の思いがけなさも面白い。「舟唄」や「家鳴り」に喩えるとは!


「非難の的の透明性を濁らせるつぶやきのように、」という一文がすごく気に入って、今日の文を書こうと思った。


切なくて不合理なイメージが湧いてくるけれど、具体的に何か……自分の心に作用する過程をきちんと説明することはできない……そして正確に説明はできないけれど、心に何かが伝わってくる、こういう表現が私は好き。


「分かるように文章は書きなさい」という実務志向の世の流れには逆行するのだろうけれど。
明確に説明はできないけれど、心がいいと叫びたくなる表現はいいのだ。

息をとめて心耳をかたむければ、

平等この上ない死を理詰めで肯定し
あっという間に生命線を断たれてしまった
目に見えない人々の生涯を飾る最期にふさわしい魂のこもった言葉が、

山の彼方で轟きわたる遠雷のように、

水路を巡りながら口ずさまれる舟歌のように、

歴数千数百年を経る古刹の家鳴りのように、

非難の的の透明性を濁らせるつぶやきのように、

ほんのかすかに聞こえてくるのだった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻302頁)

以下、二つの引用箇所は丸山先生の考えがよく現れて魅力的な箇所と思う。

一つめのところ……。

震災のせいで国家が瓦解したら、個人を抑えつけていたものが取っ払われるのだろうか? 
それとも丸山先生ご自身もよく言われるように、天災に乗じて国家が好き勝手に抑えにかかる方向に進むのだろうか?

「断固たる民意という列柱」という言葉も重い。今の日本のように望ましくない国家を支えているのも民意なのだろうか……と。


断固たる民意という列柱によって支えられた
国家的な目標という大屋根が取っ払われたせいで
個人の自由を留保しつづけてきた権威主義が溶解し
情熱的にして騒然たる時代の幕開けが強く予感され、

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻323頁)

次の引用箇所。
ラジオを見つけた青年がスイッチを入れても何も聞こえてこない……という場面。
まさに今の日本絶望をそのまま語っているような文だと心に残る。

つまり、

真っ当な希望に裏付けられた至高の統治者の登場など夢のまた夢でしかない
無定見にして無節操な経済力に支えられ
無知の代償としての間断なき堕落にさらされていたこの島国は、

可死的な存在という色合いに塗りこめられて
人間における反動物的なただひとつの側面である
無気力という精神上の危機を迎え、

各人がおのれの持ち場を放棄するという反社会的な自殺によって
未来を拒否する弱小な国家に成り下がってしまったのかもしれず、

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻341頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月21日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

かけ離れた語と語なのに、ぴったり結びつく比喩の愉しさー

丸山先生に比喩のことを何やら訊いたとき、「これからもどんな比喩が生み出せるか挑戦はずっとつづく」的なことを言われていた記憶がある。

丸山先生の考える思いがけない比喩を目にすると、日常のグダグダした思考からバッサリ切り離してくれるようで、私は爽快感を感じる。

でも比喩のウルトラCに「ついていけない」という思いの読者も多くなってしまったのかもしれない。

ただ「黒死館殺人事件」の中で、小栗虫太郎もギリシャの哲学者の言葉として「比喩には隔絶したものを選べ」と書いている。

結びつかないものを言葉の力で結びつける発想力……が、詩歌や散文を読んだり、書いたする楽しみの一つだと思う。

残念ながら、実用的な文章読解力要請を目指すという昨今の国語教育を受けてきたり、心地よくストレートに感動できるアニメだけで育ってしまうと、こうした比喩の面白みが分からない人が多いのではないだろうか……と残念に思う。

私も理解できたとは言えないけれど、丸山先生ならではの比喩に心惹かれ、答えは出ないけれどなぜこうなるのだろうと、せっせと駄文を連ねる。

さて以下引用部分は、津波から助かった青年の心境が海辺へと降りてゆく途中でだんだん変わる過程を書いている。

「急務でも背負う」と「こけつまろびつ」でよろよろ海へと下る姿が浮かぶ。

「危ない状況から生まれた忌まわしい怪物」で津波に衝撃を受けた青年の姿が見えてくる。

「はてさて、」で軽やかに風向きが変わる。

「発酵状態にある」「良識」も「有機的な」「心情」も目にしない語の組み合わせなんだけど、こうして結びつけると強く頷ける表現。

「ありうべからざる」と「正しい位置」の組み合わせも強烈に心に残る。

「死者と」「紙一重の」「倦み疲れた心身の持ち主」も新鮮な言葉の組み合わせだけど、思いがひしひしと伝わってくる。

「サンドブラストに掛けられた鉄錆のように」「きれいに滅しかけたのだ。」という組み合わせも鮮やか。
サンドブラストで始まるこの一文が好きなので、今日の文を書こうと思った次第。

すると、

あたかもより本質的な当面の急務でも背負うかのようにして
こけつまろびつしながら海へと近づいて行くおれ自身が、

かくもふさわしい状況のもとで
実在の一定の調和を保っているかのように思え、

さもなければ
危ない状況から生まれた忌まわしい怪物にでもなった気分で、

はてさて、
その根拠についてはまるで想像つかないのだが
少なくともかつては存在しなかった人生の幸福な瞬間を感じていることは確かで、

発酵状態にある良識と同様
常に有機的な心情を胸に忍ばせながらも
これまで疎んじられてきた穏やかな感情が勝手にぐんぐん膨張し、

ついで、

存在の基準を自己のうちに持つゆるぎない立場がはっきりと自覚され、

共存不能なものなど皆無であることがつくづくと思い知らされ、

どこまでも意味に即した迫真の観念が充分にありうるものとして解釈され、

連綿とつづく精神性の上昇発達がとてもあざやかに認識され、

ありうべからざる正しい位置につけたような心地になり、

きのうまでは死者と紙一重の倦み疲れた心身の持ち主だった記憶が

跡かたもなくかき消され、

かくして、

苦痛と死をもたらす人生最後の問題にはありがちな
精力を消耗するばかりの息が詰まる思いも、

サンドブラストに掛けられた鉄錆のように
きれいに滅しかけたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻287頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月20日(水)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ー平仮名の副詞を多用するか、漢字を多用するかで文体の印象が違ってくる気がするー

大津波を逃げのびた青年が、周りに生者が誰もいない状況で、徐々に落ち着きを取り戻して物思う場面。

このとき青年の心を駆けぬける思いの数々、
「国家にがんじがらめに縛りつけられていない」
「集団社会がもはや成り立っていない」
などは丸山先生が大事にされている考えとも重なる。
災害ですべてが崩れたとき、こうした考えが蘇るかどうかはわからないが、でも心に響く言葉だと思った。


引用箇所は同じ箇所からだが、途中で色を変えてみた。
写している途中で、前半、後半で文体が少し違うかも……という気がしたのだ。

前半紫字部分は「きれいさっぱり」「がんじがらめに」「もはや」「あっさりと」などの平仮名の副詞が文の色合いを深め、スピード感を増しているような感じがした。

後半赤字部分は、多用されている漢字のせいで、しっかり確立してゆく精神が表現されている気がしたのだが……。

ひいては、

自由を支配する普遍的な秩序がきれいさっぱり消え失せていることに気づき、

がっちりと形成された国家にがんじがらめに縛りつけられていない立場を思い知り、

個人を堕落させて窒息させる集団社会がもはや成り立っていないことを発見し、


さらには、

これまでしがみついてきた歪みのない尺度のあれこれをあっさりと棄て去り、

再評価すべき頑強な精神力に期待したくなり、

辺鄙な土地でくり広げられる粗雑な人生がそうでないものに感じられ、


そして、

野蛮な状態へ投げこまれた無用ながらくたという自覚がすっかり影をひそめ、

精神の存立に必要不可欠な感覚的世界が一段と輝きを増し、

孤独への倦怠を恐れながらも自己に専念することが可能に思え、

思考の細部の価値を捨象する作用が働き始め、

生の糸を切断しかねない無力感の残渣がすっとかき消えたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻235頁)



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さりはま書房徒然日誌2023年9月19日(火)

藤原龍一郎「歌集 202X」を少し読む

ー社会への大きな問いかけ、近未来或いは現在を語るSF的物語性に富んだ刺激的な歌にドキリとするー

2020年に刊行された歌集。

現代の日本の状況を糾弾し、読み手に大きく問いかける歌であふれている。

折にふれて頁をひらいては、鈍磨しがちな情けない己に喝を入れたくなる……そんな刺激的メッセージに富んだ歌集である。

短歌がこんなに社会に問いかけてくるものだとは……福島泰樹先生の歌にも、藤原龍一郎氏の歌にもメッセージ性の強さに驚く。

監視されている不気味さのある現代社会を詠んだ幾首かの歌、お洒落だけれど不気味さのある装丁(真田幸治)がとてもマッチしている。

ちなみに真田幸治氏が、こんなに不気味感のある装丁をされるとは思わなかった。でも不気味だけどセンスのいいところは、さすが真田幸治氏だと思う。

以下藤原龍一郎「202X」より引用
監視社会への懸念、問題意識がひしひしと伝わってくる。

夜は千の目をもち千の目に監視されて生き継ぐ昨日から今日 (11頁)

明日あらば明日とはいえど密告者街に潜みて潜みて溢れ (11頁)

詩歌書く行為といえど監視され肩越しにほら、大鴉が覗く (17頁)

スマホ操る君の行為はすでにしてビッグ・ブラザーに監視されている
(52頁)


反知性、思考停止の隷従の君はビッグ・ブラザーに愛されている (53頁)

上記引用の歌のなかでも、「肩越しにほら、大鴉が覗く」という結句の歌について……。

ポーの大鴉からくるイメージ性で心象風景が広がり、さらに「肩越しにほら」「覗く」で不気味さ、黒いユーモラスが際立つ。
「、」の句点で思わずドキリとする。
不気味だけれど物語性に富んだ歌だと思う。


この歌集については、まだ語りたいことは多々。それはそのうち後日に。

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さりはま書徒然日誌2023年9月18日

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

➖天気の急変の描写に社会への思いを重ねた比喩の面白さ➖

大津波から助かった青年が見つめる星空の空模様が、だんだんあやしくなってゆく。

天気の移り変わりにかぶせるようにして、あっけなく崩壊してゆくこの世の思想のあれこれを列挙して畳みかけてくる。

そうした喩えのイメージから聞こえてくる音、伝わってくる不穏な気配が、雷雲が近づく空模様と重なって読み手の心に揺さぶりをかける。

喩えの一番最初に「政府なき自由」がきている。
個人がそっと心の中で国家に背を向ける「国境なき意思団」という考えが大切……とよく語られる丸山先生らしいと思う。

あれほどまでに澄みきって晴れ渡り
流星群が光の鎖をなして降り注いでいた
深い瞑想による清らかな暮らしをどこまでも支えてくれ
単独の人間の行為のうちにいつまでも安んじていられそうな夜空が、

政府なき自由が嵐を巻き起こすという、

魂の炎さえ絶やさなければ恒久的に生を燃え立たせられるという、

真に恐るべきは群衆のなかの一員に堕することであるという、

辛抱強く待ち望めば道徳的な生活は実現するという、

人の心の善良性は思うがままに疾走するという、

精神の欠如によって命の影が薄まるという、

理性に反する美は死に絶えるという、

体勢への順応主義は去勢されるという、

悪が生の揺籃の役割を果たすという、

そうした種概念の
得手勝手な主観の持つ理念のように
どんどん怪しくなっていった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻171頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月17日(日)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

➖怒れども文に美しさが残る理由➖

大津波で助かった青年が矛盾だらけの社会に見切りをつけ、一歩踏み出す場面。

丸山文学の魅力の一つは、ふだん不平不満に思っている社会への怒り、疑問を、丸山先生が見事に言葉にしてくれる点にもあると思う。
こんなに私の怒りを代弁してくれる書き手は余りいない気がする。

ただ「次の自民党総裁にふさわしいのは?という世論調査の一位が小泉進次郎、二位が石破茂、三位が河野太郎」という時代である。
以下、引用箇所を読んでも、まったく心に響かない人の方が多いのではないだろうか?
たぶん圧倒的に読む人が少ないだろう状況でも、ビシッと書いてくれる姿勢に感謝する。

それから、
途方途轍もない不平等な状況がもたらす
ただただ落胆するほかない徒労感でいっぱいの
たわいのない老衰した社会と、

前世紀に一大勢力を築き損ねた帝国の悪夢に未だ毒されている愚民たちの
あまりに強過ぎる民族感情こそが却って国家の価値を低めるという
常識中の常識を無視した
命取りにもなりかねぬ品性のいやらしさを持て余したあげくに、

自由の精神を窒息させる異様に肥大した非人間的な機構に愛想を尽かし、

特権階級の奉仕者たちときっぱり袂を分かち、

欲望を騒然とさせるしか能がない都市景観に見切りをつけ、

政治的幻想でいっぱいの不毛の領域に別れを告げ、

絶対者をあっさり容認してしまう大衆の理性に背をむけ、

文明と人種の運命を決定する痛ましい危機を予感し、

停滞期に入って久しい人知の全部門から身を離し、

寄る辺ない身の上を恐れるにはおよばないと決めつけた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻162頁)

ただ、こういう内容の文を私なんかが書くと主義スローガン調になって、散文の面白さが消えてしまいがちで難しい……と思う。

「我ら亡きあとに津波よ来たれ」言いたいことは心に残るようにしっかり伝えられつつも、散文の美しさが残っている理由を考えてみる。

「途方途轍もない」と大袈裟に、漢字の圧力で不平等感を強調されている気が。

「たわいのない」と「老衰した」が「社会」にかかっているのも、どんぴしゃりと死にゆく社会のどうしようもなさを巧みに表現している感がある。

「絶対者をあっさり容認してしまう大衆の理性に背をむけ」という文も、「あっさり」という一語から、丸山先生の感じている歯痒さ、苛立ち、皮肉が伝わってくる気がする。

憤りを書く時であっても、こんな風に言葉と言葉を見えないところで複雑に結びつける冷静な視点が働いている。
それが読む者の心をグラグラ揺さぶるのではないだろうか?

それから、特にこういう文を書くとき、難じる分だけその人の心根が上から目線とか、はっきり見えて嫌になってしまうことがある。

丸山先生の場合、「痛ましい危機」の「痛ましい」に、「寄る辺ない身の上を恐れるにはおよばない」という文中の「寄る辺ない」に、寄り添おうとする気持ちを感じるから、しみじみと心打たれるのかもしれない。


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さりはま書房徒然日誌2023年9月16日(土)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ー寄せては返す波のうねりのような文体を愉しむー

丸山先生はよく「散文は本当は詩歌に劣らず凄いものなんだ」と悔しそうに言われる。

下記の引用箇所に、私でもそんな散文の凄さを感じた。

読み手がチラ見で理解できるようにと思うなら、「命拾いをしたようだ」「だんだん穏やかになる波の音が聞こえてきた」とワンフレーズで書くかもしれないが。

丸山文学に慣れていない人のために引用箇所ごとに色分けしてみた。最初の紫の引用箇所は、平板に言うと「命拾いをしたようだ」と言う箇所である。

紫の引用部分を読むときの私の心を追いかけてみた。
「心の投影」でウーン、どんな心だろう……と考える。
「おぞましき獄門」でさらに考えはじめる。
ぼんやりした頭を「ぴしゃり」という言葉が襲いかかる。この「ぴしゃり」が効いているなあと思う。

やがて、

命へのひたむきさをもう一歩押し進めて
とうてい人知のおよぶところではない溌剌たる生気を急速に回復し
生者の不可逆的な時間の流れに乗れるところまでどうにか漕ぎつけ、
一種謎めいた物言わぬ動物にでもなった心地で
ふたたび現世の魅力に惹かれてゆくうちに、

詩美にいちじるしく欠ける
心の投影としての
おぞましき獄門が
ぴしゃりと閉じられた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻128頁)

以下、赤字の引用箇所は津波から助かった青年が、だんだん穏やかになる波音を認識する箇所だと思う。

丸山塾での指導されるとき、先生は同じ言葉の使用を嫌う……と言うより許してくれない。
語彙貧弱な私はすぐに言葉が出尽くしてポカンとすることもしょっちゅうだ。
そういうとき丸山先生は優しく、まるでドラえもんのポケットのように、「こんなふうに言うことができる」と惜しみなく秘密の言葉の武器の使い方を教えてくださる……。
そんな丸山先生の講義を思い出してしまった。

ここでは、まず波という言葉が手を変え品を変え、「音波」「音韻」「懐かしい声」と繰り返される。

次に「〜でなく」と否定する形で、「幸福の残骸の摩擦音」「過去のこだま」「絶望の叫び」「良心の叫び」ではない……と否定してみせる。

そして「笑い声」「百千鳥の合唱」「独言」「薄幸のため息」と比喩をパワーアップさせてゆく。

肯定の比喩、否定する形での比喩、さらにパワーアップした肯定の比喩……と文を展開させながら波を表現してゆく文体は波のうねりそのもののようだ……
と、ここの文体に心地よくなる理由を考えてみたが、どうだろうか?


さらには、

失地回復のための魂の自殺をうながす
霊妙なる楽の調べのような
度が過ぎるほど抗しがたい音波に魅了され、

純粋な個人を不断に干渉する音韻にじっと耳をかたむけているうちに
常に危険に身をさらして生きる動物的な精気から一挙に離脱するという
思ってもみなかった鎮静の効果が得られ、

ほどなくして、

心を許した血縁者がおれの名を呼ばわる
なんだか懐かしい声のように思え、
星を頂いた天空の処々方々に
万物は神の影などではないとする
そんな自己発揚の楚然たるきらめきが
無数に星散しているのであった。

だからといって、

過去に呑みこまれてゆくばかりの幸福の残骸の摩擦音というわけではなく、

幽界の人となった者が聞くという過去のこだまでもなく、

飽和点を超えた絶望の叫びでもなく、

ましてや俗耳に入り易い良心の呼び声などでもなく、

むしろそれとは真逆の、

野に遊ぶ小娘たちの切れ切れな慎ましい笑い声や、

常夏の国を想わせる風光のなかでくり広げられる百千鳥の合唱や、

行方定まらぬ二重の意識を持つ屈折者の独言や、

いかな悲しみであっても共有できそうな薄幸のため息……、

そういったものに近く、

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻129頁)

国語教育が実用的な文の理解に重点が置かれるようになった今、こういう文の愉しさを理解する人は非常に少なくなってきているのではないだろうか。
そんな現状を寂しく思う限りである。

それから「星散」(せいさん)という言葉、意味は日本国語大辞典によれば「星が大空にまいたように散らばっていること。転じて、あちこちに散らばること」……なんとも綺麗な日本語だと思った。


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さりはま書房徒然日誌2023年9月15日

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ースッとは分からないけれど、読んでいるうちに心にリズムが生まれる不思議な文体ー

丸山文学を読み始めた当初……

漢字の読みも、意味も分からない言葉があったり(しかも私の場合は結構たくさんあった)、他の作家のなるべく読みやすく……という親切心で書かれた作品とは違って、深い意味を理解するまで、何度も往復して読みを繰り返したり……したものだ。

いや、今でもそうである。

でも多少意味がわからなくても読んでいれば、不思議にも心地よいリズムが生まれてくる。

丸山健二塾で指導を受けているとき、「の」の繰り返しが三回になってしまったことがあった。
文芸翻訳を勉強していたとき、翻訳家から三回「の」を繰り返すな……と教わった記憶がある。
丸山先生に「の」が三回ですがいいのですか……と質問したところ、先生はニヤリと笑って「五回『の』を繰り返すことだってある」言われた。

原著者の言わんとするところをなるべく正確に近い文体で分かりやすく伝える翻訳……。
文体のリズムに自分の叫びを刻もうとする丸山先生の散文への姿勢….
小説の翻訳と創作、両者は根本的に違うのだなと思った。

東日本大震災の被災地を実際に見てから数年後の丸山先生の叫びは、やはりこの文体なのだろう。
ちなみに当然ながら私の叫びはまた全く違う文体なのである….これが散文を書いたり、読んだりする面白さなのかもしれない。

以下の引用箇所は、最後の長編小説「風死す」に発展してゆく文体のような気がする。

丸山文学初めての方のために、内容で色分けしてみた。


紫の部分は、大地震の余震の凄まじさを書いている。
赤字部分は、地震によって否定されてしまう人間らしい諸々を、繰り返し連ねている。
読み慣れるとこの反復によって、リズムが、イメージが生まれてくる。

そのあとを継ぐ、

あたかも
ありったけの元素を強引に融合させてしまうかのごとき
とてつもなく重量感にあふれた大混乱をもたらし、

目もくらむような恐怖を差し招いて
空想上の歴史の到達点を現実のものとしたのかもしれぬ、

永遠の因果律を支える
非人間的で悪魔的な自然界の発作的な大激怒は、

いよいよもって人類滅亡という幻日が昇ったかの観を呈しつつ
およそ生命原理の根底からの崩壊を免れそうにない
恐ろしい必然に支えられた無限なる不幸を象徴し、

さらには、

神仏の意思をはるかに超えて
細心綿密に組み上げられたこの惑星が
無何有の郷には遠くおよばず
結局は砂上に描かれた要塞でしかなかったことを冷ややかに証明し、

また、

自分にできないことはないと高言してやまぬ
断然強い守護者という幻の存在を
にべもない解釈で斬って捨てたあと
陰鬱な後味を残す嘲笑に付し、

それから、

正義の原則なるものを、

我らを導く愚かな期待を、

共通の基盤に立つ世間の通念を、

形而上の世界と気脈通じる最良の日々を、

単に墓に下る者ではない人間らしい人間としての生涯を、

かけそき楽の音のごとき詩的香気を放つ言霊を、

万人のうちに本性的に具わる隣人愛を、

真っ正直に澄みきった知性を、

心を明るく照らす生きた力を、

良く生きるための崇高な善を、

慈悲深い美的行為を、

油然と湧いてくる詩想を、

醜怪な幻として

もしくは
慢性の凶器として
情け容赦なく斥けた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻100頁)

よく分かったとは言えないけど、リズムを感じながら読み進める……という読み方に丸山文学で慣れたせいだろうか。
今度、素天堂さん追悼読書会の課題本「黒死館殺人事件」も筋をよく把握していないけれど、読んでいるうちに不思議なリズムが心に生まれる過程を楽しんでいる気がする。

引用箇所に出てくる「無何有の郷」(むかうのさと)とは、日本国語大辞典によれば「物一つない世界の意味」で荘子に出てくる「架空の世界sw、無意・無作為で、天然・自然の郷。むかゆうきょう。ユートピア」だそうだ。
初めて知った。日本語の豊穣なることよ。

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さりはま書房徒然日誌2023年9月14日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに 津波よ来たれ」上巻を少し読む

ー様々な色が一つの人格をなす人間はステンドグラスさながらの存在ー

丸山健二塾でご指導頂いているときに、「この人物はすごく嫌な人間なのに、そういう風に表現すると嫌な部分が減ってしまうのでは?」と質問をしたことがあった。

丸山先生は「こういう人間だ……と決めつけて書くのはすごく古い書き方で、色んな矛盾をはらんだ存在として書くべき」というようなことを答えられたと思う。


丸山作品を読んでいると、やはり一人の人間の中に色んな面を見いだそうとする視点を感じる……。

たとえば「我ら亡きあとに 津波よ来たれ」で、大津波にのまれて三日間さまよいなながら、主人公が己を語る言葉も実に多様な姿を映している。

そんな自分のことを、

無責任な影法師に見せかけたがるやくざな根なし草、

あらゆる無法な特権が許される狂人、

他人に嫌悪を催させる
情の深い清廉な人物、

自身が国家であるという普遍的な叫び声を発する
熱烈な激情を秘めた道化役者、

青春の日は翳ってもなお心湧き立つ
反逆的な激情の持ち主、

どこまでも楽な暮らしをしたがる
根性の腐った奴、

常に万人と共に在る
夢見るような自由人、

それほど厄介ないつまでも超脱できない自分自身にのみ服従する
真っ正直と言えば真っ正直な無能な人種へと、

安産の過程のごとく
じつになめらかに移行してゆくのだった

(丸山健二「我ら亡きあとに 津波よ来たれ」上巻75頁)

人間とはステンドグラスのように様々な相反する色をはらみつつ、調和して生きる存在なのかもしれない。

写真は2枚とも、パリのノートルダム大聖堂のステンドグラス。

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