さりはま書房徒然日誌2023年10月3日(火)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ーなんとドッペルゲンガーを見ている青年は自殺していた!
ということは、どっちがドッペルゲンガーやら?=

津波を生きのびた青年が、自宅で見つけた男の死体。それは自分のドッペルゲンガー。土中に埋めた筈なのに、いつの間にか復活しているではないか!
ドッペルゲンガーと対峙しているうちに、男は自分の過去を思い出す。

自殺したこと……。
辛い母子家庭の境遇……。

なんと、この青年は自殺していたのか!


すると幽霊が、幽霊のドッペルゲンガーを見ていることになるのか?
どういう展開になるのだろうか?

先は分からないながら、自死したことを思い出した青年の幽霊が、ドッペルゲンガーと向かいあう場面
これも一つの長い文、ワンセンテンスである。

前半の、青年の幽霊がおのれのドッペルゲンガーを語る言葉は、どこかユーモラスに観察している気がする。

「見かけだけは完璧なまでにおれ自身」
「そら音を吐くことが上手そう」
「至れり尽せりの環境でもって促成栽培」
……と突き放して、辛辣に自分のドッペルゲンガーを観察している。

それが段々非難めいた口調に移り変わってゆく。
「言語道断」「恩知らず」「からかうような挙」「面当て」「嫌味ったらしい芝居」と厳しい。

「第二幕」を語るあたりから、青年の幽霊はおのれのことを
身に覚えのない異界への参入を余儀なくされた ただひとりの観客」
とかなり被害者めいた意識で捉えている。

ドッペルゲンガーには「罪多くして死に至ったのかもしれぬ己を棚に上げ」と辛辣である。

文の最後は「自死を決意する直接の引き金」「冷酷無比に模写しよう」と次の暗くなりそうな展開が仄めかされる

一つの文の中で、トーンがユーモラス、非難がましい、被害者めく、辛辣と変わってゆく。

丸山先生から指導を受け、丸山先生の文にはたまたまそうなった……ということがないと知る。

丸山先生は隅々まで考えて言葉を選んでいる。
たとえ私をはじめ、殆どの読者が気がつかなくても絶対に手を抜かない。
そこから緊張感が生まれ、作品を引き締めているように思う。

さて、

今や見かけだけは完璧なまでにおれ自身である、

肩をそびやかしながらそら音を吐くことが上手そうな、

ちゃんとしたおとなに諭されているそばから大はしゃぎするような、

至れり尽せりの環境でもって促成栽培されたかのごとき、

二十歳そこそこの若造はというと、

死から復活して生を為す者を装うだけでも言語道断だというのに
恩知らずにも
埋葬してやった者をからかうような挙におよび、

ともすると山頂にそっくり移設させた建造物のように思えてしまう
大津波に押し上げられた漁船を舞台に見立てて、

そっとしておいてやりたい亡霊個人の活動の範疇をはるかに逸脱した
まったくもって面当てとしか思えぬ
目を背けたくなるような
嫌味ったらしい芝居をだらだらとつづけ、


それだけならまだしも、

いい加減にしてほしい
その第二幕においては、

おのれ自身との調和を達成できるという
かなり明確な世界観に至っていたにもかかわらず
身に覚えのない異界への参入を余儀なくされた
ただひとりの観客に
さらなる苦渋を与えんがために、

気随気儘な生により罪多くして死に至ったのかもしれぬ己を棚に上げ、

憂慮すべき歴程としての
つまり
自死を決意する直接の引き金となった直前のこのおれのありようを
冷酷無比に模写しようと
大づかみながら明晰な熱演を繰り広げていた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻133頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月2日

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む
ーこの世のものとは思われない風景が見えてくるような文、そこには作者の姿も見えた!ー

旧ツィッター(エックス)のフォロワーさんのなかに、毎日、朗読の練習をされては、どの箇所が、なぜ面白いのか考えて、投稿文を書かれている方がいる。

お若い方なのに偉いなあと思う。

私なんか若い頃は本の感想を聞かれても「面白かった」としか言えず、「どこがどんな風に面白いのか具体的に説明しなさい」と叱られたものだ。

今でも、いいなあと思った箇所があると、こうして写したりしているが、なぜいいと思ったのか……問われると答えにつまるところがある。

「いいと思ったからいいのだ」と答えたくなるが、お若いフォロワーさんがきちんと自分の言葉でいいと思う理由を説明されている姿に、「いけない」と反省する……。

さて引用文は、「心のぼろ船」で精神の旅に出た青年の心の旅を語る文。

長い文である。これで一つの文である。文そのものが旅しているような文である。

真ん中くらいの箇所「浮き世の波のまにまに漂よいながら」という一帯に、この世には実在しない風景がいっとき見える気がする……。
そんな視覚に訴えてくるパワーを感じて心惹かれた。
読んでいる方も、旅しているような錯覚に誘い込む文である。

そしてこの文には、丸山先生自身の姿も色濃く反映されている気がする。

「人類の御世が」から「不滅性」までのの嘆きや感慨は、丸山先生の思いそのものではないだろうか。

「そんな複雑怪奇な つかみどころのない世界のなんたるかを知りたくて」という言葉も、丸山先生の心からの叫びのような気がする。

「単なる傍観者であり目撃者であるにすぎぬ 自称<自由の回復に関する精通者>にして<傑出の詩人>という青年の姿に、丸山先生の姿が重なるようで感慨深く読んだ。

しかし写すだけで疲れる長い一文である。この文を書くのに、丸山先生はどれだけ言葉と想いの火花を散らされたことだろうか……。

さらに、

滑走とも言うべき奔放な推進の作用と反作用を存分に弁え
だしぬけの座礁や嵐による転覆や不注意がもたらす船火事といった
悲惨きわまりない遭難をとっくりと覚悟しながらも、


あるいは、

人類の御世が終わりを告げつつあるという認めがたい現実や、

世相を如実に活写する言葉などはもはや無用であることや、

偽装された不純な時代の終焉や、

今やすっかり色蒼ざめてしまった晴朗の世や、

人間の所業とは思えぬ行為と常に境を接している事実や、

天空の高みに息づいている不滅性といったことなどを、

それこそ充分過ぎるほど承知しつつ、


それでもやはり、

一方においては
色とりどりの多様性に満たされていることによって
ときとして美的作用が導き出されることもあり、

他方においては
万物をつかさどる自然の摂理によって
生類たちをその台座ごと打ち倒すこともある、

そんな複雑怪奇な
つかみどころのない世界のなんたるかを知りたくて、


もしくは、

聴く耳だけを持ち
どこまでも受動的な存在でしかない
騒乱のうちに影のように座している絶対者の幻影にいざなわれて、

浮き世の波のまにまに漂よいながら
ときおりじれったげな罵声を発して
うららかな朝空の下に満ちる静寂を乱したり
沈みゆく太陽のバラ色の頂を穢したりするばかりの
単なる傍観者であり目撃者であるにすぎぬ
自称<自由の回復に関する精通者>にして<傑出の詩人>は、

そのさすらいの最深の根底に
きっと喜ばしい何かが横たわっているものと確信し
苦い経験と甘い経験が相まって最善の答えを出すものと盲信して、

まるで肉欲のはけ口が見つかったときさながらに
瞳をらんらんと燃え上がらせ、

際限のない破壊という
最も顕著な結果に支配された
現世という大海原に乗り出し、

あとはもうよくなるばかりという崇高な宿命を予感し
「いかなる命も必ずや実り豊かな成果をもたらす
それが自然の法則というもの」
などと口走りながら、

どんな啓発も厭いはしない
終わりなき漂流を始めていたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻82頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月1日(日)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー「心のぼろ船」の航海を喩える言葉に心惹かれてー

引用部分の半分以降、「心のぼろ船」の航海の喩えに心惹かれる。

思いもよらない語と語の結びつきを文の中に幾度も見かけ、そのあとには言葉によって刺激された私の意識が以前とは違った速度で流れている。

「擦り切れてゆく命によってすっかり錆びついた怒りを揚げ」とか、

「永遠の逼迫という残酷な型で打ち抜かれた人生の港」という表現もとても好きである。
ぼんやりとしか分からないながら、人生とはほんとうに辛くシンドいもの……と思えてくる。

「流動の波紋を描く生のしなやかな発露」も「流動」「波紋」「しなやか」も斬新な組み合わせながら、不思議とイメージが重なり合う表現だと思う。

「今を盛りとはびこる破局の毒針」も「今を盛りとはびこる」「破局の毒針」という語の意外な組み合わせに、切なくなってくる。

それにしても、どの表現も「五文字」「七文字」が多い。「五」「七」は、日本語の表現で魔法の響きを生み出す数字なのだと思う。

ために、

過ぎた日を語ろうとも思わず
いかなる状況におちいっても無限を志向してやまぬ性情という
どうして今の今まで気づかなかったのか不思議でならぬ
これに過ぎたるものはない有利な一面を自認したおれは、


生きてもいなかったし死んでもいなかった失意の立場を放棄し
この世との懸念に満ちた和解を放棄すべく、

度を越えたものにただならぬ愛着をおぼえ、

より真実らしい響きを持った言葉への激しい反発をおぼえ、

悪の最たるものとしての理想的満足をおぼえる、

おのれの命の主人たる詩魂のみを乗せた
放逸のための時は成就したと言わんばかりの心のぼろ船を
どうにか出航させようと意を決し、


ほどなくしてそれは、

空々しい日々のなかで擦り切れてゆく命によってすっかり錆びついた錨を揚げ、

永遠の逼迫という残酷な型で撃ち抜かれた人生の港を離れ、

おのれの運命に絶えず付きまとう不安の雲気を追い風にして帆走し、

どんどん迫ってくる重苦しい現実の決定的な超克を得るという目標を掲げ、

流動の波紋を描く生のしなやかな発露に導かれ、

今を盛りとはびこる破局の毒針を巧みに避け、

言葉にならない言葉を発しながら快適な軌道上をするすると滑り、

沈黙の語らいを天体の輝きに覆われた夜を音もなくよぎって行った。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻80頁)

丸山先生が書く津波後の国家が崩壊した世界。

実際、関東大震災後は「法に拘束される者は皆無」となったせいで流言飛語、虐殺が起きたわけだ。

だが本書では違う方向に展開しそうな気もする。果たして、どうなるのだろうか?

維持されつづける富者の支配体制に貧者が馴致されつづけるという
所詮は金の番人でしかない国家の均衡を大きく破れたせいで
権力の崩壊と死滅を望む神聖な性格を帯び
圧政に反逆して単身闘う者がかもすような雰囲気に呑みこまれてゆき、


つまり
服従と忠誠を要求できる決定的な役割を持つ者はいなくなり、

厳密に言えば
法に拘束される人間はもはや皆無となったにちがいなく

((丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻72頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月30日(土)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ードッペルゲンガー君も慣れると親しみがわくみたいだー

津波を生きのびた青年が無人の被災地をさまよい、自宅にたどり着けば、寝台に横たわる裸の男。
男は死んでいた。
しかも自分のドッペルゲンガーだった。
青年はドッペルゲンガーを地中に埋めた。
だが、ふと気がつくつと丘に乗り上げた船のマストの上に、ふたたび砂まみれのドッペルゲンガーがいた……。

以下、緑の引用部分はドッペルゲンガーを眺め、観察し、最後には呼びかける……という情景を描いた一つの文

引用部分の中でも、「吹きつのる爽快な風にすっかり心を奪われて、見張り台の上から色鮮やかな罪が世界を睥睨し」という言葉に心惹かれる。

「吹きつのる爽快な風」で五七ではないか!

「色鮮やかな罪が世界を睥睨し」も七七五ではないか!
「色鮮やかな罪」とか「色鮮やかな悪」とか「色鮮やかな恋」を練り込んだ短歌をつくってみるのも面白そう……と、まずこの部分の表現に目がゆく。

せっかくだから、この長い一文を写してみようと思い、入力すると、読んでいときはスルーしていた部分も心に引っかかってくる。

ドッペルゲンガーにもだいぶ慣れたのか、呼び方も「そ奴」と親近感がある。

ドッペルゲンガー体験も「面妖なこと」とどこかユーモラスに言い聞かせている。

「いろいろさまざま」と似たような言葉を平仮名で繰り返すことで、本当に無尽蔵にある感じが出ている。

少し青年は無理をしているんだな……という文がリピートされ「平静さを装い」のあと、「吹きつのる爽快な風にすっかり心を奪われて、見張り台の上から色鮮やかな罪が世界を睥睨し」という文に心がスカッとする。

「その肉体からその霊魂から全部ひっくるめておのれの死を愛し」というフレーズも、「その」の反復で全部という感じが強く伝わり、「おのれの死を愛し」という言葉がグサリと心に突き刺さる。

ドッペルゲンガーを語る「神の伴侶を自任しそうな やんごとなき身分の愚者にも似た相手を、」という面白い言葉に、どんな存在なのだろうと思わず立ちどまって考えてみたくなる。

「振り仰ぎ」の箇所……
丸山健二塾の個人レッスンで私の「仰ぐ」という言葉を、「振り仰ぐ」と訂正された後、丸山先生は「『仰ぐ』とだけ書くより『振り仰ぐ』の方が動きが出ます」と言われていた……と懐かしく思い出す。
たしかに動きが出る。

長い文の最後、「それでも、おれはおれなんだ!」「で、おまえは誰なんだ?」とドッペルゲンガーとの対話はどこかユーモラスでもあり、谺のようでもあり……と思いつつ、長い文を読み終える。

色々ちまちまと語ったが……。
今年4月から受講している福島泰樹先生の短歌創作講座では、いきなり他の受講生の歌についてどう思うか、三十一文字の世界について感想や意見を求められる。

三十一文字について、私はまだ思うように語れない。

でも他の皆さんは歌の内容だけではなく、語彙や表現の可能性、文体について感想をさっと言われる。

小説の批評で、語彙や表現、文体についてのコメントを目にしたことは余りない気がするが……。丸山先生の作品は短歌的視点で語ってみたくなる……舌足らずの近眼的視点だけれども。

さりとて、

絶対に説明の要があるそ奴の復活を気にもとめずに放置したり、

世の中にはそんな面妖なこともあるのだと自分に言い聞かせて黙許したり、

容認しうるいろいろさまざまな現象に無理やり分類したりするわけにもゆかず、

そこで、

ひとまず恐怖心のたぐいを残らず取り下げ、

不平をもたらすほど肝が据わっている者を演じ、

おのれの勇気を頼みとし過ぎることによって直面する危機を自覚し、

あたかも再々あることだと言わんばかりの平静さを装いながら、

吹きつのる爽快な風にすっかり心を奪われて、
見張り台の上から色鮮やかな罪が世界を睥睨し、

その肉体からその霊魂から全部ひっくるめておのれの死を愛し
神の伴侶を自任しそうな
やんごとなき身分の愚者にも似た相手を、

半信半疑のまま
いや
頑強な対立者として
多少の敬意を払いつつ
振り仰ぎ、

そして、

別段挙動不審というわけでもない侵入者に
さらなる好奇の眼差しを向け、

「それでも、おれはおれなんだ!」
と言い張れる自分をはっきり感じつつ、

ずばり
「で、おまえは誰なんだ?」という
当然至極の質問を投げつけてやった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻11頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月29日(金)

藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」を読む

短歌とは「五七五七七」としか知らず、福島先生の短歌創作講座を受講したのが今年四月。

たしか福島先生はこう言われた。
「短歌という詩型の歌う主体は、宿命的にこの<私>である。この一人称詩型短歌の<私>を逆手にとり、「不特定多数の<私>」に降り立つことができる」
そんなことができるのか!……と、この言葉が強烈に印象に残った。

「不特定多数の私の視点におりたつ」という考えで歌をつくると、文楽人形の気持ちになったり、関東大震災で自警団に惨殺された青年の視点になったり……自由自在に万物になった気分で、とりあえず楽しく歌もどきを詠むことができた。

藤原氏は、「不特定多数の視点におり立つ」という福島先生の短歌を三人称短歌として語られている。

福島泰樹の短歌の世界でのポジションが微妙に変化をみせ始めるのは、次の歌集『中也断唱』(1983年、思潮社)以降である。つまりこの時期から福島泰樹は活字メディアのみの現行為にはあきたらず、ライヴ即ち短歌絶叫という新たなジャンルの創造に挑み始めたからだろう。
 これは同時に、ある特定の存在に成り変わって詠うという三人称短歌の実現の過程でもあった。

(藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」109頁)

藤原龍一郎氏は、この文の次に福島先生のこの三首を紹介している。
哀切な響きと地名が心に残る歌である。

ゆくのだよかなしい旅をするのだよ大正も末三月の事

さなり十年、そして十年ゆやゆよん咽喉(のみど)のほかに鳴るものも無き

中也死に京都寺町今出川 スペイン式の窓に風吹く

(福島泰樹)

福島先生は毎月一回10日に短歌絶叫コンサートを開催されている。
絶叫とは何か……について、福島先生はこう語られているそうだ。

「だから、なぜ叫ぶかというと、それは自分だけの叫びじゃない。彼らの無念をおれが体現しているんだ。おれの体で肉体で受け止めて、それぞれの時代の無念、死んでいった彼らの無念をおれが歌うんだ、そういう思いが絶叫だね。それが絶叫コンサートの意義というかな。」

(藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」111頁福島先生の言葉)

そして藤原龍一郎氏によれば、「彼らの無念」の「彼ら」とは以下であるそうだ。

彼らとは、中也に限らず、寺山修司や岸上大作や村山槐多や沖田総司といった志なかばで斃れていった者たちのことだ。

(藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」112頁)

短歌絶叫コンサートは毎月行っても、その度に聞こえてくる響きが違って飽きることがない。
福島先生の鎮魂の思い、無念の思いを抱く者たち……その都度、両者が異なる叫びを発しているのかもしれない。
そして何度読んでも、聴いても飽きない……というところが、詩歌の魅力だろうか。

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さりはま書房徒然日誌2023年9月28日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻読了

ーひとつの文の中に、ひとつの物語が内包されているようでもありー

津波を生きのびた青年。無人の被災地をさすらううちに、自分の家でおのれのドッペルゲンガーの死体を見つける。その死体を土に埋めるも……。

引用箇所はこれで一つの文。実に長い一つの文である。

長い文の中に読者の心を掴む導入、スイッチオンにする箇所、ドッペルゲンガー再来を予告するような箇所、だんだんやわに崩れようとする心が語られる。

一つの文の中に、一つのストーリーが内包されている。

長い文が始まる冒頭部分は、「朝の歓喜」とか「匂い立つ歓喜」という心を思わず引き寄せる言葉が並んでいる。
だから長い文も気にすることなくスッと入っていける。

次の「翼をいっぱいに広げた怪鳥」「いにしえのい日々」で、この長い文が語ろうとする世界へと、グッと心のスイッチが入る。

さらに「愛と憎悪の幻影」「無二の大舞台」と、このあとにまた復活するドッペルゲンガーを予告するような言葉が並んでいる。

だが「けだし」のあとに並べられている言葉は、凡庸な生き方へ堕ちてしまおうか……という自棄への誘惑である。

そういう言葉すらも「魂の方位盤が示す四方」「夢がふたたび若返る」「国家権力がもたらす害毒の呪縛」と魅力的な言葉が並び、いかにも丸山先生らしい考えが表れている。

世俗的考えに流されそうになったところで、このあと地中に埋めたはずのドッペルゲンガーが泥まみれの裸でマストの上に現れる。

丸山文学によく出てくるドッペルゲンガー……それは喝を入れるような存在なのだろうか?

すると、

夏のあいだずっと保たれそうな朝の活力を彷彿とさせる
匂い立つ歓喜が辺り一帯に放散されるなかで、

目もあやな空を背に巨大で頑丈な翼をいっぱいに広げた怪鳥にさらわれ
言葉を失うほど遠いいにしえの日々へと連れ去られ
世界観を曇らせる偏見のあれこれがことごとく払拭されたかのような
そんなさっぱりした心地になり、

しかも、

暗黒物質のさらなる増大によって天と地が分かたれるという
めくるめく偉大な物語の登場人物の一員であることが生々しく自覚され、

じつは、

始まりも終わりもないこの宇宙こそが
多大の犠牲を払いつづけるという苦い経験を通して
自身の胸から芽吹いた愛と憎悪の幻影を存分に楽しめる
唯一にして無二の大舞台ではないか、


さもなければ、

偏向なき自由意思によって
嬉々として破滅へ堕ちてゆくことが可能な
ほかのどこにも存在しえない天国ではないかと
そう思えてきて、


けだし、

ありとあらゆる悲劇や不幸のたぐいをいっさい含めて楽しむべきではないか、

人生の苦杯を舐めつづけるおのれを語ることになんの意味もないのではないか、

魂の方位盤が示す四方に沿って精神が純化されるという説は嘘ではないか、

精神生活が無為のうちに尽きてゆくことを恐れなくてもいいのではないか、

常に変わらぬ孤独に愛着をおぼえるのはあまりに危険ではないか、

遂げられなかった夢がふたたび若返ることなどないのではないか、

知性に依存する立場に正当な論拠を与えることは不可能ではないか、

面目躍如たるものがある反逆的行為など幻にすぎないのではないか、

国家権力がもたらす害毒の呪縛を脱することなど無理ではないか、

という
そんな結論にもならない結論が
速乾性の接着剤のように急激に固まりつつあった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻553頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月27日(水)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ー「ラウンド・ミッドナイト 風の言葉」(田畑書店)に採られていた言葉を発見!
このフレーズには定時制高校の生徒も惹きつけられていたと思い出す!ー

津波を生きのびた青年が無人の被災地で遭遇した死体。
それは自分のドッペルゲンガーだった。
おのれのドッペルゲンガーを葬ろうとして、もう一人の自分と対話するうちに前向きになってくる……
そんな場面。

さて、この箇所で丸山文学の素敵な言葉を集めた「ラウンド・ミッドナイト 風の言葉」(田畑書店)に採られている言葉を二つ発見。


「罪のうちに埋没する世界」と「おれがおれを生きるのに誰に遠慮がいるものか!」の二つだ。

「ラウンド・ミッドナイト 風の言葉」は弾き語りのthetaさんと言う方が言葉を選び、歌にされている。

thetaさんが歌う「ラウンドミッドナイト 風の言葉」を、いぬわし書房さんが素敵な動画に作成されたものがあった。リンクを下の方に貼らして頂く。

ちなみに、かつてこの歌を勤務していた夜間定時制高校のクラスの生徒に聞かせたことがあった。

生徒それぞれに、心に響く歌のフレーズがあるようだった。

引用箇所の「おれがおれを生きるのに誰に遠慮がいるものか!」と言う言葉は、断トツで定時制の生徒たちの心を捉えていた。

中には、この歌の歌詞に「(丸山先生のことを)尊敬します」ときっぱりと断言した生徒もいた。(非常に辛い過去と現在を生きる、尖った眼差しの生徒であった)

夜間定時制高校の生徒たちは過半数が外国籍の親のもとに育ち、非常にハードな人生を歩んできた者が多い。
そうした生徒たちの心を捉えるとは!と驚いた……。
丸山文学は、アプローチ次第では、厳しい状況の若者の心を捉える力だってある。
難しいと決めつけないで、もっと色々な人が読んでくれたら……と願う

そこで、

罪のうちに埋没する世界と
墓場へと急ぎ立てる嘆かわしい現状に抗して
自己の生存競争を遂行するという、

生の先頭に立って
独自の価値を熱望する
かくのごとき者を演技しながら
重大な経験によって鈍くなった曇りのない心を四方八方に飛ばし、

ややあって、

どうでもいい古い過去の追憶といっしょに
凡庸にして立派な訓戒のあれこれを視界から遠ざけながら
しこたま毒気を含んだ攻撃的な姿勢に切り替え、

目下推進している事態を正当に評価しつつ
「さあ、なんでもござれ!」
だの
「まさにこの時においてなすべきことをなせ!」
だのという
肉弾戦の先陣を切る者のように雄々しい
おのれ自身の力強いひと声で心を奮い立たせ

「おれがおれを生きるのに誰に遠慮がいるものか!」
という
古き良き時代の産物である
正当な権利に基づく主張を幾度もくり返した。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻537頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月26日(火)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む
ーひとつの文のなかに込められた問いかけやら比喩やら思索にときめいてー

以下引用の文はこれで一つの長い文。

まず、読み手の心を誘いかける「時はもう夕暮れ」という柔らかな響きの言葉で始まる。

そして作者の思考を感じさせる「横暴を生む母体」「罪の舞台」という言葉が、読み手に問いかけてくる。

ため息をつきたくなったところで「生彩と独創性に満ちた清夜」と言う美しい言葉に気を取り直す。

「骨灰を思わせる真白き月」と言う思いがけない比喩に、読んでいる私の感情も一気に高ぶる。

その勢いで「陳腐な価値評価が異様なまでの高まり」と言う謎に満ちた言葉も理解したかのような幸せな誤解に包まれる。

丸山先生の思考に裏打ちされた言葉を完全に分かったとは言えないけれど.…。
「星影の表現が不明確で粗雑」「豊麗な星々が押し合いへし合いする」「天啓のごとき雰囲気を具えた流星」「没落の未来」「底意地の悪い将来」「命の環状線」「沈黙に侮辱されながら」
……と宝石箱から溢れたような比喩の数々を愉しむ。

そうこうしているうちに長い文も終結となって、「生と死のいずれが存在の実相」という謎めいた問いかけの語句で、この文は終わる。

たった一つの文を読むだけなのに、宇宙の奥まで、思考の深淵まで旅した気分になる……そんなときめきを感じた。

時はもう夕暮れ
日も落ちようとしており、


やがて、

たとえば心無い因襲の徒に具わりがちな不滅の活力に支えられ
横暴を生む母体としての
あからさまな罪の舞台にあって、

万事よしと自信をもって判断できるほどの
生彩と独創性に満ちた清夜を迎え、

すると、

骨灰を想わせる真白き月の下で
世界は公正であるとする陳腐な価値評価が
異様なまでの高まりを見せ、

どんなに星影の表現が不明確で粗雑であっても
べつにこれといった不都合は感じず、

おかげさまと言うかなんと言うか
狂気染みた情熱に恵まれたこのおれは、

偏在性への漠然とした懐疑や
移ろいやすい超越主義が無制限にあふれて
豊麗な星々が押し合いへし合いする
宇宙の大偉観に圧倒され、

ゆえに、

あたかも天啓のごとき雰囲気を供えた流星が
没落の未来を暗示することなど間違ってもなく、

過去をもう一度生き直さざるをえないような悲しみに包まれるという
大きな錯誤が永続的に作用することもなく、

ひどく底意地の悪い将来によって
自己依存の行き着くところが呑みこまれてしまうこともなく、

好むと好まざるとにかかわらず
命の環状線を一巡して
沈黙に侮辱されながら帰途に就くしかないという
そんな無防備な孤立状態に気づかされてうんざりすることもなく、

また、

生と死のいずれが存在の実相であるにせよ
それ式のことではもはや驚かなくなっていた

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻495頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月25日(月)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む
ー自分のドッペルゲンガーを前にした時に思い出されることを言葉にすればー

津波から助かった青年が無人の被災地をさすらううちに、自分の家にたどり着く。
我が家の新台には、裸で男が死んでいた。
よく見れば、その死んだ男は自分自身だった……。

以下引用の長い、でも一つの文は、そんなドッペルゲンガーを見つめ埋葬を決意するまでの、青年の心に思い浮かんでくるあれこれを語っている。

長い文の最初は「波打つ草のごとき切なる追想に耽りつつ」と引き込むような美しい言葉で始まる。


そして続くドッペルゲンガーと「たわいもない局部的な過ちの染みについて」交わす会話。
その内容は具体的には書かれていない。
そのかわりに「たとえば」と繰り返すことで、読み手の方でイメージをどんどん膨らませていくことができる。


そう、一番最後の「たとえば」だけ、「娼館を女手ひとつで切り回していた育ての親」とやけに具体的なのはなぜなのだろうか?
読み手の意識を現実に引き戻す合図だろうか?

一つの文の中に、作者の意図が色々働いている気がする。

しばしのあいだ、

波打つ草のごとき切なる追想に耽りつつ
たわいもない局部的な過ちの染みについて
もうひとりの自分かもしれぬそいつを相手に無言の語らいを始め、

たとえば
神格化が可能なほど絶対的な孤立、

たとえば
おのれの涙にまみれた明けの明星、

たとえば
本来の人間に帰するための動と反動、

たとえば
中間的な存在である万物がもたらす粗雑な結果、

たとえば
八方の境界を超えてほとばしる新しい眺望、

たとえば
憎しみが恍惚に昇華してしまう光明なき時代、

たとえば
逃避を許さぬ荒涼たる空虚、

たとえば
娼館を女手ひとつで切り回していた育ての親、

そんなこんなを
思いつくままに喋りまくったあと、

地面の下が本当にふさわしいかどうか
念入りに再確認しようと
もう一度遺骸の前にしゃがみこんだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻455頁)

丸山先生も、短歌の福島先生も共通するお叱りのフレーズは「それは説明的すぎる」という言葉。

わかりやすく書くのではなく、かけ離れた語と語を結びつけてイメージの花束を読み手に差し出す……ことを理想とされているのではないだろうか。
読み手は、差し出された言葉の花束を自分の思考回路に流して自由に造形していく……という読み方を、丸山先生も福島先生も理想とされているのかもしれない……とふと思った.

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さりはま書房徒然日誌2023年9月24日(日)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ードッペルゲンガーの存在に疑念を抱かせない語り方ー

若い頃、歌人・高瀬一誌から指導を受けた歌人(福島先生ではありません)にこう教えて頂いた。
高瀬一誌が常々言っていたのは「他人と似ていない歌をつくれ」との言葉だと。
高瀬一誌に指導を受けたその方は「短歌は長くつくっているうちに自分の文体ができてきます」とも励ましてくださった。


小説でも、文芸翻訳でも「他人と似ていない」「自分の文体」ということは、あまり大事にされていない気がする。
(今の厳しい出版社サイドにすれば、少しでも多く売れてくれる……だけで精一杯なのかもしれないが。)

だが丸山先生も、そういう視点をすごく大事にされていると思う。

丸山先生の今の文体は、「丸山健二」という名前がなくても、一目でパッと「丸山先生の文だ!」と分かる。


そして私も、丸山先生とも似ていない自分の文体を作らなくてはいけない……とは思うが、いつになるやら。

でも「他人と似ていない」「自分の文体」を目指すところが、短歌や散文を書く醍醐味であり、苦労なのかもしれない。

さて「我ら亡き後に津波よ来たれ」だが……。

津波を逃れた青年は無人の被災地をさすらううちに、見覚えのある我が家にたどり着く。
中に入れば、寝台には裸の男。
よく見れば、男は死んでいた……
さらによく見てみれば、死んだ男は自分自身。
自分のドッペルゲンガーを見ているのだった。

そんなドッペルゲンガーとの出会いにつづく文は、不思議な状況に疑念を挟む隙を与えないような、格調の高い文だと思う。

「獄門が閉ざされてから吹き渡る」「上々吉の風」「異形の風」「裁きの庭のごとき」「夜々草のしとねに伏す悲しみ」「静かに輝く草原というたぐいの夢さえ尽き果てた現世の暗闇」……と畳みかけられたら、ドッペルゲンガーがたしかにいる気になってくるではないか!

また
ほんの少し視点を変えれば、

獄門が閉ざされてから吹き渡る上々吉の風とは真逆の
異形の風に導かれて可能になったこの異様な出会いは
永遠に未熟な魂同士の融合と言えるのかもしれず、

さもなければ
震撼の世におけるただ一度の歓喜の巡り合いということなのかもしれず、


早い話が、

特異な性格を具えた異端者同士が
生々躍動する秩序の崩壊にあまねく覆われた
あたかもたじろぐしかない戦いの場のごとき
もしくは裁きの庭のごとき
この被災地に濃い影を落としていることになるのやもしれず、


そして今後は、

夜々草のしとねに伏す悲しみを負う胸のうちをぶちまけ合い、

互いに赦し合い、

心地よい孤独を知覚し合い、

肝胆をかたむけて一夜語り合い、

思い詰めた瞳の奥に折り重なる言葉の影をつぶし合い、

大気に孔をうがつほどの光の狂乱を夢見合い、

天高く輝く魂の避難所という幻想を徹頭徹尾無視し合いながら、

静かに輝く草原というたぐいの夢さえ尽き果てた現世の暗闇を
手に手を取ってさまようことになるのかも知れなかった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻407頁)

ただしドッペルゲンガーも登場してやや経過すると、だんだん語り方が砕けたものになってくる。
おかげで青年や読み手とドッペルゲンガーとの距離が、縮まったようにも思えてくる。
それからドッペルゲンガーとの距離を喩える表現の連続「遠方の恋人同士」から始まる文も面白いなあと思った。

早い話が、

おれはどこまでもおれでありつづけ
そ奴はあくまでそ奴でありつづけ、


相手はというと、


無に等しい罪深さしか知らぬ
未確定な未来への到達を心待ちにし
常に喜びもまたひとしおといった面貌の
死後の幸福までまんまとせしめてしまうような楽天家であり、


当方はというと、


夢見ることもあたわぬ
怒るにつけ悲しむにつけ眼下に心の碧譚を望むしかない
そうであればこその苦境に追いこまれつづける
流竄の詩人であって、

ともあれ、


両者はそれ以外の何者でもなく、

遠方の恋人同士のように、

離婚して久しい男女のように、

別々の飼い主に引き取られた仔犬のように、

暗黒の空間ですれ違う小惑星のように、

互いに干渉し合う必要などない存在だった。


(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻421頁)

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