さりはま書房徒然日誌2023年8月21日(月)旧暦7月6日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー時も空間もぐんにゃり歪めることのできる言葉の威力ー

屋形船おはぐろとんぼは、丸山文学は、弱く小さな存在「そろそろ死ぬ覚悟を固めつつある草陰にすだく虫たち」やら「後期高齢者」について語っていたかと思えば……
次の頁では、いきなり宇宙の終わりや時の流れにワープする。

そうした思考の流れを追いかけていると……。
弱き者たちも宇宙や時の一部分、隣り合わせて存在しているのだなあという思いにうたれる。

太っ腹で小さなことにはこだわらない
つとに名高い理論物理学者が
それとなく警告する

宇宙の倒潰を予感せずにはいられない
銀河系の末路など
たやすく一笑に付すことができた。
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻416頁)

輝かしく思い出深い過去の頂点が
いつだって未来の霧のなかに隠されてしまうことを
自然の摂理のひとつと受けとめて
あっさり容認でき
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻417頁)

言葉をつかって文を書く……。
それは宇宙をぐんにゃり歪め、時を自由に行き来させてくれる……そんな魔法の杖をふるに等しい行為なのかもしれない。
……そんな気がしてきた。

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さりはま書房徒然日誌2023年8月20日(日)旧暦7月5日

移りゆく日本語の風景ー「闘茶」ー

暑さ厳しい日に飲む冷茶は美味しい。
ノンカフェインの麦茶やルイボスもいいけれど、冷茶の緑には一瞬だけ暑さを忘れてしまう力がある。
ずっと私たちの生活と共にあったように思える茶だが、元々は遣唐使の時代に唐から持ち帰られたもの。
荒波をこえて、この緑芳しい飲み物を運んでくれたお坊さんの勇気に感謝だ。ジャパンナレッジ日本国語大辞典によれば、以下のとおり。

日本における飲茶の起源は不明であるが、天平元年(七二九)、聖武天皇が百僧に茶を賜った記事が、明確な記録としては最古のものといわれている。当時のものは唐から帰国した僧侶が持ち帰った団茶であった。これは、茶の葉を蒸してつき、丸めて乾燥したもので、粉にして湯に入れて煎じ、塩、甘葛などで調味して飲んだ。煎じて飲むところから煎茶と呼ばれることもあったが、のちの煎茶とは別物。寺院や上流社会では、薬用、儀式用、あるいはもてなし用として茶が用いられたが、遣唐使の停止以後中絶した。

どうやら古代、天平の頃の茶はとても高貴な方々だけが口にできるものだったようだ。

さて茶の項目を眺めていると、「闘茶」という聞き慣れない、でも強烈なインパクトのある言葉があった。
ジャパンナレッジ日本国語大辞典で調べてみると、「闘茶」とは以下のとおり。

飲茶遊技。本茶・非茶などを判じて茶の品質の優劣を競って勝負を争った遊び。鎌倉末期に宋より輸入され、南北朝、および室町時代に流行した。

どうやら産地や品種を飲み分ける勝負らしい。
飲茶遊技という言葉も、闘茶という言葉も印象的。
闘茶の例文は14世紀から近代に至るまであった。その割には、今まで耳にしたことがなかったのはなぜだろう?

*洒落本・風俗八色談〔1756〕三・艸休茶の湯の事「唐にも闘茶(トウチャ)といふて茶の美悪を論ずる事はありと聞ども」

*随筆・筆のすさび〔1806〕二「三谷丹下は、後に宗鎮と改名す。〈略〉その家にては、茶かぶきは不用、そのかはり闘茶を教ゆ」

*旅‐昭和九年〔1934〕一一月号・首代金廿万両〈正木直彦〉「進んでは又『闘茶(トウチャ)』といふのが行はれるやうになった。これは茶の味を飲み分けるゲームであって」

14世紀からずっと見えていた「闘茶」という言葉がパタリと絶えたのはなぜなのだろう?
それとも茶道には残っているのだろうか?
闘茶」という言葉が醸す心のゆとりを思いながら、「闘茶」の消えた現代を残念に思う。
でも茶葉は気温の影響をダイレクトに受けやすいもの。「闘茶」どころか「茶」の緑が消えてしまうディストピアにならぬよう祈るばかりの暑さである。





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さりはま書房徒然日誌2023年8月19日(土)旧暦7月4日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー数多の物語を孕み、旅立ちへとうながす風景描写ー

女のことを忘れようとする船頭の大男。
その心を見つめながら、月は別の世界を照らしてくれる。
月光が射すところには無数の物語がある……
昼間の風景とは異なる妖しさ、美しさよ。
そんな月明かりの光景を語る文に、読み手も知らず知らずのうちに、船頭や屋形船おはぐろとんぼと一緒に再び船旅に出たくなる……。
静止した月が動きへ、旅立ちへと背を押す不思議さを感じた。

月はというと

孤立無援の放浪者を惹きつけてやまない
ぱったりと交通が途絶えた街道……

いかめしい門の佇まいに不似合いな
趣にあふれた庭園……

長日月にわたって一心不乱に考えつづけるという
重い思索の淵に沈んだ後
長編叙事詩を一気呵成にかきあげた
凡俗の顰蹙を買う怪童のおとなびた横顔……

真夜中の奥に聳立した山々を縫って滑翔する
槍の穂先のようなくちばしを持つ怪鳥……

廉潔の士として知られるよそ者の
救いがたい手落ち……

なんぞをどこまでも優しく照らした。
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻391頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月18日(金)旧暦7月3日

移りゆく日本語の風景ー蛙楽は遠くになりにけりー


何をうるさいと思うかは、感覚、価値観の問題があって個人差も大きい。
音に関しては、私の快適があなたの不快……になりがちで難しいと思う。
さて最近「水田のカエルの声がうるさいから何とかしてほしい」という話題をニュースで見かけた気がする。

私は一番最初の勤務先が四方を水田に囲まれた場所だったから、この時期の水田から吹いてくる風、カエルの大合唱には涼しさと懐かしさを覚える方だが……。
カエルも水田も馴染みのない人にとっては、受け入れ難い音なのかもしれない。

でもかつて「蛙楽」(あがく)という言葉が存在するほど、蛙の声に日本人は風情を感じてきた。
ジャパンナレッジの日本国語大辞典によれば、「蛙楽」の意味、例文は以下のとおり。

蛙の鳴くのを音楽にたとえていう。蛙の音楽。
*筑波問答〔1357~72頃〕「旧池の乱草をはらひて、蛙楽を愛することあり

ちなみに蛙に関する文は、ずいぶん昔からあるようである。
以下、ジャパンナレッジ国語大辞典「蛙」の項目より例文をいくつか。

*日本書紀〔720〕応神一九年一〇月(熱田本訓)「夫れ国樔は其の人と為り甚だ淳朴(すなほ)なり。毎に山の菓を取りて食ふ。亦蝦蟆(カヘル)を煮て上(よ)き味と為」

*徒然草〔1331頃〕一〇「烏の群れゐて、池のかへるをとりければ、御覧じかなしませ給ひてなん」

*蛙〔1938〕〈草野心平〉河童と蛙「ぐぶうと一と声。蛙がないた」

それにしても日本書紀の時代、蛙は煮て食べる食材でもあった。それが風情の対象となり、声を愛でられるようになり、そして今疎まれようとされている。
願わくば、心にも暮らしにもゆとりが生まれ「蛙楽」という言葉が生きながらえますように。



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さりはま書房徒然日誌2023年8月17日(木)旧暦7月2日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー屋形船おはぐろとんぼが語る自然の美しさー

オンボロ屋形船おはぐろとんぼが感じる自然の美しさ。

丸山先生が指導してくださるとき、その季節に咲く花は?とよく問われる様子が思い出される。

以下紫色の屋形船おはぐろとんぼが語る文は、じっと自然を観察してきた丸山先生ならではの文……だと思う。

私にはとてもタヌキの親子連れとか地蔵とか……文を書きながら浮かんでこない。

それから私は

土と石を交互に盛り上げただけの
従って
徒然川が放ってやまぬ情緒をいささかたりとも損ねていない
艶めかしい曲線を描き出す堤防すれすれのところをのろのろと下り

月影青く風さやかなる夜に
気持ちよさそうに空中を漂ってゆく死者の魂に思いを馳せて
どこまでもつづく桜並木に沿って進みながら

タヌキの親子連れの瞳の輝きや

不満らしい渋面を作っている野ざらしの地蔵や

ホタルのあまりにも静かなる乱舞や

みごとの一言に尽きる流星群の活動などに

ぼうっと見惚れている最中

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻337頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月16日(水)旧暦7月1日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー「どこにでもいるありふれたやつだった」を丸山健二の言葉で語ればー

なんでも知っている屋形船おはぐろとんぼ。
全知全能のおはぐろとんぼが、船頭の大男を語る次の言葉に悲劇の予感。
いつまでも、大男とおはぐろとんぼ……旅が続いていけばいいのに。
そんな思いが覆されるのでは……という気がしてくる。

知人はおろか
神仏にさえ気取られぬように
うつし身の世をそっと抜け出そうとしているとは
とても思えず

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話』下巻327頁)

おはぐろとんぼが大男を語る言葉。
最近よく見かける小説なら「どこにでもいるありふれたやつだった」と一行で書くだろう。
丸山先生はこれでもかと文を連ね、ありふれたやつ……のイメージを膨らませてくれる。
丸山文学では、言葉からイメージを紡ぎ出す過程がすごく楽しい。

ただ国語の授業でも、ひたすらわかりやすい実用的な文が求められる時代である。
こういう過程を楽しめない人が多くなり、チンプンカンプンの人が多い現状が寂しくもある。

さて、船頭の大男が「どこにでもいるありふれたやつだった」を丸山先生が表現すれば以下の通り。

その所を得てそれなりの花を咲かせる
単純率直な人間の代表にしか見えず、

さらには

手厳しい結論を強引に押しつけたあげくに
ドライアイスのごとき視線でもって最後の一撃を浴びせる
冷淡な観察者……

夜ごと安酒場に集まって陽気に騒いでも
いっこうに眼識を養えないことが容易に察せられる芸術家……

来るべき不幸に思い悩みつつも
ありふれた見解を脱することができない善良な大衆……

満を持して登場した
これに尽きる反逆者……

小賢しいうえに
骨なしときている教育者……

先天的な素質として弁才に長けた
きわめて魅力的な煽動者……

とまあ
そう解釈したくなった

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話』下巻327頁)

巷によくいる奴、しかも嫌な奴。
……をすっぱり語ってくれているからスッキリする。

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さりはま書房徒然日誌2023年8月15日(火)旧暦6月29日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー屋形船が語る都会のわびしさー

屋形船おはぐろとんぼは徒然川を旅して、露草村からうつせみ町へやってくる。

丸山文学は、地名や固有名詞の名前のつけ方にも特徴がある。
現実には多分あり得ないけれど抒情があふれる名前の数々……それは見慣れた風景をどこか不思議なものに変える魔力がある。

さて屋形船おはぐろとんぼが感じる「うつせみ町」の都会の寂しさも、「そうだなあ」と心に残る。

魂の舟が難破した件について
事の経過を思い返しながら雑感を述べる
いまだ自分が何者であるかを知らぬ人間の数が増え、

はるか沖合にまたたく魚燈をぼうっと眺める
家庭の事情で進学を思い切った少年のため息がかすかに届き、

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻292頁)

日本舞踏の会について、屋形船おはぐろとんぼが向ける非難の眼差しもパンチがある。
ただ、こうした骨太な問題意識と幻想性が両立するユニークさが、幻想文学読みからスルーされてしまう要因なのかもしれない……。
幻想文学読みから、丸山文学があまり読まれていない現状をひたすら残念に思う。

何よりも格式を重んじるはずなのに
それでいて
裏では冷たい感触の高額紙幣が飛び交う
日本舞踏の納会が終えたあとに漂う残り香にそっくりな
いかにも退廃的な甘酸っぱい匂いが感じられ

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻299頁)



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さりはま書房徒然日誌2023年8月14日(月)旧暦6月28日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むーユーモアもありロマンチストでもある屋形船おはぐろとんぼー

語り手である屋形船おはぐろとんぼは哲学者でもあり、皮肉屋でもあり、ユーモアあり、ロマンチストでもあり………人間ならこんな語り手はいない。

でも屋形船だから違和感なく、耳を傾けてしまう

屋形船おはぐろとんぼが、女に逃げられた船頭の大男を見る目のなんとユーモラスなことか。

妻帯生活に窒息させられない自由をこよなく愛したものの
恨むらくは
空想する自由しか得られないことであったが、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻273頁)

屋形船おはぐろとんぼが、船に訪れる変な人間どもを次々と語る描写もユーモラス。
こういう人っているなあと、その中から一つ引用。

報酬が部下と対等額であることに腹を立てて
任期の満了前にその職を退いた勤め人……
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻281頁)

そんな変な人間たちについて続々と語ったあとだから、おはぐろとんぼのユーモラスさも、描写の美しさも一際心に残る。

そのときどきの好みに応じて音源を選べる
都合のいいことこの上ない聴覚を
思う存分発揮しながら

里のわたりの夕間暮れ
おびただしい数の竜灯に
次々に注油してゆく
老いた神官の侘しい姿を
万感を込めて
眺めることができた。
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻283頁)




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さりはま書房徒然日誌2023年8月13日(日)旧暦6月27日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー葉っぱと人間の重ね方に散文ならではの面白さを思うー

古来、日本人は詩歌で季節の風景を歌うことで己の心情を託してきた。

「おはぐろとんぼ夜話」の紅葉の箇所を読むと、言葉を尽くして紅葉を表現しようとしている文に心うたれる。

そして言葉の数や韻の制限を受けない散文ならの複雑さが生み出す面白さを感じる。

以下の引用箇所は、社会への批判めいた思いを秋晴れの日の描写に託していて色々考えさせられる。

かなりの日照りつづきであったにもかかわらず
山峡の紅葉が例年通り見事に映え渡った

無気力によって窒息させられている
世間の大多数の判断などいっぺんで消し飛んでしまいそうなほど
すっきりと透徹した日本晴れのある朝のこと、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻221頁)

以下の引用箇所は、まろやかになってゆく紅葉とコントラストをなすように、船頭の大男から金を巻き上げて逃げていった女の強欲、激しさが示唆されて面白い。

全山紅葉の真っ盛りへと突き進む季節が
ぬくもりにあふれたその色彩でもって
非常な自然の角を削り取り始めたにもかかわらず

欲に生きる者は欲で死ぬだろうという
そんなたぐいの箴言が
多少なりとも効果が期待できたところで
激情の振り子を止めることはかなり難しく
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻230頁)

以下の引用箇所は、女に捨てられた船頭の大男があっという間に立ち直ってゆく様を、深緑に託した書き方が興味深い。

  そして

  その翌年の
 
  深緑の葉の一枚一枚に
  全宇宙の謎を解く鍵があまねく秘められた
  夏場にはもう

  よしんば心臓に達する傷を負わされたところで
  両の手にしっかりと財布を握り締めていそうな
  それほどしぶとい女の印象は

  澄明な夜空に架かる薄い虹のように曖昧なものと化して
  ひたすら無へと傾斜してゆき
 (丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻242頁)

散文の場合、文字数の制限がない分だけ擬人法で思いっきり冒険ができる。そんなチャレンジに溢れた散文が喚起するイメージは無限ではないだろうか?

詩歌の場合、文字数の制限が思いをシンプルにする。余計な贅肉を削ぎ落とされた叫びを聴く面白さ、限られた語の組み合わせで世界を切り取ってゆく複雑さ……が愉しい気がする。

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さりはま書房徒然日誌2023年8月12日(土)旧暦6月26日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー擬人法について考えるー

いぬわし書房のオンラインサロンで擬人法についての質問があった。

丸山先生が擬人法を考えるきっかけになったのは、カメラいじりから。

レンズを変えるように、擬人法を使うことで、表現の幅を変えたい、視点の幅を広げたいと思われたそう。

擬人法を使えば、どんな無茶な表現でもいい、生身の人間が語るよりワンクッション置くことになるから読者が受け入れやすい……とか語っていらしたと思う。

屋形船おはぐろとんぼが、船に子連れで転がりこんで、船頭の大男と情事を重ねる女について語る場面を読むと、やはり屋形船が女について辛辣に語っても腹がたたないなあ……とクッション効果を感じる。

またクドクド女のあれこれを説明されるより、ぶっ飛んだ例えの方がイメージが広がってゆく。

屋形船おはぐろとんぼは、女のことを以下のようにけちょんけちょんに言う。でもオンボロ船の独り言と思えば、さらさら頭を通過して、私なりの女のイメージが浮かんでくる。

たとえるならば

白バイに追尾されていることを承知で制限速度を破りつづける

とことん荒くれたドライバー……

たくさんの仕事を抱えこんで往生している部下を

さらに鞭撻して深夜まで働かせる上司……

たちどころに不法占拠の任務を終えて復命する

殺人に卓越した兵士……

厚顔にもひっきりなしに前言をひるがえし

現在の地位に執着する長老……

強情な生を剥ぎ取ろうと

荘重な足取りでやってくる死に神……

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻173頁)

……私も次回短歌の課題は、関東大震災の検見川事件について川の流れを視点に詠んだのだった……と思い出す。

川の視点だと、重い事件も、人間の愚かさも、何とか文字にできる気がする。私視点だときついものがある。擬人法はまことに偉大なり。

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