さりはま書房徒然日誌2023年8月31日(木)旧暦7月15日

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『水葬は深更におよび』を途中まで読む
ー自然を語る言葉がいつしか哲学を語る言葉となり、

 はっきりと分からないかもだけど心地よくなるー

「夢の夜から 口笛の朝まで」に収録されている二篇目の短編である。

一篇目同様にやはり吊り橋「渡らず橋」を中心に、まるで「渡らず橋」が人間であるかのように語られてゆく。

この「渡らず橋」の擬人法が面白く感じられるのは……。
吊り橋というものが人間が使うものでありながら、同時に眺めたり、感慨に耽ったり、あるいは揺れに怯えたり、人生そのものみたいな存在でもあるからなのだろうか?

擬人法を使うときには、対象とするものを選ぶことも大切なのかもしれない。

冒頭で語られる夏空の美しさ。
その中で平穏に過ごす「渡らず橋」。
それが雷で一変してゆく展開の鮮やかさ。
急変した天気をきっかけに不確実な生を語る文につなげる展開……。

さりげなく作者の哲学を滲ませる文の展開に頭がついていけていないかもしれないが…。
でも意味がわからなくても前の雷の描写ですでに満ち足りている。
だから意味が完全に分かったとは言えなくても、分かっているような誤解をゆるりと楽しむことができる気がする。

もしも運命が許すのならば、
心温かい知性と物怖じ抜きの内向的な一貫性をしっかりと保てる、
平安に満ちあふれた「渡らず橋」ではあった。

しかし、
空中はるかな高みから一陣の生ぬるい風がさっと吹きつけてきた直後に、
粗野で単純ながらも、
どこか啓示的な一発の雷鳴が殷々と響きわたったことによって、
様相は一変し、

天衣無縫な夜と化すはずだった心浮き立つ気配がいっぺんで吹っ飛び、
天と地が融合してしまったかのごとき、
ただならぬ感情が一挙に巻き起こされ、

過ちの上に過ちが重ねられたかのような、
そんな不安がざわめいた。

とたんに天気は機嫌を損ね、
月も星もない暗黒の空となり、
すべての事態と成り行きが緊要の問題へと一気に傾斜し、
情の衣を纏っているはずの未来が不可知きわまりない色に染まり、
「常ならぬ幸福」という身も蓋もない真理が幅を利かせ始め、

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『水葬は深更におよび』75頁)

『水葬は深更におよび』というタイトルだが……
「水葬」と「深更」という漢字二語の並びの格好よさ、
「におよび」という文の途中で終わる言葉から連なる物語が期待されてくる。

「深更」(しんこう)、「夜更け」「真夜中」という言葉は初めて知ったが、引き締まった感じの言葉でいいなと思った。

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さりはま書房徒然日誌2023年8月30日(水)旧暦7月14日

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『夢の夜から』を読む

ー「かくあれ」という作者の思いー

ー「吊り橋」を語る擬人法の面白さー

夫に先立たれた老婆を変えた小さな存在とは……。

それは嵐の夜にやってきたフクロウの雛。

フクロウの雛との出会いをきっかけに変わる老婆。

その変貌ぶりを語る以下の文に、丸山健二の「人間とは本来こうあってほしい」という思いを強く感じる。

もはや亡夫の面影を内心の友とする必要がいっさいなくなり、

そして、
自分が末梢にすぎぬ甲斐なき存在ではないことを、

地表を這う憐れな生き物の仲間ではないことを、

社会への不平不満にあふれた年金生活者ではないことを、

はたまた、

近いうちに夫のあとを追って虚空に消え去るばかりの、
混沌に面したまま滅び去る一介の有機体なんぞではないことを、

存在における普遍的な原理という広い枠組みのなかで、
大きな錯誤に陥ることなく、
翻然と悟った。

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『夢の夜から』41頁)

吊り橋「渡らず橋」は、そんな老婆とフクロウを見守る。

そして或る日、夢を見る。

その夢で酔っ払った老婆は「渡らず橋」で転倒して川に墜落。
フクロウも跡を追いかけ溺死……。

そんな夢を見たあと、老婆の通行に気遣う「渡らず橋」の描写が、やはり擬人法を駆使した書き方で表現が面白いし、ユーモアも感じる。

読む者の心に吊り橋の揺れを再現し、それがなんとも言えない不安に繋がっていく。

そして今宵もまた、
いざ老婆が近づいてくると、
内的な親近感ゆえに、
「渡らず橋」はひとりでにおずおずと気遣い、
心のなかにあらずもがなの覚悟が準備されてしまい、
たちまちにして不安の感情に崩れ落ち、
面食らうほどのおぞましい緊張を強いられ、
怖れはいよいよつのり

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『夢の夜から』49頁)

ともあれ揺れの幅を最小限にとどめようと、
精根尽くして気持ちをぐっと引き締めにかかったものの、
当然ながらそんなことでどうにかなるはずもなく、
相手が一歩踏み出すたびに横揺れがどんどん激しくなってゆくのだった。

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『夢の夜から』50頁)

それにしても老婆のペットのフクロウはどんな種類だったのだろうか?可愛らしいシマフクロウの写真にしたが……。


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さりはま書房徒然日誌2023年8月29日(火)旧暦7月13日

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『夢の夜から』を途中まで読む
ー「吊り橋」が語ればうつつの世が幻想の世界へと見えはじめるー

ーこんな風に擬人法が使えるという面白さー

「夢の夜から 口笛の朝まで」というタイトルも心に残るし、青い装丁も、青の栞の紐も素敵な本である。

「夢の夜から 口笛の朝まで」は、おそらく「おはぐろとんぼ夜話」の前あたりに書かれた作品なのだろうか。
「おはぐろとんぼ夜話」の語り手は古びた屋形船「おはぐろとんぼ」。
「夢の夜から 口笛の朝まで」の語り手は見向きもされない吊り橋「渡らず橋」で、その様子はこう書かれている。

金属類にはいっさい頼らず、
蔓のみを材料にした、
今やほとんど見向きもされない吊り橋は、

ひとまず人間に酷似した精神的な枠づけが整ったところで、
誰にも感知できぬ声なき声で自分にそっと呼びかけ、
(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」8頁)

人間でないものが物語を語りはじめると、見えない世界があらわになってくるような不思議さがある。
物なのに物ではなくなってくる……
そんな擬人法の面白さが「誰にも感知できぬ声なき声で自分にそっと呼びかけ」という部分にある。
これから不思議な幻想の物語が始まってゆく感がある。

以下の引用部分は「渡らず橋」の、いや作者丸山健二の、人間への思いが伝わってくる。
ストレートに作者が「私」と出てくるよりも、どこか森の仙人様のようなおかしみがある。
思わずどんな話が出てくるのだろう……と聞きたくなる。

それでもなお「渡らず橋」は、
生来の情の深さとあまりに退屈な立場によって、
おのれをこの世に送り出してくれた人間に見切りをつけるような忘恩な真似はせず、

本能によってのみ条件づけられている他の生き物とは大きく異なる、
非常に特異な存在としての人間にどこまでも魅せられ、

まったく融通のきかない灰色の毎日にたいして無言の抵抗をつづける、
人の人たるゆえんとやらに強く惹かれてやまず、

謎がいよいよ深くなるばかりの精神界に戦慄的な認識を抱きながらも、
人間性の内奥にひそむ不気味さをもふくめた全体に取り込まれた。
(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」14頁)

「渡らず橋」が一目置いている、フクロウを飼う老婆。
老婆が近づいてくる時の「渡らず橋」の描写も、こういう風に擬人法を使えば、物が物でなくなって生き生きとしてくる。
そして不思議な幻想の世界が見えてくる……と興味深い。

すると今度は、
フクロウのみならず、
「渡らず橋」までもがあからさまに胸をおどらせ、
いつものように自分なりに歓迎の意を表したいと思い、
千鳥足でご帰還する年寄りをいたく気遣って、
蔓の結び目をぎゅっと引き締めた。
(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」32頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月28日(月)旧暦7月12日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」読了ー哲学小説でもあり長大な幻想文学でもありー

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上中下巻を読了。

屋形船おはぐろとんぼが森羅万象に想いをめぐらす哲学小説のようでもあり……。
生を持たない筈のおはぐろとんぼが語るからこそ見えてくる不思議な淡いの世界を描いた幻想小説のようでもある……。

今回が「おはぐろとんぼ夜話」を辿る初めての旅。
今後も幾度も「おはぐろとんぼ夜話」を読んで、言葉の海を、哲学的空間を旅するだろう。

丸山先生を思わせる屋形船おはぐろとんぼの俯瞰しているような仙人モードの語り……。
読めなかったり初めて知ったりした難しい、でも美しい言葉の数々……。思いがけない擬人法を散りばめた文章…….。
これから読む度に新しい発見がたくさんありそうで、再読するのが楽しみである。

屋形船おはぐろとんぼと過ごした最初の旅に名残惜しさを覚えつつ、本を閉じる。

実際には思いのほか短かったのかもしれないわが生涯が
あっさり夢幻の仲間に加わり、

高みへ
果てしのない高みへと移行する
人生の目標の濃い影
その下に佇むことに耐え切れなくなった
中途半端な傑物の心情が理解できたように思え、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻632頁)

「おはぐろとんぼ夜話」の最後の頁から、生と死、未知なる自然が隣り合わせている丸山先生の価値観が伝わってきた。丸山文学は、死があるからこそ生が輝く世界を言葉で表そうとする姿勢が魅力の一つなのだと思う。

屋形船から棺へと化した
偉大なる燃えカスとしての私が振り絞る
最後の意思の力によって

ひょっとすると極楽浄土とやらの入口であるかもしれぬ
いまだにその存在を知られていない海溝へと通じる
段切り灘の底なしの底へ

どうころんでも恐怖の対象になり得ない
美し過ぎる天体の輝きといっしょに

宿命の黒ずんだ申し出を峻拒することなく
在るがままを受け容れながら
するすると滑り降りて行くのだった。
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻638頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月27日(日)旧暦7月11日

移りゆく日本語の風景ー豆腐ー

今日は北区北とぴあで開催された「初めての文楽〜その参 妹背山婦女庭訓 金殿の段」を観てきた。

上演前の技芸員さんたちの対談で、入鹿の御殿から豆腐を買いに行く女中とお三輪がばたりと会う場面が話題になった。
そのとき呂勢太夫さんが言われた「この時代に豆腐があったのかはわかりませんが」という言葉が気になった。


妹背山婦女庭訓は近松半二らがつくった浄瑠璃で1771年に初演。
蘇我入鹿らを登場人物に、飛鳥時代を舞台設定にしている。

はたして日本に豆腐が入ってきたのは……と調べてみた。世界大百科事典によれば、以下の通り。

日本の文献では,1183年(寿永2)の奈良春日大社の記録に見えるのが古く,鎌倉時代には1280年(弘安3)の日蓮の手紙に〈すり豆腐〉の名が見える。南北朝から室町期に入ると,豆腐の記事は日記類を中心にして急増し,室町後期の《七十一番職人歌合》には白い鉢巻をした女の豆腐売が描かれ,〈とうふ召せ,奈良よりのぼりて候〉と書かれている。歌のほうには奈良豆腐,宇治豆腐の名が見え,当時奈良や宇治が豆腐どころであったこと,この両地から京都にまで豆腐売が通っていたことがわかる。やがて大消費地であり,水のよい京都でも盛んにつくられるようになり,豆腐は京都名物の一つに数えられるようになった。

蘇我入鹿(645年没)の時代には、どうやら豆腐はまだ日本には入ってきてなかったらしい。

だが室町時代には女の豆腐売りが出現、近松半二の時代には人々の食生活にすっかり馴染んでいたことだろう。

近松半二は資料の少ない時代に、遠い飛鳥時代を思い描いた。
豆腐なら昔からあっただろう……と女官が豆腐を買いに行く場面を入れたのだろうか

日本国語大辞典で豆腐の例文を調べてみると、時代ごとに豆腐のイメージは微妙に現代とは違うのかもしれない……とも思う。

*本草色葉抄〔1284〕「腐豆(タウフ)」

*日葡辞書〔1603~04〕「Tofu (タウフ)〈訳〉豆を粉にして作った食物の一種で、出来たてのチーズに似たもの」

*俳諧・春の日〔1686〕「朝朗(あさぼらけ)豆腐を鳶にとられける〈昌圭〉 念仏さぶげに秋あはれ也〈李風〉」

日葡辞典をつくったポルトガル人にすれば、チーズに思えたのだろうか。
それにしても鳶にとられる豆腐とは、相当しっかりしている気がする。高野豆腐に近いものだったのだろうか。それとも油揚げなのか?

現代では、豆腐屋も、豆腐売りのラッパも遠くなってしまった。

これから先、豆腐はどう変わっていくのだろうか?
豆腐の移り変わりを思いながら、コンビニで売っていた豆腐プリンを深夜にひっそり食べる……。


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さりはま書房徒然日誌2023年8月26日(土)旧暦7月10日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読む—海を語ればー

惨劇のあと、船頭の大男と屋形船おはぐろとんぼは、「段切り灘」という海にでる。

おはぐろとんぼが感じる初めての海は、まず聴覚から描かれている。

次に海の音が作用する心の動きの変化を「どうでもよくなり」「溺れかけ」と語る。

次第に朦朧としてゆく意識の中、おはぐろとんぼは娘や野良犬の幻覚を語りだす。

海鳴りが心に及ぼす影響がつぶさに語られているから、読んでいる方にも海の音が聞こえ、おはぐろとんぼと同じく初めて海を見るような新鮮な体験を経験する。

……やがていつもと違う世界に囲まれている気がする。

果ては

水平線のはるか彼方から
スタジアムに詰めかけた大観衆のどよめきのごとき
とても低い周波数の海鳴りに圧迫され

その音にもならぬ心地よい音によって
真実から目を逸らさずに正邪の声を聞き分けることが
まったくもってどうでもよくなり

無邪気に推し進めたものの
いまだ実現されぬ
大分不鮮明な夢の潮流に巻きこまれて溺れかけ

肉の誘惑に負けた
引く手あまたの娘のように
みだりがわしさでいっぱいの
脱出不可能な逸楽に追いこまれ

虎斑の野良犬が放つ
不気味な殺気をよみがえらせ

地獄への順路を
まさに嫌というほど思い知らされ、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」593頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月25日(金)旧暦7月9日

中原中也「別離」ーリフレインの美しさ、豊かさー

福島泰樹短歌絶叫コンサートでよく朗読される中原中也「別離」

福島先生の「別離」朗読を聞いていると、文字だけ追いかけて読んでいるときには浮かんでこなかった様々な景色が浮かんでくる。

それも毎回違う風景が見えてくるから不思議だ。

福島先生が語ることによって、リフレインの一つ一つに色の異なる情が宿り、「別離」の世界がその都度見え方の異なる万華鏡のように立体的に見えてくる。

特に「あなたはそんなにパラソルを振る」を語る時の福島先生の表情、身振り、声に込められた感情が毎回微妙に違うようで、その都度、別の場面が浮かんでくる。
「あなたはそんなにパラソルを振る」というフレーズがあるゆえに、思いが地上のドロドロした感情を遠く離れて、刹那の幻影を結ぶような気がする。

以下、中原中也「別離」より(1)を引用。

中原中也 別離

さよなら、さよなら!
  いろいろお世話になりました
  いろいろお世話になりましたねえ
  いろいろお世話になりました

さよなら、さよなら!
  こんなに良いお天気の日にお別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い
  こんなに良いお天気の日に

さよなら、さよなら!
  僕、午睡の夢から覚めてみると
  みなさん家を空けておいでだつた
  あの時を妙に思ひ出します

さよなら、さよなら!
 そして明日の今頃は
 長の年月見馴れてる
 故郷の土をば見てゐるのです

さよなら、さよなら!
  あなたはそんなにパラソルを振る
  僕にはあんまり眩しいのです
  あなたはそんなにパラソルを振る

さよなら、さよなら!
さよなら、さよなら!

福島先生の短歌絶叫コンサートは毎月10日に開催される。次回は9月10日(日)、3時開演、7時開演の2回。



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さりはま書房徒然日誌2023年8月24日(木)旧暦7月9日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読む
ー惨劇の前の美しさー

屋形船おはぐろとんぼが語る徒然川の美しさ……。
こんな風に意外な言葉を組み合わせて、川の美しさを語ることができるのか……。
散文の可能性を教えてもらった気がする。
この直後に惨劇が待ち構えているとは……まったく予想させないし、惨劇の前だから美しさが心に沁みてくる。

深い意味に染まった
死に制服されざるものに対して
素知らぬ風を装いながら
滔々と流れる徒然川は、

水面のあちこちに
もしかすると滅度を得られるかもしれない儚いひらめきを
月影の反射光のようにふんだんにちりばめ

ささやかで劇的な形態をまとう
地名にちなんだ伝説に生気を与えつづけ

春夏秋冬を愛でながら
幾つもの夜明けを重ねて
そろばん高い猜忌のあれこれを
きれいさっぱり帳消しにし、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻494頁)

この章の最後、惨劇の後の大男の声の不気味さが荒れ寺の鐘に喩えられている。
美と隣り合わせの惨たらしさ……が生きていることなのだろうか?
惨たらしくても思わず読んでしまう表現だなあと思う。

いずれそのうち
維持する檀家もいなくなると
そう取り沙汰されている
荒れ寺の割れ鐘のような調子で
不安一辺倒に響き渡った。
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻523頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月23日(水)旧暦7月8日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読む
ー冷静に選んだ言葉による表現の面白さ!ー

屋形船おはぐろとんぼを降りて、かつて自分を捨てた女の家に向かう船頭の大男。
その心を後押しする声が、16人ものまったく異なる人間のものとして描かれている(たぶん)。

中でも嫌で頭にくる歴史上のあの人間をズバズバ、でも冷静に語る言葉が心に残る。以下引用。

平気で人を踏みつけにするろくでもない性格をむき出しにして
戦犯の前歴をひけらかすことにより
却って巨利と名声を博すようになった
番外の成功者……
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻460頁)

ほんとうにその通りだ。よくもピッタリ表現されたもの……。

大男と女が寄りを戻す場面。
二人の愚かさを描きながら、やはり視点は冷静で言葉は美しく……
でも、この書き方を実践するのは難しいと思う。

頑なにだんまりを決めこんだまま
不吉な感じの雲が垂れ下がった雨催いの空を横切る弓張り月の真下

多少のばらつきはあるものの
夕方にはつぼむ白い花の真上で

首鼠両端を持しながらも
着々と情痴に狂ってゆく男と女が、

日々の暮らしに屈託したことから
飲酒に依存するようにして

肝胆相照らす仲という仮面で装う必要もないほどの
一方ではどこまでも性愛的な
他方ではどこまでも打算的な
らせん状の親密さを増してゆき、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻487頁)

二人を厳しい目で見ながら、同時に美しくポエティックに語る……のは難しい。
たぶん私なら「許せないこいつ」という思いが強くなって、冷静さが崩れて罵倒してしまう……。たぶん

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さりはま書房徒然日誌2023年8月22日(火)旧暦7月7日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読む
ー川の流れは記憶の流れ—
—「思い出す」という言葉を様々に言い換えてー

徒然川を下る屋形船おはぐろとんぼ。
その脳裏に浮かんでは消えてゆく様々な人々。
そうか….川は丸山先生がテーマとされている記憶の流れそのものなのか。
以下の箇所、そんな老いから若きまで、おはぐろとんぼの、いや丸山先生の意識に浮かんだ庶民の姿がありありと描かれている。

それから「思い出している」のに、「思い出す」という言葉は一度しか使わずに、あとは色々表現を変えている。
丸山先生の指導を受けていると、「また同じ言葉」とよく指摘されるも、私の語彙はすぐに尽きてしまう……。
同じ言葉を繰り返さないという努力は、読者は気がつかないがとても大変なもの。
でも繰り返しを避けることで、それぞれが別のストーリーのような、そんな引き締まった感じが出てくるように思う。

何がどうなってそうなるのかについては
さっぱり解せないのだが、

異界へと旅立つ前に
全生涯の歓びをそっくり想い起こす
瀕死の年寄りの歪んだ笑顔なんぞがよみがえり、

まさに芳紀十八歳の娘の残香が
水の匂いを押しのけて辺り一帯に漂い、

安くてけっこう食い出のある天丼が目当ての客が
連日大挙して押し寄せた村の食堂のことが思い出され、

呵々大笑だけが取り柄の
いたって無芸な炭焼きが
とんだ心得違いから生じた妄念に悩む
見るからに気の毒な姿が追憶され、

舟運の便が良い徒然川と共に流れる
根も葉もない噂のひとつひとつが
厳寒の打ち上げ花火のように
楚然として闇に浮かび、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻447頁)



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