さりはま書房徒然日誌2024年2月12日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーとても小さな物で人間を語る面白さ!ー

十一月二日は「私は茶柱だ」で始まり、「あしたへ希望を繋ぐことなど到底不可能な 貧相な茶柱」が世一とその家族を観察する。
茶柱一本でこうも家族の反応が違うのか……それぞれの精神状態を描けるのかと感心する。
以下引用箇所。母親の胃袋へと飲み込まれた茶柱……その目を通して語られる胃の内部や茶柱の様子がどこか物悲しくもあり、ユーモラスでもある。

茶柱一本でかくも人間を語ることができるとは……と思った。

粗末な朝食や
   悲哀の断片や
      儚い望みなんぞで
         ぎっしりと埋まった胃袋のなかであっても
            私はかなり無理をして
               垂直の姿勢を辛うじて保っていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」133頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年2月11日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ー世俗の垢にまみれた存在とは対照的な世一!ー

十一月一日「私はバスだ」で始まる。
「観光客の数を少しでも増やすための窮余の一策」であるボンネットバスが、乗客や運転手や車掌、世一を語る。


噂好きで若い二人の乗客の会話に聞き入りながら、肝心な本質、「二人が駆け落ちしてきている」にまったく気がつかない……この車掌の愚かしさは、作者が嫌う田舎に暮らす人間特有のものなのだろうか?


若い二人を語る口調も辛辣である。

その場を言い繕うことに長け
   赤の他人に調子を合わせることが巧みで
      特にこれといって目途とするものがなくても易々と生きてゆかれる
         そんな手合いで


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」127頁 

若い二人がこんなに世間ずれしているだろうか……と疑問も湧くが。
そんな汚泥の中にあるような人間たちとは対照的なのが、最後に出てくる世一である。
若い二人がバスに手を振ると、世一は……

がらんとした通りを横切りつつある少年世一が
   私に成り代わって危なっかしい若者に手を振り返す。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」129頁 

「危なっかしい」若者も恐れる気配のない世一が、この世の狭苦しい常識を超えた大きな存在に思えてくる。



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さりはま書房徒然日誌2024年2月10日()

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー記憶の断片に自分と重なる顔を見つけることもあるー

スタイルはあっても、いわゆる起承転結できちっと収まるストーリーらしきストーリーがあまりない「風死す」……中々読み進まないという声もちらほら聞く。頑張ってストーリーとして理解されようとしているのではないだろうか……とも思う。

以下引用文にあるように、「通りすがりの他者の生の断片が」「不明な意味を有し」「順不同のまま」「迫り」なのだから、そこにストーリーを見つけようとしたら溺死してしまうのではないだろうか?

そうした 取り留めもない流浪の途中で偶然見かけた 通りすがりの他者の生の断片が
  まったくもって不明な意味を有し 順不同のままひとまとめにされて どっと迫り

(丸山健二「風死す」1巻507頁)

507頁の前の数ページでは、およそ40人の生がそれぞれ二行か三行で語られている。読んでいる方は道を通り過ぎる色んな通行人を眺める心地になってくる。

そのうち「あ、これは自分だ」という人物もいてハッとする。例えば以下の箇所。


たくさん語られている人物のうち、よく眺めると自分と似た顔を発見する……そんな楽しみもあるような気がする。

給料から天引きされることで実感が湧かず
  そのせいでいつまでも気づかぬ搾取を
    ふとした拍子に理解した労働者が


(丸山健二「風死す」1巻505頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月9日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー少年世一のピュアな行動ー

十月三十一日は「私は義手だ」で始まる。
キノコ狩の名人を支えてきた義手。

だがマムシを見かけた主人は鎌を大事にするあまり、義手で毒蛇を殺す。
その心無い行動に義手は傷つく。
義手だからこそ、ストレートに発散される傷心ぶりも、心動かされるものがある。

主人公・世一はキノコ狩りの名人の冷淡さとは対照的な行動をとる。そのピュアな部分が、「おのれの腕と見比べ」「実の籠もった握手」「言葉ではない言葉で別れを告げ」という言葉に強くあらわされている気がした。

全身の揺れが片時も止まらぬ
   奇々怪々にして気の毒な病人は
      きめ細かい川砂を丹念に擦りつけて私を洗い、

ついで
   自分のシャツでもって水気を拭き取り、

    それからおのれの腕と見比べながら
      実の籠もった握手を求め、

      日当たりのいい岩頭の上にそっと置いて
         言葉ではない言葉で別れを告げてから
            泳ぐような身のこなしで去った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」125頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月8日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー語らずして辛さを想像させるー

十月三十日は「私は嫌悪だ」で始まる。
嫌悪とは縁のなかった「心映えのいい人であった」女……。
彼女が身籠ると同時に腹に宿した「嫌悪」が、主人公・世一を、自分自身を語ってゆく。


この妊婦がどういう暮らしをしている人なのか具体的に作者は語らない。ただ冒頭の数行をもって、きっと辛い思いをしている人なのだろう……だから「心映えのいい人」が嫌悪を腹に宿すようになったのだろう……と推察させる。

そこから幾つもの切ないストーリーが、読み手の脳裏に生まれてくる気がする。

まだ若い妊婦の
   苛酷一辺倒の現世に向かってぽんと張り出した
      滑稽にして無様な形状の腹に宿る
         いかんともしがたい嫌悪だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」118頁)

妊婦の腹に宿る「嫌悪」が語る世一の姿は「さまざまな風を引き連れて」と相変わらず自由で不思議な存在である。
また「昼となく夜となく」という言葉にどこか不気味な存在でもあるように感じた。

半分ほど登ってから立ち止まって振り返った彼女は
   さまざまな風を引き連れて
      昼となく夜となく
         生地の隅から隅までを徘徊する少年を
            さも憎々しげにもう一度見やり


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」120頁
   


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さりはま書房徒然日誌2024年2月7日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー二行の文に一つのストーリーが凝縮されている!ー

495頁「されど 命旦夕に迫った今となって 生々しくも思い出されてならないのは」という文のあと、「〜でもなく」という否定で終わる文が12続く。

そのあとで「たとえば」で始まる思い出される事柄を記した文が27続いた後、最後「かれらの記憶が 束になって 寄せる」(503頁)と締め括られる。

この辺りの文の形で戸惑い、分からなくなってしまう人が出るのかもしれない……。

でも、英語圏の小説家にはこういう文を書く人がいたような記憶がある。not で始まる文が連続、for example で始まる文が連続……という英文に苦しんだ記憶があるのだが。はて誰だったのだろうか。

戸惑うかもしれないが、慣れてしまうと12篇の小説が、27篇の小説が凝縮されて並んでいるようで楽しい。

以下引用は、そんな思い出されることを記した27の文のうちの一つである。

戦中の体験に不快の念を持って未だに翻弄されつづけながら
  皇室に冷然たる眼差しを投げかけられない高齢者であり


(丸山健二「風死す」1巻498頁)

こうした二行単位の文に記された死を間近に控えた青年の記憶……わずかな文だけで自分の頭の中にストーリーが浮かんでくるような気がする。


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さりはま書房徒然日誌2024年2月6日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー躍動感のもとになる言葉ー

十月二十九日は「私は畑だ」で始まる。
語り手は蕎麦畑。耕している禅宗のお坊さんたちのことを皮肉を込めて語り、しびれを切らして「落石のごとき突然」な世一の出現を待ちわびる。

丸山先生が普段眺めているだろう大町の光景が浮かんでくるような文である。
「蕎麦などはむしろ手を掛けてやらないほうが上質になる」(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」115頁)ということも知らなかったし、
禅宗のお坊さんたちが蕎麦畑で作業をする……という姿も思い浮かべたことがなかった。
大町では、もしかしたら目にすることのある風景なのかもしれない。

登場した世一が随分と躍動感あふれるのは「ジグザグに突っ走り」「好きなだけ踏みしだき」「びゅんびゅん振り回してという強い言葉にあるのかもしれない。
さらに「陽光を撥ね返すほどの暗い奇声」「人間である限りは何をしても無駄」……そんな世一の不可思議な姿を考えてしまう。

「神も仏もあったものではない そんな世一を制止できる僧侶は皆無だ」(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」115頁)という最後の言葉はどこかユーモラスであり、作者の宗教への考え方を反映しているようにも思う。

だしぬけに登場した彼は
   高い土地から低い土地へジグザグに突っ走り
      収穫寸前の蕎麦を好きなだけ踏みしだき
         棒切れをびゅんびゅん振り回して薙ぎ倒し、


         降り注ぐ陽光を撥ね返すほどの暗い奇声を発し
            人間である限りは何をしても無駄という
               そんな意味の笑声を撒き散らして

                  悟り澄ました空間を
                     大いにかき乱した。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」116頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月5日(月)

変わりゆく日本語の風景

ー昼食(チュウジキ)から昼食(チュウショク)へー

文楽公演1部「仮名手本忠臣蔵」を観に行った。文楽は江戸時代の上方の言葉のままで語られる。言葉のタイムトラベルを楽しめるのも文楽の醍醐味の一つだと思う。一方、歌舞伎は分かりやすさを求めてだろうか……言葉をほぼ現代のものに置き換えている。
今日「後に残るは昼食(チュウジキ)の握り飯」という官兵衛の義父の言葉が心に引っかかった。
昼食(チュウジキ)は、今では殆ど使われない言葉のように思う。いったい、どんな風にして昼食(チュウジキ)から昼食(チュウショク)に変わっていったのだろうか?

日本国語大辞典でまず昼食(チュウジキ)の例文を調べてみる。

室町時代から明治時代まで使われていたようで例文がある。


*運歩色葉集〔1548〕「昼食 チウジキ」

*日葡辞書〔1603~04〕「Chùjiqi (チュウジキ)。すなわち、ヒルイイ。または、ヒルメシ〈訳〉正午の食事」

*浮世草子・新色五巻書〔1698〕二・一「風呂敷より握飯の昼食(チウジキ)喰しもふと始まり」

*破戒〔1906〕〈島崎藤村〉一一・一「昼食(チウジキ)の後、丑松は叔父と別れて」


次に昼食(チュウショク)の例文を調べてみる。
昭和以降の例文しかないから、もしかしたら昼食(チュウショク)という読み方は比較的最近になって生まれたのかもしれない。


*苦心の学友〔1930〕〈佐々木邦〉若様の御手術「先生から予め注意があったので昼食(チュウショク)は取らない」

*白い士官〔1930〕〈阿部知二〉五「昼食(チウショク)がをはった。堀田はうとうとゐねむりする」


さらに日本国語大辞典「昼食」の語誌の箇所にあった説明を要約すると以下。どうやら食生活の習慣と共に表記も変化してきたようである。


古代の日本人の食生活は、現在とは異なり朝食と夕食の二食であり、昼に食べる食事は間食として意識されていた。これが正午(日中)に食する 食事と時間的に近く、朝と夕の中間ということも表わすので朝食と夕食との間にとる食事 の意が生じた。後、次第に三食が一般化したことにより、朝食、夕食に対して昼にとる食事ということで、同音の「昼食」とも表記されるようになったと思われる。(日本国語大辞典より要約)


習慣と共に言葉も変化してゆく。孤食、飽食の現代、食を表す言葉はどう変化するのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年2月4日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーイメージを考えることで余韻が生まれる気がするー

「私は扉だ」で始まる十月二十八日。

まほろ町に開設された「小型の火器を懐に帯び」「いずれもが欠損している異様な手」の男たちが出入りする事務所の扉が語る。


常識の範囲で生きる「まほろ町」の住民たちが男たちや事務所を恐れる様子、恐れられている男たちの様子……そうしたものがどこかユーモラスに書かれている。


そんな町民たちが恐れる事務所の扉に落書きをする世一は、どこか不思議な存在である。


最後が「その絵は鳥のようでもあり髑髏のようであった」とあるので、世一が飼っているオオルリの姿なんだろうか、それが髑髏に見えるとはどんな形?と思い浮かべ、しばし余韻を楽しんだ。

ところが
   夜更けになってやってきた
      不治の病のせいなのか
         怖れというものを知らない少年が
            拾ったチョークを使って
               私の面に落書きをし


               その絵は鳥のようでもあり
                  髑髏のようであった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」113頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年2月3日(土)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー「詩」を語っているような言葉ー

以下引用文。
「魂の上澄みをすくって飲んだようなそんな思い」という箇所で、「魂の上澄み」ってどんな色、どんな味?と感覚に訴えてくるものがある。


「雨といっしょに舞い降りた 霊像のごとき雅な詩」という箇所、「雨といっしょに舞い降りた」という感覚が、詩人の主人公が詩を語るのにぴったりな表現だと心に残る。


「まろびゆく世界をかく在るべき姿に変えて」という表現も、 詩の働きをよく表しているように思う。


「銀灰調の光」も詩語のイメージだし、「心不在の嘆き」という語も一瞬どういうことだろうと考えたが、本来の詩は言葉が感情より先頭に立って紡いで行くものなのかも……と思った。

        こ
       う言っ
      てよければ
     魂の上澄みをす
    くって飲んだような
   そんな思いで 清廉な心
  地に浸ることができた 雨と
 いっしょに舞い降りた 霊像のご

  とき雅な詩が まろびゆく世
   界をかく在るべき姿に変
    えて 銀灰調の光が
     速やかに流れ去
      った 心不
       在の嘆
        き 


     (丸山健二「風死す」1巻)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーボートにこれほど思いを込めるとは!ー

十月二十七日「私は交情だ」と始まる。
二人の老人の間に続く交情が、老人を、まほろ町の人々や風景、世一を語る。
そのなかでも、まほろ町の湖に浮かぶボートを語る文に、ありふれた存在にかくも見えないロマンと性格を感じるのだろうか……と作者の視線が心に残った。

湖上に浮動する物体は
   死者の魂を好んで運びたがるボートで
      かなり大胆な自己顕示欲であるにもかかわらず
         菊の花の鮮やかさに圧倒されて
            人々の目に止まることはない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」109頁

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