さりはま書房徒然日誌2024年2月19日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーその物に相応しいストーリーを楽しむー

昨日書いた文を読んでくださった方が、「丸山先生の『死』に語らせるという発想、それから五感を使った描写に新鮮さとユニークさを感じた。こういう発想はどこから生まれてくるのでしょうか」という趣旨の感想をくださった。拙文を読んでくださり有難い限りである。

「死」に語らせた場面は、無類の映画好きの丸山先生らしい、映画の一場面であっても不思議ではない書き方のような気がした。丸山作品には、時々、映画を思わせる場面が出てくることがよくある。
語ることのない物たちが語りながら進んでゆく……という「千日の瑠璃 終結」の設定も、その物ならではのストーリーもあり、表現もあるようで楽しみながら読んでいる。

さて十一月七日は「私はラジオだ」で始まる。それも「鉱石の検波器を用いた 高齢者に懐かしがられてやまぬラジオ」と年代物のラジオのようである。
そんなラジオの持ち主は「殊に軍隊時代の話は避けている男」である。
新しいラジオをプレゼントされても、古いラジオを手放そうとしない主のために見せるラジオの思いやりが、なんとも幻想味があって心を打つものがある。

たしかにこういうストーリーはどこから生まれてくるのだろうか……不思議である。

だから私は
   せめてもの感謝の意を込めて
      死んだり離れたりして遠のいた身内や戦友の声に
         限りなく近い声のみを選び出し、

それをより誇張して
            彼の心の奥まで送り届けてやり
               ときには涙を受け止めてやった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」151頁

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年2月18日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー感覚のない筈の死体を感覚をフルに発揮して書けば……ー

十一月六日は「私は死だ」で冒頭が始まる。そのあとは以下引用文のように続く。この「死」がどうやって語り手になるのやら、一瞬戸惑う。

ついさっきまでこの世に在ることの喜びと
   限界の速度に挑むことの陶酔を満喫していた人間を奇襲した
      あまりに呆気ない死だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」146ページ)

だが、その後に続く以下引用文にあるように、死の場面が、音、体温、周囲の田んぼの景色と五感で具体的に語られるおかげだろう。抽象的な死が、急に身近な語り手に思えてくる。
しかも田んぼの一点として語ることで、視点が若者の死に否応なしに向けられる気がする。

死体のまわりの感覚をとらえ、しかも死体を広い空間に置いて眺めることで、映像が鮮やかに浮かんでくる。だから語り手が死であっても納得できる気がする。

私は今
   まだエンジンがぶんぶんと唸りをあげている最新型のオートバイと
      体温を急速に下げつつある若者と共に
         取り入れが済んでから大分経つ田んぼの片隅に
            無様にひっくり返っている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」146ページ


カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年2月17日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー作者が色濃く投影されている!ー

「私は野良犬だ」で始まる十一月五日は、「明日のことなど考えたこともない 典型的な野良犬」が世一を語る。

作者の理想とする姿が野良犬に投影されているようでもあり、また世一にも作者の想いを見るような気がする箇所である。

以下引用箇所。野良犬が語る自身の姿。「自由の大きさと深さ」という言葉は、自由を大事にしている丸山先生だからこそ、心から発する表現のように思えてならない。

わが自由の大きさと深さを心底から理解してくれているのは
   世一ただひとりでしかなく、

   少なくとも私の方は
      世一の自由の素晴らしさを充分過ぎるほどわかっているつもりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」143頁) 

以下引用箇所。読み手が抱いていた不自由なところのある世一……という姿をくるりと回転させ、考えさせ始める表現である。

彼はまさに人間でありながら
   同時に人間以外のすべてでもあって


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」144頁) 

以下引用は、この日の最後の部分。
「されど孤にあらず」は丸山先生のエッセイのタイトルだ。世一は、丸山先生自身と宣言する言葉のように思え、作者の世一への深い共感を感じてならない。

子供らしからぬ声で
   「されど孤にあらず」と
      そう言い放ったのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」145頁) 

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年2月16日(金)

酒を語る文がかくも違うとは!「千日の瑠璃 終結」「風死す」の酒が出てくる場面を比べる

最近、丸山先生がNOTEに書かれているエッセー「言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から」を楽しく拝見している。
エッセーの文体、「千日の瑠璃 終結」の文体、「風死す」の文体……それぞれが違っていて、それぞれ別の良さがある。
丸山先生の色んな部分を見る思いがするし、一人でこれだけ文体を書き分けるとは!と驚く。

さて「酒」を題材にしても、まったく語り方が異なるもの……と思った箇所を「千日の瑠璃 終結」と「風死す」から見てみたい。

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー場末感ー

以下引用文。「臓物のごとく入り組んだ袋小路」「焼酎」「売れ残りの干物」と場末感がたっぷりである。

私は酒場だ、

   臓物のごとく入り組んだ袋小路の一角にあって
      酒は焼酎
         肴は売れ残りの干物しか出さない
            田舎暮らしを侘びる連中のための酒場だ。


(丸山健二「千日の瑠璃」138頁)

以下引用文。そんな場末にやってくる者たちらしい描写である。

全ての文が「者」で終わって、普通なら重苦しさを感じる筈なのに重圧感がなく、かえってリズムが生まれている気がする。

なぜなのだろうか?分からない。

「者」の前にくる言葉がすべて音を発する言葉だから、重苦しい気が発散されたまま「者」という言葉に収束されるのだろうか?

最初が「怒鳴り散らす者」で、最後が「床にぶっ倒れてしまう者」とド派手な点も、重苦しさを消し去っているのかもしれない。

にこやかな笑みを突然消し去って怒鳴り散らす者
   唯一の得がたい体験を幾度となく語る者
      意気消沈の臭い芝居を延々とつづける者
         放心状態で後悔と怨念の歌をくり返し口ずさむ者
            髀肉の嘆を託つうちに床にぶっ倒れてしまう者、

(丸山健二「千日の瑠璃」138頁)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー踊り子たちの動きが見えてくる!ー

同じように酒を飲むなら、こういう体験をする方がいいなと思った。
延々と続く長い文が、酔眼をとおして眺める「踊り子たち」の舞い、揃いの着物、華やかな集団を表現している気がした。

春の月夜に酩酊して浮かれ歩こうと思い 暖かいそよ風が吹く河畔に沿った直後に
   満開の桜の下で差す手引く手も鮮やかに舞う 揃いの着物を纏う踊り子たちの
      それ以上望むべくもないほど華やかな集団と ばったり出会ったところで
         なぜかは知らぬが しこたま飲んだ酒の効き目はまったく認められず


(丸山健二「風死す」1巻534頁) 

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年2月15日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」を少し読む

ー漢字一字でイメージがガラリと変わる!ー

十一月三日は「私は頽廃だ」で始まる。

「頽廃」も「退廃」も意味、読みは同じだと思うが、辞書で調べてみれば「頽」には「崩れる」という意味があり、「退」には「しりぞく」という意味があるのだろうか。
だから「頽廃」の方がより荒んだイメージが出るように思う。

世一が住む「まほろ町」を覆う「頽廃」が語る町の様子も、人々の様子も、「まほろ町」というよりも、日本全体を表しているような気がしてならない。

以下引用文。
「停滞の底に横座りになる」「気休めの言葉の上に 長々と寝そべる」という言葉が、「まほろ町」の住民の雰囲気をよく表しているし、ここまで飛躍して表現できるのかと参考になった。

住民の精神はとことん朽ち果てて
   もはや先行きの心配すらしなくなり
      深刻な難局に当面しているという自覚も持ち合わせておらず、

      絵に描いたような僥倖を待ちくたびれたかれらは
         痺れをきらして安寧もどきの停滞の底に横座りになるか
            さもなくば

               一時不安を解消する気休めの言葉の上に
                  長々と寝そべるばかりだ。


(丸山健二「風死す 終結 1」135頁 


カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年2月14日(水)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ー思いもよらないイメージ同士がピッタリハマる不思議さ!ー

目に見えないもの、嫌なものをこういう形で表現するか……と新鮮な驚きがある。いつまでもズルズルと引きずっている感じ、どこか権威的な滑稽なところがあるイメージがピッタリ自己嫌悪と重なって、すごく印象に残る。これから映画やテレビドラマで大名行列の場面を見るたびに、この文を思い出してしまいそうだ。

大名行列の供揃いに似た形で連なり行く自己嫌悪のあれとこれを
  すっぱりと断ち切ってから

(丸山健二「風死す」1巻512頁)

以下引用文。近づく死を語る主人公の言葉。「ぽっかり浮かび」「どうでもよく」「崩れ果て」「滅びてゆき」という言葉に、「死が差し迫って」いる感じがよく出ている気がした。遠くに何かを眺めながら、周囲が崩れてゆく……という感覚になるのかもしれない。

今さらおめおめと帰れぬあの郷里が
  薄明の夜の片隅にぽっかり浮かび

  未見の地と人はどうでもよく

    胸に宿る実在の魂が崩れ果て

      正義が永劫に滅びてゆき

        悪魔の代弁者と化し

          答弁は玉虫色で



          死が差し迫って
            肉の情念が
              弱まる。


(丸山健二「風死す」1巻512頁)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年2月13日(火)

移りゆく日本語の風景

ー「お前」という言葉ー

「お前」という言葉の変遷については、はるか昔、高校時代に古典の時間でやったかも……という気もしなくもないが、復習を兼ねてもう一度。

文楽2月公演第3部「双蝶々曲輪日記」を観ていたら、見受けされた遊女・吾妻が姑に「さりながら。お前」と呼びかけていた。この時代の「お前」の使われ方は、現代とは違うのだなあと日本国大辞典で調べてみた。


「お前」の意味、用例、語誌ついてー日本国大辞典よりー

(1)目上の人に対し、敬意をもって用いる語。近世前期までは、男にも女にも用い、また、男女とも使用した。

*蜻蛉日記〔974頃〕中・天祿二年「御まへにもいとせきあへぬまでなん、おぼしためるを見たてまつるも、ただおしはかり給へ」

*打聞集〔1134頃〕「此所をば寺に立て給へ。をまへにゆづりまうす」

*うたたね〔1240頃〕「あな心憂。御まへは人の手を逃げ出で給か」

*歌舞伎・姫蔵大黒柱〔1695〕一「是はお前を祝ひましての事で御座ります程に、構へてお腹を立てさしゃんすな」

*浮世草子・世間娘容気〔1717〕一・男を尻に敷金の威光娘「お前にもあんまりこはだかに物おほせられて下さりますな」

(2)対等もしくは下位者に対して用いる。親愛の意を込めて用いる場合もある。江戸後半期に至って生じた言い方。

*俚言集覧〔1797頃〕「御前(オマヘ)。人を尊敬して云也、今は同輩にいふ」

*滑稽本・浮世風呂〔1809~13〕前・上「西光(せへかう)さん、おまへの頭巾(づきん)はいつもよりあたらしくなったやうだ。わたしが目(め)のかすんだせへかの」

*安愚楽鍋〔1871~72〕〈仮名垣魯文〉二・上「ネエおはねどん、おまへのまへだが、伊賀はんといふ人もあんまりひけうなひとじゃァないか」

*尋常小学読本(明治三六年)〔1903〕〈文部省〉五・六「おまへは、人が、なつ、かぶる麦藁帽子は、なんで、こしらへたのだか、しってゐますか」

*墨東綺譚〔1937〕〈永井荷風〉六「馴染の女は『君』でも『あんた』でもなく、ただ『お前』といへばよかった」

語誌

【二】の例は、江戸前期までは、敬意の強い語として上位者に対して用いられたが、明和・安永(一七六四~八一)頃には上位もしくは対等者に、さらに文化・文政(一八〇四~三〇)頃になると、同等もしくは下位者に対して用いられるようになり今日に至った。ただし方言としては、今も上位もしくは対等者を呼ぶところが点在する。


最後に…。

敬意の意味での例文の最後は1717年、対等の意味での例文は1797年のものである。わずか80年の間に「お前」の使われ方が敬意を表すものから、対等を表すものへ変化したのである。ずいぶん変遷が早いのではないだろうか。

「双蝶々曲輪日記」が最初に上演されたのは1749年、書かれたのも同じ年だろう。まだ1749年の上方では、「お前」という言葉は敬意を込めた表現だったことがわかるのではないだろうか。それから48年後には、「お前」は対等表現に変わるのである。

日本語という言葉はなんと移り変わりの激しい言葉なのだろうと思う。それだけ変化を受け入れやすい柔軟な言葉なのかもしれないが。
10年先、20年先の日本語はどこに向かっているのだろうか?きっと「お前」に匹敵する変化があるのではないだろうか?

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年2月12日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーとても小さな物で人間を語る面白さ!ー

十一月二日は「私は茶柱だ」で始まり、「あしたへ希望を繋ぐことなど到底不可能な 貧相な茶柱」が世一とその家族を観察する。
茶柱一本でこうも家族の反応が違うのか……それぞれの精神状態を描けるのかと感心する。
以下引用箇所。母親の胃袋へと飲み込まれた茶柱……その目を通して語られる胃の内部や茶柱の様子がどこか物悲しくもあり、ユーモラスでもある。

茶柱一本でかくも人間を語ることができるとは……と思った。

粗末な朝食や
   悲哀の断片や
      儚い望みなんぞで
         ぎっしりと埋まった胃袋のなかであっても
            私はかなり無理をして
               垂直の姿勢を辛うじて保っていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」133頁)


カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年2月11日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ー世俗の垢にまみれた存在とは対照的な世一!ー

十一月一日「私はバスだ」で始まる。
「観光客の数を少しでも増やすための窮余の一策」であるボンネットバスが、乗客や運転手や車掌、世一を語る。


噂好きで若い二人の乗客の会話に聞き入りながら、肝心な本質、「二人が駆け落ちしてきている」にまったく気がつかない……この車掌の愚かしさは、作者が嫌う田舎に暮らす人間特有のものなのだろうか?


若い二人を語る口調も辛辣である。

その場を言い繕うことに長け
   赤の他人に調子を合わせることが巧みで
      特にこれといって目途とするものがなくても易々と生きてゆかれる
         そんな手合いで


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」127頁 

若い二人がこんなに世間ずれしているだろうか……と疑問も湧くが。
そんな汚泥の中にあるような人間たちとは対照的なのが、最後に出てくる世一である。
若い二人がバスに手を振ると、世一は……

がらんとした通りを横切りつつある少年世一が
   私に成り代わって危なっかしい若者に手を振り返す。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」129頁 

「危なっかしい」若者も恐れる気配のない世一が、この世の狭苦しい常識を超えた大きな存在に思えてくる。



カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年2月10日()

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー記憶の断片に自分と重なる顔を見つけることもあるー

スタイルはあっても、いわゆる起承転結できちっと収まるストーリーらしきストーリーがあまりない「風死す」……中々読み進まないという声もちらほら聞く。頑張ってストーリーとして理解されようとしているのではないだろうか……とも思う。

以下引用文にあるように、「通りすがりの他者の生の断片が」「不明な意味を有し」「順不同のまま」「迫り」なのだから、そこにストーリーを見つけようとしたら溺死してしまうのではないだろうか?

そうした 取り留めもない流浪の途中で偶然見かけた 通りすがりの他者の生の断片が
  まったくもって不明な意味を有し 順不同のままひとまとめにされて どっと迫り

(丸山健二「風死す」1巻507頁)

507頁の前の数ページでは、およそ40人の生がそれぞれ二行か三行で語られている。読んでいる方は道を通り過ぎる色んな通行人を眺める心地になってくる。

そのうち「あ、これは自分だ」という人物もいてハッとする。例えば以下の箇所。


たくさん語られている人物のうち、よく眺めると自分と似た顔を発見する……そんな楽しみもあるような気がする。

給料から天引きされることで実感が湧かず
  そのせいでいつまでも気づかぬ搾取を
    ふとした拍子に理解した労働者が


(丸山健二「風死す」1巻505頁)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする