さりはま書房徒然日誌2023年8月4日(金)旧暦6月18日

移り変わる日本語の風景ーひまわりー

夏の花といえばヒマワリ。映画にも、ポピュラーミュージックにも、アニメにも、朝ドラにも、絵画にも……ヒマワリはテーマとして使われ、ヒマワリが氾濫している感じがある。

だが日本でヒマワリが題材として文学作品で扱われるようになったのは、近年になってからではないだろうか?

ヒマワリは北米原産、日本に渡来したのは江戸時代らしい。だが江戸時代、殆ど文学作品にヒマワリは登場しない。ヒマワリの異名、向日葵、ひぐるま、にちりんそう、てんがいばな等で調べても、どうも愛されているような気配のある例文はない。

ジャパンナレッジで調べてみると、多いのは植物図鑑からの例文。

*花壇地錦抄〔1695〕四、五「日廻(ヒマハリ) 中末 葉も大きく草立六七尺もあり。花黄色大りん」

*日本植物名彙〔1884〕〈松村任三〉「ヒマワリ 向日葵」

*訓蒙図彙〔1666〕二〇「丈菊(ぢゃうきく) 俗云てんがいばな 丈菊花(ぢゃうきくくゎ)一名迎陽花(げいやうくゎ)」

文学作品への登場はとても少ないし、たまに見かけてもヒマワリが可哀想になる例文である。

*雑俳・大花笠〔1716~36〕「日車じゃ・旦那にほれた下女が顔」

次の山口誓子の俳句になってから、だんだん風情を感じてもらうようになったのではないだろうか?

*炎昼〔1938〕〈山口誓子〉「向日葵(ヒマハリ)に天よりも地の夕焼くる」

中原淳一が少女向け雑誌「ひまわり」を刊行したのは、山口誓子の俳句から九年後のことである。だんだんヒマワリの華やかなイメージも受け入れられるようになってきたのではないだろうか?

なお「てんがいばな」という響きが素敵だな……と思ったけれど、「ヒガンバナ」と「ヒマワリ」、両方を指すらしい。ずいぶんかけ離れた花同士のように思うが、なぜなのだろう?

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さりはま書房徒然日誌2023年8月3日(木)旧暦6月17日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー屋形船おはぐろとんぼが徒然川の流れをたとえればー

「おはぐろとんぼ夜話」下巻の冒頭は結構手強かった。

屋形船おはぐろとんぼが徒然川の流れを見ながら、あれこれ思索に耽る場面。

「おはぐろとんぼ」は丸山先生自身でもあると思う。

つまり川の流れが丸山先生の心に喚起する概念が、どっと私の心に流れ込んでくるようなものだ。

その思念の深さに、気がつけば置いてけぼりをくらっている。でも落ちこぼれているのに日本語が心地よく苦にならない……それではいけないと二度繰り返して読む。

以下の引用箇所は、屋形船おはぐろとんぼが徒然川の流れをあれこれと色んなものにたとえている……のだと思う。

擬人法でずっと語られてゆく徒然川……その例えがとても面白く、今までとは違う世界が見えてくる。

とくに最後の「十字形花冠が似合う節足動物」という漢字が喚起するイメージに惹かれてしまった。

十字形花冠とは「4枚の同形同大の花弁が十字の形に並んでいる花冠で、アブラナ科の花がこれに属する」(旺文社 生物事典」)らしい。

節足動物はエビ、カニとかクモやダニらしい。

「十字形花冠が似合う節足動物」という言い方は思いもよらなかったけれど、ぴったり。

そしてカタカナで「ナノハナ」「クモ」と表現されるものとは、まったく別の生き物になるようなパワーがある。

言葉とは不思議なもの……言葉の力を感じた次第。

植物のあいだで交わされる言語を解すること

それ自体が無理だというのに

波音の波長をさかんに切り替えながら

執拗に迫り、

街角の小暗い場所に設置されている

青春の放胆さがいっぱいに書き殴られた

ぼろぼろの伝言板を

いかにも唐突に想起させるのだ。

もしくは

漢方薬のようにじわりと効いてくる

もってのほかの苛立ち……

端午の節句の由来をたどるくらい

どうでもいいこと……

悪評を買うばかりの

お上への泣訴……

恒常的に不快に思ってしまう

アルファにしてオメガなるもの……

それらを

なぜか十字形花冠が似合う節足動物といっしょに

みごとに連想させ

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻10ページ)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月2日(火)旧暦6月16日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻を読みながら比喩を少し考える

丸山文学の面白さのひとつに、思いもよらない比喩表現がある。

こんな例えは出会ったことがない……という表現に次から次へと遭遇。

その度に、わたしの思い込みの激しい頭で決めつけていた世界が少しずつ崩壊して、新しい目でこの世を眺めている面白さがある。

だが考えてみれば、学校の国語教育では「比喩」の意味を教わることはあっても、その楽しみ方や比喩にチャレンジした作文なんて教えを受けることはほとんどなかった。

こんな現状では、たぶん丸山作品の面白い比喩に出会っても、たいがいの人は「これなに、分からない」で終わってしまうのではないだろうか?残念なことではある。

さて、船頭の大男がゆきずりの女との恋を楽しみ、屋形船おはぐろとんぼが憤りにかられつつも、次第に諦めてゆく場面。

全体にぬらりとした感じの妖美を漂わせる

紫がかった峰の端に

なぜか碾き割麦を彷彿とさせる月がゆらりと昇る頃には

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻582頁)

心になぜか「碾き割麦を彷彿とさせる月がゆらりと昇る頃」というフレーズが刺さり、イメージを反復したり、なぜ気になるのか……考えてしまう。

まず無知の悲しさで「碾き」という漢字の読みが自信なく、調べて「ひき」でよい……と確認。

さらに「碾き割麦」というものがイメージできないながら、麦畑の麦のイメージと月を重ねることで、心惹かれてゆく。

「碾き割麦」を調べてみると、イメージとは少し違うなあ……

ミューズリーの押し麦みたいなものかなあ……

サイズ感は違ってもゴツゴツした感じが月とぴったりかも……

小さい感じが夜空に遠く見える感じと重なってよいかも……などと思う。

碾き割麦」も、「月」も自然界のものだから、かなりイメージが違うようでも、意外とぴったりするのだろうか?

それとも、ここは大男の恋の場面だから、「ぬらり」「峰」「碾き麦」とかセクシュアルな意味も重ねているのだろうか?

英語だったら、”as”とか”like”が使われて、訳文も「〜のように」とワンパターンになりがちだけど、日本語だと「彷彿とさせる」という言い方でバリエーションをつけられるのも面白いと思う。

続く大男が女との恋に激情を感じる場面でも、麦関連の比喩で例えている。

有数の穀倉地帯に

突如として殷々たる砲声が轟くような

強烈な衝撃が立てつづけに走り

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻582頁)

読んでいると違和感がなく、かけ離れた例えが不思議に心に残る。穀倉地帯も、恋も自然の営みだからなのだろうか?

そういえば、丸山健二塾でご指導をいただいていると、こんな発想で比喩を使うのか!とやはり比喩がとても勉強になることを思い出した。

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さりはま書房徒然日誌2023年8月1日(火)旧暦6月15日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻を読む

まるで山の仙人さまみたいに俗世から離れた視点で、鋭い語りを続ける屋形船「おはぐろとんぼ」……この語り口は記憶にあるが、はて誰なのやら?

不思議な屋形船おはぐろとんぼ……それは作者の丸山健二先生が投影された姿なのかも……と、以下の文に思った。

どう頑張ったところで

でしゃばりな性状を自制することができなくても

人間観察に関してだけはいささか自信を持っている

この私からすれば

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻508頁)

これは丸山先生そのものだ。作者が船に姿をかりて語るとは……散文は面白い。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月31日(月)旧暦6月14日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻を読む

世に蔓延る嫌な風景を思うままに並べ、最後に「お盆前の雑草のごとくほとんど無制限にはびこっていった」と締めくくる。

嫌なことが書いてあるのに、思いも寄らない表現なので、どこか言葉を楽しみながら読むことができる。

突拍子もない言い方が最後に「お盆前の雑草」というドンピシャの、生活感にあふれる文で終結すると、「そうだなあ」と思わず納得する。

「おはぐろとんぼ夜話」は慣れるまでは読みにくいかもしれないが、慣れてしまうと詩のように次々とイメージが連なっていくのが楽しい。散文の醍醐味を感じる作品だと思う。

人生の舞台の中央に集光する

からかいの言葉にも似たどぎつい輝き……

肉体に縛りつけられていることが原因の

ひどく恥さらしな試練……

防潮林のごとき地味な役回りに甘んじている

心の安全弁の腐朽……

生き抜くためならなんでもござれの

度を越した善悪の逸脱……

結果的に魂を誤らせることになる

どこまでも欲望の流れに沿った放言……

そういったものが

お盆前の雑草のごとく

ほとんど無制限にはびこっていった…

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻488頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年7月30日(日)旧暦6月13日

ジャパンナレッジの日葡辞書の例文に暑さを忘れて

暑さや諸々の憂いを忘れるには……?

私の場合、異なる言葉に身をゆだね、その向こうの世界に想いをめぐらすことだろうか……?

異なる言葉が英語の場合もあるが、あまりにも違いがありすぎて、かえってストレスが高くなることもある。

その点、昔の日本語に身をゆだねると、今と繋がりがあるようでいて、どこか違う差異が驚きでもあり、楽しさでもある。

昔の日本語との出会い方は色々あるだろうが、ジャパンナレッジで日葡辞書の例文をボケッと眺めるのも楽しい。

ジャパンナレッジのサイトにある日葡辞書についての今野真二氏の説明は、以下のとおり。

イエズス会の宣教師たちと日本人信者とが協力して編んだと考えられている『日葡辞書(にっぽじしょ)』という辞書がある。慶長8(1603)年に本編が、翌9(1604)年に補編が出版されている。日本語を見出しとして、それにポルトガル語で語釈を配した、「日本語ポルトガル語対訳辞書」である。

 見出しはアルファベットによっていわゆるローマ字表記されている。例えば「松茸」は「Matçudaqe」というかたちで見出しになっている。イエズス会の宣教師たちはポルトガル語を母語としているので、このローマ字のつづり方はいわば「ポルトガル式」ということになる。

日葡辞書とは、1600年頃の日本語の発音、アクセント、意味がわかる言葉のタイムマシンなのだ。

ジャパンナレッジのサイトで、日本国語大辞典、日葡辞書と入力、さらに細かい言葉を入力する。

例えば「夏」と入力すると、日葡辞書にある「夏」関係の言葉が13件ヒットする。

その中の「夏熱」の項目は以下のとおり。

日葡辞書には「暑さ」「暑い」「寒さ」「寒い」という言葉はないようだ。昔が暑くなかった筈がない。そういう簡易な語彙は外したのだろうか……?

ジャパンナレッジは有料サイトだが、言葉のタイムトラベルを楽しむことができるのでオススメ。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月29日(土)旧暦6月12日

仁木悦子「子をとろ 子とろ」を読む

民話調のタイトルも響きがよく、「読んでみたい」と興味をそそられる。

子供を見ると追いかけてくる「子とろ女」の怪談が大切なベースとなっているのも面白い。

怪談に怯える子供たちの様子も生き生きとしている。

だが40ページの短さに登場人物がおそらく15人以上。人物への説明が多くなり、せっかくの怪談風味を打ち消している。こんなに人物説明が必要だろうか?

冒頭部分から母親が、自分の子供を「幼稚園から帰っておやつを食べていた息子の哲彦」とか「哲彦の妹の鈴子」と、読み手に説明するのも白ける思いがする。

最後、犯人の状況について色々説明して犯行動機を納得させようとするところも、何だかわざとらしいし、もう少しそういう雰囲気を書いておいて欲しかったと思う。

タイトルと怪談そのものがよかっただけに残念である。怪談とミステリーの両立は難しいのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2023年7月28日(金)旧暦6月11日

移りゆく日本語の風景ー病院ー

今日は定期通院で総合病院へ。通院している病院は遅くなればなるほど、診察、会計、薬局と雪だるま式に待ち時間が長くなってゆく。だから朝一番に予約する。

総合病院、病院、医院という言葉だが、もとは病院という言葉があって、だんだん区別するような形で総合病院、医院と別れていったらしい。他の言葉に比べると、文学上の例文はあるけれど、多くはない気がする。

日本国語大辞典によれば、病院は

もとは中国明代末にヨーロッパから渡来したキリスト教宣教師による漢訳語。日本へは、蘭学者によって、近世後期に紹介され、次第に広く使用されるようになった。

とのことで、例文も最初の頃は外国の話の聞き覚え的な本に出てくる。

*紅毛雑話〔1787〕一「病院 同国中にガストホイスといふ府あり、明人病院と訳す」

*七新薬〔1862〕七「プロムトン〈略〉の大病院にては、少壮の人肺労の素因ある者に之を常服せしめて、其病の発生を防ぐと云へり」

近代文学の中に出てくる病院、医院、総合病院。それぞれ雰囲気が出ているなあと思うが、やはりどこか寂しい心が伝ってくる。病気もしがちだったろう文学者たちにとって、病院は身近だけれど、あまり書く気のしない場所だったのかもしれない。

まずは病院から。

*悲しき玩具〔1912〕〈石川啄木〉「病院に入りて初めての夜といふに すぐ寝入りしが 物足らぬかな」

次に医院。こちらは病院より小規模のものを言うためか、裏寂しい描写が強まっている気がする。

*うもれ木〔1892〕〈樋口一葉〉五「押たてし杭(くひせ)の面に、博愛医院(イヰン)建築地と墨ぐろに記るして」

*田舎教師〔1909〕〈田山花袋〉五九「門にかけた原田医院といふ看板はもう古くなって居た」

最後に総合病院。安心と信頼を感じる描写のような気がする。

*マヤと一緒に〔1962〕〈島尾敏雄〉「K市にある設備のととのった綜合病院で一度診察してもらうことは」

*暗室〔1976〕〈吉行淳之介〉一四「週に二回、都心の綜合病院へ行って、アレルギーのための注射を打ってもらう」

(以上、青字は全て日本国語大辞典よりの引用)

読んでいるときは病院、医院、総合病院……全く意識しないで読んでいたけれど、こうして比べてみると、それぞれの描写に書き手の心境が現れているなあと思う。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月27日(木)旧暦6月10日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

屋形船おはぐろとんぼは徒然川を下ってゆくうちに、里山の露草村を離れ、都心部へと近づく。

だんだん見えてくる人間の在り方も寂しいものに変わっていって、都会に暮らすことへの丸山先生の嫌悪を感じる。

嫌悪しつつも都会の蝕まれてゆく雰囲気を美しく描いているなあと思う。

嫌な存在を、思わず読んでしまう書き方で表現されているところに散文の面白さを感じる。

生まれてこの方

推挙など誰からも受けたことがない

週日のようにつまらぬ個々の人々の

間尺に合わない一生が浮き彫りになり、

そんなかれらが次々に没してゆくしかない

朽ち葉色の沈黙の世界が

胸にじんとくる追憶を

ことごとく破壊し尽くし

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻453、454頁)

堀田季何「俳句ミーツ短歌」&「惑亂」でようやく枕言葉の面白さがわかった!

長い間、私にとって枕言葉とはただ一方的に教師から説明されるだけの存在で、昔の人はなぜこの言葉とこの言葉を結びつけたのだろう……どこが面白かったのだろう……と心の中で疑問に思いながら、「古典の公式だもの、仕方ない」的な感覚で受け入れていた。

堀田季何「俳句ミーツ短歌」は色々面白い視点に溢れているのだが、「第四章 歌語ネバー・ダイズ短歌、俳句の語彙」の中の「枕言葉は五文字の盛り上げ役」の箇所を読み、枕詞への明快で理論的な説明で、長い間の疑問がすっと溶けていった……気がする。以下、少し長くなるが青字は同書より引用部分。

 明確な意味は持たない枕詞ですが、枕詞があると修飾される言葉が際立ち、音の流れも美しくなります。そのため枕詞は生き残ったのでしょう。(途中省略)

 久方の光のどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ  紀友則

(光のおだやかな春の日に桜の花はなぜあわただしく散るのだろう)

 ここでは「ひさかたの」は「光」と「日」にかかって、ムードメーカー的な役割を果たしています。すなわち「ひ」のやわらかな音の連続が、春風駘蕩とした雰囲気をつくりだしているのです。しかし、「しづごころなく」と咎めるような言葉が、聞く人、読む人を少し驚かせます。そこに「花の散るらむ」と続き、やわらかに落ち着きます。

(青字は堀田季何「俳句ミーツ短歌 第四章 歌語ネバー・ダイズ短歌、俳句の語彙より」

枕詞について分かりやすく説明してくれた筆者・堀田季何の歌集「惑亂」も少しづつ読んでいるが、使われている枕詞が全然古びていない気がする。古くから使われている枕詞が現代の不気味さを伝える言葉に生まれ変わっているように思う。以下、堀田季何の歌集「惑亂」より。

ぬばたまの黒醋(ず)醋豚を切り分けて闇さらに濃く一家團欒 (堀田季何)

「ぬばたま」って独特の強烈な響きがある……ナ行のせいだろうか。ナ行の強さと「切り分け」という言葉の強さにやりきれなくなったところにくる言葉が「闇」だ。「一家團欒」と旧字が使われているせいで、昔からの家族を大事にする価値観にやり切れなさを感じてしまう。

ぬばたまの醤油からめてかつ喰らふセシウム検査證なき卵 (堀田季何)

ここでも私が「ぬばたま」から感じるのは不安である。その不安が「からめてかつ喰らふ」という慌ただしい動作で増幅され、さらに「セシウム検査證なき卵」で不安が確定される。ここで「セシウム検査證」と旧字体になっていることにより、時代が曖昧になって大昔あるいは未来のことを語っているようなSFチックな気分にもなる。

……などと勝手に書いてしまったが、この歌の私の解釈は違うのかもしれない。でも古くからの枕詞を現代に甦らせようと作者は試みているのだと思うし、その試みが楽しみである。

それにしても枕詞って面白いなあ……枕詞って五文字なんだと「俳句ミーツ短歌」で初めて気がついた……散文に枕詞を入れてみたいなあ、散文だと合わないだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2023年7月26日(水)旧暦6月9日

移り変わる日本語の風景ー花火ー

この時期、花火の予定をこまめにチェックしてから外出しないと、思わぬ人混みに巻き込まれる。

ふだんは改札が一箇所しかないような河辺の寂しい駅。それが花火大会ともなると人があふれ、ホームから改札に出るのも10分以上かかる。完全にキャパシティをオーバーした状態だ。

さて、かくも人を夢中にさせる花火とは……と、日本国語大辞典でその歴史を紐解く。以下、青字部分は日本国語大辞典の説明を抜粋。

花火は鉄砲とともに……。

1543年の鉄砲伝来以降、武器の一種として伝わった。

徳川家康も花火に夢中になった様子。

1613年、徳川家康が、唐人の上げた娯楽用の花火を見物したといい、その頃より花火師が現われた。瓦屋根が少ない江戸の町では火事の元ともなり、町中で打ち上げることに対する禁令が1648年以降度々出された。

「川開き」という言葉は花火に由来している。

場所を水際に限られてからも人気は衰えず、元祿の頃には町人の花火師による茶屋花火、花火船などで賑わった。その時期が旧暦五月二八日から八月二八日に定められたので、その初日を「川開き」と称し、隅田川の両国橋付近で大花火をあげるようになった。この花火の製造元は両国の鍵屋ならびに鍵屋の別家玉屋で、打上げの際に「カギヤ・タマヤ」と声をかけるのはこれによる。以後、第二次大戦中を除き、川の汚染で中止となる1961年まで毎年行なわれ、1978年復活した。

今でこそ「花火」=「夏」「夏休み」のイメージだ。

だが旧暦の時代、八月中旬以降は秋の扱い……なので、季語としては本来「花火」は秋の季語だそう。

現代の季節感覚とはずれがあるので、夏の季語として扱ってもよいらしい。

季語がいつであろうと、次の泉鏡花の俳句は涼やか。鏡花のように花火は遠くにて静かに見るもの……かもしれない。

花火遠く 木隠(こがくれ)の星 見ゆるなり(泉鏡花)

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