逝きしエドワードの物語   リチャード・ミドルトン

物静かに砂浜に腰をおろしているドロシーの姿に気がついたが、彼女は両手に黒々とした海草をすくいあげ、裸足の足は陽の光に白く反射していた。わたしに気がついて赤みがさしたものの、それでも、昨年の夏よりも顔が青白かった。そこで、こんな機転がきかない質問を思わずしてしまった。

 「エドワードはどこ」とたずねると砂浜を見渡して、水平服で元気よくはねまわる小さな脚の持ち主をさがした。 続きを読む

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アダムスミス 道徳感情論 3章1.1.23 親しいわけではない人の不幸を共感するのは難しい

 

  他の感情すべてにも、同じようなことがよくおきる。

見知らぬ人が深い苦悶の表情をうかべて通り過ぎたあとすぐに、父親の死の知らせを受け取ったばかりなのだと教えられたとする。この場合、父親を亡くした男の悲しみを認めないわけにはいかない。
 しかし人間らしい心が不足しているわけではないのに、激しい悲しみを分かち合うこともないし、相手の話をきいて問題の第一楽章を心にいだくことが、ほとんどできないのである。男にしても、その父親にしても私たちからすれば、まったく面識がなく、私たちは二人とは関係のないことに身を捧げて生きているのである。
 だから自分とは異なる境遇におかれた男があじわう絶望を、時間をかけて想像して思い描いたりしない。
 しかし経験から、こうした不運は悲しみをある程度かきたてるものだと知っている。
男の境遇をよく考え、あらゆる角度から思い描くことで、きっと男に心から共感するだろう。
相手の悲しみを認める土台となるものは、こうした条件つきながら共感しているという意識である。だが、こうした場合でも実際には、共感しているわけではない。
 まず経験があって、それからその経験に対応する感情がある。このことから、よく知られているルールがひきだされ、感情への認識をあらためていく。
 すなわち他の多くの事例のように、私たちが今感じている感情が、適切なものではないということである。( さりはま訳 )
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アダム・スミス 道徳感情論3章 自分の感情と一致するかで、相手の是非を問うことについて 1.1.22 笑わないときだって、本当は笑うべきだって理解している

でも中には、共感しているわけでもない。感情が一致しているわけでもない。それなのに相手が正しいと思える場合も、たしかにある。

  そういう時、相手を賞賛する気持ちと、感情の一致を認める気持ちは別物のようにみえるかもしれない。

  しかし少し注意をむけてみれば、共感していないようにみえても、感情が一致していないよいうにみえても、相手を正しいと思う気持ちには、やはり共感や感情の一致が根底にあることを確信することだろう。
  くだらない本性から生じる事柄を、一例にあげてみよう。なぜなら、そうした事柄は制度が正しくないからといって、堕落してしまうようなものではないからである。
  冗談を言われてそのとおりだと思うことも、しょっちゅうかもしれない。仲間の笑いが正しいものだと思い、状況にあっていると思うことも、よくあるのかもしれない。
  でも、自分では笑わない。おそらくユーモアの墓場にいるのかもしれないし、あるいは注意がほかの対象にむかっているのかもしれない。
  しかし経験から、どんな種類の冗談に笑うことができるのか、ほとんどの状況において学んでいる。そこで、これは笑っていい冗談だなと判断するわけである。だから仲間の笑いが正しいものだと考え、その状況では笑うのが自然でふさわしいと感じる。そのときの気分では笑う気にならなくても、ほとんどの場合、心から一緒に笑うべきだと理解しているからである。
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アダム・スミス 道徳感情論3章 自分の感情と一致するかどうかで、相手の感情の是非を判断することについて1.1.21 

1.1.21 相手の意見を認める、認めないってことは、相手が自分に賛成かどうかってこと

 他の人の意見に同意するということは、相手の意見が正しいと認めることである。そして他の人の意見が正しいと認めることは、相手の意見に同意するということである。

 もし、あなた方を納得させる議論が同じように私を納得させるのなら、あなた方がよせる信頼をきっと認めるだろう。もし納得できなければ、きっとあなた方の信頼を認めることはないだろう。片方がかけた状態では、信頼している自分も、納得している自分も、おそらく思い描くことはできない。

 だから他の人の意見を認めるという行為も、認めないという行為も、相手が自分の意見に賛成なのか、それとも不賛成なのかということを観察するだけのことなのだ。

 そして他の人の考えや感情に賛成なのか、不賛成なのかということについても、同じなのである。(さりはま訳)

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アダム・スミス 道徳感情論 3章 自分の感情と一致するかどうかで、相手の感情の是非を判断することについて 1.1.20

1.1.20 相手の感情と重なるときはいいけれど、重ならないときもある

 ある状況で中心となって行動している人の感情と、その行動に共感しながら観察している人の感情が完全に一致することがある。その場合、行動する人の感情と観察する人の感情が正しく、適切に、ふさわしい形で、その場の状況にむけられているようにきっと思えるはずである。

 反対にそうした状況を間近に感じているのに、自分の感情が相手と一致しないこともある。その場合、そうした感情を生じている原因が間違っていて、不適切で、ふさわしくないもののように思えるはずである。ほかの人がいだいた感情をもっともだと認めることは、相手にすっかり共感しているということでもある。

 私の怪我に憤る人が、同じくらいに自分の怪我に憤る私の様子をみても、怒って当然だと思うことだろう。

 私の悲しみに共感する人は、悲しむのももっともだと認めるしかないだろう。

 同じ詩をいいと思い、同じ絵をいいと思い、私と同じようにいいと感じる人なら、憧れる私の思いを認めてくれることだろう。

 同じ冗談に笑い、私と一緒に笑う人なら、私の笑いが妥当でないと拒むわけにはいかないだろう。

 反対に、それぞれの場面で、同じ思いを感じなかったり、私の思いと釣り合いがとれないような感情しか抱いていなければ、思いが一致しないという理由で私の感情を非難しないではいられない。

 もし私が悪意にみちるあまり、友の憤りとの釣り合いをこえるとしよう。もし私の悲しみが過ぎるあまり、優しい同情も寄り添えないとすれば。もし私の憧れる気持ちが高すぎるあまり、あるいは低すぎるあまり、相手の気持ちと釣り合いがとれないとしたら。もし相手が微笑んでいるだけなのに、私が大声で笑い転げたとしたら。あるいは逆に相手が大声で笑い転げているのに、私が微笑んでいるだけだとしたら。

 いずれにせよ状況を考え、自分がどう状況から影響されているのか観察してみるとすぐに、相手と私の感情には多少の不釣り合いがあるので、賛成してくれない相手を背負い込むことになる。

 すべての場合において、相手の感情が私の感情を判断する基準であり手段なのである。 ( さりはま訳 )

 

 

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アダム・スミス 道徳感情論 3章 自分の感情と一致するかどうかで、相手の感情の是非を判断することについて思うことを少々

1.1.20途中まで

 ある状況で中心となって行動している人の感情と、その行動に共感しながら観察している人の感情が完全に一致することがある。その場合、行動する人の感情と観察する人の感情が正しく、適切に、ふさわしい形で、その場の状況にむけられているようにきっと思えるはずである。

 反対にそうした状況を間近に感じているのに、自分の感情が相手と一致しないこともある。その場合、そうした感情を生じている原因が間違っていて、不適切で、ふさわしくないもののように思えるはずである。

ほかの人がいだいている感情をもっともだと認めることは、相手にすっかり共感しているということでもある。

 私の怪我に憤る人が、同じくらいに自分の怪我に憤る私の様子をみても、怒って当然だと思うことだろう。私の悲しみに共感する人は、悲しむのももっともだと認めるしかないだろう。

 同じ詩をいいと思い、同じ絵をいいと思い、私と同じようにいいと感じる人なら、憧れる私の思いを認めてくれることだろう。

 同じ冗談に笑い、私と一緒に笑う人なら、私の笑いが妥当なものではないと拒むわけにはいかないだろう。

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アダム・スミス 道徳感情論 2章 たがいを思いやるよろこび 1.1.19 不幸なひとが幸せでも、冗談が予想よりうけても私たちは不機嫌になるもの

Smith: The Theory of Moral Sentiments | Library of Economics and Liberty.

どんな事態であれ、影響をまともにうける人にすれば、共感はありがたいものである。いっぽうで、共感してもらえないときには傷ついてしまう。だから私たちも相手に共感できると嬉しく、共感できないときには心が傷ついてしまう。
私たちは成功を祝うためにも駆けつける。そして苦しむ人を慰めるためにも駆けつける。
心のなかにある情熱をすべて分かちあえる相手と会話をしていくときに喜びを見いだす。だが相手の状況によっては、その悲しみの痛々しさに影響をうけることもある。でも喜びのほうが大きく、悲しみを補ってあまりうるものである。
それとは反対に相手に共感できないという思いには、いつも不快になる。共感のせいで感じる苦痛がなくなっても嬉しいことではない。相手の不安を分かちあえないことに気がついて傷ついてしまう。もし不運を嘆き悲しむ人がいて、その境遇を自分のこととして考えてみても、強烈な何かが私たちにおきるわけではない。ただ相手の悲しみに衝撃をうけるのである。
悲しんでいるひとに小心者だとか弱いとか言うのは、悲しみを分かち合うことができないせいなのである。
それとは逆の場合もある。幸運には恵まれていない筈のひとが、とても幸せそうにしていたり、元気そうにしているのを見ても、私たちは不機嫌になる。相手が喜ぶ様子に傷ついたりもする。その様子をみて軽薄とか愚かとか言うのは、相手の喜びについていけないからである。
親友の笑いが本来より大きくて、いつまでも続いたり、実際に自分が笑える以上に笑われると、私たちはユーモアの心を失ってしまう。

(さりはま訳・・・段落分けと見出しのタイトルは、訳者が勝手にしたものです。オリジナルの段落での訳は、道徳感情論の部屋のほうにあります)

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アダム・スミス 道徳感情論2章 たがいを思いやる喜び 1.1.18 友を許せるとき、許せないとき

 愛とは心地よいものであるが、怒りは不快な感情である。

だから怒りの矛先をむけられつつも、友達が自分との友情を選ぶと、私たちは大変心配になる。また自分がうけてもいい筈の好意なのに、友達が何とも思わないこともある。それでも友達のことを許せる。

だが自分が侮辱されたときに友達が無関心であれば、我慢できなくなってしまう。友達が自分の怒りに共感しないときに、かえって感謝をすることがある。その感謝をうけとめてもらえなくても、私たちはさほど怒りはしない。

友達になることを避けてとおることはたやすい。でも自分と一致しない人を敵だと思わないことは難しい。

私たちはたまに、友達に憎しみをいだく相手に怒って、そうした人と危険な論争を好んでする傾向がある。

だが相手が友達と親しくなれば、口論は真剣なものとなる。

愛や喜びという心地よい感情は、付加的な喜びを生じなくても、心を充たし支えるものである。

悲しみや怒りのような感情が苦々しく、苦痛にみちたものになるほど、私たちは共感してもらい、癒されるという慰めをますます強く求める。(さりはま訳)

さりはまより)訳者が勝手に段落わけしたらいけないとは承知していますが、読みやすさを求める方のために。オリジナルの段落のものとあわせて載せておきます。

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アダム・スミス 道徳感情論2章たがいを思いやるよろこび 1.1.18 友を許せるとき、許せないとき

 

Smith: The Theory of Moral Sentiments | Library of Economics and Liberty.

愛とは心地よいものであるが、怒りは不快な感情である。だから怒りの矛先をむけられながらも、友達が自分との友情を選んでくれると、私たちは大変心配になる。また自分がうけてもいい筈の好意なのに、友達が何とも思わないこともある。それでも友達のことを許せる。だが自分が侮辱されたときに友達が無関心であれば、我慢できなくなってしまう。友達が自分の怒りに共感しないときに、かえって感謝をすることがある。その感謝をうけとめてもらえなくても、私たちはさほど怒りはしない。友達になることを避けてとおることはたやすい。でも自分と一致しない人たちを敵にしないことは難しい。私たちはたまに、友達に憎しみをいだく相手に怒って、そうした人と危険な論争を好んでする傾向がある。だが相手が友達と親しくなれば、口論は真剣なものとなる。愛や喜びという心地よい感情は、付加的な喜びを生じなくても、心を充たし支えるものである。悲しみや怒りのような感情が苦々しく、苦痛にみちたものになればなるほど、共感してもらい、癒されるという慰めをますます強く求めるのである。(さりはま訳)

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アダム・スミス 道徳感情論2章たがいを思いやる喜び1.1.17

Smith: The Theory of Moral Sentiments | Library of Economics and Liberty.

不運にみまわれた人々が、悲しみの原因について語り合うことのできる相手をみつけたら、どんなに楽になることだろう。相手の共感のおかげで、絶望は軽くなるようにみえる。悲しみを分かち合おうと不作法に言われるわけではない。相手は同じ類の悲しみを感じているだけでなく、悲しみを自分自身へひきよせたかのようであり、その思いのおかげで悲しみが軽くなるような気がする。しかし不運について語ることで、自分の悲しみを再び話すことになる。記憶のなかで、苦痛をもたらした状況について思い出をよびおこしていく。そのため以前よりも涙にかられ、悲しみという弱さに身をゆだねがちになる。しかし、これはまた喜びでもあり、あきらかに安堵できるものでもある。なぜなら相手の共感は、悲しみの苦さを補ってあまりうるものだからである。この共感をひきだそうとして、不運な人たちは悲しみを生き生きと蘇らせる。反対に不運な人たちを無情に侮辱しても、かえってその災難が大したことでないように見えてくる。仲間が喜んでいても何とも思わない様子は、思いやりに欠けている。しかし苦労話を聞いているときに真面目な顔をしないのは、人間性を欠いていることいちじるしい。(さりはま訳)

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