さりはま書房徒然日誌2024年11月20日

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』より「駄目なものは駄目」を読む

「ソメイヨシノを軸にした有名観光地の桜のたぐいは間違っても植えまい」と決心した丸山先生。柑橘系の方向を放つ「匂い桜」という品種を数本植え楽しまれていたのだが、ある大きさになると弱り、枯れ始め、やがて全滅。
桜から撤退するも「庭にぽっかりと生じた虚無的な空間を他の草木では埋められない」とマメザクラを五本植え、やがて開花。

「駄目なものは駄目なんですよ」とは、植物に詳しい知人の言い得て妙なる真理です。

「植えてみて十年くらい経たなければわかりませんよ」もまた彼の名言なのです。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』28ページ)

 私はヒメシャラのツルツル光る赤みを帯びた樹皮が好きなので、家に植えてみた。植えて十五年経過した。まあまあ元気だったのだが、今年の暑さが暑さに弱いヒメシャラにはこたえたようで半分くらい枯れてしまった。さて、どうしようかと途方に暮れている最中なので、この言葉が心に沁みた次第である。
(↓ヒメシャラ。花は椿みたいな白)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月16日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月十八日「私はルアーだ」を読む

十月八日は「私はルアーだ」で始まる。まほろ町に駆け落ちしてきた青年が悪事に手を染め、その代わり豊かになって、うたかた湖で釣りを楽しむひとときが描かれている。
以下引用文。この何も考えていないように思われる青年の、なんとも頼りない無軌道さ。釣りに不安、遣る瀬無さを紛らわす姿。そうした心がルアーさながらまやかしの派手な色となって、眼前に漂って見えてきそうな気がする。

竿がぐっとしなって
   私がびゅっと飛び出して行くたびに
      彼の未来は
         さほどの根拠もなく
            湖面のように輝く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』331ページ)

裕福の味の片鱗を知った彼は
   タバコ銭にも困っていた
      ちょっと前の自分を
         私の先に引っかけて湖底へ沈め、

それと同じようにして
   駆け落ちを決意した際の情熱やら
      貧苦に耐える力やら
         異郷で暮らす侘しさやらを
            山上湖のあちこちに投げ捨てる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』333ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月15日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月十六日「私は少数意見だ」を読む

十月十六日は「私は少数意見だ」で始まる。「まほろ町の議会において少しも尊重されず 相手にもされないで あとはもういじけるしかない 他勢に無勢もいいところ」の、裏社会の人間の権利を擁護しようとする少数意見が語る。

丸山文学の魅力に、少数意見の立場、見方をよく行き届いた、愛情深い筆致で書いている点があると思う。
以下引用文。少数意見をねじ伏せようとする議員が「自分たちの体にも良い細菌だけが巣くっているわけではなく 悪い菌もうじゃうじゃいて そのバランスが命を保っている」と語る。

反対派は「あの菌は 数が少なくても命取りになりかねぬ最悪の菌ではないか」と反論する。

そのときある声が響いてくる。自分たちが正しい、強いと思い、少数意見を菌扱いする心の思い上がりを静かに語ってくるような場面。

するとそのとき
   「何もおまえらが良い菌とは限るまい」という
       そんな声が議場に飛びこんできて、

痛いところを突かれた一同は
   束の間怯んで沈黙し、

ややあって気を取り直し
   きっとなっていっせいにそっちを見やり、

ところが
   窓の向こうにいる人間は
      重い病を背負って歩きつづける
         健気な少年ただひとり。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』325ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月13日(水)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』より「いいよねえ、この感じって」を読む

「いいよねえ」で五文字、「この感じって」で七文字、最後の五文字はない。丸山先生が五七五を意識したのかは知らないが、何が入るのだろう?と読む前にまず考え、心が惹きつけられる。
そして読み終わった後も、「いいよねえ、この感じって」で一句出来そうで何が入るかと延々考えて愉しんでしまう。

丸山先生は「春一番とおぼしき風が感知された」瞬間、そのあとのご自身の変化、奥様やペットのオウム、バロン君の変化を見えるように書かれ、そういう変化が「いいよねえ、この感じって」なのである。

以下引用文。春一番を感知した瞬間の丸山先生の思い。春一番を感じると、「埃っぽい」「目が痛い」とブツブツ言っている私とは大違いである。この感性の差は言葉に影響大なのだろう……どうすればいいのだろうか、途方に暮れるばかりである。

夢見るような心地の刹那、季節の境界線とやらが眼前を過ったのです。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』20ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月12日(火)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』より「幸福は葉陰から覗くサクランボ」を読む

この章のタイトル「幸福は葉陰から覗くサクランボ」は一字だけ字余りだけど、五、八、五になっている……。
思わず脱線してサクランボを季語にした俳句を眺めてみる。だが、どうもしっくりこない……句が多いのは、日常的な風景のようでいて、実はちょっと高い果物だからなのだろうか。


その点「幸福は葉陰から覗くサクランボ」は、丸山先生の普段目にする光景から自然に出たような勢いがあって、心打たれるものがある。
「葉陰」も、「覗く」も、「サクランボ」も、それぞれの言葉が「幸福」のイメージを醸している気がする。


スノードロップやスノーフレークの花に囲まれている時の心境を記した丸山先生の文に、「幸福とはこういう状態であった……」と教えてもらう気になる。


名前にも、居場所にもこだわる自分の心を反省。「足取りも軽く故郷へと向かう若者の後ろ姿」が脳裏に浮かぶ心境に近づきたいもの。

 そうした救済の意味を込めた小花に囲まれているうちに、自分の名前なんぞは必要に思えなくなり、さらには自分自身の居場所へのこだわりがたちまち薄れてゆくのです。
 併せて、ねじくれていた思考が水平に戻りました。ついで、足取りも軽く故郷へと向かう若者の後ろ姿が、ぽっと脳裏に浮かびました。


丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』18ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年11月11日(月)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』より「この世のいっさいは幻想」を読む

丸山先生の庭仕事は冬の間もお休みにはならないらしい。「落下した枯れ枝を拾い集め」、細かく細断して落ち葉と混ぜて土に還して肥料にする様子が書かれている。


枯れ枝を同じように、かつて飼っていた大型犬たちも寿命が尽きたとき、先生の手で庭の一画に葬られ、やがてそこに美しいバラが咲く。


以下引用文。生と死が隣り合わせている……緊張感のある感覚が、大町の庭を見つめ養われ、丸山先生の小説に根づいているのだと思う。

やがて理想的な養分と化したかれらは、オールドローズやワイルドローズの花を立派に咲かせて、まだ死んでいない人間の目を楽しませたものです。そしてちょっと切ないその感動は、共に過ごしたその時間へといざなってくれました。

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』15ページ

枯れ枝を小脇に抱えてしばらくその場に佇んでいるうちに、生と死が延々とくり返されることで成り立つこの世に、なんとも遣る瀬ない愛おしさを覚えるのはどうしてなのでしょう。

「この世のいっさいは幻想なんですよ」と朽ち木が口を揃えて言いました。

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』15ページ16ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年11月9日(土)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』より「何が面白くて生きるのか」を読む

ー八十歳の作家が語る老いは辛くもあり、癒しもありー

本書の魅力は、八十歳になる丸山先生の心境が率直に丁寧に書かれているところにもあるのかと思う。だいたい男性作家の方は早くに亡くなる方が多い。八十歳の心境をかくも真摯に見つめ書いた男性作家は稀なのではないだろうか。

八十歳になっても「焦燥感」や「不安」や「怯え」から解放されないものか……と生きる辛さを思う。

でも長寿社会ならではの老いに北アルプスの自然を重ね、奥様とオウムのバロン君と共に日々を過ごす生き方には癒されるものがある。


「そう長い寿命を与えられているわけでもないのに、青春時代に覚えたような安っぽい焦燥感に駆られます」11ページ

「一介の凡夫としての私は、生きても生きても悟りの境地とやらに迫ることができず、不安と怯えの数が増すばかりで、救いようがない体たらくです」12ページ


「何が面白くて生きているのか?」とバロン君が毎朝仏頂面で尋ねてきます。 13ページ

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』より

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さりはま書房徒然日誌2024年11月7日(木)

製本基礎講座へ
ーくるみ綴じ 四つ目綴じにトライー

製本講座も落ちこぼれつつも、まるみず先生のご指導のおかげで何とか6回目を迎えた。しばらく和綴じの講座が続く。

今回は「くるみ綴じ 四つ目綴じ」である。たしか、この製本方法は体験レッスンでやったのに、綺麗さっぱり忘れている。だから何度やっても新鮮……なのは喜ぶべきか、悲しむべきか。
色々失敗したのだけど、その一つは端まで糸を通すところを手前でリターン(プリントには丁寧な図解があるのだけど、だんだん作業していると頭がぼーっとしてきて見えなくなる)。途中で気がついて糸をほどこうとしたら、ほどけない。和綴って丈夫なんだと思いつつ、最初からやり直す。


隣席の方はイタリアから来た方らしく、高度な製本をされていた。
私がようやく出来上がると、”Do you finish?”と声をかけてくださる。私がもたもた作った和綴本を手にのせて表紙の和紙や本文の半紙の感触を楽しむ表情に、和紙ってこんなに外国の方の心にアピールする魅力があるんだ……と知る。
そして、まるみず組の手製本の技術にも、はるばる異国から何度も学びに訪れたくなる魅力があるんだ……と知る。


でも小説を書いたり、短歌を詠んだりする界隈にいる者は(私も含めて)、こうして外国の方の心を強烈に惹きつける日本ならではの本づくりをほとんど意識していないのでは……と反省。少し反映できるようになるといいな。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月6日(水)

北村透谷『蓬莱曲』を読む

ー自費出版の時代は活字が綺麗な時代でもあったー

1889年に自費出版をした『楚囚之詩』に続いて、1891年(明治24年)に自費出版された第二冊目が『蓬莱曲』である。戯曲でもあり、長編詩でもある。北村透谷といい、宮沢賢治『春と修羅』といい、その他にもあまたある自費出版をした明治、大正の詩人、作家のエネルギーを思いながら読む。

量的にも、文章の流れるような調べも、第一作の『楚囚之詩』よりパワーアップして、第一作からの三年間にわたってコツコツと書き続ける北村透谷の姿が思い浮かんでくる。

以下の引用文に、明治45年になると「自由」という価値観がだいぶ日本に浸透したのだなあとも思う。
またこの年夏目漱石「彼岸過迄」の連載が朝日新聞に開始された。北村透谷が書き綴る文と新聞でもてはやされる夏目漱石の文……そのギャップに苦しみもあったのでは……と思いつつ、透谷の調べを味わうようにして読む。

自分の弟のところから自費出版で出したようだが、活字がとても綺麗な気がする。現代の書籍より活字が語りかけてくる感じがある。なぜなのだろう?印刷は同じ京橋の印刷屋に頼んだらしい。この時代、ルビもこんなに綺麗に入れられたのだ……と明治の印刷職人さんに感心してしまう。

またわが術にして世の、見えずして権勢【ちから】つよきものの緊縛【なわめ】をほどく「自由」てふものを憤【いか】り概【なげける】ものの手に渡し、嬉【たの】しみの声を高く挙げしむる。

(北村透谷『蓬莱曲』より)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月4日(月)

中綴じとスイス装の手製本ワークショップへ参加

手製本と古本のヨンネ先生が西荻窪アトリエハコで開催された「手のひらスイス装(中綴じとスイス装)」に参加してきた。
最初ヨンネ先生からスイス装の「弱い」という弱点も教えてもらい、でもZINEとか薄くて手のひらサイズの小さい冊子なら壊れにくいし可愛くなる……というような説明を聞く。

↑は出来上がった私のスイス装ノート。たしかにスイス装の手のひらサイズって可愛らしさに溢れている!

この生地はタイの手織り布パーカオマーを裏打ちしたものだそう。

スイス装は片側の見返しを接着しないので、開くと裏表紙と見返しがパカリと見える……のも可愛らしい。

綴じ糸はいつものようにユワユワしてしまった、反省。

ZINEを作成している方、数部だけでも好きな色の糸で綴じ、やはり好きな見返しをつけると楽しいのではないだろうか?

同じようなことをまるみず組で学んだばかりなのに、やり方を忘れていること多々。
さらに出来ないことだらけの私は、講座を受ける都度異なる改善すべき点を指摘される……ので飽きない。

今日も先生から目視で一ミリのズレを指摘される。定規で測ったつもりなのに……ミリ単位できちんと測れるようになりたい、といつもの反省である。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月3日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月十一日「私は蚊だ」を読む。

十月十一日は「私は蚊だ」と蚊が語る。少年・世一の血を吸った蚊の気持ちがなんともユーモラスに書かれている。血を吸ったときの蚊の気持ち……を書いた文は、これが初めてではないだろうか?

なんて酷い味だ
   私が知っているなかでは最悪の血だ、

吸えば吸うほど頭がくらくらして
   ひょっとすると
      吸われているのはこっちのほうかもしれないと
         そう思った途端
            長の患いから派生した恨み辛みが
               どっと侵入してきて、


その余りの勢いに押されて
   たじたじとなる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』305頁)

北村透谷『楚囚之詩』を読む

北村透谷が20歳のとき自費刊行した長編叙事詩『楚囚之詩』を読む。経歴を見てみると、自由民権運動に感化されるも過激さを増してゆく運動から離脱。結婚。この詩集を刊行。そして25歳で自殺。
そんな濃くも激しい人生を暗示しているような処女作。獄中にある自分、やはり獄中の花嫁や仲間……合わせて四人がいる獄中……を思い、当時はきっと費用のかかった自費刊行をするとは……。何が北村透谷をここまで追い込んだのだろうか?

 獄舎は狭し
 狭き中にも両世界ー
彼方の世界に余の半身あり、
此方の世界に余の半身あり、
彼方が宿か此方が宿か?
 余の魂は日夜独り迷ふなり!


北村透谷『楚囚之詩』

ちなみに「楚囚」とは、日本国語大辞典によれば「とらわれた楚の人。転じて、敵国にとらわれの身となって、望郷の思いの切なる人。囚人。とりこ。」だそうである。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月2日(土)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』(田畑書店)「何はともあれ、生きてみようか」を読む

ーお見舞いにもよいし、エッセイの書き方を学ぶにもよい本ー

『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』の目次を眺めていると、なんとも前向きになれそうな言葉が並んでいる。一章あたりの長さといい、前向きな章題といい、病院に入院している人へのお見舞いにもよさそうな本である。

大町の庭の自然に人生をかぶせ、長野の風景から思いを語る本書は、今時の日本の作家には珍しく哲学とユーモアが溶け合って、エッセイの醍醐味に満ちている。


四季も自然も失われつつあり、国語教育でも実用的な文書が重んじられる昨今、こういう深くて軽妙なエッセイに触れる機会が少なくなったのでは?


エッセイを書いてみたい方にとっても、本書は良い指針になるのでは無いだろうか?

そしてこの冬もまた、厳寒に閉ざされたがために発生した御神渡りよろしく、魂の湖面を人間的にして文学的な言葉が突き破って飛び出しました。創作活動を止められない所以が、きっとここにあるのでしょう。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』10ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月1日(金)

宮沢賢治『ポラーノの広場』を読む

『ポラーノの広場』に限らず、宮沢賢治作品にはよく知っている場所に出来た異空間を覗きこむような味わいがある。

モリーオ市、イーハトーヴォ、センダードの市、にぎやかながら荒んだトキーオの市、ポラーノの広場……という岩手を、東京を思わせながら異国風の地名。
主人公のモーリオ市の博物館に勤めるキュースト。
キューストが知り合う少年ファゼーロとその友達で羊飼いのミーロ。
地主のテーモ。
山猫博士のボーガント・デストゥパーゴ。

馴染みのある地、想像ができる人物なんだけど、どこかこの世のものではない響きがある名前の人物が、異空間を覗かせるような地名の地で、こんな言葉を発すると、もう心は遠くどこかを彷徨うのではないだろうか。

「おや、つめくさのあかりがついたよ」
 なるほど向うの黒い草むらのなかに小さな円いぼんぼりのような白いつめくさの花があっちにもこっちにもならび、そこらはむっとした蜜蜂のかおりでいっぱいでした。

宮沢賢治『ポラーノの広場』上23ページ田畑書店ポケットアンソロジーより

さらに大正末期、昭和初期に書かれた作品なのに、登場人物は夏用フロックコートを着ていたり、カフスをしていたり、現代の大量生産のフリース姿が歩いている街より、服装も個性的である。
さらに食べ物もオートミールとか……。

宮沢賢治の財政面での豊かさが、嫌味のない形で異空間に溶け込んでいる気がする。
ポラーノの広場の語源は、種子ポランに由来するという説も聞いたことがある。そうかもしれないが、人民を意味するイタリア語ポポラーノの意味もあるといいなと思いつつページを閉じる。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月31日

製本基礎講座第5回

ー製本ドリルスタート!バインダー作りー

製本基礎講座も第5回。


今日から講座の開始時に製本ドリルというおさらいの短いドリルがスタートした。今まで学んだことについての確認を短いドリル形式で講座開始前にやるそうである。

緊張するけれど、少しずつコツコツ積み重ねていける(私の場合、積み重なっていないけど)のが、手製本工房まるみず組の講座の魅力の一つだと思う。


今日のドリルは紙の目について。よく分かっていなかったところである。なので早速答えを間違え、先生に再度説明して頂き、家でまた調べ、薄ぼんやり「紙の目」なるものが感じられてきた(呑み込みが悪い)。


製本をする方々はみんな「目」「目」「目」と言われ、「目」って本を作る上で大事なものなのだ……と、そこだけは理解。
でも編集者や書き手、ZINEを作成している人たちで「紙の目」にこだわっている人、知っている人はあまりいない気がする。仕事の種類が違うせいもあるかもしれない。

でも製本をするサイドが心から大切にしている紙の目を、編集者、書き手、ZINE発行者がほとんど意識されていない……というギャップに、どちらも本を作っているのに脳内に浮かぶ本という存在が違うのでは……それでいいのだろうかとも考える。
紙あっての本……という意識が薄い本づくりは、だんだん本としての魅力を失っていくのでは?

などと偉そうなことは言えない。
今日のバインダー作り、測る場所を間違え、正確にラインを引いたつもりが2ミリの誤差が。
さっと見ただけで2ミリの誤差に気がつく先生はすごい。言われると確かに2ミリ分おかしく見える。
それにしても定規を使っていたのになぜ私は正確に測れないのだろうか……。

先生のおかげで無事に完成したバインダー。布、糊、ボール紙、金具だけで形になるとは……不思議である。


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さりはま書房徒然日誌2024年10月30日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月七日を読む

ー最期の瞬間に垣間見る緑の火ー

私は火だ、

不幸にして生後日ならずしてあっさり死んでしまった嬰児が
   短い滞在期間であったこの世を離れる
      その最期の瞬間に垣間見た
         緑がかった火だ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』286ページ)

私の父は亡くなる前日だったろうか、病院の個室の白い壁を見て「綺麗な緑の光だなあ」と晴明な意識の中で言い、何も見えていない私の様子に悟った顔をした。
あのとき父が見た緑の光とは薬の副作用なのか、あるいは彼岸の世界が見えていたのだろうか……。
それとも丸山先生が「そして私は 周辺の森や林で造られた酸素を 精根込めていっぱいに摂りこみ」と書かれているように、現実世界が父を送り出そうと見せてくれた火だったのだろうか。
いずれにしても、この世を去る直前、私には見えない、なんとも美しい緑の光に心打たれていた父の顔の安らかさ、純真さをふと思い出した。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月29日(水)

私だけのポケットアンソロジーRAEDING NOTEBOOKつくりにトライして、製本基礎講座「一折り中とじ」の復習をする

ーチリが現れる筈なのに……!ー

手製本工房まるみず組製本基礎コースで教えてもらった「一折り中とじ」を復習する。一折り中とじは、絵本によくあるようなページ数の少ない時の製本方法である。

田畑書店ポケットアンソロジーは色んな短編や詩歌を綴じない形で販売。素敵なファイルが各種販売されているので、読者はみずからがアンソロジストとなって好きな短編を選び、ファイルに綴じていくことができる。


READING NOTEBOOKはポケットアンソロジーと同じ書籍用高級用紙を使い、同じスタイルをとりながら、中は自由に感想や絵が描けるように白紙になっている。

(以下、READING NOTEBOOKの元々の姿。ページをめくると白紙になっている)


製本講座のときは本文から折っていくが、ポケットアンソロジーはもう折丁になっているから少し楽である。

でも相変わらず、思いがけないところでつまずく。

背に貼る寒冷紗はどちらも同じ感触に思え、どちらが糊ボンドを塗る面なのだろう……と迷う。

糸でかがっていくけど、最後まで来てどこか違う……よくテキストを見たら「一つ飛ぶ」と注意書きのあった箇所をスルーしていたのに気がつき、最初からため息をつきつつかがり直す。

ボール紙も相変わらずカッターでは中々切れない。ボール紙無間地獄にいる気分になりながら、カッターをいつまでも滑らせる。

折丁の背と表紙の背を糊ボンドでつける……でも中々くっつかない。

ようやく見返しと表紙をくっけるところまで到達。くっついた!でも「ちり」が現れない。薄く小さいだけにミリ単位できちんと測らないとと反省。一応ミリ単位で測ってはいるのですが、測る、切るって難しい。

下の写真が失敗作。ブヨブヨしているのは、やはりミリ単位できちんと測れていないせいだと思う。

反省する点の多い失敗作だけれど、それでも私だけのREADING NOTEは愛おしいもの。

田端書店のポケットアンソロジー、素敵なファイルに綴じてもよし、頑張って私だけのこの世に一冊の手製本作りにトライしてもよし、色んな楽しみ方がありそうである。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月28日(月)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』(田畑書店)より「初めまして」を読む

この本について年下の女性が「最初、私自身が読んでから、そのあと両親にプレゼントするつもりなんです。両親からどんな感想がかえってくるか楽しみなんです」と言われていた。そうか、この本に限らないけれど、良い本というものは異なる年齢をつなぐ存在なのだなあと思った。
以下引用文に年をとる切なさを思い、でも切ないだけではない素晴らしさも思う。「言の葉が束になってどっと溢れ出」る八十歳になってみたいものだ……その前に夜明けの執筆ができるように夜更かし生活を変えなくては……と反省。

芽吹きを待つ気持ちが募り、というか今年が最後の花見になるのではないかという切ない焦りに駆られたりもします。
たぶん、その反動のせいでしょう。凛とした夜明けの執筆では頭が異常なまでに冴え返り、言霊に限りなく近い言の葉が束になってどっと溢れ出ます。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』6ページ)

昨夜は気がつかなかったが、この本は表紙、花ぎれ(本文の天と表紙の間のリリアンみたいなもの)、しおりの色合いが美しい。他社の本と比較してみたけれど、こういう美しさを感じる本はなかった。
製本講座を少し受けてみて、ここまでビシッと決める難しさを知るようになった。
花ぎれやしおりを選ぶ頃には疲労困憊してヨレヨレで、適当に選んでしまっていた……のを反省。奧付きを見れば、装丁は「田畑書店デザイン室」とある。これから田端書店の本の装丁、隅々までじっと見て学ばせて頂くことにしよう。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月27日(日)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』(田畑書店)が我が家にも到着した!

ー信濃大町の風が吹いてくるような装丁ー


丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』(田畑書店)が我が家にも到着。待ちに待った丸山先生の新作エッセイとの家での対面となる。

装丁で丸山先生の世界をすべて表現しているようで素敵。
信濃大町の丸山先生の庭を思わせるような表紙の緑には、雪をかぶった北アルプスの稜線の絵がラインでお洒落に描かれている。

緑の表紙には、丸山先生の人柄さながらに小さく白字で「丸山健二」と控えめに記されている。
見返し部分は雪のような優しいクリーム色めいた白。

帯も扉も同じ黒。この黒はもしかしたらNTラシャ黒の中でも黒が一番濃い「漆黒」なのでは?と私の手元にある「漆黒」と比べる。
実は田畑書店のポケットアンソロジーを糸でかがって、NTラシャ「漆黒」で表紙をつけて鞄に入れて毎日持ち歩いているのだ。
比べてみるとやはり同じ色のような気がして、何だか嬉しい。写真ではこの黒を綺麗に再現できないのが残念。

この帯は、通常の帯と比べてかなりデカくてインパクトがある。もしかしたら製本機械で帯を折るのは無理だったのでは?田畑書店の方々が手で折ったのでは?と色々想像する。
大きな帯にも、扉にも黒を使われたのは、丸山先生のシンボルカラーが黒だからなのでは?至る所に丸山先生へのレスペクトを感じる装丁である。
帯には金のラインで北アルプスの稜線が絵が描かれている、朝日?夕焼け?どっちなのだろうか?
扉絵は雪をかぶった北アルプスの稜線だろう、銀色のラインで絵が描かれている。

手にしただけで信濃大町の自然がどどっと雪崩れ込んでくる。
さらにページを開けて、丸山先生の文を読み始めると完全に大町にいる感じになる。でもその感想はまた後日。


とにかく手にした瞬間に紙の本の醍醐味、丸山先生の世界を味わうことのできる装丁である。もちろん丸山先生の文は切なくなってくるほど大町から世界を書いている。それについてはまた後日。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月26日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月六日を読む

ーキツツキのドラミングが意識に働きかけるー

十月六日は「私はキツツキだ」で始まる。キツツキがうたかた町の人間模様を語る。

以下引用文。日頃キツツキを眺めて暮らしている丸山先生らしい文だと思った。

才覚以上の山気に富んだ男は
   私が鞭打ち症にならない謎を解き明かし
      画期的なヘルメットを発明してひと儲けを企み、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』282頁)

キツツキのドラミングが契機となって、様々な人間達が色々な思いや過去を連想していく有様が面白い。確かにキツツキの鋭い連打は意識を揺さぶるものがあるのかもしれない。

一兵卒として大陸へ送られ
   命じられるままに暴虐の限りを尽くしたことを
      今でも戦功と固く信じてやまぬ男は
         私が立てる音から重機関銃を連想して
            全身の血を大いに沸かせる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』283頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月25日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月五日を読む

ー素朴な美しい言葉ー

十月五日は「私は奢りだ」で始まる。少年世一の、盲目の少女と彼女の飼い犬への奢りが語る。
以下引用文。「ただ青いだけ」という世一の言葉も、「おもむろに天と地を示した」という終わり方も、理解を超えた美しい何かをあらわしているような気がする。

少女がほっそりした指で沖の方を示すと
   すかさず世一は
      「ただ青いだけ」と的確な答えを提示し、

少女と犬と母親が軽自動車で去ったあと
   世一は震える二本の人差し指を用いて
      おもむろに天と地を示した。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』281頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月24日(木)

ー製本講座で布の裏打ちに挑戦ー

手製本工房まるみず組製本講座基礎コース第4回で、布の裏打ち、本の表紙に使う布の裏側に紙を貼る技術を教わる。

裏打ちには和紙、包装紙、ピュアガードなど、色んな紙が使えること……
新聞に入っているチラシや菓子折りの包装でも裏打ちができること……
仕上がりの感触を考えて接着剤も変えること……など初めて知ることばかりである。


包装紙でも裏打ちに使えるなら大切にしなくては……と思うものの、相変わらず私は不器用。布を裁つのも真っ直ぐのつもりがジグザグになるし、水で濡らした紙を布にかけようとつまんだら水の重みで「ビリリ」と破けたり……前途多難である。

でも自分でモノをつくるという機会が失われつつある現代、時間をかければ自分の手でオンリーワンの本がなんとか出来上がる……のは楽しみ。頑張ろう。

布はユザワヤのネットショッピングで購入したウイリアム・モリス柄。これでバインダー、和本、布装ノート、夫婦箱を作る予定 。どうかうまくいきますように。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月23日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月三日を読む

ーダメになっていくのもどこかユーモラスー

十月三日は「私は馬肉だ」で始まり、落ちこぼれた青年によって河原でさくら鍋にされている馬肉が語る。
以下引用文。「落ちこぼれた若者」に及ぼすさくら鍋の効果にびっくり。

ついで
   富者と貧者をきっちり分別したがる
      時の権力の壁を苦もなく取り払う力を与え、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』268頁)

以下引用文。「たったコップ一杯の焼酎」のせいで、若者のやる気がみるみる崩されてゆく様子が「焦げ付いた私」によってユーモラスに語られている。

その大鼾には自暴自棄と遣りきなさと
   破滅を導く悲しみとが込められていて
      鍋底に焦げ付いた私が立ち昇らせる煙と
         なぜかよく調和している。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』269頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月22日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月二十九日を読む

ー心に残る象ー

九月二十九日は「私はサーカスだ」と、まほろ町を訪れた「二流にも属さぬ お粗末なサーカス」が語る。
以下引用文。お粗末なサーカスの象の哀れな様子が心に残る。「夜になると涙を流していた」という文が、象の佇まいや目を思い浮かべると、しっくりくるものがある。

その象にしても
   かなり老いぼれて
      耳はずたずたに破れ、

頼みの象使いに出奔されてしまったために
   今では単なる客寄せの道具に成り下がり、

それか知らずか
   夜になると涙を流していた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』254ページ)

以下引用文。サーカスの観客席から青い鳥の声を発しながら大はしゃぎで象を眺める世一。「疑問符の形」という表現が、何に対する疑問符なのだろうか……と考えてしまう。

彼の動きを真似て悲しい巨体をさかんにくねらせたかと思うと
   まだ誰からも教えられていない
      まるめた鼻を疑問符の形にするという
         前代未聞の新しい芸を
            さも得意げに披露したのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』257ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月22日(火)

製本の復習をしたけど失敗!

製本基礎講座の二回目で習った糊を使わない製本の復習をする。だが失敗。

二週間前にやったばかりなのに「どうやったのだろう?」と立ち止まる。でも頂いた詳しい資料があるから大丈夫と安心して、きちんと全部読まないで作業したのが主な敗因。
よく読んでみたら
「最後また使いますので残しておく(かがり糸の最初の部分のこと)」
「裏側の紙は、一番小口側の穴だけ開けないで下さい」とちゃんと資料に書いてある。
でも糸は切ってしまった!一箇所小口がわに穴を開けてしまった!と切ってから、穴を開けてから、ハッと自分のミスに気がつく。

そのようなわけで失敗作になってしまったが、製本の復習をしてみると、これでもかこれでもかと自分が分かっていなかったところを認識する。

講座のときは失敗作にならないように先生が見守ってくれていたのだなとあらためて感謝する。

それから今回の復習には、田畑書店ポケットアンソロジーより宮沢賢治「ポラーノの広場」上、中、下を使用した。ポケットアンソロジーは紙の質がいいのだろう。切り込みを入れたり、糸でかがるときに抵抗感があってモタモタ苦労した。

でも軽い紙の表紙をつけ、糸でかがると、ポケットアンソロジーは軽々としていながら丈夫で読みやすさがアップする。失敗作とはいえ、読むのには支障はなく読みやすさはアップした。
ポケットアンソロジーでの製本の復習にハマってしまいそうである。
↓(悲しの失敗作)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月20日(日)

神奈川県立図書館ボランティア朗読会「秋といえば……」へ

神奈川県立図書館Lib活1期生の方々が二年かけて積み重ねてこられた朗読の学びを発表するボランティア朗読会、今回は1期生の活動の最後となる卒業発表だそうだ。楽しみなような、寂しいような心持ちで紅葉坂の急な坂を登る。
活動の様子を拝見していると、Lib活の皆さんもこの急な坂を足繁く登り、朗読の練習をされたり、朗読会に向けて企画をされたりしていたようである。暑い日、雨の日は大変だったろう……と思いつつ、座れそうな場所を見つけては休み休み紅葉坂を登る。


今回のテーマは「秋といえば……」で、朗読者其々が秋に因んだ作品を選び朗読して下さった。中には懐かしい作品もあれば、知らない作品もあって、朗読を聴きながら「読んでみたいな」と思う。

今回、朗読して頂いた作品。
・『としょかんライオン』ミシェル・ヌードセン
・『アガワ家の危ない食卓』『風々録その後』より「混沌の秘境」阿川佐知子
・『日本の文学34 内田百閒・牧野信一・稲垣足穂』より「件(くだん)」
・『ごくらくちんみ』より「ぎんなん」杉浦日向子
・『校訂 新美南吉全集第十巻』より「権狐 赤い鳥に投ず」新美南吉

↓写真はプログラムより。朗読者よりのひとことも興味深い。

拝聴しながら思ったのは、それぞれの方の声や読み方の個性と作品世界の特徴がぴったりマッチして、一体化しているということ。「秋といえば……」というテーマで、各人が思い入れのある作品を朗読してくださったからなのだろう。

たとえば、『アガワ家の危ない食卓』「混沌の秘境」の朗読では、まさに混沌の秘境と化した実家の冷蔵庫を片そうとする娘と母のユーモラスなやり取りが、娘の冷蔵庫の様子へのかすかな嫌悪感やら驚き、母親の少し言い訳するようなトーンの朗読によって生き生きと浮かんできた。
もしかしたら朗読者の方の、自分の母親を気遣う気持ちも滲んでいるのでは……と思うほど情のこもった朗読だった。
冷蔵庫の様子に、娘が自分のバッグの様子を重ね、思わず発する嫌悪の言葉が、聞き手の私の心にも刺さってくる。「私もカバンの中を片さないと……」

朗読者を介して、見知らぬ大勢の人たちと作品世界を共有できたひとときのおかげか、紅葉坂のまだ青い紅葉の葉のトンネルが清々しい。帰りは足取り軽く坂を下った。
素晴らしいときをつくってくださった朗読者の方々、神奈川県立図書館に感謝!

またどこかでこのメンバーの朗読に再会する機会がありますように!

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さりはま書房徒然日誌2024年10月19日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月二十五日を読む

ー生々しい筈の場面が不思議な感じを帯びてくるー

九月二十五日は「私はカレイだ」と、世一の姉が煮返そうと冷蔵庫から取り出したカレイが語る。
以下引用文。彼女の貯金を狙ってか結婚への甘い言葉を囁くストーヴ職人とのやり取りを振り返る姉。生々しいメロドラマになりやすい場面かと思うが、「深海魚」の例えや鍋の音から「わからん、わからん」という言葉に重ねることで、人間の世界を脱出して、なんとも愉しいメルヘン的色彩を帯びている気がする。

そんなことを呟く際の彼女の顔は
   ほかの魚をまる呑みにして生きてゆく深海魚にどこか似ており
      なんとも不気味で、

すっかり怯えきった私は、
   そうしたことを訊くならほかの者にしてはどうかと勧め、

しかし

   沸騰へ向かって突き進む鍋は
      「わからん、わからん」をくり返すばかりで、

その間にどんどん煮詰まってゆき
   せっかくのおかずが焦げ付き、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』241ページ)  

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さりはま書房徒然日誌2024年10月18日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月二十四日を読む

ー自我とバランスを取り難くー

九月二十四日は「私は存在だ」で始まり、「少年世一の自我としての揺るぎない存在」が語る。

以下引用文を読み、人間とは自我を超えて過剰に怒ったり、喜こんだり、悲しんだりする生き物なのかもしれない……でも、そこが人間たる所以なのだろうか……そんなことを思った。

つまり世一は
   必要以上に私の前にしゃしゃり出ることもなければ
      私の背後からしぶしぶ付いてくるということもなく、

そうした生き方が可能なのは
   まほろ町ではおそらく彼ひとりくらいなもので、


しかしまあ
   人間以外の生き物では
      動物にしても植物にしても
         それが当たり前のことだった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』235頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月18日(木)

ひと折り中とじに挑戦したら、冊子が可愛い上製本に変身!

製本基礎講座三回目の今日は、まず、製本の大切な材料であるのりやボンドについて、成分やら作り方、保管方法など細かくレクチャーを受ける。のりでもメーカーによって成分が違うとは知らなかった。

今日はひと折り中とじに挑戦。絵本によく見られる製本方法だそう。

コピー用紙を半分に切って、真ん中部分を糸でかがる。私がかがると糸がゆわーんとしてしまう。でもすぐに先生が直してくださる。

小さな冊子でも、寒冷紗をつけ本文と接着、クロスにボール紙をのせ見返しに接着すれば、小さいながら本らしい感じに。

今日の作業は記憶の彼方に霞みつつあるけど、授業は毎回詳細に手順を記したテキストを配布して頂ける……なので家で復習しようと、色々買い込んだもののどうなるやら?

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さりはま書房徒然日誌2024年10月16日(水)

PASSAGEにある本です!

PASSAGE 1階にある本

神田古本祭りも近いし、丸山健二先生の「言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から 」発売も間近だし……と、PASSAGEとSOLIDAにある本を確認。いつの間にやら増殖していった感があります。こちらに記入漏れや記載ミスもあるやもしれません。価格は税込です。

栗林佐知さんのけいこう舎の本があります。「ぱん歴」も近日中に補充します。

吟醸掌篇vol.4(短篇小説を愉しむ文芸誌)1210円

山﨑ノ箱 1760円

超短篇画集 丘の団欒(まどい)

吟醸掌篇vol.5 ~女性作家ミステリ号~

以上、けいこう舎の本でした。他にもあります。

重信房子 パレスチナ解放闘争史: 1916-2024

シリーズ紙礫18血の九月(SOLIDA出張応援販売に出ているようで、SOLIDAの私の棚か、その近辺にあるかと思います)

季刊さりはま2号

丸山健二文学賞第4回受賞作品「恍惚のトルソー」澤間静吉

丸山健二文学賞第5回受賞作品「終の稜線」中谷嘉秀

丸山健二文学賞第6回受賞作品「流謫の行路」秋沢陽吉

丸山健二「千日の瑠璃 終結」2〜10

丸山健二「人の世界」1980円

(1が売れて再度注文していますが、現在版元が出荷を一時停止されているとのこと。丸山先生がだいぶ手をいれて直しているので早く再開されるようにと思います。ただ厳しい昨今です……)

いぬわし書房のフリーペーパー無料丸山健二先生の最近の文が読めますよ。

SOLIDA2階にある本

出張応援販売ということで、下の棚にも一時的に置いて下さっています。
エチカ・一九六九年以降 福島泰樹歌集 3000円

寺山修司全歌論集1900円

美しき独断 中城ふみ子全歌集 3000円

伊藤裕作「寺山修司 母の歌、斧の歌、そして父の歌」1980円

伊藤裕作「心境短歌 水、厳かに【わたくしたんか みず、おごそかに】」

丸山健二「ラウンド・ミッドナイト 風の言葉」2860円

福島泰樹「うたで描くエポック 大正行進曲」3300円

重信房子「歌集 暁の星」2200円

万葉集 全訳注原文付(1)〜(4)

藤島昌司 「なんじょすっぺ 福島からのメッセージ」200円

綿田友恵 「歌集 父、母、赤鉛筆……」1870円

歌誌月光86号 1100円

中原中也全詩集 角川ソフィア文庫 1606円

寺山修司全歌集(講談社学術文庫 2070) 1386円

沙果、林檎そして: 李正子歌集  1650円

生野幸吉 「闇の子午線パウル・ツェラン」1550円

いぬわし書房のフリーペーパー無料

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さりはま書房徒然日誌2024年10月15日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月二十一日を読む

ー藍染だからこその力強さー

九月二十一日は「私は藍だ」で始まる。手織りの布を藍で染め、寝たきりの夫を介護する老婆の染める藍が語る。
以下引用文。老婆は世一を呼び止め、身体を測る。そしてしばらくしてから……が以下の展開である。今まで世の謗りを受けてヨレヨレになったシャツ、老婆が仕立てた藍染のシャツとのコントラストが心に残る。「初秋の空に溶けて 別格の存在に」と語られる世一も……。そうした言葉にこもる思いの強さも丸山先生らしいなあと思う。

汗や土埃
  差別や偏見
     嫌悪や憎悪
        憂いや憤り
           そんなものにまみれてよれよれになった半袖のシャツを手に、


私が全情熱を傾けて染めた
   真新しい長袖のシャツを着こんで
      丘の家へとつづく道をてくてく歩いて登る
         必ずしも儚い命とは言えぬ少年は
            たちまちにして初秋の空に溶けて
               別格の存在と化した。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』225ページ)
    

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さりはま書房徒然日誌2024年10月14日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月十六日を読む

ー宇宙は無数にー

九月十六日は「私は体積だ」で始まり、世一の体の体積が語る。

以下引用文。丸山先生らしい「宇宙は無数に存在」するという考えが出ている箇所で興味深い。だんだんイメージが追いつかなくなったところで、ホウセンカの種が出てきて、なみみ深いこの世に帰ってくる感じがある。

こうした宇宙は無数に存在して
   さながら水泡のごとく
      ひっきりなしに消えたり現れたりしているのだから
         少しも貴重ではなく、

つまり
   永遠の存在もなければ
      永遠の無もなく、


無は自身のあまりの空しさに耐えきれずに
   のべつ揺らぎ、

その揺らぎが限界に達したところで
   特異点と化し、

そこから新しい世界の種が
   ホウセンカの種のように
      ポンと飛び出すのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』204頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月13日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』9月15日を読む

ー生から一転して死の世界へー

九月十五日は「私はサルスベリだ」で始まる。なんとも幻想味漂う箇所である。

以下引用文。寺の境内に咲くサルスベリ。その姿が生気にあふれる分だけ、死霊たちとのコントラストが鮮やかで印象的である。

私はサルスベリだ、

まだまだいくらでも花を咲かせつづけて夏を限界まで引き延ばす
   動物並の生気に満ちあふれた
      この界隈では一番古手のサルスベリだ。

ありったけの紅色を武器にして
   境内に漂う死の気配を相手に孤軍奮闘している私は、

隙あらばこの世に舞い戻ろうと機を窺う死霊たちの
   虫のいい願いを押し返しており、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』198ページ)

豪雨で崖が崩れ、寺の墓石も全部土砂に埋まるなか、サルスベリは墓地の水分を吸い上げる。すると花は黒く変色して落下。

枝にとまった青い鳥が「おまえは死んだのさ」と鳴く。
生にあふれていたサルスベリが死んだ木に一変する展開に、華やかな生が死に転じることで不思議な色を帯びてくるのを感じる。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月11日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月十二日を読む

ー楽器の音色が語りかけてきそうー

九月十二日は「私は楽器だ」で始まる。薪ストーブ作りの男が久しぶりに手にした「金属製のリード楽器」が語る。

以下引用文。楽器の奏でる音が聞こえてくるような気がするのは「滑り」「吸いこまれ」「諭し」というサ行音の効果だろうか、それとも「吸いこまれ」「失いつづけ」と平仮名の量が多いせいなのだろうか?楽器の音が流れてゆく風景、その音に託した楽器の、丸山先生の声が聞こえてきて印象に残る。

十数年ぶりに私が発する震動は
   夜気を震わせて湖面を滑り
      星夜へと吸いこまれ
         奏者自身の胸のうちへと逆流し、

あれから何を失ったのかをやんわりと諭し
   今なお失いつづけて
      このままでは芯から腐ってしまうことを
         厳しく指摘して警告を与えてやった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』189ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月10日(木)

製本基礎コースに行ってきました

ー糊を使わない製本ー

まるみず組での製本基礎コース第2回に行ってきました。
今回は糊を使わない製本です。

定規で測った筈なのにズレている……
モタモタして中々カッターで切れない……
すぐに手順を忘れてしまう……など情けないかぎり。

定規できちんと線が引けるって才能だなあと嘆きつつも、根気強い先生のおかげで無事に完成!でも背の糸がアンバランス……なのは次回の反省に。

材料は紙とクロスと麻ひもだけ。それだけで完成するとはすごい。
リボンの位置や太さは自由に変えられます。

ちなみに中に写真を貼ったり、短歌を貼ったり、色々貼れそうです。
訊いてみたら田畑書店のポケットアンソロジーは、この綴じ方を使っても、あるいは別の綴じ方でも変身させられるとのこと。ポケットアンソロジーで製本の復習をしてみるのも楽しそう。


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さりはま書房徒然日誌2024年10月8日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月五日を読む

ー子供らしくないのに心に残る世一の言葉ー

九月五日は「私は躊躇だ」で始まる。丘の上の家から下ってくる途中の世一がかられた「躊躇」が語る。
以下引用文。滅多に会話文を使わない丸山先生の「なんなら人間を辞めてもいいんだが」という子供らしくない台詞はどこか挑戦的で、不気味で、心に引っかかるものがある。

生きる勇気をさかんに鼓舞する青い鳥も次第に疲れを見せ始め
   ために
      私が再度勢いづいたことでその場にうずくまった世一は
         「なんなら人間を辞めてもいいんだが」
            そんなことを口走った。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』161頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月7日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月四日を読む

ー身近な自然の美しさー

九月四日は「私はトマトだ」で始まる。退院した世一が自宅の庭のトマトからもぎとって食べる黄色い実が語る。
以下引用文。世一がもぎとったトマトをかじる場面。丸山先生の文は、こういう身近にある自然を描くとき、万物の真理がパッと開くような美しさがあるなあと思う。

ともあれ死なずに済んだ世一は
   食べるのを中断して
      私のことをしげしげと見つめ直し、

日にかざして
   色の鮮やかさにうっとりと見とれる。

そのついでに
   おのれの手を流れる血液の赤と
      太陽の金色を半ば夢見心地で眺めながら、

二階の部屋の
   さながら天国の門のごとく開け放たれた窓から
      惜しげもなくばら撒かれる
         青い鳥のさえずりにじっと聴き入る。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』155頁)

 

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さりはま書房徒然日誌2024年10月6日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月三日を読む

ー自然と共にある生活感ー

(↑ カエデの黄葉。赤く紅葉するカエデもあるみたいだけど、たまたま黄色の黄葉に)


九月三日は「私はカエデだ」と世一の家の「星の形の葉をいっぱいに付けたカエデ」が籠に入れたオオルリと一緒に木に登ってきた世一のことを語る。
「星の形をいっぱいに付けたカエデ」という表現にも、以下引用文にも丸山先生の自然に向ける眼差し、その中で生を紡いでいらっしゃるのだなあ……と著者の生活感覚が滲んでくる素敵な文のように思った。

そしてオオルリと共に
   私の上で食べ
      私の上で飲み
         私の上で唄い
            私の上で排泄し
               私の上でこの世を満喫する。


そんな私たちの上空を
   夏を惜しむ白い雲が流れて行き
      充足の季節を心ゆくまで謳歌した鳥たちが
         黙したまま渡って行き
            生きとし生けるものすべての運命を司る時間が 

   さりげなく移って行く。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』152ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月5日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月二日を読む

ー爪弾きにされている者達なのに自由で美しくー

九月二日は「私は背中だ」で始まる。ようやく退院した世一をおぶって連れ帰るのは、刑務所を出所した後緋鯉を飼って暮らす叔父。その背中が語る。
以下引用文。丸山先生が描くこの場面は、刑務所に入っていた叔父、体も心も不自由な世一、物乞い……と爪弾きにされている人物を描いているのに、なんて自由でのびのびしていることか……自然もそうした人間を包容してただただ美しい、と思った。

ぽこんと突き出た腹を
   太陽の方角へ向けて
      桟橋に寝そべっていた物乞いが
         世一に気がつくと手を振り
            それに応えて世一も手を振り返し、

その間に
   いよいよヒグラシが鳴き始めて
      陽光の輝度が半減し、


ひんやりした一陣の風が
   人情の機微に触れながら
      松林を吹き抜けていった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』148ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月4日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月一日を読む

ーオオルリの鳴き声に姉への想いを反応させてー

九月一日は「私は相談だ」で始まる。世一の姉が最近態度が冷たくなってきている恋人・ストーヴ作りの男のことをオオルリに相談する。
以下二箇所からの引用。オオルリの鳴き声に姉への助言を込めた作者の視点、変わりゆくオオルリの様子が印象に残る。

するとオオルリは
   報恩の念にあふれた声でひとしきりさえずり、

   ついで
      だしぬけに荒々しい声に切り替え
         ずけずけと物を言い、

         つまり
            あいつは男のクズだと鳴き


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』145ページ)

それから
   最後にひと際厳しい声で
      恋愛の行方は女の出方いかんで決まると鳴き
         私への揺るぎない回答とした。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』145頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年10月2日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月三十一日を読む

ー想いを色々な表現に託してー

八月三十一日は「私は回復だ」で始まる。

以下引用文。回復した世一が吹き鳴らす口笛の「瑠璃色のさえずり」という表現に、生命が戻ってきたという感じが込められている。

患者の口笛による瑠璃色のさえずりが
   素晴らしい調子で響き渡るたびに
      気高い音波が
         体内に僅かに残っている
            ろくでもない最近と
               悪い毒素を排除した。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』139頁)

以下引用文、世一の回復を喜びつつ、すぐに元々の病気は回復していないという現実に戻されてゆく母親の心を足音に託しているのが心に残る。

その足音は初めのうちだけ軽やかでも
   階段を下って行くにつれて
      いつものあまり幸福とは言えぬ境界線をさまよう者の気配を
         どんどん濃くしていった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』141頁)

以下引用文。医師にオオルリの呼び名を訊かれた世一。元々の病は治ってはいない……ということを「限界に達し やがて煮詰まってしまった」と書いているところが面白い。

すると
   名前などは付けていないと答える世一のなかで
      私はほぼ限界に達し
         やがて煮詰まってしまった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』141頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月1日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月三十日を読む

ーどこかとぼけた語り口ー

八月三十日は「私は奇跡だ」で始まる。世一の姉がこっそり布を被せて病室に持ち込んだ籠のオオルリが引き起こす奇跡が語る。

全体にどこかとぼけたような、ユーモラスな雰囲気のある箇所である。そういう風にしないと、いかにも取ってつけたような奇跡になってしまうからなのかもしれない。

最初、オオルリが「ベッドに張り着くようにして横たわっている人間」が世一であることに気がつき、地鳴きを繰り返しても「カセットテープのさえずり程度の効果」しかなく、「私の出番など どこにも在りはしなかった」。

世一の姉が屋上に出て恋人の家を眺めているときに、奇跡は起きる。姉が戻ってくると「なんとベッドから離れ 晴れ晴れとした顔つきで歩き回って」いる。

以下引用文。何が起きたのか作者は語らず、以下のようにとぼけて締めくくることで、読み手に想像させて楽しませているのかもしれない。

平然たる態度のオオルリは
   練り餌をついばむ振りをして私のことを飲み下し
      手のうちを完全に隠してしまった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』137頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月30日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二十九日を読む

ー弱い者に視線を向けるとき束の間ひとは真人間になるー

八月二十九日は「私は見舞いだ」で始まる。瀕死の世一を病院の外側から案じる盲目の少女の見舞いが語る。
以下引用文。少女に病院までの道を訊かれた物乞い、修行僧、青年やくざの反応を「おのれの立場を束の間忘れ去り ただの人間に戻って」という文に、どんな人間にも宿る弱い者への優しい視線を見つめる作者を感じる。

道を教えたあとで
   相手が盲人であることに気づいた三人は
      それぞれにおのれの立場を束の間忘れ去り、

ただの人間に戻って
   相手が間違いのない方向へ進んで行くかどうかを
      しばしば見守っていた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』132頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月29日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二十八日を読む

ー家族の本音ー

八月二十八日は「私はカセットテープだ」で始まる。世一の姉が瀕死の弟のためにオオルリの鳴き声を吹き込んだカセットテープが語る。

以下引用文。我が子・世一の命がおそらく長くはないと知った母親の残酷な反応を静かに赤裸々に描いている。

疲労しているはずの目には
   わが子の命が解き放たれる日が間近いことを確信する
      なんとも言いようがない
         鈍い輝きが見て取れた。

そして彼女は
   重荷でしかない病児を娘に任せ、

   ひと眠りするために
      さもなければ
         厄介者が消えたあとの日々を夢想して楽しむために
            町場より涼しい丘の家へと帰って行った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』127頁)

以下引用文。姉の真意を見つめるカセットテープの言葉が印象的である。ただ百年後の人がこの文を読んだら、たぶんカセットテープで躓き、文意が取れないかもしれない。百年後もおそらく変わらない自然が語り手なら理解してもらえそうだが、物に語らせる危うさはあるのかもしれないと、ふと思った。

微動だにしない弟を相手に
   姉はこう弁解し、

   青い鳥のさえずりの力を借りて命を救おうとしただけであって
      断じてその逆ではないと言い張り、

      その間私は
         沈黙によって疑念を深め
            果たして本当にそうなのかという
               声なき声を連発していた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』129頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月27日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二十七日を読む

ー自由への想いー

八月二十七日は「私は追憶だ」で始まる。「午前零時を回っても 思い出したように発作的にさえずるオオルリのせいで 留まるところを知らぬ」追憶が語る。
上記の文だが「回る」「発作的にさえずる」「留まるところを知らぬ」という言葉が絡み合って、追憶がからから回るような映像が浮かんでくる。


以下引用文。世一の母親の追憶の一コマ。「鳥になるべきだ」の一言に、丸山先生の自由を大切にされる生き方がおもわれる。

つれないことをさらりと言ってのけることと
   好男子であることで評判の占い師は
      「この子は鳥になるべきだ」と
         そうひと言呟いただけで、

         母親が幾度聞き直しても
            鳥の意味についてはまったく触れなかった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』123頁) 

以下引用文。入院していて空っぽの世一のベッドを見つめる父親は、オオルリに怒鳴る。やはり、ここでも自由への切実な思いが伝わってくる。

まったくだしぬけに
   「黙れ!」とオオルリを一喝し
       鳥になりたいのは自分だと言った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』125頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月26日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二十五日を読む
ー平易だけど心に残る表現ー

八月二十五日は「私は異変だ」とまほろ町に次々と起きる異変が語る。
以下引用文。「夏と交わりたがる大勢の人間」とか「ぐうの音も出ないほど貧しさにやりこめられた」とか、平易なんだけれど思いつかない面白い表現だなと思う。

されど
   湖岸にも湖上にも
      夏と交わりたがる大勢の人間がいたにもかかわらず
         誰ひとりそれを目撃しなかった。

ついで私は
   ぐうの音も出ないほど貧しさにやりこめられた路地裏へと移り、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』116頁)

以下引用文。最後の四行からオオルリが激しくさえずる姿が浮かんでくるのはなぜだろうと思った。もしかしたら「オオルリ」のところまでは、わりと開けた感じの文字を使い、「オオルリ」以降は画数の多い漢字がきているせいもあるのだろうか?

少年世一の広大な人生を祝してさえずる
   籠の鳥であっても究極の自由を味わいつづける
      オオルリが
         小さな脳髄に宿る大きな魂を
            激しく震わせながら
               人間に限りなく近い
                  絶叫を発した。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』117頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月24日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二十三日を読む

ー作者のようにも思える姿ー

八月二十三日は「私は衰弱だ」と、食あたりで弱った世一を心身ともに痛めつける「衰弱」が語る。以下引用文。これは世一というより、なんだかご自身の生を見つめる丸山先生の声のように思った。

そして当の世一はというと
   幸福に思えなくもないオオルリとの日々へ埋没したまま
      生温かいジュースをちびちび飲みながら
         青い鳥を相手に雑談に耽り、


畳に腹這いになってあらぬ思いに耽りつつ
   午前中をだらだらと過ごし、

この世に存するおのれを持て余すことなく
   時の流れに私を委ねている。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』108ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月23日(月)

手製本にトライしてみた
ーフランス装ノートー
ー文庫本を布張り上製本ー

東京・飯田橋から徒歩8分くらいの場所にある本づくり協会&美篶堂さんの手製本単発講座を受講、しかも欲張って午前、午後と二つの講座を受けてきた。

製本作業の合間に美篶堂さんがして下さる手製本の道具の状況や紙についての話も興味深いものがあった。

道具も少しずつ絶えて

手製本の道具を作る人が絶えたり、道具の材料も減りつつあるとのこと。一方で海外では日本の製本の道具が見直されているそう。

紙を折るときに使う折りべら、折り目や筋をつけるのに用いる「かけべら」は竹で出来ている。でも最近、ちょうどいい太さの竹の入手が難しく、どんどん「へら」の幅が狭くなってきているとのこと。

でも海外の製本家のあいだでは竹のへらが再評価され、去年もかなりの数が輸出されたとか。

「いちょう」という本に溝をつける道具は、つくる会社がなくなってしまったとも言われていた。

「紙を見る」姿勢

「紙を見る」ことから教えようとしてくださる言葉に、紙への愛情がひしひしと伝わってくる。

「紙の表裏を見る」……紙は表から切るのが基本。だから裏には「バリ」(裁断時にできる突起)がある。これを指で確認するようにとのこと。

「紙の目(繊維の流れ)」を見る……紙を丸めてみると、繊維の流れに従っている場合抵抗が弱く、抗っていると抵抗が強い。言われて試してみたら確かにそうだった。
紙の目が背の天地と平行に流れるように本を作らないといけない。そうでないと壊れやすい本になると。

フランス装を終えて

美篶堂さんや本づくり協会の方々が丁寧にサポートしてくださったおかげで、午前、午後共に何とか私でも本が完成!

美篶堂さんも「最初は綺麗に重ならないものよ」と言われていたけど、何とかフランス装で本の形にはなっても、見返しを織り込んだ表紙が微妙に大きさが違ったり何ともアンバランス……なのはなぜ?と反省。
綺麗に折る秘訣を求め、またトライしたい。

(写真の表紙をめくるとアンバランスな折り込みがあらわれますが恥ずかしいので)

「紙を切る」姿勢

文庫本を布貼り上製本に仕立て直す講座では、福島泰樹先生の文学講座のテキスト「中原中也全詩集」を使用。
あまりの厚みの本に周囲に驚かれ、「この本がバラバラで終わったら今週の講義はどうしよう?」と不安になる。
でも丁寧にサポートして頂いたおかげで無事上製本に変身して安堵。

表紙寸法を自分で計算して、三つのパートに分けてボール紙から型を切り取っていく……のだが、ボール紙をカッターで切るのがこんなに大変とは思いもしなかった。

カッターでグリグリ切ろうとしたら、美篶堂さんには「鉛筆でなぞるように力を入れないで優しく」と言われる。
そこでそっと撫でるようにボール紙にカッターを滑らす。10回滑らすとボール紙がスッと切れる。不思議!

このバーツ切り出しだけでカッターを120回滑らしただろうか?切るだけでもシンドイものである。
だから切っていると、体がだんだん斜めになったりしてしまう。切るという動作だけでも色々コツがあるような気がした。

それぞれのこだわりがほんの佇まいをつくるような気が

手製本の方々は刷毛の持ち方とか紙の押さえ方とか、細かいところに其々の工夫があって、それが本の佇まいを作っているような気もする。
見てはすぐ忘れる私だけど、なるべく多くのやり方を学んで試してみたいなあと思う。

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さりはま書房徒然日誌2024年9月22日

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二十二日を読む

ー生と死が隣り合わせている世界ー

八月二十二日は「私は迷鳥だ」で始まる。老人に拾われた「惨めったらしい迷鳥」が語る。
以下引用文は最後の箇所だが、元気を回復して飛び立つ迷鳥に「死が待つだけの天空へまっしぐら」と言って終わるあたりに、丸山先生の生と死が隣り合わせている世界を見るような気がした。

オオルリがさえずり、

それが何よりの餌となり特効薬となって
   急に元気を回復した私は
      礼も言わずにさっと飛び立ち
         絶妙な羽ばたきを見せて
            死が待つだけの天空へとまっしぐら。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』105

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さりはま書房徒然日誌2024年9月21日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二十一日を読む

ー宇宙とは厳しい戦いの場でもあり調和の場でもありー

八月二十一日は「私は土星だ」で始まる。食あたりで体調を崩した世一の夢に現れる土星が語る。


以下引用文。
世一に昼食をふるまった物乞いは、宇宙についてこう語る。厳しい生活を送る人の目がとらえるこの宇宙の緊張感が心に残る。

人々と同様
   星々もまた至る所で壮絶な死闘をくり広げており、

   そうするほかに生と存在を認識する術がないのだと
      きっぱり言い切って


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』99ページ)

以下引用文。土星が世一に語る宇宙の姿。宇宙とは、物乞いが語る緊迫感あふれるものかもしれないし、土星が語るように調和のとれた穏やかな世界なのかもしれない。どちらも真実であるような気がする。

この世が故意に造られたものではなく
   誰かの過失による偉大な産物というわけでもなく
      あくまで調和の上に成り立つ世界であることを
         知らしめようとした。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』100ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年9月20日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月十八日を読む

ー世一の目がとらえるこの世ー

八月十八日は「私は洞察だ」で始まる。少年世一の「意識下に潜むあまりに鋭い洞察」が語る。
以下引用文。世一の洞察が語る「まほろ町」は平易な言葉でありながら、どこか寓意的でもある。

私に言わせると
   閉じた社会でもなければ
      開かれた社会でもなく、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』86頁)

以下引用文。世一の意識下の洞察は、まほろ町に住む人々も次々ととらえていく。その姿は「青や赤や紫の思想」という言葉のように、説明する言葉を失いながら的確に核心をついている。
理解する言葉を持たない世一の視点に降りたって、この世を眺める不思議さがある。

そうかと思うと
   青や赤や紫の思想を漂白して
      舌戦をくり広げたがる連中もいるし、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』86頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年9月19日(木)

初めての和綴じ四つ目綴じ製本体験

東京都板橋区にある手製本工房まるみず組で、人生初の和綴じ本の制作体験をしてきました。器用とは言えない私ですが、親切に分かりやすく教えてくださるまるみず組の先生のおかげで(手順を説明したプリントも頂けます)、無事に四つ目綴じの和本が完成しました。

この和綴本の制作を通して、和綴じ本の魅力を発見したり、驚いたり……。

和綴じ本に驚いたことやら感じた魅力やら

其の一 材料も道具もあまりコストをかけずに本ができる!時間は多少かかりますが、不器用な私がモタモタ作っても1時間半で完成しました。

其の二 こより用の用紙SILティッシュはすごく儚げなのに、よじると途端に丈夫になる。でも不器用な私は、こよりを捻るところからモタモタしてしまいました。

其の三 和綴じ本はすごく軽い。出先とか旅行先に携帯しやすい。

其の四 それでいてすごく丈夫。パカっと真ん中で綺麗に開いた状態で静止してくれる。文鎮不要。片方にフランス語の詩、片方に訳文とか配置してボーッと眺めるのにいいかも。

其の五 今回はページにあたる部分は白紙の半紙で作りましたが、目にすごく優しい気がします。半紙でなく他の和紙なら更に優しく感じるのでは。

其の六 今回、表紙は千代紙を使いました。千代紙もデザインが豊富でずいぶんお洒落な紙があって楽しい。着物の生地を表紙に使うこともあるそうですよ。背の角ぎれ、かがり紐の色、かがりの形と組み合わせるとデザインは無限。

和綴じ本という名前ながらアジア諸国の叡智の結晶

ちなみに日本に紙が伝わったのは高麗から、紙を二つ折りの袋綴じにする形は明から伝わったそうです。
和綴じ本とは言いますが、背景にはアジア諸国の叡智が詰まっているのです。

手製本工房まるみず組について

手製本工房まるみず組は広々とした場所に、大きな作業台があります。さらに無数の紙やら製本グッズがあって本好きにはたまらない場所だと思います。オンライン販売のところに単発の製本レッスンも幾つかあります。興味のある方は検討されてみてはどうでしょうか?

↑私の初めての和綴じ本。兎柄の千代紙に泉鏡花を連想して選びました。

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さりはま書房徒然日誌2024年9月18日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月十五日を読む

ー実体のない語り手の存在を感じさせるにはー

八月十五日は「私は説明だ」で始まる。「少年世一が盲目の少女を相手にだらだらとくり返す 実意を込めた 懸命の説明」が、盲目の少女にオオルリとはどんなものなのか説明しようとする。
鉛筆や牛乳ならともかく「説明」が語る……というのはハードルが高いのかもしれない。だからだろうか?八月十五日の文は具体的に見えるように進み、丸山先生にしては珍しく世一と少女の会話まである。これも「説明」という実体のない語り手に、骨と肉を与えようとしているからではないだろうか?

むしろ見えないことによって培われた想像力が
   存分に働き、

   おかげで私は
      本物を凌駕するかもしれない青い鳥を
         ものの見事に
            いまだ光を知らぬ胸のうちに飛ばしてやれ、

            「どう、わかったあ?」と
                そう訊く世一の声に濁りはなく、

            「わかったあ」と答えて深々と頷く
                相手の笑みは至上のものだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』76ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月17日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月十四日を読む

ー「調子のいい韻律」という言葉の面白さー

八月十四日は「私はトモロコシだ」で始まる。力仕事を終えた若者が、畑から家畜用の実の少ないトウモロコシを畑からもぎ取ってきて火にくべる場面である。「調子のいい韻律」という言葉が、火の爆ぜる音、若者の骨格の見える痩せた体と重なるようで面白いと思った。

待ちきれない彼は
   まだぱちぱちと爆ぜている生焼けの私にかぶりつき
      さも美味そうにむしゃむしゃと貪りながら、

      かなり傾いたとはいえ
         まだまだ荒くれている夏の太陽を前にして
            皮下脂肪のかけらもない手足や胴や頭に
               調子のいい韻律を与えた。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』72ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月16日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月十一日を読む

ー竜を威嚇する強さー

八月十一日は「私は竜だ」で始まる。「山車の 四本の豪華な柱をぎゅっと締めあげ」る竜が語る。

以下引用文。竜が「傲岸」とまで語る少年世一。世一の天真爛漫さ、他人のとらえる自分の弱さをきっぱり拒絶する強さが心に残る。

近頃では
   「ハッタリはよせ!」などと言って私を威嚇する
       およそ恐れというものを知らぬ子どもさえ現れる始末で、

傲岸にもその少年は
   私のみならず自身の病すら認めようとしないばかりか
      不自由な肉体に付き纏って離れぬ
         深い孤独や疎外感さえも認めていないのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』61頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月14日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月十日を読む

ー老人と傷んだボートー

八月十日は「私は刷毛だ」で始まる。湖で傷んだボートを発見した元大学教授は、刷毛でボートにペンキを塗りつけてゆく。
以下引用文。傷んだボートが「溺死体」にも、「自分が浮いている」ようにも思う元教授がもうこの世から心が去りつつあるのかと思えば、「ボートをあっさり死なせたくない」と思うあたりに、命のしぶとさを思う。

余生を楽しむ振りが大好きな元大学教授は
   そのボートを一週間ほど前に偶然発見し、

見つけた直後は
   なぜか溺死体に思えたと
      そう妻に伝え、

ついで
   誰にも聞こえない声で
      自分が浮いているようにも思えたと
         そうつづけた。

過剰な親近感のせいで
   彼はボートをあっさり死なせたくないと考え、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』54頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月12日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月九日を読む

ーまさに夏の昼下がりー

八月九日は「私は昼下がりだ」で始まる。フェーン現象のせいで暑くなった日の昼下がりが語る。夏の昼下がりとはまさにこんな感じ、気怠さと勢いを増す自然がコントラストを描いて心に残る。

まほろ町をすっぽりと包みこんだ私は
   午睡をする人の数をいつもの倍に増やして
      街道の交通量をいつもの半分に減らし、

ついでに
   底意や小策の数も大幅に少なくしてやり、


そして
   ひたすらきらめくうたかた湖と
      その周辺の屈折した光景を
         さながら油絵のように塗り固め
            押し固めてやり

夏場だけ開店する湖上のレストランを
   夢うつつへと限りなく近づける。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』50頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年9月11日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月八日を読む

ー若者の不安と光が一体となってー

八月八日は「私はピラミッドだ」で始まる。少年世一がそれが何なのかも分からず、海外旅行のパンフレットを見たことも忘れ、ただ無心に作り上げたピラミッド。湖畔の砂でできた、少年がよじ登ることのできる大きさである。
以下引用文。湖畔でキャンプする若者たちがピラミッドを眺める様子。
「光と光の僅かな隙間にちらついている さほど明るくない未来」という言葉に、湖畔の風景と若者の不安と希望がないまぜになった心が見える気がする。
「直線的で相対的な私」の「相対的」の意味、何だか受験の国語の問題に出てきそうだけれど、どういう意味なのだろうと考えてしまう。

かれらは
   ひと泳ぎしては浜辺に寝そべって甲羅を干し、

光と光の僅かな隙間にちらついている
   さほど明るくはない未来を垣間見るたびに顔を背け
      不安でいっぱいになった目を
         今度は世一と私に向けるのだ。

そんなかれらはおそらく
   極めて曲線的な動きをする少年が
      直線的で相対的な私を造り上げたことに魅了されており、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』48頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月10日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月五日を読む

ー体験が滲む文ー

八月五日は「私は大鎌だ」で始まる。「食べて眠るだけの生活」にも、「そのときの気分で踊るアドリブのダンス」にも飽きた青年が、新しい職を求めていくなかで出会った下草刈り用の大鎌が語る。
丸山先生の田舎暮らしと作庭の体験から出てくる言葉が、意識してなのか無意識になのか定かではないが、渦巻いているような文だと思った。

たちまちにしてコツを呑みこむと
   同僚の誰にも負けぬ勢いで
      私をブンブン振り回し、

クマザサを薙ぎ払い
   派手な色合いの蛇の頭をすっぱりと刎ね
      小石にぶつかるたびに火花を飛ばし、

そのついでと言ってはなんだが
   思い出したくもない過去と
      汗といっしょに断ち切った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』35頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月9日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月四日を読む

ー母親たちともうひとりの母親のコントラストー

八月四日は「私は日傘だ」で始まる。「うたかた湖の水と光に戯れるわが子を見張る母親たちが差す」日傘が語る。
以下引用文。子供達を眺めながらその未来を案じる母親たち。「日傘」をアンテナ見立てて、心配に乱れる脳波を夏空に拡散したり、日差しが安心させようとする声が伝わってくる様子が、どこか漫画チックで面白い場面だと思った。

そして
   心配が募るたびに乱れる脳波は
      さながらラジオの電波のように
         この私をアンテナ代わりにして
            焦げ臭い夏空へと野放図に拡散し、

すると
   強烈な日差しが
      やはり私を通して
         「心配するに及ばない」を
             くり返し説くのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』31頁)

以下引用文。最後に世一の母親が通り過ぎる様子が出てくる。日傘を差した母親たちの様子が漫画チックに書かれている分、障害のある世一を育てる母親の現在の姿が強烈なコントラストとなって迫ってくる。

すでにして母親の立場に飽き飽きした年配の女は
   私の方など見向きもせず、

   それでも丘を半分登ったところで
      なぜか急に足を止めてこっちを振り返り
         大はしゃぎをする子らの甲高い声にじっと聞き入って
            おのが少女時代の夏が
               まさにそこに在ることを実感する。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』33頁)

 

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さりはま書房徒然日誌2024年9月8日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月三日を読む

ーラジオ体操に罪はないけれどー

八月三日は「私はラジオ体操だ」で始まる。ラジオ体操は、自分の周りに集まってくる人々の背後にある国家の狙いを鋭く見つめる。ラジオ体操はともかく、今の学校教育はまさにそうであろうと思う。
ただ狙いは「現人神の影にひれ伏せさせるため」なのだろうか?
戦前、現人神が戦争をすることでやってきた荒稼ぎを、今度は現人神抜きで自分達がやってやる……という輩が跋扈しているような今の世、「強欲な現人神の真似をしている者たち」なのかもしれない。

健康な者と不健康な者を厳しく選り分けて
   後者を疎外し
      前者には連携と服従の精神を植え付ける
         そんな魂胆の私は、


物事をあまり深く考えないで集まってくる
   能天気な人々に暗示を掛け、

月並みな終わり方をしそうな
   そして
      それをよしとする生涯を
         いざという段には
            喜んで国家に捧げるように仕向ける。


つまり
   遠いように見えながらも
      実際には目睫に迫っている
         現人神の影にひれ伏せさせるための基礎訓練を
            今から積ませており、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』26頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月7日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二日を読む
ーどちらも真実ー

八月二日は「私は紅炎だ」で始まる。太陽の「紅炎」(こうえん)が語る。

以下引用文。「紅炎」が世一とオオルリに向けて送る声援。相反するメッセージが響き合って、自然とこの世にある生の意味が何の矛盾もなく心にストンと落ちてくる。

存りのままでいいという
   そのままでいけないという
      そんな背理の見解を込めた
         熱い声援を送りつづける。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』23頁)

以下引用文。世一の父親に「おれの代わりにどんどん燃えてくれ おれは燃えることができんのだ!」と喚き散らかされると、宇宙の様子までもが変化してゆく。世一の父親の絶望がどこかユーモラスに書かれている。
紅炎の世一とオオルリへの矛盾した思い。宇宙を歪める世一の父親の絶望。どちらもこの世の真実なのだなあと思う。

ところでこの箇所は、引用箇所以外は難しい、初めて知る漢字が結構多かった。なぜなのだろう。引用しても、変換が難しいかも……という安易な理由でやめてしまったが。

その途端
   辺り一帯に異様な悲壮感が漂い始め、

汲み尽くしがたいはずの
   無限説が濃厚の大宇宙が
      たちまちにして下降と凋落の世界に成り下がってゆくように思え、

加速度的に膨張の一途を辿っていた空間のそこかしこに
   ひび割れが生じてゆくように感じられ
      存在の意味を問う声すら押し潰されそうになって
         私は慌てて勢いを増す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』25頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月6日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月一日を読む

ー意外なイメージ同士がピッタリー

八月一日は「私は静寂だ」で始まる。暴力団らしきメンバーの葬式が行われたまほろ町。警官や人々の緊張もほぐれつつある様子を、町に戻りつつある「静寂」が物語る。

以下引用文。元に戻りつつある町に意外にも不満そうにしている人々。ふらら歩きながら、その聲を耳にして真似する世一。「不満の言葉や不毛の言葉」のイメージと「散歩中のハリネズミよろしくぶつぶつ呟き」というイメージが、かけ離れたものなのにピッタリする表現の不思議さを感じた。

そんな病児は
   町のあちこちで耳にした
      不満の言葉や不毛の言葉を
         散歩中のハリネズミよろしくぶつぶつ呟きながら、

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』21頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月5日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十八日を読む

ー抽象的なものを語り手にする効果ー

七月二十八日は「私は救済だ」で始まる。世一の飼い鳥のオオルリが「神に入るさえずりの妙技で遠回しに示す かなりの気高さを秘めた」救済が語る。
以下引用文。救済が叫べど、まほろ町の人々の反応は冷ややか。
「救済」という抽象的なものを語り手にすると、作者の素顔がストレートに出てくる感じがした。
他の人の視点に降り立って、その人の一人称で語るときは作者はあまり見えないものだけれど。
作者自身の考えをストレートに、でも若干弱めて伝えるには「救済」という抽象的な語り手もいいのかもしれない……などと考えた。

けれども
   そうしたかれらのそうした冷ややかな反応こそが
      実は私が最もこいねがうところのものであり、

ひっきょう
   私の詭弁に酔い痴れ
      私が授けるお情けにすがっているあいだは
         ぐずぐずになった精神世界が救われることなど

            絶対にあり得ない話で、

かれらを救えるのは
   かれら自身を措いておらず、

神仏なんぞは論外であって
   頼ったその段階で
      魂は即死を迎えてしまう。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』5頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月4日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十五日を読む

ー帰還兵の心の闇ー

七月二十五日は「私は熱風だ」で始まる。丸山作品は地名が素敵で、よくある平凡な町の風景が地名のおかげで幻想的な世界に思えてくる。

私は熱風だ、

   あやまち川を遡り
      うたかた湖を渡ってもけっして冷えないどころか
         却って勢いづいてしまう
            かなり世慣れた熱風だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』390頁)

以下引用文。帰還兵の心の闇を描いて戦争の悲惨を訴えてくる丸山作品の中にあって、この老人は少し異質な気がする。でも戦争に至る心の闇が誰にでもあると仄めかしているのかもしれない。

おのれの軍装の写真を唯一の心の拠り所にして
   小心翼々として七十五年を生きてきた老人が
      床に安臥して間もなく
         その命をついに全うする。

大往生の部類に属す死者は
   戦争のために南方で残害した無辜の民を思い出しても
      もはや良心の呵責を覚えることがなく、

      さりとて
         一時期は現人神とまで崇めた天皇と同じ年に死ねることを
            さほど誇りに思ったりもせず、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』392頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月3日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十四日を読む

ー目の見えない少女に天の川を説明するとー


七月二十四日は「私は天の川だ」で始まる。うたかた湖のボートの上で、父親が盲目の娘に「天の川」を説明しようとしている。

以下引用文。「天の川」が自ら語る自分の姿である。醜いもの、清らかなもののコントラストが印象的な文である。

倦怠のまほろ町の爛れた夜空を横切り
   けっして世を厭うことのない盲目の少女の
      いつも静かな胸のうちをよぎる
         幻想としての天の川だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』386頁)

以下引用文。盲目の娘に天の川とはどんなものか……と必死に説明する父親、それに対する少女の反応である。自分が父親の立場ならどう説明するだろうと考えてしまった。宇宙の底知れぬ怖さを語らないのは父親の思いやりなのだろうか。

星とはつまり
   天に咲く花のようなものだと
      そう説明し、

すると少女は
   いい匂いがして
      ふんわりしたものが流れている
         大きな川なのかと訊き返す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』387頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月2日

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十三日を読む

ー世一への思いー

七月二十三日は「私は記事だ」で始まる。まほろ町に数十年ぶりに発生した殺人事件の記事が語る。
組員と一緒に記事の写真に写り込んでいた世一をこう語る。「反社会的な存在」「存在することの恐怖」「社会通念を愚弄」という言葉に、丸山先生が世一に託した想いを感じる。
意図せずして、そういう存在になり得る世一は丸山先生にとって理想的な存在なのかもしれない。

それにしてもたまたま写された少年は
   当事者である組員本人よりも
      なぜかは知らぬが
         反社会的な存在に成り得て
            存在することの恐怖を物語り、

少なくともこの私にはそう思えてならず
   要するに彼は
      不自由な肢体のすべてを用いて
         社会通念を愚弄している。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』385頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月1日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十六日を読む

ー「夏」が語る戦後日本ー

七月十六日は「私は夏だ」で始まる。
敗戦時に責任をうやむやにして問うべき責任をきっちり問わず、曖昧なままスタートした日本の戦後がいよいよ崩壊しかけているような昨今、思わず目にとまった文である。ただ「屈辱」と言うよりは、「愚かさ」やら「身の錆」やらの方が、私の心情的にはしっくりくる気がする。

そして私は
   無条件降伏という屈辱を戦勝国に押しつけられたせいで
      今もって民主主義のなんたるかを理解していない
         身の程知らずのこの小国を、
            永久に振り捨てられそうにない
               島国根性と共に
                  すっぽりと覆う。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

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さりはま書房徒然日誌2024年8月31日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十四日を読む

ー「魂に汗して生きる」という表現、心に残るー

七月十四日は「私は積乱雲だ」で始まる。まほろ町のいろんな住民を観察し見守る積乱雲は、丸山先生そのもののような気がする。積乱雲が語る世一の「魂に汗して生きる」「最高にして最低の存在」の姿も、清々しいような、哀しいような存在である。人の世を見つめる積乱雲の束の間の存在が心に残る。

そして
   この世を見極めることにかけては
      今や入神の域に達しつつあるかもしれぬ
         魂に汗して生きつづける
            最高にして最低の存在たる
               少年世一。


私はそんなかれらのひとりひとりに
   じっくりと見入り
      そして魅入っており、


なぜならば
   全員にそれだけの存在価値が
      充分過ぎるほど具わっているからで、


かれらを認め
   かれらの至高至純の魂の震動によって膨張しながら
      いつもの夏を
         いつもの現世を構成してゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』349頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年8月30日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十三日を読む

ー思いがけないイメージの方が心に残るものー

七月十三日は「私は荒涼だ」で始まる。この箇所は意外性に満ちていたので心に残る。
以下引用文。私は杏が好きだが、「可愛い」というイメージのある杏の枯れ木に「荒涼」を見出すという展開に、思わずどんな木の残骸なのだろうと考えてしまう。

もう何年も前に雷火に焼かれ
   さらに落石によって幹を真っぷたつに裂かれて
      とうとう枯れてしまった杏の大木に宿る
         ごくありふれた荒涼だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

以下引用文。丸山先生らしい作家が出てくる。だが杏の枯れ木に宿る荒涼に怖じ気づいて逃げ帰ってしまう……という意外さに、どんな荒涼なのだろうと考えてしまう。

すらすら繋がるイメージよりも、思いがけないイメージの方が考えさせるものだと思った。

物好きにもわざわざ私に会いにやってきた
   ときにはおのれ自身を虫けら扱いしたがる小説家もまた
      私をひと目見るなり
         犬を連れてこなかったことを後悔し

核心に迫る言葉を発見するどころか
   尻尾を巻いて逃げ帰り、


あとには
   筆禍を招きそうな文章の二つ三つを
      置き去りにし、

一般の気受けがあまりよろしくなく
   とかく風評のある彼の背中に
      私は悪態の連打を浴びせる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』343頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月29日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十一日を読む

ー悲惨と隣り合わせだからこその慈愛ー

七月十一日は「私は慈愛だ」で始まる。孵卵器で孵ったばかりのアヒルの雛に童女が注ぐ慈愛が語る。

前半の慈愛に満ちた世界の穏やかさ。後半のその穏やかさが「知らない方がいいことを知らずにいて、 ために 底なしの無邪気さが保たれている」という事実。このコントラストを皮肉をまじえないで、真摯に見つめる視線に「この世とは……?」と思わず考えてしまう。

以下引用文。童女の慈愛の世界。

ここには
   手遅れで策の施しようがないことなどひとつだってありはしないし、
      それにまた
         華奢を極めた生活にはどうしても抜け落ちてしまいがちな
            質素な暮らしのなかにこそ宿る
               温かい条件がすべて用意されている。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』335頁)

以下引用文。

童女からさほど離れていない場所では、母親が手慣れた手つきで雄の雛を「ぐらぐらと煮え滾る熱湯のなかへ無造作に投げこんでいる」
また医師免許を失った元医師が「母親になりたくない女が宿した子を 密かに始末している」

そんな現実を知らないからこそ、慈愛は「崩壊を免れ」「全体を意味し」「生きるに値する何かを 有している」
ひどい現実と隣り合わせだから、慈愛の存在は強いのだなあと思うけど、「知らずに済んでいて」だからかどうか……慈愛はそんなにやわなものではない気もする。

幸いにも知らずに済んでいて
   だからこその天国の気配に満ち、

   崩壊を免れている私は
      この世の一部でありながら
         全体を意味し、

         生きるに値する何かを
            有している。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』337頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月28日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月九日を読む

ーふと見える作者の素顔ー

七月九日は「私は浮きだ」で始まる。
「効果抜群の 夜釣り用の浮き」が語る鯉釣りをしている男。若い頃、やはり夜に鯉釣りをしていた……という丸山先生ならではの、対象への同化が感じられる。
「おのれの気配を消して闇に成りきり あるいは水に成りきって」という言葉も、体験から語っているのだなあと作者の素顔が感じられる。
それにしても鯉釣りに「他の時間は死んだも同然」とまで思うものなんだろうか……と釣りを全くしない私は不思議に思いつつ、そうなんだろうなと納得させる迫力がある。

丈夫一点張りの鯉釣り用の竿を握る男は
   おのれの気配を消して闇に成りきり
      あるいは水に成りきって
         ひと晩に一度あるかなしかの
            ときめきの嵐をひたすら待っている。

狩猟本能に直結した感動が
   さながら電流のごとく全身を駆け巡るあの一瞬のために
      彼は過酷なこの世を生きており、

      つまり
         他の時間は死んだも同然ということになり、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』326ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月27日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月八日を読む

ー足音に想いを宿してー

七月八日は「私は足音だ」で始まる。「疲労困憊して帰宅した少年世一」が階段を登って行く足音に、風邪で伏せっている母親は耳を傾ける。

以下引用文。階段を登って行く足音に、母親は「長男の孤独の深さを今さら思い知り」と世一の孤独に思いを寄せる。ふだんは世一を見ないようにしている母親が、ふと情味を取り戻すようでハッとする一瞬である。その衝撃が「 わが子に見切りをつけて久しい事実を  突如として再認識」させる様に、ふだん世俗にまみれて生きているお母さんに、自分の内面を見つめさせる世一の力を思う。

おのれが辿った五十数年をそっと抱き締めながら
   私に耳をそばだて、

   そして
      長男の孤独の深さを今さら思い知り
少なからず衝撃を受け、

         併せて
                  わが子に見切りをつけて久しい事実を

                      突如として再認識し
愕然となり、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』322ページ) 

以下引用文。最後の部分。雨音に孤独を募らせてゆく母親の心、「私は消え失せる」という静かな諦念に満ちた終わり方が心に残る。

丘を駆け下る水の音がさらに強まって
   世一の母の耳を塞ぎ
      ついでに心までも塞いでしまい、

      彼女は毛布にひしと抱きつき
         世一は鳥籠にしがみつき
            そして私は消え失せる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』325ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年8月26日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月七日を読む

ー少し視点を変えたら世界が新鮮ー

七月七日は「私はバスタオルだ」で始まる。
「まだ新しい ずば抜けた吸湿性の 黄色いバスタオル」が語る。

以下引用文。「綺麗に」「聞き古した」「投げやりな気分で」とタオルの目線になって丸山先生が語っているのが面白い。いつもは人間目線でタオルを見ている私としては、少し世界がひっくり返った感じになる。

きのうと同じように
   私はシャワーの滴を綺麗に吸い取り
      聞き古した自問自答をどこか投げやりな気分で吸い取り、

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』318頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月22日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月五日を読む

ー転換の鮮やかさー

七月五日は「私は雨音だ」で始まる。
以下引用文。このあと、雨の陰惨さが人々に及ぼす影響が雨音が打ちつけるように幾つも列挙される。だが最後にオオルリが登場して、負の光景から陽に変えるところが鮮やかだなあと思う。

すでにして二十時間余りも間断なくつづき
   まほろ町の人々の胸にぶつぶつと穴を開ける
      無情にして有害な雨音だ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』310頁)

以下引用文。「私の意のままにならず」と雨に嘆かせるオオルリが登場する場面である。生と死が隣り合わせているような囀りが聞こえてきそうである。

この私が
   まほろ町の隅々に沁みこませる陰の力を
      悉く吸い取って陽の力に変換し、

なんと
   生を死に見立ててしまうほどの
      華麗なさえずりを
         惜しげもなくばら撒く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』312頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月21日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月一日を読む

ー不自由、自由を象徴するものー

七月一日は「私は雲だ」で始まる。「まほろ町立病院のベッドに横たわった患者たちが 各々自分しか見ていないものと思いこんで仰いでいる」雲が語る。
以下引用文。入院患者が眺める雲ではじまって、「自由の利かない」世一の体の動きを「のろのろと」「倦怠に塗りこめられた」と表現しながら視点が移る。
そのあと、「小さなつむじ風」に「羽音によく似た風音」「各病室の窓を軽く叩いて回る」と動きを託す。
やがて世一が羽ばたく動作をしてみせたことで、雲まで届くつむじ風が発生する……。
不自由から自由へ……という流れを、病院のベッドの患者の視界、世一の動き、つむじ風、竜巻に象徴した書き方が心に残る。

私とはすでにして相識の間柄にある少年世一が
   病院の外壁を掌で触れて楽しむしかない
      あまりに自由の利かない体を持て余しながら
         のろのろと世間の外れを横切って行き、

倦怠に塗りこめられたその間に
   小さなつむじ風が生じて
      羽音によく似た風音が
         各病室の窓を軽く叩いて回る。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』296頁)

そうした快活な声が集まったところで
   世一はだしぬけに羽ばたきの動作に転じ、

そのせいかどうか
   ほとんど同時に新たなつむじ風が発生し、

みるみる勢いを増して
   ほとんど竜巻の様相を呈し
      私のところまで届いてしまう。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』297頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月20日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月三十日を読む

ー世の人が振り向きもしないところに美は宿るー

六月三十日は「私は色彩だ」で始まる。「花屋の裏手のゴミ捨て場に まったくもって無作為にちりばめられている 頽廃的にして幻想的な色彩」が語る。
「現代美術の最先端を走っている」というゴミの描写も、本当に現代美術の展示会さながらで読んでいて楽しい。
以下引用文。「難病の反動によるものか 殊のほか色感豊かな少年」である世一は、ゴミの美を完全なものにしようと夢中になるが合点がどうしてもゆかない。ゴミの「色彩」が説明するその理由が、なんとも思いがけない。
世の人が見ようともしないところに、美を感じとる眼差しが心に響く。

それでも納得がゆかないのか
   しまいには私のなかでのた打ち回り始めたというのに
      まだまだ不満の様子で、

尤も作品としての自分に言わせてもらえば
   彼はおのれを色のひとつとして見ることを忘れており、

飛び入り参加してくれたおかげで
   非の打ちどころがない美に到達できたのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』203頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月19日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十八日を読む

ー弱い存在に光をあててー

六月二十八日は「私は嗅覚だ」で始まる。「光を知らぬおかげで闇を知らなくて済む盲目の少女」の嗅覚が語る。

以下引用文。「千日の瑠璃」には人間に対する容赦ない視点もあるけれど、一方で盲目の少女や少年世一という本来なら救い難い存在に、「根拠なき希望」「晴れやかな微笑」と希望の光をたっぷり見い出しているところが魅力のように思う。

私は大抵の物ならばほぼ正確に捉えることが可能で
   たとえば
      こっちへ向かって吹いてくる潮風と
         その切ない風を受けてやってくる少年世一を捉え、

彼がもっと接近すると
   その胸をいっぱいに轟かせている
      根拠なき希望をも捉えることができ、

さらには
   満面を覆う
      晴れやかな微笑をも捉えられる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』282頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月18日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十七日を読む

ー骨太な幻想文学でもある丸山作品ー

六月二十七日は「私は亡霊だ」で始まる。うたかた湖で釣りをしながら息絶えた世一の祖父が亡霊となって、朝早く一家が朝食をとっている場に現われる。
丸山作品の「亡霊」は、もう一つの世界とこちら側の世界がクロスした瞬間に現われる存在に思える。亡霊が訴えているのは不気味さではない。生のエネルギーがより純化された形で、もう一つの世界から映し出されている気がする。
意外と丸山作品は、幽霊とか不思議な存在が出てくる幻想文学でありながら、骨太さゆえ大半の幻想文学ファンからスルーされているのが惜しい気がする。

ようやく騒ぎ始めた生者にかまわず
   私は燦然たる光の中を通り抜けて
      崖っぷちの揺らぎ岩のところまで進み出ると
         真下に広がるうたかた湖をまじまじと見つめ
            そうしているとなんだか釣りがしたくなり
               思わず知らず竿を振る仕種をくり返した。


高々と跳ねる巨鯉がはっきりと見え
   やや遅れて届いた水音を感知したとき
      私は戸口に茫然と佇んでいる四人の方をおもむろに振り返り、

主として世一に向かって手を振り
   それから
      壮大な動きで渦を巻き始めた光に溶けて消えた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』281頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年8月17日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十六日を読む

ーくつろぎにあふれているのは?ー


六月二十六日は「私はくつろぎだ」で始まる。旅館で養生中の骨折した娼婦の感じる「くつろぎ」が語る。

以下引用文。本当に「くつろぎ」が感じられる文なのはなぜ?と考えてしまう。
「きのう」や「あした」という時間を表す言葉が平仮名なのは、丸山作品によく見られる特徴だ。
丸山先生の好みなのかもしれないが、この場合、「きのう」「あした」と平仮名にすることで時間の観念が消えて、のんびりした感じになってくる。

私も「きのう」「あした」と平仮名感覚で、更にのんびりモードで生きていきたい。

生来の楽天家である彼女は
   きのうまでのあれこれを
      どうでもいい夢のようにして忘れ去り、

      あしたを気に病むこともなく
         よく冷えたビールのなかへ
            いささかくたびれた自意識を大胆に解き放つ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』275頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月16日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十三日を読む

=抽象的な世界から具体的な世界へ、万華鏡の変化ー

六月二十三日は「私は万華鏡だ」で始まる。
以下引用文。少年・世一がオオルリの抜けた羽やら混ぜて作ったお手製の万華鏡が、世一に見せてやる世界。最初はどこか抽象的な、救い難い世界が示される。

来世の門辺に茫然と佇んで
   さっぱり要領を得ない返事を反復するばかりの
      八百万の無能な神々と、

徒にうろたえて騒ぎ立てるしか能がない
   無様にして憐れな人間どもと、

簇生する筍のごとく逞しい日々の
   予測を許さぬ前途と、


果てしない闘争と逃走の連鎖でしかない
   意味不明の世界を垣間見せてやった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』263頁)

以下引用文。これまでの抽象的な世界とは真逆の、具体的な事象を万華鏡は見せはじめる。いくつか文が並んでいるが、後半を引用。抽象的な世界から具体性を帯びた世界へ……万華鏡の見え方にはそういう感じがあるのかもしれない。

世界崩壊が迫ってきていることをずばりと予言する
   両性具有の占い師と、

その他多くの人畜が抱えこんでいる
   どうしようもない苦悩のあれこれを、

なんとも鮮やかに
   そしてグロテスクに形象化してみせた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』264頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月15日

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十二日を読む

ー絶望の闇ー

六月二十二日は「私は暗がりだ」で始まる。
以下引用文。「暗がり」にこめられた悲しみに、そこがもうこの世ではない気すらしてくる。

誤って人を轢き殺したことがある女
   そんな彼女が好んで佇む
      街灯と街灯の死角に生じる
         ありきたりな暗がりだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』258頁

以下引用文。深夜に徘徊する妻、その姿を見守る夫。妻の絶望感、やりきれない悲しみが伝わってくる。
同時に「電柱十本分くらい」という表現が入ることで、妻の歩く風景がリアルなものに思えてくる。
でも「電柱十本くらい」とはっきり言いながら、同時に曖昧でもあるイメージを用いることで、悲しみがふつふつと感じられてくる。

自宅から電柱十本分くらいの距離を俯き加減にてくてくと歩く妻の目は
   どこまでも虚ろで
      ほとんど何もみておらず、

果たしてそこがどこであるのか
   そうやっている自身がいったい誰であるのかという
      常識的な認識すら怪しく、

のみならず
   生の原動力の大半が
      すでにして溶解しているのでは……。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』259頁)

ただ最後、世一にぶつかって女が無様な格好をとるとき、急に場面が生き生きと明るくなるのが不思議である。

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さりはま書房徒然日誌2024年8月14日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十一日を読む

ー難しい言葉だけでない魅力ー

六月二十一日は「私は麦だ」と国に「米はもう充分だ これ以上作っても腐らせてしまうだけだ」と言われて「やむなく育てられた麦」が語る。

以下引用文。

麦の上に身を横たえた世一と麦の間に交わされる会話。
どこか童話めいたやり取りが心に残る。
世間から「難しい、難しい」と思われがちな丸山先生の作品ではあるが、こうした大人のための童話とも言えるやり取りに魅力の一つがあるように思う。決して難しい言葉ばかりではないのでは?

異様なまでに研ぎ澄まされた感性を
   そっくりそのまま委ね、

   湖の力を借りて
      米ではないおのれを恥じよと言い、

      それに対して
         猿ではないおのれを恥じよと
            そう言い返す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』257頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月13日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十八日を読む

ー二つの色に込められた思いー

六月十八日は「私は梅雨だ」で始まる。
以下引用文。土蔵にこもって暮らす青年が雨の動きを真似して踊り始め、体の不自由な少年・世一も一緒に踊りだす。
「銀色」「瑠璃色」という二つの色に、青年と世一が象徴されるようで、その心やこれまでが鮮やかに浮かんでくる。
「愉悦の流れに乗せ」「虚無を吹き飛ばして」「秩序整然たる宇宙に穴をあけ」「世界は果てしない苦悶の連鎖であるという説を押しこんでしまい」という言葉を読んでいると、自分の狭い基準とは違うところで回転しているこの世の歌が聞こえてくるように思えてくる。

〈雨〉を踊る彼の魂は銀色に染まり
   あとからやってきて参加した病児の
      踊りと呼ぶには壮絶に過ぎる踊りは
         瑠璃色に輝いて私を愉悦の流れに乗せ
            大地に充満する虚無を吹き飛ばして
               この世との同化作用を促進させる。
 

若者と少年の自由奔放な踊りは
   どこまでも生命的な神々を彷彿とさせて
      秩序整然たる宇宙に穴をあけ
         世界は果てしない苦悶の連鎖であるという説を押しこんでしまい、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』245頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月11日(日)

人生初の製本体験!

本づくり協会のワークショップに参加、角背上製本を作ってみました!

( ↑ あちこちアラだらけで恥ずかしいのですが、私の人生初製本です)

本づくり協会の製本ワークショップに参加。人生初の製本体験をしてきました。製本は手間もかかるし、時間もかかるし、ちょっとした力加減で歪んだりするし……初めて製本屋さんのご苦労を知りました。
でも出来はともかく、ばらばらの紙が自分の手で本になっていく過程は楽しいし、不器用ながら無心になれるひとときを満喫。
これもスタッフを複数配置して、細やかに指導してくれた本づくり協会のおかげと感謝しています。

本づくり協会は、手製本を得意とする製本会社の美篶堂(みすずどう)さんが中心になって、活版印刷の嘉瑞工房、出版社ゆめある舎、出版社ビーナイスの四社で運営されている団体のようです。
本づくり協会、美篶堂さんの事務所は、長野県伊那市、それから東京の二ヶ所にあります。東京事務所は飯田橋駅から徒歩8分くらいのところにあります。

今日の製本講座は、東京の本づくりHOUSEでの参加組、リモートでの参加組が同時に受講しました。現地参加組には、こういうキットと製本道具やノリ、ボンドが用意されています。

↑今日用意して頂いた材料。こうした材料と定規、カッター、ヘラ、下敷き、重しなどがあれば、出来はともかくハードカバーの本が自分で作れる!ということが嬉しい発見でした。

↑本文の用紙45枚を黙々と折り続け、ついにラスト一枚に。

↑上の写真は『美篶堂とつくる美しい手製本 本づくりの教科書 12のレッスン』14頁からです。紙を折るにしてもこんなに細やかに折るとは!知りませんでした。私の折った山の写真からは、この丁寧さが伝わらないので引用させて頂きました。

↑見返し用の茶色い紙も二つ折りにして本文をはさんで……

↓だんだん記憶も曖昧模糊に。見返しをボンドで貼り、栞をはさみ、花布、寒冷紗を貼って……と進行していったような。

↑花布を半分に切って、天と地にひっかけ……
寒冷紗を貼って

↓表紙をくるむ作業に

↓溝を指で押してつけ、竹ひご2本輪ゴムで留め、上から重石をのせて……

この他、細かな作業もたくさんありましたが、ざっと流れを思い出してメモしました。写真を見ると、我ながら何て雑な作業をしていたのか……と呆れてしまいますが。

でも、こうしてハードカバーの本が出来るなんて不思議だし、製本は書くのと同じ位にえらく手前のかかることなんだなあと、初めて製本屋さんの苦労を知り、とても勉強になりました。

出来はともかく、頼めばとても高くなるハードカバーも、自分でちまちま作れば材料費と製本キットだけで出来る!、いつか神保町PASSAGEの私の棚に、中身、装丁ともにこの世に数冊だけの自家製本を並べられたら……と能天気に思います。

美篶堂さんの製本講座はとても丁寧で、リモートの方々も私よりも早く作業されていました。これからも興味深い講座が続々とあるようですよ!

https://shop.honzukuri.org/

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さりはま書房徒然日誌2024年8月10日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十五日を読む

ー選別される鯉に人間を重ねてー

六月十五日は「私は稚魚だ」で始まる。錦鯉の稚魚が世一の叔父と世一を語る。

以下引用文。

稚魚の選別をする男もまた「社会や国家によって 実にむごたらしい選別を受けてきた」という視点の冷徹さ。その見方を支えるような「魂はすでに絶命しているのかも」という情け容赦ない言葉に、自分のことを言われているようでグサリとくる。

そんな叔父とは対照的な世一の「生者の中の生者」という言葉に救われるようで、ふと考えさせられるものがある。

思うに
   見る影もない姿の彼自身もまた
      これまで幾度となく
         社会や国家によって
            実にむごたらしい選別を受けてきた。

彼はまだ死んでおらず
   ともあれ生きてはいても
      その魂はすでにして絶命しているのかもしれず、

しかしそんな叔父を訪ねてきた甥はというと
   判断の基準が非常に難しく
      ひょっとすると
         生者のなかの生者であるのかもしれないのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』233頁)
   

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さりはま書房徒然日誌2024年8月9日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十四日を読む

ー何を踏んで生きている?ー

六月十四日は「私は足の裏だ」で始まる。「芝生を踏んでひた走りに走る 死ぬことを忘れたとしか思えぬ」老人の足の裏が、これまで踏んできた十五の風景を語る。
途中から世一の足の裏が踏んでいるものが四つ語られる。
老人の足の裏が踏むのは、シビアなこの世。世一の足の裏が踏むのは、人間の精神の素晴らしさ、不思議さに思え、このコントラストがわずか4ページに凝縮されている。
以下引用文。老人の足の裏が踏んできたもの。

陰に陽に力になってくれた友からの真情の籠もった手紙を踏んだことがあり
   夜な夜な怪火が飛び交う湿地帯の草を踏んだことがあり
      処女地に鍬を入れるために北の大地を踏んだことがあり、

そして私は
   痛感する時弊と
      少しも変わらぬ性根を踏みつづけ、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』227頁)

以下引用文。世一の足の裏が踏んできた世界。
私は誰に踏まれ、何を踏んで生きているのだろう……と思った。

世一のそれが踏みつけているのは
   放恣な想像力から生まれたとおぼしき
      底なしに素晴らしい夢のあれこれであり、

もしくは
   この世におけるいっさいが非現実的であるとする
      永遠の暗示であり、

さもなくば
   運命の浮沈などものともせぬ
      不滅の言葉であり、

はたまた
   おのれの何者なるかを知らずに
      がむしゃらに生きることの
         素晴らしさである。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』228頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月8日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十二日を読む

ー「馬」を語る文ののびやかさー

六月十二日は「私は馬だ」で始まる。うたかた湖の近くで飼い主に捨てられた乗馬用の馬が語る。
以下引用文。丸山先生の書く馬の姿は、どの作品でも実に気持ちよさそうな雰囲気がある。この捨てられた馬にしても、「波打際」「冷たくて甘みのある水」「柔らかくて香りのいい青草」という言葉から浮かんでくるのは、のんびりと生を味わっている姿である。

人気はなく
   聞こえるのは鳥のさえずりと羽音のみで、

   少しばかり落着きを取り戻したところで
      私は波打際をまで行き
         冷たくて仄かな甘みがある水を飲み、

         それから
            岸辺に生えている柔らかくて香りのいい青草を
               しみじみと味わいながら食んだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』219頁)

以下引用文。捨てられることで馬が獲得した自由も、「突風になびく草にも似た動きをする少年」と語られている世一の姿も、やはり自由そのもので心に刻み付けられる。

要するに
   まだおのれが置かれた状況や立場を充分に理解しておらず、
      行き先についてもはや誰の示教を仰がなくていいこと
         今後の展開の万事がわが方寸に在ること
            それを知らず、

            知ろうともしないまま
               角を曲がったところで
                  突風になびく草にも似た動きをする少年と
                     ばったり出くわし、
                     その刹那
                        運命的な出会いを直感した。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』220頁)   

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さりはま書房徒然日誌2024年8月7日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十一日を読む

ー重い文やら軽やかな文やらー

六月十一日は「私は笑声だ」と、「気立ての優しい盲目の少女 彼女のバラ色の唇から迸る 屈託のない 透明な笑声」が語る。
笑い声が届く様々な人々の、重苦しい其々の生。その直後に描かれる少女の笑声の軽やかさ、純真さが対照的。このコントラストが鮮やかだなあと思う。

以下引用文。少女の笑声は様々な人々に届く。私はどれにあたるのだろうか……と思わず探してしまう。

長年連れ添った夫の顔を顔を見忘れるほど惚けた者も
   どこまでも生命的なる存在として神を崇めたてまつる者も
      世界は果てしない罪悪の連鎖であるとする者も、
         不満の鬱憤はらしを探している者も、


はたまた
   年甲斐もなく修羅を燃やす者も
      耐乏生活を送っている者も
         知友を亡くして間もない者も
            皆一様に相好を崩す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』215ページ)

以下引用文。少女の笑声が届いた人々の重苦しい描写とは一転、不自由ではあっても軽やかな少女の様子が心に残る。

上天気のきょう
   少女は初めて湖へ入ることを許され、

   波と波にゆすぶられる白砂に両足をくすぐられた彼女は
      母親の方を振り返って笑い
         水しぶきを跳ね上げて駆け回る白い犬に笑い、


         そして私は
            程良い風に乗ってはるか遠くへ散ってゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』216ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月6日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月八日を読む

ー葡萄酒が曝け出す元教授のねじくれた心ー

六月八日は「私は葡萄酒だ」で始まる。湖畔の別荘地に住む元大学教授によって、ボートからロープに結えられ湖の水で冷やされた葡萄酒が語る。

以下引用文。葡萄酒はボートに引き上げられ、グラスに注がれ、元大学教授にちびちび飲まれ始める。
葡萄酒を湖の水で冷やすという山国らしい風景が一転するのは、葡萄酒が元教授のちっぽけな存在を語りだすあたりから。元教授の心に巣食う偏見を暴いていく……という静かなる葡萄酒の反乱に心惹かれる。

その間
   ボートは波と風のまにまに漂い
      彼の余生もまた然りというわけだ。

博聞で通っている彼のような者にとって
   私は単なる酒ではなく、

つまり
   アルコール分のほかに
      知性やら情熱やら文化やら歴史やらまでもが溶けこんでいると
         そう信じており、


確信することによって
   日本酒にはそうしたものが
      ほんの僅かしか含まれていないと
         勝手に決めつける。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』201頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月5日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月七日を読む
ー小さな鳥にも母性が宿るー

六月七日は「私は巣だ」と「キジバトの巣」が語る。

以下引用文。キジバトの巣を覗きんだ少年・世一に、キジバトの母鳥は毅然として向かい合う。
小さい鳥ながら母親らしく得体の知れない世一に対峙しようとする心が、「気丈に」「逃げ出そうとはせず」「きっと睨みつけ」「嘴で突いてやろうと身構え」という言葉の端々に現れている。
母鳥の緊迫感が「するとどうだ」で一転して和らげられ、世一が真似るオオルリの囀りと共に消えて心が軽くなる。

「巣」という小さな存在が語る母鳥の大きな愛情が心に残る。

それでも母親は気丈に振舞い
   間違っても逃げ出そうとはせず
      得体の知れぬ相手をきっと睨みつけ、

もし手出しをしようものなら
   視点の定まらぬ目玉を
      嘴で突いてやろうと身構え、

するとどうだ
   なんと少年は
      「なるようにしかならんぞ」という
          一端の口を利き
             オオルリのさえずりを真似た。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』201頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月4日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月六日を読む

ーコーラに象徴されるものー

六月六日は「私は空き缶だ」で始まる。

以下引用文。「下請けのまた下請けの町工場へ働きに出かけた青年」のやるせなさ、夏の無情が一気に伝わってくる文である。

私は空き缶だ、

   飲み干されると同時に
      ひたすら夏へ向かって突き進む太陽めがけて
         思いきり投げつけられた
            コーラの空き缶だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』194頁)

以下引用文。コーラは資本の象徴なのだろうか。そう思うと、コーラを放ったときの下請けで働く青年の憎悪、コーラが青年の胃袋で揺れている様子、そしてアスファルトを転がっていく様子が切ない。

されど
   資本の力と同様
      この世を支配する重力には到底逆らえず、

      早くも溶けかかっているアスファルトの路面に落下して
         からからと転がり、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』196頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月3日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結1』六月五日を読む

ー様々なピースに娼婦の人生を重ねてー

六月五日は「私はタバコだ」と娼婦がくわえるタバコが語る。

以下引用文。吐き出されるタバコの煙に娼婦の人生を重ね、「擦り切れた畳の面」や「秋を待つシクラメン」という言葉にも娼婦の人生が重なるようである。煙が夕闇に呑みこまれ、春の憂いに人間愛を重ねる文も、少し疲れた娼婦に人間性を見出そうとする視点と重なる気がする。

話し相手がいなくなったことで
   娼婦はたちまち私に興味を失くし
      亀をかたどったガラスの灰皿にぽいと投げ棄て、

口のなかの煙といっしょに
   法律の裏をかいて生き抜くための虚勢のかけらと
      どこかに刻みつけられている
         浸しがたい気品をそっと吐き出す。

そしてそれは

   擦り切れた畳みの面を滑って
      縁側から庭へと降り、

 地面に移植されて気長に秋を待つシクラメンのかたわらを通り
    いかにも恵み深そうな雰囲気を醸しているうたかた湖が生み出す
       夕闇に呑みこまれてゆき、


       どこまでも切ない春の憂いが
          真っ当な人間愛のごとく濃厚になる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結』192頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月30日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月四日を読む
ー童話的な世界ー

六月四日は「私は春月だ」で始まる。「春月」だけが知る「まほろ町に厭な出来事がひとつもなく」という珍しい日。
以下引用文。そんな稀なる日を語る「春月」の口調には、どこか童話めいたものがある。『千日の瑠璃』は大人のための童話なのかもしれない、と読んでいて思うときがよくある。なかなかこんな風に過ごし難いのが人間なのかもしれないが、心に刻んでおきたい言葉である。

まほろ町に住する人々は皆
   休日のきょう一日
      それぞれ分に応じた暮らしを送り、

      身知らずな考えを持たず
         無計画な行動に走らず
            この世に存することの意義を裏切らず、

            そしてそのことをよしとして
               いつもより多く笑った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』189頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月29日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月三日を読む

ー野のオオルリ対籠のオオルリー

六月三日は「私はオオルリだ」で始まる。「野に生きるオオルリ」が世一に飼われる「籠のなかのオオルリ」に攻撃を仕掛ける。
以下引用文。世一の住む丘が気に入った野のオオルリは、丘を明け渡すように世一のオオルリに迫って囀る。
結局、野のオオルリはこんな捨て台詞を吐きながら退いてゆく。
野のオオルリの言葉ももっともだ。
言い返す世一のオオルリの強さは生意気だけど、確かに「鳥を超越した存在」に思えてくる。

人間の庇護の元に育ち
   牝と番うことも子孫を残すこともなく
      ただ生きて死んでゆくだけのそいつは
         自分は鳥を超越した存在なのだから
            同類扱いは迷惑千万だと言い放ち、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』185頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月28日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月一日を読む

ー世一の心とはほど遠いところにー

六月一日は「私は緑野だ」で始まる。
以下引用文。
世一の眼前に広がる「緑野」。
その「緑野」を眺める世一の心。
両者の心持ちとは遠いところにいる自分自身に気がつく。私は「それがどうしたなどと憎まれ口を叩く鳥」なのだなあと思い、ふと悲しみを覚える。

私にしても
   はたまた世一にしても
      ひたすら自分自身でしかあり得ないものを探し求め、

      偽りの生を本物の生から区別し
         真理に至る近道を通り
            幸運の星に恵まれたものと思いこみ
               美しい時代をくぐり抜けているものと信じこみ、

               だからこそ
                  おのれの寿命を数えたりせず、

                  それがどうしたなどと
                     憎まれ口を叩く鳥は
                        一羽もいない。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』177頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年7月27日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月三十日を読む

ー燃やされるブナの声ー

五月三十日は「私はブナだ」で始まる。
丸山先生を思わせる「いくら住んでもまほろ町に馴染めず さりとてほかの町へ移り住む気にもなれない」作家が、山からブナの若木を庭に移植しようとする。
でも上手くいかない。
五月に落葉樹のブナを移植するには無理があるのかもしれない。
枯れてしまったブナは引き抜かれ、「狙い通りの文章に組み立てられなかった原稿を燃やすための 耐火レンガ製の焼却炉へ投げ入れ」られてしまう。
そんなブナの最後の声を、丸山先生の内なる声のようにも思いながら読んだ。

灰と化してゆく途中で私は
   火が爆ぜる音を利用して
      そんな彼に説論を加えてやり、

      だらだらと読み継がれる
         安直な国民的な作品よりも
            百年後二百年後に日の目を当たるような
画期的にして先鋭的な作品を物するようにと言い、

               とはいえ
                  果たして心耳に届いたかどうかは定かではない。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』169ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月26日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十九日

ー詩情とは縁遠い存在が詩情を帯びてくるー

五月二十九日は「私はネオンサインだ」で始まる。
以下引用文。こういう詩的とは言い難いものに語らせる……というところが好きである。

まほろ町では最も古く
   最も毒々しい色合いの光を単調な間合いで点滅させている
      パチンコ店のネオンサインだ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』162ページ)

以下引用文。パチンコ店の主人はヤクザ者にからまれつつも、きっぱりとはねのける。主人とヤクザ者のやり取りが、ネオンサインの模様に反映されているような書き方も面白い。
また詩情に欠けているかに思えたネオンサインが最後「青い鳥そっくりに」という展開も意外で心に残る。

すると私は
   どんどん赤色を失ってゆき
      ついには青い鳥そっくりになった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』165ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月25日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十八日を読む

ーシビアな語りも「地力」が語れば穏やかに聞こえてくるー

五月二十八日は「私は地力だ」で始まる。「土中に含まれる酵素も酸素も飽和狀態に達し 水分も程良く保たれ」た地力とは、作庭にこだわる丸山先生らしい表現だと思いつつ読む。

以下引用文。そんな地力のある土がありながら、世一の父親はかつて夢中だった家庭菜園はもちろん、花の種すら播こうとしない。
そんな父親の人生を「地力」は以下引用文のように分析する。よくある人間像だが、もし「地力」でなく作者自身が語る形をとれば、あまりの辛辣さに耐えられなくなってしまうかもしれない。「地力」だからこそ、シビアな声もどこか遠くから響いてくるような気がする。

日ごとに老いている彼のその目には
   すでに夢のかけらさえ宿っておらず、

   貫き通すほどの素志も
      遂げなくてはならぬ本望も
         これといった趣味も持たなかった男は、

         この分だと
            晩年を根拠なき失意のうちに送る羽目になるやもしれない。

ほかの人々と同様
   本来はあらゆる可能性を秘めていたはずなのに
      いつしか地方公務員の枠内にちんまりと納まり返ってしまい、

      希望の目を育てることを放棄して
         あたらべんべんと
            徒に時をやり過ごし、



(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』160ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年7月24日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十七日を読む

ー戦後間もない風景だろうかー

五月二十四日は「私は缶切りだ」で始まる。まほろ町に流れてきた物乞いは旧式の缶切りに紐をつけて胸からぶら下げ、世一と言葉を交わしたりしている。
以下引用文。丸山先生が戦後間もない時代に目にした風景なのでは……?
もしかしたら男は帰還兵……?
もしかかしたら「この世にいるはずもない幼い弟と妹」とは、戦災で亡くなったのでは……?
そんな気がしてくるほど哀切さがある文である。

結局は全部食べてしまうくせに
   なぜか中身をきっちりと三等分し、

   もはやこの世にいるはずもない幼い弟と妹に向かって
      「さあ、みんなで食おうか」と呼び掛け、

   そう言いながら
      まずひとり分を平らげ、

      「なんだ食べないのか、勿体ない」と言って
          もうひとり分に手をつけ、

          残りのひとり分を
             通りかかった世一を呼び止めて
                無理やり食べさせた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』156頁)

以下引用文。「心の缶詰を次々に開け」という文に、かつての幸せを思い出しては浸っている男の様子が浮かび、切々とした思いが込み上げてくる。

また独りになると
   私を用いて心の缶詰を次々に開け
      懐かし過ぎる幸福の時代を
         ゆっくり味わうのであった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』157頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月23日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十六日を読む

ー矢の様子から色んな思いが伝わってくるー

五月二十六日は「私は矢だ」で始まる。
以下引用文。「天に向かって票と放たれ」た矢は地上のあらゆる姿を観察しながら天に向かうが、やがて力尽きて田舎町まほろ町に落下してしまう。
町への軽蔑の念が「腹立たしい限りの」という言葉に出ているようでもあり……。
「ぐさりと」という言葉から復讐をしたいとでも言いたげな「矢」の思いが迸るようでもあり……。
「ぶるぶるっと」から着地した様子が伝わってくるようにも、人の世界への嫌悪感が伝わってくるようにも思えるのである。

陰険な覚悟を固めないことには生きてゆけそうにない
   腹立たしい限りの惑星の面に
      ぐさりと突き刺さって
         ぶるぶるっと震える。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結』153ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月22日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十三日を読む

ーどこか童話的な世界ー

五月二十三日は「私は雷だ」で始まる。
以下引用文。不自由な少年・世一が住む丘に狙いをつけた雷だが、予想に反してオオルリも、世一もただならぬ喜び様となる。
世一とオオルリの雷に喜ぶ様子を読んでいると、「千日の瑠璃」はどこか童話めいたところもあるように思えてくる。

普通ならば間違いなく火の手が上がるはずなのに
   意外にもそうはならず、
      しかも
         その家で飼っているオオルリなどは
            却って喜悦のさえずりを発して
               声の調子を一段と高め、

               飼い主の少年に至っては
                  私に向かって手を振る始末だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』139頁)
        

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さりはま書房徒然日誌2024年7月21日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十二日を読む

ー生命の律動感ー

五月二十二日は「私は小魚だ」で始まる。「うたかた湖の純白の浜に」打ち上げられた「満身創痍の小魚」が語る。

以下引用文。不自由な少年・世一が瀕死の小魚を拾い上げて、仲良しの盲目の少女の手にのせる。「小魚」というものだと母親に教えられた少女が感覚器官を使って生命を探る姿、応えるような小魚の「ぴちっと」という動き、その動きに「あっ」と叫ぶ少女……どれも生命というものの律動感が読んでいる者の心にもありありと伝わってくる気がする。

好奇心まる出しの少女は
   人差し指を
      つづいて鼻を
         しまいには耳まで使って
            私を把握しようと努め、

            そんな彼女のために
               私は最後の力を振り絞って
                  尾鰭をぴちっと動かしてやった。


「あっ」と小さく叫ぶ少女の顔いっぱいに
    紛うことなき幸福がみるみる広がって、

    そのとき少年は
       事切れることを素早く察知して
          私を湖へ投げ、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』136頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月20日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十一日を読む

ー喪失の予感ー

五月二十一日は「私は友情だ」で始まる。身体の不自由な少年・世一と彼が可愛がって世話をしているオオルリとの間に芽生える友情が語る。

以下引用文。オオルリに夢中になっている世一の無邪気さ、天真爛漫さに微笑みかけている心に「互いに相手を失った際の深刻さについて理解が及ばず」という言葉が、なんとも不吉な、悲しい展開を仄めかす。

そんな風に思ってシュンとしてしまった読み手の心に、オオルリの思い描く様々な生き物の姿は一際悲しく、囀りが沁みるように響きわたる。

けれども
   当のかれらはまだ私に気づいておらず、

   ために
      互いに相手を失った際の深刻さについて理解が及ばず、


    きょうのオオルリは
       乱伐によって荒れ果ててしまった遠くの山々と
          供応のために小さな集落の片隅で絞殺された家禽、

          自由の大敵たる国家の片棒を担ぐおのれを嘆く男と
             テンの奇襲を受けてまる齧りされているマムシ、


             日々の営みが
                理由なき行為の連続でしかないという疑いを
                   どうしても拭いきれない学生、

                   そうした生き物を想い描いて
                      頻りにさえずる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』133頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年7月19日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3五月二十日を読む

ー倒影を眺めるとき、知らない自分と会話しているかもー

五月二十日は「私は倒影だ」で始まる。「倒影」の方が「実像では絶対に識別不可能なものまで くっきり表現している」という文が心に残る。
そういえば倒影を見るとき、影と対話している気分になることがあるかもしれない……倒影を眺めることは、知らない自分や世界に目を配ることなのかもしれない。

鳥の羽毛一枚
   草一本
      アブラムシ一匹
         花粉一個に至るまで精確に映し出し、

         そして
            元大学教授の徒爾に終わるかもしれぬ一生をも正しく映し、


         しかも
            実像では絶対に識別不可能なものまでも
               くっきりと表現している。

くだらないことで朝っぱらから夫婦喧嘩してしまった苦々しさ
   この世にいつまでも存することの苛立ちと哀しみ、


   この歳まで生きてこられたことへの感慨
      学者としてもう少しなんとかなったはずだという後悔、

      果ては
         不遇の鬱憤晴らしもできない惨めさ、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』127頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月18日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

ーよいっちゃんの存在感ー

五月十九日は「私はギプスだ」で始まる。「娼婦の折れた二の腕の骨を固定し 併せて 彼女の心をも安定させている 霊験あらたかなるギプス」が語る。

以下引用文。丸山先生にしては珍しくこの箇所は会話が多い。中でも、この娼婦が発する言葉「よいっちゃんに会いたい」は、不自由なはずの世一への信頼が迸るようで心に残る。

苛立ちが限界に達したところで
   「よいっちゃんに会いたい」などと
       まったくもって理解不可能な願いを口走った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』125頁)

以下引用文。やくざ者の青年が娼婦のために世一を連れてくる。だが世一の関心は娼婦からすぐに逸れていく。娼婦のことをすぐ忘れ、モンシロチョウを追いかけてゆく姿に世一の天真爛漫さを思う。

黙って縁側から離れると
   モンシロチョウの乱舞に見とれて
      それを追いかけ
         どこかへ行ってしまった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』125頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月17日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月十七日を読む

ー世一という存在にある美ー

五月十六日は「私はリコーダーだ」で始まる。下校中の小学生が吹き鳴らすリコーダーにも「この先ずっと彼を救うことになるやもしれぬ 癒しの調べ」と随分言葉を尽くして語っている。

だが以下引用文。世一が吹き鳴らす口笛には、そうしたリコーダーの音色の描写を凌駕するものがある……。「無意味な痙攣は 魂そのものの振動」という箇所に、丸山先生が不自由な体の世一の魂にこそ美の存在を見い出しているんだという気力を感じた

見るからに危なっかしい足取りで
   平然と街道を横切って行く
      病児が吹く口笛には到底敵わない。

要するにその口笛には
   いかにへたくそであっても
      至高の生の精髄が込められており、

      全身の無意味な痙攣は
         魂そのものの震動を鮮やかに表象しているのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

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さりはま書房徒然日誌2024年7月16日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月十四日を読む

ーこの世ならぬ雰囲気へー

五月十四日は「私は午睡だ」で始まる。人生がうまくいかず、うつせみ山の竹林の草庵にこもる老人がむさぼる午睡が語る。

以下引用文。彼、すなわち体の不自由な少年世一が午睡中の老人と私(午睡)に気がついて近寄ってくる。
そして鼾の真似をすると「老体にずっしりとのしかかって 私ですらどうにもできなかった重荷が たちまち崩壊」する。
そんなあり得ないようなことも、うっすら目を開けて鼾の真似をする世一の無邪気な様子やら竹林の神秘めいた描写に、読み手も思わず納得して「この世ならぬ雰囲気」へと一緒に進んでゆく気がする。

ほどなく彼は濡れ縁の年寄りに気づき
   ほとんど同時に私にも気づいて好奇心が刺激され
      ふらふら近づいてくると
         何を思ったのか
            その隣にそっと体を横たえて
               うっすらと目を開けたまま
                  鼾の真似を始める。

すると
   どうだ、

   老体にずっしりとのしかかって
      私ですらどうにもできなかった重荷が
         たちまち崩壊し、

         少年の鼾や竹の葉擦れの音によって
            もしかするとあの世とやらへ運び去られそうな
               そんな気配が濃厚になり
                  付近一帯にこの世ならぬ雰囲気が漂い始める。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』105頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月16日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月十三日を読む

ー世一の悲しみー

五月十三日は「私は丘陵だ」で始まる。「丘陵」が見つめる少年世一はいつもと違って体の揺れもなく、微動だにしない。

以下引用文。やがて丘陵は世一の心の悲しみに気がつく。

最初の「世一は〈無〉それ自体を眼中に納め 〈虚〉を表象して止まぬ震え声を微かに発しており」という文から、悲しみが抽象的な画像となって浮かんでくる。

風の「だしぬけに甦った 幼心にも悲しい記憶」という言葉から、「静かに去って行く」姿から、世一の悲しみがひしひしと伝わってくる。

素手で足元に穴を掘る世一の姿にも悲しみが溢れそうである。

「いっしょに投げこみ 土をかぶせて埋め戻し」の悔しさ、やりきれなさに波立つのはうたかた湖の湖面か、それとも私の心なのか……。

世一は〈無〉それ自体を眼中に納め
   〈虚〉を表象して止まぬ震え声を微かに発しており、

   打ち見たところ
      何やら事情がありそうで、

         そこで私は
            当人を避けて
               いったいどうしたのかと
                  風に訊いてみる。


すると風は
   だしぬけに甦った
      幼心にも悲しい記憶に
         ああして耐えているのだと
            そう答えて
               静かに去って行く。


耐えるだけ耐えた世一は
   やがて素手で足元に穴を掘り、

   ついでその穴に
      母親が確かに吐いた「あの子はもう駄目よ」と
         父親が口癖のように呟いた「駄目なものは駄目さ」という言葉を

            いっしょに投げこみ
               土をかぶせて埋め戻し、

               そんな彼の悲痛な叫びが私にこだまして

                  うたかた湖が一面に波立つ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』101ページ)  


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さりはま書房徒然日誌2024年7月14日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二日を読む

ー丸山先生がそっと作品に挿入する己の姿ー

五月二日は「私は才能だ」で始まる。自分の家に火をつけたがる子どもは、親を含めすべての大人たちから見放されている。そんな子供に備わった「天賦の才能」が語り主である。
以下引用文。そんな放火しようとする子供に「ライターよりペンを持つべきだ」三度くり返して止めに入る小説家は、黒いむく犬と言い、じろじろ観察するところと言い、メモ帳にすぐメモするところと言い、「質を高めようと奮闘する」ところと言い、丸山先生そのものではないか。丸山先生が語るご自身の姿に思わず微笑ましくなってしまった。

スクーターに熊の仔そっくりな黒いむく犬を乗せてひたすら走り回り
   まほろ町の隅から隅までを無礼千万な眼差しでじろじろと観察し
      何かに気づくたびにメモ帳を取り出して記載する男、



売れないことを承知で物した著書をよしとしながらも
   もっと質を高めようと奮闘する
      さほど文学好きとは思えぬ小説家が
         まさにそれだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』57頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月13日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月一日を読む

ー粒子にロマンを感じてー

昨日に続けて「私は粒子だ」で始まる五月一日について。
以下引用文2箇所。粒子の無機的な動きに感情を重ね、この世の在り方、人間の運命について想いを馳せる文を読んでいるうちに、「粒子」という感情のない存在から叙情が響いてくる。
その旋律に耳を傾けていると、自分のいる普段の世界が別の空間に思えてくる……。
『千日の瑠璃』の中でも好きな箇所である。

思えば私は若い頃、フランシス・ポンジュの詩とか、無機質な対象を書く詩が好きだった。その名残が今もあるのかもしれない。

私は粒子だ、

   その辺のどこにでも無限に存在して
      現れたり滅したりをくり返しながら
         気随気ままに飛び交っている
            落ち着きのない原子核を成す粒子だ。


我ながら惚れ惚れするほど美しい放物線を描いたり
   有頂天になるほど完璧な渦をもたらしたりしながら
      何処からともなくやってきては
         また何処へともなく去って行く私は、

光と闇の配分が絶妙な
   整然たるこの宇宙をしかと組成する源であり
      重力及び時の流れを制御する支配層であり
         存在の存在たる所以を解く唯一の鍵である。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』50ページ) 

動くことこそが私の本質であり
   核心であり
      創造主に課せられた使命そのものであり、

絶え間ない動きは
   大小さまざまな変化を生み出し、

      
   変化は誕生と死滅を差し招き、

   生と死は互いに申し合わせ
      手を取り合って
         回転運動に興じる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』52ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月12日

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月一日を読む

ー違う次元から眺めているような美しさー

五月一日は「私は粒子だ」で始まる。「粒子」の視点というのは、丸山先生の素に近いものがあるのだろうか?この箇所は、ひときわ心に残る文がある。明日に分けて見ていきたい。
以下引用文。「粒子」の語るまほろ町は「因果律のいっさいを余すところなく抱えこむ」、少年世一は「麻痺した脳に幾千億個もの恒星の輝きをちりばめている」、オオルリは「魂の形状そのものとしか思えぬ」であり、違う次元から眺めているような美しさが感じられる。

そこへもってきて私は
   四方を青い山々に囲繞されてはいても
      現世のすべての物象や現象
         それに因果律のいっさいを余すところなく抱えこむまほろ町や、


眺望が利き過ぎる片丘のてっぺんに住んで
   麻痺した脳に幾千億個もの恒星の輝きをちりばめている
      難病によって未来への扉を閉ざされた少年世一や、


そんな病児と奇しき出会いでもって固く結ばれた
   魂の形状そのものとしか思えぬ
      一羽の若いオオルリをも
         しっかりと形成している。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』51頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月11日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十九日を読む

ー「時と共に直進する」ー

四月二十八日は「私はカラマツ林だ」で始まる。
以下引用文。カラマツ林の下で元大学教授夫妻は子供たちの四十年前を思い出すうちに、回想に耐えられなくなってしまう

やがて夫妻は
   回想の重さに気づき
      それに耐えられなくなって
         私から離れて行ってしまった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』45頁)

以下引用文。元大学教授夫妻が過去にとらわれ、その重みに耐えられなくなっている姿とは対照的に、世一には過去もなければ、未来もなく、動物のように現在だけを生きている。時の感じ方の違いも、そういう様子を「現在と共に直進する」と表現しているところも面白い。

ほどなくして今度は
   振り返ることも
      先を見ることもしないで
         現在と共に直進する
            青尽くめの病児が訪れた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』45頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月10日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十七日を読む

ー言葉ならではの心の発酵過程ー

四月二十七日は「私はモクレンだ」で始まる。「一本の木に白と紫の両方の色を半々に咲かせた」「派手なのか地味なのかよくわからないモクレン」が語る。
以下引用文。モクレンのもとに冬の間咲き続けたシクラメンを休めようとする娼婦、寂れた宿・三光鳥の女将が写真を撮ろうとしたところに世一も割り込んで、二人の女たちと共に笑い転げながなら写真を撮る……という一瞬である。
映像であれば一瞬で終わってしまう場面である。でも不幸であるはずの三人が笑っている……という事実に、「幸せとは?」と考え、「無罪を勝ち取る」という言葉に罪深く思える者たちへの肯定を読み取り、そうこうしているうちに「現世の嘆きから瞬時に解き放たれ」という文に読んでいる側も自由が見えてくる気がする。

今日、故人の写真から生前の動きや表情を再生するAIを搭載したアプリの、死者の再生動画の投稿をたまたま目にした。若くして亡くなったお母さんの写真からの再生ということで、再生した方ご自身もお母さんに再会して感動、その動画を見た大多数の人も肯定的なコメントを寄せていた。

 でも……嬉しい気持ちは分かるのだが、本物の母でなくアプリが再生した母親に感動してよいものだろうかとも思った。
 そしてアプリによる再生が感動を与える時代、文章による表現は益々厳しいものになって大半は討ち死にしてしまうだろう。
 作家による表現、それを脳内に喚起して愉しむ読者……という関係、アプリが再生する画像を楽しむユーザー……とでは根本から反応が違うのかもしれない。以下の引用文が心に引き起こす反応を振り返ったとき、そう思えてきた。
 アプリ再生画像は誰の心でも揺さぶることが可能である。そう仕向けることが実に簡単である。
 でも文章による再生は、書く方も、読む方も、鍛錬しないと難しい。でもその分、脳と脳が絡み合って思いがけない方向に展開してゆく面白さがあるのだと思う。

そんな三人の底抜けの明るさに釣られたのか
   当分のあいだ花を付けないシクラメンが笑い
      今を盛りと咲き誇る私もついつい笑ってしまい、

      要するに私たちは皆
         挙って束の間の幸福に浸っており、

たとえ造物主と言えども
   その歴然たる事実は否定できないはずで、


      シャッターが切られるまでのあいだに
         春の光によって公平な裁きを受け
            全員揃って無罪を勝ち取り、

カシャッという小気味のいい音によって
   現世の嘆きから瞬時に解き放たれ、

   まほろ町の生きとし生けるものすべてが
      歓談に時を忘れて
         きらきらと輝き、


         この世に存する意義が
            急浮上してくる。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』37頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月9日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結3」四月二十五日を読む

ー世一という不条理ー

四月二十五日は「私はエプロンだ」で始まる。「母親の立場にようやく慣れてきた女の」エプロンが語る。

以下引用文。母親のエプロンをつかむ幼い双子たちがそっくりであることに、世一は興味をいだき「嬉々としてなおも迫ってくる」
そうした世一に幼い双子たちが感じる「この世にあることの不条理」……そうした不条理を冷静に、目を逸らすことなく見つめるところが、丸山作品の魅力のひとつかもしれない。

生まれて初めてそうした異形の同類を目の当たりにした
   ほとんど瓜ふたつの一卵性双生児は
      たじろぎ
         怯えて
            萎縮し、

            それから
               なんとも形容しがたい複雑な気持ちのなかで
                  この世に在ることの不条理を
                     早くも体験したのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』27ページ)

以下引用文。最初、世一に優しい対応をしていた母親も、そのうち目で追い払うようになり、やがて世一が自分のエプロンで青鼻をかんでいることに気がつくと、「怒り心頭に発して少年を思いきり突き飛ばし」てしまう。
そんな母親の激変を目にした双子たちも、「純なる瞳をたちまち濁らせてゆく」……という終わり方に、人間の心がいかに折れやすいか、その変化が子供達にどう影響してゆくか……丸山先生は客観的に書きながら、そうした人間に哀しみを感じているようにも思えた。

そんな挙に出た彼女に仰天した双子は
   あまりのことに泣き叫ぶことを忘れ、

   茫然自失の体へと移行したかと思うと
      その純なる瞳をたちまち濁らせてゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』29ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月8日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十三日を読む

ー流されるタイヤの自由ー

四月二十三日は「私はタイヤだ」と、大型トラックの荷台から振り落とされてしまったタイヤが語る。
以下引用文。タイヤが転がってゆく疾走感、暴れ回る感じが面白いなと読んだ。

運転手は気づかぬまま走り去り
   思いきって世間へと飛び出して行った私は
      土手の斜面を一気に駆け下り、

      さらにその下へとつづく坂道をごろごろと転がって
         熟しかけている夜の奥へと分け入り、

         まほろ町という名の片田舎へ突入して暴れこみ
            過酷にも程がある現実の障壁を
               次々にぶち破って行く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』18ページ)

タイヤはまほろ町の住人たちを観察しながら進んでゆく。
以下引用文。世一を避けて通ろうとした気遣いが仇となって、調子を崩したタイヤはやがて欄干にぶつかって川へと転落してゆく。

タイヤが流されてゆく有り様に、自由を重ねて思う視点が丸山先生らしいと思って読んだ。

いずれは大河へと通じる川へ転落した私は
   大量の水しぶきや自暴自棄の心を飛び散らせて
      ゆるやかな流れに乗って遠い海をめざし、

      自由な存在とは
         要するにこんな立場なのかもしれないと
            そんな思いを強めながらどんどん下って行く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』21頁

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さりはま書房徒然日誌2024年7月7日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十二日を読む

ー生と死ー

四月二十二日は「私は墓地だ」で始まる。「裏の崖が崩れて以来 訪れる者がぱったりと絶え、ために 埋葬された死者たちと共に忘れ去られようとしている 山中の墓地」が語る。

以下引用文。なじみである世一がやってくるが、墓地はその顔に厭な思いをさせられたような痕跡を認める。
それでも墓地を歩き回るうちに、世一が見た「希望にきらめく四月の彼方」が心に残る。
その直後、足元に見たむき出しになった白骨という展開も、生と死というこの世のあり方を告げているようである。
ちなみに丸山先生の幼い頃、大町のあたりは当然ながら土葬だったようで、土から掘り起こされる白骨の思い出を丸山先生が語っていた記憶がある。「希望にきらめく四月の彼方」と「人骨を一本」という世界は、実際に目にした記憶なのかもしれない。

大きく波打つ五体を持て余しながらも
   希望にきらめく四月の彼方を見やり、

   その目を足元に落とした拍子に
      人骨を一本発見し、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』16頁)

以下引用文。白骨を一本振り回してみせる世一も、もしかしたら丸山先生が実際に目にした少年の姿なのかもしれない。
そうした光景を語る文の、「勇ましく咬みつく」世一の姿も、「この世はこんなものだ」と諭しにかかる墓地の諦めも、ともに丸山先生の思いを重ねているから心に響くのかもしれないと思う。

青々と輝く無辺際の宇宙そのものに
   勇ましく咬みつく彼の思弁は、

   一方においては正しくもあり
      他方においては的外れでもあった。

そこで私は
   「こんなものだ」と言ってやり
      「どうせこの世はこんなものだ」といい重ね、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』16頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月6日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結3」四月二十一日を読む

ー観察が文に発酵するとー

四月二十一日は「私は牛だ」で始まる。

以下引用文。丸山先生は通行人とか電車で隣り合わせた行きずりの人をよく観察して文にすると言われていた。
多分、次

の場面もどこか不自由なところのある少年が飼い牛のそばに近づき、その乳房をしゃぶるという場面を実際に目にしたのでは?
だが、ただ描写するにとどまらず、少年が求めるもの、少年が与えたものを作家が考え、言葉にしてゆく過程に面白さを感じる。

少年はその都度乳をせがみ
   むげに断るわけにもゆかないので
      一滴たりとも出ない乳房をしゃぶらせてやり、

      つまりはこういうことで
         私は彼が所望する愛に似て非なるものを与え
            先方はこっちのなかに溜まりに溜まった
               退嬰やら倦怠やらを
                  余さず吸い取ってくれたのだ。


思いなしか
   その病児の体の震えが和らいだかのように見えることもあった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結3」13ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年7月5日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

ー世一の不思議な力ー

四月二十日は「私は路地裏だ」で始まる。一つの独立した童話のような趣があって、とても好きな箇所である。

神仏のたぐいと肩を並べるほどの勢いの太陽が
   まほろ町の上空に差し掛かってもなお
      ひたすら隠に籠もりつづける路地裏だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』6頁)

そんな路地裏を通過するとき、世一は「なぜか足音を立てず 口笛をも吹かず 訳のわからない独り言を吐いたりもしない。」

以下引用文。通り過ぎる世一に路地裏はこう諭す。

ここは
   生きることを諦め
      さりとて死ぬに死ねない者だけが
         ひっそりと固まって暮らす場所だと


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』7頁)

以下引用文。
路地裏の諭す言葉を聞いた世一はしばし無言になったあと、「遣りきれないため息を残してひっそりと立ち去り」。
だが、そのため息が次第に変化して、人々に働きかける力に変化してゆく。その有様が抽象的な言葉を使っているのに、目に見える不思議さがある。

その微かな余韻は
   ほどなく
      実に生々しい質感を伴って
         波紋状の広がりを見せ、
 
         やがて
            押しも押されもしない
               堂々たる弁駁と化し、

               そこかしこで
                  大きな渦を巻く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』8頁)

以下引用文。路地裏は世一のため息の「禍々しい渦をひとつずつ潰しに」かかる。
だが世一のため息は、ひっそりと暮らしていた路地裏の人々を変えてしまう。
疎まれていた世一が、人々を変えてゆくという展開に、丸山先生の弱い者の不思議な力を信じる思いが強く心に残った。

しかし
   時すでに遅く
      これまでひっそり閑としていたあちこちの家から
         微笑があふれ出した。

ほどなくして
   窓や戸が開け放たれる音が相次ぎ
      あたかも祭りでも始まるかのごとき
         そんな浮いた雰囲気が募ってゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』9頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月4日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月十六日を読む

ー自由ー

昨日から二日分戻って四月十六日「私は風呂敷だ」で始まる箇所へ。風呂敷に魚の素干した塩干しをぎっしり詰めこんだ行商の娘が書かれている。もしかしたら日本海側からバスに乗って信濃大町まで行商に来た娘を、丸山先生が観察して「千日の瑠璃」に登場させたのではないだろうか?

私は風呂敷だ

   素干しや塩干しにした魚をぎっしり詰めこんだ箱を
      いっぺんに五つも包んでしまう
         唐草模様の大きな風呂敷だ。

まだ二十歳そこそこだというのに
   私を用いて行商をしている娘は

      私と同様
         体の芯まで魚臭が染みついていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」390頁)

以下引用文。なぜ、この行商の娘を書こうと思ったのか……媚びない人間の魅力を感じたのだろうか……作者の心を考える。

彼女は客に対して
   礼の言葉も発しなければ
      申し訳程度の愛想笑いすら浮かべず、

      にもかかわらず
         けっして悪い印象を与えることがなく、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」391頁)

以下引用文。売れ残った魚を丘の上の世一の家に置いてきた娘は、風呂敷を「いっぱいに広げてオオルリのさえずりをくるみ それを代金として受け取る」
娘の姿に「自由」を見ているのではないだろうか……という気がしてくる一文である。

バスを待つあいだ
   暖かい風に吹かれながら
      気分で購入した板チョコをぼりぼりと齧り、

      鼻歌を唄いつつ
         どこか遠くへ目をやって
            周りに誰もいないのに
               素晴らしい笑みを浮かべるのだった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」 393頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年7月3日

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月十八日を読む

ー正しさの幻想を吹き飛ばしてー

四月十八日は「私は紙芝居だ」で始まる。「辻公園の片隅で 年に数回ほど 老いぼれたデブの歯科医が道楽で演じる紙芝居」が語る。

以下引用文。集まってきた子供達に「甲斐甲斐しく立ち働く者がけっして無駄骨を折ることがないことや 金銭に目が眩んだ者が幸福になれた試しがないこと」を教える紙芝居は、己の正しさへの自信に満ち溢れている。

要するに私は
   この世は生きるに値すると
      そうきっぱり言いきっており、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」400頁)

以下引用文。己の正しさを信じている紙芝居だが、少年世一は病にもかかわらず嘲笑を投げつけてくる。
信念というものの偽善を思わずにいられない場面である。

外見以上に手強そうな彼は
   歯などいくら磨いても虚しくなるほどの
      重くて厄介な病に全身を蝕まれており、

      にもかかわらず
         出会うたびに
            石礫のごとき嘲笑を投げつけ、


            にもかかわらず
               出会うたびに
                  石つぶてのごとき嘲笑を投げつけ、

                  げらげらと笑われるたびに
                     畏縮へと落ちこんでゆく。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」401頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月2日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月十四日を読む

ー天真爛漫な心ー

四月十四日は「私はたも網だ」で始まる。
以下引用文。世一は目が粗くて使い古された「たも網」の欠点に気がつかず、「波が運んでくる銀色の魚影を見つけるたびに 性懲りもなく さっと私を」くりだす。

魚を捉えることができなくても充たされてゆく世一の心を語る文の、「ぴちぴちと跳ねる銀鱗の数」や「幸福の青い色を差し招く」という表現や、銀や青の色、鱗、風が、世一の心の邪気のなさ、天真爛漫を表しているようで心惹かれた。

それでも世一の狩猟本能は
   充分に満たされて
      胸のうちでぴちぴちと跳ねる銀鱗の数が次第に増してゆき、
         
      しまいには
         幸福の青い風を差し招くほどになり、

      ともあれ
         私の本音としては
            どんな雑魚でもかまわないから
               せめて一匹くらいはなんとかしたいのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」382頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月1日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結2』四月八日を読む

ーちっぽけな蟻の目がとらえるこの世ー

四月八日は「私は蟻だ」で始まる。

以下引用文。貸しボート屋の親父の頭に登った蟻が目に(?)する風景は、生、勤勉な仲間たち、その仲間が世一に踏み潰されるという不条理……が書かれ、この世の姿が凝縮している文のように思った。

そんな男の頭のてっぺんから遠く沖を見晴らす私は
   薫風にそよいで光るヤナギの若葉にうっとりと見とれ、
      
   ひたすらまばゆい湖面では
      数珠繋ぎにされて出番を待つボートが
         うねりに合わせて揺れ
            互いに擦れ合ってのどかな旋律を奏でていた。


そして地面では
   存在のなんたるかも知らずに
      せわしなく動き回る私の仲間たちが、

      どう頑張っても真っ直ぐに歩けない少年によって
         次から次へと踏み殺されていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」361頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月30日(日)

神奈川県立図書館ボランティア朗読会 雑感その2

昨日も6月29日(土)神奈川県立図書館ボランティア朗読会「光るキミへ」の感想を書いたが、少し追加。


昨日も紹介させて頂いたが、普段から朗読会で短歌作品もあればいいのにな……と思っていた私にとって、以下の図書を紹介、朗読してくださった29日の読書会はとても嬉しく、興味深いものがあった。

・『愛するより愛されたい 令和言葉・奈良弁で訳した万葉集① 』佐々木良 著 万葉社

・『現代語訳 竹取物語』川端康成訳 河出文庫

 『竹取物語』星新一訳 角川文庫

 『竹取物語』江國香織 文 新潮文庫

・『光の帝国 常野物語』恩田陸 著 集英社

・『平安ガールフレンズ』酒井順子 著 角川文庫

・『木の声が聞こえますか 日本初の女性樹木医・塚本こなみ物語』池田まき子著 岩崎書店

・『窯変 源氏物語』橋本治 著 中央公論社

 短歌は、「宿命的に一人称が主体となる詩型。ただし無数の「私」に降り立つことで、他者に成り代わって歌を詠むことができる」と短歌創作を教わっている福島泰樹先生にたしか教わった気がする。

 随筆もやはり一人称の文学である。

 古典の朗読は穏やかで丁寧なもの……というイメージがある。
 ゆったりとしたリズムで普段音読されている、でも実は一人称の文学である……という作品群を朗読する……のはチャレンジフルだったのではないだろうか。
 朗読のことはさっぱり分からないながら、一人称の場合の方が感情移入が激しくなるのではないだろうか?でも古典の朗読は、なぜか穏やかな調べのものが多い気がする。このギャップに苦労されたりしたのではないだろうか?


 万葉集の朗読をされた方は、奈良弁での朗読に切り替えたときに感情を思いっきり込めて朗読をされていた。


『平安ガールフレンズ』の朗読者も、耳に心地よい悠々としたリズムで古文を読まれながら、清少納言や紫式部の気持ちを現代語で表現するときは、二人になりきって鋭い感情表現を放っていた。


 どの朗読も面白かったけれど、このお二人の朗読が古典らしいリズムと思いっきり感情を込めた一人称らしい朗読との切り替えが鮮やかで、とりわけ印象に残る。


 短歌も、随筆も一人称なのだから、元々はこういう強い感情を含んで音読されていたのかもしれない……と思った。


 そもそも万葉の時代、どんなふうに音読していたのだろうかとも考えたりもした。
 意外と奈良弁の現代語訳を朗読された方のように、ナマの感情をストレートに強く声に表現していたのかもしれないと想像したりもした。


 短歌は五七で調べもいいし、もともと声に出すことを前提にして書かれているし、時間に制限がある朗読会の場合、朗読する歌をチョイスすることで時間調整もうまく出来るし、ぼーっと聞いていても頭に残るものがあるし……と朗読会に向いている気がする。


その割には余り朗読されない。現代短歌になると、さらに知られていない。
もっと短歌が朗読されたらいいな……と思う。


それも出来れば古典だけでなく、広島あり、家庭内暴力あり……と現代の私たちの心を短歌にしている、でも殆ど知られていない現代短歌から作品が朗読されたらいいな……とも思ったりした。


 選書から作品説明、朗読まで色々ご努力されてきたことが伝わる会だった。

 清少納言は短歌が嫌い、藤は千年生きる……など知らないことを朗読を聞きながら色々教えて頂いた。
 司会の方々も原稿を見ないで、朗読会や朗読作品への想いを分かりやすく伝えて下さっていた。
 回を追うごとに充実していく朗読会を楽しみに、また伺いたいなあと思う。

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さりはま書房徒然日誌2024年6月29日(土)

神奈川県立図書館ボランティア朗読会へ

紅葉坂を登ってフォロワーさんが運営に参加されている神奈川県立図書館ボランティア朗読会へ。
朗読会の今回のテーマは「光るキミへ」。
様々な視点から選ばれた本の朗読。とりわけ五七調の調べのいい古典を音読する喜び、聴く喜びを感じた一日だった。
朗読会も回を重ねるごとにお客さんの数もどんどん増え、朗読の声も益々深みを増してゆく様子に、運営スタッフの皆様のご苦労と努力を思う。
今回、朗読してくださった本は以下の通り。

・『愛するより愛されたい 令和言葉・奈良弁で訳した万葉集① 』佐々木良 著 万葉社

・『現代語訳 竹取物語』川端康成訳 河出文庫

 『竹取物語』星新一訳 角川文庫

 『竹取物語』江國香織 文 新潮文庫

・『光の帝国 常野物語』恩田陸 著 集英社

・『平安ガールフレンズ』酒井順子 著 角川文庫

・『木の声が聞こえますか 日本初の女性樹木医・塚本こなみ物語』池田まき子著 岩崎書店

・『窯変 源氏物語』橋本治 著 中央公論社

原文の音読だといかにも古典らしい典雅な朗読が、現代語訳になると朗読者の思いが弾けるような読み方にも変化するようで興味深く聞いていた。
おそらく図書館の朗読会でも古典や短歌の朗読は試みが少ないのでは……と貴重な時を共有して愉しませて頂いたようにも思う。
関係者の皆様に感謝しながら、紅葉坂の青紅葉を眺め帰途へ。

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さりはま書房徒然日誌2024年6月28日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月四日を読む

ー「街道」がただの「街道」でなくなるー

四月四日は「私は街道だ」で始まる。この四月四日はとりわけ好きな箇所である。
「街道」という運ぶとか通行するという機能のためにある存在。それが丸山先生の視点を通して語られると、別の意味を帯びた存在へと揺らぐ。この世界の在り方への丸山先生の思いが、文となって迸るような気がしてくる。

まほろ町と世間を結び
   誤った観念と世人の目を瞞着する情報の数々を
      昼夜分かたずに運びつづける
         獣道が源の古い街道だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」342頁)

以下引用文。そうした街道を通る様々な人間群像が、全部で十一の姿となって書かれていく。以下はその一部である。通行人の姿を繰り返すことで、この世の多様性が心に響いてくる気がする。

今年初めて陽炎を立ち昇らせた私の上を
   勃々たる野心を姑息な手段によって実現させたがる者が通り
      全財産をすってからやっと故地を訪ねる気持ちになった者が通り、

      別にどうということもない精神的苦痛のせいで
         仏を渇仰してやまぬ者が通り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」342頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月27日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月一日を読む

ー幼な子に壮大な運命を感じる視点ー

四月一日は「私は離乳食だ」で始まる。
「離乳食」が自分を食べている幼な子のことを「まほろ町では最年少の 自立した人間」とも、
「食べることに集中しながら 周辺の動きに周密な観察を加え、いつかきっと役立つ知識として 柔軟性に富んだ脳に しっかりと刻みつけている」とも語る。

以下引用文。離乳食が幼な子に寄せる思いの壮大さに心打たれる。「英名を馳せる者」になるか、「鉄窓に呻く者」になるか、あるいはその両方か。善悪にこだわらずに、人間の運命そのものに興味を持とうとする視点に心惹かれる。

そうやって私をひと口すするたびに
   将来において極めて有望な
      才覚を具えた者としての
         型破りな性格と
            そこから派生する運命の展開が形成されてゆき、

            もしできることなら
               この子の行く末を見届けたいと思う。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」332頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月26日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月三十一日を読む

ーひたすら観察ー

三月三十一日は「私は凄みだ」で始まる。
以下引用文。丸山先生を思わせる作家にやくざ者が凄みを放つ瞬間である。

悪趣味とはいえ
   それなりのセンスでめかしこんだ
      長身痩躯の若いやくざ者が
         およそ小説を書くしか能がない男に対して
            振り向きざまに放った凄みだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」326頁

以下引用文。やくざ者や世一のあとを付け回す作家にやくざ者は「なぜ?」と凄みをきかせて問いかける。
丸山先生は、周囲をよく観察して、観察結果をミックスして書かれるような話をされていたことがある。
こんな風に凄みのある男を観察していたことも、もしかしたら本当にあったのかもしれない。
観察して混ぜ合わせた事実のコラージュを、ご自分の言葉で別の世界に創り出しているのだなあと思う。

すると
   窮地に陥ったその中年男は
      懸命に作り笑いを浮かべて
         自分の仕事がいかに特殊なものであるかを説明し、

         とはいえ
            けっして詫びたりはせず
               二度としないという約束もしなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」328頁)           

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さりはま書房徒然日誌2024年6月25日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十七日を読む

ープランクトンを語り手にすることで見えてくるものー

三月二十七日は「私はプランクトンだ」で始まる。うたかた湖の動物性のプランクトンが自身を、そして身体に不自由なところのある少年・世一を語る。

以下引用文。もし人間の視点で語れば「世一は体を揺らして湖面を見つめていた」で終わってしまう場面である。

プランクトンが語り手となることで、「数億年の進化の隔たり」という科学的にして大袈裟な言葉もしっくりとくる気がする。
「不敵な夢想家の眼差し」「この世における存在の意義なんぞを探っている」という実際にはあり得ない描写も、プランクトンが語ることで説得力をもってくる。

この世における文学の役割は、固定化された見方から解き放って、人を自由にするところにもあるのかもしれない。

体全体が意思に反して波のごとく揺れ動く少年が
   岸辺にしゃがみこみ
      数億年という進化の隔たりをものともしない
         不敵な夢想家の眼差しで
            私のことをじっと見つめ
               この世における存在の意義なんぞを探っている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」313頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月24日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十六日を読む

ー田舎暮らしを冷静に見つめる視点ー

三月二十六日は「里心」が語る。湖畔の別荘で過ごそうとする元大学教授の夫婦を振り回す都会生活への「里心」が語る。
里心が指摘する「まほろ町」の欠点。私も伊東にある山小屋に移り住もうかなと思う度に、「いや、やはり」と足踏みをしてしまう田舎暮らしの欠点が幾つか重なっていた。
さすが田舎に暮らしながら、田舎暮らしの欠点を冷静に観察している丸山先生らしいと思った。
伊東のスーパーは欠品中の商品もチラホラあったり、値段も東京下町よりも客が少ないせいか高い。

特に魚は地元にまわらないのか、地元民は魚の値段を把握しているのか東京近郊より少なく、値段も高い。美味しい金目鯛のお頭とかは、東京近郊だと100円以下で売っていたりするが、伊東の方は500円近くする。
静寂をいいように解釈してドラムの練習やカラオケが大音量で響いてきたりする。
油断しているとゴミ焼却場が近くに建設…ということも聞く話である。

あと丸山先生は書かれていないけど、病院はあっても病院の選択肢がない……というのも伊東の山暮らしの欠点である。丸山先生はあまり病院に行かないような気がするから関係ないのかもしれない。

家庭菜園をしようにも、野生動物を追い払うためにフェンスを張ったりしなくてはならずコストがかかってしまうのも、伊東の山暮らしの欠点である。丸山先生は菜園を作ったりはしないだろうから、これも関係ないのかもしれない。
丸山先生は自分の周りを冷静によく観察して文を書かれていると、あらためて思った。

ここには文化の香りというものが皆無であり
   身近に広がる自然美への自覚も持たず
      無為に生きることが慢性化しており、

      山の冷気が
汚染された都会の空気よりも老化を早めると
            思いつくままにまくし立てた。

ろくな商品がなく
   もっと大きな街のスーパーマーケットで売れ残った商品が回され、


   静寂も度が過ぎると有害で
      違法なゴミ焼却が目当ての産廃業者が横行し、

      民度があまりに低くて
         動物並か
            それ以下で、

            近頃では
               雪かき作業が煩わしい。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」307頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年6月20日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十五日を読む

ー元兵士の悲惨ー

三月二十五日は「私は夕闇だ」で始まる。
以下引用文。「まほろ町にひたひたと押し寄せる いつもながらの」夕闇だけを友とする男。その男が背負う戦争の体験を、丸山先生は以下のように語る。
戦争から帰ってきた元兵士の心の悲惨、戦災孤児の悲惨をずっと書いてきた丸山先生らしい箇所である。

家々を焼き払い
   無辜の民を大量に屠った
      異邦の地における言語道断の日々と
         幾度殺しても飽き足らぬおのれを
            しっかりと再確認する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」304頁

以下引用文。そんな戦争の記憶をいまだ心に引きずる男に、夕闇はこう諭してみる。いつまでも癒えることのない戦争の傷というものをあらためて思う文である。

ついで
   旧時を知る人も少なくなったのだから
      そろそろこの辺りで自分を赦してやったらどうかと
         真心を込めて説得しても、

         きのうと同様
            なんの効果も認められない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」304頁

以下引用文。少年・世一が現れ、銃声の口真似をしてみせる場面。口真似の銃声に男はよろめくが、その顔に深い安堵が浮かんでいた……という描写に、生きて帰ってきても死ぬまで戦場の記憶から解放されない元兵士の悲惨を思う。

私のなかへ逃げ込もうとする男の背中を狙って
   口真似した銃声をだしぬけに浴びせかけ、

   すると
      撃たれた相手は大きくよろめいて私に倒れかかり、

      その一瞬の顔には
         深い安堵の色が浮かんでおり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」305頁

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さりはま書房徒然日誌2024年6月18日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十一日を読む

ー映像より雄弁に語る文ー

三月二十一日は「私は大波だ」で始まる。「うたかた湖では十年に一度おきるかどうかもわからぬ」大波が語る。
以下引用文。大波が「ありきたりな波と化し」ていく場面。映像なら一瞬で終わるかもしれないし、こんな風に同時にいくつもの存在をいきいきと語ることは難しい気がする。
ひいてゆく波に被せるようにして、オオルリから時代の風潮まで森羅万象を語る文が心に残る。

ありきたりな波と化して
   沖へ静かに引いて行く私に付いてきてくれるのは、

   丘のてっぺんから絶え間なく迸る
      美し過ぎることで却って虚しく響くオオルリのさえずりと、


   うつせみ山の禅寺の墓地に葬られてようとしている
      長寿を全うした誰でもいい誰かの親戚縁者が漏らす
         安堵を込めたため息と、

         長身痩躯の若いやくざ者が拳銃の試し撃ちをする
            断続的な銃声と、


            無欲な暮らしをとことん嘲笑い
               辛辣な揶揄を浴びせる
                  不純な時代の冷笑のみだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」289頁)   

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さりはま書房徒然日誌2024年6月17日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十日を読む

ー「燻されたタヌキ」という言葉に場面を想像してしまうー

三月二十日は「私は恥だ」と「恥を恥とも思わぬ若者が 今後の身の振り方について かなり真剣に考えているときに初めて知った」恥が語る。

以下引用文。恥に詰られた若者が突拍子もない行動に出る様子がユーモラスに書かれている。

すると彼は
   燻されたタヌキのように
      堪らず土蔵の外へ飛び出して
         しどろもどろで何やら言い訳めいたことを呟き、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」284頁)

以下引用文。「生き恥」をテーマに踊る青年と一緒に世一も踊り出す。二人して踊っているうちに、恥というものがどうでもよくなってしまう。
踊る部分のあたりは平仮名で書かれている文字が多いせいか、青年と世一が無邪気に踊る場面が自然と浮かんでくる。
後半、恥が自然消滅してゆく箇所は心なしか漢字が多く、恥というものが概念であることが伝わってくる気がする。

すると
   そうやってかれらがいっしょに踊る最中
      私はいつしか自然消滅の道を辿り、

      要するに
         さほど大した価値観ではなくなって
            無の底へと堕ちて行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」285頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月16日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2 」三月十四日を読む

ー単純だけど心に残る会話ー

三月十四日は「私は落書きだ」で始まる。ドライブインの塀に描かれた落書きが語る。
以下引用文。落書きの中でも、無抵抗の世一を塀に押しつけて三色スプレーを吹きかけて描かれた落書き。
愛犬が「わん」と吠えたことで、その落書きに気がついた盲目の少女の反応と言葉が心に残る。

丸山先生は滅多に会話を使わないけれど、その分、使う時は雄弁に物語る会話になっている気がする。「ああ、よいっちゃんだ」という簡潔な言葉に、盲目の少女の声音、表情が浮かんでくるような、世一への思いが溢れている。
「しまいには 単なる平面にぴたりと自分の体を寄せた」という少女の行動の後だけに、「私が心底からおのれのことを誇るに足る存在と感じたのは それが最初で最後だった。」という落書きの言葉は深く納得してしまう。

すると少女は
   少しもためらうことなく
      まっしぐらに私のところへ近づき
         指先の感触のみを頼りに
            たちまち世一を探り当て、

            「ああ、よいっちゃんだ、よいっちゃんだ」と幾度も呟いて
                しまいには
                   単なる平面にぴたりと自分の体を寄せた。

私が心底からおのれのことを誇るに足る存在と感じたのは
   それが最初で最後だった。


(丸山健二 「千日の瑠璃 終結2」261頁」  

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さりはま書房徒然日誌2024年6月15日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十三日を読む

ーフィルムにはない文章表現ならではの魅力ー

三月十三日は「私はカメラだ」で始まる。まほろ町に新婚旅行に訪れた夫婦は、通りがかった世一に写真を撮ってくれと頼む。
以下引用文。世一が体を揺らしながら写した風景。フィルムに摂りこまれた風景を映像で見れば一瞬で過ぎ去ってしまう。
でも、こうして文で描かれると一つ一つの情景が別々に心にたちのぼってくるようで、文章ならではの表現の魅力を感じる。

しかしながら
   私がフィルムに摂りこんだのは
      着水に失敗して無様につんのめる
         経験不足の若い白鳥と
            ボートを浮かべてワカサギ釣りを楽しむ隻腕の男、

            ほかには
               結婚式までしか考えていなかった男女の
                  頼りない笑みの底にこびり付いている
                     一抹の不安のみだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」255頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月14日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十一日を読む

ー「焦燥」が語ればー


三月十一日は「私は焦燥だ」で始まる。世一の姉に取りついた恋の焦燥が語る。
以下引用文。焦燥の語る言葉。姉が自分の言葉で語ったりすれば、あまりにも生々しくなりすぎるかもしれない。作者の視点で語れば、冷たく感じられるかもしれない。
でも「焦燥」という有り得ない視点で語ることで、娘の様子が哀れにも、コミカルにも思えてくる気がする。

「これまでおまえに興味を示した男がひとりでもいるのかな?」と訊き
   「いなければ、これからだって絶対に現れないぞ」と決めつけ、

   その意味においては
      弟の方がまだましというもので、

      オオルリという連れ合いがいるばかりか
         住民のほぼ全員に関心を持たれており
            その意味においては幸福な人生だと
               嫌みたっぷりにつづける。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」249頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月13日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十日を読む

ー文章で出会う世界ー

三月十日は「私は雪崩だ」と「うつせみ山の南側の急斜面に発生すべくして発生した」「雪崩」が語る。

長年、信濃大町に住んでいる丸山先生らしい感覚にあふれた箇所だと思う。まだ雪崩を体験したことがない私は、その音や気配、雪崩を迎える山国の人の心境を知る。私なら思わず怖くなって布団を頭から被ってしまいそうだが、山国の住民にとっては「春を知って 束の間心をときめかせ」るものと知って意外だった。

それほど大した規模ではない私であっても
   だが音だけは立派で
      たちまちのうちに落ちかかる雷火のごとき轟音に成長したかと思うと
         まほろ町の夜明けをびりびりと振動させ、

         物凄まじい気配で目を覚ました住民たちは
            いよいよ間近に迫った春を知って
               束の間心をときめかせ、

               根拠に頼ることなく
                  何やらいいことが起きるのではないかと
                     本気で期待する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」242頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月12日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月六日を読む

ー「自由」ー

三月六日は「私は自由だ」で始まる。
「この島国の無能さを徹底的に暴露するに至ったあの戦争は 彼から家と家族をあっさりと奪い ついでに希望のひとかけまでをも根こそぎにし」と書かれる物乞いの老人。その老人の「かれこれ半世紀ものあいだ付き纏って離れない」自由が語る。

「自由」は、自由を選ぶことでとても厳しい状況になろうとも、丸山先生自身が一番大事にされていること。
丸山文学の主人公たちも自由を求めて流離う姿が心に残る。

そんな丸山先生が「千日の瑠璃」で自由を見出している登場人物は、戦争で家も家族も失った物乞いの老人。
それから身体と脳に不自由なところがある世一……。
そんな設定に丸山先生の考える自由の在り方を見る思いがする。そして、世一がこれからどんな自由を求め旅を始めるのか……と楽しみにしているうちに、ふと己の不自由を忘れる自分がいる。

そして
   いつ果てるとも知れぬ放浪の日々のなかから
      この私を発見して手元に引き寄せたのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」227頁)

すると彼は
   仰向けに倒れた亀のようにもがく少年の目のなかに
      私をはるかに凌ぐほどの
         ほとんど無碍に近い自由を見て取り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」229頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月11日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月五日を読む

ー「瑠璃色の才能」とはー

三月五日は「私は春一番だ」で始まる。まほろ町に吹き始めた春一番が語る。
以下引用文。「雪の白に幽閉されて」という部分と「生来の瑠璃色の才能が徐々に開花してゆく」という部分、コントラストの鮮やかさが心に残る。細々としたことは語らずして、色が与えるイメージだけで物語ってゆくような箇所である。「生来の瑠璃色の才能」ってどんな才能なのだろう……と思わず立ち止まって考えたくなる。

雪の白に幽閉されて
   魂を縮こめているしかなかった少年世一の
      意味も目的もなしに
         淡々と命を長らえさせるという
            重い病と引き換えに付与された
               生来の瑠璃色の才能が
                  徐々に開花してゆく。

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さりはま書房徒然日誌2024年6月10日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」を読む

ー「髪」が語ればー

三月四日は「私は髪だ」で始まる。
以下引用文。「四十三年間生きてきた」女の髪が語る。まるで竹下夢二が描く女を思わせる描写でありながら、作者が「女」のことを語るのでなく、「女の髪」が「女」を語ることで変な生々しさは消え、女の生命力が歌うように書かれているような気がした。

それでも私は
   山間を流れる小川のように
      どこまでもしなやかで、

      彼女のすっと気持ちよく伸びた華奢な首にも
         逃げ水のごとく儚い感じのうなじにも
            よく似合っており、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」218頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月9日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月三日を読む

ー一瞬の光が時をかけてゆくー

三月三日は「私は乱反射だ」で始まる。うたかた湖の水面と氷の乱反射が語ってゆくのは、世一の生き生きとした姿、死の直前の老人、死後の魂……一瞬の光のきらめきから生、死、死後を描き切る文に、肉体の縛りからも、時の縛りからも解き放たれて自由になった気がしてくる。
以下引用文。「乱反射」を「縫い針の束をぶちまけた」と語る描写が心に残る。

うたかた湖の大気よりも澄みきっている水と
   急速に溶けてゆく氷とが相まって生み出す
      まるで縫い針の束をぶちまけたような乱反射だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」214頁)

以下引用文。世一の目に「ひとつの巨大な光源」とも写り、「めざましい躍動」を楽しむ「うたかた湖」は、生を感じさせる存在である。

雪解けが進んでどろどろにぬかった丘の道を
   ふらふらと下ってくる青尽くめの少年は、

   あたかも湖面全体がひとつの巨大な光源であるかのように錯覚して
      私のめざましい躍動を存分に楽しんでいる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」215頁)

以下引用文。「眠るがごとく寂滅してゆく」老人の目に映る乱反射。「顔を向け」「瞳孔いっぱいに私を取りこんで」という丁寧な描写に、瀕死の老人のノロノロした動きを感じる。
「おのれの非を悟る」という言葉に、「乱反射」が罪を映し出す鏡のようにも思えてくる。

やおら起き上がった彼は
   湖の方へ顔を向け、

   開きかけている瞳孔いっぱいに私を取り込んでから

      翻然としておのれの非を悟る。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」216頁)

以下引用文。老人が亡くなって魂となってゆく場面。
「坂道を転がり落ち」「仮眠中の絶命」「「ひっそりと息を引き取る」と言葉を変え、丁寧に描写してゆく文から、老人の死への敬意が感じられる。
さらに「魂のきらめき」「増すばかりだ」という言葉に丸山先生の死生観が強く感じられ、老人の死が新たな旅立ちのように思えてくる。

だがしかし
   太陽が位置を変えることで
      私が天井から離れてしまうと
         彼はみるみる衰弱の坂道を転がり落ち、


         世一のように全身を震わせたりせずに
            あたかも仮眠中の絶命のようにして
               ひっそりと息を引き取ってゆくものの
                  その魂のきらめきは一向に衰えず
                     むしろ増すばかりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」217頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月8日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月一日を読む

ー丸山作品の「  」の不思議さー

三月一日は「私は骸骨だ」で始まる。まほろ町立中学校の理科室の教材用骸骨が、こっそり忍び込んできた世一を相手にする。
以下引用文。丸山先生は会話でストーリーを進める書き方を大変嫌っている。たしかに他の丸山作品と同様に以下の会話も、形こそ「   」で括られて、一見会話の形はとっている。

でも日常会話ではなく、どちらかと言うとアフォリズムのような趣きがある。丸山作品で「  」が出てくると、だらだらと会話でストーリーが展開するのではなく、ピリッと閃く丸山先生の思いに触れる気がする。

いかにも気怠げな口調で
「おまえ、誰?」と訊き、

    そこで私は
       わざと無念やる方ない表情を作り、

    「おれか、おれはおまえだよ」と

        素っ気なく答えた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」207頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月7日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月二十八日を読む

ーあたえる者へー

二月二十八日は「私はすき焼きだ」で始まる。まほろ町の湖畔の旅館・三光荘の女将と長逗留の女客が食べていた「すき焼き」が語る。
以下引用文。二人の女に招かれて、世一も一緒にすき焼きを食べる。
何も持っていないし、食べる動作さえ苦労する世一なのに、一緒にいると二人の女は「希望とも言えぬささやかな希望を感知」して、「心のあちこちに穿たれてしまった風穴が 一時的であるにせよ 確実に埋まってゆくのを覚えた」のである。
 何も持たない者、世から疎まれる者が与える者になる一瞬を信じているし、そんな瞬間を見い出すのが丸山作品の魅力だと思う。そして、そんな視点は特殊学級に入れられてしまった小学校時代、特殊学級の仲間たちとの交情から生まれてきたものではないだろうか。

ひっきりなしに身をよじりながら私を相手に格闘する
   健気な少年をつくづく眺めているうちに
      ふたりの女はなんだか不思議な心持ちになり、


      つまり
         希望とも言えぬささやかな希望を感知し、

         生きるために余儀なくした陰気な行為のあれやこれやに蝕まれて
            心のあちこちに穿たてしまった風穴が

               一時的であるにせよ
                  確実に埋まってゆくのを覚えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」203頁

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さりはま書房徒然日誌2024年6月6日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十八日を読む

ー意外な本への思いー

二月十八日は「私は頭痛だ」で始まる。都会を離れ、山暮らしを始めた元大学教授がまほろ町の図書館を訪れ、久しぶりにたくさんの本を目にしたときに襲ってきた「頭痛」が語る。
以下引用文。大学教授という本を通して物事を見てきた筈の人が、こんな思いを本に抱くとは……一瞬、意外に思う。
でも丸山先生自身、いつかオンラインサロンで好きな書店は?と訊かれて、「リアルの書店に行くのは好きでない。本に囲まれると圧迫感を感じる」というような意外な答えをしていたのを思い出した。そんな丸山先生だから、こんな言葉が出てくるのではないだろうか?

確か彼は
   本には二度と手を出すまい
      これからは他人の言葉を通さずに現実を直視しよう
         おのれの目で見ておのれの頭で判断しようと
            そう自身に誓ったはずで、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」163頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月5日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十六日を読む

ー「見る」とは?ー

二月十六日は「私は炎だ」で始まる。盲目の少女の前に置かれ、やがて消えてしまうロウソクの炎が語る。
以下、三箇所からの引用文。
盲目の少女の目、世一の目に映る炎、世一の心眼に焼きついた炎、それぞれが描写されている。

同じ「見る」行為とはいえ、どこで見るのか、どう映るのかは様々なのだと思う。
そして書き手が言葉によって読み手に「見せる」行為とは……とも考える。それは最後の引用文にあるように、読み手の心眼に時も次元も超えた炎を宿らせることなのではないだろうか……そんなことも思った。

少女の見えない目と
   彼女の膝の上にちょこなんと座っている白い仔犬の純一無垢な瞳には
      それぞれ私が鮮やかに映じており

      その四つの虚像は
         ひとつの実像をはるかに超越した
            かなり見事なものであり、

            しかしながら
               彼女の魂に結ばれた映像の素晴らしさには
                  遠く及ばず、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」155頁)

もちろん少年の目にも私が映っており
   ところが
      彼の瞳のなかの私ときたら
         なぜか虚像ですらないほど頼りなく、

         にもかかわらず
            実像より数倍も生々しいのは
               いったいどうしたことだろう?


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」157頁)

瞬時にして少年の心眼に焼き付いた私は
   またしても激しくなってきた雪のなかを
      いかにも危なかっしくゆらゆらと揺れながらも
         けっして消えることなく
            まほろ町のあちこちを
               住民たちの有りようを照らしつつ
                  どこまでも進んで行く。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」157頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月4日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十五日を読む

ー自然に人間の世界を重ねるー

二月十五日は「私はカモメだ」と猛吹雪で海岸線を見失い、山の中まで迷ってしまったカモメが語る。
以下引用文。迷い鳥のカモメがまるでさすらいの旅人のようにも、カラスが俗物根性丸だしの人間たちのようにも思えてくる描写である。
丸山先生の目は、自然界の在り方にも人間の世界を重ねて見ているのだろうか?

いよいよ天運尽きた私は覚悟を固めたことで
   さばさばした気分になり、

   雪の重みで押し潰されそうになった長い桟橋の突端で翼を休め
      眼前に広がる見慣れぬ光景を夢心地で眺めた。


すると
   閉鎖的で排他的な田舎者根性まる出しのカラスどもが
      迷い鳥の私をいびり殺そうと集まり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」152頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月3日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十四日を読む

ー風船一個を語るにも語り口が印象的ー

二月十四日は「私は風船だ」と「くたくたになって山と湖の町へ辿り着いた 青い風船」が語る。
私なんかがこの風船を語るなら、「空色の丸い風船」とか安直にすぐ書いてしまいそうだが、丸山先生はそうではないと知る。
以下引用文。丸山先生は、風船の青い色を「〜のようだ」と語るのではなく、「〜にも似ておらず」と否定の形で語る。「水」「空」「死に顔」「オオルリ」にも似ていない青って、どんな色なのだろう……と読んでいる方の心にぽっかり「想像してごらん」という声が谺する穴をあけられる気がする。

私の色は
   水にも空にも
      そして
         死に顔にもオオルリにも似ておらず、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」146ページ)

以下引用文。風船の動きを「彼女の体熱と町そのものが暖めた大気によって上昇し」と語り、また「人魂を思わせる形状を保ったまま」と描写することで、風船がただの物からどこか人間らしさを帯びて感じられてくる気がする。

彼女の体熱と町そのものが暖めた大気によって上昇し
   人魂を思わせる形状を保ったまま
      一軒家の方へと引き寄せられて
         二階の部屋の窓枠に引っかかる。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」148ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月2日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十三日を読む

ー自然描写に重ねる思いー

二月十三日は「私はハーモニカだ」で始まる。刑務所を出所して鯉の世話をしながら暮らす世一の叔父が吹き鳴らすハーモニカだ。
以下引用文。まほろ町の夕暮れから夜にさしかかる冬の描写が、丸山先生らしい奥行きのある表現に思える。自然を見つめながら、この世と別の世について思いを巡らす丸山先生の思いも伝わってくるようで好きな箇所である。
「希薄な存在感の太陽」はいかにも冬らしく、それでいて別の世界を示しているようにも思える。
「然るべき方向」も、いったいどの方向を指しているのやら……と考えてしまう。
「漠とした落日を漫然と迎える」というまほろ町も、人の生き方を暗示しているようである。
「いかにも啓示的な闇」とは?と考えてしまう。
自然描写に重ねる思いがあるようで、それを考えながら読んでいくのが面白い。

やがて
   希薄な存在感の太陽が然るべき方向へと傾き、

   まほろ町が漠とした落日を漫然と迎えるや
      いかにも啓示的な闇が
         地の底から湧き上がってくる。

すると
   厳冬の夜が私をたしなめて
      もうよさないかと言い

         そろそろやめてはどうかと言い、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」143ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年6月1日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十二日を読む

ー同じ望遠鏡から覗いた世界なのにまったく違って見える不思議さー

二月十二日は「私は望遠鏡だ」で始まる。世一の父親がゴミ捨て場からそっと拾ってきて、ピカピカに磨きあげた望遠鏡が語る。
同じ望遠鏡に目をあてているのに、世一の父親が覗く世界と世一が見つめる世界は全く異なる印象を受ける。見つめる人の視点、心の持ちようで、こうも異なるものだろうか。
以下引用文。世一の父親が覗いた世界。私の目に映る世界のようで、思わずため息をつきたくなる。

私をどの方角へ向けようと
   そこにはすでに知られている現実が存在するばかりで、

   もしくは
      辟易するおのれの五十数年間が
         呆れ返るほどだらしない格好で横たわっているだけで、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」139ページ)

以下引用文。冬の厳しさを描きながらも、世一が望遠鏡を通して見つめる世界は宇宙的神秘さのある世界。「虚無そのものの広がり」という捉え方が、何となく丸山先生らしいと思ったり、こういう世界を感じたいと反省したりもした。

最初に捉えたのは
   灰色がどこまでも広がる
      実に味気ない冬の空間で、

      鳥が飛んでいるわけでもなければ、
         雲が流れているわけでもない、

         なんの変哲もないというか
            虚無そのものの広がりにすぎなかった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」140ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月30日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十日を読む

ーヒトでない者の声が聞こえてくる「  」ー

二月十日は「私は氷だ」と、うたかた湖を隅々まで埋め尽くした氷が語る。
その氷の上で世一が「ときおり つつうっと滑ったり」という様子が微笑ましい。
以下引用文。そんな世一に警告しようとする「氷」。「軽すぎる体」「重すぎる魂」と氷が語る世一の姿は、人間界の常識を離れた姿にも思えてくる。

その都度私は不気味な音を発して警告を与え
   軽すぎる体のほうはともあれ
      あまりに重過ぎる魂まではとても支えきれないと
         そう言ってやり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」136ページ)

以下引用文。「氷」が心配するように湖の中に落ちることなく無事に帰ってゆく世一。
「氷」はふた言だけ呟く。
丸山作品では「  」の部分は普通の会話ではなく、天から響いてくる言葉のようでもある。
以下も「運」「不運」がコントラストをなして、やはり人間ではない者の言葉に聞こえてくる。

「おまえって奴はどこまで運に恵まれているんだ」と
    そう言ってから
       「そのくせ、どこまで不運な奴なんだ」とづづけ、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」137ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月30日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十日を読む

ー箒と箒売りの充足感に幸せとは?と思うー

二月十日は「私は箒だ」で始まる。
行商の男がまほろ町をまわったにもかかわらず、売れ残ってしまった箒が物語る。
以下引用文。箒売りの行商が丘の家の世一の家を見て「何かある」と感じて登り始める場面。箒の行商人という今ではあり得ない職業からもたらされるイメージが、仙人めいた千里眼的行動とよく合っている感じがする。

ただ気づいただけではなく
   そこにはきっと何かが在る
      ほかの家には絶対ない何かが在ると直感して
         心のどこかが激しく揺さぶられ
            すぐさま出かけてみようと思い立った。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」131頁)

以下引用文。世一の家にたどり着いたものの、いるのはオオルリだけ、あとは誰もいない。行商人は「お前をこの家にくれてやるからな」と箒を玄関の下駄箱の横に置いて帰る。
ただ、それだけの行為なのに、箒も、行商人も満ち足りてしまう……その姿に「幸せとは?」と思わず考えてしまった。

使ってもらってこその私であるのだから
   願ってもないことで
      元より異存などあろうはずもなく、

      雪に足を取られながら丘を下って行く男の後ろ姿が
         いつになく幸福の色に満ちあふれ
            夕日に染まったその背中には見るべき価値が感じられた。


 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」133頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月29日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月八日を読む

ー覗き見の効果ー

二月八日は「私は節穴だ」と、路地と歯科医の家を分かつ塀の節穴が語る。「截然と」(セツゼン)(意味は「区別のはっきりしているさま」)という見かけない言葉が、路地と歯科医の家の違いを強く主張しているように響いてくる。

節穴から歯科医の同級生が覗き込み、多少嫉妬混じりの小さな嫌がらせをする。
次に世一が覗き込むと、歯科医の息子の進路をめぐる家庭内騒動が持ち上がる。思わず世一も一緒に騒ぎ立て……と展開してゆく。

ここで思い出したのだが、他の登場人物が覗き込む中、物語が進行してゆく……というのは、浄瑠璃にとても多い設定である。文楽ファンなら、覗き見で進むストーリーには慣れすぎるくらいに慣れてしまっているのではないだろうか。舞台の左手からも、右手からも覗き見……で舞台が進むのは、浄瑠璃くらいではないだろうか。

覗き見という手法をとると、違う世界の人間でも、自分の所属とは違う世界であっても、我が事のように反応する様子を自然に観察できる……と「千日の瑠璃」のこの箇所に思った。

文楽の場合も、覗き見する方、覗き見される方、両方の人形の動きを眺めることで、物語の世界を重層化していくようにも思う。

それにしても覗き見が当たり前の浄瑠璃の世界。これはやはり塀や障子という覗き見しやすい日本の住環境が影響しているのだろうか?

私は節穴だ、

   ほんのたまにしか人の通らないうらぶれた路地と
      歯科医の家の敷地を截然と分かつ
         かなり古びた板塀の節穴だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」122頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月28日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月六日を読む

ーX線のごとき存在とは?ー

二月六日は「私はX線だ」と世一の身体を調べるX線が、その心までも情け容赦なく調べる。その結果は……以下引用文。
「醜悪な外貌」と対をなす「心の表情」という言葉には、喚起してくるイメージがたっぷりとあって、世一の心の豊かさを思わせてくれる。
「彼の魂は 不可視なものではなく」という箇所に、人間の魂を見通せる光があれば……とも想像する。人間の魂を見通せる存在……なんて嫌だし、煙ったいとは思うけれど、そういう存在が作家なのかも、とも思う。つまりX線は丸山先生自身のことなのかもしれない。

ひっきょう
   世一を見かけだけで誤解してはならず、

   彼のふた目と見られぬ醜悪な外貌は
      断じて心の表情と一致するものではなく、

   彼と接する連中の
      人間としての程度や真価を試すものでもない。

そして彼の魂は
   必ずしも不可視なものではなく
      残酷極まりない神に成り代わって
         この私がそのことを証明する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」117ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月26日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月五日を読む

ーパラレル・ワールドは救いか、絶望か?ー

二月五日は「私は星雲だ」で始まる。蠍座の星雲は、世一の飼っているオオルリの囀りを通して遥か彼方のまほろ町のことをよく知っていると語る。
丸山先生は以前、量子力学の観点からパラレルワールド、もう一つの世界は存在する……そんなことを話されていた。以下引用文にも、そんな丸山先生の考えがよく現れていると思う。

そして
   私のほうもまた
      自身のどこかにいる青い鳥が
         そっくり同じことをしており、

         つまり
            私のなかにもまほろ町が在り
               少年世一が存するのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」111頁)

以下引用文。己の星雲がある世界から、世一のいるもう一つの世界へ……そんな不思議なやり取りが書かれている。
くどくどとストーリーが展開するのを楽しむのでなく、もうひとつの世界を感じる大きな視点に気がついてハッとする。そんな楽しさが「千日の瑠璃」を始めとした丸山作品にはあるように思う。
その分、ストーリーを楽しんだり、教えを請う人には不向きなのかもしれないが……。

もう一つの世界でも私は「千日の瑠璃」を読んでいるのだろうか……そんなことを思うと、こちらの世界の諸々の不安が消えていくような気がする。パラレルワールドを信じることは救いになるのか、それとも同じ苦労をしていると絶望を深めるだけなのか?「千日の瑠璃」にその答えがあるのかもしれない。

きょうもまた私は
   そっちのまほろ町の
      そっちのオオルリに対して
         詳細な報告をし、

         それから
            こっちの世一が岸辺に佇むだけで
               うたかた湖の深浅を正しく把握できるまでに

                  成長した旨を伝え、

                  はてさて
                     そっちの世一はどうかと尋ねてみる。

 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」112頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月25日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月四日を読む

ー缶バッジが語れば、偉そうな物言いも何故か気にならないー

二月四日は「私はバッジだ」と、まほろ町に駆け落ちしてきた娘のセーターを飾る「青い鳥をかたどった 派手なバッジ」が語る。

以下引用文。バッジが実は自分が娘の行動を決めている……と語る。バッジにズバッとありえないことを宣言させるおかげで、普通に書いていたらモタモタしてしまいそうな余分な贅肉が削ぎ落とされスッキリしている気がする。
バッジという実に庶民的なものが、娘の行動を決める神のごとき存在……という設定も丸山先生らしいと思う。

彼女は私を気に入っているばかりか
   信頼しきっており、

   駆け落ちを決意させたのも
      実はこの私というわけで、

      まほろ町に住むことも
         スーパーマーケットで働くことも
            全部決めてやった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」106ページ) 

以下引用文。スーパーの先輩(世一の母親)と娘をバッジが観察する。もし、ここで作者が語っているなら「なんて失礼な」と思うかもしれないが、バッジが語っていると思うと不思議と気にならない。

どんなに厚化粧をしたところで
   生活の疲れを隠せないその先輩は
      素顔でも溌剌としている後輩をつかまえ
         冷ややかな物言いで
            「それ、なんて鳥なの?」と訊き、

             鳥の名を度忘れした娘は
                とにかく幸福を招く鳥だと答えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」107ページ)      

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さりはま書房徒然日誌2024年5月24日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月三日を読む

ー田舎暮らしの残酷さを思い出したー

二月三日は「私は散弾だ」と密猟者たちが禁猟区で放った散弾が語る。散弾が仕留めたのは白鳥。密猟者たちはなんと白鳥を解体して、少ない肉と肝臓を手に入れると、塩焼きにしたり、鍋料理にしたり、串焼きにしたりする。
以下引用文。「ぶっ殺してやる!」という部分も効いているし、「肉にめりこみ 血管を破り 内臓を裂き 骨を砕き」と畳みかけるような短い文も、インパクトのある動詞も、散弾の威力を効果的にあらわしている。

私は散弾だ、

   ひとえに炸薬の力を頼みとして
      「ぶっ殺してやる!」などとわめきながら風のなかに飛び出す
          やや大粒の散弾だ。


狙いは違わず
   ぶすぶすと獲物に命中した私は
      一瞬にして羽毛をぱっと散らせ
         肉にめりこみ
            血管を破り
               内臓を裂き
                  骨を砕き
                     指頭大の魂をも粉砕する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」102ページ) 

密猟で手にした白鳥を食べてしまう……といういささかショッキングなこの場面は、田舎の生活の残酷さも描いているのかもしれない。
みずから動物を仕留め、解体して、食べてしまう……という行為は、私も田舎暮らしでよく見かけた。そして「私には無理だ」と田舎暮らしを断念させた大きな要素でもある。
だって本当に伊東で窓の向こうを見たら、隣家の物干しに猪から剥ぎ取った毛皮がかけてあったり……
田舎に引っ込んだ元同僚は、町内会のメンバーと共に害獣駆除のため猪を仕留め、解体して、肉は冷凍して、耳は切り取って市役所に持参して報奨金をもらう……という仕事を、地域の一員として当然のようにこなしていた。
そんな姿に「私には田舎暮らしは絶対に無理だ」と思った。命をいただく行為、それを残酷と取るか、幸せととるかは人様々とは思う。また、すべての田舎がそうだとは限らないだろう。
でもとにかく私には田舎暮らしは絶対無理である……と思ったことを思い出した。

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さりはま書房徒然日誌2024年5月23日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月二日を読む

ー小さな大豆にも思いは尽きることなくー

二月二日は「私は大豆だ」で始まる。物騒な輩に知らずして土地を売ったため、町中から非難されるまほろ町の八百屋の主が、いわくつきの連中が住むビルに向かって豆をまく。ところがその連中が来て、豆を買いに来ると……。
先ほどまでの勢いはどこにやら?途端にびくびくし始める八百屋の主人の小物感。
そんな恐れられる連中でも豆をまく……という意外さに人間らしさを感じる。

極道者ですら鬼を忌み嫌い
   福に巡り合いたがっていることに八百屋の主人が気づいたとき、

   ビルの窓から撒かれた私を
      いかんともしがたい不幸を背負って歩く青尽くめの少年が
         ひと粒ずつ丹念に拾って食べている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」101ページ

小さな大豆でもよく観察すれば、忌み嫌われる者たちを、忌み嫌う者を、世一の心を表している……。
そんなことを思ううちに、亡くなった女流義太夫の三味線弾きさんが、亡くなる一ヶ月前にたしか可愛い赤鬼の仮面と大豆の写真をアップされ「鬼は外」と呟かれていた記憶がよみがえった。とても辛い、死を覚悟されながらの「鬼は外」、どんな思いであったのだろうか。
その三味線弾きさんとは幻想文学の講演会でたまたま席が隣だったり、愚息を連れて義太夫の公演に行った時も偶然席が隣になって愚息に「眠くなったら寝ちゃっていいのよ」と優しく声をかけてくださったこともあった。
そんなことを思い出すうちに、その三味線弾きさんの舞台での凛々とした音色も聴こえてくるような気がしてきた。
小さな大豆でもそこから紡がれる記憶は無限、それを発掘して残してゆくのも、人間の大事なミッションなのかもしれない。

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さりはま書房徒然日誌2024年5月22日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月一日を読む

ー「退学」が語る学校ー

二月一日は「私は退学だ」と、普通の高校生が当人の事情でした「退学」が、学校をやめて解放感に溢れている高校生の喜びを語ることで学校という存在の矛盾を問いかける。

以下引用文。「退学」が見つめる学校の在り方は、丸山先生の心にある思いなのだろう。まさにその通りの場である。
でも最近では「優秀な労働者」どころか、物言わぬ労働者、物言わぬ市民を大量生産するための場になり下がっているいる気もする。
「おのれの意志と決断」「飛び出した」という言葉に、「退学」した若者の心がよく表されている気がする。

従順で在りながら
   適度に優秀な労働者となる若者を選りすぐるための
      窮屈で堅苦しい
         疑問だらけの場、

         彼はどこまでもおのれの意志と決断でもって
            そこから飛び出したのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」95ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月21日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月三十一日を読む

ー遺影もじっと見ているのかもしれないー

一月三十一日は「私は遺影だ」で始まる。「胸が潰れるほどの悲しみを撥ね返してくれそうな 金ぴかの仏壇の前に」飾られた、松林で首をつって死んだ娘の遺影が語る。
「遺影」を語り手にしてみたら、家族のそれぞれの勝手な思いやら、線香をあげにきた友人の虫のいい願いやらを、感情を交えることなく、じっくりと人ごとのような視点で物語れるものと思った。
そういえば「遺影」を前にしたときは、自分の心を隠すことなく、正直になっている気がする。
以下引用文。線香をあげにきた世一の姉が、自分の恋はあなたと違って上手くいきそうだ、と勝手な思いを語る場面である。
「凝然として動かぬ私」という言葉にたしかに「遺影」はそうだなあと思い、「くどくどと」「見つめ直し」「一方的な頼み」という言葉から世一の姉が浮かんでくる。

つまり赤の他人同然の異性について
   くどくどと語り、
   
   あげくに
      凝然として動かぬ私をまじまじと見つめ直し、

      どうにかこの恋の行方を見守っていてほしいと
         好ましい出発を願ってほしいと
            そんな一方的な頼みをする。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」93ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月20日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十九日、三十日を読む

ー想像するのが楽しくなる色の語り方ー

一月二十九日は「私は雪道だ」で始まり、三十日は「私は口紅だ」で始まる。二日通づけて対照的な色が出てくるので印象に残る。
ただし「雪道」の方では様々なものを「白い」と表現しているのに対して、「口紅」の方では具体的な色の描写は出てこない。色の表現方法が違うにもかかわらず、どちらも色が浮かんでくる不思議さを感じた。

以下引用文。「私は雪道だ」の二十九日より。「時間」や「父と子の心」のように抽象的なものを白いと表現しているので、どんな時間か、どんな心か想像する楽しさがある。

その重さに耐えられずに折れてしまった無数の枝が
   私の上にも無惨に散らばっていて、

   しかし
      一様なためにさほど見苦しくはなく
         どうにか清らかな白を保っており、

         辺りに漂う大気も白く
            穏やかに流れる時間も白く、

         はたまた
            私に沿って歩きつづける父と子の心も白い、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」82ページ)

以下引用文は三十日「私は口紅だ」より。はっきりと色の名前は書かれていないが、「シクラメンの花の色にもよく似合い」「浮いた立場にもぴったりと合っている」「不確定な要素を孕んだ」と表現される口紅の色を想像する楽しさがある。

シクラメンの花の色にもよく似合い
   彼女の浮いた立場にもぴったりと合っている
      かなり不確定な要素を孕んだ口紅だ。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」86ページ)

白、口紅の色と出てきたあと、最後は世一の着ている服の色で終わる。「娼婦に成るべくして生まれついた」女を引き寄せるオオルリの色のセーター。最後に世一の、オオルリの力を感じる。
どの色にしても想像するのが楽しくなる書き方だと思った。

娼婦に成るべくして生まれついたような女の目は
   不治の病に侵された少年が纏っている衣服の青の素晴らしさに見惚れていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」89ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月19日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十八日を読む

ー反復されることで本心からの叫びに思えてくるー

一月二十八日は「私はビデオテープだ」とレンタルビデオ屋から大学教授夫妻のもとへと貸し出されたビデオテープが語る。観た後、大学教授夫妻は内容について散々けなす。
以下引用文。けなした後で大学教授の妻が野鳥への愛を語る場面。
「名画であろうと名作であろうと」が繰り返され、「たとえば」が反復されることによって、野鳥への賛歌が大学教授の妻の心の底からの思いにも聴こえてくる。

妻の言葉に思わず納得したところで聞こえてくるのは、世一のオオルリを真似たさえずり。絶妙なタイミングに、この少年は人間なのだろうか、それとも……と世一が人間を超えた存在に思えてくる。

窓の向こうに広がる
   一面雪に覆われた雑木林に目を移し、

   いかなる名画であろうと名作であろうと
      結局のところ
         野鳥一羽分の感動すら与えることができず、

         傑作中の傑作というのは
            たとえばオオルリであり
               たとえばクロツグミであり
                  たとえばミソサザイであり
                     それを超えるものはないと

                        言い切った。

ちょうどそこへ
   オオルリのさえずりを上手に真似る少年が通りがかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」81ページ)  

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さりはま書房徒然日誌2024年5月18日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十七日を読む

ー「風死す」を思わせる書き方ではー

一月二十七日は「私は境界だ」で始まる。目には見えない「境界」によって、あらゆるものを区切る……そうすることで浮かんでくる様々な存在が、わずか四ページの中におよそ41にわたって書かれている。
語を、短い文を連ねることで境界で区切られる姿をあらわそうとする書き方は、最後の長編小説「風死す」にもつながるのでは……と興味深く読んだ。
そして41は素数である。もしかしたら素数を森羅万象を律するリズムにして、まほろ町の様々な境界を描こうとされたのだろうか。

私は境界だ、

   言ってしまえば有象無象の集まりから成るまほろ町を
      入り組んだ線でもって複雑に区切っている
         けっして目には見えない境界だ。


分けつづけ

   分けずにはいられない私は

   生者と死者を
      死者と統治者を、

   肥立ちのいい赤ん坊を背負っていそいそと立ち働く若妻と

      嬌態のすっかり板に付いてしまった淫をひさぐ女を、

      堅忍不抜の精神で日夜勉学に勤しむ若者と
         家名を著しく落として悪友の下宿に転がりこんだ放蕩児を


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」74ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月17日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十六日を読む

ーありえないモノの視点で語るからこそー

一月二十六日は「私は忠告だ」で始まる。昼休みを利用して空の別荘で逢引きをしている町役場の職員たち。そんな二人に気がついた上司(世一の父親)が男を呼び出して与える「忠告」が語る。スキャンダルが大好きな田舎の住民の好奇心に晒されてもいいのか、自分も面白がっているのだから……などと忠告する。
「忠告」が情景を描写する……という有り得なさがなければ、こうした場面は安っぽい陳腐な場面になりがちではないだろうか……と以下引用文を写しながら思った。
もし作者が語るような形で「そんなことで色を着けるしかない人生」とか「男の干物になり下がっている」とか「面白くもなんともない仕事」と書いてしまえば、そこには反感が芽生えるかもしれない。だが「忠告」が語るという形だからこど、何となくアイロニーもユーモアも感じられるのではないだろうか。

目を伏せて頷く部下の肩にそっと手を置いて
   気持ちはわかると呟き
      そんなことで色を着けるしかない人生だものと言い、

      定年まで勤め上げて
         退職金や年金をもらう頃には
            いっさいの色恋沙汰と縁がない
               男の干物に成り下がっていると
                  きっぱり結論付けた。

そして
   いい歳をしたふたりは
      午後の面白くもなんともない仕事へと戻っていった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」73ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月16日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十五日を読む

ー散文ならではの魅力、詩歌と変わらなぬ魅力ー

一月二十五日は「私は氷原だ」と、「俘虜としてシベリアの厳冬を体験した男が 全面結氷したうたかた湖から激しく追走する めくるめく氷原」が語る。
以下引用文は、そんな元俘虜の男の目がとらえた現代社会だ。
この文を写しているうちに、散文の良さを教えてくれる文のような気がしてきた。


「跡目を継ぐことになった」という微妙な表現に、こうした制度への疑念やらが感じられてくる。
「隙あらば」「少しでもいい思いをしよう」という言葉から、現代社会を抜け目なく渡ってゆく黒い輩の姿が浮かんでくる。
「無知」「動物的な習性」という言い方に悲しき私たちの在り方を思う。

不可思議な制度を、ずる賢い連中たちを、哀れなる私たち自身を、まさに無駄のない的確な言葉の三連発でずばりと語った後にくるのは、「〈蟻の思想〉の扶植」である。
「〈蟻の思想〉の扶植」というよくは分からないながら、イメージをモコモコ自由に喚起させる不思議な語句が待ち受けている。無駄のない表現の後だから、この不可思議な言葉の結びつきが心に迫って、「自由にイメージせよ」と呼びかけてくる。
こうした構成に散文ならではの魅力を思う
またストーリーから離れて、読み手に発想を自由に委ねてくれる……そんな詩歌と変わらない魅力が本来なら散文、小説にはあるのだなあと思う。

跡目を継ぐことになった次の天皇を
   隙あらば象徴以上の地位に返り咲かせて
      少しでもいい思いをしようと企む輩は、
         国民の無知と強い者には訳もなく従うという動物的な習性に付け入って
            またしても〈蟻の思想〉の扶植に熱を入れ始めていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」67ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月15日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十四日を読む

ー与える者へー

一月二十四日は「私は縫いぐるみだ」で始まる。愛犬が老衰のせいで死んでしまった盲目の少女。彼女の哀しみを癒そうと与えられた犬の縫いぐるみが語る。
以下引用文。縫いぐるみは世一のことを「小癪な奴」だと思うが、次の瞬間には……。
不自由な筈の世一が、少女の心を本当に慰めることのできる「生きた本物の仔犬」を渡すのだ。
この世における世一の役割と存在が、弱く、憐れまれる者から、与えることのできる者へと変わる一瞬。その劇的な変換が、「少年は突然奪って 突然与え」という短い繰り返しに表されているようにも思った。

少年は突然奪って
   突然与え、

   つまり私は
      あっという間に彼の手に移ったかと思うと
         すぐさま今度は
            雪よりも白い
               生きた本物の仔犬が少女の手に渡ったのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」64ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月14日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十三日を読む

ー目にするものから物語が無限に生まれる!ー

一月二十三日は「私は無精髭だ」と「無精髭」が語る。
周囲にいる知らない人をそっと観察することから、小説は生まれてくる……丸山先生がそんなことを以前言われていたような気がする。

以下引用文からも、無精髭を生やしている人をそっと観察している丸山先生の様子が想像される。丸山先生の眼を通すと、街ですれ違う人の無精髭からもストーリーが無限に生まれてくるのだなあと思った。

彼はさかんに私を撫で回しながら
   うちなる何かとのべつ闘い、

   あるいは
      自分で自分を痛めつける言葉でも探していたのかもしれず、

      あるいはまた
         私を仮面の代わりにして
            まったく別の人間になろうとしていたのかもしれず、

            さもなければ
               おのれ自身を私のなかへ埋没させて

               完全に消し去ろうとしていたのだろうか。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」59ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年5月13日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十二日を読む

ー偏見は生まれたときからなのかー

一月二十二日は「私は手だ」と「乳児の 魂そのものよりも柔らかい手」が語る。
乳児の手を語る文にその形や動きを思い浮かべ、納得しつつ途中まで読む。
以下、「   」内はすべて丸山健二「千日の瑠璃2」より。

「たとえ天変地異に見舞われたとしても親を放すまいとする 
    凄い圧力を秘めた私」

「私自身の接し方は
    猫にも人間にも分け隔てがなく」

以下引用文。そんな乳児の手も、世一のことは忌み嫌う……と書かれたのは、なぜだろうか。
人間の心には、理不尽な偏見が生まれついたときから根付いている……そんな思いもあって、こうした文を入れたのだろうか?
そうだとしたら人間の心に生まれついた時から巣食う偏見に、世一は
どう向かい合っていくのだろうか?
今後の展開が楽しみになってくる。

しかし
   何事にも例外があり、

   勝手に頭がぐらぐら動いてしまうせいで脇見が普通になっている
      あの少年がそれで

      私が忌み嫌うそいつが
         今また無断で敷地内に入りこみ
            庭を横切って迫ってくる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」56ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月12日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十一日を読む

ー「暖炉」が象徴する様々なものー

一月十二日は「私は薪ストーヴだ」と、世一の姉が好きになったストーヴ作りの職人に注文して完成した薪ストーヴが語る。
世一の家へと向かう坂道を「古い毛布をあてがった製作者の背中に 登山用のロープでしっかりと括りつけられ」運ばれてゆく薪ストーヴの言葉を読んでいると、このストーヴが象徴しているのはゆらゆら揺れる炎さながら「世間一般の声」であり、「青年」「世一の姉」それぞれの愚かしく哀しいまでの生き方であるような気もしてきた。
以下引用文。薪ストーヴの声は世間の声にも思えてくる。

ついでに
   隙あらば彼の将来をも併せて押し潰そうと企み、

   あげくに
   「こんな女はやめておけ」と忠告し、

   それから
      「結局は前の女のときと同じことだぞ」と脅かしつけてやる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」51ページ)

以下引用文。青年が背負う薪ストーヴの重みは、これから背負うことになる世一の姉の重みでもある。

男はまったく動じず、

恐ろしく滑り易い急坂を一歩一歩着実に突き進む彼自身は
   再度の失敗をまったく想定しておらず、

   私のみならず
      すでに長いこと暗欝のなかに生きてきた
         ために
            その反動としての幸福に期待し過ぎる
               そんな女までをも背負うつもりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」52ページ)

以下引用文。世一の姉の青年への思いは、ストーヴの炎にうっとりと見とれる人のものでもある。

片や女はというと
   烟突のみならず      
      ふらつきながら自分の前を行く男の
         なんだか胡散臭い半生を
            ときめきに惑わされて
               まるごと抱えこもうとしている。

薪ストーヴというものに、様々な立場を反映させているようで面白く読んだ。それにしても薪ストーヴを背負って坂道を登るとはすごい。


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さりはま書房徒然日誌2024年5月11日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十日を読む

ー小難しい漢字が入ると文が老人めいてくるー

一月二十日は「私は老衰だ」で始まる。途中まで「老衰」が語る箇所は、「私は懸河の弁を揮って」の「懸河」とか、「後進を誘掖したのも」の「誘掖」など小難しい漢字が出てくる。
ちなみに日本国大辞典で調べれば
「懸河」(けんが)は「弁舌のよどみのないさまのたとえ」
「誘掖」(ゆうえき)は「みちびき助けること。補佐すること」だそうである。
いかにも老人らしい、気難しい表現が続いた後、世一のオオルリが「常に強い心組みで臨むべし」「そのひと言をもって瞑すべし!」と囀ると、老衰は素直な言葉で語り始め退散してしまう。
小難しい漢字を入れると、老人らしくなる……と思った。

鳥の言葉とは到底思えぬ
   気高い勢いに気圧され、

   生きる意味などとうとう得られなかった
      得ようともしなかった
         締まりのない生涯に
            今さらながら気づかされた私としては
               もはや早々に退散するしかなく

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」49ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年5月10日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十九日を読む

ー見方を変えれば「檻」の意味も変わってくるー

一月十九日は「私は檻だ」とまほろ町営動物園の「人間とそうでない物の領域をきっちりと分け隔てる 頑丈この上ない檻」が語る。
檻の中の麒麟の様子を語る文に、キリンの動作やキリンといる時間が思い出されてくる。たしかにキリンなんだけれど、自分ではこう書けないのはなぜなのだろうとも思う。

舞台女優並みの大仰な瞬きを物憂げにつづけて
   ふざけきった形の口をもごもごさせながら
   
   おのれの身の上を決して悲観せず
      時間を時間とも思わずに
         ゆったりとくつろいでいる。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」42ページ)

キリン専用の檻。キリンという動物以外には意味のない檻だし、普通の価値観で考えたら「檻」なんて鬱陶しいものである。その常識を突き破って檻に憧れる世一に、今まで抱いていた価値観がひっくり返される不思議さを感じる。

だが少年世一だけは
   キリンではなく
      この私のことを主役と認めて
         多大な関心を払ってくれ、

         それだけに留まらず
            一度でいいから私の中へ入ってみたいと
               そう真剣に願っているのだ。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」44ページ)

以下引用文。キリンの檻に入りそうになっている世一を見つけた飼育係は背後から抱き止めながら、こう語る。
飼育係にとって檻は檻だし、病の世一の体もまた檻なのである。
何を檻と見なすかで生き方や価値観も変わってくる……と、そっと教えてくれているような気がした。

「それでなくてもおまえは病気に閉じこめられているんだぞ!」と
    そう言ったあと
       「その檻から生きて出られんぞ!」と怒鳴る。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」45ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月9日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十八日を読む

ー書き手と読み手が共有できる色のイメージー

一月十八日は「私は敵意だ」で始まる。「鋼鉄製の反社会的な形状の扉」に向かってぶつけられようとした「敵意」が跳ね返され、そのまま置き去りにされたところで徘徊中の世一と出会う。

以下二つの引用文。色の使い方が印象に残る。意外と色は人によって喚起されるイメージが違うもの……と短歌をつくっていて思うようになった。
でもオオルリの羽のイメージと世一のピュアな心を表しているだろう「青々とした印象の少年」にしても、簡単に「白い」とは言わずに「雪と同じ色の吐息」と表現される白にしても、色からイメージを喚起しつつ、作者の思い描くイメージと読者の描くイメージにズレがないなあと思った。

ところが
   その青々とした印象の少年は付け入る隙がまるでなく
胸のうちに潜りこめる余地もなく、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」41ページ)

だが憐れな病児は
   雪と同じ色の息を吐き散らしながら
      手と足をもつれさせるだけもつれさせ
         却って寂しさを募らせるばかりの街灯を縫って進み、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」41ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年5月8日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十七日を読む

ーありふれた風景を変えてしまう力ー

一月十七日は「私は桟橋だ」で始まる。昨日の「十字路」もよかったが、この箇所も好きな箇所である。私はありふれた日常風景に詩情を感じ、別の意味を感じる心が気になるらしい。
以下引用文も、場面としては湖に突き出た桟橋で不自由な世一が遊んでいる……ただ、それだけの場面である。
だが、そんな風景に次元を超えた世界への憧れを込める作者の視点が好きである。

うたかた湖の南側の岸辺から北の沖へ向かって
   もしかすると来世へと繋がっているかもしれぬ
      是非そうあってほしい
         不必要なまでに長い桟橋だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」34ページ)

以下引用文。桟橋にいる世一はもう不自由な少年ではなく、妖精のように自然と語り戯れる存在である。そんな風に視点を変える力が「千日の瑠璃」の魅力のようにも思う。

危なっかしい足取りで突端まで進み出て
   陶酔の面持ちを深め
      今現在を吹く風の精髄を全身でしっかりと感知し、

      物怖じせずに

         一部の隙もない自説を得々と述べる波音に
            そっと耳を傾ける。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」35ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月7日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十六日を読む

ーありふれた空間が意味をもってくる不思議さー

一月十六日は「私は十字路だ」とまほろ町の中心部にある「なんの取り柄もない 平々凡々たる十字路」が語る。
以下引用文。平凡な道ではあっても、十字路とは思いがけない者同士が出会う不思議な空間であることに気がつく。
現実には、十字路で世一と丸山先生を思わせる作家がばったり出会った……ただ、それだけの場面である。
その風景を散文にすると、こんなふうに意味を持たせ、別の時が流れているように書けるのかと思った。

そんななか
   霧の海を泳ぐようにして
      北の方角から忽然と現れたのは
         あの少年世一で、

         時を同じくして
            南の方から
               黒いむく犬を連れた
                  よんどころない事情で小説家になった
                     いかにも我の強そうな男がやってくる。


そして
   西の通りから〈肯定〉が悠然と近づき
      東の通りから物知り顔の〈否定〉が悠然と迫り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」31ページ)  

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さりはま書房徒然日誌2024年5月6日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十五日を読む

ー人ではない存在「橇」が語れば子供の遊びもこう見えてくるー

一月十五日は「私は橇だ」と「少年世一を乗せて」走る「安っぽいプラスチック製の橇」が語る。
以下引用文。世一を「この際思いきって変えてしまおう」と橇は思いたつ。
実際には橇に世一がはしゃいでいる場面かと思うが、人間ならざる存在「橇」の視点に寄せて語れば、不自由な筈の世一が超人のように思えてくる。
それは「生きる者に変え」という畳みかけるリズムの繰り返し、
漢字の多い行頭からその漢字のイメージから離れた言葉で行末を終える意外な展開の続き(例「惻隠の情」と「蹴散らす」)
「俯瞰できる者」から「鳥に近づけ」というように上昇してゆくイメージを膨らませているせいなのだろうか。

競争激甚の世をすばしこく生きる者に変え
   降りかかる災難を事前に察知する者に変え
      惻隠の情を蹴散らす者に変え、

      はたまた
         徒手空拳で生きる者に変え
            社会の安寧を乱す者に変え
               まほろ町を俯瞰できる者に変える。

そして世一は
   速度が増すにつれて
      その存在をどこまでも鳥に近づけ、

      私がちょっとした瘤に乗り上げて宙を飛ぶ一瞬などは

         完全に鳥の目で世間を眺めており、

 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」26ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年5月5日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十一日を読む

ー目には見えない幸運が伝わってくるー

一月十三日は「私は幸運だ」で始まる。
「愚鈍そのものの顔つきの これまで良いことも悪いこともしてこなかった高校生が 生まれて初めて自分の小遣いで買った しかもたった一枚の宝くじ」が、「百万の桁を超えていない」金額で当たった……という幸運が語る。
以下引用文。宝くじが当たった高校生へのまほろ町の人々の反応を、「温かい牛乳のように」と物に即して書いたり、金額も「百万を超えていない」と具体的に書くことで、だんだんその目には見えない幸運が伝わってくるようなところがある。

程良い金額は
   私を健全な形で保ってくれ、

   いくら生きても何ひとつとしていいことがない者たちを
      落胆させることもなく、
         温かい牛乳のように
            かれらの胃袋にすんなりと納まった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」19ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年5月4日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十二日を読む

ー丸山先生が「土蔵」に込めた思いとはー

一月十二日は「私は土蔵だ」と始まり、農家の土蔵が語る。江戸川乱歩とか坪内逍遥とか土蔵を書庫代わりに使い、まだその土蔵が残っている作家もいる。でも丸山先生の場合、土蔵はあくまで生活の風景の一部のようである。たしかオンラインサロンで幼いとき土蔵に暮らしたことがある……などと語っていらしたような記憶もある。
以下引用文の土蔵の描写に、丸山先生の記憶にある土蔵の役割が浮かんでくる。そんな土蔵を見捨ててゆく夫婦の様子も細かいことは書かないながら、収穫したばかりの米を炊いて食べ、蔵の古米を売り……という文に、大変な稲作を愛すれどどうにもならない現状が伝わってくる。

でたらめに過ぎる農政にとことん失望し
   先行きに絶望してまほろ町を離れた農家の
      まだまだ充分使用に耐える
         古びた分だけ風情を醸す土蔵だ。

昨年の暮れ

   老夫婦は秋に収穫したばかりの米を炊いて食べてから
      私が貯蔵していた古米の果てまで売り飛ばし
         先祖伝来の田畑を見捨て、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」14ページ)

以下引用文。そんな家からとうに家を飛び出していた五男が戻ってくる。母屋には目もくれないで、ただ土蔵だけを見つめる……のはなぜなのだろう。
丸山先生が「ただひたすら私のみを見つめた」とだけ書いてある、その背後にある物語を考えてしまう箇所である。書かずして物語を語る……ということもできるのだなと思った。

身ひとつでこっそり帰郷した彼は
   誰もいない母屋にも
      荒れ果てた耕作地にも
         立ち枯れた果樹にも
            四方を囲むカラマツの凄まじい成長にも

               さして驚かず、

                       そんな代物には目もくれないで
ただ私のみを見つめた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」15ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月3日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十一日を読む

ー一つの文に過去から現在、恍惚から恐怖がすっきりおさまっている!ー

一月十一日は「私は秘密だ」で始まる。役場の休憩時間と冬の別荘を利用して逢瀬を重ねる男女の「秘密」が語る。

以下引用文。逢瀬を終えて役場に戻ろうとした二人は、思いもよらず上司の車に遭遇する。

「串刺しにされ」という言葉から緊張感と恐怖が迫ってくる。
「両人の一抹の寂しさが付き纏う粋事がみるみる恐怖に染まり」は、一つの短い文の中に過去から現在、恍惚から恐怖が描かれていて見事だなと思った。
「秘密」自らが、「かくして私は 隠れもない事実と相なり」と変化を語る箇所も、そんなことはありえない筈なのに納得させる不思議な言葉の運びがある。

残念ながら手遅れで
   思わぬ相手の視線に串刺しにされ
      両人の一抹の寂しさが付き纏う粋事がみるみる恐怖に染まり、

かくして私は
         隠れもない事実と相なり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」12ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月2日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十日を読む

ー「洗濯物」とやり取りする少年の自由な心ー

一月十日は「私は洗濯物だ」で始まる。
以下引用文。冬の寒さが厳しい信濃大町にずっと住んでいる丸山先生らしい、実体験あふれる描写だと思う。

マイナス6度の風に吹き晒されたことで
   がちがちに凍りつき、

   却って生々しい形状になってしまった
      丘の上の洗濯物だ。

(丸山健二「千日の瑠璃」6ページ)

以下引用文。「洗濯物」と不自由なところのある世一が交わすやり取りである。
互いに相手の特徴を鋭く突きながらも、お互いに負けずに言い返しているところが何ともユーモラスである。そして洗濯物を相手に自由にやり取りする世一の心がひたすら羨ましくなってくる。

ときおり彼は
   ごわごわに固まっている私を見ながら
      少しは動いたらどうかとという意味のことを言い、

      そこで私は
         少しはじっとしていたらどうかと言い返し、


         病児はなおも食い下がって
            動かない奴は死んだ奴だななどと宣い、

            こっちも引き下がらずに
               動き過ぎる奴も生きているとは言いがたいと
                  そう決めつけてやった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」8ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月1日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月九日を読む

ー対照的な二つの死ー

「千日の瑠璃」は各話を書き上げたあと、其々の話をどう並べていくか床一面に原稿を広げながら考えた……そんな話をオンラインサロンで丸山先生から伺ったような記憶がある。
天皇の死の後に来るのは、盲目の少女が可愛がって飼っていた黄色い老犬の死である。形ばかり大袈裟な死の儀式、愛犬の死に衝撃を受ける少女……この対比が印象的な配置である。
一月九日は「私は食器だ」と老犬のステンレスの食器が語る。老犬が食器に託した飼い主の少女を思いやるメッセージ、食器を手にする少年世一……ちっぽけな犬用食器に老犬が込めた真心が、不自由な少年にも伝わってゆく。そんな様子が前日の形式的なことに終始する死とは対照的である。

にもかかわらず
   老犬が最後の力を振り絞り
      舌を使って私に記した
この子をどうかよろしくという意味の意志は消えず、

         私を拾い上げてくれた少年の心にも
            正しく伝わり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」5ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月30日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月八日を読む

ーこの一日を記憶している人達の存在ー

一月八日は「私はテレビだ」で始まる。そう言えば、この日のテレビ番組はどれも同じような番組だったのか……。
私はこの日付すら「千日の瑠璃」を読むまで完全に忘れていた。
でも丸山先生と同じように鮮明に一月八日のことを覚えている人から感想をいただいたりした。
この一月八日という日に「なぜ?」という思いを抱え、テレビを、国旗を睨みつけていた人は、丸山先生以外にもしっかりといる……という事実に、あらためて「千日の瑠璃」を読む意義を思う。

天皇の老死がすべてのチャンネルを占領してしまったせいで
   少年世一の家族に愛想尽かしをされた
      とうに買い替えの時期を過ぎていながら
         丘の上の家だからこそ映りのいいテレビだ。

どの局でも
   この日を予期して

      予め用意しておいた特別番組をだらだらと流し、

      間違っても事の核心に触れるような際どい言葉を吐かない
         安全で無難な文化人をスタジオに招き、

         死以上のものと化したそのありふれた死に対して

            元々在りもしない威厳を持たせるための
               露骨で滑稽な装飾的なコメントを

                  延々と並べている。

(丸山健二「千日の瑠璃」398ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月29日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月七日を読む

ー旗を睨む作者の姿が見えてくるー

一月七日は「私は国旗だ」と国旗が、しかも「旗竿の先端に黒いリボンを結んで弔意を表し」ている国旗が語る。
「千日の瑠璃」は、ある年を選び、曜日も実際の通りにしているそうである。

突然、弔意をあらわす国旗をあげることになった一月七日。その日にちにしても事実のままである。その日、国旗をあげることになったのはまほろ町だけでなく、日本中の至る所であげられたことだろう。


国旗をめぐる人々の反応の書かれ方も様々で面白い。「朝食も食べず」に家を飛び出して「作法通りに」旗をあげた役場の男。国旗の上げ方に作法なんてあるとは。知らなかった。


「人間ひとりが高齢のせいで寿命が尽きたという それだけのことではないか」と疑問をぶつける若者。


以下引用文。そんな一月七日の様子を見て、丸山先生の耳には国旗がこう語りかけているように本当に思えたのかもしれない。

道行く普通の人々に
   いつの時代であってもおとなしく従ってしまう国民に
      あるいは
         戦争責任を鋭く難詰することなど
            まずもって不可能な連中に対して、

            「謹んで哀悼の意を表せ!」と
                声高に叫んでやった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結」396ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月28日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月六日を読む

ーちっぽけなものを語りながら、大きな存在を忘れない視点にポエジーを感じるー

一月六日は「私は惑星だ」で始まる。「千日の瑠璃」の中でも一段と丸山作品の魅力が表れている箇所だと思う。
ものすごく小さくて猥雑な存在のまほろ町と対をなす「飽くことなく自転と公転をくり返す 水と罪の惑星だ」という大きな存在。小さなものを語りつつ、包み込む大なる存在を決して忘れることがない……という点が丸山文学の魅力の一つだと思う。大小のコントラストとが詩的なイメージを感じさせてくれる。

でこぼこした岩石の表面に
   みずからを省察できないまほろ町を載せて
      飽くことなく自転と公転をくり返す
         水と罪の惑星だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」390ページ)

以下引用文。そんな岩石惑星・地球が世一に語りかける言葉にもやはり同じような魅力がある。
さらに「回る」を繰り返すことで、恒星の動きから世一の駆け回る様子まで同一線上にある動きとして感じられてくる。たとえ片方は分子レベルの動きで、もう片方は星々の回転だとしてもだ。

私が輝ける恒星の周りを回るように
   おまえはきらめく青い鳥を巡って存分に回るがいい、

   私が回れなくなるまで回るように
   おまえもまた回ることができなくなるまで回りつづけるがいい。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」392ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年4月27日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月五日を読む

ー小さなホオジロの死に寄せる思いー

一月五日は「私はホオジロだ」で始まる。季節外れの大雪に見舞われて逃げ場を失ったホオジロが語る。

以下引用文。窓越しに世一に飼われているオオルリの「自然界にはない堕落の餌をついばみ」「夏場の華やかなさえずり」をばら撒いている姿を見ながら、寒さに死んでゆくホオジロの姿と思いを描いている。
自然界の小さな死の尊厳を見つめる丸山先生らしい視線を感じる文である。同時に凍死しようとも野鳥としての自分らしさを保とうとするホオジロに理想を感じているようにも思えてくる。

自分は野鳥としての職務を忠実に果たしてきたのだと
   そうおのれに言い聞かせることで
      死を受け容れようと務め、

そして
   いよいよその段が訪れそうになったとき
      ぬくぬくした生活を送っている青い鳥に
         「それでもおれの方がましだぞ」と
             窓越しに言ってやったが
                まったく通じなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」389ページ) 

 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月26日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月四日を読む

ー厳しい世だから世一の世界を心に抱いてー

一月四日は「私は自動販売機だ」で始まる。あやまち川沿いの街道に立つカップラーメンの自動販売機らしい。
以下引用文。自動販売機が語る馴染みの客・世一の姿は、丸山先生が時々エッセイで語るペットのタイハクオウム、バロン君の「現在という概念しかない」というような言葉で表現されていた姿を思わせる。「時間の概念やら明日の予定やらとはいっさい無縁」という在り方が、丸山先生が理想とされる、でも現実には中々厳しい生き方なのではないだろうか。
でも厳しくなるばかりの世だからこそ、心に世一を住まわせ、ダイハクオウムのバロンくんを思い描いて生きていきたいものである。

かかるところへ
   時間の観念やら明日の予定やらとはいっさい無縁な
      かの少年世一が忽然と現れた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」382ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月25日

丸山健二「千日の瑠璃」十月二十四日を終結版、ネット版で読み比べる

ーネット版では世一の存在感がアップしている気がするー

「千日の瑠璃」は最初1992年に刊行。
2021年に丸山先生がご自分で立ち上げたいぬわし書房からかなり書き改めた形で「終結」として文庫で刊行。
今回ネットバージョンにさらに書き直されnoteで有料公開されている。note版は横書きになったというだけではない。「終結」版と比べながら読むと、丸山先生が書き直した箇所には文を深く、立体的にするコツが詰まっているように思う。

十月二十四日「私はハングライダーだ」で始まる箇所から一部分を見比べてみる。
以下引用文。ハングライダーがいくら憧れたところで鳥にはなれない現実を世一に言い聞かせた後に続く文である。
どちらも同じ箇所だが、背景が緑の箇所は終結版である。

ところが
   私から離れようとしない羨望の塊は
      まったく耳を貸さない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結」96ページ)

以下、背景が水色の箇所は一番新しいネット版である。

ところが
そんな私から離れようとしない羨望に彩られた純なる魂は聞く耳を持たないのです。


丸山健二「千日の瑠璃 ネット版」

世一という体も頭も不自由なところはありながら不思議な魅力をもつ少年を語るのに、「羨望の塊」とだけ語るより、「羨望に彩られた純なる魂」とした方が、世一の魅力がアップする感がある。
さらに「まったく耳を貸さない」だと確かに老人が「耳を貸さない」イメージとも重なってしまうが、「聞く耳を持たないのです」だと子供らしさが出てくる気がする。
いぬわし文庫版、ネット版と見比べて読み、変更のあった箇所を考えてみれば、日本語を深くするコツが少し見えてくる気がする。

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さりはま書房徒然日誌2024年4月21日

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月三日を読む

ーわずかな文字数で様々な思い、現在、過去、未来を語るのは散文だからなんだろうか?ー

一月三日は「私は凧だ」で始まる。
「千日の瑠璃」は一日ごとに語り手が順々に変わるが、一日がおそらく640字程度で書かれいるのだろうか(正確に数えた訳ではなく、おおよその目算である)。短歌にすれば二十首ほどになる。


一月三日も他の日と同じようにわずか4ページで語られてゆく。

そこで語られるのは凧の思い、世一、世一の飼うオオルリの囀りが跳ね返す平凡な日常、出所した世一の伯父の獄の日々と現在と未来である。

散文と短歌それぞれの魅力があるとは思うけれど、短歌二十首でこれほど語ることは、一人称視点や五七五七七の縛りがあるから、私には難しい気がする。そういう縛りがあるから短歌は面白くもあるのだが。
わずかな文字数でここまで語ることが出来るのは、そうした縛りがない散文ならではの強み……のような気もする。
とにかく、よくぞこれだけ短い文字数で語るもの……と感心する。

以下引用文。様々な想いを語ったあと、凧は世一によって爪切りで糸を切られ、空へ飛んでいく。

色々語った後で、世一が点のように見える終わり方が映画のようでもあって印象に残る。

ほとんど理想的な風を絶え間なく受けて
   心憎いほど巧みな造化と天工の中心へ向かって
      測り知れぬ自負を背負ったまま
         私は高々と舞い上がってゆき、

         今や世一は
            取るに足らない点の存在だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」381ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年4月20日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー繰り返される「世一の」に込められた思いー

一月二日は「私は酒だ」で始まる。「昨晩からずっと私だけを相手にしてきた世一の父は」と正月らしい、朝から晩まで飲んでいる風景が書かれている。
以下引用文。世一の母と姉が火鉢で餅を焼いて弟に食べさせている風景である。
繰り返しを嫌う丸山先生が、一月二日のページでは「世一の父」「世一の母」「世一の姉」というように「世一の」を反復しているのは何故なのだろうか?
どんな思いを込めて「世一の」を繰り返しているのだろうか?
世一という重しを背負って生きていく彼らは、世間一般の父、母、姉とは異なる苦しみ、優しさがあるという思いを込めて「世一の」を繰り返しているのかもしれない。

世一の母は火鉢を使って餅を焼き
   世一の姉は焼き上がった餅を細かく千切って弟の喉を通り易くしてやり
      世一はその餅をせっせと口へ放りこんでいた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」375ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月19日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー門松と段ボール箱にイメージを重ねて語る面白さー

一月一日は「私は門松だ」で始まる。銀行に飾られたものの、「天皇が老衰で死にかけている」ために、撤去されてゴミ捨て場に追いやられた門松が語る。

世の中も「先の戦争について言い渋る気配が濃厚に」なっていく中、門松はゴミ捨て場の段ボール箱たちにこう怒りをぶちまける。
段ボールにこの国の戦後の人々を重ねているような視点が面白くもあり、痛くもある。

しかし
   製造されたときから身の程を弁え過ぎるくらい弁えている
      見ているだけで腹が立つほど従順なかれらは
         皆黙りこくって
            消耗品としての身の上を甘受していた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」371ページ) 

以下引用文。門松も同様に人々の上に立つ「象徴」を象徴する存在かと面白く思った。ゴミ捨て場の門松と段ボール箱に、戦後日本社会の象徴と人々を思い描く視点は、丸山先生ならではと思う。

自分はこれからも生きてゆかなければならぬ人々を祝うための
   象徴的な存在であり、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」372ページ)

以下引用文。象徴である存在にも臆することなく、元の場所に戻してやる世一の行為を描くことで、不自由である筈の世一が象徴より上の存在に思えてくる。「遠い春の方向へゆらゆらと立ち去った」という文が、世一の不思議な存在を強調しているようでもある。

だがそいつは
   震える手をいきなり差し伸べ
      私を抱くようにして銀行の正面玄関へと運び
         元通りの位置に置き直してから
            まだ遠い春の方向へゆらゆらと立ち去った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」373ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月18日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー丸山先生の世界とも重なる風景ー

十二月三十一日は「私は鐘だ」で始まる。無人の古寺にある全自動式の鐘が鐘が語る。
ありがたみの無さにまほろ町の人から馬鹿にされている鐘の音でも、世一とオオルリは聞き惚れる。そんな彼らに申し訳なく思った鐘が、百九番目の音をおまけして盛大に放つ。

以下引用文。そんな百九番目の音に対する世一とオオルリの反応を語る言葉が興味深い。「元々数というものに頓着しない少年と小鳥」に、この二者の不思議な魅力ある世界が語られているように思う。

先日、丸山先生がnoteに書かれていたエッセイにも「俗に言われるところの〈天然の性格〉、幸いにもそれを見事に備えた妻と、現在という時間の観念しか持っていないタイハクオウムのバロン君こそが頼みの綱なのです。」という一節があった。
世一とオオルリのこんな世界にも近い風景に思え、ほのぼのとしたものを感じてしまった。

世一とオオルリに自分の世界を重ねた丸山先生の心境なのかもしれない……とも思う

されど
   元々数というものに頓着しない少年と小鳥に
      私の意図を推し量ることなど到底できず、

      そんな彼らに発生した純なる感激は
         そっくりそのまま次なる年へと静かに持ち越されてゆき
            願わくば
               より幸福ならんと祈るばかりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」369ページ)

丸山先生のnote記事へのリンク 

https://note.com/maruyama_kenji/n/n981e053fe5c4


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さりはま書房徒然日誌2024年4月17日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー説明のない「書きかけの手紙」「食べかけのミカン」が物語を語るー

十二月三十日「私は隙間風だ」で始まる。まほろ町に駆け落ちしてきた二人(オオルリのバッジをセーターにつけた二人)が借りたあばら家に吹く風である。
以下引用文。そんな二人の生活が立ち現れるような、文である。どこ宛とは書いていないだけに、「書きかけの手紙」が一層気になってくる。親を説得する手紙なのだろうか。
「根拠なき希望がぎっしりと詰まった部屋」で普段の二人の会話が見えてくるようである。
「食べかけのミカン」の存在も、「根拠なき希望」と重なって思えてくる。

食べかけのミカンと
   書きかけの手紙のあいだを擦り抜けつつ
      根拠なき希望がぎっしりと詰まった部屋を
         でたらめに走り抜ける。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」364ページ) 

以下引用文。不自由な世一の動きをかくも美しく、この世にある存在の重さを伝えてくれる文だと思った。

そして
   累積する矛盾で成り立っているかのような
      夢幻的な歩行でさまよう少年に纏わりつき


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」365ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月16日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー塩分を嫌う丸山先生らしい文ー

十二月二十九日は「私は新巻き鮭だ」で始まる。湖畔の別荘で暮らす元大学教授のもとに届いた新巻き鮭が語る。
以下引用文。最初は庭先に吊るして楽しんでいた元教授だが、世一の姿に健康への執着が強まり、新巻き鮭は人に送ってしまう。
健康には人一倍気を遣い、塩分は「人類最初の麻薬」とまで言い切る丸山先生らしい反応だと思う。もしかしたら、ご自身の体験なのだろうか。
「通りがかるや」のあとで「突如として」と語を持ってきているおかげで、文が立体的に見える気がする。
「まだまだ死にたくはない」「せめてあと十年は生きたい」の箇所は、ひらがなの多い表記のせいか「 」がなくても、老人の声のように思えてくる。

つまり
   森と湖に挟まれた小道を
      意思に反して動いてしまう奇妙な体を持つ少年が通りがかるや
         かれらは突如として病の恐怖を思い出し、

         自分たちの健康を気遣って
            塩分の摂り過ぎがどうのこうのと言い出した。


まだまだ死にたくはない
   せめてあと十年は生きたい
      十年後には食べたくても食べられない体になっている
         こうした物はこれまでにもたくさん食べてきた、


         そんな会話がやり取りされるなか

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」360ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月15日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー小さな存在に向ける視線の優しさ、「鳴く」の繰り返し効果ー

十二月二十八日は「私はコオロギだ」で始まる。

「風呂場の予熱に頼って 少しでも長く生き延びようと頑張る ぼろぼろのコオロギ」と、刑務所を出所してきて背中に緋鯉の刺青がある男が五右衛門風呂に入るひとときを語っている。

コオロギ、それから刑務所から出てきた男……という世間から見られることのない存在に、あたたかい視線をそそいで語るところも、丸山文学の魅力だと思う。


以下引用文。そんなボロボロのこおろぎの思いを語りながら、小さな生き物でも自然界の一員である……そんな思いが伝わってくる。


同じ言葉の繰り返しを嫌う丸山先生にしては珍しく「鳴く」を繰り返している。そのせいでコオロギの鳴く声が聞こえてくる気がする。

私はただ漠然と命の糸を紡いでいるだけでなく
   消えがたい印象を残そうと常に心掛けながら
      我ながら健気に生きる自身のために鳴き
         大地に縦横に走るさまざまな命の形跡のために鳴き、
            終末なき世界であることをひたすら祈って鳴き、


            そして
                毎晩のように長湯をする
                   この家の主人を励ますために鳴く。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」354ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月14日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー平凡な人間への慈しみ、「暦」と「カレンダー」のイメージの違いー

十二月二十七日は「私は暦だ」で始まる。
カレンダーではなく、暦なんだろうか……と思ったけれど、以下引用文を読んだら、やはりカレンダーではなく、暦のイメージなのかもしれないと納得する。

「暦」という言葉になぜか付きまとう地味さは何なのだろう?田舎町まほろ町のイメージに合うのは、やはり「暦」なのだ。

まほろ町の宣伝のために
   役場が少ない予算をやり繰りして作り
      関係先のあちこちに配ったものの
         評判がさほど芳しくない暦だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」350ページ)

以下引用文。役場の中間管理職である世一の父親が、役場からもらってきた暦を見る様子……希望も予定もなく、そのことに不満があるわけでもなく、平凡な人間の生活とはこういうことなのだろうと思う。
どこかユーモラスな父親の姿に、平凡であることへの慈しみの視線を感じる。

だからといって
   来年の予定を立てるためでも
      漠とした希望を胸に年を越すためでも
         歳月の虚しさを改めて噛みしめるためでもなく、


         彼のどんぐり眼は
            私の三分の二を占めている
               郷土出身の演歌歌手に注がれているのだ。


 (丸山健二「千日の瑠璃 終結1」351ページ)

それにしても「暦」と「カレンダー」では、どこか違うのだろうか……と日本国語大辞典を調べてみた。
以下引用文は、日本国語大辞典より「暦」の説明。例文は省略したが、日本書紀720年から1862年までの例文が載っていた。昔から使われ、でも近代ではあまり頻繁に見かけなくなった語なのかもしれない。

時の流れを、一日を単位として年・月・週などによって区切り、数えるようにした体系。また、それを記載したもの。昼夜の交替による日の観念から出発し、月・太陽の運行と季節感との関係などに注目して発達した。太陰暦・太陰太陽暦・太陽暦などに分けられる。現在用いられているのはグレゴリオ暦。なお、現在日常用いられる暦表には、月ごとに曜日と対照させたものや、日めくりの類がある。

以下引用文は「カレンダー」について日本国語辞典より説明と引用文。説明もあっさりしている。例文を見てみると、暦にカレンダーとルビがふってあり、暦と比べるとお洒落な印象のある言葉なのだろうか……と思う。

暦(こよみ)。特に、一年間の月日、曜日、祝祭日などを、日を追って記載したもの。鑑賞用の絵、写真が添えられていることが多い。
*社会百面相〔1902〕〈内田魯庵〉女学者・下「外国製の美くしい暦(カレンダー)」
*嘲る〔1926〕〈平林たい子〉七「小山は、カレンダーを一枚はいだ。三十一日は青紙だった」

田舎町まほろ町で配られるのは、どこか昔風の響きのある「暦」がいいのかもしれないと思った。

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さりはま書房徒然日誌2024年4月13日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「千日の瑠璃」終結とネットバージョン、其々の魅力ー

先日、丸山先生が主宰されている「いぬわし書房」から、「千日の瑠璃 終結」を更に書き改めた「千日の瑠璃 ネットバージョン」が十日分公開された。今回は無料だそうである。

現在私が読んでいる「終結」とはパッと見ただけでも違うところが多々ある。

ネットバージョンはまず横書きである。左揃えである。そして終結の「〜だ」調から「〜です」へ変化している。
そのせいかイメージがガラリと変わっている。
私が思うに「〜だ」調だと、語り手の物たちに人の意思が反映されているように感じる。
これが「〜です」調になると、意思が排除され、より物が語る世界めいてきて、幻想味が強くなる気がする。
どちらの語り方にも、それぞれの魅力があるように思う。

さらに「終結」と「ネットバージョン」を比べると、言い回しを書き直されている箇所が無限にある。「終結」の文からネットバージョンの書き直しをされている箇所は、普通なら気がつかないで通り過ぎてしまう表現である。
でも、ここで立ちどまって、丸山先生が書き直した箇所を見てみると、言い回しを変えることで文の生命力がさらにアップしていることに気がつく。

一日め「私は風だ」(終結)、「私は風です」(ネットバージョン)で始まる双方の文を見比べてみる。

以下引用文は紙版の「終結」から。

気紛れ一辺倒の私としては
   きょうもまた日がな一日
      さながらこの渾沌とした世界のように
         大した意味もなく
            岸辺に沿ってひたすらぐるぐると回るつもりだった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結」2ページ)

以下引用文は「千日の瑠璃 ネットバージョン」から。

気紛れ一辺倒の私としましては
きょうもまた日がな一日
さながら混沌に支配されたこの世界よろしく
特にこれといった意味もなく
曲がりくねった岸辺に沿ってひたすらぐるぐると回るつもりでした。


(丸山健二「千日の瑠璃 ネットバージョン」)

「混沌に支配されたこの世界よろしく」の方が文が生き生きと、「岸辺」だけよりも「曲がりくねった岸辺」の方が、読み手も勝手にだけど岸辺の形を想像して遊べていいな……と思った。

以下が公開中の「千日の瑠璃 ネットバージョン」のアドレス。
「終結」を片手に読み比べると、小さなこだわりで文章が生き生きしてくる変化を味わってみるのも楽しいと思う。

https://note.com/maruyama_kenji/n/n5c99aff8edb3

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さりはま書房徒然日誌2024年4月12日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーイメージを排除することでオオルリの青が鮮やかになるー

十二月二十六日は「私は青だ」で始まる。
以下引用文。きっぱりと「青」とだけ言い切って、他のイメージは一切否定する潔さが、青のイメージを際立たせる。そうして凝縮した「青」が、世一の視点で「瑠璃色」「オオルリの羽の色」と変化して、読んでいる者も世一の心をいつしか楽しんでいる。

水色でも空色でもなく
   悲しみの色でもない、

   青いから青としか言いようがない
      青の世界に確然と存在する
         紛うことなき青だ。

しかし少年世一は
   そんな私のことを瑠璃色と決めつけ
      オオルリの羽の色そっくりだと信じきっていて、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」346ページ)

以下引用文。世一は「青」のセーターを編み始めた姉に、もう一色入れるようにせがむ。ここでも「雪の白でも 死の白でもない」とイメージを否定することで、世一が見つめる白が読む者の心に再生される気がする。

そして
   オオルリの腹部を占めている白を、

   雪の白でも
      死の白でもない、

      ひとえに私に添えて
         引き立たせるための白を
            色見本として見せ、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」347ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年4月11日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーユーモラスのあとの悲哀だから心に沁みるー

十二月二十五日は「私はケーキだ」で始まる。半額にしても買い手のつかないクリスマスケーキが語る。

以下引用文。ケーキに「私の寿命をあと一時間と区切り」「あっという間に五十九分が過ぎ去り」と語らせるところにユーモラスなものを感じる。

さらにクリスマスケーキが見たケーキ屋の主人も「死刑執行人のぼってりした手」と何ともユーモラスに語られている。

世一に売れ残りのケーキをやろうとラッピングまでしたところで、やはり思い留まってゴミ箱に捨ててしまう。

そのあとで店を訪れた世一と母親が、高いケーキを見て買わずに帰る遣る瀬なさ。
ユーモラスな場面の後なので、その悲哀がじわじわ沁みてくる感じがある。

菓子屋の主人はさんざん舌打ちをしてから
   私の寿命をあと一時間と区切り、

   すると
      あっという間に五十九分が過ぎ去り、


      とうとうガラスケースが開けられて
         死刑執行人のぼってりした手がみるみるこっちへ伸びてきて、

         あわやというときに
            糸のように細い彼の目が
               ショーウィンドーの向こうを行く
                  青い帽子をかぶった少年の姿を捉えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」342ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月10日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー作者の理想像にも思えるストーヴつくりの青年ー

十二月二十四日は「私は口実だ」で始まる。
世一の姉が一方的に好意を抱くストーヴつくりの青年。姉がその青年に近づくための「口実」である。ストーヴつくりに没頭する青年の背後から、注文したい旨を伝えるが気がついてもらえず……。

以下引用文は、その後の展開である。高倉健が演じたら決まりそうな場面だと思いつつ読む。もしかしたらストーヴつくりに浸る青年は、丸山先生の理想とする姿なのかもしれない。
ガスバーナーの炎の動きは、たしかに「火花が織り成す抽象模様の次元」という描写がしっくりくると、思いもよらない表現に感心する。

しばらくして気を取り直した彼女は
   いつでもかまわないと言い
      気長に待つと言ってから
         相手の正面に回りこんで名乗ろうとしたとき、

         男は「わかった」とひと言呟いて
            ふたたび炎の色を青に戻し、

            火花が織り成す抽象模様の次元へ没入して
               二度と客に注意を向けななかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」341ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月9日

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ーひとつの作品の中に百面相のように作家の様々な顔が見えるー

十二月二十三日は「私は誕生日だ」で始まる。この日は実際、丸山先生自身の誕生日でもあるところに、なんとも微笑ましいものを感じる。
「色褪せてしまった 売れない小説家の誕生日だ」などと書いてはいるが。

丸山先生の生活を思わせる「まだ夜が開けきらぬうちに目を覚まし」「午前中いっぱい書きつづけ」「普段と変わらぬ質素な献立」「スクーターに真っ黒いむく犬を乗せ」という言葉が散りばめられているのも楽しい。

以下引用文。
己を無視して、普段通りの執筆を続ける作家に腹をたてた誕生日が発する言葉である。また、これは作家の内心にひっそり巣食う思いのような気もする。
一歩距離をおいて自身の心、妻の反応をユーモラスに書くこの世界は、現在丸山先生がnoteに執筆されているエッセイとも共通する部分があるように思う。
ここではなんとも言えない、書いているのが楽しくて仕方ないという想いが漂ってくる。
楽しんだり、悲しんだり、怒ったり……ひとつの作品の中でも、作家が見せる顔は様々……どれが本当の顔なのだろうか。

取り残されたというか
   置いてきぼりを食らってしまった私は
      遠ざかって行く彼の背中に向かって
         「それがどうしたあ!」と怒鳴ってやり

ついで
            真実や真理を知ったところで
               何がどうなるものではないだろうと
                  そんなことをわめき散らし、

                  すると彼の妻に
                     「もっと言ってやって!」と
                         炊きつけられてしまい、

              
                         なんだかそれきり興醒めして
                            出番を完全に失った。 

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」337ページ    

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さりはま書房徒然日誌2024年4月8日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーまほろ町では育てるのが難しいシクラメンを登場させた心は?ー

十二月二十二日は「私はシクラメンだ」で始まる。「根は不精者のくせに人一倍見栄っ張りの女」に抱えられて、まほろ町にやってきた真紅のシクラメンが語る。
丸山先生はシクラメンがお好きなのだろうか?お庭見学に伺ったとき、シクラメンの中でも丈夫だという、原種の小さなシクラメンが庭に植えられていた記憶がある。
以下引用文を読むと、あらためてシクラメンを大町の気候風土で育てる難しさを思い、まほろ町で育てるのはかなりハードルが高いシクラメンの鉢を登場させた意図を考える。やはりシクラメンが好きなのだろうか?

鼻歌を唄いながらきらきらと輝く瞳を窓の外に向ける女は
   たとえ地獄だろうとたちまち馴染んでしまう能天気な雰囲気を醸し、

   それに引き換え私の方はそうもゆかず
      過酷な自然でいっぱいのこの土地は
         園芸種の柔な植物に適しておらず、

         寒気のみならず
            どうやっても馴染めそうにない原始的な空気が
               そこかしこに漂っていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」331ページ)   

以下引用文。そんなシクラメンが語る世一の姿である。
「クラクションなどものともしない」「クラゲのごとき動き」「もたもたと」と語られる世一にも、語るシクラメンにも、双方にこの世離れした不思議なものを感じてしまう。

そこへもってきて
   クラクションなどものともしない少年が
      まるでクラゲのごとき動きでもって
         前方をもたもたと横切っていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」332ページ) 

  

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さりはま書房徒然日誌2024年4月7日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー帽子ひとつに世一の心を反映させてー

十二月二十一日は「私は帽子だ」で始まる。
雪原を転がっている途中、世一が拾い上げ「つばの部分にじょきじょきと鋏を入れて両端を切り落とし、尖端を三角定規のように あるいは鳥の嘴のように尖らせた」帽子である。


以下引用文。「つむじのない頭」で世一の尋常ではない様子が少し仄めかされる気がする。

「長い影をじっと見つめ」「私の角度をあれこれ変えて」「鳥に近い形の影を作り」というところに、無邪気で打算のない世一の姿が少しずつ鮮明に見えてくる。
「一羽の鳥と化したのだ」という文で、世一のピュアな心が頂点に達する気がする。

そして私をつむじのない頭に載せると
   すぐにまた外へ飛び出して
      傾きかけた太陽に背を向けながら
         足元に落ちているおのれの長い影をじっと見つめ、

         それから私の角度をあれこれ変えて
            最も鳥に近い形の影を作り、

            かくして
               一羽の鳥と化したのだ。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」327ページ)
            

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さりはま書房徒然日誌2024年4月6日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー画数の多い漢字が強欲な老人のイメージと重なってくるー

十二月二十日は「私は野望だ」で始まる。通りすがりに世一の住んでいる町が気に入り、一帯を買い占めてゴルフ場にしてしまおうとする老人の心に巣食う野望が語る。

以下引用文。老人を描写する箇所、やたらに画数の多い漢字ばかりである。
そのせいかクセがありそうで、欲深い老人の姿が自然に喚起されてくる。

「累卵」(るいらん)なんて言葉、ここで初めて知った。
日本国語大辞典によれば「卵を積み重ねること。きわめて不安定で危険な状態のたとえ。」だそうである。
嫌な老人ばかり登場すれば、私の語彙力もアップするかもしれない。

身に纏っている物はともかく
   凡人とそう変わらぬ風貌の
      しかし
         これまで一度も他人の意見を参酌したことがなく
            累卵の危機を幾度となく切り抜けてきた
               矍鑠たる老人は嬉しそうにこう呟いた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」

以下引用文。世一を見かけた老人が、世一の手に紙幣を渡す場面。
世間的な欲望とは無縁の世一の反応が心に残る。だんだん話が進むにつれて、世一は病弱な少年というより、世俗を超越した強さのある存在に思えてきた。

けれども
   財界の大立者に手招きされた彼が
      秘書の手から高額紙幣を一枚受け取るや
         ふたたび私は際限なく膨張してゆき、

老人は呵々大笑し
            秘書は苦笑し
               病児は冷笑した。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」325ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月5日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーフクロウに世一のイメージを重ねてー

十二月十九日は「私はフクロウだ」で始まる。「哲学的な風貌とは言いがたい いつしか老いてしまったフクロウ」が鳴くのは「湖畔の別荘でひっそりと余生を送っている元大学教授」のためだ。
以下引用文。その大学教授をふくろうはこう語る。世の中に多い御用学者でしかない研究者を激しく非難する、丸山先生らしい言葉である。

そして昨夜の彼は
   ひたすら政府の御用学者をめざして
      あれこれとあくどい画策を試みた日々を深く恥じ、

      今宵の彼は
         奮闘空しくその立場に立てなかったことを残念がり


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」320ページ)

以下引用文。この箇所で登場する世一は、フクロウさながら夜の森の生き物を思わせる。「魑魅魍魎」という画数の多い漢字も、「ぬっと」という音の響きも、世一の得体の知れない不気味さを表している気がする。
それでいながら「そんな奴にはもう構うな」とこれまでになく大人びた言葉を発するのである。

するとそのとき
   私とは見知り越しの仲である少年世一が
      真っ暗な森の奥から
         魑魅魍魎を想わせる動きでぬっと現われ、

         そんな奴にはもう構うなと
            吐き棄てるようにして言う。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」321ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月4日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー飾りを虚しく思う心が丸山作品らしいー

十二月十八日は「私はクリスマスツリーだ」で始まる。
「まほろ町のうらぶれた商店街の真ん中にでんと据えられた」クリスマスツリーに憧れるのではなく、むしろその虚さを語ってゆく視点が、丸山先生らしい。

以下引用文。盲目の少女は父親が抱き抱えて、クリスマスツリーに触れさせても何の興味も示さない。
少女が待ち焦がれるもの……に、装飾よりも大事なものとは……と語りかけてくる丸山先生の視点を感じる。

ところが
   少女の心は何やら別の思いで塞がっているらしく
      人工的な虚飾など入りこめる余地がまったくない。

そんな彼女がひしと抱きしめたのは
   結局のところ私などではなく
      あとから遅れてやってきた黄色い老犬で、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」316ページ

以下引用文。クリスマスツリーを見て、世一がとったまさかの行動。
クリスマスツリーの言葉に、飾りという存在の虚しさを感じる。

その虚ろな響きのなかで
   自分には与えてやれるものが何もないことを
      つくづくと思い知らされるばかりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」317ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月3日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー天空から降ってくるような言葉ー

十二月十七日は「私は羽毛だ」で始まる。空中でハヤブサに捕獲されバラバラになって散らばったツグミの羽毛が語る。
以下引用文。与一はそっと羽毛をつまみあげる。そのとき「双方が同時に打算的な錯覚に」陥る。
その錯覚の美しさ、羽をまとえば飛べるだろうという錯覚にかられて羽を拾い集め自分のセーターに刺す世一の純な心が印象的。
「熱き肉体」「翼の元」という言葉に、この世のものではない世界を感じてしまう。

私は少年から熱き肉体を借り受け
   少年は私から翼の元を譲り受けようとし、

   つまり
      少年は数十本にも及ぶ私を丹念に拾い集めて
         それを青いセーターに丁寧に突き刺し、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」312ページ)

以下引用文。「夢を飛ばすことがあたわず」「魂すら羽ばたかせられず」「心はすでにして大空に在り」という言葉にも、天空から語りかけてくるような、自由な視点を感じる。

結局私は少年の夢を飛ばすことがあたわず
   魂すら羽ばたかせられず、

   とはいえ
      当人自身はまったく意に介しておらず
         心はすでにして大空に在り、


(丸山健二「千日も瑠璃 終結1」313ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月2日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーよく観察している目から生まれるリアリティー

十二月十六日は「私はゴム長靴だ」で始まる。
しかも「少年世一が家族のために丘の麓まで抱えて運んで行く 底に滑り止めのスパイクが打ち込まれた 雪国ならではのゴム長靴だ」とある。
どうやら丘の頂の家に住む世一の一家は、丘の麓の小屋に通勤用自転車とかを置いてあるらしい。そこで靴の履き替えをするのだろう。
そういうスパイク付きの長靴があることも、坂道はそういう長靴で登ることも、長靴を並べた様子がオットセイに見えるという発想も、信濃大町に住まわれている丸山先生の実体験が滲んでいる文である。

その並べ方に満足して独り悦に入って
   オットセイの群れに似ているなどと思いながら
      上機嫌で口笛を鳴らした。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」307ページ)

以下引用文。人間に関しても、色々な人間を観察してコラージュして文にする……というようなことを話されていた記憶がある。やはり実となる存在が根底にあるせいだろうか、世一を描写する文に迫真性がある気がする。「けらけら」の繰り返し、「ばんばん」という平仮名で表記された言葉も文に動きを出している感じがある。

すると世一は
   だしぬけにけらけらと笑い
      笑いながら私に平手打ちを飛ばし、

      横倒しになった私を見おろしては
         またけらけらと笑い、

         それからいきなりわしづかみにして
            釘の先端があちこちにはみ出している板壁に
               容赦なくばんばんと叩きつけた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」308ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月1日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー今では失われたボーナスをめぐる風景ー

十二月十五日は「私はボーナスだ」で始まる。世一の父と姉のボーナスを囲む家族の風景が語られてゆく。しかも「小銭に至るまで」現金だ。そして炬燵の上に広げられる。
昔、口座振り込みでない人は、現金でボーナスをもらっていた……とはるか昔の勤務先での光景を思い出す。
引用文では、使い道について家族会議が開かれている。今の時代では失われつつある風景のような気がして、なんとも温かい気持ちがこみあげてくる。

世一の父と姉の心を去年と同じくらいに弾ませ
   一年の遣りきれない疲れを癒す
      待ちに待った暮れのボーナスだ。

一旦世一の母の手に渡った私は
   そのあと
      小銭に至るまできちんと炬燵の上に並べられ、

例年通り
        使徒について
           名ばかりの家族会議が開かれた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」302ページ)

以下引用文。姉は薪ストーブを七万円で買う約束をしてきた……と言い、母親と言い争いになる。おそらく好きな男がつくるストーブを申し込んだのだろう。そんな母親と姉の諍いには知らんそぶりの、父親と世一の様子が見えてくる文である。

父親は我関せずといった態度で酒をちびちびと飲み、
   世一はというと
      鼻息で私を吹き飛ばそうと大真面目に頑張っていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」305ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月31日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーゴミ袋が宇宙にも思えてくる不思議さー

十二月十四日は「私はゴミ袋だ」で始まる。
ゴミ袋という捨てられるだけの存在が、なんとも哲学的に美しく、そしてそのユーモラスな存在に思えてくる丸山先生の語り口である。

さながら宇宙のごとく膨張した私たちは
夜中に降りた霜に覆われて
      うたかた湖の近くの空地にうずたかく積み上げられ、

      そして
         中身についてはお互いに触れないよう心掛け、

      少しでも早く片付けられて
         無へと帰せられるその時をひたすら願う。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」298ページ)  

以下引用文。世一が登場して「見るも無惨な姿になった私たちを丹念に拾い集めて 丁寧に折り畳んでから そっと寄り添ってくれる」
そんな世一とカラスの言葉のないやり取りが続く。世一の優しさ、不思議な強さが感じられる箇所である。

残飯漁りに余念がないカラスどもはというと
   生きるということはこういうことだとでも言わんばかりの
      そんな視線を少年の方へ投げ
         少年のほうでもまったく同じ意味を込めた眼差しを
            数倍もの強さで投げ返す。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」301ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月30日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー虚無と不似合いな相手、虚無らしくない色が印象的ー

十二月十三日は「私は虚無だ」で始まる。
以下引用文。
虚無に取り憑かれる人が羅列され、その意外性も、リズミカルな並べ方も思わず考えてしまう。
さらに「私の餌食となる」という表現に、虚無が腕をのばしてくる姿が、見えない筈の姿が見えてくる不思議さがある。

さらに「黄金色の光をいっぱいに浴びた私」という虚無のイメージには似つかわしくない光景と色が美しく印象に残る。


「この世そのものを裁く権利を有しているかもしれない少年世一」という言葉に、丸山先生の怒りやら少年世一の不思議さやらを思ってしまった。

不用意に生きている者
   幸福に慣れ親しんだ者
      価値ある一時に潜心する者
         常に先見ある行動を取れる者
            存分に才腕を発揮できる者……
私の餌食となるのはそうした人々だ。


黄金色の光をいっぱいに浴びた私は
   もしかするとこの世そのものを裁く権利を有しているかもしれない
      少年世一と共に丘の坂道を下り、 


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」295ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月29日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー宿が生きているように思えてくる文の不思議さー

十二月十二日は「私は宿だ」で始まる。かなり歴史のある、でも古びた感じのある宿が語り手である。
宿の名前は「三光鳥」、ここでも鳥が使われている。「千日の瑠璃」では、あるいは丸山先生にとって鳥はライフワーク的存在なのかもしれない。

以下引用文。「呑みこんでは吐き出し」を繰り返すことで、宿に生命が宿っているような気がして、宿が語るということに不自然さがなくなってくる。

そんな客を呑みこんでは吐き出し
   吐き出しては呑みこみながら


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」290ページ)     

以下引用文。どの語り手のときも、世一がさりげなく登場してその存在が語られてゆく。ここでは「水と土のちょうど境目辺り」「陽炎のごとく」「色即是空を地でゆく」と表現されることで、世一の現実離れした不思議さが伝わってくる。

今朝方女将は
   わが敷地の一部になっている湖岸で
      水と土のちょうど境目辺りに
         陽炎のごとくゆらゆらと揺れている
            色即是空を地でゆくような存在の少年を
               見るともなしに見て、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」293ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月28日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー見えない「矛盾」がふらふらする場面では「あ音」が多くなっている!ー

十二月十一日は「私は矛盾だ」で始まる。
うたかた湖に生徒と出かけた教師が「白鳥と人間の命の重さになんらの差はない」と説く。
生徒たちは教師の話に感激しながら「面白半分で世一のことを突き飛ばし」てしまう。


気づいた貸ボート屋のおやじは白鳥の餌やりを中断する。
そして「弱い者いじめをした子どものひとりひとり」に「猛烈な平手打ちを食らわせたのだ」。


教師は「子どもに暴力を揮うような者に白鳥を愛する資格はない」と言う。
おやじの方は「自然の大切さを教える前に 弱者をどう扱うべきか」教えるようと言う。


以下引用文。
このどっちにも言い分のある矛盾した主張の最中、白鳥と世一が食パンの耳を巡っての大騒ぎを起こす。
「矛盾」が身の置き所を失って、天に、地に彷徨う。


この箇所は、入力していて「あ音」が多いのに気がついた。

「あ音」はひらけるイメージ、浮上するイメージがあるようにも思う。
丸山先生はそこまで意識されたのだろうか。
矛盾という目に見えないものが、ふらふら彷徨う様を書いているうちに、知らずと「あ音」が多くなったのかもしれない。

そして私は
   身の置き所を失ったことで破れかぶれとなり、

   あげくに
      風船のように膨らんで空中へと逃れてから
         喧騒の上空をすいすいと飛び回り、

         あるいは
   岸辺に打ち寄せる単調な波と戯れ、

あるいはまた
               桟橋の突端に舞い降りるや
                  冷徹自若として佇んだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」289ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年3月27日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー焚火という言葉には表現し難い存在は、こう語ることもできる!ー

十二月十日「私は焚火だ」で始まる。「焚火」とは風情のあるものだが、いざ文で語ろうとすると難しいもの。
以下引用文。丸山先生はまず焚火のもととなる枯れ葉から仔細に語っていくから、悲しい雰囲気がそれとなく伝わってくる。

寒々しい袋小路の突き当たりに吹き溜まるのを待って
   丹念にかき集められた枯れ葉による
      落日の光景によく似合う

         それでいてどこか物悲しい焚火だ。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」282ページ)

以下引用文。さらに火を囲んでいる人間や動物が語られてゆくと、そうした周りにいる者たちの性格が、火にも投影されるようで、どこか幻想的なものに思えてくる。
丸山先生はあまりこういうことを指摘する人は少ないようにも思うけど、子供の世界、童話めいた世界を書いてもピッタリするところがあるように思う。

私の番をしてくれているのは
   どこか白ウサギを想わせる少女で、

   そして
      盲目の彼女を見張っているのは
         痩せさらばえた黄色い老犬だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」282ページ)

以下引用文。焚火の煙に人の生き様を重ねる丸山先生の視点にも、ユニークなものを感じる。
このあと世一が出てきて、盲目の少女から焼き芋をもらい、ガツガツ食べる場面も微笑ましい。
焚火という生なき存在が、周囲の人の世界をつぶさに観察する声に、炎の揺らぎを感じつつ読む。

私のほうでも
   少女が放つ並々ならぬ温もりをしっかりと感知しつつ
      青く澄んだ芳しい煙を
         人々それぞれの運命の方向へ
            真っすぐに立ち昇らせている。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」283ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月26日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー鳥のイメージが繰り返され、読み手の頭の中で一つにまとまってゆくー

十二月九日は「私はかんざしだ」で始まる。この箇所では、小鳥がふんだんについた「かんざし」から、老いた芸者の顔の鳥の形をした痣まで、形を変えながら鳥のイメージが丁寧に語られている。
以下引用文。こんな可愛らしいかんざしがあるのだろうか……そんなかんざしを老いぼれの芸者がしている意外さ。

老いぼれ果てた芸者の頭で小気味よく揺れる
   金と銀の小鳥をふんだんにちりばめた
      鼈甲のかんざしだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」278ページ)

かんざしが語る、それも小鳥をふんだんに散りばめたかんざし……という有り得ない感じが、「合計十五羽」と具体的に数字が出てくることでピューっと消えてゆく。

すっかり凍えた手に息を吹きかけて
   ひと足踏み出すたびに
      私は合計十五羽の鳥をいっせいにさえずらせる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」278ページ)

以下引用文。
老いぼれ芸者の顔の痣も鳥の形になぞらえている。
「千日の瑠璃」では、世一と与一が飼っているオオルリが大切な鍵なのだろう。モノが順々に語って話を進めてゆく……という突拍子もない形を取りながら、オオルリという鳥のイメージなど全体を貫く共通項があるから、馴染んでしまえば追いかけやすい気がする。

飛んでいる鳥がガラス戸にぶつかって
   そのまま貼り付いたとしか思えぬほどの

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」279ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月25日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー辛い過去もさらさらと、でもしっかりと流してゆく筆力ー

十二月八日は「私は日溜まりだ」で始まり、「年寄りたちに迫りくる死の足音を 意識の外へ追い出してしまうほどの 申し分のない日溜まり」が語る。

以下引用文。二人の老人が「目下死にかけている天皇」について話題にしている。昭和天皇のことだろうか。


老人たちのさりげないやり取りの中に、戦争責任へのはっきりとした丸山先生の考え方がうかがえる。

そんな厳しい現実を一瞬にして「聖なる領域へと」運び去る川の流れ。「聖なる領域」とは、どんな領域なのだろう?川の下流の茫漠とした感じが、戦争で亡くなっていった者たちの取り返しのつかない哀しみとかぶさってくる気がする。

厳しいことをさらりと書き、辛い現実を大きな哀しみに変えるところに魅力を感じる。

大分苦しんでいる様子ではないかと
   ひとりが言うと、

   もうひとりが
      自分だけあっさり死んでしまったのでは申し訳が立たないとでも
         思っているのではないかと言い、

         すると
            川面がきらきらっと光ったかと思うと
               かれらのそんな言葉を
                  聖なる領域へと運び去ってしまう。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」275ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月24日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー丸山作品には子どもや異界の者たちがよく似合う気がするー

十二月七日は「私は出会いだ」で始まる。「だしぬけに少年世一を訪れた めくるめく出会い」の相手とは、うたかた湖の主である巨鯉である。

以下引用文。「地球の回転に合わせつつ今を生きる」という表現に、世一の不自由な体を表していながら、世間一般の常識の基準にとらわれない天衣無縫さを感じる。

常に地球の回転に合わせつつ今を生きる少年世一に

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」270ページ)

以下引用文。「摩訶不思議な人間の子ども」という「出会い」が語る言葉に、なんとも異界に住む者たちらしさ感がある。
「ぶつくさ呟き」「ガスで膨らんだ溺死体」と表現される巨鯉も、湖の主らしい性格が滲み出る文である。
丸山作品は、こういう子どもと異界の者たちを主人公にしてもピッタリするようなユーモア、優しさ、常識にとらわれない感じがあると思う。

冬眠を中断しても見ておく価値のある
   なんとも摩訶不思議な人間の子どもがいるとかなんとか言って唆すと
      その鯉は
         嘘だったらただではおかないなどとぶつくさ呟きながら
            ガスで膨らんだ溺死体のように
               ゆっくり浮上してきた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」271ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月23日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ークレーンという語り手にぴったりの冷ややかな言葉ー

十二月五日は「私はクレーンだ」で始まる。

以下引用文。上棟式のために使われる大型のクレーンが見つめるのは、「孫の誕生に期待して資金の全部を出した双方の親」だ。

だがそうした行為が、子供夫婦から「与えた以上のものを奪ってしまった」と冷ややかに語る。このクールさも、クレーンという無機質な存在だから違和感がない気がする。

「生きる目的の半分と描いて楽しむ夢の半分をあっさり失った」「あてがわれた幸福を前にして幼児同然」という言葉に、丸山先生が理想とする生き方が見えてくる気がする。

要するに
   これで若いふたりは
      生きる目的の半分と
         描いて楽しむ夢の半分をあっさり失ったことになり、

         いくら言っても言い甲斐のないかれらは
            あてがわれた幸福を前にして
               幼児同然の体たらくだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」264ページ)

そんなクレーンが見つめる、上棟式の餅まきを必死になって拾い集める人々の中に、世一もいたり、丸山先生らしき人物も紛れ込んでいるのに思わず微笑んでしまう。
自分自身の姿を表現するのに、こんなふうに絵画のようにして、距離を置きながらユーモアを込めて描く方法もあるのかと思った。

私に吊るされて鳥を演じてみたいと本気で願う少年や
   思索の疲れを癒してくれそうな黒いむく犬を連れた男が
      無様に地べたを這いずって
         天から降ってくる
            さほど心が籠っているとは思えぬ金品を
               血眼になって拾い集めていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」265ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月22日(金)

PASSAGEでお世話になっている小声書房さん主催、田畑書店会場のポケットアンソロジー読書会に行ってきました!
文アル好きにはたまらない会だと思います。
文アル組ではない私も楽しかったです!

21日北風がピューピュー吹きつけるなか、PASSAGEでとてもお世話になっている小声書房さん開催の読書会に行ってきました。
小声書房さんはまだお若いながら、埼玉北本で個性あふれる書店を経営されている方。PASSAGEにも週に何日か勤務され、搬入のときによくお世話になっています。


ポケットアンソロジー読書会ですが、通常は月に一度北本にある小声書房さんの書店で10時から開催……なので夜型人間の私には時間的にハードルがすごく高くて、気になりつつも参加できずにいました。
ところが今回は田畑書店を会場に18時15分から開催とのこと。これならいくら何でも寝過ごさない、時間的に大丈夫!(なんて情けない……)


さらに田畑書店さんの本はPASSAGEの私の棚にも数冊置いていますが、どれも持った時の感触の良さ、レイアウトの美しさ、校正ミスのなさがすごく心に残ります。この丁寧な本が作られている現場を拝見したいと参加を申し込むことに……。

参加しての感想ですが、非常に楽しく過ごすことができました。
そして私も2015年4月からミステリ読書会を開催してきていますが、小声書房さんの楽しさあふれる読書会と比べて反省するところ多々、お若い小声さんの読書会への姿勢に学び……というか、良い意味で衝撃を受けました。

私が開催している日比谷ミステリ読書会は、ゲストに翻訳家、ミステリ評論家、作家の方々に来ていただき、時によりけりですがお話していただいた後に語りあう……形。
元々先生方のお話を聞く、知識を得るということを楽しみにされる方が多く、できれば自分から語りたくない……というシャイな方が多いようにも感じています……。
なので昨日の読書会は「なぜこんなに楽しそうに語るのだろう?」と私も楽しみながら、小声書房さん、田畑書店さんの、皆さんから会話を引き出す魔法の杖の振り方にも見とれていました。

https://x.com/infotabata1968/status/1770752348169658470?s=61&t=0IAvG-WbAxkiVd1OmwzreQ

まず八人がけのテーブルに五人で座る、田畑書店社主の大槻さんは一歩離れたところに控えめに座る……という距離感が、読書会としては丁度いいのかもしれません。
日比谷ミステリ読書会の場合、24人、16人くらいの会場にロの字のことが多く……。皆さん声は大きいから余り気にしていませんでしたが、ロの字より、小声書房さんのようにテーブルを囲む方が話しやすい雰囲気が生まれる気がしました。

https://x.com/kogoeshobo/status/1770782709897384138?s=46&t=Ki4ptikIXq-WAEIIqi7hGQ


さて読書会が始まって自己紹介やら挨拶をしたあと、ザザッとテーブルの上に田畑書店ポケットアンソロジーの見本が広げられます。
みるみるうちにテーブルの中央がポケットアンソロジーの海と化します。
参加者はこの海に溺れながら、これから自分が紹介するポケットアンソロジーを一冊探します。
「◯◯のポケットアンソロジーがあれば教えて下さい!」という声が飛び交い、はじまって直ぐにみんなで何やら宝物探しをしている気分になります。
取り上げるポケットアンソロジーが決まったところで30分ほどかけて読み、その30分で紹介内容やら感想やら考えます。
その場で読んで参加できる……というハードルの低さも、ポケットアンソロジーならでは。
日比谷ミステリ読書会の場合、原則読んでの参加をお願いしていますが、皆さん忙しく、開始直前に読了される方もいらっしゃったりして、忙しい現代人が本を読んで読書会に参加する難しさも思います。

ポケットアンソロジーの海から参加者が選んだのは以下。見事にバラバラです。参加者はめいめい秘密の数字が渡され、感想を言い終えた方が好きな数字を選び、その数字の方が感想を語るという形です。まずは小声書房さんからスタートしました。

・マリオ・コーヒー年代記 吉田篤弘
・おじいさんのランプ 新美南吉
・秋 芥川龍之介
・生涯の垣根 室生犀星
・みちのく 岡本かの子
・沈黙と失語 石原吉郎

https://x.com/infotabata1968/status/1770752800537915861?s=61&t=0IAvG-WbAxkiVd1OmwzreQ



これだけバラけた選書で話になるのか……と思われるかもしれません。
でも、そこは小声書房さんがそれぞれの本の魅力、感想のツボを抑えてリードされ、話はぐんぐん盛り上がっていきます。

さらに今回はポケットアンソロジーの生誕地、田畑書店での開催ということもあって、田畑書店社主・大槻さんがそれぞれの作品の感想に応える形で作品の魅力を語ってくださいました。あれだけたくさんあるポケットアンソロジーの中の一文を記憶され、ささっと引用されるあたり、版元さんの熱意を感じました。

本を販売される小声書房さん、本を作られる版元の田畑書店さんならではの本への愛情、感想を語る読者への感謝が伝わってきます。小声書房さん、田畑書店さん、どちらも感想にピピっと反応して、さらに作品への想いが深まるような見方や知識を提供してくださり有難かったです。

かたや翻訳家や評論家をゲストにお願いしてきたわが日比谷ミステリ読書会ですが……読み手の感想へのリアクションが悪かったなあと反省をすることしきり。
そして同じ本に関わる仕事でも、版元、書店、翻訳家、評論家では、読者の反応への関心の度合いがまったく違ってくる……当たり前かもしれませんがそんなことを思いました。

次回の日比谷ミステリ読書会のゲストは著者を招く予定ですが、著者の場合、どんな風に反応するのだろうか……今から楽しみです。

こうして楽しく読書会が終わると、若い参加者たちは見知らぬ者同士でもこれまで収集してきた文アルグッズを手にまた熱く盛り上がり……。
私のような年寄りは、実物の作家よりもはるかに美化された顔の作家たちに驚くやら羨むやら。
でも文アルという年寄りには思いも寄らない入り口から入って、田畑書店のポケットアンソロジーを指針に、作品を読み、一人で読書会に参加されようとする若さがひたすら眩しかったです。

文アル好きの方は小声書房さんのポケットアンソロジー読書会、おすすめです。
さらにポケットアンソロジー発祥の地、田畑書店でまた開催されることがあれば、ポケットアンソロジー見本の海をわさわさかき回す幸せを体験できるのでお勧めです
そして読書会でワイワイ話しているときも、部屋の奥で黙々と作業されている田畑書店のスタッフの姿が見えました。両手に手袋をはめ、ポケットアンソロジーを一冊ずつ透明のビニール袋に大事そうに入れていく様子に、田畑書店の丁寧な本の秘密を、ほんのちょびっと見たように思います。

感想で発表したポケットアンソロジーを一冊、お土産に頂き帰途へ。

今回のお若い方の姿に反省しながら次回、日比谷ミステリ読書会の準備を少しずつ進めていきます。

次回日比谷ミステリ読書会の案内

課題本 篠田真由美「ミステリな建築 建築なミステリ」

ゲスト 篠田真由美

https://www.xknowledge.co.jp/book/9784767832616

日時 2024年6月16日(日)13:30〜16:30

場所 早稲田奉仕園222号室 教会の隣2階

会費 場所代+資料代を人数で割る予定、千円くらい

定員 15人
(要申込 biblio⭐︎ssugiyama.xsrv.jp までメールでお申し込み下さい。
 ⭐︎は@に変換ください。返信が届いて申し込みが確定になります)

ゲストより 必ず本を読んでご参加ください。
      できれば事前に質問くださると有難いです。 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月21日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーありふれた食べ物が多いのは?ー

十二月四日は「私は電気毛布だ」で始まる。瀕死の状態のオオルリが世一と一緒に電気毛布で温まる場面が微笑ましく書かれている。

丸山先生の作品には、食べ物を食べる場面が時々出てくる。その食べ物の中で多いのが「卵かけご飯」だったように思う。


以下引用文。
この場面では、世一が「夜食のジャムパン」を頬張る様が書かれている。食べ物を食べる様子にも、世一なら子供らしさが出ているようで、ありふれた食べ物にもその人らしさがでる気がする。
普通の、どちらかと言えば大変な境遇にあることの多い人物を書く丸山先生だから、食べ物もすごくありふれた物になるのだろうか……と思った。

世一とオオルリが交わす会話にも、両者の気取りのない、率直な間柄が伝わってくる。

四六時中付き纏う孤影をどうにか追い払った世一は
   夜食のジャムパンを半分以上口の外へこぼしながら
      むしゃむしゃと頬張り、

      そうやって
         寝食を共にする両者は
            目と目を見交わしながら
               打ち割った話をし、

               おまえはおれに看取られて死ぬのだと

                  そんなことを少年が言うと、
                  オオルリは
                     寸分違わぬ言葉をそっくりそのまま返す。

そんなかれらは
   丘にぶつかって砕け散る風の音と併せて
      私の温もりに浸りながら

         現世の過酷さから解き放たれるための眠りに就き、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」261ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月20日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーエスカレートする喧嘩が目に浮かんでくるようー

十二月三日は「私は喧嘩だ」で始まる。
以下引用文。「せいぜい意見の相違」から勃発した二人の男たちの喧嘩が、あっという間にエスカレートしてゆく様が、「罵り合った」「すさまじい殴り合い」「どこか滑稽な取っ組み合い」と目に浮かぶように、丁寧に書かれている。

「ドブネズミの縄張り争いを彷彿とさせる」という言葉にも、「一興に値する光景」という言葉にも、どこか距離を置いて眺めているような心が感じられる。

よほど虫の居所が悪かったのだろう
   いい歳をしたかれらは
      束の間罵り合ったかと思うと
         すぐさま殴り合いへと移行して
            凄まじくもどこか滑稽な取っ組み合いへと転じ、

            互いに鼻血を流して路上をごろごろ転がる様は
               ドブネズミの縄張り争いを彷彿とさせる
                  一興に値する光景だった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」255ページ)

以下引用文。喧嘩している風景に世一や犬を点在させ、「折れたばかりの血の付いた前歯を奪い合った」とその姿を書くことで、ケンカの風景がますます賑やかなものに感じられてくる。

徘徊が生きる縁のすべてとなっている病気の少年などは
小躍りして喜び
      犬と競って
         折れたばかりの血の付いた前歯を奪い合った。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」257ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月19日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー初雪に重なる生の儚いイメージー

十二月二日は「私は初雪だ」で始まる。
「例年より二週間も早く」とあるが、丸山先生の住まわれている信濃大町の初雪の時期もそのくらいなのだろうか?早い初雪に修行中の禅寺の禅僧たちも心をかき乱され、自分たちの修行に疑念が生じる様子がどこかユーモラスに書かれている。
以下引用文。初雪にはしゃぐ世一の姿、「単純不動な鉛色の天空」、「誕生と死滅に挟まれた命の世界に響き渡り」という言葉で表現される一瞬の場面に、丸山先生のテーマでもある「誕生と死滅に挟まれた命」が初雪のイメージと重なって、その切なさ、素晴らしさ、儚さが伝わってくる。

片や世一はというと
   ただもう無邪気に私を求めて止まず、

   喜び勇んで飛び跳ねながら
      単純不動な鉛色の天空に向かって

         震えの止まらぬ腕をいっぱいに突き出し
            恐ろしく素っ頓狂な声を張り上げ、

その朗々たる奇声は
               誕生と死滅に挟まれた命の世界に響き渡り、


            そんな彼の並外れた神気の強さに圧倒され
               恐れを成した私は
                  直ちに融けて消えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」253頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月18日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーなぜか色彩を感じる文ー

「私は本だ」で始まる十二月一日は、世一の姉が勤める図書館の本が、最近、ロマンス小説も読もうとしなくなった姉の心に起きつつある変化を語る。
そうした姉の心境を語る以下引用文。どの文も難解な言葉を使っている訳でもないのに、なぜか姉の心境がグラデーションの色彩となって見えてくる。なぜだろう。「退色した日常」「気持ちよく晴れ渡った日にあっさり首を吊った」「きららのごときまばゆい変化」という言葉から喚起される何らかの心象風景があって、文に色を感じさせてくれるのかもしれない。

たとえば
   嫌でも生きてゆかねばならぬ退色した日常に
      真っ向からぶつかってゆく覚悟を固めたのでもなければ、

      たとえば
        気持ちよく晴れ渡った日に
           あっさりと首を吊った親友の流儀に倣おうとしたのでもない。


要するに
   私のなかでしか起き得なかったロマンというやつが
      もしくは
         いつだって赤の他人の身の上にしか生じない
            きららのごときまばゆい変化が
               とうとう彼女の人生にも発生しつつあったのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」248ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月17日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」を少し読む

ー世一の目に映る世界とは?ー

十一月三十日は「私は消火栓だ」で始まる。
「古過ぎる消火栓」の側を通り過ぎてゆく様々な生ー酔っ払いたち、「放し飼いにされている犬ども」、「野育ちの典型である少年世一」、腰が曲がった認知症の老婆ーがユーモラスに描かれている。
こうした消火栓が見つめる生の模様も、文字による表現だから面白みがあるのだろう。
映像の場合、消火栓にここまで観察させて語らせることは出来ないのではないだろうか?

以下引用文。認知症の老婆と不自由なところのある少年・世一のやりとりが不思議と心に残る。
中でも「これは自分なのだ」と、「相変わらずちっとも目立ってくれず 甚だもって情けない立場に置かれた 古過ぎる消火栓」のことを語る世一の目は、どう世界を捉えているのだろう……と考え、心に残った。

さかんに私を撫で回す世一に向かって
   「おまえはこの子の友だちかい?」と尋ね、

   すると彼は
      全身に震えをもたらしている
         負のエネルギーを唇に集中し、

         途切れ途切れではあっても
            友だちなどではない旨を
               きっぱりと告げ、


その直後に
                            これは自分なのだと
                                そう付け加えた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結」244頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月16日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーそれぞれの鯉が意味しているものー

十一月二十九日は「私は池だ」で始まる。
以下引用文。池は自分のことをこう語る。「滲みや斑のない錦鯉」はまるで世間並みの人生を歩んできた人々のようであり、「緋鯉の彫り物を背負った男」(世一の叔父)とは対照的に思えてくる。

どこにも滲みや斑のない色彩と
   見応えのある模様に覆われた錦鯉を抱えこみ、

   緋鯉の彫り物を背負った男を
      くっきりと水面に映している
         山中の池だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」238ページ)

以下引用文。池のほとりで急に服を脱いだ男。その背中に彫られた巨大な緋鯉が、「ほとんど血の色に染まるや」という箇所に、男のこれまでの人生が重なって浮かんでくる文である。
餌に期待して浮上していた錦鯉の群れが「いっせいに怯えてさっと散り その日は二度と姿を見せず」という箇所は、まるで大衆の行動を見るようである。「底へと降りていった」という錦鯉の動きにも、希望から縁遠い大衆の姿を見るような気がする。

その背中を私の方へ向け、

滝を登る巨大な緋鯉が夕日に映えて
   ほとんど血の色に染まるや
      餌に期待して浮上していた錦鯉の群れが
         いっせいに怯えてさっと散り
            その日は二度と姿を見せず、

            夜が更けるにつれて
               底へと降りて行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」241ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月15日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー強風が迫ってくる書き方ー

十一月二十八日は「私は夜風だ」と「山国特有のめまぐるしい気圧の変化」から「生まれた気紛れな夜風」が語る。
以下引用文。山国の風が激しく吹く様子を描写している。
私なんかだったら「強い風がゴウゴウ吹きました」で終わりにしてしまうかもしれない箇所だ。
丸山先生は自然の中での暴風を描いてから、徐々に人間の暮らしへと風を近づける。そのため強風がだんだん近づいてくるような感覚を覚える。
また湖から木々へ、と広い場所から小さな物へと視点を移していくのも、風が近づいてくる感じをよく醸していると思う。
「死んだ枝」の次に「産院からほとばしる呱々の声」がくるコントラストも鮮やか。
「薬屋の看板を倒す」の箇所も「薬屋」で生のイメージを訴え、「倒す」で死につながる気がする。

最新の天気予報でも予測し得なかった私は
   手始めにうたかた湖を隅々まで波立たせ
      ついで
         湖畔の木々をのたうち回らせてから
            一挙に町を襲い、

            街路樹にしぶとくしがみついていた枯れ葉を

               一枚残らず吹き飛ばして
                  死んだ枝を振り落とし、
                     産院からほとばしる呱々の声を
                        地べたに叩きつけ、
                        近日開店の運びとなった
                           薬屋の看板を倒す。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」234ページ) 

だが、そんな夜風に世一は怯むことなく「はったと睨み」対峙する。それは青い鳥オオルリのおかげだ。

以下引用文。「千日の瑠璃」の青い鳥は、なんとも気迫を感じる鳥ではないか。

後ろ盾となっているのは
   超感覚的な力を具えているかもし
れぬ
      一羽の青い鳥だ。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」234ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月14日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー作者と近い存在が語ると言葉が固く、厳しく、理屈っぽくなる気がするー

十一月二十七日は「私は印象だ」で始まる。以下引用文のように丸山先生を思わせる作家が、少年世一に対して感じる印象である。

収入の都合でやむなくまほろ町に移り住み
   かつかつの暮らしを維持するために
      せっせと小説を書き続ける男の
         少年世一に対する当初の印象だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」230ページ)

丸山先生らしき作家が抱いている印象が語っているせいだろうか。「印象」が語る箇所はすべて言葉が難しく、固い言葉が多く、語調も厳しく、漢字が多いなあと感じた。これは意識してのことなのだろうか?それとも自分の視点に近い位置から語っていたら、無意識のうちに文体がこうなったのだろうか?真相は分からないながら、そんなことを感じた。

のべつ何かしらの助力を誰彼の見境もなく仰ぐ者にして
   同世代の仲間から完全に放逐された者であり、

   なお且つ
      ただそこにそうして存在しているだけで
         ただ他人の心の領土を容赦なく蚕食する
            始末の悪い厄介者なのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」230ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月13日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーベンチだからこそ感じられるものー

十一月二十六日は「私はベンチだ」で始まる。語り手のベンチは「悲哀に満ちあふれた 粗末な造りのベンチだ」で、その上に座っている四人の男たちの人生が仄めかされる気がする。

以下引用文。試合が終わっても「居残って 帰宅しようともせず」という老人たちの心の描写に「ああ、やっぱり粗末なベンチのイメージと重なる」と思ってしまう。

そうすることで
   きょうという日を少しでも長引かせ、
      そうすることで
         家族の心の負担を減らそうとしている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」226ページ)

以下引用文。ベンチに腰かけていた男たちが世一を哀れんで呼び寄せ、ベンチに座らせる。

そのとき
   みしっという音を立てたのは
      予想外の重さのせいで、

      だからといって
         体重のことを言っているわけではなく、

         魂の重さときたら
            それはもう尋常ではなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」229ページ)

ベンチが世一の魂の重さに驚く展開に、今後どうなるのだろうかと楽しみになる。でも「魂の重さ」なんてものを感じられるのはベンチだからこそ。万物を語り手にする「千日の瑠璃」の面白さはここにある気がする。

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さりはま書房徒然日誌2024年3月12日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む」

ー青い鳥なのに可愛げのない囀りをする意外さー

十一月二十五日は「私は芝生だ」で始まる。
「うたかた湖岸辺」の「思い通りには根付かず ぶちになってしまった芝生」が物語るのは、無鉄砲にも駆け落ちをしてきた若い男女のひと組だ。


上手く根付かなかった芝生が語ることで、なんとなくこの男女の行く末も見えてくる気がする。うたかた湖から吹いてくる風も詰るようであり、とことん見放された感じのする二人。


だが以下引用文の箇所にくると、それまでしょんぼりした二人にいきなり強烈な光があてられるような気がする。

「揃いの手編みのセーター」という幼さ、純粋さが感じられる代物の上に付けられたオオルリのバッジ。
このバッジの描写が「赤とも金ともつかぬひかり」「非難しそうな表情」「嘴をかっと大きく開いて」と、二人の幼さを叱りつけ、駆逐してしまうように思えてならない。

揃いの手編みのセーターの胸のところに
   それぞれ付けられたオオルリのバッジは
      赤とも金ともつかぬ色のひかりを浴びて
         さも人の伝為をいちいち非難しそうな表情で
            嘴をかっと大きく開いている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」224頁)

以下引用文。普通、「青い鳥」といえば幸せのシンボル、優しいイメージがある。だが「千日の瑠璃」の青い鳥は、冷徹に丘の家に住む世一一家の現実を囀る、可愛げのない鳥である。
鳥にこんな意地悪なことを言わせようと思うのは、エッセイにも度々出てくるように丸山先生が鳥を飼っているからなのだろうか。
さらにこの場面で初めて、世一が飼っている鳥が囀るのである。それなのに、こんなに意地の悪い囀りをするのだ。

すると
   バッジの青い鳥が
      若いと言うことだけで幸せなのに
         あんな家が幸福に見えてしまうのは残念だと
            そんな意味のことをさえずり、

            否、そう鳴いたのは
その家で飼われている正真正銘のオオルリだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」225頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月11日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」を少し読む。

ー言葉が映画よりインパクトを与えるときー

十一月二十四日は「私はヘッドライトだ」で始まる。

金に糸目を付けずに改造されたクルマのヘッドライトが、自分の光に映し出される様々な人たちを、首吊り自殺をした娘の幻影にぶつけるようにして身分不相応な改造車を走らせる男の心のうちを、丁寧に語ってゆく。

この場面は映画ならほんの一瞬で終わってしまうだろう。
最近の書き手も映画やドラマの場面に慣れているのか、あっという間の映像として書いてしまうことが多いように思う。

だが丸山先生は、こういう場面こそ言葉の本領発揮と考えているのではないだろうか。実に丁寧に書いている。これも丸山先生が映画好きだからこそ、映像では無理な表現というものを言葉に追い求めているのだろう。

そういうこととは関係ないが以下引用文。
様々な登場人物の心のうちが書かれたあと、最後に自死した娘のもとへ行こうと、男が湖へと車を走らせる場面である。

ボートにしても、少年世一にしても、この場面は短歌になってしまいそうな、抒情性、幻想味がある場面だと思い心に残った。

そのとき
   漕ぎ手がいないにもかかわらず
      ひとりでに岸へ寄ってくる古くて不吉なボートが見え、

      それの意味するところはとうに承知しており
         要するにお迎えの舟というわけだ。

つづいて
   どこがどうというわけではなくても
      全体の雰囲気が鳥を想わせる少年が忽然と出現し
         ふらふらと私の前を横切り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」221頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月10日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー連想ゲームみたいに連なる言葉から見えてくる姿ー

十一月二十三日は「私は薄笑いだ」で始まる。
まほろ町にあらわれた白いクルマを乗りまわして薄笑いを浮かべる青年に、町の人は恐れをなしてしまう。

この青年の職業?が書かれていなくても、青年の様子や町の人の反応で何となく察せられるところろが面白い。
そんな青年にびびる町の人たちの様子に、なんとも情けない小市民ぶりが出ている。悪に反応する様子から、常識人たちの虚を描いているところも面白い。

以下引用文。青年の薄笑いを真似ようとする世一。その様子を残酷なまでに思い描かせる言葉の展開を興味深く読む。
「骨なし動物」「奇妙な動き」「つかつか」「穴があくほど」「恐ろしく締りのない」「さかんに歪める」「ぐにゃぐにゃ」
……そんな風にイメージが繋がる言葉が続くことで、世一の姿を絵のように容赦無く浮かび上がらせてくれる気がした。

ところが
   骨なし動物のごとき不気味な動きをする少年だけは別で、

   つかつかと進み出た彼は
      穴があくほど青年をまじまじと見つめ、

      あげくに
         私を真似ようとして
            恐ろしく締りのないその唇を
               さかんに歪める。


だがどうしても上手くゆかず
   しまいには収拾がつかなくなってぐにゃぐにゃになり
   それでも思わず吹き出したのは
         結局のところ私だけだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」

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さりはま書房徒然日誌2024年3月9日(土)

神奈川県立図書館第四回ボランティア朗読会「ともに……」へ

ー知らない本との出会いをつくってくれたことに感謝ー

神奈川県立図書館は新しく建て替えてまだ二年……らしい。閲覧席から青空や港のビルが目に入る開放的な建物である。
またLib活「本を読み、本を朗読する講座」なるものを開講、受講者の方々は県立図書館ボランティアとして活動される……という素敵な試みをされているらしい。そういう取り組みのない自治体に住んでいる身としては羨ましい限りである。

知っている方がこの講座を受講され、第四回朗読会で朗読をされるので聴きに行ってきた。

文学作品を耳から味わう……という体験は、振り返ってみれば演劇、文楽、女流義太夫、落語……と色々してきているのだけれど、図書館ボランティアの朗読はそうした語りとはまた別の良さ、素晴らしさがあると思った。


前者のグループの場合、こちらも聞くときにガチガチに緊張しているなあと気がついた。そのうちベッドに寝たきりになったら浄瑠璃がある!と思っていたが、浄瑠璃のテンションの高さ、緊張を強いる語りはベッドの上の弱った身には無理かもしれない……と今日ふと思った。

図書館ボランティアの方の朗読を聴いていると、穏やかに、静かに、すーっと自然に体が海水に浮遊するみたいに作品の中に入ってゆく。まるで病床で何かを読み聞かせてもらっているように、リラックスした気分で物語が染み込んでくる。
病院でベッドの上で聞くなら、浄瑠璃よりも、こういう朗読の方がいいかも……と考えをあらためた。

今、図書館の棚に「共に生きる」をテーマに人権に関する本が並べられているそうだ。
朗読会も「ともに……」をテーマにして、ボランティアの方々が様々なジャンルから選書されたとのこと。おかげで知らない本にたくさん出会えた。

なかでも非常に興味深く印象に残ったのは知里幸恵「アイヌ神謡集」という本との出会いだ。知里幸恵さんはアイヌの方。アイヌで初めて物語を文字化したそうだ。
「アイヌ神謡集」を本にするもわずか19歳で亡くなる。
知里さんの言葉を朗読して頂いて、静かな、祈るような言葉が心に残る。
ちなみに「アイヌ神謡集」が本になって一ヶ月後、関東大震災が襲う。

https://www.ginnoshizuku.com/知里幸恵とは/


「くまとやまねこ」は、毎日の朗読練習の様子を聞いているだけに、クリアな声も、くま、鳥、それぞれの動物たちの個性あふれる声も、メリハリのある読みも、いつまでも情景が残る語りも楽しみつつ、ここまで上達されるにはどれだけ練習を重ねたことか……と、背景に隠された時間の積み重ねに感謝しつつ聞いていた。

昨夜の講義で、福島泰樹先生が情感たっぷりに一人称の朗読をされた方のことを、「これまでこの人はずっと対話の朗読をしてきたから、それぞれの語り手の感情を込めて読むようになって、今、一人称の文をこれだけ感情移入して読むのですよ」などという趣旨のことを言われていた……と「ああ、なるほど」と思い出した。
これから、どんな朗読を聞かせてもらえるのだろうか……また人生の楽しみが一つ増えた思いである。

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さりはま書房徒然日誌2024年3月8日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー影は影でも語り方でずいぶん違ったものに思えてくるー

十一月二十二日は「私は影だ」と様々な影が語り手となる。どれも同じ影の筈なのに、其々の人生を色濃く滲ませ書かれているのが心に残る。

以下引用文。「長く且つ憂色の濃い」という言葉に、思わずどんな影なのだろうと想像してしまう。

私は影だ、

   へとへとにくたびれ果てて帰宅を急ぐ工員たちが
      砂利道の上に落とす
         長く且つ憂色の濃い
            くっきりとした影だ。


私をあたかも足枷のように引きずり
   浮かぬ顔で歩を進めるかれらのなかには


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」210ページ)

以下引用文。「匍匐性の外来植物」「しぶとくてがっちりと」「大地をつかみ」「びくともしない」としつこいイメージを連ねて表現することで、影もずいぶんとたくましく違ったものに見えてくる。

しかし
   ともあれきょうの私はというと
      地力の衰えた耕地をびっしりと覆い尽くす匍匐性の外来植物のごとく
         どこまでもしぶとくてがっちりとまほろ町の大地をつかみ
            天下無敵の少年
               あの世一に踏まれてもびくともしない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」213ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月7日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー凡庸な地に詩情あふれる名前を、人間にはいつも同じような名前をつけることで浮かんでくるものー

十一月二十一日は「私は橋だ」で始まる。
「鉄筋コンクリート製の 当たり障りのない形状の 要するに無骨一点張りの橋だ」というロマンに欠けた橋が語り手だ。
正式な名称があるにもかかわらず、町民は「かえらず橋」と呼んでいる。

「千日の瑠璃」に限らず、他の丸山作品もそうだと思うが、ありふれた町や山や橋に、詩情あふれる名前がついている……「まほろ町」「かえらず橋」「うたかた湖」「うつせみ山」「あやまち川」。

それとは逆に人間にはありふれた名前、いつも同じような名前ー男なら忠夫、女なら八重子だっただろうかーがついている。

凡庸な風景に思いもよらない名前をつけることで、平凡な場面が一気にポエジーの域に達する気がする。

そして人間には、いつも同じような名前をつけることで、どんな人間にも共通する想いに集約されてゆく気がする。

以下引用文。なんと「まほろ町」「かえらず橋」「あやまち川」という名前にそぐわない町であることか!
この現実と地名の乖離が、不思議な詩情と幻想へつながってゆく気がする。

あれからすでに十二年という歳月が流れていても
   まほろ町にさしたる変化はなく
      期待された高利益はもたらされず
         いまだに旧態依然たる田舎町の典型でしかなく、

         私の下をくぐり抜けるあやまち川と同様
            華やかな時代は
               ただ通り過ぎて行くばかりで、

               文明も文化も
                  所詮は他人事でしかない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」207ページ 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月6日(水)

ジョージ・オーウェル「動物農場」(高畠文夫訳)を読む

ーこれは今の日本と同じではないか!ー

「動物農場」は農園の専制君主ジョーンズ氏を追い出した動物たち。最初は上手くいっていたが、動物たちの権力闘争やら離脱もあって、やがて豚が人間に代わって権力を握りしめ独裁者と化してゆく……というストーリーである。

若い頃の私には「動物農場」の恐ろしさ、面白さがよく分からなかった。いま読んでみれば、まるで現代の日本について皮肉たっぷりに書かれたような作品である。

でも「動物農場」は、解説によれば「ソビエト的ファシズムをの実態を広く世界に訴え、警告を与えたい」という意図のもとに書かれたとのこと。
そうか……いま私がいるこの日本は、民主主義の仮面を被ったソビエト的ファシズムの国なのだ。

以下引用文。
農園主ジョーンズ氏を追放して独立を勝ち取った動物たち。だが主人に支配される状態を当たり前としてきた感覚から、そう容易く脱出できない。まるで私たちのように。

動物たちの中には、自分たちが「主人」と呼んでいるジョーンズ氏に対して忠実であるのは、むしろ義務とであるというものや、「ジョーンズさんが、われわれを養ってくれているんだぜ。もしあの人がいなくなったら、われわれは飢え死にするじゃないか」という、幼稚な発言をするものがいた。

(ジョージ・オーウェル「動物農場」より)

以下引用文。豚の横暴な支配下、厳しい暮らしを我慢している動物たち。でも人間に支配されていた頃はもっと酷かったと、現実を正しく見ることができない。そう、私たちのように。

彼らは、現在の生活がきびしい最低のものであること、しょっちゅう腹がペコペコだったり寒かったりすること、眠っていないときは、たいてい働いていることなど知っていた。しかし、あのころは、たしかに今よりもっとひどかったのだ。彼らは心からそう信じた。

(ジョージ・オーウェル「動物農場」より)

以下引用文。
引退年齢を迎えた馬である。
人間から独立した当初は、引退年齢が定められ、その年になったら労働を免れる筈であった。だが豚が横暴な支配者になるにつれ、そんな話は消えてしまう。
今の日本のようだ。

彼女は、引退年齢を二年も過ぎていたが、実際、ほんとに引退した動物は、まだ一ぴきもいなかった。老齢退職した動物のために、放牧場の一角を保留しておくという話は、とっくの昔に立ち消えになってしまっていた。

(ジョージ・オーウェル「動物農場」より)

「動物農場」の恐ろしさを我が事のように読んでしまう今の日本。だからこそ読みたい本である。

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さりはま書房徒然日誌2024年3月5日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「モノ」だからこそ「私」が連発されても気にならないし、かえって興味がわいてくるー

十一月二十日は「私は火花だ」で始まる。火花に魅せられて、ストーヴ作りをするようになったーそれも火花がよく見える夜にー男を火花が語る。

書き写していると「千日の瑠璃 終結」には、「私」が本当に多いと思う。
人間でないモノたちが語るからこそ、こんなに「私」が出てくるし、出てきても気にならないのだろう。それどころか「私」って「火花」ではないか、何を言うつもりか?と気になってしまう。

以下引用文。

火花に見惚れる男。その男をじっと見つめる世一の姉。その傍に立つ世一……という構成が、短い行数にもかかわらず、それぞれの心を語って深みを醸しているように思えた。

彼のほかに
   垣根越しに私をじっと見つめる者がいて
      ひとりの女が我を忘れて……、

      否、そういうことではなく
         彼女が私に魅了されたわけではなく
            私が照らし出す男を注視しており、

            そして今そのかたわらには
               奇妙よりも奇怪という表現がぴったりの少年が
                  前後左右に全身を揺らしながら立っていた。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結1」205ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月4日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「北」からこんなに物語が生まれるとは!ー

「私は北だ」で始まる十一月十九日。なんと「北」が語り手である。もし「北」をテーマに物語を作れ、短歌を作れ……と言われたら、どんな文が思いつくだろうか……と自問自答してしまう。

丸山先生は「北」を語り手にして、人間社会の理不尽を撃ち、そして束の間の幻想を見せてくれる。

以下引用文。「理不尽」が「大津波のごとく どっとなだれこんだ」という表現に、すべての男たちが兵隊にとられた時代への丸山先生の怒りを感じる。

そして
   年寄りと子どもを除いた男という男を
      ひとり残らず兵士に仕立てずにはおかぬ
         恐るべき理不尽は
            東の方から
               大津波のごとく
                  どっとなだれこんだ。


丸山健二「千日の瑠璃 終結1」199ページ

以下引用文。いかにも死の象徴らしい「北」が、「さまよえるボートを差し向けるから それに乗って遊びにくるがいいと唆す。」という言葉に表されている。童話の一節を読んでいるような気がしてくる箇所である。

この町で私のことを差別しない唯一の人間
   少年世一は今わが主張を口笛で代弁し

   その礼と言ってはなんだが
      できることなら彼の辛過ぎる悲しみを取り去ってやりたくて
         こっちへこないかと誘い、

         さまよえるボートを差し向けるから
            それに乗って遊びにくるがいいと唆す。



ところがとんだ邪魔立てが入り

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」201ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年3月3日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「 」の会話文にしないことで生まれる効果ー

「私は弱音だ」で始まる十一月十八日。
「不治の病に浸された」世一の母親が勤務先のスーパーでレジ打ちをしながら漏らす「弱音」が語り手である。

この箇所を、普通の書き方にして母親の言葉を「 」の会話文にしてしまうと、感情に走ったり湿っぽいだけの文になってしまうと思う。

だが以下引用文のように、母親から吐き出された「弱音」が自在にスーパーの店内を駆け巡って聞き手を探したり、客の様子を観察したりする。

そんなあり得ない情景はどこかユーモラスであり、湿った悲哀から解放してくれる。それでいながら母親の孤独を語ってくれるのではないだろうか?

そして
   さまざま憐笑の間隙を縫って突き進み
      親身になって私の話に耳を傾けてくれそうな相手を
         あるいは
             私などもう恥じ入るしかない
                もっと凄い悲劇を背負った母親を
                   懸命に探し回る。


しかし
   どの客もしっかりと財布を握りしめて
         まずまずの幸福の領域に身を置き、

      生鮮食品を品定めする鋭い眼差しは

         ともあれきょうを生きることに満足して
            それなりの輝きを放っている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」194ページ  

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さりはま書房徒然日誌2024年3月2日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー言葉を尽くして書くことで見えてくるものー

十一月十七日は「私はくす玉だ」で始まる。
くす玉の中から放たれた「貧乏くさい白い鳩」が、「オリンピックのメダルを手にして故郷に錦を飾ることができず」というマラソン選手の頭から、「厄介な病のせいで走ることなど思いも寄らぬ少年の頭」へ移動してゆく。
それにつれて人々の反応が変わってゆく様子を、動かぬ身であるくす玉がよく観察しているところが面白い。

以下引用文。「私が今し方放ったばかりの白い鳩」がマラソン選手の青年の頭に止まった瞬間、人々が浮かれる様子が「気」やら手を打つ様子、歓声で描かれている。
どよめきもありがちな会話で進めてしまうのではなく、「まだ期待が持てるかもしれないという意味に相違ない どよめきが広がってゆく」と丁寧に書かれている。

最近よく見かける小説なら、“「すごい」と拍手した“、と一瞬で終わるだろう箇所が、これだけ言葉を尽くして書かれることで、やけに立体的な文に見え、白い鳩のシンボルやら人々の愚かさ、可愛らしさを考えてしまう。

しかし、くす玉も最近ではほとんど見なくなった気がする。鳩入りのくす玉にはお目にかかったことが一度もないかもしれない。

ただそれだけのことで和やかな気が漂い
   一同は手を打って喜び
     ちょっとした歌が渦巻き、

     もしかすると
まだ期待が持てるかもしれないという意味に相違ない
           前向きなどよめきが広がってゆく。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」193ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月1日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー普段意識しない存在の意義を見つめる視線ー

十一月十六日は「私は空気だ」で始まる。
以下引用文にある空気が語る、自身の役割が私には新鮮である。「しっかり結び付けるために」「生と死を仲違いさせないために」……そう言われてみたらそうなのかもしれない。大きな視点にたち、人間以外の在り方に目を向ける姿勢が、従来の小説とは違うと思う。

さらには
   植物と動物を
      動物と鉱物を
        鉱物と植物をしっかり結び付けるために、

        あるいは
           生と死を仲違いさせないために
              仲介の労を執る。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」188ページ

以下引用文。そんな結び付ける働きをする「空気」が見えれば、世一は「絶望的なくいちがいなどひとつとして読み取っていない」存在なのだ。
普段「結び付ける」とか「くいちがい」とか全く意識しないで暮らしているので、そんな当たり前に意義を見出す視線が印象に残る。

しかしこの私だけは
   彼のなかに絶望的なくいちがいなどひとつとして読み取っていないし
      来るべき破局も予見しておらず
         彼ほどの現世的な原理に則った存在を他に知らないのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」189ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月29日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー重なり合うイメージが散文詩となってゆくー

「私は歌だ」で始まる十一月十五日は、もう誰からも歌われなくなった「まほろ町」の町歌が語る。

以下引用文。忘れられていた町歌を突然世一が歌いだした後に続く文である。


なぜ、この箇所が気になってしまったのだろう……と考える。


「青みがかった灰色の脳」と表現される少年世一の脳と「灰色が占めていた羽毛の全体に 青色が急速に広がり始めたオオルリ」「瑠璃色のさえずり」というオオルリが、形も、色も重なり合う。
このイメージの重なり合いが、「とりとめもない雑多な思考が 無秩序に渦を巻いている」世一が変化して、美しいオオルリに変化してゆくように思えてくるからではないだろうか。

つまり
   とりとめもない雑多な思考が
      無秩序に渦を巻いている

         少年世一の青みがかった灰色の脳のなかで
            なんの前触れもなく
               だしぬけに蘇生された。

思うに
   これまでは灰色が占めていた羽毛の全体に
      青色が急速に広がり始めたオオルリの
         まさしく瑠璃色のさえずりに
            強い刺激を受けたせいではないだろうか。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」183ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月28日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー虚と実ー

「私は鏡だ」で始まる十一月十四日は、「まほろ町が電話ボックスの三方に設置した 等身大の鏡」が語る。その鏡を覗き込んで反応する女たち、男たち、子どもたち、年寄りたち、犬ども……それぞれのイメージを捉え、ユーモラスに反応を語っている。私自身なら、そんな三方に等身大の鏡がある電話ボックスなんて入る気にならないかも……とふと思う。

以下引用文。世一に「誰だ、おまえは?」と訊かれた鏡が、訊き返す場面。
最後の「おのれから無限に隔たったおのれの世界へと帰って行った。」という言葉に、実像と虚像の関係とはこういうことなのかもしれない……となぜか納得してしまう。
そして世一という不思議な存在を感じる文だと思った。

だから苦し紛れに
   「おまえこそ誰だ?」と訊き返し、

    すると世一はにやりと笑い
       おのれから無限に隔たったおのれの世界へと帰って行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」181頁 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月27日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」を読む

ー悲惨さを打ち消すイメージー

十一月十三日の語り手は「快晴」である。快晴が見つめ語るのは「妻子ある男と私通」した挙句、青い花束を買って松の木で首吊り自殺をする女。「快晴」のとことん晴れ渡っている様子と女に象徴される何とも悲しい人間の世界、この対比が以下二箇所の「快晴」の描写によって際立っている気がする。

一年に一度
   もしかすると十年に一度
      あるかないかの
         透明度が尋常ではない
            完全無欠の快晴だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」174ページ

しかし
   私はいささかも動じず
      素知らぬ体を装って長時間をやり過ごし、

      美し過ぎる落日を迎えて
         夜の帷が降りてからも
            完璧さを保ちつづけ、

            一片の雲も
            ひとかけらの感傷も寄せつけなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」177ページ)

以下引用文。無惨な最後をとげた女だが、「白い花束」「青い花束」「ぴかぴかの月」のイメージが清浄な世界を示しているようで、自殺の事実にも関わらず救いを感じさせてくれる。

泣くだけ泣いた女友だちが
   松の根元に供えた白い花束は青い野の花をさらに引き立たせ
      ぴかぴかの月にもよく馴染んでいた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」177ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月26日

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーエッセイ「言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から」と重なる世界ー

「私はカマキリだ」で始まる十一月十二日には、カマキリとトノサマバッタのやり取りが出てくる。

いつも見慣れている自然の一コマが、丸山先生の言葉で語られると、どこか別の次元に浮遊しているような、不思議な感覚を覚える。
自然界が幻想味を帯び、ユーモラスな光と声にあふれてくる魅力は、丸山先生が今noteで書かれているエッセイ「言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から」の世界に重なるものがある。
元々、丸山先生の中には、こういう世界が、言葉があったのだなあと思いながら読んだ。
以下引用文はカマキリに答えるトノサマバッタの箇所。自然を優しく見つめ、そこから自分の哲学を構築される丸山先生の視線を感じる。

そう愚痴った私に対して
   ただ生きているだけで自足の境地に浸ることが可能という
     全身に偉大な跳躍の力を秘めたトノサマバッタが
        おまえはいったい自分を何さまだと思っているのかと
        そう言って嗤い、

        ただ生きているだけという
           それ以上の充足はなく、

           最高の生涯の証しにほかならないとまで
              言ってのけた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」171ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月25日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー漢字が多いのも意図があるのでは?ー

十一月十一日は「私は紋章だ」で始まる。
まほろ町に進出した「死んで元々だという見え見えの虚勢に色付けされた覚悟」を「黒い三階建てのビルに飾った」紋章が語る。何の「紋章」かは最後まで具体的に明かすことはないが、はっきりとどういう人たちであるのかが分かってくる書き方である。

この箇所は随分と漢字が多いのが印象的だった。紋章の金属感、普通の人を拒絶する雰囲気を漢字で表現しようとしているのだろうか。以下引用文もそうである。

正面切って世間に逆らい
   表社会を足蹴にし
      法律に真っ向から楯突く証である私は
         無難な日常を拒絶して
            常識や良識からおよそ掛け離れて生きざまを
               殊更強調して見せつける


(丸山健二「千にちの瑠璃 終結1)166頁 

以下引用文。悪のシンボルである紋章の光を撥ね返せるのは世一だけ……という描き方が、不自由なところのある世一の強さを表現していて心に残った。

因みに
   私が撥ね返す陽光をさらに撥ね返すことができるのは
      今のところ
         取り憑かれた難病を逆手に取って真骨頂を発揮する少年のみだ。

(丸山健二「千にちの瑠璃 終結1)169頁 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月24日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーただ一つの文に心情を滲ませてー

「私は温泉だ」で始まる十一月十日は、四人の農夫たちがうつせみ山の麓に掘った温泉が語る。
湯に浸かる農夫たちを語り、次に登場するのは丸山先生を思わせる小説家。大事に飼っていたという黒のむく犬まで登場する。
黒のチャウチャウ犬を飼われていたようだが、残念ながらチャウチャウ犬の写真は見つからなかった。黒い犬で出てくるのはブルドッグ、ヨークシャーテリア、柴犬だ。チャウチャウ犬は珍しい犬のようである。

「仏頂面が板に付いた男」が「真っ黒いむく犬」を温泉に入れて洗う場面、どこかユーモラスである。
「バスタオルですっぽりくるんだ犬を抱えて」という言葉にも、先生の実体験が伺えるようで飼っていた犬への愛情が想像できる。(私の芝犬は身震いして、天日干しだったなあ……と反省する)

「どこでもいいどこかへと 混沌の影を落としつつも 大胆不敵な足取りで帰って行った。」というわずか一文に、作者の心情が余すところなく込められている気がした。

小説家であることを地元民にほとんど知られていない
   仏頂面が板に付いた男が
      ふらりと現われ、

      彼は連れてきた真っ黒いむく犬を
         私のなかにどっぷり浸けこんだかと思うと
            たわしを使ってごしごし洗いながら
               「それにしても汚いお湯だなあ」を

                   さかんに連発した。

そして
   自分では入ろうとせず
      バスタオルですっぽりくるんだ犬を抱えて
         どこでもいいどこかへと

            混沌の影を落としつつも
               大胆不敵な足取りで帰って行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」164頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月23日(金)

村山槐多「京都人の冬景色」を読む

(絵は村山槐多「乞食と女」。行方不明の絵だそう。乞食は槐多自身、女は憧れの女性と言われている)

福島泰樹先生がNHK青山カルチャーで開講されている「文学のバザール浅草」は村山槐多について。
村山槐多の詩を朗読したりしたが、次の詩「京都人の冬景色」がとりわけ心に残った。
特に最後の「なんで、ぽかんと立つて居るのやろ あても知りまへんに。」。この最後の部分で、もしかしたら村山槐多が語ってきた冬景色は、死者の目、もしくは死者になりかけた者の目で、川という境界線に立って語られているのかも……と思い、また読み返してしまう。そうすると街の景色、空の色がまた別のものに思えてくる。

それにしても、この詩の朗読はとてもハードルが高そうだ。京都人が朗読したらどんな感じになるのだろうか。


京都人の夜景色

村山槐多

ま、綺麗やおへんかどうえ
このたそがれの明るさや暗さや
どうどつしやろ紫の空のいろ
空中に女の毛がからまる
ま、見とみやすなよろしゆおすえな
西空がうつすらと薄紅い玻璃みたいに
どうどつしやろえええなあ

ほんまに綺麗えな、きらきらしてまぶしい
灯がとぼる、アーク燈も電気も提灯も
ホイツスラーの薄ら明かりに
あては立つて居る四条大橋
じつと北を見つめながら

虹の様に五色に霞んでるえ北山が
河原の水の仰山さ、あの仰山の水わいな
青うて冷たいやろえなあれ先斗町の灯が
きらきらと映つとおすわ
三味線が一寸もきこえんのはどうしたのやろ
芸妓はんがちらちらと見えるのに

ま、もう夜どすか早いえな
お空が紫でお星さんがきらきらと
たんとの人出やな、美しい人ばかり
まるで燈と顔との戦場
あ、びつくりした電車が走る
あ、こはかつた

ええ風が吹く事、今夜は
綺麗やけど冷めたい晩やわ
あては四条大橋に立つて居る
花の様に輝く仁丹の色電気
うるしぬりの夜空に

なんで、ぽかんと立つて居るのやろ
あても知りまへんに。

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さりはま書房徒然日誌2024年2月22日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー言葉だから可能な表現ー

「千日の瑠璃終結」十一月九日は「私は絵葉書だ」で始まる。「平凡過ぎて不人気な絵葉書」が語り手となる文は、散文ならではの魅力が存分に伝わってくる。

これが映画なら膨大な情報量に埋もれて、絵葉書の存在は目にも入らないかもしれない。見えたとしても、ほんの一瞬で終わってしまうだろう。

だが「千日の瑠璃 終結」の絵葉書は、町長や世一の住んでいる家、その家族、バス停での姉妹の別離、新婚夫婦の食卓、孫と川遊びをする老女、旅館の宿泊客、離れ猿(前日に出てきた離れ猿だろうか?)、町の雰囲気まで語ってゆく。

映像は瞬間で終わってしまうもの。でも散文は語られてゆく過程を、読み手も想像力を駆使して楽しむもので時間がかかる……昨今、そんな楽しみ方がなおざりにされている気がする。

以下引用文。絵葉書が自分の写真に写されている世一の家を語る場面。「てくてく歩いて行く」「飛翔している小鳥の姿」「外套の裾が突風に翻って」という言葉のおかげだろうか、写真の中の世一の姿が動画の中にいるように健気に動き出す感じがする。

そして
   四季折々の光が
      ぼろ家に邸宅の雰囲気を授け、

      陽光を反射する窓という窓には
         逸楽の日々すら感じられ、

         これはまだ誰にも気づかれていないことで
            数ある私のなかの一枚に
               丘の斜面に刻まれた道をてくてく歩いて行く
                  今より幼かった頃の世一の後ろ姿が
                     点のように認められた。



どこか飛翔している小鳥の姿に似ていたのは
   たぶん
      外套の裾が突風に翻っていたからだろう。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」159頁)

以下引用文。

写真では中々表現できない歴史への非難、町の雰囲気までも言葉にすれば表現できるのかと思った。

さらには
   国家の栄誉のためと称して始められ
      惨敗に終わった戦争の残渣としての
         抒情的な暗さまでもが
            ちゃんと写っていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」161頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月21日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー語り手をどうするかで、双方の立場を語ることが可能になってくる!ー

「私は追放だ」で始まる十一月八日は、一方的に群れを追放された猿を「追放」が語る。

以下引用文。
「群れの猿」でもなく、「追放された猿」でもなく、「追放」が語ることで、両者の生き方の差が、どちらかに偏ることなく鮮やかに描かれている気がした。

そして
   どこまでも腹黒い列座の面々は
      猿として生きなくてはならぬ本筋を再三再四逸脱したという
         そんな理由をもって
            生き物として独立した一個の存在たり得ている
               少々アクの強いその猿と
                  きっぱり袂を分かつことに決めたのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」155頁

以下引用文。丸山先生は追放された猿に世一を重ね、自分自身も重ねているようにも思えてくる。

離れ猿は
   どこか獣的な身ごなしと叫び声に深い共感を覚えたのか
      少年にすっかり魅了されて


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」157頁

以下引用文。こういう情景描写は、ずっと信濃大町で暮らしている丸山先生だから生まれてくる文なのかもしれない。

ほどなくして谷という谷が
  猿らしく生きることしか知らぬ猿たちの嘲りの声でいっぱいに埋め尽くされた


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」157頁

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さりはま書房徒然日誌2024年2月20日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し読む

ー映画では出来ない、文章だから可能な表現ー

昨日、「千日の瑠璃 終結」について、映画好きな丸山先生は時々映画の場面を思わせるような情景をつくると書いた。
丸山先生は映画でこそできる表現、できない表現というものを考え、時として「映画ではできない表現」に言葉をぶつける気がする。


以下引用文も、言葉だから可能な表現なのでは……と思う。


主人公の目に「高層ビルの最上階から遠望される」風景。

映画なら一瞬で終わってしまう場面だろう。

でも言葉で表現されると、読み手の頭にその景色が浮かんでくるまで言葉と言葉を結びつけ、想像して……という複雑な過程を踏むことになる。
でも大抵、その過程が面倒くさかったり、実用的な文が良しとされる最近の国語教育の風潮を思えば理解されなかったりするのだろうが、この実に頭を使う面倒臭い過程こそが、人間である楽しみなのではないだろうか?

引用文に作者が込めた現代社会への批判的な視線……この視点こそが書く行為の根本姿勢ではないだろうか、現代日本では軽んじられているけど……と思ってくださる方がどこかにいたら嬉しいです。


このレイアウトがサイト上に綺麗に表示されるか心許ないのですが……。

「風死す」はそのうち神保町PASSAGE SOLIDA 詩歌の専門棚にある「さりはま書房」の棚に置く予定です。神保町散策の折、ちらりと立ち読みしに棚に寄って頂ければ幸いです。

そして 太古の昔から聳え立っているかのような高層ビルの最上階から遠望されるのは

  地球規模に蔓延する巨悪であり 忌避の対象としては充分な 異様な事物群であり

    産業予備軍の緊縛にはどうしても打ち克てない 弱体化が進み行く立場であり

      購買意欲をそそる 膨大な数の商品が 所狭しと並んでいる陳列棚であり

        繁文縟礼のきらいが多分にある 埋め合わせ的な お役所仕事であり

          高談雄弁が飛び交う抗議集会であり クスリに淫する風潮であり

            やけに軽弾みな言動であり 憤死の源であり 嘘偽りであり

              人口の稠密度がおそろしく高くて破滅が臭う空間であり

                寝食を忘れて最終兵器の研究に打ちこむ学者であり

                  隣接区域を残らず買占める無秩序な噴出であり

                    世に遍く知られている非現実的な夢であり

                      錯乱の光景であり 危険の源泉であり

                        煩いの種であり 薄ら笑いであり
                          性腺から出るホルモンであり
                            荒れそうな空模様であり
  
              才気煥発な子であり

                死ぬ巨木であり

朝霧であり

                  心的な錯乱
                    であり、

さもなければ 憂悶の情に堪えない 未来を完全に奪われてしまった不幸な時代であり

  生を威圧してやまぬ緩慢な死であり 詩才の限界を超出して精選された言霊であり

    その筋の専門家に貢献する鋭敏な鑑識眼であり 胸に響く忠告のたぐいであり

      持参金の多少によって評価される人物像であり 萌え出る若草の原であり

        やきもきさせられる問題解決のもたつきであり 避難先の花壇であり

          同業者の離間を企てたがる著名な経済人であり 直行の士であり 

            創作に筆を染めた芸術家であり 過酷な大地を好む命であり

              定かにはわからぬ他人の事情であり 権力の継承であり

                世を儚んでの入水であり 接岸する大型艦船であり

  国旗を先頭に押し立てて行進する愛国者であり

    みるみる肥立ってゆくまだ若い産婦であり

      親子の情を見せつけられる情景であり

        長年の努力が無になる瞬間であり

          苦しみながらの断末魔であり

            本震並の揺り返しであり

              煩多な力仕事であり

                魂の亀裂であり

                  涙声であり


                  軍事的危機
                  である。

(丸山健二「風死す」1巻540〜544頁)
   

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さりはま書房徒然日誌2024年2月19日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーその物に相応しいストーリーを楽しむー

昨日書いた文を読んでくださった方が、「丸山先生の『死』に語らせるという発想、それから五感を使った描写に新鮮さとユニークさを感じた。こういう発想はどこから生まれてくるのでしょうか」という趣旨の感想をくださった。拙文を読んでくださり有難い限りである。

「死」に語らせた場面は、無類の映画好きの丸山先生らしい、映画の一場面であっても不思議ではない書き方のような気がした。丸山作品には、時々、映画を思わせる場面が出てくることがよくある。
語ることのない物たちが語りながら進んでゆく……という「千日の瑠璃 終結」の設定も、その物ならではのストーリーもあり、表現もあるようで楽しみながら読んでいる。

さて十一月七日は「私はラジオだ」で始まる。それも「鉱石の検波器を用いた 高齢者に懐かしがられてやまぬラジオ」と年代物のラジオのようである。
そんなラジオの持ち主は「殊に軍隊時代の話は避けている男」である。
新しいラジオをプレゼントされても、古いラジオを手放そうとしない主のために見せるラジオの思いやりが、なんとも幻想味があって心を打つものがある。

たしかにこういうストーリーはどこから生まれてくるのだろうか……不思議である。

だから私は
   せめてもの感謝の意を込めて
      死んだり離れたりして遠のいた身内や戦友の声に
         限りなく近い声のみを選び出し、

それをより誇張して
            彼の心の奥まで送り届けてやり
               ときには涙を受け止めてやった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」151頁

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さりはま書房徒然日誌2024年2月18日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー感覚のない筈の死体を感覚をフルに発揮して書けば……ー

十一月六日は「私は死だ」で冒頭が始まる。そのあとは以下引用文のように続く。この「死」がどうやって語り手になるのやら、一瞬戸惑う。

ついさっきまでこの世に在ることの喜びと
   限界の速度に挑むことの陶酔を満喫していた人間を奇襲した
      あまりに呆気ない死だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」146ページ)

だが、その後に続く以下引用文にあるように、死の場面が、音、体温、周囲の田んぼの景色と五感で具体的に語られるおかげだろう。抽象的な死が、急に身近な語り手に思えてくる。
しかも田んぼの一点として語ることで、視点が若者の死に否応なしに向けられる気がする。

死体のまわりの感覚をとらえ、しかも死体を広い空間に置いて眺めることで、映像が鮮やかに浮かんでくる。だから語り手が死であっても納得できる気がする。

私は今
   まだエンジンがぶんぶんと唸りをあげている最新型のオートバイと
      体温を急速に下げつつある若者と共に
         取り入れが済んでから大分経つ田んぼの片隅に
            無様にひっくり返っている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」146ページ


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さりはま書房徒然日誌2024年2月17日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー作者が色濃く投影されている!ー

「私は野良犬だ」で始まる十一月五日は、「明日のことなど考えたこともない 典型的な野良犬」が世一を語る。

作者の理想とする姿が野良犬に投影されているようでもあり、また世一にも作者の想いを見るような気がする箇所である。

以下引用箇所。野良犬が語る自身の姿。「自由の大きさと深さ」という言葉は、自由を大事にしている丸山先生だからこそ、心から発する表現のように思えてならない。

わが自由の大きさと深さを心底から理解してくれているのは
   世一ただひとりでしかなく、

   少なくとも私の方は
      世一の自由の素晴らしさを充分過ぎるほどわかっているつもりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」143頁) 

以下引用箇所。読み手が抱いていた不自由なところのある世一……という姿をくるりと回転させ、考えさせ始める表現である。

彼はまさに人間でありながら
   同時に人間以外のすべてでもあって


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」144頁) 

以下引用は、この日の最後の部分。
「されど孤にあらず」は丸山先生のエッセイのタイトルだ。世一は、丸山先生自身と宣言する言葉のように思え、作者の世一への深い共感を感じてならない。

子供らしからぬ声で
   「されど孤にあらず」と
      そう言い放ったのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」145頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月16日(金)

酒を語る文がかくも違うとは!「千日の瑠璃 終結」「風死す」の酒が出てくる場面を比べる

最近、丸山先生がNOTEに書かれているエッセー「言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から」を楽しく拝見している。
エッセーの文体、「千日の瑠璃 終結」の文体、「風死す」の文体……それぞれが違っていて、それぞれ別の良さがある。
丸山先生の色んな部分を見る思いがするし、一人でこれだけ文体を書き分けるとは!と驚く。

さて「酒」を題材にしても、まったく語り方が異なるもの……と思った箇所を「千日の瑠璃 終結」と「風死す」から見てみたい。

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー場末感ー

以下引用文。「臓物のごとく入り組んだ袋小路」「焼酎」「売れ残りの干物」と場末感がたっぷりである。

私は酒場だ、

   臓物のごとく入り組んだ袋小路の一角にあって
      酒は焼酎
         肴は売れ残りの干物しか出さない
            田舎暮らしを侘びる連中のための酒場だ。


(丸山健二「千日の瑠璃」138頁)

以下引用文。そんな場末にやってくる者たちらしい描写である。

全ての文が「者」で終わって、普通なら重苦しさを感じる筈なのに重圧感がなく、かえってリズムが生まれている気がする。

なぜなのだろうか?分からない。

「者」の前にくる言葉がすべて音を発する言葉だから、重苦しい気が発散されたまま「者」という言葉に収束されるのだろうか?

最初が「怒鳴り散らす者」で、最後が「床にぶっ倒れてしまう者」とド派手な点も、重苦しさを消し去っているのかもしれない。

にこやかな笑みを突然消し去って怒鳴り散らす者
   唯一の得がたい体験を幾度となく語る者
      意気消沈の臭い芝居を延々とつづける者
         放心状態で後悔と怨念の歌をくり返し口ずさむ者
            髀肉の嘆を託つうちに床にぶっ倒れてしまう者、

(丸山健二「千日の瑠璃」138頁)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー踊り子たちの動きが見えてくる!ー

同じように酒を飲むなら、こういう体験をする方がいいなと思った。
延々と続く長い文が、酔眼をとおして眺める「踊り子たち」の舞い、揃いの着物、華やかな集団を表現している気がした。

春の月夜に酩酊して浮かれ歩こうと思い 暖かいそよ風が吹く河畔に沿った直後に
   満開の桜の下で差す手引く手も鮮やかに舞う 揃いの着物を纏う踊り子たちの
      それ以上望むべくもないほど華やかな集団と ばったり出会ったところで
         なぜかは知らぬが しこたま飲んだ酒の効き目はまったく認められず


(丸山健二「風死す」1巻534頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月15日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」を少し読む

ー漢字一字でイメージがガラリと変わる!ー

十一月三日は「私は頽廃だ」で始まる。

「頽廃」も「退廃」も意味、読みは同じだと思うが、辞書で調べてみれば「頽」には「崩れる」という意味があり、「退」には「しりぞく」という意味があるのだろうか。
だから「頽廃」の方がより荒んだイメージが出るように思う。

世一が住む「まほろ町」を覆う「頽廃」が語る町の様子も、人々の様子も、「まほろ町」というよりも、日本全体を表しているような気がしてならない。

以下引用文。
「停滞の底に横座りになる」「気休めの言葉の上に 長々と寝そべる」という言葉が、「まほろ町」の住民の雰囲気をよく表しているし、ここまで飛躍して表現できるのかと参考になった。

住民の精神はとことん朽ち果てて
   もはや先行きの心配すらしなくなり
      深刻な難局に当面しているという自覚も持ち合わせておらず、

      絵に描いたような僥倖を待ちくたびれたかれらは
         痺れをきらして安寧もどきの停滞の底に横座りになるか
            さもなくば

               一時不安を解消する気休めの言葉の上に
                  長々と寝そべるばかりだ。


(丸山健二「風死す 終結 1」135頁 


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さりはま書房徒然日誌2024年2月14日(水)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ー思いもよらないイメージ同士がピッタリハマる不思議さ!ー

目に見えないもの、嫌なものをこういう形で表現するか……と新鮮な驚きがある。いつまでもズルズルと引きずっている感じ、どこか権威的な滑稽なところがあるイメージがピッタリ自己嫌悪と重なって、すごく印象に残る。これから映画やテレビドラマで大名行列の場面を見るたびに、この文を思い出してしまいそうだ。

大名行列の供揃いに似た形で連なり行く自己嫌悪のあれとこれを
  すっぱりと断ち切ってから

(丸山健二「風死す」1巻512頁)

以下引用文。近づく死を語る主人公の言葉。「ぽっかり浮かび」「どうでもよく」「崩れ果て」「滅びてゆき」という言葉に、「死が差し迫って」いる感じがよく出ている気がした。遠くに何かを眺めながら、周囲が崩れてゆく……という感覚になるのかもしれない。

今さらおめおめと帰れぬあの郷里が
  薄明の夜の片隅にぽっかり浮かび

  未見の地と人はどうでもよく

    胸に宿る実在の魂が崩れ果て

      正義が永劫に滅びてゆき

        悪魔の代弁者と化し

          答弁は玉虫色で



          死が差し迫って
            肉の情念が
              弱まる。


(丸山健二「風死す」1巻512頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月13日(火)

移りゆく日本語の風景

ー「お前」という言葉ー

「お前」という言葉の変遷については、はるか昔、高校時代に古典の時間でやったかも……という気もしなくもないが、復習を兼ねてもう一度。

文楽2月公演第3部「双蝶々曲輪日記」を観ていたら、見受けされた遊女・吾妻が姑に「さりながら。お前」と呼びかけていた。この時代の「お前」の使われ方は、現代とは違うのだなあと日本国大辞典で調べてみた。


「お前」の意味、用例、語誌ついてー日本国大辞典よりー

(1)目上の人に対し、敬意をもって用いる語。近世前期までは、男にも女にも用い、また、男女とも使用した。

*蜻蛉日記〔974頃〕中・天祿二年「御まへにもいとせきあへぬまでなん、おぼしためるを見たてまつるも、ただおしはかり給へ」

*打聞集〔1134頃〕「此所をば寺に立て給へ。をまへにゆづりまうす」

*うたたね〔1240頃〕「あな心憂。御まへは人の手を逃げ出で給か」

*歌舞伎・姫蔵大黒柱〔1695〕一「是はお前を祝ひましての事で御座ります程に、構へてお腹を立てさしゃんすな」

*浮世草子・世間娘容気〔1717〕一・男を尻に敷金の威光娘「お前にもあんまりこはだかに物おほせられて下さりますな」

(2)対等もしくは下位者に対して用いる。親愛の意を込めて用いる場合もある。江戸後半期に至って生じた言い方。

*俚言集覧〔1797頃〕「御前(オマヘ)。人を尊敬して云也、今は同輩にいふ」

*滑稽本・浮世風呂〔1809~13〕前・上「西光(せへかう)さん、おまへの頭巾(づきん)はいつもよりあたらしくなったやうだ。わたしが目(め)のかすんだせへかの」

*安愚楽鍋〔1871~72〕〈仮名垣魯文〉二・上「ネエおはねどん、おまへのまへだが、伊賀はんといふ人もあんまりひけうなひとじゃァないか」

*尋常小学読本(明治三六年)〔1903〕〈文部省〉五・六「おまへは、人が、なつ、かぶる麦藁帽子は、なんで、こしらへたのだか、しってゐますか」

*墨東綺譚〔1937〕〈永井荷風〉六「馴染の女は『君』でも『あんた』でもなく、ただ『お前』といへばよかった」

語誌

【二】の例は、江戸前期までは、敬意の強い語として上位者に対して用いられたが、明和・安永(一七六四~八一)頃には上位もしくは対等者に、さらに文化・文政(一八〇四~三〇)頃になると、同等もしくは下位者に対して用いられるようになり今日に至った。ただし方言としては、今も上位もしくは対等者を呼ぶところが点在する。


最後に…。

敬意の意味での例文の最後は1717年、対等の意味での例文は1797年のものである。わずか80年の間に「お前」の使われ方が敬意を表すものから、対等を表すものへ変化したのである。ずいぶん変遷が早いのではないだろうか。

「双蝶々曲輪日記」が最初に上演されたのは1749年、書かれたのも同じ年だろう。まだ1749年の上方では、「お前」という言葉は敬意を込めた表現だったことがわかるのではないだろうか。それから48年後には、「お前」は対等表現に変わるのである。

日本語という言葉はなんと移り変わりの激しい言葉なのだろうと思う。それだけ変化を受け入れやすい柔軟な言葉なのかもしれないが。
10年先、20年先の日本語はどこに向かっているのだろうか?きっと「お前」に匹敵する変化があるのではないだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年2月12日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーとても小さな物で人間を語る面白さ!ー

十一月二日は「私は茶柱だ」で始まり、「あしたへ希望を繋ぐことなど到底不可能な 貧相な茶柱」が世一とその家族を観察する。
茶柱一本でこうも家族の反応が違うのか……それぞれの精神状態を描けるのかと感心する。
以下引用箇所。母親の胃袋へと飲み込まれた茶柱……その目を通して語られる胃の内部や茶柱の様子がどこか物悲しくもあり、ユーモラスでもある。

茶柱一本でかくも人間を語ることができるとは……と思った。

粗末な朝食や
   悲哀の断片や
      儚い望みなんぞで
         ぎっしりと埋まった胃袋のなかであっても
            私はかなり無理をして
               垂直の姿勢を辛うじて保っていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」133頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年2月11日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ー世俗の垢にまみれた存在とは対照的な世一!ー

十一月一日「私はバスだ」で始まる。
「観光客の数を少しでも増やすための窮余の一策」であるボンネットバスが、乗客や運転手や車掌、世一を語る。


噂好きで若い二人の乗客の会話に聞き入りながら、肝心な本質、「二人が駆け落ちしてきている」にまったく気がつかない……この車掌の愚かしさは、作者が嫌う田舎に暮らす人間特有のものなのだろうか?


若い二人を語る口調も辛辣である。

その場を言い繕うことに長け
   赤の他人に調子を合わせることが巧みで
      特にこれといって目途とするものがなくても易々と生きてゆかれる
         そんな手合いで


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」127頁 

若い二人がこんなに世間ずれしているだろうか……と疑問も湧くが。
そんな汚泥の中にあるような人間たちとは対照的なのが、最後に出てくる世一である。
若い二人がバスに手を振ると、世一は……

がらんとした通りを横切りつつある少年世一が
   私に成り代わって危なっかしい若者に手を振り返す。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」129頁 

「危なっかしい」若者も恐れる気配のない世一が、この世の狭苦しい常識を超えた大きな存在に思えてくる。



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さりはま書房徒然日誌2024年2月10日()

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー記憶の断片に自分と重なる顔を見つけることもあるー

スタイルはあっても、いわゆる起承転結できちっと収まるストーリーらしきストーリーがあまりない「風死す」……中々読み進まないという声もちらほら聞く。頑張ってストーリーとして理解されようとしているのではないだろうか……とも思う。

以下引用文にあるように、「通りすがりの他者の生の断片が」「不明な意味を有し」「順不同のまま」「迫り」なのだから、そこにストーリーを見つけようとしたら溺死してしまうのではないだろうか?

そうした 取り留めもない流浪の途中で偶然見かけた 通りすがりの他者の生の断片が
  まったくもって不明な意味を有し 順不同のままひとまとめにされて どっと迫り

(丸山健二「風死す」1巻507頁)

507頁の前の数ページでは、およそ40人の生がそれぞれ二行か三行で語られている。読んでいる方は道を通り過ぎる色んな通行人を眺める心地になってくる。

そのうち「あ、これは自分だ」という人物もいてハッとする。例えば以下の箇所。


たくさん語られている人物のうち、よく眺めると自分と似た顔を発見する……そんな楽しみもあるような気がする。

給料から天引きされることで実感が湧かず
  そのせいでいつまでも気づかぬ搾取を
    ふとした拍子に理解した労働者が


(丸山健二「風死す」1巻505頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月9日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー少年世一のピュアな行動ー

十月三十一日は「私は義手だ」で始まる。
キノコ狩の名人を支えてきた義手。

だがマムシを見かけた主人は鎌を大事にするあまり、義手で毒蛇を殺す。
その心無い行動に義手は傷つく。
義手だからこそ、ストレートに発散される傷心ぶりも、心動かされるものがある。

主人公・世一はキノコ狩りの名人の冷淡さとは対照的な行動をとる。そのピュアな部分が、「おのれの腕と見比べ」「実の籠もった握手」「言葉ではない言葉で別れを告げ」という言葉に強くあらわされている気がした。

全身の揺れが片時も止まらぬ
   奇々怪々にして気の毒な病人は
      きめ細かい川砂を丹念に擦りつけて私を洗い、

ついで
   自分のシャツでもって水気を拭き取り、

    それからおのれの腕と見比べながら
      実の籠もった握手を求め、

      日当たりのいい岩頭の上にそっと置いて
         言葉ではない言葉で別れを告げてから
            泳ぐような身のこなしで去った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」125頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月8日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー語らずして辛さを想像させるー

十月三十日は「私は嫌悪だ」で始まる。
嫌悪とは縁のなかった「心映えのいい人であった」女……。
彼女が身籠ると同時に腹に宿した「嫌悪」が、主人公・世一を、自分自身を語ってゆく。


この妊婦がどういう暮らしをしている人なのか具体的に作者は語らない。ただ冒頭の数行をもって、きっと辛い思いをしている人なのだろう……だから「心映えのいい人」が嫌悪を腹に宿すようになったのだろう……と推察させる。

そこから幾つもの切ないストーリーが、読み手の脳裏に生まれてくる気がする。

まだ若い妊婦の
   苛酷一辺倒の現世に向かってぽんと張り出した
      滑稽にして無様な形状の腹に宿る
         いかんともしがたい嫌悪だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」118頁)

妊婦の腹に宿る「嫌悪」が語る世一の姿は「さまざまな風を引き連れて」と相変わらず自由で不思議な存在である。
また「昼となく夜となく」という言葉にどこか不気味な存在でもあるように感じた。

半分ほど登ってから立ち止まって振り返った彼女は
   さまざまな風を引き連れて
      昼となく夜となく
         生地の隅から隅までを徘徊する少年を
            さも憎々しげにもう一度見やり


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」120頁
   


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さりはま書房徒然日誌2024年2月7日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー二行の文に一つのストーリーが凝縮されている!ー

495頁「されど 命旦夕に迫った今となって 生々しくも思い出されてならないのは」という文のあと、「〜でもなく」という否定で終わる文が12続く。

そのあとで「たとえば」で始まる思い出される事柄を記した文が27続いた後、最後「かれらの記憶が 束になって 寄せる」(503頁)と締め括られる。

この辺りの文の形で戸惑い、分からなくなってしまう人が出るのかもしれない……。

でも、英語圏の小説家にはこういう文を書く人がいたような記憶がある。not で始まる文が連続、for example で始まる文が連続……という英文に苦しんだ記憶があるのだが。はて誰だったのだろうか。

戸惑うかもしれないが、慣れてしまうと12篇の小説が、27篇の小説が凝縮されて並んでいるようで楽しい。

以下引用は、そんな思い出されることを記した27の文のうちの一つである。

戦中の体験に不快の念を持って未だに翻弄されつづけながら
  皇室に冷然たる眼差しを投げかけられない高齢者であり


(丸山健二「風死す」1巻498頁)

こうした二行単位の文に記された死を間近に控えた青年の記憶……わずかな文だけで自分の頭の中にストーリーが浮かんでくるような気がする。


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さりはま書房徒然日誌2024年2月6日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー躍動感のもとになる言葉ー

十月二十九日は「私は畑だ」で始まる。
語り手は蕎麦畑。耕している禅宗のお坊さんたちのことを皮肉を込めて語り、しびれを切らして「落石のごとき突然」な世一の出現を待ちわびる。

丸山先生が普段眺めているだろう大町の光景が浮かんでくるような文である。
「蕎麦などはむしろ手を掛けてやらないほうが上質になる」(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」115頁)ということも知らなかったし、
禅宗のお坊さんたちが蕎麦畑で作業をする……という姿も思い浮かべたことがなかった。
大町では、もしかしたら目にすることのある風景なのかもしれない。

登場した世一が随分と躍動感あふれるのは「ジグザグに突っ走り」「好きなだけ踏みしだき」「びゅんびゅん振り回してという強い言葉にあるのかもしれない。
さらに「陽光を撥ね返すほどの暗い奇声」「人間である限りは何をしても無駄」……そんな世一の不可思議な姿を考えてしまう。

「神も仏もあったものではない そんな世一を制止できる僧侶は皆無だ」(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」115頁)という最後の言葉はどこかユーモラスであり、作者の宗教への考え方を反映しているようにも思う。

だしぬけに登場した彼は
   高い土地から低い土地へジグザグに突っ走り
      収穫寸前の蕎麦を好きなだけ踏みしだき
         棒切れをびゅんびゅん振り回して薙ぎ倒し、


         降り注ぐ陽光を撥ね返すほどの暗い奇声を発し
            人間である限りは何をしても無駄という
               そんな意味の笑声を撒き散らして

                  悟り澄ました空間を
                     大いにかき乱した。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」116頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月5日(月)

変わりゆく日本語の風景

ー昼食(チュウジキ)から昼食(チュウショク)へー

文楽公演1部「仮名手本忠臣蔵」を観に行った。文楽は江戸時代の上方の言葉のままで語られる。言葉のタイムトラベルを楽しめるのも文楽の醍醐味の一つだと思う。一方、歌舞伎は分かりやすさを求めてだろうか……言葉をほぼ現代のものに置き換えている。
今日「後に残るは昼食(チュウジキ)の握り飯」という官兵衛の義父の言葉が心に引っかかった。
昼食(チュウジキ)は、今では殆ど使われない言葉のように思う。いったい、どんな風にして昼食(チュウジキ)から昼食(チュウショク)に変わっていったのだろうか?

日本国語大辞典でまず昼食(チュウジキ)の例文を調べてみる。

室町時代から明治時代まで使われていたようで例文がある。


*運歩色葉集〔1548〕「昼食 チウジキ」

*日葡辞書〔1603~04〕「Chùjiqi (チュウジキ)。すなわち、ヒルイイ。または、ヒルメシ〈訳〉正午の食事」

*浮世草子・新色五巻書〔1698〕二・一「風呂敷より握飯の昼食(チウジキ)喰しもふと始まり」

*破戒〔1906〕〈島崎藤村〉一一・一「昼食(チウジキ)の後、丑松は叔父と別れて」


次に昼食(チュウショク)の例文を調べてみる。
昭和以降の例文しかないから、もしかしたら昼食(チュウショク)という読み方は比較的最近になって生まれたのかもしれない。


*苦心の学友〔1930〕〈佐々木邦〉若様の御手術「先生から予め注意があったので昼食(チュウショク)は取らない」

*白い士官〔1930〕〈阿部知二〉五「昼食(チウショク)がをはった。堀田はうとうとゐねむりする」


さらに日本国語大辞典「昼食」の語誌の箇所にあった説明を要約すると以下。どうやら食生活の習慣と共に表記も変化してきたようである。


古代の日本人の食生活は、現在とは異なり朝食と夕食の二食であり、昼に食べる食事は間食として意識されていた。これが正午(日中)に食する 食事と時間的に近く、朝と夕の中間ということも表わすので朝食と夕食との間にとる食事 の意が生じた。後、次第に三食が一般化したことにより、朝食、夕食に対して昼にとる食事ということで、同音の「昼食」とも表記されるようになったと思われる。(日本国語大辞典より要約)


習慣と共に言葉も変化してゆく。孤食、飽食の現代、食を表す言葉はどう変化するのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年2月4日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーイメージを考えることで余韻が生まれる気がするー

「私は扉だ」で始まる十月二十八日。

まほろ町に開設された「小型の火器を懐に帯び」「いずれもが欠損している異様な手」の男たちが出入りする事務所の扉が語る。


常識の範囲で生きる「まほろ町」の住民たちが男たちや事務所を恐れる様子、恐れられている男たちの様子……そうしたものがどこかユーモラスに書かれている。


そんな町民たちが恐れる事務所の扉に落書きをする世一は、どこか不思議な存在である。


最後が「その絵は鳥のようでもあり髑髏のようであった」とあるので、世一が飼っているオオルリの姿なんだろうか、それが髑髏に見えるとはどんな形?と思い浮かべ、しばし余韻を楽しんだ。

ところが
   夜更けになってやってきた
      不治の病のせいなのか
         怖れというものを知らない少年が
            拾ったチョークを使って
               私の面に落書きをし


               その絵は鳥のようでもあり
                  髑髏のようであった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」113頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年2月3日(土)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー「詩」を語っているような言葉ー

以下引用文。
「魂の上澄みをすくって飲んだようなそんな思い」という箇所で、「魂の上澄み」ってどんな色、どんな味?と感覚に訴えてくるものがある。


「雨といっしょに舞い降りた 霊像のごとき雅な詩」という箇所、「雨といっしょに舞い降りた」という感覚が、詩人の主人公が詩を語るのにぴったりな表現だと心に残る。


「まろびゆく世界をかく在るべき姿に変えて」という表現も、 詩の働きをよく表しているように思う。


「銀灰調の光」も詩語のイメージだし、「心不在の嘆き」という語も一瞬どういうことだろうと考えたが、本来の詩は言葉が感情より先頭に立って紡いで行くものなのかも……と思った。

        こ
       う言っ
      てよければ
     魂の上澄みをす
    くって飲んだような
   そんな思いで 清廉な心
  地に浸ることができた 雨と
 いっしょに舞い降りた 霊像のご

  とき雅な詩が まろびゆく世
   界をかく在るべき姿に変
    えて 銀灰調の光が
     速やかに流れ去
      った 心不
       在の嘆
        き 


     (丸山健二「風死す」1巻)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーボートにこれほど思いを込めるとは!ー

十月二十七日「私は交情だ」と始まる。
二人の老人の間に続く交情が、老人を、まほろ町の人々や風景、世一を語る。
そのなかでも、まほろ町の湖に浮かぶボートを語る文に、ありふれた存在にかくも見えないロマンと性格を感じるのだろうか……と作者の視線が心に残った。

湖上に浮動する物体は
   死者の魂を好んで運びたがるボートで
      かなり大胆な自己顕示欲であるにもかかわらず
         菊の花の鮮やかさに圧倒されて
            人々の目に止まることはない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」109頁

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さりはま書房徒然日誌2024年2月2日(金)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー同じアウトサイダーを語っても文体が違う!ー

「千日の瑠璃」の主人公・世一は脳に麻痺のある少年。
「風死す」の主人公は犯罪者にして詩人、癌患者の二十代。
どちらも、この世では外れて生きている者たちである。

だが二人を語る文体はガラリと変わっている気がする。どう違うのか問われると困るのだが。

以下引用文。主人公が自分自身を語っている箇所だが、理屈っぽい生意気でギャングみたいな姿が浮かんでくるのは、「激動の二十一世紀の目抜通り」とか「ド派手な街着を纏って闊歩する」「暗喩を用いての説明が可能な」など大胆な言い回し、漢字を多用しているせいなのだろうか?

とにかく、また「風死す」の世界に戻ってこれて嬉しい。

下劣な発想と さもしい心根とに大きく左右される 激動の二十一世紀の目抜通りを
  家族や社会に隷属していない立場を表わす ド派手な街着を纏って闊歩する


(丸山健二「風死す」1巻479ページ

かくして俺は直喩を用いての説明が可能な 単純明快に過ぎる流しの犯罪者と定まって
  平野に点在した村落などにはまだまだ残されている醇風美俗を知りつつも荒れ狂い

(丸山健二「風死す」1巻481ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月1日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー腐った牛乳の怒り、哀しみを吹き飛ばす世一のピュアな心ー

十月二十六日「私は牛乳だ」で始まる。
語り手は停電のせいで腐敗してしまった牛乳。そんな己を飲んだ世一を眺めながら、牛乳はユーモラスに怒り、やがて自分と世一のことを哀れにも思う。
だが、そんな腐った牛乳の思いを吹き飛ばす世一の行為が……。
あらためて不自由な少年・世一に寄せる作者の想いの強さを感じる展開だった。
以下引用文。腐った牛乳がユーモラスに怒りを語る。

なんだか酷く汚らしい胃袋に流しこまれた私は
   その腹いせに
      ここ一両日中に爆発的に数を増やした
         命取りにもなりかねぬ
            幾種類もの菌をぶちまけてやり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」103頁

以下引用文。腐った牛乳は自分と世一のことを悲観的に捉えるが……この後の世一のある行為が、腐った牛乳から毒を消し去る。

無価値な者と無価値な物というマイナス同士が結びつくことで
   共に仲良く消え失せる
      これこそが理に適った淘汰ではないかと


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」104頁

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さりはま書房徒然日誌2024年1月31日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーそっと言葉が想いを、場面を紡いでゆくー

十月二十五日は「私は虹だ」で始まる。

「ありふれた」虹が、人の世をを語り、だんだん自分へと近づこうとしてくる世一、定年退職した元大学教授の二人に対象を絞り、ついに最後には諦めることのない元大学教授ただ一人を語る。

広い世界から、ぎゅっと焦点をフォーカスしてゆく最中に、吹き抜ける風のような世一の存在も「万物とよしみを通じている」と虹ならではの見方が印象的である。


以下引用文。「限りない索漠さを秘めた冷たい雨」が降った後だからなのだろうか、「不整合だらけの地上」という言葉がずしりと心に重く響く。

最後の「振り仰ぐ」という言葉に、「仰ぐ」だけではなく「振り仰ぐ」にしたからこそ、ちっぽけな人間が広大な空にかかる虹を眺める様子が浮かんでくる気がする。

限りない索漠さを秘めた冷たい雨がようやく上がって
   不整合だらけの地上は
      ふたたびいくばくかの可能性を孕んだ陽気な光に
         遍く覆われてゆき、

         そして
            いつまでも正義の大道を踏み行えぬ者や
               どうやっても晩節を全うできそうにない者が

                  さも眩しげに顔をしかめて
                     私を振り仰ぐ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」98頁

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さりはま書房徒然日誌2024年1月30日(火)

ポール・ヴァレリー「ムッシュー・テスト」より序(清水徹訳)を読む

ー読んだり書いたりする行為の根本にあるものー

以前、酷い翻訳物に連続で遭遇したことが祟って、ずいぶん海外文学から遠ざかっていた。
でもヴァレリーは、セットの海辺の墓地詣でしたくらい好きだし、神保町で棚を借りているPASSAGEの棚の名前もポール・ヴァレリーだし……と、勝手に縁を感じて読んでみることにした。
清水徹訳は細かなニュアンスまで忠実に捉え、しかも日本語として美しく訳されているように思う。

「ムッシュー・テスト」は、ヴァレリー唯一の小説だそうである。「序」を読んだら、チャレンジフルな精神がどっと流れこんできて、幾度も繰り返して読む。

以下引用文に、私たちが読んだり、書いたりする行為の根本的動機を見るように思う。

自分が手に入れたもっとも稀なものを自分の死後にまで生きのびさせようとする奇怪な本能の本質ではないか。

(ポール・ヴァレリー「ムッシュー・テスト」清水徹訳11頁

ヴァレリーが「ムッシュー・テスト」と名付けた不思議な主人公。
以下引用文は、読み進めるうちに次第に重なってくる読み手と作中の人物の在り方を示しているようで興味深い。

なにゆえにムッシュー・テストは不可能なのか?ーーーこの問いこそは彼の魂だ。この問いがあなたをムッシュー・テストに変えてしまう。というのも、彼こそは可能性の魔そのものに他ならないからである。自分には何ができるか、その総体への関心が彼を支配している。彼はみずからを観察する、彼は操る、操られることをのぞまない。

(ポール・ヴァレリー「ムッシュー・テスト」清水徹訳12頁)

以下引用文。
そんな摩訶不思議なムッシュー・テストを語るには、どういう言葉を道具として使えばいいのだろうか……という問題にヴァレリーの考えが示されている。
これを実行した本作品、いったいどんな短編が繰り広げられるのか楽しみである。

このような怪物について何らかの観念をあたえ、その外見と習性を描写すること(途中略)、それは、無理を強いた言語、ときには思い切って抽象的な言語を創出する(途中略)。くだけた表現も同じように必要(途中略)。俗悪な表現やしまりのない表現もすこしばかりは必要(以下略)。

(ポール・ヴァレリー「ムッシュー・テスト」(清水徹訳12頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月29日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー無邪気でもあり、一風変わっている少年世一ー

十月二十四日は「私はハングライダーだ」で始まって、都会の若者が操るハングライダーが田舎町まほろ町の住民の様子、隙あらば……と墜落の機会を伺っている自然を語り、やがて少年・世一に気がつく。

ハングライダーが迷惑げに語る世一の天真爛漫さに、心がしばし明るくなってくる。

二番目の段落「この際 言うべきことは つまり」という短い語句を行を変え連ねることで、ハングライダーの葛藤を感じてしまう。

少年・世一のことも、「鳥の羽ばたきを執拗に真似る少年」「私から離れようとしない羨望の塊」と無邪気とも、どこか一風変わったところがあるようにも語っている。

世一の熱狂ぶりとハングライダーのクールさが妙に心に残った。

鳥の羽ばたきを執拗に真似る少年の熱い思いが
   私を追いかけては付き纏い、

   ほどなく嬉しさを通り越してありがた迷惑を覚え
      この際
         言うべきことは
            つまり
              どうやったところで人は鳥にはなれない現実を

                 きちんと言っておいたほうがいいと思い、

                 ところが
                    私から離れようとしない羨望の塊は
                       まったく耳を貸さない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」96頁

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さりはま書房徒然日誌2024年1月28日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ーささやかな一語に作者の皮肉を込めてー

十月二十三日「私は脳だ」で始まり、少年世一の脳が語る。
引用文の最初、「世一」と繰り返すことで、世一の存在を強烈に主張している気がする。
さらに「複雑怪奇」から漢字の多い言葉を使うことで、脳らしさ、複雑な機能が伝わってくる。

二番目の段落「健常者と称する」という言葉に、そう言う人達への作者の冷ややかな視線を感じる。

世一の脳、健常者と称する人たちを並べて語ることで、前者の素晴らしさ、後者の欺瞞を描いているのではないだろうか?

いささかの麻痺はあっても
   世一を世一たらしめ
      世一の自我の拠り所となっている
         複雑怪奇な機能にして
            単純明快な構造の
               美術作品にも匹敵する脳だ。


世一の感情作用が完全に鈍麻していると
   実の親ですらそう誤解するのは
      ひとえに手足や表情筋の動きがてんでんばらばらで
         その手の病魔に浸されていない
健常者と称する人々の日常表現とは
                 大きくかけ離れているからだろう。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」90頁 

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さりはま書房徒然日誌2024年1月27日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー目に見える筈のないものが見えてくる不思議ー

「胸中の母屋に掲げっぱなしだった黒い反旗」が、だんだん動きを止め、消えてゆく……というイメージに託した心の動きがひしひしと伝わってくる。いちいち悲しいとか、苦しいとか書かれるよりも、ただ「黒い反旗」に託して書く方が、心に喚起されるものがあるように思う。

「哲学的抱負の上にぐっと張り出した心の無用な苦痛」という抽象的概念を表す言葉もなぜか情景が見えてくる。「ぐっと張り出した」という建築物を語るような表現ゆえ見えてくるのだろうか?

「魂の奥で密やかに咲く象牙色の花や 大宇宙の最古の星が」という箇所も、見たこともないものが見えてくるようで心惹かれる表現である。
「象牙色」という実際にある色を用いながら、「象牙色の花」という目にしない色表現をすることで、現実には見えない「泣きぬる風を吹かせ」という不思議な光景を見させてくれているような気がする。

養父母を亡くしてからずっと胸中の母屋に掲げっぱなしだった黒い反旗が
  まったくと言ってもいいほどはためかなくなってだらりと垂れ下がり


  のみならず 今この瞬間に その旗自体が消えてなくなりつつあって
    哲学的抱負の上にぐっと張り出した心の無用な苦痛が希薄になり


    柔弱な魂の奥で密やかに咲く象牙色の花や 大宇宙の最古の星が
      ねっとりと粘つく情念を伴った 泣きぬる風なんぞを吹かせ

(丸山健二『風死す」1巻477頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月26日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」を少し読む

ー紅葉、尻……それぞれの色を表現する言葉の面白さー

「千日の瑠璃 終結」十月十二日は、「私は木漏れ日だ」で始まる。
「木漏れ日」が語るのは、自然界の温もりや生命の逞しいシステム。それと相反する人間界の醜悪さを代表する屋外で抱き合う男女の姿。見つめる世一。
「紅葉」を「どぎつい色」と表現するのも初めて見る気がするし、「木々の葉を縫って進む私」という言葉に「木漏れ日の姿が見えてくる。
それとは反対に、男女の「剥き出しの尻」を「安っぽい紙のごとき白さ」と表現する言葉にも、人間への嫌悪感が伝わってくる。

例年になくどぎつい色に紅葉した木々の葉を縫って進む私は
   ふかふかに降り積もった落ち葉や
      僅かな熱源も見逃さない
         したたかなテントウムシを温めてやり


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」86頁)

互いに相手の年相応の肉体を激しくかき抱き
   下劣な魂を貪り合う
      どこか哀しげな雰囲気を醸してやまぬ男女の
         剥き出しの尻を
            安っぽい紙のごとき白さで光らせる


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」86頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月25日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー行が進むにつれて平仮名濃度がアップして文が軽やかになってゆく!ー

以下引用文は、33字のうち平仮名は13字だけ、残り20字は全て漢字である。
最近の国語の教科書が目指す分かりやすい実用的な文章とは、真っ向から喧嘩をしているような文である。
こんなふうに漢字にこだわることで、文にどんな影響があるのだろうか?


まず私の場合、意味のわからない、あるいは読めない漢字を調べるから、必然的に文章に向かい合う時間が長くなる。


それから漢字には、特に普段使われていない漢字には、意味だけでなく部首や形から、イメージを膨らませる効果があると思う。
だから短い語数でも無限に世界が広がってゆく気がする。


でも、これだけ漢字が多いと、普通は硬くて読みにくい文になりそうな者だが、そんなことはなく流れるように進んでゆく。

なぜか?

最初の行の平仮名4字/全体13字
二番目の行の平仮名4字/全体11字
最後の行の平仮名5字/全体9字


各行の平仮名の数は変わらないようでいて、行が進むにつれて平仮名濃度が濃くなってきている。だから風が抜けるような軽やかさが増してきているのかもしれない。

日本語は漢字、平仮名のリズムで成立している複雑な言葉(本来は)なんだと思った。

都邑に漲る空虚な喧騒の最中
  抒情的で不羈なる譚詩が
    次から次へと浸出し


(丸山健二「風死す」1巻466頁)

ちなみに読めなかったり、意味が分からなかった言葉を日本国大辞典で調べて以下にメモ。


ふ‐き 【不羈・不羇】

(形動)

(「羈」「羇」はともにつなぐ意)

しばりつけることができないこと。束縛されないこと。あるいは、才能や学識があまりにもすぐれていて、常規では律しにくいこと。また、そのさま。


たん‐し 【譚詩】

({フランス}ballade の訳語)

中世ヨーロッパの吟遊詩人によって歌われた歌謡の一形式。多くは神話・伝説に基づいた物語の要素を伴うが、文芸の分類では抒情詩に属する。譚歌。バラード。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月24日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー今日の状況を語るような文ー

まさに今日、私たちが置かれている状況を語るような文が心に残る。
二番目の「遠い遠い」と重ねることで、実現不可能な未来への悲しみが強く伝わってくる気がする。
「平和」が「非現実の典型となって眼前に横たわり」という抽象的な主語が具体的な動作をとる形の文……なぜかダリの絵が浮かんできた。

人類においては至上至高の情熱の発露であるやも知れぬ 宿命的な戦争行為がもたらす
  破滅に直結して破局の一端を担う 現世の恐ろしさに気づいてもどうしようもなく


  永遠の安寧を吹きこんでくれ 晴朗の心地が遠い遠い未来までつづくはずの平和が
    透徹した理解など断じて得られない 非現実の典型と相なって眼前に横たわり


(丸山健二「風死す」1巻450頁)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーどこかユーモアのある表現ー

十月二十日「私は写真だ」と、まほろ町町役場を飾る六十年前の航空写真が語る。その口調は、田舎の社会にかなりうんざりしている。航空写真も、不自由な少年世一の不思議さに気がつく。

うたかた湖の北の外れに
   ぽつんと点のように映っている淡い影が
      鳥の形に似た人間の屍であるなどと
         そう言って少年が騒ぎ立て

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」81頁)

十月二十一日「私はボートだ」とおんぼろボートが語る。世一を憐れんだボートは、一緒に湖底に沈もうとするが……。
「遠慮がちに差し出す死の優待券」という表現に、なんとも言えないユーモアがある……英語圏の小説なら、こういう表現はある気がするが、日本の小説では珍しいのではないだろうか?

私が遠慮がちに差し出す「死の優待券」には目もくれず
   不自由な体ながらも元気いっぱい生の道を歩みつづけていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」85頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月23日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー天体という大きな視点で見つめる魅力ー

丸山作品の魅力の一つに、太陽や月、地球という天体を向いて語る視点があると思う。
矮小な人間というものを語っていたかと思えば、次の瞬間には天体へと視点がジャンプして、限りなく大きな存在から人間というものを見つめる……そんな大きな存在である「創造と破壊の恒星」太陽を語る引用文の言葉に、抗えない運命の中で生きている人間というものが見えてくるのではないだろうか。

まばゆい限りの中天に悠々と案座して 大袈裟な玉座に居座ったまま
  愚かなる人類を救いつづけ はたまた 大破局へと導き続ける
    創造と破壊の恒星は 核心を突いた言葉で世の空爆を強調し

(丸山健二「風死す」1巻417頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月22日(月)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーストレートに言わない、漢字のイメージを効かすって大事ー

引用文は詩人にして犯罪者、末期癌の20代を描いた箇所。
「野生種の堅果を想わせる目玉」という表現に、「どんぐり眼」とかストレートに言わない方が色々想像して楽しめると思ったり、「野生」「堅」という漢字が主人公のイメージを喚起して、次の「鋭い視線」にすんなり移行する気がしたりした。

それでもなお 野生種の堅果を想わせる目玉をぎょろつかせつつ 鋭い視線を飛ばして
  取りとめもない愛おしさを覚えずにはいられぬ ありとあらゆる対象と物象を物色し

(丸山健二「風死す」1巻412頁)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー月が語るからこそ納得ー

十月十八日の箇所は、「私は月だ」で始まる。
以下引用文。月が語る己の姿に、いつも夜空に浮かんでいる身近な存在でありながら、私達から遠いところを静々と進んでゆく……月の神秘性をあらためて意識する。

久遠の時の流れに沿って
   どこまでも現世の縁を滑って行く私は
      さかしらなきらめきを発する流れ星を牽制してやり、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」70頁)

そんな月が語る世一……。月が語るからこそ、ありのままを語る残酷さ、世一の他にはない個性……という二つが、矛盾せずにあるのだと思った。

将来において
   一人前の体を持てるかどうか極めて疑わしい
      この少年は、


      私と他の星々を分け隔てなく扱って
      区別もしなければ差別もせず、


      さりとて
         双方を同一視することもない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」73頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月21日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ー「私は黄昏だ」……黄昏が時に美しく時に冷酷に語るー

十月十七日「私は黄昏だ」で始まる。湖で亡くなった世一の祖父を偲ぶ老人に黄昏が声をかけたり、見つめたり……。
以下引用文。
「転げ落ち」るわけのない「嘆声」なのに、なぜかハッと納得する表現である。「転げ落ち」る筈も、「運ばれてゆく」こともない嘆声のシルエットが黄昏にくっきり浮かんでくる。
「親しかった友の来世への安着を知らせる波」という表現に、なんとも優しい心を感じる。
黄昏は見えないものも美しく見せながら、でも最後には「むさ苦しい死に損ないを一挙に払いのけるや」と冷酷でもある。
時に美しく、時に冷酷……と自然界がそのまま書かれている気がした。

すると
   あらぬ方を見やっていた老いぼれの嘆声が
      眼前の砂浜に転げ落ち、

      めっきり視力が衰えた当人を無視して
         沖合へと運ばれてゆき、

         しばらくの後、
            親しかった友の来世への安着を報せる波が
               ひたひたと足元に打ち寄せる。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1)68頁 


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さりはま書房徒然日誌2024年1月20日(土)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー言葉がつないでゆくイメージの美しさよ!ー

1巻396ページ「唄え!」の前2ページに配置された菱形部分は、片側が死について、片側が生と格闘する主人公についてイメージを喚起するように書かれている。

引用箇所について。
まず死が聴覚的、絵画的に語られた後、犯罪者である主人公と重なる悪のイメージへと展開してゆく。
「個体の終末」「雨音にかき消され」「悪事は狂的な信仰」「古びた港まで曳航される老朽船」この言葉による連想の仕方が、意識下に深い映像を送り込むようで面白い……というか、この送られてくる映像がすごく気に入った。


「古びた港」から「掃き溜め」と、飛躍しているようで「水っぽくてゴタゴタしている」というイメージがつながり、無数の生の泡が見えてくる気がする。


それから生の没義道ぶりを語って、次のページの犯罪者の主人公へと繋げていっているのではないだろうか?


そんなふうに言葉の連想ゲームで脳内に不思議な絵画が描かれるひとときを楽しんだ。

         死
      は個体
     の終末とい
    う声が雨音にか
   きけされてゆく 悪
  事は狂的な信仰 さもな
 ければ 古びた港まで曳航さ
れる老朽船 ともあれ 掃き溜め
 に棄てるほどある生命は 法
  に即しての行為をけっし
   て求めず 自由に敵
    対するものとし
     て排除した
      がるの

       

(丸山健二「風死す」1巻

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さりはま書房徒然日誌2024年1月19日(金)

変わりゆく日本語の風景 ーういなやつー

文楽にしょっちゅう出てくる言葉の一つに「ういなやつ」がある。
「うい」は漢字で書くと「愛い」で、意味としては「健気な」という意味があって、年下を褒めるのに使われるようだ。

「近頃河原の達引』では、こんな風に会話文で使われている。

ムムでかした愛【う】いなやつ

(「近頃河原の達引 四条河原の段」より)

「ういな」という語感のせいだろうか? 他の言葉に置き換えても、しっくりしない気がする。「ういな」という言葉のリズムには、相手への愛情が滲んでいる気がする。

日本国語大辞典で「うい」の意味、用例などを調べると、以下のように書かれている。

好ましい。愛すべきだ。殊勝だ。けなげだ。主に目下の者をほめるのに用いる。

*浄瑠璃・本朝三国志〔1719〕一「うゐわかい者。出かした、出かした」

*浄瑠璃・義経千本桜〔1747〕二「今の難義を救ふたるは業に似ぬうい働」

*浄瑠璃・本朝二十四孝〔1766〕四「それを取得にお抱へなされて下されうなら、望んでなりと御奉公仕度きお屋敷。ホホ出かした愛(ウ)い奴」

ヨキ、ヨイ(好)の転か〔大言海〕。

(日本国語大辞典より抜粋)


浄瑠璃文に出てくる「ういなやつ」に滲む愛情は、どうも現代の日本語には見つけることが出来ない気がする。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月18日(木)

変わりゆく日本語の風景

ーかつて「道理」という言葉には共感があったのではないだろうか?ー

文楽は、江戸時代の上方の言葉のまま上演されているそうで、言葉のタイムトラベルを楽しむ楽しさもある。

ずいぶん変わった言葉もあれば、言葉そのものは変わっていないけど、ただ意味合いというかニュアンスがだいぶ異なっていると思う言葉もある。


「道理」も、形は現代と同じだけど、使われ方が違うのでは……という言葉の一つである。


文楽作品では、若い娘も、ヒロインもやたら「道理」を連発する。
同じ言葉を連発されると、普通うんざりしてくるのだが、「道理」にはそれがない。
まず若い娘も、ヒロインも日常会話の中で「おお、道理、道理」とよく繰り返す。そんな使われ方からして、現代の「道理」の少し硬いイメージとは違うのではないだろうか……という気もしてくる。

道理の意味は現代と違いはない気もするが……

正しいことわり。筋道。そうあるべきこと。

(小学館全文全訳古語辞典)

日本国語辞典の説明の最後の一文に、「道理」という言葉が文楽作品で発する哀しさがあるのだろうか……という気もする。
もしかしたら「世間一般には分かってもらえないかもしれないけれど、私には分かります」という気持ちも込められた言葉だったのではないだろうか。

現代では、物事の正しい筋道・論理・必然性等を広く指すが、種々の物事についての個別的な筋道・正当性・論拠などの意でも用いられ、特に政治・法律に関わる分野に用例が多い。

この語は、古くは正当性の基準をかなり具体的に持つことがあった。たとえば、除目における「道理」の場合、才能・芸能・栄華・年労・戚里といった、人事の基準を示すものであって、一般的・普遍的な正当性を示すものではない。従って、一般的・普遍的には不当と思われることでも、個々の分野の基準としては「道理」になり得るわけである。

(日本国語大辞典)

文楽2部「伽羅先代萩」に出てくる命を狙われる若君を守る乳人・政岡は、毒殺を避けるため他からの食べ物は拒んでひもじい思いをしている若君に

ヲヲ御道理でございます

「御道理」という言葉を幾度も繰り返す。現代の「道理」にはないシンパシー、労りを太夫さんの語りに感じつつ聞いていたが、さて当時の「道理」にはどんな思いがあったのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年1月17日(水)

変わりゆく日本語の風景ー「未来」ー

文楽公演3部「平家女護島」「伊達娘恋緋鹿子」を観に行った。
文楽によく出てくるキーワードの中には、現代の日本語とは少し意味が違うかな……という言葉も結構ある。


その一つが「未来」だ。
以下引用文は「伊達娘恋緋鹿子」のお七の言葉より。

死なば一緒と言ひ交はした私を捨てて死なうとは胴欲なむごたらしい。別れ別れに死ぬるとも、未来はやつぱり変わらぬ女夫、言うた詞違やうか

お七の言う「未来」は、私たちが「明るい未来」というように使う意味ではない。「未来世」、つまり死後の世界のことである。

この時代にも、これから起きる世界という意味で「未来」が使われることはあったようである。

ただ文楽、浄瑠璃作品での「未来」は圧倒的に死後の世界を指しているのではないだろうか……。

いい加減なダメ男が、恋人には今を誓い、妻には未来、死後の世界で一緒……と誓う作品もあったような気がする。


今、日本の政治家が「皆さんの未来のために」とか抜け抜けと言っているのは、果たしてどちらの意味での未来なのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年1月16日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー魔術みたいにイメージが繋がっていく!ー

丸山先生が次々と切り出す思いがけないイメージが愉しい。
突拍子もない言葉と言葉が、丸山先生の文で繋がって、何だか世界が思いがけない方向に広がっていく爽快さがある。

「大型回遊魚」という少し獰猛そうな生き物の気泡から思い起こされるのは、流れるように生きている主人公。

「高層ビルの先端の揺れがわかる地震」「執拗な余震」という嫌なイメージから一気に「美しい暮夜」「きらめき」と美しく反転。

「絶壁の上に生えた高木」「するするとよじ登り」とまた揺れるイメージが復活。

「朝春の潮」「凄まじい怒号」と音が喚起されたところで、「胸に納め」最後に「微笑む」の三文字にパンチを感じる。

大型回遊魚の気泡を思わせる奔放な気性と
  それに伴う現状に一も二もなく休んじ


  高層ビルの先端の揺れがわかる地震と
    執拗な余震がすっかり収まった頃
      密やかに訪れた美しい暮夜が
        まだ震える際にきらめき



        絶壁の上に生えた高木に
          するするとよじ登り
            浅春の潮を眺め



            凄まじい怒号を
              胸に納めて
                微笑む。


(丸山健二「風死す」1巻388ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月15日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー万物の視点で語ることのできる、散文ならではの可能性ー

「私は落ち葉だ」(十月十三日 木曜日)
「私は神木だ」(十月十四日 金曜日)
「私は怒りだ」(十月十五日 土曜日)
「私は日曜日だ」(十月十六日 日曜日)


落ち葉、神木、怒り、日曜日が、不自由なところのある主人公・世一を語っていく。


一人称で語りながら、人以外のあらゆるものの視点で語ることができる……というのが、散文の大きな特徴というか、強みなのだ……と、短歌を少しかじって思うようになった。


短歌は必然的に一人称詩型である。ただ自分以外の誰かの視点に降り立ち、代わりにその人物の思いを歌うことができる

「千日の瑠璃」は、物の、感情の、曜日の、万物の視点に立って語ることのできる散文……の忘れられている可能性を示していると思う。


そんな人ではない存在たちが見つめる世一は、次第にただの憐れむべき不自由な存在から不思議な力を持つ少年に見えてくる……。

それも人ではない存在が語るからではないだろうか?

以下引用文は、日曜日が語っている。日曜日だからこそ、「覗きこむ」ことも、「逃げ帰る」こともできるのであり、そうした日曜日の姿?に世一のこの世のものではない力を感じる。

そのオオルリは
   まさに囚われの身でありながら
      飼い主のそれにも匹敵する
         非の打ち所がない
            無碍の境地に達しているかのように思えてならない。


きょうという新鮮さをバネにして
   私は世一とオオルリの双方の心を覗きこもうとしたものの、


   残念ながら
      影と闇とが複雑に入り混じる
         底なしの淵に引きずりこまれそうになり、

         慌ててそこを飛び出し
            光輝の世界へと大急ぎで逃げ帰る。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」65ページ 

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さりはま書房徒然日誌2024年1月14日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーすごく大きな存在から小さな存在まで僅か数行で語る対象が変化する!ー

以下引用文。
語られている対象は、まずは人智を超えた大きな存在である。
それが段々と身近な存在や主人公自身の感情へと収縮してゆく。
そんなふうに対象が変化してゆく過程をとおして見ると、意外とちっぽけな人間にもロマンがあるのだなあと心打たれるものがある。

「定かなる宿命と 定かならざる運命」というフレーズに、まず運命の神様みたいな語り口で格好いいと惹きつけられる。

最初の段落が「高らかに舞い上がり」で終わり、次の段落が「東の空に利鎌のごとき月が架かる」と空の高いところにある月の描写で始まっている。
よくは意味が分かっていなくても、何となく「高い」繋がりでイメージが連続するから、分かっているような錯覚に陥る。

同じように「利鎌」「月」「銀泥」とイメージがかすかに心の中で結びついている。

「銀泥のような」ではなくて、「銀泥に酷似した」と言えば「のような」のオンパレードを避けられると学習する。

……ああ心に残る文!と思い、なぜだろうと野暮なことに追及してしまった。

定かなる宿命と 定かならざる運命が複雑に絡み合って
  天命の潮流が宇宙の彼方から運んでくる快楽主義が
    疲労の極に達して埃と共に高らかに舞い上がり


    東の空に利鎌のごとき月が架かる秋の夕間暮れ
      銀泥に酷似した色合いの大海原を前にして
        花筵の上で密やかに茶を立てる粋人が
          はっと思い当たったことに驚いて
            思わず張り上げた短い叫びが
              蛇行した河岸を独り行く
                俺の胸にいたく響き


(丸山健二「風死す」1巻375頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月13日

佐多稲子「私の東京地図」を読む

ー関東大震災前後の東京の風景が実に細かく書かれているー

先日受けた福島泰樹先生の「文学のバザール浅草」講座の資料に出てきた佐多稲子の浅草を語る文の鮮やかさ、躍動感に惹かれて、佐多稲子「私の東京地図」(講談社学芸文庫)を手にする。
「私の東京地図」「版画」「橋にかかる夢」「下町」「池之端今昔」「挽歌」の六篇を読む。

関東大震災前後の上野、浅草、日本橋界隈の風景が実に細かく書かれている。だが、どんなものなんだろうか……と想像し難いものも結構あって、さらに街並みも今とはすっかり違って、まったく知らない国を旅している気分になる。
たまに不忍池の描写が出てくると、「ああ、変わらない」と安堵したりする。

今とは色々違うことばかり……

この時代、棺桶は丸桶だったんだ……葬儀屋の人夫さんが死体の足をポキポキ折って丸桶に座らせるんだ……

足袋屋さんでは「文数に合せた木型に足袋をはめて、竹べらで指先の切り込みを押え、木槌で叩いて型を仕上げてくれた」(佐多稲子「池之端今昔」)

丸善の入り口には下足番のお爺さんが二人いた……。

丸善の左右に内側へ開く入口のとっつきに、赤い鼻緒の麻うらがずらりと並べてある。下駄の客はこれに履きかえて下足の札を子の老人たちから受け取って店内へ上る。靴の人は、この老人たちに茶っぽい靴カバーをはめてもらう。東京の町の道路がまだそういうことを必要としていた。

(佐多稲子「挽歌」)

丸善で佐多稲子の同僚女性は、大杉栄が洋書売り場にいたと騒ぐ。

「大杉栄の目はすごいわよう。キラキラ光っているわよ。あの目だけで魅惑されてしまうわよ』

(佐多稲子「挽歌」)

こんなに書店員からキャーキャー騒がれる大杉栄が惨殺されたのだから、世間への衝撃、あるいは見せしめの度合いはさぞ……と思ってしまった。

関東大震災前後の東京の街が、そこで逞しく働く佐多稲子の動きが、映画を観ているように浮かんでくる作品である。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月12日(金)

短歌の師、散文の師……二人の師の共通する教え

不思議にも短歌の師・福島泰樹先生と散文の師・丸山健二先生は、教えががぴたり重なることがよくある。
たぶん会ったことはない二人の師が同じことを言われるのに驚き、片方の師の講義のおさらいをしている気分になることしばしば。
真摯に書く……という創作行為の原点は短歌であれ、散文であれ、共通するものがあるのだろうか?

そんな共通する教えの一つが「いつも手帳を」。
今日も「言葉は降ってくるものだから、いつも手帳を用意して言葉を受けとめるように、言葉はすぐ消えてしまうから」と福島先生から教えて頂く。
「いつも手帳を」は、丸山先生もよく言われていることだ。
ただし手帳の使い方は、やはりそれぞれ違うようだ。詩文と散文の違い故だろうか?具体的な使い方を知りたければ講義を受けてみてはどうだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年1月11日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し再読する

ー「口笛」という見えない語り手が見えてくる!ー

十月十日は「私は口笛だ」で、十月十一日は「私は噂だ」で、十月十二日は「私は靴だ」で始まる。

不自由な世一が吹き鳴らす「へたくそのひと言ではとても片づけられない 切々たる響きを伴う口笛」を語る以下引用文に、不思議な者としての世一の存在を感じる。

けっしてきのうの延長などではない
   未知なるきょうに向かって吹かれ、

   控えめな進行ではあっても
      確実に狂ってゆくこの世に向かって吹かれ


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」38ページ)


遠くの山々に谺する口笛を描く以下引用文。高峰に寄せる想いに「そういう感情もあるなあ」と気がつく。気持ちが高きへ向かった後なので、世一の口笛に反応する家族の反応がリアルに感じられる。

きらきらと輝く陽光がもたらす風によってはるか遠くまで運ばれ
   亡き者の面影を偲びたがる人々が必ず仰ぐ高峰
      うつせみ山に撥ね返された私は
         ふたたびこの片丘へと舞い戻り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」39,40ページ)


「私は靴だ」で始まる文を読み、「靴」で世一の父親の外見から人生、心境をこんなに語れるものか……と丸山先生の観察眼に驚いた。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月10日(水)

福島泰樹短歌絶叫コンサートへ

ー「風に献ず」と「賢治幻想」の世界を楽しむー

福島泰樹短歌絶叫コンサートを聴きに吉祥寺のライブハウス曼荼羅に行ってきた。ぼーっと聴いていたから、間違いも多々あるかもしれないが、当てにならない記憶に残っていることを少しメモ。

毎月10日に開催されている短歌絶叫コンサートは、今年で40周年を迎えるそうである……。

今回ギターを演奏して歌ってくれた佐藤龍一さんと福島先生が最初に短歌絶叫コンサートを開いたのは、アテネ・フランセ……という場所も意外であった。

短歌絶叫コンサートをはじめたキッカケは、「当時は詩人が詩のコンサートをよく開いていた。でも短歌の歌といえば、宮中の歌会の節回しか牧水の歌のようなリズムしかなかった、短歌は歌謡なのに」という思いから始められた……と語られていた気がする。

短歌は短いから苦労もあったようだが、まず福島先生がコンサートの台本を書き、その台本を見て佐藤龍一さんたちが音楽を作り……。その逆の場合もあるそうだ。
それにしても40年、1200くらいのステージをこなしてきたとは凄いなあと思う。

今回はまず岸上大作の歌を歌い、福島先生の第一歌集「バリケード1966年2月」を歌いながら、「詩の使命とは、文学の使命とは次の世代に伝えていくこと」と語る。
そして「学生たちがこれほど熱意をこめて社会を変えようとした時代があったのに、72年の連合赤軍から流れが変わってしまい、そうした動きを避けるように、語らないようになってきてしまった」とも嘆かれる。
たしかにこれだけの学生たちの熱量が蒸発してしまった背景……もっと知らなくてはとも思った。

福島先生が中原中也の「別離」について、「こんなにいい詩なのにあまり知られず論評もされていない」と残念そうに言われていた気がする。「別離」は短歌絶叫コンサートではしょっちゅう歌われるから、とても有名な詩なのかと思い込んでいた。

佐藤龍一さんの詩「合わせ鏡」も、合わせ鏡に合わせたようなイメージが次々と繰り出される詩で、こんな風にイメージが膨らませられるのかと驚いた。

私が今書いている長文でも、実は合わせ鏡のイメージを使っているのだが、こんなに展開していない……と反省することしきり。
もう今からでは遅いし。でも「合わせ鏡」ってイメージを刺激する存在だよね、と思いついた自分を褒めて納得する。

以前も引用したと思うが、中原中也の別離を以下に。
この詩は聞くたびに印象が変わる。
朗読者が何に別離を言おうとしているのかで印象が変わるのかもしれない。

別離

中原中也

さよなら、さよなら!
  いろいろお世話になりました
  いろいろお世話になりましたねえ
  いろいろお世話になりました

さよなら、さよなら!
  こんなに良いお天気の日に
  お別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い
  こんなに良いお天気の日に

さよなら、さよなら!
  僕、午睡ひるねの夢から覚めてみると
  みなさん家をけておいでだつた
  あの時を妙に思ひ出します

さよなら、さよなら!
  そして明日あしたの今頃は
  長の年月見馴れてる
  故郷の土をば見てゐるのです

さよなら、さよなら!
  あなたはそんなにパラソルを振る
  僕にはあんまりまぶしいのです
  あなたはそんなにパラソルを振る

さよなら、さよなら!
さよなら、さよなら!

 僕、午睡から覚めてみると、
みなさん、家を空けてをられた
 あの時を、妙に、思ひ出します

 日向ぼつこをしながらに、
つめ摘んだ時のことも思ひ出します、
 みんな、みんな、思ひ出します

芝庭のことも、思ひ出します
 薄い陽の、物音のない昼下り
あの日、栗を食べたことも、思ひ出します

干された飯櫃おひつがよく乾き
裏山に、烏が呑気に啼いてゐた
あゝ、あのときのこと、あのときのこと……

 僕はなんでも思ひ出します
僕はなんでも思ひ出します
  でも、わけて思ひ出すことは
わけても思ひ出すことは……
――いいえ、もうもう云へません
決して、それは、云はないでせう

忘れがたない、にじと花
  忘れがたない、虹と花
  虹と花、虹と花
どこにまぎれてゆくのやら
  どこにまぎれてゆくのやら
  (そんなこと、考へるの馬鹿)
その手、そのくち、そのくちびるの、
  いつかは、消えてゆくでせう
  (みぞれとおんなじことですよ)
あなたは下を、向いてゐる
  向いてゐる、向いてゐる
  さも殊勝らしく向いてゐる
いいえ、かういつたからといつて
  なにも、おこつてゐるわけではないのです、
  怒つてゐるわけではないのです

忘れがたない虹と花、
  虹と花、虹と花、
  (霙とおんなじことですよ)

 何か、僕に、食べさして下さい。
何か、僕に、食べさして下さい。
  きんとんでもよい、何でもよい、
  何か、僕に食べさして下さい!

いいえ、これは、僕の無理だ、
    こんなに、野道を歩いてゐながら
    野道に、食物たべもの、ありはしない。
    ありません、ありはしません!

向ふに、水車が、見えてゐます、
  こけむした、小屋の傍、
ではもう、此処からお帰りなさい、お帰りなさい
  僕は一人で、行けます、行けます、
僕は、何を云つてるのでせう
  いいえ、僕とて文明人らしく
もつと、ほかの話も、すれば出来た
  いいえ、やつぱり、出来ません出来ません。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月9日(火)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ー比喩は難しいけれど面白いー

「這い纏わる蔓草の奧」も不気味、「じっと潜む薬用の蛇」も不気味……と進んだところで、「発煙筒を使って燻し出す」と大きく展開するから、一瞬呆気にとられる。
そのあと「幸運を無造作につかもうとした」という行為が重なるから、さらに驚きつながらも「薬用の蛇」と「幸運」とは重なるものか……薬効という点で重なるのかも……と強烈に印象に残る。
「はっと我に返り」で「蛇」に重ねて読んでいた方も目が覚める気がする。
比喩ってかけ離れている方が面白いと思うけれど、それがこんな風に上手くハマる……のは難しいと思う。

這い纏わる蔓草の奥にじっと潜む薬用の蛇を 発煙筒を使って燻し出すように
  幸運を無造作につかもうとした一時期が 懐かしく思い出されたところで
    はっと我に返り その際に覚えた恥辱のために 心の沈黙を強いられ

(丸山健二「風死す」1巻363ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月8日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「雨」から「風土」まで万物の視点から自在に語ることができるところに散文の凄さがあるのかも!ー

「千日の瑠璃 終結1」と「風死す」を交互に読んでいくと、あらためて文体がまったく違う、どっちもチャレンジフルなんだけど違う……と思う。

「千日の瑠璃 終結」は散文がスキップしながら思いがけない表現にジャンプする感じだけど、「風死す」は最初から哲学詩、物理詩……という感じがする。
この違いはどこから来るのだろうか?「千日の瑠璃 終結」は、まだストーリーというものが核にあって、小説寄りだからなのかもしれない。

十月六日は「私はため息だ」で始まる。
世一の姉がつくため息が、田舎の図書館に勤務しつつロマンス小説にはけ口を求める切ない彼女の日々を語る。

十月七日は「私は九官鳥だ」で始まる。
世一が捕まえたオオルリの幼鳥と比べたら「オオルリと比べたらおまえなんぞ鳥のうちに入らん」とペットショップの主人に罵倒される九官鳥が語る。
鳥を飼うのが大好きな丸山先生らしい箇所である。

十月八日は「私は雨だ」で始まる。
雨は「もう長いこと生活にくたびれ果てていることに まったく気づいていない母親の目を覚まさせる」のだが、そんな母親を語る口調が雨らしく、時にしっとりと、時に荒々しいのが面白い。

十月九日は「私は風土だ」で始まる。まほろ町の風土が語る田舎の嫌な雰囲気は、ずっと田舎に住んでじっと田舎の人間模様を観察してきた丸山先生だから書ける文だろう。

ひたすら権門に媚び
   後難を極度に恐れ
      弱者の心を汲み取るような気高い観点が苦手で


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」35ページ

権力と金力を背景に国家を牛耳ろうとする野心家に
   一も二もなく盲従する態勢を常に備えている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」35ページ

そういう田舎町に暮らす丸山先生を彷彿とさせる小説家も登場する。

芸術家にあるまじき堅物でありながら
   病的なほど穿鑿好きな小説家も
      私のことを文学の宝庫と買い被ってくれており、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」37ページ

田舎の醜い部分には、人間模様が濃縮されているのだろうか……?
一番最初の勤務がど田舎で、「田舎の人間関係は私には無理!」と思った私には、田舎に身を置いて冷静に観察して小説を書く丸山先生はすごいと思う。
「私は◯◯だ」と、九官鳥から風土に至るまで万物の視点で語ることができる……というのは、散文の凄みなのかもしれない。


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さりはま書房徒然日誌2024年1月7日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー今この瞬間は脈略のない追想でいっぱいなのかもー

以下引用文の後半の方で「著しく脈略に欠けた追憶の目まぐるしさ」と書かれているように、前半は主人公の、いや丸山先生の一瞬の意識に反映されている過去のバラバラの断片なのだろう。

追憶と言えば、美しいもの、甘いもの、哀しいもの……というイメージがあるが、実際には苦いものから格好悪いものまで追憶は様々。
そうしたチグハグな記憶から、私たちの現在の一瞬は成立しているのかもしれない。

ただバラバラの追憶なんだけれど、イメージが喚起されるようにそれぞれの場面がうまく言葉で表されている。

それに「静まり返った法廷」から「連日の大入満員に沸く大相撲」、そして「陸稲の畦道」へ……ほんとうに目まぐるしい追憶である。

比べると、私の追憶はモノトーンの単調な画面かもしれない。

検事の論告に静まり返った法廷を想わせる重苦しさのなかで自身の靴音を聞き

  連日の大入り満員に沸く大相撲を余生の糧にする人々が殉教者に思え

    陸稲の畦道で松露を掘っていた農夫が急に悪心を催して激しく吐瀉し


      アルコールを溶媒に用いた安直な香水が 解熱剤の役目を果たし


        すべての紛争の内因は差別待遇にあると 年長けた男が呟き


          今冬に病が難路に差しかかるという予感は 見事に外れ




          そのような 著しく脈略に欠けた追憶のめまぐるしさが
            肉に属する霊の付け根の辺りをちくちくと刺激して
              真っ当であるべき思念を惑わせて感傷を抑制し


(丸山健二「風死す」1巻359ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月6日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ークラゲのパンチ力ー

ガンという病に侵されつつ逃亡する主人公の心細さがよく伝わってくる箇所だと思った。

元素まで持ち出すことで人間的なドロドロしたものが消え去って、ポツンとした感じだけが残る。「うつけ」と「クラゲ」と「ふらふら」というイメージが重なり、「クラゲ」から「うっすらとした」にも「ひしと抱きつき」にも違和感なくイメージが飛んでゆく気がする。

「クラゲ」が効いている文だと思った。

すべての元素が融合を開始した大宇宙の初めまで遡って
  あらゆる存在がうつけのように思えてしまう空間を
    クラゲにでもなった気分でふらふらと漂いつつ
      うっすらとした自己認識にひしと抱きつき

(丸山健二「風死す」1巻340ページ)

丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」を少し読む

ー作者の身近な物が語ると作者の姿がよく見えてくるー

十月四日は「私は鳥籠だ」と漆塗りの和籠が語り、十月五日は「私はボールペンだ」とボールペンが語る。どちらも丸山先生が普段から親しんでいる存在だから、文の至る所に作者の気配がする。

以下引用文。野鳥が大好きな丸山先生ならではのリアリティあふれる文だと思う。幼鳥の嘴が柔らかいという感覚は、言われると納得するのだが、自分ではとても思いつきそうにない。


それから餌の蜘蛛は脚をもぎ取るのか……私には鳥を飼うのはとても無理そうだ。

餌鉢にまだ柔らかい嘴を近づけて
  逃げ出さないよう肢を全部もぎ取ってある
    大小の蜘蛛つつき回し


丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」17ページ

十月五日の「書くために生きるのか 生きるために書きつづけるのか」わかっていない、分かろうともしない小説家……には、丸山先生の姿が濃く反映されているのだろう。

「仔熊にそっくりな黒いむく犬」をハンドルにしがみつかせてスクーターで走る姿も、
「悩みらしい悩みを知らぬ妻とふたりきりで 粗末だが幸せな食事をとる」という姿も、
「言葉に頼り過ぎて本質を見失った書き手が多過ぎる」という思いも、
すべて丸山先生自身のものであろう。

そして最後の呟きも、おそらく丸山先生の思いではないだろうか?

安物の原稿用紙をぐいと引き寄せ
  蚊の鳴くような声で「それでも書いてやる」と呟いた

丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」21ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年1月5日(金)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー比喩は難しいけれど面白い!ー

「風死す」や他の丸山文學の後期作品を読んでいると、散文の比喩はここまで可能なんだ……言葉と言葉の組み合わせもここまであり得るんだ……と、ホーっと感心することしばしば。
でも丸山健二塾でトライしてみると、「ぶっ飛びすぎている」と言われたり「ありきたり」と言われ、中々比喩の著地點決めるのは難しいものだと思う。


 
引用文について。犯罪者にして詩人、癌患者という青年が逃亡の日々の中で、「腹持ちのいい 美味なおかずのみを小皿に取り分けるようにして」「精神的な飢餓をどうにか凌いでやり」と語る文は、比喩とそんな主人公の身の上が重なって、妙にぴったりくる表現だと思った。

「からからの方寸への注水」という擬音語、「方寸」「注水」という語の組み合わせも、こんな組み合わせが可能なんだ……やけに喚起するものがあると思った。

「粘着性に富んだ生き方をしてきらめき」は、こういう人たちのことを「粘着性に富んだ」と言うのか……「粘着性」という言葉が放つイメージに驚いた。

あまりにも重い疲労困憊を少しでも癒そうと 宿泊の予定を延長して
  指名手配の写真とはいっさい無縁な 深い山奥の温泉場へ埋没し


    腹持ちのいい 美味なおかずのみを小皿に取り分けるようにして
      脳裏に芽生えかけている精神的な飢餓をどうにか凌いでやり



      だからといって 慈雨により田畑の作物や庭先の樹木が潤う
        そうしたたぐいの劇的な効果はまったく得られない上に
          からからの方寸への注水やら いつまでもあたわず


            ひとりひとりゴボウ抜きにされる デモの参加者や
              ある日突然失業して 食い詰めた一家のほうが
                まだ粘着性に富んだ生き方をしてきらめき

(丸山健二「風死す」1巻323頁〜324頁)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ー隣りあう生と死ー

「千日の瑠璃」は早く先を読みたくもあり、でも一日分の話だけで完結しているような世界なので、一日一話をゆっくり読みたくもあり……心迷う作品であるが、やはり味読派になろう。

十月三日は「私は棺だ」で始まり、「白木の棺」が世一の家族があまり豊かでないことを、死んだ祖父の弔いをするために集まった人々の様子を語る。

世一は棺の上に瀕死の幼鳥をおく。棺の蓋を打ちつけようとした拍子に世一がこさえた指の傷から滴る血をすすると、鳥は元気を取り戻す。

棺にできた血の微かな染みが、うたかた湖の形だった……という場面が、なぜかイメージ鮮やかに浮かんでくる。

よくよく目を凝らしてみるとその染みは
  なんと
    うたかた湖の形状と寸分変わらず、

    私はその発見をよしとし
      ほぼ望み通りの最後を迎えた死者自身もまた
        それをよしとした


(丸山健二「風死す」1巻13ページ)

わずか四ページに、生と死というテーマが語られている。
血のしたたりをすすって生が蘇る鳥、うたかた湖と同じ形状の棺の血の染み、よしとする死者……を読むうちに、生と死の近さ、生がもたらす不思議、生きている者たちを見守る死者たち……がひしひしと感じられてくる。語り手が棺だもの……。


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さりはま書房徒然日誌2024年1月4日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーリズムを感じる!ー

ぼーっと読んでいる私は、幾度も繰り返される「風死す」の後にだけ「。」があるのに、ようやく今日気がついたような気がする。

「風死す」を他の人に見せると「章がない……」と驚かれることもある。章の代わりに、全体を律するリズムのようなものをつくり出そうとされて、文のレイアウトに、全く脈略のない記憶の流れのように見える文に、工夫が凝らされている気がする。


以下引用文は、普通の小説で言えば、章と章の区切れにあたる部分だと思う。現世へのやりきれなさが左斜め下りのレイアウで記され、やがて「風死す。」と終わる。


次の菱形部分を半分くらいだけ引用してみた。最初「死んだ思想は」で始まるが、「幸あれ」とだんだん浮上してくる感がある。こうして次なる章が始まる……。


そんなリズムを感じながら読んでみよう。

立ちこめる霧の魅惑に身を委ねて
  現世の存在に不審を抱きつつ
    悲しみを強いる出来事に
      軽々に扱われがちな
        おのれの存在を
          不憫に思い

          その一瞬後
            風死す。


        死
       んだ思
      想は 無の
     底へと沈んでゆ
    く 家を捨てて放恣
   な生活を送る者に幸あれ
  混じりけなしの悲しみが徐々
 に薄らいでゆく 

 
(丸山健二「風死す」1巻311頁からページ数のないページより)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1巻を少し読む

ー闇と明け方にコントラストを、バトンタッチを感じる!ー

十月二日は「私は闇だ、」で始まって「いつもながらの闇」が語り手となる。

そんな闇の存在感を「さざ波と力を合わせ」とか「これ以上ないほどの優しさを込めてそっと包みこむ」と、池に横たわる老人の骸への接し方であらわす視点も面白いなあと思う。


あと「そら豆に似た形状の頭」という幼鳥のあらわし方も、「そら豆」でグッと喚起される気がする。

ここでなんと言っても光を放つのは、「麻痺している脳のせいで 意思に関係がない動きを選択しがちな肉体を授けられ」という少年世一の存在感だ。
「双方の目と目が合った刹那 鳥は鳥であることを忘れ 少年は人である立場を忘れ」というように、鳥と心を通わす不思議な存在。


祖父の骸から幼鳥を助け出すと、世一は祖父のことは忘れて家に戻る。
そのとき死者が倒れてゆく描写が、命をバトンタッチしたという安堵感に溢れていて好きだ。

「私は闇だ、」で始まるこの箇所の最後が、以下引用文のように、祖父の骸を染めてゆく朝陽というのも、対照的で鮮烈に心に残るし、バトンタッチというテーマが繰り返されているような気もする。

「 」内は「千日の瑠璃 終結1」より引用。

そして
   私といっしょに輝ける昧爽へすっと呑みこまれたかと思うと
      大気をまんべんなく染める黄金色の坩堝に
         無造作に投げこまれて
                  どろどろに溶かされてゆく


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」9ページ 

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さりはま書房徒然日誌2024年1月3日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー作者の影がひっそりまぎれこんでいるように感じることもあるー

以下引用箇所を読むと、いぬわし書房のオンラインサロンで丸山先生が語っていた自らについての言葉が思い出される。

「風死す」の主人公は、時として著者自身の心情が濃厚に反映されているのかも……。そんな風に、ふと思ってしまうような文言がさりげなく散りばめられている。

幼心にも悲しかった 何かに付けて隣人が浴びせかけてくる 極めて露骨な白眼視やら
  複雑さ故の悲しい出生に纏わる 聞こえよがしの悪口やらを ふと思い出すたびに
    それが反発心の種となって ついつい過剰に生きてしまう原動力へと変換され

(丸山健二「風死す」1巻304頁)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

一「生」と「死」がテーマの散文詩のような最初の四頁ー

前回「トリカブトの花が咲く頃」を読み終えたあと、次の丸山文学は何を読もうか……?と迷いつつ、中々決め難かった。

私は比較的最近の読者である。後期の丸山文学から読み始めたので、読んでいない作品がたくさんある。

丸山先生のお庭見学の時に他の方と「風死す」の話を他の方としたことがきっかけで、なんとなく「風死す」の再読を始めた……。

すると初読時には気がつかなかったことが次から次に出てくる。
やはり、「風死す」は何度も再読したい本だ。

でも他の作品も読みたい……と迷っていたら、神保町PASSAGE書店に借りている棚から「千日の瑠璃 終結」1を、どなたかが購入してくださった。
この本を読んでいる人がいる……と思うと、釣られて読みたくなるものである。それに「千日の瑠璃」は、最初の方しか読んでいないし……と読むことにした。

「千日の瑠璃 終結」は見開き4ページで一日が一話になって進む形になっている。
出だしは「私は◯◯だ」と、人間でないものたちが少し不自由なところのある少年与一を物語っていく。

十月一日は「私は風だ、」で始まる。
「名もなき風」が語る「一段と赤みを増した太陽」、「不憫な老人」の死、老人の死体に温もりを求める「ちっぽけな野鳥」……。
このたった四ページだけで生と死が存分に語られているような充足感がある。

十月一日の最後は以下引用の、紅葉の描写で終わる。大町に住んでいる丸山先生だから浮かんでくる紅葉風景だと思った。

どこまでも天界に近い峰々の紅葉が燃えに燃える
  静寂と絢爛の錯綜に終始した
    なんとも優雅にして平和な
      掛け替えのない黄昏時のことであった


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」5頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月2日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー「記憶の流れ」とは読むのも、書くのも楽しいものかもしれないー

作家の晩年の作品は、わりとこの登場人物はもしや作者自身なのだろうか……と、作者に似た登場人物を発見することがよくある気がする。

「風死す」は、丸山先生自身が「記憶の流れ」と言われているように、至る所に丸山先生の記憶が飛び散っている。ただし語り方、表現の仕方は様々な形に変えて……。

今まで丸山文学を読んできた読者なら、「こんなことを思っていらしたのだろうか」と感慨に打たれるかもしれない。
丸山文学を読んだことがない方でも、詩や短歌に関心がある方なら「こんな表現が、こんなレイアウトができるのか!」と興味をもって頂けるようだ。

以下引用文も、丸山先生の八十年間の人生のどこかの断片、いや瞬間を語っているのではないだろうか?

引用箇所の二番目の段落。
意味の世界(どういうことだろう?実在の社会ということだろうか?)の復活を「舌触りが良くない焼き菓子の」「ほぼ半分程度の美味さ」と味覚に関連づけて例えているから、あまり居心地の良くなさそうな世界を感覚的に捉えることができる。

三番目の段落。
「断じて触れてはならない」という「生の要点と骨子」とは何だろうか。最後に来ている「青みがかった夏の夜を堪能」が幾つものストーリーを示している気がする。

意気地なしにして陰険な 不逞な考えと行為が病み付きになった
  健全な社会から除外すべき奴輩の黒い影が急速に滲んでゆき


    意味の世界が徐々に復活して 舌触りが良くない焼き菓子の
      ほぼ半分程度の美味さを 自己破壊的な精神力で味わい

      生の要点と骨子については 断じて触れてはならないと
        声なき声が切言する 青みがかった夏の夜を堪能し


(丸山健二「風死す」1巻297頁)

小説では「記憶の流れ」に任せて……という形は珍しいと思うが、短歌では「記憶の流れ」を文字にしているような部分もあるのではないだろうか?
自分の記憶の流れを追いかけ文字にする過程は、案外楽しいものかもしれない……と、まずは短歌で「記憶の流れ」をあらわしたいと思う。
小説だと、やはり私なんかが試みるとバラバラになりそうだが、五七五七七のフォルムがある短歌なら、なんとか分解しないで少しは形になるだろうか……。
そう考えてみると、散文で「記憶の流れ」を記した丸山先生はすごいなあと思う。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月1日(月)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ー言葉の冒険をしているようでしっかりイメージが湧いてくる!ー

詩人でありガン患者である主人公の思いを、「言表行為」という固い表現を使うことで、一見、冷静に観察しているようにも思える。
でも「言葉同士が互いに排除し合って」というように、ここまで言葉の冒険ができるんだな……と思える部分もある。


二段落め。死者や死後の世界を語りながら、どこかユーモラスな印象も受けるのは「後を絶たない無数の死者たち」「これまで通り揃って似たような処遇」「次々に呑みこまれていった異空間の実体と実情」という思いもがけない言葉で、死後の世界の不思議さを語っているせいなのかもしれない。

三段落め。主人公が自分を語る「悪や善とのべつ境を接しつづけてきた欠点だらけの未完成なる自我」というシンプルで的確な言葉。
その後に続く「隈なく吟味などせぬ」という意外な言葉が心に残る。

名もなき一介の詩人が 語り手としての言表行為から取り逃がしてしまった 哀悼の辞は
  苛々するほどまだるこくて 言葉同士が互いに排除し合ってばかりで 埒が明かず

  後を絶たない無数の死者たちが これまで通り揃って似たような処遇を受けながら
    次々に呑みこまれていった異空間の実体と実情がどうであっても少しも構わず

まず差し当たっての不可欠な心構えは 悪や善とのべつ境を接しつづけてきた
      欠点だらけの未完成なる自我を隈なく吟味などせぬという固い決意であり


(丸山健二「風死す」1巻287頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月31日(日)

篠田真由美「レディ・ヴィクトリア 完全版 セイレーンは翼を連ねて飛ぶ」を読む

ー19世紀後半へタイムトラベルを楽しませてくれると同時に、弱者への温かい視点を感じさせてくれる一冊!ー

10月に篠田先生にサインをしていただいた「レディ・ヴィクトリア 完全版 セイレーンは翼を連ねて飛ぶ」で2023年の読書は終わり、2024年へと踏み出すことに。年末と年始をまたぐのにふさわしい魅力あふれる本。


ストーリーを追ううちに、登場人物の会話に耳を傾けているうちに、19世紀後半のロンドンの、パリの、アメリカの南部の、ヴェネツィアの、そして日本の生活のディティールが怒涛の如く流れ込んでくる。

まるでタイムトラベルをしているかのように、当時の人間の気持ちで建物を眺めたり、娼館を歩きまわって娼婦の衣装を眺めたりしている。

でも、そんな楽しさが散りばめられた文を書くのに、どれほど調べ物が必要だったことだろう。
作者が調べものに費やしただろう莫大な時間を思い、その知識が魅力あふれる登場人物たちとなり語りかけてくれていることに感謝あるのみである。

各登場人物にむける作者の視線も、社会の底辺で生きる人たちへの共感に満ちた温かい視点が感じられ惹きつけられる。
例えば、以下引用文の主人公レディ・ヴィクトリアが娼婦について語る言葉にも、作者の底辺に生きる人への想いが伝わってくる。

生まれつき娼婦にしかなれない女などおりません。けれど他に生計を立てる方法を知らず、学ぶ機会も与えられないまま、辛い勤めを続けておのれの尊厳を日々の糧に換えていれば、心はいつしかすり減り疲れ切って、目の前の刺激と快楽で毎日をやり過ごすしかできなくなってしまう。

篠田真由美「レディ・ヴィクトリア 完全版 セイレーンは翼を連ねて飛ぶ」178頁)

作者が後書きで書いているように、主人、召使いという枠を超えて、互いを信頼し合い家族のように暮らす……という登場人物たちは、現実の歴史像からは異なるのかもしれない。
でも、そういう理想をかかげてストーリーをまとめる作者の信念には、今のような世であるからこそ、人と人のつながりとは何か……と問いかけてくる強いメッセージを感じる。

「主人と使用人が互いに信じ合い、互いを守る家族だと?」

篠田真由美「レディ・ヴィクトリア 完全版 セイレーンは翼を連ねて飛ぶ」322頁)

以下引用文も、この歳になると、ほんとうにそう……と頷き、慰められるような言葉である。

亡くなった人のことは想像してみるしかできないんですもの。死に際に会えなかったのは悲しいけれど、その分元気だったときの顔を覚えていられる。そしてその思い出や、残してくれたものを抱きしめることができる

篠田真由美「レディ・ヴィクトリア 完全版 セイレーンは翼を連ねて飛ぶ」219頁)

過ぎ去りし時代の日常風景に関する知識をさりげなく散りばめ、読み手を楽しませてくれる。
さらに今急速に失われつつある弱者への温かい視点……その豊かさを教えてくれる本書は、年末年始にふさわしい一冊であった。

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さりはま書房徒然日誌2023年12月30日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー「風死す」のテーマの一つに「死」があるー

「風死す」の主人公は二十七歳の癌患者……ということで、「死」も「風死す」の大切なテーマなのかもと思う。

最初の引用文。死の世界の深さ、謎を表現する言葉が面白いと思った。
二番目の引用文。犯罪者として生死の境を彷徨う主人公に見えてくる死の世界を表現しているのだろうか?


「生死の境界線」「絶頂」「一刹那」「未来への逃亡経路」「行き詰まりを打破」という言葉に、作者が抱いている死生観が見えてくるように思う。


「現実を離脱」「新たな光の下に姿を現す幻想的な枠組み」という言葉からも、決してネガティブではない死生観が見えてくるように思う。

生の世界がそうであるように 死の世界もまた 深い謎に包まれた宇宙における構造や
  ある日を境に突如として滅した古代文明の象形文字などより 遥かに不可解であり

(丸山健二「風死す」278頁)

生死の境界線を越えるときに発生する 絶頂を迎えた陶酔の
  その一刹那に集約された 状況の巡り合わせたる運命を
    未来への逃走経路と解釈して 行き詰まりを打破し


    現実を離脱したことに端を発する癒しがたい弱点を
      新たな光の下に姿を現す幻想的な枠組みで補い


(丸山健二「風死す」279頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月30日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

=この墜落感は?と文字数を数えたら字足らずだった!ー

以下引用文。情景が見えてくるようで心に残るし、なんだか切ない墜落感が伝わってくる……なぜだろう?と考えてみた。

「実を結ぶ」(五文字)、「努力への」(六文字)、「架け橋は」(五文字)、「渡る途中で」(八文字)、「墜ちてゆき」(五文字)
ほとんど五、七、五、七ときながら、最後は大きく字足らずで五文字である。


この字足らずが不安定さをかもしているのだろうか……とも思った。

五七五七七というリズムにあてはめるだけで、何でもない文が生き生きとしてくる……と短歌を学んで思うようになった。
その安定のリズムを最後で崩しているから、墜落という不安定さが表現されているのかも……という気がする。

実を結ぶ努力への架け橋は
  渡る途中で墜ちてゆき

(丸山健二「風死す」1巻246頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月28日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー様々な生の形が多様な語り口で語られているー

以下引用文。カケスの鳴き声は、たしかに赤ん坊の泣き声のようでもあり、何かを論じているようでもある……。この突拍子もない比喩が妙に納得できて立ち止まってしまう。

さらに「柱頭に花粉を付着させた頭状花」という自然科学のテキストに出てくるような文、そのあとに続く「俯き加減で咲くことの意味を語り」という詩的な文との対比が鮮やかで心惹かれる。

「独り草むしりをする」のは丸山先生自身の思いと重ねているのだろうか……「毎日草むしりをして雑草との戦いです」と言われていたこともあるし。

断崖の地層の段落も、たしかにそうだ……と納得してしまう。

こうして様々な儚い生の形を語られたあと、「生と死のいずれの側も」と語られると、妙にストンと納得させられる感じがある。

赤子の泣き声を実に器用に真似るカケスが
  生誕の意味の広狭について巧みに論じ

  柱頭に花粉を付着させた頭状花たちが
    俯き加減で咲くことの意味を語り

    豪壮な邸内で独り草むしりをする
      頭に積雪を置いた高齢者らの
        途切れることなき咳嗽は
          突然死を希っており


          数十本の線条が走る
            断崖の地層には
              その時代が
                刻まれ、

深くて激しい陰鬱な背景を負う生と死のいずれの側も 無から創造される者ではなく
  双方のあいだには 揺るぎなき類縁関係がきっちり成立していると そう理会され

(丸山健二「風死す」238頁239頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月27日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー思考を目に見えるように表現すればー

人間の思考の営みを表現した面白い言葉だと心に残った。

「神の国とやらを探求し始め」とは、宗教的、哲学的思考に没入し始めたことを指しているのだろうか。

そうした見えない思考の過程を、形而上「認識できないもの。超自然的、理念的なもの」と形而下「認識できるもの。現象的世界に形をとって存在するもの」のあいだに「なんとも穏やかな段差を設け」と目に見えるように表現している。


読んでいる方も楽しみつつ、納得できてしまうところがすごいなと思った。

両の眼を涙で曇らせながらも 苦々しげな顔つきを保って 神の国とやらを探求し始め
  形而上と形而下のあいだになんとも穏やかな段差を設けて 自由な往来を実現させ

(丸山健二「風死す」1巻224頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月26日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ー感覚の断片が突き刺さる!ー

犯罪者にして詩人、がん患者という二十代の主人公。
「風死す」は「記憶の文学」という丸山先生の言葉のとおり、一見かけ離れたように思える状況でも、やはりそこには丸山先生が感じてきた感覚の、記憶の断片が散りばめられている気がしてならない。
そしてその痛みが、主人公の、丸山先生自身の核になっているのかも……とも思った。

同母兄の実在なんぞを夢想しながら孤独な身を癒し

(丸山健二「風死す」211頁)

「それが人の世の習いというものなのだから仕方がない」と
  くり返し呟くことで 自我の最も繊細な一部分を傷つけ

  そもそも生涯の始まりから心の歯車が狂い放しのせいで
    常に加害者の立場に身を置いて生きるしか術がなく


(丸山健二「風死す」1巻216頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月25日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー文章のトーンも様々!ー

〈煩悩の富者〉〈絶望の覇者〉〈苦悶の智者〉まだどんな存在なのか、よく認識できていない。

ただ、こんな存在に遭遇したら嫌だ!と思った絶妙のタイミングで、「なるべく出くわしたくない それら三強に」と書かれているから思わず苦笑してしまう。

前半部分の重いトーンから一転、「先方がちょっかいを出してくる前に死んだ振りでもしよう」とどこかユーモラスになっている気がする。

よくイメージできないところはそのままにして、文章から吹いてくるいろんな風を受けとめる……のが、「風死す」を楽しむ方法の一つではないだろうか。

四六時中絶対者を演じたがる いちいち構ってなどいられない 〈煩悩の富者〉

  憧憬に後続する夢物語を打ち壊す 人類共通の敵対者である〈絶望の覇者〉

    ささやかなる営為の果てまでも 完全否定して止まない〈苦悶の智者〉



    なるべく出くわしたくない それら三強に ぐるりを包囲された上に
      組み敷かれてしまうという 明らかに手に余る窮地に陥った俺は
        先方がちょっかいを出してくる前に死んだ振りでもしようと
          溶岩大地のただ中で余命をしっかり保って微動だにせず



          人間という生き物を神仏とは別な目で見ているそ奴らは
            死に瀕した二十六歳を お手並み拝見といった目で
              安易な観察を加えながら 気に障る態度を取り 


(丸山健二「風死す」1巻213頁214頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月24日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーかけ離れた語彙同士が見事にマッチングして描くイメージの愉しさ!ー

記憶について書かれた以下引用文。
科学的な語彙が文学的な言葉を思いがけずよくマッチングして、かけ離れたイメージが頭の中で不思議な一つの像を結ぶ気がする。


記憶を「混信して聞き取りにくい電波」「伝染する欠伸」に喩える不思議さがありながら、妙にしっくりしている。

「春眠覚めやらぬひととき」「匂い袋が放つ 控えめな陶酔感」という甘美な言葉が「脳幹まで運んでゆき」という意外な結末で終わるので、余計印象に残る気がする。

混信して聞き取りにくい電波のごとく入り乱れ
  伝染する欠伸よろしく胸に去来する記憶を
    さらなる逆巻きへ強引に引きずりこみ

    春眠覚めやらぬひと時を錯覚させては
      匂い袋が放つ 控えめな陶酔感を
        じわりと脳幹まで運んでゆき


(丸山健二「風死す」1巻203頁204頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月23日(土)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー同じようで違う〈煩悩の富者〉〈苦悶の智者〉

〈煩悩の富者〉とか〈苦悶の智者〉とか他には何があっただろうか……私のようにまったくそういうことを考えないで生きている者にとっては、相違を見い出すのが難しい。

でも最初の引用文の「歩行を好み しかも素足で少しずつにじり寄る」で、人間のような、でも人間とは違うような、不思議感を感じてしまう。

〈煩悩の富者〉に対する「俺」の反応を読めば、「少しも怯まぬ」「不服従の色」「つべこべ言わずに」「先制攻撃を食らわせて」と、どこか話に伺う丸山先生の学生時代を彷彿とさせる姿で、丸山先生の記憶が強く滲んでいる箇所なのではないだろうか。

二番目の引用文の「黄金色の陽光をかき分けて ふらつきながら接近してくる」「またもや心を奪われかけてしまい」という「苦悶の智者」は、この箇所からだけだと女性的存在にも思え、作者の青春時代の輝かしい存在であった女性にも思えてきた……。

歩行を好み しかも素足で少しずつにじり寄る
  かの〈煩悩の富者〉がおぼろげに認識され


  少しも怯まぬ俺は 不服従の色を滲ませて
    「つべこべ言わずに引っこんでいろ」
      と先制攻撃を食らわせてやりつつ
        付けこまれる油断がないかを
          素早く再確認するために
            自我の観察に努めて
              落着きを復活し



              黄金色の光線を
                味方にして
                  構える。


(丸山健二「風死す」1巻199頁)

具体案を出せぬうちに 黄金色の陽光をかき分けて
  ふらつきながら接近してくる〈苦悶の智者〉に
    案の定 またもや心を奪われかけてしまい


(丸山健二「風死す」1巻201頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月22日(金)

宮沢賢治「ポランの広場」を読む

ー宮沢賢治と浅草、浅草オペラの接点を知るー
ー「ポラン」という言葉の意味を調べる!ー

福島泰樹先生の「人間のバザール浅草」講座で、「宮沢賢治の浅草」というテーマで講義を受けた。宮沢賢治と浅草、そしてオペラ……という思ってもいない接点を、浅草オペラに賑わっていた時代を教えて頂いた。

思えば賢治が上京を繰り返した、大正五年から(関東大震災)をはさむ昭和六年までの十五年間(上京数八回、滞在日数延べ日数三五〇日)は浅草が最も活気に満ちた時代であった。日本の大衆文化、いや文化そのものを浅草が担ったといっても過言ではない。

(福島泰樹「宮沢賢治の浅草」資料より)

浅草オペラの誕生は「ゴンドラの歌」が流行した翌年の大正六年二月一日、常盤座。

(福島泰樹「宮沢賢治の浅草」資料より)


大正六年十月から「コロッケの唄」「カルメン」「ブン大将」「ボッカチオ」など和製ミュージカル、オペラ、オペレッタが続々と浅草で上演され、田谷力三や藤原義江の時代に。
やがて大正十一年にエノケンが登場……という説明を受けたあと、浅草オペラの曲を次々と聴かせてもらう。

思わず口ずさみたくなるような、心温まる声である。おそらく宮沢賢治もこの歌声に心躍らせて聴いたことだろう。

自作の劇を演出、生徒たちに上演させ、劇中にはきまって浅草オペラさながらに歌がはめこまれた。

(福島泰樹「宮沢賢治の浅草」資料より)

そんな曲がはめこまれた宮沢賢治作品をいくつか紹介してくださった。

その中でも、「ポランの広場」という作品が気に入ってしまった。まず「ポラン」という言葉の響きが、とても魅力的である。

何か意味があるのだろうか……と調べてみれば、pollen (ポラン)には「花粉」という意味があるらしい。ただし宮沢賢治がこの英単語から「ポラン」と書いたのかは不明ではあるが……。

私は日本語で言わないで英語で言おうとする風潮は嫌いなのだが、このポランだけは別である。響きも、小さい形も、「花粉」と書くより「ポラン」の方がしっくりくる気がするのだ。

「ポランの広場」の冒頭のト書き部分を読めば、やはり宮沢賢治が見ただろう浅草オペラの舞台がくっきりと浮かんでくる。

ベル、
人数の歓声、Hacienda, the society Tango のレコード、オーケストラ演奏、甲虫の翅音、
幕あく。
舞台は、中央よりも少し右手に、赤楊の木二本、電燈やモールで美しく飾られる。
その左に小さな演壇、
右手にオーケストラバンド、指揮者と楽手二名だけ見える。そのこっち側 右手前列に 白布をかけた卓子と椅子、給仕が立ち、山猫博士がコップをなめながら腰掛けて見てゐる。
曠原紳士、村の娘たち、牧者、葡萄園農夫等 円舞。
衣裳係は六七着の上着を右手にかけて、後向きに左手を徘徊して新らしい参加者を待つ。
背景はまっくろな夜の野原と空、空にはしらしらと銀河が亘ってゐる。
すべてしろつめくさのいちめんに咲いた野原のまん中の心持、
円舞終る。コンフェットー。歓声。甲虫の羽音が一さう高くなる。衣裳係暗をすかし見て左手から退場。
みんなせはしくコップをとる、給仕酒を注いでまはる。山猫博士ばかり残る。


(宮沢賢治「ポランの広場」)

以下は山猫博士が歌う歌。

つめくさの花の 咲く晩に
ポランの広場の 夏まつり
ポランの広場の 夏のまつり
酒を呑まずに  水を呑む
そんなやつらが でかけて来ると
ポランの広場も 朝になる
ポランの広場も 白ぱっくれる。


(宮沢賢治「ポランの広場」)

以下は山猫博士に対抗して、ファリーズ小学校生徒のファゼロが歌う歌。

 つめくさの花の かほる夜は
 ポランの広場の 夏まつり
 ポランの広場の 夏のまつり
 酒くせのわるい 山猫が
 黄いろのシャツで出かけてくると
 ポランの広場に 雨がふる
 ポランの広場に 雨が落ちる


(宮沢賢治「ポランの広場」)

「ポランの広場」は短いながら、幻想味が強く、どこかユーモラスで印象に残る。青空文庫にあり短いので、興味のある方は読まれてみては……と思う。

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さりはま書房徒然日誌2023年12月21日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー躍動感の秘密を考えるー

「半透明の荒馬」「夏の真昼時であっても闇」と詩的な言葉が続いた直後、「人体の組織で構成された〈煩悩の富者〉」と理科の言葉と詩の言葉が合わさったような表現がくる。
科学的な表現が混ざることで、詩的な表現が強調されるようにも、逆に科学的表現の面白さも感じる。

「はてさて」「引っ提げて」という言葉からユーモアが漂い、「亡霊が横行闊歩する」「あの世への 強引な勧誘」とどこかブラックユーモアめいた表現が心に残る。

「死」と「詩」を語る言葉にユーモアを混ぜることで、文に躍動感が生まれている気がする。

半透明の荒馬に颯爽と跨った 夏の真昼時であっても闇に近い印象をけっして弱めない
  どこまでも魂の救済者を装って止まぬ 人体の組織で構成された〈煩悩の富者〉が
    はてさていったい何を引っ提げてやってくるのか おおよその見当はついても
      果たしてそれが死そのものであるかどうかについて 今はなんとも言えず
        ひょっとすると 寂滅為楽とはまったく無関係にして亡霊が横行闊歩する
          要するに この世と大差ないあの世への 強引な勧誘なのかもしれず


(丸山健二「風死す」179頁180頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月21日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー文頭がほとんど漢字、文末がすべて平仮名の箇所もあって独特の視覚的リズムがあるような気がする!ー

以下引用箇所、突如記憶に現れた感じの二番目の段落のエピソードがやけに心に残る……なぜだろうと眺める。

まじまじと見つめていると、二段落目は、最初の文字が場面を語る行ではすべて漢字であることに気がつく。
「そうした場面が」だけが平仮名で始まっているので、場面の切り替えの合図のように思え、それまでのピアノのエピソードが鮮やかに浮かんでくる気がする。
行の終わりは、他の箇所もだが、ほとんどすべて平仮名である。

最初に読んだときは、こういうことは気にもならず気が付かずだったが、短歌の作り方を学んでようやく目が向くようになった……。短歌は、この文字を漢字にした場合、平仮名にした場合のイメージを考えてつくるものらしい。

一段落め、「鰐口」という言葉が強烈で〈絶望の覇者〉の風体を想像してしまう。


次の行で「無遠慮な通り名で呼ばれている もうひとつ別の分身は」とあるから、〈絶望の覇者〉とは主人公のことでもあるのだろうか……と考える。

「沈黙へと逃げこみ」のあと、行が空き、ピアノのエピソードが始まる。この空いた行が「沈黙」そのものに思える。
二段落めの脈略なく思えるエピソードは、無意識を漂う主人公の記憶の残像のようにも見えてこないだろうか?モノクロームに思えるイメージだが、その中で「真っ赤に充血した」という箇所が鮮やかに心に刺さる。

おもむろに鰐口を開こうとしている 〈絶望の覇者〉という
  無遠慮な通り名で呼ばれている もうひとつ別の分身は
    徹底的に究明すべき人間性の課題を投げ出したまま
      そのほうが得策と判断して 沈黙へと逃げこみ


      流木が引っ掛かった橋脚が崩壊するありさまを
        真っ赤に充血した目でそっと見やりながら
          古いピアノで難曲を巧みに弾きこなす
            盲目の乙女が独りで住む家の前に
              隣人らがわんさと押しかけて
                洪水の危険を報せながら
                  家具を外へ運び出す
                               そうした場面が
                                  突如として

                                     現れる。

(丸山健二「風死す」1巻168頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月19日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ー余韻の秘密を考えてみるー

たしか先日開催された「いぬわし書房」のオンラインサロンで、丸山先生は「読み終わったあと、引きずるもの、余韻を感じてもらいたいと思っている。数日間モヤモヤ、切なさが心に渦巻いて、そんな状況の分析を楽しむ読後感が残るように、想像力を喚起させる文章を書きたい」という趣旨のことを話されていたように思う。

たしかに以下引用箇所など、読んだとにいつまでも余韻が残る。なぜだろうとその魔法を考える。


菱形部分の半分くらいを引用させて頂いた。


語句のイメージの重なりによって、心の中で世界がどんどん広がっていく気がする。


たとえば「地」と「影法師」と「犯罪者」と「善と悪」というダークカラーのイメージ。

それから一転して「黄金分割」と「ヨイマチグサ」(夕方、黄色の花を開き、日の出頃には橙色になってしぼむ)と「夕べ」と「落日」というように、黄色から橙色のイメージで繋がる語句が並んでいる気がする。

陰から陽へのイメージの転換が、さりげなく配置された語によって無意識のうちに誘導され、そこから余韻が生まれるように思う。

なぜこんなに余韻が残るのか……考えてみて言葉の秘密を探し出すのも丸山文学の楽しさだと思う。きっと私が気がつかないでいる秘密がたくさんあると思う。

ちなみにこの菱形レイアウトの部分はページ数がない。何ヶ所もあるので、丸山先生、編集者さん、印刷所の方、それぞれが大変だったと思う。その甲斐あってレイアウトの美しさが際立っている。

           地
          面に映
         った俺の長
        い影法師 弱冠
       にして天下に名を馳
      せる犯罪者に憧れる奴は
     善と悪の黄金分割を象徴する
    ヨイマチグサの芳香が漂う夕べに
     落日の大観が 

(丸山健二「風死す」1巻) 

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さりはま書房徒然日誌2023年12月18日(月)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ースペースには大切な意味があるのかも!ー
ーイメージが繋がるように言葉を散りばめてくれている!ー

以下引用は、「咎を小脇に抱えての流浪」(「風死す」1巻150頁)をしている主人公の心中を描写している箇所。
「咎を小脇に抱えての流浪」という言葉だけで、主人公の胸中が迫ってくる表現だと惹きつけられる。


引用箇所はとても心に残るものがあって、なぜだろうと入力した後もじっと眺めてリフレインしてしまう。


スペースにも大事な意味があるのかもしれない……という気がしてきた。

「究極の安らいの深層部に到達すべき」は、切言が響かなくなっているのに諦めずに語りかけてくる〈絶望の覇者〉の声のようでもあり、流浪を続ける主人公の声のようでもあり……。

「孤独な寂滅」が行の最後にくることで、次の「水面下に没して」というイメージが言葉より先に形成されている。

スペースがあることで「命の輪郭線が滲み」という深い言葉が、鮮烈に心に残る。

前の段落の「寂滅」という言葉に脳が刺激されて、次の段落の「地獄への道連れ」も、「かけそき楽の音」も、「穢土」も、どこか「寂滅」繋がりで結びついてゆく気がする。

前の段落の「海原」も、次の段落の「ゆるゆると」や「呑みこまれ」に言葉のイメージが結びつく。

だから少し難しいように思える文だけれど、丸山先生がイメージをさりげなく繋がるように言葉をばら撒いてくれているから、難破することなく文をたどっていける気がする。

〈絶望の覇者〉なればこその切言が胸に響かなくなって
  究極の休らいの深層部に到達すべき 孤独な寂滅が
    生の海原の水面下に没して 命の輪郭線が滲み

    地獄への道連れにしてはあまりにも芳しくない
      かけそき楽の音が空をゆるゆるとよぎって
        何が成し遂げられるわけでもないまま
          束の間の穢土の八方に呑みこまれ


(丸山健二「風死す」1巻151頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月17日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー主人公の心が乱れるところでまた素数が!ー

短歌の集まりの席でたまたま「風死す」を20代の方にお見せした。すると菱形のフォルムや左斜め下りのレイアウトや言葉に興味を持ってくださり「読んでみます!」との力強い言葉が。
ただし丸山健二を知らない20代に購入を勧めるには、いくら内容が良くてもちょっと値段に躊躇してしまうのが辛いところ。

それにしても丸山塾で学んだ方々が戸惑われる「風死す」に、短歌のお若い方がこんなにも素直に感嘆してくださるのはとても嬉しいし、「風死す」の読み方というものを考えてしまう。

そんなことを思いながら引用部分を眺めていたら、ここにも素数の文学・短歌(怒られてしまうだろうか……)と同じく素数が働いている気がする。
ただし短歌のように音に素数が働いているのでなく、文字数である。

主人公が〈絶望の覇者〉に戦いを挑もうとして苦しむ場面である。

自身へ目を向けすぎることを忌み

  人界における各等級を黙殺し

    困難や苦難など乗り越え

      月遅れの正月に酔い

        厭軍思想を愛し
 
          限界に挑み



           直接行動を

             支持し


(丸山健二「風死す」1巻147頁)

上記の文の各行の文字数を数え、行の終わりに記した。

自身へ目を向けすぎることを忌み(15字 素数でない)

  人界における各等級を黙殺し(13字 素数)

    困難や苦難など乗り越え(11字 素数)

      月遅れの正月に酔い(9字 素数でない)

        厭軍思想を愛し(7字 素数)
 
          限界に挑み(5字 素数)

          
          
          直接行動を(5字 素数)

             支持し
、(3字 素数)

(丸山健二「風死す」1巻147頁)

ポジティブな意味合いの行は素数で終わり、ネガティブな意味合いの行は破調になるのだろうか……素数でない数字で終わっている気がする。
丸山先生は、素数のことをいまだ解明されていない神秘の数字とも語り、行数を素数にこだわって書くことで文に抑制が生じるとも言われていた。

この箇所は、主人公が〈絶望の覇者〉と格闘する場面なので、素数にこだわることで主人公の葛藤に引きずられないように工夫された……ということはないだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2023年12月16日(土)

神奈川県立図書館ボランティア朗読会「日々のこと」へ

ー朗読を聴く幸せを満喫!本を選び、練習して……という長い時の積み重ねを感じた!ー

神奈川県立図書館4階学び交流エリアにて開催された、図書館ボランティアスタッフによる朗読会に行ってきた。

神奈川県立図書館は昨年秋に新しい建物に生まれ変わったばかりの、歴史はあるけれど、施設は新しく快適な図書館である。

今日朗読されたりお手伝いされたりしていたボランティアの方々は、図書館で開催された令和四年度Lib活「本を選び、本を読み、本を朗読する講座」で学ばれたそうで、令和五年から県立図書館ボランティアとして定期的にテーマを決めた朗読会で活動されているとのこと。

ボランティアスタッフの年齢の幅広さが意外であった。
年齢を積まれた方々は予想できたが、働き盛りのお若い方々がお忙しいだろうに生き生きと参加されているのには驚いた。
かつては朗読といえば演劇から入ってくる方々が多く、中々足を踏み込みがたい雰囲気があったように思うが……。最近では文アル、文ストブームに加え、声優の方々の活躍が朗読の層を広げたのだろうか……。
私が学校に勤務していた頃、声優に憧れて毎日割り箸を口にくわえてボイストレーニングに励んでいた女子生徒がいたっけ……と思い出す。朗読を真摯に楽しむ……という文化が、私より若い方々には広がっているのを感じる。
何はともあれ、多くの方々が本を朗読してくださるのは嬉しいし、そういう志のある方々に学びや実践の場を提供してくださる神奈川県立図書館の司書の方々にも感謝したい。

ボランティアスタッフと図書館司書の方々が、とても意気のあった感じで活動されているように思えた。今回の朗読会のテーマ「日々のこと」は、図書館司書の方が3階企画棚シコウの窓に「日記」と関連した展示をされていることから決められたそうである。

今回の朗読本は、「方丈記」(鴨長明 高橋源一郎訳)、「病牀六尺」(正岡子規)、「ぶぅぶぅママ」(小路智子)、「無人島の二人~120日以上生きなくちゃ日記~」の四冊である。
古典から絵本、現代作家までバラエティ豊かである。

そのうちの二冊が、病の床で書かれた日記である。病の床にあるとき、日記を記したくなる人の心というものを思う。

「方丈記」も、「病牀六尺」も穏やかな女性の声で朗読してもらうと、まるで音楽のように言葉の音韻が浸透してきて大変心地よい。

「ぶぅぶぅママ」は第34回日産童話と絵本のグランプリ童話大賞受賞作だそうで、どうやらこの一作だけの作者のようである。
どこかほのぼの、でもブラックユーモアも効いている……という作品に、この朗読会に来なければ出会えなかっただろう。
知らない作品に出会える……というのも、この朗読会の面白さである。

作者・山本文緒さんが癌で亡くなるまで書かれていた日記「無人島の二人~120日以上生きなくちゃ日記~」を聴いていると、山本さんやご主人の姿がありありと浮かんできた。
私の短歌の師・福島泰樹先生が短歌絶叫コンサートで「死者は死んではいない。死者は言葉の中に生きている。その言葉を朗読することで死者は蘇るんだ」と言いながら、朗読されている姿と重なる。
どの朗読者もだが、山本文緒さんの作品を朗読された方も、時間をかけ迷いながら作品を選び、おそらく13分くらいの持ち時間のために果てしなく朗読の練習をされたのだろう。
そのおかげで私は山本さんの最期の日々をしっかりと追いかけることができた……と思い、朗読の、言葉の力を感じた。

最後、この朗読会のことを教えてくれた年下のフォロワーさんがエレベーターまでお見送りしてくださりながら、短い時間で色々とー丸山健二「真文学の夜明け」を一生懸命に読んでくださっていることやら「真文学の夜明け」のレイアウトが読みやすいことやらーお話しして下さってとても嬉しかった。
朗読会であるだけでなく、さりげなく本の話もできるリアルな場である……という機会を提供してくださる神奈川県立図書館とボランティアの方々に心から感謝したい。

次回は3月9日(土)14時半から、テーマは「ともに……」だそうである。

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さりはま書房徒然日誌2023年12月15日(金)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ーイメージしやすい文もあれば、イメージし難い文もあって、いろんな風が吹いているような「風死す」の世界ー

煩悩を刈り取っていくという〈煩悩の富者〉のイメージは、煩悩だらけの私にはとても想像しやすい。
自分が刈り取られていくような思いで、以下引用文を読んだ。

使われている語彙も、「魑魅魍魎」「血みどろの闘争」「ぎらぎらした利鎌」「びゅんびゅんと揮い」「穀物のようにして横死をせっせと刈り入れ」と、おどろおどろしいイメージが具体的に浮かんでくる表現である。

この分かりやすい表現から4ページ後には、昨日書いた記憶の流れを刻もうとするような、不思議な、何度も繰り返してようやく見えてくる(?)文が現れる。

「風死す」の文のトーンは常に難しい訳でもなく、常に優しい訳でもない。
風が吹くように、文も自由自在に流れていると思う。その時の気分に合う文だけを反復しながら読んでもいいような気もする。

すると間もなくして 魑魅魍魎のたぐいのごとく なんとも妖しい雰囲気のみで存在し 
  いつものように自空間の鉄壁をいとも簡単に突き抜けて 勿然たる出現を呈するや
    揺るぎない核心と 永遠化された卓絶性と 血みどろの闘争という幻影に
      色濃く染め上げられた ぎらぎらした利鎌を びゅんびゅんと揮いながら
        穀物のようにして横死をせっせと刈り入れる かの〈煩悩の富者〉は
          いかにも大様な ざっくらばんな態度で弱者に手を差し伸べ

(丸山健二「風死す」1巻137頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月14日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ー「記憶の流れ」を追いかけているような文ー

以下引用文は、句のかかり方をおそらく意識的に飛ばしたり、不鮮明にしたりしているのだと思う。
その結果、記憶がゆらめく中で思考しているようにも思えて面白く感じた。
引用文の箇所は、どうもレイアウトが再現できず説明しにくいので、写真を掲載させて頂いた。

「果てしなく流れつづけよ」は、直後に続いていくようにも、あるいは「おのれにしっかり託された病的な使命は」に続くようにも思える。

どちらが続きの文なのかと選択することで、「果てしなく流れつづけよ」という言葉への意識が変わってくるのではないだろうか。
どこに続いているのか判断を変えることで、二つの意識がせめぎ合うような文ではないだろうか。

「行けるところまで行くしかない」という言葉も、前の「おのれにしっかり託された病的な使命は」に続いているようにも、あるいは「おのれにしっかり託された病的な使命は」にかかっているようにも、どちらにも取れるように、わざと書いている気がする。

「精神の全体を衝き動かす」も、前の「おのれにしっかり託された病的な使命は」に続いているようにも、あるいは「魚形水雷に似た何か」にかかっているようにも思える。

こんなふうにどっちとも取れる文を故意に散りばめることで、記憶の流れを行ったり来たり……している感じがする。

丸山先生は「風死す」を「記憶の流れ」と言われたが、まさに記憶の流れにふさわしい書き方ではないだろうか。

「果てしなく流れつづけよ」という 従属せざるを得ない分だけ実に嘆かわしく思える
  そうなるとあとはもう 「正当化以外に何が考えられようか」とでも言うしかなく
    存在そのものを無に帰せしめてしまうほどの 実に虚しい欺瞞を小脇に抱えて
      行けるところまで行くしかない おのれにしっかり託された病的な使命は
        精神の全体を衝き動かす 魚形水雷に似た何かを闇雲に求めた結果が
          底なしの泥の沼に引きずりこまれて 漠とした戦慄に取りこまれ 


(丸山健二「風死す」1巻141頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月13日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー丸山文学には、もう一人の自分がよく出てきますね=

〈絶望の覇者〉について語る以下引用箇所は、さながら絵画を観ているような心地がしてくる。
丸山先生は、音楽を繰り返し聴いて、その旋律のイメージを言葉にする……と語られ、「音楽 → 耳 → 脳 → 文字」というように音楽が文字になることを語られていた。
絵画から文章が浮かんでくることはないのだろうか……と、この文章にふと思った。

よしや最期の日がきょうであったとしても 黒い馬に跨って死の坑道を通って迫りくる
  〈絶望の覇者〉の姿が鮮明になり 精神界における望みなき紛糾が一段と活発化し

(丸山健二「風死す」1巻128頁)

以下引用箇所。「もう一人の自分(別な人格を有する自分)」は、「風死す」の、丸山文学の大きなテーマだと思う。
ただ自分が、もう一人の自分と対話しているのだから、おそらく矛盾や齟齬もあるのかもしれない。
私は「もう一人の自分」が出てくる時は、あまり意味にこだわらず、視覚的イメージや音楽のような、シンフォニーのような、文章の流れを楽しむことにしている。

少なくとも上辺だけは満ち足りているように思える世間が 見渡す限りを埋め尽くして
  おそらく自身が案出したであろう悪事の芽が 次々と萌え出でる青春の真っ最中に
     「心底からそうしたいのか?」と問うたのに対して 別な人格を有する自分は
「ほかに道はないのだ」ときっぱり答え 両者は互いに策応して事を運び
         強烈な指示を出す運命に決然と挺身し そのための権勢を執拗に求め

(丸山健二「風死す」1巻135頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月13日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ー〈苦悩の覇者〉の存在を感じたら、たしかにイライラするかもー

〈苦悩の覇者〉と主人公が語る存在が、悩みだらけの私にはあまりに遠く、最初に読んだときはよくイメージをつかめないまま、ささっと素通りしてしまったような気がする。

以下引用文は、〈苦悩の覇者〉、おそらく苦悩を乗り越えた者を語る言葉を取り出したもの。

読んでみると、善なるもの、醜悪なるもの、この両方がバランスをとって存在している……という状態が、苦悩を乗り越えた存在なのだろうか?

主観と客観との純粋な同一性によって成り立つ、近寄りがたき〈苦悩の覇者〉

(丸山健二「風死す」1巻121頁)

陽光の金糸と紫黒色の粗悪な銀糸によって紡がれた 啓発的な存在

(丸山健二「風死す」1巻121頁)

〈苦悩の覇者〉と対峙しているうちに、主人公は苛立ってくる。こんなスーパーな存在を相手にしたら、誰だって苛立つだろう。

〈苦悩の覇者〉とイライラと向かいあっているとき、主人公が「もうひとりの自分」を呼ぶ姿が心に残る。

どうやっても到達できそうにない相手を前にしたとき、私たちは「もうひとりの自分」に助けを呼ぶのかもしれない。

もうひとりの自分をいくら呼んでも返事がなく
  とうとうしびれを切らして 怒鳴りまくり

(丸山健二「風死す」1巻122頁

以下引用文は〈苦悩の覇者〉を感じたあとの青年の心象風景。

「船が島影にに隠れるようにして」という悲しみに満ちた比喩。

「街灯が転じられるたびに」の後の意外な展開。

「完全離脱を疑問視」する心のやるせなさ。

「精神的な内玄関」という抽象的な事物を具体的なもので表現する面白さ。

「銅臭」という知覚に働きかける文で考えさせる意外。

最後「楽しむ」という三文字には、どこかそっと背徳を楽しむ雰囲気がある。

船が島影に隠れるようにしてささやかな希望が失せ

  街灯が点じられるたびに 人生設計が立ち消え

    破滅への恐ろしさで その場に居すくまり

      二十代の年齢層に見られる傾向が濁り

        属する集団の完全離脱を疑問視し

          精神的な内玄関がないと悟り

            銅臭を嫌う者を忌み嫌い

              獲物に目星を付けて

                身体内部を欺き

                  正当を欠き

                 
                  様変わりを
                    楽しむ。

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さりはま書房徒然日誌2023年12月11日(月)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー今度こそ〈苦悶の智者〉〈苦悩の覇者〉〈煩悩の富者〉〈絶望の覇者〉で落ちこぼれないようにしたいー

「風死す」では、〈苦悶の智者〉〈苦悩の覇者〉〈煩悩の富者〉〈絶望の覇者〉という四つの存在が語られている。

一回目に読んだときは、どれがどれだか分からなくなって落ちこぼれ状態で読み進めた。
もしかしたら、それでもいいのかもしれない……この社会はそうした存在が入り乱れているのだから。

でも、やはり再読なのだから、少しは違いを把握したいもの……と幾分丁寧に読む。

以下引用文は「苦悶の智者」について語っている箇所より少し抜粋。

最初の引用箇所の「生者のほぼ全員が帰依せざるを得ない」という表現は、「苦悶」というものを巧みに表現しているなあと思う。


「苦悶の智者」が口ずさんでいる歌について「なんとも陳腐極まりない おそらく安っぽい鎮魂歌」と表現することで、「苦悶の智者」が等身大の存在に見えてくる。

一方でその次の「壮大な丸天井としての蒼穹を背に 人の耳には聞こえぬ超低音で唄い」で、やはりコレは人でない感が強まってくる。

さらにこの文の中だけでも、〈苦悶の智者〉のイメージは「淑やかな足の運び」「破滅のカレンダー」「生と死の対立をそれとなく煽り」「旨みのない人生」「安っぽい希望」という様々な言葉で語られている。

嫌な存在としての「苦悶の智者」を喩える言葉が、次々と現れるところが面白さなのだろうか。

ときとして創造の ときとして破壊の象徴でもある天下無敵の絶対者は
  生者のほぼ全員が帰依せざるを得ない かの名高き〈苦悶の智者〉は

(丸山健二「風死す」1巻115頁)

なんとも陳腐極まりない おそらく安っぽい鎮魂歌のたぐいを口ずさんで
  壮大な丸天井としての蒼穹を背に 人の耳には聞こえぬ超低音で唄い

実に淑やかな足の運びで 気づかないうちに近づいてきたかと思うと
  これ見よがしに 一番見易い位置に破滅のカレンダーを掲示して
    密接な関係にある生と死の対立をそれとなく煽り立てながら
      旨みのない人生を力んで生きても無駄であることを諭し


特用品としては申し分のない 安っぽい希望のかけらを
        入り用な代物を信じさせて かなり強引に押し付け

(丸山健二「風死す」1巻117頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月10日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーほとんどの行が平仮名で終わっている!ー
ー短歌&俳句歴の長い方は「風死す」にすっと入れた!ー

注意力散漫なせいだろうか。読んでいるときには素通りしていたけれど、入力してみて初めて気がつくことがある。

「風死す」各行はほぼ平仮名で終わっている……ということも、入力して初めて気がついた。
ざっと見たところ1巻100ページまでのうち、漢字で終わっている箇所は24頁「結果」と30頁「最中」の二箇所のみの気がする。

これはどういう意図なのだろうか?終わりが平仮名だと、やわらかく次の行につながる気もするのだが……。たぶん私には分からない意図が働き、きっと効果を生み出しているのだと思う。

「風死す」を短歌歴、俳句歴がおそらく半世紀以上の方に見せたら、レイアウトの美しさに感心され、短歌と同じ発想が働いている箇所がある!と教えてくださった。
そして「読んでみたい」と。
丸山塾の塾生も戸惑う「風死す」の世界に、丸山文学に馴染みのない、でも歌人歴、俳人歴の長い方が違和感なくすっと入り込んでいく。
その姿に、「風死す」の楽しみ方は通常の小説を読むようなスタイルではなく、散文詩のように読んでいくものなのだろうか……とも思った。
そうだ!「風死す」というタイトルそのものが、俳句の季語なのである。
「風死す」の世界に入るには、小説のことを忘れ、短歌や俳句の創作にトライするといいのかもしれない。

さて以下引用箇所である。
そんな散文詩のような世界にも、オンラインサロンとかで伺った話と重なる丸山先生自身の記憶が、形を変えて散りばめられているような気がした。

小さな家柄を鼻にかけていた養父母の
  敗色濃厚な人生模様を想像するや
    たちまちに忘恩の徒となって
      とうとう家出を決意した
        あの日のあの夕刻に
          端を発する際の
            勇気溌溂が
              復活し、

(丸山健二「風死す」97頁)

偽りの家族愛に溶け合う日々をいきなり見限ったかと思うと
  節くれだった気構えと 自主独立の心の持ち主に変身し

  幸福もどきの家庭環境の急激な失墜を全面的に受け容れ
    のみならず またとない好機と捉えて ギアを替え


(丸山健二「風死す」98頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月9日(土)

丸山健二「風死す」1巻を少し読む

ー無機質な言葉が詩的な衣をまとう不思議さー

引用箇所は、犯罪者にして詩人、末期癌患者の20代の心を語っている。

犯罪へと傾いていく心を語りながら、感情を表す言葉は少なく、むしろ反対の数学や物理と関係のあるような言葉「生の傾斜角度」「善の水準器」という言葉がイメージをふくらませ、不思議な詩的世界が現れている。

無機質な言葉が詩的に思えてくるマジックが、丸山文学の特徴の一つにも思える。

ちなみに写真は水準器(水平器)なるものだが、初めて見た。写真を見ると、ジワジワと殺意が高まる感覚が伝わってくる気がした。

何かにつけて空虚な弁解を発するばかりの さもしい心根が
  いつしか知らず屈折した 生の傾斜角度をきちんと測る
   冷酷無比にまで精度の高い善の水準器と定まったり

(丸山健二「風死す」1巻96頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月8日(金)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ー言葉の連想ゲームでイメージを紡ぐ楽しみー

以下引用文は主人公の青年が次々と人を殺めたあと、しばらくしてから出てくる文である。

「種皮を被っての発芽にも似た心地を」という思いがけない語句の組み合わせが、頭の中でリフレインする。さらにそうした心が「淡い色と形の鉢に活けられた野の花が連想され」とは、どういうことなのだろうか……分からないからアレコレ思いをめぐらして楽しい。

突拍子もない表現だけれど、私の頭の中にスッと入ってくるのは「種子」「野の花」と植物つながりの語であるからなのかもしれない。
人知れず生命を輝かせるイメージが、流離う主人公と繋がっていく気がする。

「風死す」には、こういう言葉の連想ゲームみたいな楽しみ方もできるのではないだろうか?

あと先日の田畑書店のポケットアンソロジーもそうだけれど、丸山先生と関わった人たちが分からないような形でそっと作品の中に出てきている気がする。

なんかこれは私によく似ている……という人物の一文も、最後の巻にあった。
そんな隠された丸山先生の記憶のピースを探すのも楽しみ方の一つなのかもしれない。

今となっては 固唾を飲むほど素晴らしい 胸が躍る光景を目の当たりにしたところで 
  理知的な渇きがすっと癒されることがなくても種皮を被っての発芽にも似た心地を 
    のべつ自覚することが可能で 淡い色と形の鉢に活けられた野の花が連想され

(丸山健二「風死す」1巻95頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月7日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー図形の比喩、かけ離れた言葉での比喩がイメージを広げる不思議ー

以下引用箇所も主人公の犯罪者にして詩人、末期癌患者の20代の心の言葉である。

丸山作品の中には、時々、図形が思いがけないところで比喩のような形で使われている。図形の比喩を用いることで、なぜか心に不思議なイメージが喚起される気がする。
「仮象の円弧」「流線形の決断力がますます冴え渡って」図形には人智を超越した、宇宙的な力があるのだろうか……無機質な筈の図形が豊かなイメージを生み出す事実に驚く。


それからもう一つ、かけ離れた語と語を用いる比喩を眺めていると、その言葉同士だけで一つの物語が生まれる気がする。


以下引用の「偽装染みた今生」「硫酸化鉄の青を想わせる色相の天空」「苦い思いのすべてを浮かんだ端から布のようにして気持ちよく裁断できる」とか……。

私は丸山塾で語と語が離れすぎていると「ぶっ飛びすぎている」と言われ、あまりに陳腐な語と語だと「語が弾けていない」と言われ……難しいものである。


このくらいの表現なら、語がかけ離れていてもOKなんだな……と、どこまで散文でジャンプできるのか探りながら読むのも楽しい気がする。

あくる日の夜明けまでには 見事なまでに美しい 仮象の円弧を描きながら
  まだるこしい永遠を前提としてどこまでも回転する 偽装染みた今生を
    なんとか無事に迎えられて 硫酸化鉄の青を想わせる色相の天空を
      どうにか振り仰ぐことが可能になったものの ただそれだけで

(丸山健二「風死す」1巻70頁)

苦い思いのすべてを浮かんだ端から布のようにして気持ちよく裁断できる
  流線形の決断力がますます冴え渡って 非業の死を遂げる最期に憧れ

(丸山健二「風死す」1巻89頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月6日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー「風死す」の主人公が常時携行しているのはポケットアンソロジー的な本!たしかにポケットアンソロジーが似合う!ー

以下二つの引用箇所に描かれた主人公ー犯罪者にして詩人、末期癌患者である20代ーの内面に、人間がバタバタと足掻いて生きる苦しさ、美しさを思う。

月の明らかな深夜に太陽に背いて立つおのれを夢想したところで意味はないと
  そう弁えながらも試さずにはいられず というか 気づいた際には実行し

(丸山健二「風死す」1巻60頁)

とうとう分解が不可能なところまで追い詰められた おのが乱れし身魂は
  またしても激しく揺さぶられて 湯玉飛び散る危険な沸点へと近づき

(丸山健二「風死す」1巻62頁)

上記引用の苦しみつつ生きる思いは分かるけれど、私はいい加減に生きているから……と思った矢先に、自分と重なる箇所を発見、途端に「同志よ」という気分になってくる。

以下引用箇所を読めば、「風死す」の主人公は田畑書店のポケットアンソロジーみたいな本を愛読しているではないか……と発見。

たしかに風のように生きる主人公にはポケットアンソロジーが似合うと思い、私でも分かる感覚のおかげでぐいと引き寄せられる。

数冊の小冊子を綴じ合わせて作った自分専用の本を常時携え

(丸山健二「風死す」1巻63頁)

さらに以下の引用箇所、薬を廃棄するのも、喧嘩を見物するのも、私みたいだ……と難解そうな「風死す」が一気に近く感じられてくる。
ただし「指呼の間にある彼岸」だけはどういう感覚なのだろう……と想像して楽しむ。

すべてがわかるわけでないから面白くもあるし、難しいなかに自分と重なる部分を少しでも見つけると距離が一気に縮まっていく。

処方箋によって調剤された薬を廃棄し

指呼の間に在る彼岸を前に嘆息し

街中の派手な喧嘩を見物し

(丸山健二「風死す」1巻63頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月5日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー意識を束ねてゆく言葉の力ー

私自身、駅のミルクスタンドで飲む牛乳も好きだし、深夜のホットミルクも好きなせいか、以下引用文が目に留まった。

主人公が駅の売店で購入したホットミルクを飲むほんの一瞬、意識に働きかけてくる様々な記憶が描かれている。

読んでいるときは気がつかなかったが、字数をレイアウトに合わせることで文が凝縮されてゆき、だんだん己に目が向いていく感じがある。
「強者には絶対付き従わず 獣の人間化に邁進し」という漢字が多いせいか強い印象のある言葉で思いが頂点に達するように見える。

「旅の空に病んで」からは緩み、詩的になり始めてゆく気もする。

「生の守備一貫を 投げ捨て 安らぐ」は、まさにホットミルクを飲んで様々な時を流離う主人公の思いを表現しているだろう。

人によっては、ホットミルクを飲んでいるだけではないか……と言うかもしれない。
でもホットミルクを飲んでいる一瞬を描きつつ、言葉が時を縦横無尽に束ねているようで、言葉の持つ可能性というものを考えた箇所である。

人混みに弱いことを自覚して身辺に気を配りつつ 駅構内を歩き
  売店で購入した温かい牛乳を飲むと 切実な問い掛けが生じ

  回避不能な無がひと塊りになって 心の上にどっとのしかかり

    必需品を納めた小物入れでも紛失したかのように狼狽し

      自我からいっさいの意味をみずからの手で消し去り

       異論百出が胸の四方八方を微動だにせず睥睨し

         昔時を現代という名の槍で激しく突き上げ

           政権の醜悪な争奪戦を冷ややかに眺め

             和菓子を調進する若い女将に惚れ

               角目立っての口論を受け流し

                 強者には絶対付き従わず

                   獣の人間化に邁進し

                     旅の空に病んで

                     生の首尾一貫を
                        投げ捨てて
                        安らぐ。

(丸山健二「風死す」1巻56頁57頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月4日(月)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ー人間の意識と無意識の境界を書いているような二行だと思ったー

人間の意識というものを散文で表現すると、引用文のような状態になるのかもしれないと面白く読んだ。

「人間的な規範」を考えていくと、たしかに「際どい放物線」を描いてゼロに近づいていくのだろうか……という気がする。
「際どい」とは、どういうことなのだろうか?否定されたり、肯定されたり……という営みを指しているのだろうか?
「その先には無が広がり」という感覚も、とても頷ける、素敵な文だと思った。

昨日、昔からの丸山文学ファンが散文詩のような文体を敬遠して後期作品から離れている一方で、私の拙いブログを読んでくださっているお若い方のように、いきなり後期の丸山作品を真摯に読んでくださっている方もいる……と書いた。

その違いは……?と考えているうちに、昔からのファンの方は今よりストーリー性の強い初期作品に馴染んでいたり、あるいはバイクに乗ったり、船に乗ったり……そんな丸山先生の若い頃の生き方に憧れていたのだろうかという気もしてきた。

一方、いきなり後期丸山作品を真摯に読んでくださるお若い方は、丁寧に一語一句を読んでくださっている。さらに図書館で朗読活動もされている方だ……おそらく細かく作品をイメージしながら、言葉を楽しみながら、読むことを習慣にされている方なのだろう。

たぶん後期丸山作品を楽しむには、朗読の準備をするような心持ちで、ゆっくりと読むことが必要なのかもしれない。

引用した文も、この数行だけで満足がある世界ではないだろうか?

人間的な あまりに人間的な規範のあれこれが 際どい放物線を描きつつ
  哲学的妄念に包みこまれて落下の一途を辿り その先には無が広がり

(丸山健二「風死す」1巻46頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月3日(日)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ーもう一人の自分が無数にある世界ー

丸山先生は作品にあわせて文体を変えるとよく言われる。

初期の簡潔な通信士のような文体からスタートして、時代ごとに随分と変化していると思う。

私は後期作品から丸山作品に入ったので、どちらかと言えば後期作品の方が読んでいて楽しい。

一方で初期の頃から読んでいた長いファンの方にすれば、散文詩のような後期の作品はどうも読みにくいらしい……。
そういえば、随分とお若い方が私のこちらのサイトを真剣に読んでくださっているようで有り難く思っている……。
昔からの丸山ファンの多くが後期作品から離れて行ったのに、とてもお若い方が後期作品を真摯に読んでくださる……この違いは何だろうか、わからない。
寺山修司にも、今でも20歳くらいの熱烈なファンがいると聞いたことがある。

余計なことながらミステリは、あまりその類の話を聞かない気がする。若者の好み、年配者の好みがくっきり分かれてしまっているのではないだろうか。
年齢差を乗り越えられる文学、年齢で層が固定してしまう文学の違いはどこにあるのだろうか……。

閑話休題。
丸山ファンも中々読破できないでいる「風死す」に戻る。
この作品は、丸山先生が、丸山先生の記憶や意識が、たくさん散らばった万華鏡のような世界だと思う。
先日も書いたと思うが、丸山先生の姿を発見しては「あ、こんなところにいた!」と楽しむこともできるのではないだろうか。

引用箇所一番目、左斜め下りのレイアウトが綺麗に再現できず読みにくいと思うが……。
ここで出てくる「突風」は丸山先生自身の姿、今の思いではないだろうか?そう思って読むと切なくなるような、しみじみしてしまう箇所である。


引用箇所二番目、「もう一人の自分」というのは量子力学的に必ず在ると丸山先生は確信をもって語られる。
「もう一人の自分」ドッペルゲンガーは、丸山作品の大切なテーマなのである。
「風死す」では、「もう一人の自分」が無数に出てくる気がする。だから混乱するのかもしれないが、矛盾だらけの一人の人間の内面を気楽に旅されるのもいいのかもしれない。

山間部の僻地にこそ相応しい 自由な分だけ奔放にして無頼な突風は
 やがて 草木と木木の植物で埋め尽くされた遠景へと呑みこまれ 
   途中で関わり合ったすべての人間に纏わる一身上の余所事に
     乾いた別離の言葉を投げて 妖しい光の奥へ吸いこまれ
       それきり消滅して その後に何ひとつとして残さず


(丸山健二「風死す」1巻34頁)

髪を逆立てて 心身を硬直させた 間抜けなもうひとりの俺のすぐかたわらに
  よしんば目玉をくり抜かれたところで見ることを止めない俺をそっと据え

(丸山健二「風死す」1巻38頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月2日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を読了

ー自然讃歌と人の世への糾弾を行きつ戻りつするうちに読了ー

「巡りが原」が語る物語、ゆっくり読んでいたせいかすごく長い時の流れのように感じていた。

だが最後に近づくと、巡りが原が「わずか半日」というようなことを繰り返して言うので、ハッと現実に戻される。
「トリカブトの花が咲く頃」は、ある日の午後のわずか数時間たらずを語った小説なのだ。

でもテーマの重さといい、自然の美しさといい、時間を自由自在にたわめ、いつまでも哀しい繰り返しを続けてしまう人の世を見つめているような小説だと思った。

引用文の逸れ鳥の囀り「世界は人間に無関心であり 救世主はいまだ到來せず 人間は平和に無関心であり ために戦爭が獣性の遺産となる」という身も蓋もない事実が、丸山文学の大切なテーマでもある。

一方で「あした開く花は欲も得もなく眠りこけている」という文は、毎日庭づくりに励まれている丸山先生だから出てくる文だと思う。

自然を語る美しい文、人の世を糾弾する厳しい文……そのあいだを行きつ戻りつするうちに、時の流れを忘れてしまう「トリカブトの花が咲く頃」には、たしかに「。」は不要なのかもしれない。

あの逸れ鳥が
 
 ひときわまばゆい光彩を放つ落日を背にし
  かなり皮肉な調子で
   こんなさえずりを放っている

世界は人間に無関心であり
 救世主はいまだ到来せず

人間は平和に無関心であり
 ために戦争が獣性の遺産となる

ほどなく
 「巡りが原」に淡い影を散らす夜が落ちかかり

美しいが上にも美しい
 多大の真理をふくんだ月光は
  現世におけるかぎりない試練の数々と
   死に満腹してしまったトリカブトの花々を優しく照らし

すえ枯れた花は「罪とは何か」を問いかけ
 きょう満開の花はひたすら至福の高みにあり
  あした開く花は欲も得もなく眠りこけている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻487頁488頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月1日(金)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー醜い人の世と自然の美しさのコントラストが鮮やか!ー

社会のあり方、人間のあり方について、丸山文学は手厳しいことを遠慮なく語る。
だが、そうしたものとは対極に位置する自然界を詩情豊かに、言葉を凝らして書く。
だから、いくら非難しても、決してスローガンにはならず、儚いものを言葉に刻む芸術としての美しさがある……以下、ラストに近い引用文にもそんなことを思う。


「巡りが原」の面……という引用部分に、先日の丸山塾での一コマを思い出す。私が無神経に「アブラナの上」と書いた箇所を、丸山先生は「菜花の面」と直された。「上」と「面」では、どうして喚起されるイメージがかくも違うのやら……ただただ不思議である。

月白は皓として輝き
 宵の明星が放つ金色はどこまでも清らかで

ほどなく
 雲ひとつなく
  しっとりとした夜が天空の堂宇をおおいつくす

つれなさをおぼえるほど深閑とした「巡りが原」の面には
 月の色をした霊気がゆるゆると立ち昇り

つまり
 心次第で在り方が決まってゆく生者の気配などはどこにもなく

多様多彩な有機体がひしめくあたり一帯には
 すり切れてゆくばかりの時間の断片や
  存在のちぐはぐな在り方や
   全能者の歯切れの悪い口調や
    幸運にみちた人生の儚さといったものを
     如実にあらわす蛍の光だけが
      不必要に数多く散見されるばかりだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」453頁454頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月30日(木)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー自然を語る言葉の面白さ、平仮名と漢字のメリハリを思うー

未読の方も多いだろうから、粗筋は最低限にとどめ、文体や作者の考え方に魅力を感じたところを取り上げてきたつもりである。

さてラスト近くになってきた。黒牛、逸れ鳥、瞽女の娘、特攻隊くずれの青年、堕落した僧侶……それぞれの不思議な結末を巡りが原は見届ける。


ラストが近づいてきた以下引用箇所、「闘争好きのつむじ風」「自由のすべてを排除してしまうような勢いだった雲」「稲妻と雷鳴の数が激減」「目減りする一方の陽光」と、自然を語る言葉は私が今まで見たこともない言葉が使われていながら、物語が生まれるような美しさがあると思う。


それから入力していて、とりわけこの箇所は風景について語る文は平仮名が多く、精神や思考を表す言葉で漢字が使われているような気がした。

平仮名で書くことによって巡りが原の柔らかな緑が浮かび、漢字を眺めると思いの複雑さを感じる気がするのだが……はたして、どうなのだろうか?

ほどなく
 あちこちに渦巻いていた
   闘争好きのつむじ風が空中に散らばり始め

あれほどまでに濃密で
 自由のすべてを排除してしまうような勢いだった雲がみるみる薄まってゆき

それにつれて稲妻と雷鳴の数が激減し
 ついには消え消えとなり
 「巡りが原」の様相が玄妙にして不可思議な寂寞へとむかう


代わりに真昼の陽光がもどってくるのかと思いきや
 それはなく

というのも
 すでにして太陽が山陰に隠れかけていたからで

ひたすら長い影を草原に落とすシラビソの巨樹は
 何事もなかったかのように
  雨のしずくをやどしてきらきらと輝き
   おのれの根本に発生したとほうもない怪事にたいしてもいっさい私情をまじえず
然りとも否とも言わず

 目減りする一方の陽光のなかにあって
  静かで高尚な自己満足にひたりながら
   あくまで素知らぬふりを決めこんでいる

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻445頁〜447頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月29日

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー太陽の問いに躊躇する巡りが原におのれが重なるー

瀕死の特攻隊くずれの青年を救おうとする瞽女の娘を見て、巡りが原は助けたいと思えども、望むように動けぬ身に苛立つ。

そんな巡りが原の葛藤は、私たちが毎日できるだけ考えないように誤魔化している生の不安に他ならないのではないだろうか?

語の繰り返しは嫌う丸山先生だけれど「『ぎらぎら』という言葉は別。繰り返しても大丈夫」と言われていた記憶がある。
たしかに「ぎらぎら」には繰り返されても、どきりと迫る何かがある。

いや
 是が非でも助けてやらなければならず

また
 それくらいのことができずして
  意識と知性と慈愛をさずかっている「巡りが原」の存在意義はないのだ

 ぎらぎらの太陽が
  ぎらぎらの言葉で
   ぎらぎらの問いをこの私に投げかけてくる


そもそも汝は何者ぞ?


しかし
 自己の根拠を何に求めていいのか
  どうやって自分自身に折り合いをつけていいのか
   さっぱりわからぬ私としては
    ただただこう答えるしかない

それを問いたもうな!

なぜとなれば
 すべての存在がその件で思い悩み
  苦しんでいるのだから!

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻405頁〜406頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月28日(火)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー死に神も生き生きと美しくー

巡りが原にやってきた瀕死の特攻隊崩れの兵士。瞽女の娘はシラビソの木の下でなんとかその命を救おうと試みる……。

「巨樹の形を無断拝借した」という表現に、死の気配すらも自然の一部分として受けとめ、少し忌々しく思いながらもユーモアを保ち、死にも美を感じているような作者の視線を感じる。

青年の上に奇怪な影を落としているのは
 四季を通じて超然とした態度を保ち
  耐えて逆境に打ち克つシラビソなどではなく

たぐい稀なる巨樹の形を無断拝借した
 この世のいたるところで跳梁し
  暗躍している

   生を圧迫し
    生者を葬り去ろうとしてやまぬ
     額に無情のしわをきざんだ死に神にほかならない

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻390頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月27日(月)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ー最後の「風死す」に至るまでの間に風も変化している!ー

詩人にして犯罪者、末期癌患者の20代青年が主人公の「風死す」。
ストーリーがないようでいながら、最後「風死す」に至るまでの間に風もじわじわ変化している……と、以下引用箇所に思う。


最初は「最小のつむじ風」とか「ケチな規模の旋風」であったことに、再読で気がつく。
ストーリーが進むにつれて風も変化してゆくのだ。
今度は、風の移り変わりにも注意しながら読んでいってみよう。

やくざな根なし草の典型として 旅烏や流れ者や風来坊と称され
  重苦しい立場に纏わる胸のうちを 最小のつむじ風が渦巻き

(丸山健二「風死す」25頁)

さらに しばらくの後 そのケチな規模の旋風は 薄っぺらなおぼろ雲に似て掻き消え

(丸山健二「風死す」25頁)

以下引用箇所、主人公の選択に迷う気持ちを表現している。二十代の青年が迷うのに相応しい、格好いい表現だなあと思う。

蒼穹を仰ぎ見るか小流を渡るかのいずれかで

(丸山健二「風死す」27頁)

ストーリーがないようでいながら、底に流れる丸山先生の思いはやはり変わらず……と以下引用箇所に思った。

高額な報酬やまずまずの出世をすっかり諦めた官僚よろしく
組織からの解放が至上の喜悦であることを再確認した後


(丸山健二「風死す」27頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月26日(日)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」

ー巡りが原の言葉に生きることのしんどさを思うー

以下引用部分は高原・巡りが原がおのれを語る箇所。
巡りが原のことでもあり、丸山先生自身のことを語っているようでもあり、人間全般を語っているような箇所だと思った。


「生の存在であることからは そう簡単に脱出できない」という言葉に、生きていることへのしんどい思いも感じられる。


そういえば、いつかオンラインサロンで死後の世界を尋ねられた丸山先生が、たしか「もう一つの世界は物理学的に必ずあると思っている。でも、また生きていくのなら、それはしんどい、勘弁してもらいたい」というようなことを言っていたと思い出す。

夢を抱きやすく夢を放棄しやすい
 そのくせいつまでも目を覚まさぬ
  自分に都合のよいときだけ強がりを言ってみせる弱者でいっぱいの
   いたずらに騒々しい俗世間に近似している

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」354頁)

けっして放恣な想像力から生まれたわけではなく
 現世における空虚な付け足しでもないこの私が

無防備な意識と
 果てしない倦怠と
  望んでも得られぬ定めをさずかった
   生の存在であることからは
    そう簡単に脱出できない

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」355頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月25日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー刹那の美、発見!ー

醜いこの世をコテンパンに描く丸山文学だけれども、それでも読み手が倦むことなく読み続けるのは、言葉と言葉が刹那の美を喚起してくるからであり、悲劇的な状況でも視線が未来を追いかけているからのような気がする。

「トリカブトの花が咲く頃」に出てくる自然は、巡りが原にしても、黒牛にしても、それぞれ象徴するものがあるように思う。


なかでも黒牛の角にとまっている逸れ鳥は、丸山文学の魅力である「刹那の美」「未来」を象徴しているようで心に残る。


以下、逸れ鳥が出てくる引用箇所。

他方

日々を織りなす現実になんの不都合も感じず
 およそ頓挫というものを知らぬように思えてしまう

  あたかも富裕な門閥のごとき
   はたまた抑圧者の権勢のごとき

    傲岸不遜な雰囲気を具えた
     韜晦趣味が似合いそうな
      そのくせ喧嘩早そうな逸れ鳥はというと

相変わらず陽気に過ぎる歌を朗唱し
 疑問の余地なき自明の理としての自由を讃歌し

なおかつ
 生まれゆく世界と死にゆく世界のあわいに存し
  まさに消えんとする今現在そのものの明確な意図をどこまでも絶賛し

太初以来連綿としてつづく過去にはいささかも拘泥せず
 未来にたいしてはあり余るほどの秋波を送る

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」306頁〜307頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月24日(金)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー詩と散文のあわいを進む文ー
ー巡りが原とは誰?ー

以前、どなたかが丸山先生に「詩と散文の違いは?」と尋ねられていたことがある。
先生が何と答えたかは定かに記憶していないが、「詩になりかけながら、踊るようにして散文を書いたっていいじゃないかと思う」そんなことを言われていたような記憶がある。

以下引用文にそんな言葉がよみがえってきた。
たしかに踊りながら散文と詩のあわいを進んでゆくような、丸山先生ならではの独自の文体だと思う。

げんに

祝婚の歌と踊りが似合いそうな
 今を盛りとはびこる豪奢な夏のなかにあって
  それぞれが運命を読み解く鍵を握っているにちがいない万物が

   存在者としての節度を守りつつも
    こぞってこんなことを叫んでいる


「現世は虚構にすぎん!」

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」288頁〜289頁)

以下の引用文を読んで、「いかなる権力にも従わぬ」「常に独立している」という巡りが原は、丸山先生自身の姿を投影した存在なのだと思った。
高原に作家が自分の思いを託して語ると、人間が語るときにはないような深み、ユーモア、説得力があるように思う。

いくらひろがっても全体をうしなうことのない
 底なしに明媚な碧緑の地のなかで
  不可視なる波目模様を描きつつ
   入り乱れながら野を飛ぶ光と風は

狂騒の季節の完璧を期すべく
 無欲な暮らしが似合いそうな
  あっけらかんとした夏空を背にして
   自由奔放さをいかんなく発揮し

深い無関心を装いながらも
 ある種の呪力をもって

「巡りが原」という
ひょっとすると不滅かもしれぬ民間伝承の名を穢すことなく
いかなる権力にも従わぬことを旨とするこの私を再構成し
常に独立しているわが哲学をさらに錬成するのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」304頁〜305頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月23日(木)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー悲惨さから広大無辺へ、小さな命の輝きへと視線を向けさせてくれるー

環境破壊、繰り返される戦争……このままだと人間そのものが、みずから自然消滅していってしまうのではないだろうかと憂鬱になる昨今である。
丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」でも、戦死した者たちの悲惨を下記引用文のようにピシャリと書いている。

戦死者からのいっさいの意味を奪い去り
 行き場を失くしたかれらの魂をほったらかしにし


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」256頁) 

だが丸山文学の素晴らしさは、徹底的に糾弾はしても、読み手の視線を悲惨さから、もっと広い存在へと向けさせる点にある。

先ほどの引用文のすぐ後には、空を語る文がつづく。下に引用した「始まらんとする命が何よりもまず天をふり仰ぐのもそのせいで」の言葉に、私の視線も思わず上を向いてしまう。

その次に「天体の輝きを彷彿とさせる」と天と繋げるようにして、小さな甲虫の命を言葉を尽くして書く。

私の心の中で、人間である悲惨さ、空の無限、小さな甲虫の輝きが、ひとつになって浮かんでくる文である。

忌避しえぬ未来にしっかりと食いこんでいる
  青い球形の
   ひょっとすると存在と無の境界かもしれぬ
    現世の天蓋としての空は
     かならずしも逃れる術もない束縛の世を象徴するものでもなく

 そうではなくて
  重力の薫陶よろしきを得た万物が持ちつ持たれつの関係にあることをそれとなくほのめかすものであり

  また
   つぎからつぎへと湧きあがる傲慢な欲望を吸い取る受け皿としての役目もきっちりと果たしており

 時代が一新され
  刷新されつづけるのはひとえにそのせいで
   始まらんとする命が何よりもまず天をふり仰ぐのもそのせいで

 はたまた
  今回の平和はたんに言葉だけのものではなさそうだという
   人間の無能さにもとづいた
    毎度お馴染みの錯覚が堂々とまかり通っているのも
     じつはそのせいなのだ

 華々しい引退をもくろむ天体の輝きを彷彿とさせる
 色とりどりの宝石をちりばめた黄金の王冠のごとき反射光を放つ鞘翅【さやばね】をいっぱいにひろげ
 凄まじい勢いでそれをぶるぶるとふるわせながら
  恐るべき不羈【ふき】の力を発揮し
   ひとつ間違うと命取りにもなりかねぬ熱風に逆らって果敢に飛ぶ甲虫のたぐいは

 目が覚めるほど美しい光芒を辺りに拡散させることによって自然の非情な部分をぐっと和らげ

 蜂とはひと味ちがう重厚な羽音を響かせることによって悪だくみとは無関係な軽微な罪を赦し

 夢見るような曲線的な飛行をもってして
生きているだけで事足れりとする柔和な雰囲気を押しひろげる

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」258頁〜260頁)

丸山先生は諸々にNOと言い、糾弾し続けたせいで、色々と失ったものも多かったと思う。
それでも否と言い続けてくれることに、読む者の目に、広大無辺な天空から小さな命の美しさを、言葉であらわしていってくれることに、ただ感謝しつつ読む

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さりはま書房徒然日誌2023年11月22日(水)

丸山健二「風死す」を少し再読する

ーもう一人の自分がたくさんいるー

たしか「風死す」には、主人公の「もうひとりの自分」的存在にあたるものが、名前は忘れてしまったが三つくらい出てきたような気がする。
わたしたちの記憶の中では、複數のもうひとりの自分が叫んで、それぞれの物語を紡いでいるのかもしれない……。
だが、そんなことを深く気に留めずに一回目は読んだ
今度は主人公の複数の「もうひとりの自分」の声に耳を傾けながら再読したいものだ。

宿命の延長としか思えぬ身の縮む思いの数々や 居場所を与えられぬための煩悶が
 常に方図もないことを言いつづけるもうひとりの自分に 丸ごと呑み込まれ


(丸山健二「風死す」18頁)

色々書き方は変化すれども、以下引用文のように丸山先生の思いは変わらず。かつてよりも強烈に、鮮明になってきているかも。

殊のほか手間取った国家予算編成に纏わる 思わぬ弱点の数々が
 次から次にさらけ出されて公益優先の原則と原理が無視され


 か弱き立場の国民が支配者層に死ぬことを求められる機会は
  愛国と護国の美名の下に急速に増大しつつあると見なし

(丸山健二「風死す」23頁)


丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー帰還兵の悲惨を知るー

巡りが原に衰弱した帰還兵が現れる。
今まで私が抱いていた帰還兵のイメージとは、無事に帰ってきたことを喜び、周囲から祝福される姿だった。
だが巡りが原が語る帰還兵の身の置き所のなさ、やるせなさに、戦争に行った兵士たちの死ぬも地獄、生きて帰るも地獄……を思う。
同時にそういう若者を大量に生み出しながら、「おめおめと」居座り続ける存在が、それを問うこともない社会のいい加減さが見えてくる。

ことほどさように急激な秩序の崩壊と権威の失墜のなかにあって
 唯一の拠り所であった武力にいきなりくつわを嵌められ
  だしぬけに戦闘とは何も関係ない事柄にぐるっと包囲されてしまった生き残りの兵士のひとりとして

 この若者もまた
  あまりにも開けっぴろげな強国によって新たに敷かれた国家的枠組みと社会的基盤にどうしても馴染めず
 駐留軍の兵士が投げかける勝ち誇りの眼差しと蔑みのほほ笑みにいつまでも憤れず
 望みもしない時代に強く拘束されることに耐えきれなくなり
  未来が何ひとつ実を結びそうにないように思え
   心の空白を何によって埋め合わせていいのかわからなくなってしまったのだろう


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」176頁)

相も変わらず不条理な高みに鎮座まします天皇と同様
 いまだにおめおめと生きており
  荒廃した祖国に冷徹自若として佇んでいるおのれにどうしても我慢ならなくなったのだろう

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」178頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月21日(火)

丸山健二「風死す」1巻少し再読する

ーちまちま韻律を見つける楽しさー

記憶の流れがテーマの「風死す」は、様々な断片が散りばめられている。
そのピースがバラバラになってしまわないように、丸山先生は独自の韻律で束ねようと試みられていると思う。
まず形。菱形、テーマを歌うような四、五行まとまりの斜め長方形、そして斜め左下りに連なる文。
説明しにくいので、いぬわし書房のサイトに掲載されている「風死す」の写真を使わせていただく。

再読してようやく右頁下の左下り文が、頁をめくるごとに徐々に行数が増えていっているのに気がつく。

左下りの文の連なりが最初に終わる12頁では、「覚える」の一語が右頁一番下にポツンと配置されている。(写真一番上)
もう一頁めくって、14頁の右頁一番下の左下がりの文は3行。(写真真ん中)
16頁は5行(3行、スペース、2行)以下(、)でスペースひとつ
18頁は6行(1行、3行、2行)
20頁は5行(3行、2行)
22頁は5行(1行、1行、、3行)
24頁は10行(3行、、4行、、3行)
26頁は12行(3行、、2行、、2行、、3行、、2行)
28頁は16行(2行、、2行、、4行、、2行、、2行、、2行、、2行)
30頁は20行(3行、、2行、、3行、、3行、、3行、、2行、、4行)
32頁は22行(2行、、1行、1行、1行、1行、、5行、、2行、、5行、、4行)

それぞれの段落?の構成行数も、もしかしたら何か意味のある数字なんだろうか?とカッコの中に書いてみたが、わからない。
とにかくだんだん行数が多くなっていって、また振り出しに戻って同じ形が繰り返される。

ラベルのボレロみたいに音が繰り返されながら、終局に向かって段々音が強くなっていくイメージ。

こんな試みをちまちま見つけるのも楽しい。

なかには「それがどうした?」と言われる方もいるかもしれない。でも短歌を学んで、韻律は言葉の表現の要、侮れないと思うようになった。
そして自分ならどんな形の韻律を考えてトライしようか……小説の韻律とは……と考えてみるのも楽しい。

短歌や詩歌と比べ、小説の歴史はとても浅い。
歴史の長い短歌には色々とそれまでのあり方を覆そうとする試みがあったようだけれど、小説にはそこまでの変化があまり起きていないと思う。

小説は新聞や雑誌に効率のいい形で発展していったが、その母胎となっていたメディアは今や衰退した。
読者もゲームや漫画、映画にかなり分散していった。

小説もこのまま衰弱死するのだろうか?たしかに映像で一気に伝え、迫ってくる映画や漫画には負ける部分がある。
でも言葉が喚起するイメージは無限大。言葉の魅力を追求していく形でこそ魅力的にひっそり生きながらえるのではないだろうか?とも思う。

そしてPASSAGEの棚主をみれば、丸山先生的試みの詩集を継続的に刊行されている詩の若い書き手さんとかがいらっしゃる。
新しい在り方を試みようとしている流れはすでに始まっているのだ。それを楽しみにしている人も多くはなくても、確実にいる。

だから「風死す」を眺めつつ、どんな韻律が使われているのか見つけ、他にどんなフォルムや言葉が可能か、丸山先生がやっていないことを考えるのも楽しい。生意気だが……


「風死す」のようなボリュームにいきなりトライはできないけれど、20頁くらいの小冊子なら色々実験できると思う。墨の色に濃い淡いがあるように、内容によってフォントの色をかすかに変えていくとかそんなことをあれこれ思いながら、読んでいくのも楽しい。

以下、表現が面白いなあと心に残った文。

至福感の極みとやらをデフォルメした 黄金色の夢と幻を強く暗示し
(丸山健二「風死す」1巻10頁)

悪い環境に染まって発熱した心を認め
(丸山健二「風死す」1巻13頁)

悪と罪の裂け目を満たすのは
きめの粗い狂熱くらいで
(丸山健二「風死す」1巻15頁)


丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー他の作家が言わないことをばっさり語ってくれる有り難さー

或る出版社のブログを拝見していたら、かつて富岡多恵子が日本芸術会会員となったことについて、そういう選択をする人だったとは思っていなかった……と失望した旨が書かれていた。
詩人が、作家が、国家に認められ、そしてその象徴たる存在のお墨付きをもらい、ご褒美としての芸術院会員の年金をもらうということが、これほど厳しい目で見られるとは……と思ったものだ。
ただ伝統芸能の世界では、芸術院会員とかはめでたいという感覚のようだから、伝統芸能に詳しい冨岡多恵子にすれば何ら問題を感じることなく受け容れてしまったのかもしれない。

以下引用文を読みながら、冨岡多恵子へのそんな失望の声を思い出した。引用文のかくもはっきり咎める声に爽快感を覚える。
ただ今の若い人たちは、かなり勉強のできる人であっても天皇や皇后の名前も知らず、宮内庁なる組織の名前すらも知らず……完全に無関心である。

このままフェードアウトしていってくれるのか、それとも無知につけ込まれていいように復活するのか……とも迷ったりもする昨今である。

それから
 命そのものであったはずの神道の衣をあっさり脱ぎ捨てたかと思うと
  今度はその精神を一挙にアメリカ主義に転化させ

   国民を象徴する
    人格高潔にして善良で聡明な存在という
     苦肉の策からもたらされた異様な地位に活路を見いだし

あろうことか

見え見えの権威に手もなく欺かれ
 どれほど話にならぬような酷い時代であってもすんなり受け容れてしまう
  無思慮にして無分別な国民に急接近を試み

じつは自分も国民と同じ人間なのだという
 苦笑する気にもなれないほどあけすけで
  あまりにも厚かましく
   あまりにもくだらない
    まさに噴飯ものの宣言を臆面もなくやってのけたのだ

そうやって天皇は
 苦悩と腐心を精いっぱい装うことによって人目をくらまし

相前後して
 卑屈なまでにぎごちない恭順な態度を取り
  どこまでも作為的で不器用な愛想笑いを浮かべて戦勝国の元帥にすり寄り

 側近の入れ知恵でもあるそうした策がみごと功を奏し
  多少の失態は演じたものの
   侵略戦争に象徴される国家的犯罪と手をむすんだことなどただの一度もありはしない
 要するに
  一滴の血にも穢されていない
   戦前の天皇をはるかに凌ぐ公明正大な温厚な人物として

    当分のあいだ価値観の大きなゆらぎと極度の貧困にあえがなければならない国民から
 好感をもって迎え入れられることに成功したのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」174頁〜176頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月20日

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー自然の美と戦争ー

以下引用文は、巡りが原の風景を、その上を進んでゆく牛、鳥、盲人を語っている。語り手は巡りが原。
句点のない文から、「踊る陽炎」「草の海」「綾織模様」「謎絵」「魔術的風景」と巡りが原の自然を語る言葉から、巡りが原の自然が美しく、草が揺れるように脳裏に無限に広がってゆく。

言葉の魔力を感じる箇所である。

そして
 踊る陽炎と草の海とが目にもあざやかな綾織紋様を描きだす
  謎絵のごとき魔術的風景をかき分けていくらも行かないうちに
   牛と鳥を引き連れての盲人の旅という
    まったくもって荒唐無稽な組み合わせによる純粋な体験がたちまち発酵状態にたっし

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」150頁)

「トリカブトの花が咲く頃」に限らず、丸山文学は片方の手で自然の美しさを書き、もう片方の手で戦争の悲惨さや矛盾を、終わった後に帰還してきた兵士や戦災孤児、平然と居座る者たちを通して書いている。
この二つの対立する世界を追いかける視点と文に魅力を感じる。
詩のような文体に移行してから、このテーマがさらに強烈になっていったのではないだろうか。
それなのにテーマの重さゆえか、文体ゆえか、段々読む人が少なくなっていったことは残念である。

彼は紛れもなく戦争そのものの犠牲者であり
 私は戦争の歴史を長いことくぐりぬけられたことによる犠牲者であり

両者は
 たんに時代の表皮が変わったにすぎぬ時の流れに翻弄されるばかりの
  いつ沈むかわかったものではない木の葉の舟に乗せられて激流を下る蟻のごとき存在なのだ

 戦争!
  ああ
   なんたる愚行!

 戦争!
  ああ
   なんたる悲劇!

 戦争!
  ああ
   なんたる徒労!

 戦争!
  ああ
   なんたる常習!


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」166頁)


丸山健二最後の長編「風死す」一巻を少し再読する

ー「風死す」を楽しむには……私の場合ー

丸山先生の最後の長編小説「風死す」を購入された方々と話をすると、中々読み進めることができないでいると言われる方が多い。
読むそばからストーリーを忘れてゆく私が、とりあえず「風死す」全巻を読破したのは何故だろうと不思議な気がしている。
もしかしたら、すぐにストーリーを忘れていくキャパシティの小さな脳ゆえに読了したのかもしれない。

丸山先生は「文体について教えてくれる人は誰もいなかった」というようなことを言われていたと思う。

作品ごとに一人で文体を変え、「風死す」の文体に到達した丸山先生。

そんな丸山先生の文章についての考えと、歌人・福島泰樹先生の教えはぴったり重なることが多くて驚く。

短歌のことをよく知らない私が言うのもなんだが、丸山先生は文体を極めようと努力されるうち、短歌的発想とオーバーラップするところもある文体に近づいたのでは……?
日本語の文体を極めようとすれば、知らず知らずのうちに短歌の考えと重なってくるのでは?……とも思う。
丸山先生は短歌的発想で文体にこだわりながら、この長大な作品「風死す」を書いたのではないだろうか。

丸山先生は「風死す」を記憶の流れと言い、福島先生は「短歌は追憶再生装置」であると言い……。

以下の福島泰樹「自伝風 私の短歌の作り方」で示されている福島先生の考えは、短歌だけではなく「風死す」の世界を楽しむときの鍵になるような気がしている。

人体とはまさに、時間という万巻のフィルムを内蔵した記憶再生装置にほかならず、短歌の韻律とは、その集積した一刹那を摘出し、一瞬のうちに現像させてみせる追想再生装置にほかならない。現在もまた刻々の記憶のうちに、溶解され闇に消えてゆくのである。

(福島泰樹「自伝風 私の短歌のつくり方」246頁)


「風死す」の本文に入る前の文にも、「風死す」で記憶の流れを追いかけていく……という丸山先生の思いが、爽快に語られている気がした。

とうとう生の末期を迎えてもなお
  不幸にして意識がしっかり保たれているとき

 さまざまな想念やら体験やらが
    なんの脈略もないまま
       しかも生々しく脳裏に蘇り

       だがそれは
         人生の一部でありながら
            その全体も象徴し


(丸山健二「風死す」前書きより)

「風死す」には約35頁おきごとに、菱形に文字が配置された頁がある。

以下引用箇所もそうした菱形に文字を配置したものである。ただし本文は縦書きである。
たしか丸山先生はスペインの詩集でこの形を見かけ、「目」のようと言われていたか、それとも「窓」のようと言われていたか明確に覚えていないが、興味を持たれたらしい。


形はともかく、以下引用文を音読してみれば、80歳になろうとする丸山先生の追想が、そのまま聞こえてくるような文である。


さらにこうしてじっと見つめていると、「流」「生」「死」「影」「美」という文字が浮かび上がり、「俺たちは丸山文学の大事なテーマ!」と叫んでいるようでもある。


あと丸山先生がこだわる神秘の数字、素数で文を引き締めている気がする。
引用箇所はほとんどの箇所の文字数が素数。
ただし死と光の箇所は素数でない、乱調だからだろうか?
素数で文に律を持たせようとするところも、素数の文学である短歌と重なる。

       
      思うに
     流れても流

    れなくても 生
   は生でしかなく 死
  は死でしかなかった 影
 が薄まる瞬間は ただもう美
しく 光が強まる刹那は ひたす
 ら切なかった


      (丸山健二「風死す」)

この菱形に納められた散文の後には、一語の命令形がきて、斜め下りの文が続いてゆく。
以下引用箇所も、今の丸山先生はこういう心境なのだろうかとも思った。

すでにしてこの世に住んでいない人々の まだまだおのれの内部に掟を有する
 不特定多数の霊と共に手に手を携えて 炎天下の扇状地を横滑りしてゆく

(丸山健二「風死す」より)

あと以下は、ほぼ「五、七、七」になっているから、「五、七」を上に付け加えたら短歌になるかな……と考えるうちに、ストーリーを完全に忘れ楽しむ。私の場合。

さらさらと たださらさらと吹き渡って

(丸山健二「風死す」より)

「風死す」は丸山先生になった気分で音読してもよし、
クロスワードをするみたいに文字をじっと見つめてもよし、
素数を見つけるもよし、
丸山先生の文は素敵な五七調になっている箇所も多いから五七探検して短歌にしちゃうのもよし……
とにかくストーリーを忘れ、文が内包する一瞬一瞬を色々楽しんでしまえばいいのではないかという気がする。

(「風死す」写真はいぬわし書房のサイトより使用しました)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月19日(日)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー戦後の日本社会を糾弾する言葉は厳しくも、どこか抒情性があるー

戦争の間、眠りについていた高原・巡りが原が覚醒してゆけば、吹き渡る風がこの国の戦後を語りかける。
手厳しい言葉ではあるけれど、人間を超越した風や高原が語れば、まさに真実と素直に耳を傾けたくなる。

同時に戦後の社会を糾弾しながら、やはり風だもの、高原だもの、語る言葉は決してプロパガンダにならず、権威の象徴を乗せた列車も「はるか遠くできらめく玻璃の海に沿った線路をがたごと走って行き」「すっとぼけた音色の汽笛ときたら」とどこか抒情性がある。

非難しつつもその言葉には美しさがある……点も、丸山文学の魅力の一つと思う。
ただ、その非難に心を重ねられる人が圧倒的に少ないのが現状だろうか……それでも声をあげ続ける丸山文学を読んでいきたいと思う。

さまざまな方向からさまざまな風が「巡りが原」を通過するたびに
 敗戦によって弱体化されたこの国のありさまが
  長い眠りから目覚めた私のなかでどんどんあきらかになってゆく

時折しも
 恥も外聞もない命乞いが功を奏してからくも処刑を免れ
その感謝のしるしとして
 全国津々浦々にお詫びの行脚に赴く天皇を乗せた特別仕立ての列車が
  菊の紋という威光の残渣を象徴してやまぬ白い蒸気と
   行い澄ました救済を装う黒い煙を懸命に吐き散らし
    人間宣言をした後もいまだ現人神としての影響を色濃く投げかけながら
 はるか遠くできらめく玻璃の海に沿った線路をがたごとと走って行き

また
 すっとぼけた音色の汽笛ときたら
  どう頑張ったところで困惑をおぼえずにはいられぬ
   ほとんど破滅的な惑溺に根ざした響きを有し
    所詮はたんなる空語にすぎない
     口先だけの謝辞を端的に表している

しかし
 依然として皇室は民望をうしなっておらず

帝国主義によって精神が去勢されたままの国民は
 自分たちの血を無駄に流させたばかりか
  魂そのものまでをも足蹴にしたにもかかわらず
   いまだ罰せられることもなく存続する天皇にたいし
    人間を超越した無垢なる対象とみなして
     過多なる敬愛の眼差しを投げ

それだけにとどまらず
 心をそっくり統握されてもかまわぬ相手というほどの入れ込みようで
  手足をもがれた傷痍軍人までもがなにがしかの尊敬をはらっているらしいのだ

それが証拠に
 人心の混乱は最小限におさえられ

天皇制の是非についてとことん突きつめて論じられることもなく
 地球規模の巨悪にたいして由々しい非難を浴びせることもなく

  取り返しのつかぬ大罪を犯した張本人をあっさりと赦し
   新時代に咲く復活の花という解釈でふたたび認容され

ゆえにどうにかして再生を果たした《朕》は

 無邪気に過ぎるどころの騒ぎではない
  孤独で冷たい自由よりも圧政下の不自由に温もりと郷愁を感じてやまぬ
   そんな幼児以下の愚民にたいし
    あっけらかんと戦時中の労をねぎらい
     勿体ぶった言い回しで感謝の意を表し
      通り一遍の励ましの言葉を掛け
       少しも説明になっていない言い訳でもって責任の所在についてお茶を濁すのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」128頁〜131頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月18日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー句点「。」のない文体が表しているものは?ー

以前、丸山先生が主宰する「いぬわし書房」のオンラインサロンで、「トリカブトの花が咲く頃」の文体について質問したことがある。

「トリカブトの花が咲く頃」には、読点「、」や感嘆符「!」は少なめながら存在する。
だが句点「。」は一箇所もない。

そして「トリカブトの花が咲く頃」以降の作品では、句点「。」が復活している。
それはなぜなのでしょうか?」と質問した。

丸山先生の答えは、「作品のテーマや内容によってふさわしいスタイルに変えている」とのこと。

「トリカブトの花が咲く頃」は、なぜ句点なしのスタイルが相応しいのか……としばらく考えていた。

すると以下引用箇所の文が目にとまった。

生い茂った夏草が暑気のせいでうなだれ
 長い年月を費やして強い光と熱をものともしない変種になったトリカブトの花が
 不気味な艶やかさを放って咲き乱れ
 おそろしく丈の長い陽炎がそこかしこで
  くねくねした淫らな踊りを踊っているばかりだ


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻75頁)

この作品は、トリカブトの花が咲き乱れる高原・巡りが原を舞台にしている。

本で読んでいると、一行一行がトリカブトの茎にも思え、高さの不揃いな行も野草が生えている様にも思えてくる。

本作品では余白は土、一行一行が植物の一本一本なのではないだろうか。

そうであるなら、句点「。」というものは不要なのかもしれない……あくまで私の勝手な想像ではある。
丸山先生が聞いたら苦笑されるかもしれないが。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月17日(金)

移りゆく日本語の風景を文楽の中に少し見る

ー「でえす」から「です」へー

時々、人形浄瑠璃文楽を観に行く。
文楽で語られる言葉は、江戸時代の上方の言葉がそのままの形で、当時のイントネーションで語られているそうだ。
だから文楽を観ていると、社会背景や風俗だけでなく、太夫さんの語りによって言葉のタイムトラベルを楽しんでいる気分がしてくる。
そんな私に「これは江戸時代の言葉」と教えてくれる方もいる。
「でえす」も、そんな風にして教わった言葉の一つだ。
現在、私たちが「です」と発音している言葉は、江戸時代は「でえす」と発音していたそうで、文楽でもしょっちゅう「でえす」という形で語られる。
今日見てきた「双蝶々曲輪日記」でも、しょっちゅう相撲取りの主人公が「でえす」を連発していた。

「イヤ、コレ関取、何やら話したいことがあると人おこさんしたはそのことでえすか」

(「双蝶々曲輪日記」より)

「コノ長吉は方便商売でえすわい」

(「双蝶々曲輪日記」より)

「でえす」を日本国語大辞典で調べてみれば、以下の通り。

(「えす」は「あります」または「ござります」の変化した「えんす」がさらに変化したものか。活用形は「でえす」の形しか見られない)
…です。近世、多く男伊達、遊女などの間で用いられた。丁寧の意は薄く、尊大な語感を伴う。

今度は「です」について、やはり日本国語大辞典で調べてみる。

〔二〕(「でござります」→「でござんす」→「であんす」→「でえす」→「です」の経路で生じたものという)丁寧な断定に用いる。
(イ)江戸中期は、遊女・男伊達・医者・職人など限られた人々の間でほとんど文末の終止にだけ用いられた。でげす。

「でえす」が「です」になるまでの間、少しずつ言葉が変化、意味合いも「尊大な語感」から「丁寧な断定」へと変化していったのかもしれない。文楽を見ていると、たしかに「でえす」を使う人物は男伊達や遊女たちのような気がするし、自分で発音してみると「でえす」だと尊大な心持ちになってくる。
文楽を通しての言葉のタイムトラベル、これからも少しずつ楽しんでいきたい。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月16日(木)

小豆洗はじめ「季節の階調 冬」を読む

ー詩人が言葉を紡いで詩集を編むことの素晴らしさを、詩人の言葉に出会えるPASSAGEという存在の魅力を思った一冊でしたー

小豆洗はじめさんの詩に出会ったのは、一棚一棚に棚主がいる神保町PASSAGE書店でのこと。
小豆洗はじめさんもPASSAGEの棚主の一人で詩集を中心に取り扱う棚を持たれている。

その棚の中でも小豆洗さんがご自分で編まれた小ぶりの詩集のシリーズが、ベージュの色といい、小ぶりの形といい、なんとも目をひく。
手にとってみれば、小豆洗さんは季節ごとに、テーマごとに詩を書かれ、ご自分でレイアウトやフォントまで細かく考えて詩集を作られている。

表現しつつ、詩集を制作するという小豆洗さんの創作姿勢も、詩人が自分の言葉を棚に置くことができ、ふらりと立ち寄った者がその言葉を持ち帰ることができるPASSAGEという存在も、共に素敵だなあと思う。

今回、購入した「季節の階調 冬」のフォントの色は空色で始まり、雪景色の写真の次のページから濃い青のフォントが続く。最後の「幻」「尺八の景色」「あとがきにかえて 川原のオリオン」で真っ黒なフォントに変わる。フォントの色の変化に、一日の雪景色の変化を見るような思いがした。


罪のない子供達が一方的に殺されてゆく悲しいニュースがあふれる世のせいか、「天使のパン」という詩が心に染みた。以下、「天使のパン」の冒頭より。

天使のパン

ときどき現れる
「天使のパン」という名の本屋で
手にした本は
まるで天使のようなこどもたちの心の
血肉となり栄養となって
かれらを支えつづけると聞く


(小豆洗はじめ「天使のパン」より)

小豆洗さんの見つめる世界は私も確かに見ている世界。でも詩人のレンズをとおして見ると、世界がまったく違って見えてくる。だから詩を手にすることは面白いと思う。

戻る過去は一定ではなく
そのたび新たな場所と時間を
はじめていることに

いつしか気がつくことだろう

(小豆洗はじめ「the day」より)

幻、という漢字を書くとき、いつも線を一本描き忘れているような気がして、頼りない。

(小豆洗はじめ「幻」より)

「季節の階調 冬」には「津軽三味線」「尺八の景色」と和楽器をテーマにした詩が二篇入っている。なぜかは分からないが、和楽器と冬はイメージが重なると思う。
そういえば、私にとって詩集を読むときの場所というものがすごく大事なのだが、「季節の階調 冬」は国立文楽劇場で開幕までのひとときや幕間のざわめきの中で読んだ。和楽器が近くにある場所で読むと、小豆洗さんの「季節の階調 冬」の言葉が浮かび上がってくるような気がした。


以下、神保町PASSAGE書店小豆洗はじめさんの棚のURLです。いろいろ詩の本やらご自分の詩集やらポストカードやらがありますよ。

https://passage.allreviews.jp/store/QY4PCVLSFTCSQ64XUZ3VPDXD


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さりはま書房徒然日誌2023年11月15日(水)

ロマンチック過失漫画
山﨑まどか「山﨑ノ箱」(けいこう舎)を読む


ー極限状況にある人たちが教えてくれるメッセージー

山﨑まどかさんは、けいこう舎が刊行されている短編を楽しむ文芸誌「吟醸掌篇」の表紙の装丁を1号から手がけているイラストレーターさんである。同時に福祉施設の支援業務に携わり、そこでチラシ制作や山谷の冊子「あじいる」掲載の作品も描いているいる方だ。
そんな山﨑さんがご自身の結婚や出産、仕事を見つめ語る言葉が詩のように鋭く、そして優しく、生きづらい世を語る。

そして冷たい世にそれでいいのかと問いかける。
そのメッセージをどこか童歌の世界を思い出させる優しさにあふれた漫画が包み込み、そっと心の奥まで届けてくれる。

どんなに早く走ろうと焦っても
スローモーションのように
地団駄踏むばかり

(山﨑まどか「山﨑の箱」 第一話 赤縄より)

押し寄せる突起物のうねり
眠ることを拒む道の果てに
人はどんな夢を見るというのか


(山﨑まどか「山﨑の箱」 第五話 眠れぬ森の美女より)

 児童養護施設で育ち、路上生活をしているところを「ほしの家」シスターに救われた木村史代さんの作品も、心象風景が切々と伝わってくるようで心に残る。
病で48歳で亡くなるまでの間に「ほとばしるように生み出された切り絵や詩、短編作品は膨大な量にのぼります」「作品は今も『ほしの家』で大切に保管されています」とあった。
極限状況で表現を続けた木村さんの生に、表現することの意味を思う。

「禅略 三太様。」で始まる「あんぽんたん三太」は山谷の雑誌「あじいる」に掲載された作品とのこと。
その中に出てくる三太さんの話も、刑務所で俳句に出会った三太さんの世界が変わっていく様子に、やはり表現することとはと思い、また過去のせいで犯罪を犯した人への社会のあり方も考えさせられた。

生まれて初めてのことだった。
何者にも
何事にも
邪魔されず

かき乱されず
目の前の文字を追い
言葉だけに
向き合い、
吸収していく。

この時
肉体は閉じられた空間に在りながらも
三太の意識は

どこまでも自在に
広がっていった。


考えもつかなかった
他者の生き方や思想
哲学、宗教。

三太は
辞書を引き、
猛烈に本を読み
そして俳句に出会う。

秋時雨 小鳥は寝屋に急ぐなり

三太の句は刑務所の中で開かれた
全国大会で二席に選ばれ

表彰された。

自らが感じた世界を
言葉によって表現し、
他者に響いて
認められる体験となった。

水を得た魚のように
自分の中に
感じた世界を
句にしていく。


(山﨑まどか「山﨑の箱」 『あんぽんたん三太』より)

山﨑さんたちは「ホームレス」とは言わずに、「野宿経験のある仲間」と言う。
そしてその仲間から、色々辛い時の過ごし方を学ばれて本書で伝えてくださっている。
私も山﨑さんから、そして仲間の方々から教えて頂いたように思う。
たとえば以下引用のこんな心も……。

だから多くの道の上に
繰り返し
「どうぞ」と椅子を
置きつづける


(山﨑まどか「山﨑の箱」 第五話 眠れぬ森の美女より)

カバーをはがすと、カバーとは少しだけ違う絵があらわれます。



現在、山﨑まどか「山﨑ノ箱」は神保町PASSAGEさりはま書房の棚にもあります。よければご覧ください。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月14日(火)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー絶望的な人の世と対極的な自然、宇宙ー

丸山文学は冷徹に容赦なく人の世を語ってくれる。
ふだんぼんやりと思っていた怒りや不安をずばりと言葉にしてもらい、その通りだとあらためて気がつく。
一方で、あまりに救いがない世である事実に途方にくれる。
だが丸山文学は人の世について糾弾しながらも、私達の視線を自然界へと誘い、地球の外へと向かわせようとする。
もしかしたらこの島国ごと消えてしまうのではないだろうか……という気もしてくる昨今の状況である。
だが人が消えても宇宙の彼方に静かに存在する恒星があるという事実に思いを向けてくれる丸山文学は、ある種の救いでもある。

以下、二つの引用箇所は高原・巡りが原が太陽について語る箇所。太陽の存在が、まるで人のようにも思えてくる。

ストーリーは、また娘に襲いかかろうとした僧の成れの果ての青年を、黒牛が角で宙に飛ばして娘を助けるというように進行していく。

そして
 燦々と照り映える陽光が
  天から見放された土地であるかのような「巡りが原」にまことに優雅な甘美さをさずけ

 想定外の奇異な事態の真上にでんと居座るこの恒星は
  今の今まで無責任な傍観者に徹していたくせに

   事ここにいたって太陽という絶対者の立場をあらためて思い出したのか
    急に無関心ではいられなくなり
     才気煥発な存在者を気取っていきなり口を開き

罪に継ぐ罰という因果律の定番でも念頭においてるのか
 迂遠な心理であっても簡単に喝破しそうな
  画定がきわめて困難なはずの識閾を自由自在に出入りできそうな
   そんないかにも偉そうな言い回しで
    思慮分別に富んだ
     定義可能な生き方について声高に語るのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻94、95頁)

いずれにしても
 無為無策にして無定見の
  野次馬根性まるだしの太陽の世迷い言にいちいち耳をそばだてる酔狂者は私しかおらず

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻99頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月13日(月)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー今の時代を予見するような言葉ー

「トリカブトの花が咲く頃」が刊行されたのは2014年。
東日本大震災から3年、まだまだ辛い状況にある人々もいるけれど、2023年の今日のように円が弱くなって、まさに引用文にあるように「資本主義経済にいきなり強烈な肩すかしを食わされ」という状況になっていると予見した者がどれだけいるだろうか。

丸山先生が厳しい言葉で語る過去から現在の歴史は、なかなかそうはっきり書いてくれる作家は少ないように思うけど、まさにそのとおりだと思う。
そうであるなら、文の最後の方に書かれている未来もそうなるのだろうか……。
でも、こうして真実をはっきりと語る作家が多くなれば、忌まわしい未来は避けられるのかもしれないが、さて、どうだろうか。

以下引用部分は、高原・巡りが原が裸になって洗濯をしている娘を眺めているうちに、この国の過去から現在を語る言葉。


このあと、この娘に淫らな心を抱いて落ちぶれた僧侶の青年がやってくるが、娘の反撃に遭い、いったん諦める。

むろん
 天運に精選された偉大な傑物が颯爽と登場したところで
  今すぐにどうにかなるはずもなく

なぜとならば
 およそ精細を欠いた国民に巣くう事大主義という名の病根はあまりにも深く

しかし
 実際には子ども騙しの値打ちもない
  噴飯ものの現人神を大真面目に担ぎあげた皇国のプロパガンダによって均一化されていた
 異様に熱い思念が急激に冷めてゆき

全体主義の恐るべき威力によって恐ろしいまでに平準化されていた個人が
 てんでんばらばらの性格へと立ち返る


そして
 無知から知への道をたどり始め

常に新兵器の開発競争に勝利しながら
 世界制覇を念頭に置いて密議に明け暮れる超大国の将来を見据えた打算によって
 辛うじて処刑を免れた天皇といっしょに押しつけられた民主主義と自由の方向へと頭を切り替える


とはいうものの
 ろくすっぽ考えもしないで新たなる国家体制をよしとし
  身の皮を剝ぐ暮らしを送りつつも
   未来につながる努力と確信して
    ただもうひたすらに過酷な労働に献身し

ために
 あとはもう
  猛烈に欲するいびつな本能と冷徹なる利便性に支えられた経済が暴力的なまでの活況を呈し
 金力をバネにして暗過ぎる過去からの遁走を図るしかないのだ

 やがて
  あくまで見せかけの信用本意社会における
   なりふりかまわぬ利潤追求の市場が殷賑をきわめ

    民生の向上が限界にたっした
     将来のある日

 ありとあらゆる物質を支配できるはずの資本主義経済にいきなり強烈な肩すかしを食わされ

 才覚次第でたんまり儲けることができる幸福は後日のために控えているという期待感が
 結局は幻想や妄想のたぐいでしかなかったことを思い知らされ

 その果てに
  膨張しすぎた繁栄が狂喜乱舞のうちに虚ろな音を立てて破裂するという蹉跌をきたし
 成り上がり者の立場から一挙に転落した人々にありがちないじけた劣等意識が蔓延し

それの強烈な反動として
 平板な自尊心をくすぐってくれることで人口に膾炙された愛国主義の雛型に情緒的意義をおぼえるようになり

神道と天皇制のあわいに生まれた
 哲学的奇想よりもはるかにお粗末な虚構をまる呑みし

すると
 異様なまでの国民的結束にしか救いと未来が感じられなくなり
  隣国にたいしての謂われなき侮蔑が正義の皮をかぶった憤慨へと移行し

そうした怒りは殺してやりたいほどの憎悪へと変わり
 双方ともに相手の立場に身を置いての発想が不可能になり

ほどなくして
 犠牲者の数が十倍以上にものぼるであろうつぎの戦争へとかり立てられ
  またしても国土の大半が血なまぐさい乱闘の場と化す羽目におちいるのだろうか

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻44〜46頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月12日

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー個である大切さ、両性具有の魅力を思うー

丸山文学の魅力の一つに、「独立した個人」とは何か?と問いかけ、日々の慌しさに見失いがちな「孤である個」の意義を思い出させてくれるという点がある。
以下の引用もそうした箇所で、目の見えない瞽女の娘に独立した個人の姿を見い出す巡りが原の言葉である。

その歳にして早くも
 いっさいの飾りを欠いた在り方をよしとし
  どんなに世間の荒波をかぶっても瓦解しない知恵を育み
   どこのだれにも追い落とされない静謐な威厳を身に付け
    常に心を奮い立たさずにはおかぬ正当な動機に従い

たとえば
国家権力の管理者たちを凌【しの】ぐほどの

たとえば
正義をつらぬき通す豪胆な反乱者を上回るほどの

たとえば
群れ集うことを嫌悪し
 完全に独立した個人という
  明快かつ単純なかたちで生きる哲人に優るほどの

征服されざる人物としての重々しい風格を具えている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」7頁)

瞽女の娘は両性具有の存在である。
以下引用箇所から、語り手の巡りが原も自身を両性具有の存在だと考えていることがわかる。
川やシラビソがそういうシンボルになるのかと、両性具有を「融通をきかす」「柔軟な解釈」ととらえるのか……そういう考え方が素敵な世界だと思った。

なぜとなれば
 この私にしてからが
  あらためて考えてみると不思議でならぬ
   性別なる条件を具備されていない身であるからだ

大半の生き物にぴったりと貼りつけられている雌雄の尺度を無理やり当てはめようとすれば
 「巡りが原」を縫って流れる川を女の証しと見ることもできるし

また

真ん中に一本
 国威の顕揚にも似た勢いで
  天空にむかってでんとそそり立つ
   シラビソの大木を男の象徴と見なすことだってあながち不自然ではない

ために私は

いかようにも融通をきかすことができ
 とほうもなく柔軟な解釈が成立させられる
  その分だけ慎重な言い回しが必要な
   彼女のような人間と同類というわけだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻18頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月11日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー丸山文学の魅力を少し考えたー
ー「トリカブトの花が咲く頃」はどうやら両性具有がテーマの幻想文学でもあるらしいー

丸山文学の魅力を思いつくままに……。
まず普通の作家なら言わないような社会の問題、たとえば現人神の戦争責任について、それをうやむやにしている戦後の社会のいい加減さについて繰り返し厳しく追及している点である。

さらに量子力学への関心から、この世と同じ世が別のところにある(そんな考えが量子力学にはあるらしい)と考え、ドッペルゲンガーも大事なテーマとして繰り返し出てくる不思議な幻想味にある。

丸山文学の場合、ドッペルゲンガーで怖がらせようとするのではなく、かならずもう一つの世界があると強く確信して、もう一つの世界の視点から自分を見つめ、存在を見つめ、書いている点にある。

そして先日のオンラインサロンで丸山先生が文学と美についてこんな風に語られていたと思う(ただし私のうろ覚え)。


「文学の感動は言葉そのものに頼っている。普通の語彙では、取り込めないものである。文学の感動とは一言で言えば『美』である。『美』とは非日常的なものであり、滅多に出会えない作為的秩序であり、そうしたことを自然に感じることが文学の感動になる」

重いテーマを語りながらも、そこに美を求めようと、そのために「美」を支える言葉を見つけようとするところも、丸山文学独自の魅力ではないだろうか。


以下引用箇所は、やはり高原・巡りが原が語っている。

身につけていた衣類を脱いだ娘に、巡りが原が美を感じる箇所から少し抜き出してみた。
このあと、上巻の最後のページで巡りが原は、娘が両性具有であることに気がつく。どうやら「トリカブトの花が咲く頃」は、両性具有をテーマにした幻想文学でもあるようだ……。


 そこに在る
   生きた美が

    胸に響く忠告のように
     私を捉えて放さない

彼女はひたすら美しく
 存在そのものが明敏で聡明な光輝につつまれている

野草愛好家たちのあいだで口碑の的と化している
 トリカブトの変種としての白花さえも
  彼女の肌の白さにはおよびもつかない


癒し効果にあふれた深みといい
 天の川銀河を凌ぐほどのきらめきの度合いといい
  きめ細かに秩序づけられた並々ならぬ吸引力の強さといい

それは
 ただそこの一点に究極の美が集中したかのような光輝にあふれ


あらゆる種類の緊張が解かれたうえで
 さらに新たな緊張が生みだされ

すべての美意識が廃棄されたうえで
 さらに新たな美意識が誕生しつづけているのだ


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻451頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月10日(金)

ロアンの名前の響きの良さに惹かれて小沢蘆庵の歌を一首鑑賞する


昨日、西崎憲氏が制作された奥村晃作氏が短歌について語るドキュメンタリー動画を視聴していたら、「ロアン」なる昔の歌人の名前が頻出。
歌のことはまったく知らない私は、「ロアン」なんてすごく響きのいい名前!と印象に残り、動画終了後さっそく調べてみる。「ロアン」とは江戸時代の歌人「小沢蘆庵」のことらしい。
以下、日本百科全書の「小沢蘆庵」の説明より引用。

江戸中期の歌人。名は玄仲 (はるなか) 、通称は帯刀 (たてわき) 。観荷堂と号する。父はもと大和宇陀 (やまとうだ) (奈良県)の藩主織田 (おだ) 家に仕えた小沢喜八郎実郡(実邦)(さねくに) 。大坂で育ち、尾張 (おわり) 藩成瀬家(また竹腰家)の京都留守居役本庄勝命(ほんじょうかつな) の養子となり本庄七郎と称した。30歳ごろ冷泉為村 (れいぜいためむら) に入門して歌道を学んだが、51歳ごろ破門される。35歳ごろ小沢氏に復姓。このころから鷹司輔平 (たかつかさすけひら) に仕えたが、1765年(明和2)43歳のときに出仕を止められ、その後は歌道に専念する。享和 (きょうわ) 元年7月11日没。寛政 (かんせい) 期(1789~1801)京都地下 (じげ) 歌人四天王の一人に数えられ、伴蒿蹊 (ばんこうけい) 、上田秋成(あきなり) 、本居宣長 (もとおりのりなが) などと親交があった。門人には妙法院宮真仁(しんにん) 法親王をはじめ小川布淑 (ふしゅく) 、前波黙軒 (まえばもくけん) 、橋本経亮(つねあきら) など多くの歌人がある。歌は心情を自然のまま技巧を凝らさずに詠出すべきであるとする「ただこと歌」の説を提唱する。これが、教えを受けた香川景樹 (かげき) などによって、江戸後期の京坂地下歌壇の主流となる。家集に『六帖詠草 (ろくじょうえいそう) 』がある。歌論書に『ちりひぢ』『振分髪 (ふりわけがみ) 』『布留 (ふる) の中道 (なかみち) 』がある。古典和歌の研究にも熱心で、多くの歌書の写本を所蔵していた。
(日本百科全書)

ちなみに小沢蘆庵が唱えていた「ただごとの歌」は、日本国大辞典には以下のように説明があった。

「古今集」仮名序に示された歌の六義(りくぎ)の一つ。真名序の「雅(が)」に当たり、「ただごと」は正言の義で、雅の直訳。のちに、物にたとえていわないで直接に表現する歌、深い心を平淡に詠む歌と解され、小沢蘆庵の歌論の中心になる。(日本国語大辞典)

「魯庵」という名前の響きといい、唱えたという「ただごとの歌」という言葉の響きといい、響きだけで気になる。
ただ、比喩とかを楽しみたい私には「ただごとの歌」の精神は方向性が違う気もするけれど。
とにかく、こんな素敵な響きの名前や言葉を思いついた魯庵の歌を見てみようと、ジャパンナレッジに収録されている新編 日本古典文学全集68巻「近世和歌集」の小沢魯庵の歌を見てみる。


鶯はそこともいはず花にねて古巣の春や忘れはつらむ

意味
鶯は特に場所を定めるわけではなく次から次へと宿とすべき花を替えて、古巣で過ごした春のことをすっかり忘れているいるだろう。

解説
転居の多かった蘆庵のこと、あるいは自己像を重ねているのかもしれない。

語句解説
そこともいわず……特に場所を定めるわけではなく


(新編 日本古典文学全集68巻「近世和歌集」より)

ただごとの歌とは「物にたとえて言わないで直接に表現する」と唱えていたの割には、最初から「鶯」に自分自身を重ねている。

でも、この重ね方がなんとも可憐で風流である。

「日本の歳時記」によれば、「鶯」のことを「歌詠鳥」とも言うらしいから、たぶん蘆庵自身のことを言っているのだろう。

また鶯は季節によって住む場所を変える鳥だそうだ。
解説にあるように、転居の多かった蘆庵の人生を重ねているのかもしれないし、師に破門された自身の歌人人生を重ねているのかもしれない。
「花にねて」という言葉が飄々としてるから、破門された悲壮感がなく、少しだけ悲しみと諦念があって「忘れはつらむ」と自分に言い聞かせている気持ちに親近感を覚えた。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月9日(木)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー盲目の娘の輝ける生命、死、不甲斐ない人の世のコンストラストがひたすら美しいー

盲目の瞽女の娘は自死を思いとどまる。
蝶の群れが彼女を追いかける描写は、先ほどまで盲目の娘を追い詰めていた死の世界とコントラストをなすようで、ひたすら美しい。
蝶は「死」のシンボルでもあったと思うが、丸山文学の蝶は生の喜びに輝いている。
「敬慕の情を表す」なんて表現は、毎日庭仕事をされて、たぶん蝶も身近に感じている丸山先生ならの思いではないだろうか。

太陽の熱が高まったせいで
 思う存分怠惰に惚けたくなるような上昇気流が実感される頃

清々しい涼気に富んだ亜高山帯にのみ生息する
 大小さまざま
  色とりどりの蝶が

蜜たっぷりの花でも発見したかのように
 いっせいに娘をめざして飛来し

その一匹一匹が
 優雅にして華麗な飛翔により
  誰あらぬ彼女にむけて敬慕の情を表す

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」387頁)

以下の引用箇所。戦後の不甲斐ない時代を、娘の生命力と対比させることで鮮やかに描いていると思う。

そうした娘が

高地であるにもかかわらず草いきれがむんむんする草の原を
 戦時下よりもさらに悲惨さが増すことになった貧困を

敗戦によってもたらされた凋落した時代を
 自由を得てもまだ個性の消滅している社会を

無限に細分化されてゆく民主の気風を
 大局的に自主性を消失したままの不甲斐ない国家を

淀みながらも滔々と流れる大河のごとき
 しなやかな動きでもって
   苦悩の縛めを永久に解いてくれない現世を
     堂々と横切って行くさまは
       ただもうみごとと言うほかない

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」396頁)

以下、引用箇所。
「錯誤の時代はひとまず去った」とある。
だが今まさに渦中にある人の世を書いているようだ……。
やはり戦の世になると眠くなる巡りが原はもう眠りに落ちているかもしれない……と思いつつ読む。

 どう飾り立てて見せたところで国家の面汚しにすぎぬ現人神の前に諦めをもって膝を屈するしかない

無謀にも権力支配の永遠化を大真面目に図り
 民衆浄化の悪臭をぷんぷんさせ
  帝国主義の衣を剥がす正義の問いにたいして忌まわしい凶行でしか答えぬ

 そんなはなはだしい錯誤の時代はひとまず去った

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」405頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月8日(水)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー世に戦が近づくと眠りにつく巡りが原は、もう睡魔に襲われているのだろうかー

巡りが腹へとフラフラおぼつかない足取りでやってきた盲目の娘。
どうやら瞽女らしいと巡りが原は察する。
でも集団で行動する筈の瞽女がなぜ?と訝しむ。

瞽女の娘を観察する巡りが原の言葉から、娘の苦しい生活ぶりに寄せる温かい思いが感じられる。
また黒牛、逸れ鳥、巡りが原が瞽女の娘を歓迎して浮かれる様子はどこか微笑ましい。

破れた菅笠の下には使いこんだ手拭い

擦り切れた手拭いの下にはもつれた髪

緑の黒髪の下にはうっすらと汗ばんだ額

聡明そうな広い額の下には
 つぶらな眼と
  ちんまりとした鼻と
   形のいいおちょぼ口と
    円満な日々を象徴するかのごときふくよかな顎

円かな曲線で成り立つ顎の下には
 ほっそりとしながらも
  まんべんなくふくよかな肢体

全体としては素朴な造りの土雛を彷彿とさせる
 そんな風貌の彼女の気持ちをなびかせようとして

まずは
 黒牛が妙に上品ぶった声で鳴き

ついで
 保護色とは正反対のいろどりの逸れ鳥が
  情のこまやかさという点においては他をぬきん出ている
   如才のない声でさえずる

それは図らずも和声を奏でることになり
 うまの合う旋律となって三味線の音に同調する

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」348頁)

だが盲目の娘がトリカブトに顔を近づけた途端、巡りが原は娘が一人でここにやってきた目的を理解する。
こういう辛い状況にある人間に寄せる共感や理解も、丸山文学の魅力のひとつだと思う。

盲目の娘の訪問の目的
 それは自死にほかならない

おのれの生を無理やり終了させ
 みずからに死をさずけることが眼目だ

それ以外にはありえない

彼女の魂は重い障害を背負った肉体を避けたがっている

いや
 すっぱりと縁を切りたがっている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」355頁)

盲目の娘への共感がだんだん激してゆく巡りが原。
2014年の作品だが、後半の巡りが原の叫びは2023年現在の社会情勢とも被さってゆく。

さらに語っているのが高原だからこそ、読み手も反発することなく共感できるのだろう。
これが細かな人物設定とかしてある生身の人間だと、矛盾や破綻に気づいてしまい、ここまで共感はできない気がする。

おそらく
 トリカブトはぬきがたい困難をきれいに消し去ってくれるだろう

そして
 目もあやな安静へといざなってくれるだろう

なんなら私がいっしょに死んでやってもいい

「彼女のために死ぬのなら本望だ」

 そう言わざるをえないほど正気を失くした私がここにいる


もっとありていに言えば

もはや私は
 あまりにも冷酷な摂理の支配に身をゆだねるしかないこの世に飽き飽きしており

思弁的観念などまったく役に立たぬ過酷な現実社会と
 結局は戦争と平和のくり返しでしかない人間界と
  悪行のみが報われるという憂き世に
   とことんうんざりしているのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」365頁)

深刻な胸の内の吐露を聞きつつ、思わず次の言葉に笑んでしまう。
困難な状況が語られているけれど、語り手が「巡りが原」という高原だからこそ生まれる微笑み、ゆとりのようなものも感じる。

だが
 自殺の方法がわからない

果たして私はどうすれば死ねるのだろうか

なにせ数千株数万株にもおよぶトリカブトをやどしていながら命を長らえさせているくらいなのだから
 尋常一様なことでは死ねないだろう

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」368頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月7日(火)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー戦争の愚かさを思ったり、太陽の面白さを思ったり……視点が聖俗を彷徨うー

最近、この日誌にその日読んだ後期丸山文学について書いていることが多い。
後期丸山文学は、文体が散文詩のように変化、脱ストーリー性を志向している。
それまでの丸山文学ファンも「ついていけない」と離れていったようだ。
それなのに、私の拙い文で書いた日誌を読んでコメントくださるお若い方がいらっしゃる……ただ、ただ感謝あるのみ。

後期丸山文学の魅力は文体の面白さもさりながら、戦争へとむかってゆく人間の愚かしさを描く目が一段と冷静に、冴え渡っている点にあると思う。
同時にそんな嘆かわしい生き物である人間が存在する自然の美しさ、宇宙の大きさに思いを寄せずにはいられない視点が、神のごとき高さに思えてくる。
愚かしいもの、壮大で美しいものがシンフォニーのように響き合いながら詩のような文体で語られている……ところも魅力のように思う。


それにしても人間の愚かしさに向ける厳しい視線に、昨今の状況が重なり「やはり人間はダメだんだろうか」とも思う。
以下引用部分は、そんな人間の愚昧さを語る「巡りが原」の言葉。

だが
 人は常に思慮深い人生から離れたがり
  理性に反する行いに魅せられ
   邪心によって変調をきたす精神をよしとし

ために
 のべつそっちへむけて自身を焚きつけ
  鮫のように敏感に血の臭いを嗅ぎつけ
 知らぬ間に
  ご法度の最たるものである殺戮を堂々と世界のすみずみまでゆきわたらせてしまっている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻311頁)

「トリカブトの花が咲く頃」の文に、本の外の世界の状況に、このままだと人間は滅んでしまうのではないだろうか……とも思いかける。
そのとき、以下引用文のように「巡りが原」が太陽の愉悦を語る。
思わず読み手も太陽に、他の恒星に、大きな存在に目を向けたくなる文である。


地球上の人間がダメになって消え飛んだとしても、この宇宙のどこかにその愚かしさを見ている超越した存在があるのかも……と思えてきて、静かな心になってくる。

あまりにも真っ正直に高く昇り過ぎたことで
 結果として天空に身を売りわたすかたちとなった太陽は

残念なことに
 詩的緊張にみちた躍動の気配からいささか遠のき

自信たっぷりの意見表明を得意とする
 ともすると激情に流されやすい
  自己自身の本姿からも大分離れてしまう

とはいえ
 われらが太陽はそのことを少しも苦にせず

宇宙にごまんと在る
 ありふれた恒星としての地位を平静に保ち

のべつ生存の崩壊の危機に見舞われつづけている人間への
 くどいほどの心情的な関与を極力避け

核融合による究極の燃焼の持続という
 至上の快楽にひたすら熱中し
  感銘深い真昼の輝かしい時間帯に
   なんとか静止しようと努めている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻318頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月6日(月)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ーかくして戦争は始まった……と語る「巡りが原」の言葉に耳を傾けてほしいー

黒牛の鳴き声がこだまする「巡りが原」
牛の鳴き声に含まれる深いメッセージの数々が、巡りが原に象徴される自然の懐に連れ去ってくれる。
以下引用箇所は、そうした牛の鳴き声の一つ。

死は生の必須条件なり!

 
  かなり不人情な思いを込めて鳴き


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻279頁)

丸山先生は1943年生まれ。
幼い心に戦争の記憶が、戦争を体験した負傷兵や戦災孤児の記憶が刻まれているのだろう。

丸山先生が語る言葉は冷静に、戦争へと呑み込まれてゆく人々を仔細に語っている。
こういう風にして、戦争について語ることのできる作家は数少ないのではないだろうか。
もっと読まれてほしいと思う。
以下引用箇所は、巡りが原が戦争について色々思うところ。

国家間同士のおとなげない縄張り根性と底なしの強欲が原因で始まり
笑止千万な民族主義に毒されてしまったために
寛大な態度を保てなくなった国民全体が
臆病な不信のなかに落ちこみ
藁をもつかむ気持ちで天孫降臨説を信奉し

ついには
おのれの本分を全うすることはすなわち戦死であるという
あまりに自虐的にして短絡的な謬見を抱き

その結果
頭数だけあった意見がたったひとつに絞りこまれ
誠実と慎みにあふれた真っ当な愛国者が批判の矢面に立たされ
幼稚な恐怖にみちびかれることで際限なくふくれあがっていった
凶悪無惨な悲惨事……


それは
例によって少数の富裕層のふところをさらに肥やそうという
ただそれだけの目的のために強大な軍部がいつまでも強情を張り通し

どこからどう見てもありふれた人間の典型でしかない
疑いだせばきりがない伝統のみが頼りの天皇を神の座につかせ
名誉職を得たことのみで大満足している能天気な政治家を威圧し
真実を語る煙ったい相手を執拗に弾圧し
この難局を打開するにはほかに手立てはないという
一方的な結論を愚かな国民にやすやすと植え付け

厳密には誰もそんなことなど望んでいなかったはずなのに
いつの間にやら戦争が否定せざるをえぬ究極の悪ではなくなってしまい

それどころか
開戦が妥当な共通認識となり
たちまちのうちに異常事態へと発展し
怖れと怒りの入り混じった戦場における華々しい活躍こそが男子の本懐のすべてとなり

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻283頁)

以下引用箇所も、巡りが原が語る戦争についての言葉。すべての人の想いである筈なのに……と、人の世の現状との乖離が悲しい。

ただし
そんなかれらが頻繁にくり返す
民族の運命を賭けた戦と
それに類する行為にだけはどうしても慣れないし

できれば永久に無理解のままでいたいと思う


戦争だけはやめてほしい


意に染まないどころではない


一瞥することだってご免こうむりたい


戦という名の
暗黙のうちに公認されている
人間の営みの必須条件のせいで
この災厄の星の運命を読み取ることが一段と難しくなってきている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻291頁)

平和と戦争の分岐点を躊躇いもせずに、片方へと曲がりかけている今だからこそ……。
以下引用箇所で巡りが原が語る言葉を記憶し、戦争の兆しが見える風景に身をおいていないか問いかけたいもの。

平和の時代が分岐点にさしかかるたびに
衆愚の力を恃んで
大規模にくりひろげられる戦……


悲惨な状況から大衆の目を逸らして危険思想を植えつけ
どこまでも利己的な欲望に沿って
国策の大幅な方向転換を図る統治者……


兵役を強要され
人殺しの手ほどきを受けて修練をつまされ
敵の銃弾をかいくぐらなければならぬ青年たち……


双方互いに相手を等しく根絶やしにしてしまおうとする
反理性的な
根拠なき剥きだしの憎悪……


過激化の一途をたどるばかりの
元も子もなくしてしまいそうな
言語道断な新兵器の数々……


愛国だけを理由に遠ざけられる
自身にのみ服従するという
気高くして当然の権利……


ひとたび蔓延ってしまった戦争という名の巨悪の根を
どうあってもぬき取れない
生半可な教養と無知から出た利害への執心……

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻307頁)

まずは言葉で戦争とは……と知ることが、戦争の悲惨を抑止する第一歩になると思う。
だが、そう試みる書き手も、読み手も少なくなっている現状に、また暗い戦争の時代がシメシメと近づいてきているような気がする。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月5日(日)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー巡りが原の思いは丸山先生の思いでもあってー

青年僧のことを嫌っていた巡りが原だが、青年のふとした言動がきっかけで親しみを抱きはじめる。
親近感を感じる言葉の内容がいかにも丸山先生らしい。

以下引用部分。
高原・巡りが原が語る青空も、青年僧の毒舌も、島国の賃金労働者たちの生活も、それぞれの魅力があって、別の内容でありながら、最後には丸山先生の目となって融和して一つの世界になってゆく。

それぞれが微妙な曲面を呈す
真っ白な雲がぽっかり浮かんでいる
ただそれだけの青空にむかって
つぎつぎに矢を射こむ酔余の暴言は

何かしらのきっかけを得て
適当な時期におのれを虐待することをやめた売僧の
憮然とした面持ちによく似合い

存在することへの恨み辛みというありふれた執見と陳腐な嘆きを
卑劣きわまりない振る舞いを
手きびしく面罵するときの口調で
痛憤をこめて口汚く毒づいているばかりであるにもかかわらず

嫋々たる余韻の美しさと奥深さには洞察への並々ならぬ力量が示され
ただもう舌を巻くばかりだ


争いにみちた世界と老廃してゆく時代にいちゃもんをつけ
短兵急な主戦論にのめりこみ
社会的なむすびつきを強固にし過ぎた苦悩の島国にたいして
いくら罵声を浴びせてみても

富者が強いる犠牲の下でしか生きられぬ賃金労働者たちの
不平たらたらのありさまとは似ても似つかず

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻257頁)

青年僧がつく悪態も、丸山先生の歴史観がさりげなく語られている気がする。
ここは気がつかないでスルーしてしまう読者と「よく言ってくれた!」と拍手したくなる読者の分岐点ではないだろうか?
ここで頷く読み手なら、丸山先生の文体がいくら変わっていっても、追いかけていくのではないだろうか。

多くの愚者たちによって人間を超越した者と固く信じこまれている架空の存在を
自分なりに敷衍してあしざまに言う
この狂人まがいの素っ裸の男を


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻260頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月4日(土)

今日を静かに糾弾しているような塔和子さんの詩「嘔吐」
ぜひお読みください

ハンセン病資料館友の会の方々が、国立ハンセン病資料館映像ホールでドキュメンタリー映画「風の舞」を上映、映画終了後は宮崎信恵監督の講演会という企画を開催してくださった。

映画で初めて塔和子さんの姿を見た。

真剣に詩を書き、自分では動くことのできない体を起こしてもらって読者の手紙の音読に聞き入っている時の真摯な表情が忘れられない。

塔和子さんの言葉が読んだ人の心を救い、読んだ人の言葉が塔さんがこの世に生きている証になっている……そんな風にして、動くことのできない塔さんが言葉で人とつながってゆく姿に心を揺さぶられた。

塔和子さんは昭和4年8月31日生まれ。昭和16年ハンセン病により国立療養所大島青松園に入園。26年に歌人の赤沢正美と結婚して短歌を詠み始め、のち自由詩の創作を始める。平成11年第15詩集「記憶の川出」で高見順賞を受賞。平成25年8月28日死去。83歳。13歳で療養所に入所し70年にわたって療養所で生活した。

宮崎監督が幾篇か塔さんの詩を教えてくださった。

中でも「嘔吐」という詩が、他人の悲惨や不幸を見て冷笑している、そんな現在の状況にも通じるようで心に残った。

この詩に記されている冷笑は実に嫌なものだけれど、実際、今の世は冷笑にあふれている。
人の不幸に冷笑を浮かべて楽しむ……という人間の悲しい性を、塔さんは嫌というほど体験してきたのだろう。

以下、塔和子さんの詩「嘔吐」である。

嘔吐

台所では

はらわたを出された魚が跳ねるのを笑ったという
食卓では
まだ動くその魚を笑ったという
ナチの収容所では
足を切った人間が斬られた人間を笑ったという

切った足に竹を突き刺し歩かせて
ころんだら笑ったという
ある療養所では
義眼を入れ

かつらをかむり
義足をはいて
やっと人間の形にもどる
欠落の悲哀を笑ったという
笑われた悲哀を

世間はまた笑ったという
笑うことに
苦痛も感ぜず
嘔吐ももよおさず
焚火をしながら
ごく

自然に笑ったという

(塔和子さんの詩)


「嘔吐」だけでは悲しいので、きっと嫌な体験をされながらも塔さんが残された「蕾」という詩を以下に引用したい。



最も深い思いをひめて
もっとも高貴な美しさをひめて
もっとも明るい希望をひめて

明日へ
明日へ
静かに膨らみは大きくなる
こらえきれぬ言葉を
胸いっぱいにしている少女のように


つつましいべに色を
澄んだ空間にかざして
ボタンの蕾がふくらんでいる


(塔和子さんの詩)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月3日(金)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ーひとではない高原が語るおもしろさー

「トリカブトの花が咲く頃」の舞台でもあり、語り手である高原・巡りが原がおのれの役割について語る箇所。
他の丸山文学と同様、人でないモノ、高原が語るこの小説は幻想文学であると思うのだが、丸山文学を幻想文学として語った人は石堂藍から見かけない気がする。
丸山文学ファンは純文学としてのみ捉え、幻想文学としての魅力を語る人が殆どいないという現状をとても残念に思う。

標高千数百メートルに位置する
憐れみ深いこの地は

やむにやまれぬ理由でおとずれた者たちを
最後の手段として胸を圧する苦悶の縛めから解き放ってやり
この世にふたたび生を受けないようにしてやるための

すなわち
真の救済に直結する
神聖な死に場所なのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻210頁)

巡りが原も、すっかり俗物となってしまった青年僧だけは我慢ならず、かくも語る。
高原が語るから、どこか距離を置いて読むことができるような気がする。
人間なら余計な感情が入り込んでしまうと思う。

つまり
 月が太陽に席をゆずるたびに彼が支配力を強め
ついには
 私をさしおいて「巡りが原」の主人と化してしまうことだ


それだけはどうにも我慢ならない


だから
なんとしても阻止する

またここで大往生をむかえさせるようなことがあってもならない


ここで死なれても私にはなんの慰めにもならないどころか

その腐肉の一片の果てまで溶けてなくなり
 骨片のひとかけまで消え去ったあとでも
  不快な気分は長いことつづき

そして
 おぞましい残留物をすっかり追いはらえるようになるまでには

ひょっとすると
 つぎの戦争と
  そのあとに訪れる平和を待たなければならないかもしれない

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻223頁)

日本幻想作家名鑑に石堂藍が記した丸山健二の項目。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月2日(木)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー草原が語る、しかも人の世に戦いが近づくと眠くなる不思議な草原ー

何やら嫌な存在に気がついた黒牛は姿を消す。
牛が逃げてゆく様子を書く文から、高原の緑、草いきれ、光がどっと押し寄せてくるよう……。とても好きな文である。

夏に甘やかされた風を追いかけて
ふたたび草と光の中へ出て行き

たちまちにして陽炎の大渦に巻きこまれ
太初の混沌のごとき絢爛たる光彩を放つ季節のうち奥奧へと
あっさり呑み込まれてしまう

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻156頁)

おそらく第二次世界大戦のことだろう。戦いの気配に眠りにつき始める巡りが原。
高原が語る。
しかも人の世に戦いが始まれば眠りにつく高原……という設定が、なんとも幻想味があっていい。

突如として太平洋上から急激にひろがってきた
何やらきな臭い気配が
わが感覚的世界をおぼろにさせ
いかんともしがたい睡魔に襲われ

そのせいで

より精神的な生き物に昇華するための
「解脱」という世にも稀なる結果を見ることなく
私は急を要する事態に投げだされ

人間の魂とはかならずしも合致しない
わが魂の存立に必要不可欠な眠りに落ちてゆき

かくして
あとはそれっきりになった


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻165頁)

巡りが原が眠りから目が覚めてみれば、戦さの前とではすっかり変わってしまった巡礼僧の姿があった……。
戦争を体験してきた者の戦後から、戦争の悲惨を描こうとしてきた丸山文学。
「トリカブトの花が咲く頃」にも、そうした戦争への問いかけあるのではないだろうか……という予感がしてきた。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月1日(水)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー小さなトリカブトの花に、国家の嫌らしさを思い、弱き人々を思いー

私は山道に咲く花の名前を教えてもらっては、すぐにころりころりと忘れてしまう。
だが、それでも深い青色をしたトリカブトの花がひっそりと咲く様だけは忘れることができない。そんな訴えかけるものが、この花にはある。


以下の引用箇所。

「腹黒い国家体制や独占社会がもたらす底なしに根深い貧困」の中で、「経済的無力のほかに政治的無力にも突き落とされる」のは、我々のようでもあり、理不尽な恐怖に怯えている遠方の人々に重なるようでもある。

近年、こういう至極真っ当な怒りを書いてくれる書き手は、日本では非常に少なくなったように思う。

上層階級のふところを肥やすばかりの腹黒い国家体制や独占社会がもたらす底なしに根深い貧困と

そこに源を発する
病苦にみちた思い出やら
最小限の愛との断絶やら
人生の没落やらといったことから
絶えず圧力を受けつづけて気の休まる暇もなく

ついには
経済的無力のほかに政治的無力にも突き落とされるという
あまりに社会的立場の弱い人々が

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻139頁)

弱い立場にいる人々がトリカブトを目にしたとき心を駆け巡る思い。
こんなふうに思わせる魔力が、この花にはある。

花をとおして、国家を、弱い人を見る視点が丸山先生らしい気がする。

恥ずべき落ちこぼれである自分なんぞを大喜びでむかえ入れてくれるのはこの花だけだと
そう頭から決めつけてしまう


とたんに
それまで八方塞がりだった筈の眼路が広々と開け

執念深い虚無やだらしない厭世の統制下にあるおのれにはたと気づいて虫唾が走り
決め手を欠く人生に降りかかってくるのは不幸のみだと理会し
完璧な自由のなかでしか幸福の翼が羽ばたかないことを翻然と悟り

そしてしまいには
命からさえも自由になりたいと願わずにはいられなくなるのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻140頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月31日

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー丸山文学の文体は変われど、怒りの芯は変わらずー

こうしてチビチビと書いていると、たまには読んでくださる有難い方もいらっしゃるらしい。
中には、丸山文学の文体がかなり変わってしまったから……と最近の作品から遠のいてしまった方も、こうして見てみると丸山文学の芯は変わっていないでないか……。
そう思われたのか、神保町PASSAGE書店の私の棚から購入してくださった方もいらっしゃる。

実際、この独特のレイアウトで「小説じゃなくて詩だ」と敬遠して離れていった読者が多いような気がする。


だが私の知人で日頃それほど文学に馴染んでない人間も、最近の作品、このレイアウトで描かれた「おはぐろとんぼ夜話」から丸山文学に入って、すっかりハマってしまった。
知人は文学にほとんど関心なかったのだが、社会への怒りの炎をたぎらせていた人間だ。
その怒りのポイントが丸山文学とぴったり一致、「よくぞこの思いを語ってくれた!」という気持ちになるらしい。

「うまく言葉にできないでいる怒りを代弁してくれている!同志よ!」的感覚で読むことのできる方なら、丸山文学の文体が変わっていっても追いかけることができるのかもしれない。

以下、引用箇所も怒りを分かち合える人、そうでない人に分かれる箇所で、丸山文学が好きになれるかどうかの分かれ目になるポイントの一つかもしれない。

まず最初は、アナーキストのシンボルカラーの黒にも例えられた黒牛を語る箇所。
牛であって、でも牛ではないアナーキスト的存在の不思議さ。
これが人間として語られると、矛盾とか反感とかあると思うけど、牛だもの。思わず頷くしかない。

絶え間なき心変わりとはいっさい無縁そうな
まったき存在者としての
この牡牛にしっかりと具わり
特徴づけているのは

もっぱら真理のみに訴える
事をなすための生きた力であり

あくまで心眼に依拠した
事物の終わりまで看破できる
素晴らしい予見能力であり

苦悩の棘をあざやかにぬき取ってくれる
底なしの優しさであり

権力の中枢を狙って撃つ
無言の銃弾であり

強者の権利から派生する
いかなる誤りをも正さずにはおかぬ
真剣味であり

社会の底辺にうごめく
物言う術すら知らぬ
卑しく育たざるをえなかった人々にそそぐ
慈愛の眼差しであり

そして
生命のけなげな要求に救済の光を当てる
神の視点である

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻105頁)

以下の箇所は牛の角にとまった鳥の言葉だが、日本の歴史をどう俯瞰するか……で頷く人、否定する人に分かれる箇所だろう。
頷く人間にとっては、こういう歴史観で語ってくれる書き手の存在にただ感謝あるのみだ

理性の光の前に砕け散らぬ戦争はない!

敗戦のおかげで圧政の濃い影の下に立たなくてもいい時代が到来した!

未開の精神に支えられた国体をつらぬく死は
反楽園を楽園に変えるであろう!

だが
心せよ!
新たな悲劇の幕開けかもしれん!

なぜとならば
国民の塊に深々と突き刺さった毒針としての天皇は
まだ完全にはぬけ落ちていないからだ!

暴力が猖獗(しょうけつ)を極める時は
えてして知らぬ間に差しせまっているものだ!

武装解除できぬ世界は
死に瀕する世界にすぎん!

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻126頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月30日(月)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー巡りが原の自然への賛歌と国家や戦争への怒りがぶつかり合っている!ー

昨日は、丸山先生が素数、合成数を意識しながら文字数を考え、光の描写の箇所を書いたのではないだろうか……というところまで書いて終わってしまった。なぜ光の描写のところで素数なのか。何も意識しないで光を書いていけば、自然相手だもの、散漫になってしまうのではないだろうか。素数を意識することで、文に律が生まれるのかもしれない。
さて読み進めてゆくと、巡りが原の自然、それに対立するような人間世界……という二つの対立する世界に想いを巡らす文が渦巻いている。巡りが腹の自然はそれぞれ何かを象徴している気もしてくる……がはっきりとは分からない。
巡りが原の住人その1 ・・・シラビソ
シラビソってこういう木なんだと初めて知る。清々しそうな木である。「力強い慰め」とあるが、たしかに慰めてくれそうである。

ど真ん中に風格にあふれたシラビソの古木を一本だけあしらい
力強い慰めをあたえてくれるその巨木を軸にし

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻69頁)

巡りが原の住人その2・・・トリカブト

巡りが原の住人その3・・・一本道。きっとこの道から物語が展開していくのだろうという予感にあふれている

欲望の専制に従い
世間に順応し過ぎた罰として
生を奪うことも可能なトリカブトの花をまんべんなく散らし
蛇行して流れる川と並行した一本道が白っぽく輝く
目を見晴らせるほどの風景たりうる
危ない風土としての
この「巡りが原」には
とうてい適うまい

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻69頁)

巡りが原の住人その4・・・黒牛。黒牛の黒から無政府主義者の黒を連想するとは。この牛はどんな運命を辿るのだろうか……。

全身をぬりこめているつやつやの漆黒は
真理に仕える無政府主義者がまとう衣の色を想わせ
現世をいろどる無用な複雑さを一掃する力をひめており

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻87頁)

さて、これから引用する箇所は巡りが原と対照的な人の世界、国家。
丸山先生の怒りに頷くことがあれば、たぶんこの先を読み進めていっても大丈夫。
この怒りに同感するかどうかが、丸山文学の世界に入っていける鍵になるのかもしれない。
ということで鍵になりそうな文を三つ引用してみた。

絶大なる権限を手中におさめた
ひどく滑稽な分だけ醜怪な現人神という悪が
罪の世界の理想の地位に就くことによって

自由主義は当然
当たり障りのない無色無臭の思想までが弾圧の対象にされ

その間に

卑劣で臆病な愚者であることをいっこうに克服できない国民の数がますます増えてゆき
戦争の気配が煮詰まってゆくにつれて
まともな人間でありたいと本気で願う者の姿を見かけなくなり
しまいには声すらも聞かれなくなり
気配すらも感じられなくなり

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻85頁)

砲声轟く激戦地に送りこまれた兵士のごとき«捨てられる肉»でないことは保証できる

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻92頁)

事大主義が骨の髄まで染みついている
あまりにも嘆かわしく
あまりにも生ぬるい人々が

国民から主体性を奪いつづけ
人間性を圧迫しつづけて
血にまみれた結論しかひき出せぬ天皇と

打算の力で天皇制を担ぎ上げることによって
理不尽に過ぎる暴利をむさぼろうとする
性悪な資本家どもの
完膚なき搾取に甘んじてはいても

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻97頁)

この怒りの鍵が心にぴたりと合う方がいましたら、どうぞ引用箇所からでも少しずつ一緒に読んでいってくださいますように。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月29日(日)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー丸山作品によく潜んでいる不思議の数、素数を見つけてみませんか!ー

直進する光
回析する光
反射する光
入り乱れる光
影と連動する光……

自制心を欠いた光
分けへだてのない光
瞬間の情趣をやどした光
気持ちを激しくゆり動かされる光
人間の下等性を容赦なく暴き立てる光……

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻61頁)

ある時期から、丸山作品に何らかの形で素数が潜んでいることが多くなったのではないだろうか?

たしかオンラインサロンでどなたかに2011年『眠れ、悪しき子』のページが素数であることを質問されて、丸山先生がこう答えていたように思う。

「頁の行数が素数になるようにした。素数にこだわると、流されずに律して書くことができる。素数は未だ解明されていないところのある不思議な数字だ」
うろ覚えだが、そんなことを丸山先生は言われていた。

その時は「素数にこだわって書いて、そんなに効果があるんだろうか……?」と半信半疑だった。

だが今年四月より短歌創作の講義を受けるようになって、素数にこだわることでリズムと律する流れが生まれる!と思うようになった。

短歌は五七五七七と素数が基本となる文学形式である。
それなりの事情がある時は字余り、字足らずになる。
五、七の字余り、字足らずはどちらも合成数である。

状況引用箇所は、巡りが原の光について書かれた箇所。
自然なイメージ、プラスのイメージの箇所の文字数(音ではない)は素数。
乱れる箇所、負のイメージの箇所は、合成数の文字数になっている気がした。
たぶん素数、合成数の文字のリズムが、わたしの頭に知らずしてリズムを刻んでいるのだと思う。

行数だったり文字数だったり……丸山作品の思いがけないところに隠れている素数の法則、読むのに疲れたら気分転換に見つけてみませんか?余計疲れてしまうでしょうか……

直進する光 (5字)素数
回析する光 (5字)素数
反射する光 (5字)素数
入り乱れる光 (6字)合成数
影と連動する光……(7字)素数

自制心を欠いた光(8字)合成数
分けへだてのない光(9字)合成数
瞬間の情趣をやどした光(11字)素数
気持ちを激しくゆり動かされる光(15字)合成数
人間の下等性を容赦なく暴き立てる光……(17字)素数

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さりはま書房徒然日誌2023年10月28日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ーすぐ眠くなる「高原」が語るからこそ頷きたくなる過激な言葉ー

人の世に戦争が近づくと、意識朦朧となってクタッと眠ってしまう……そんな少し情けない高原「巡りが原」が語り手である。
だから戦争の愚かしい歴史や人類の今後について悲観的な見通しを語られても、「そうだよね」と思わず頷きたくなる。
これが人の形をしたもの、「木樵のお爺さん」とか「校長先生」や「天狗」とかだったらうるさく感じてしまうだろう。
すぐに眠たくなる高原・巡りが原が語るから、思わず納得するのである……という幻想文学らしい世界が、純文学読みには分かってないのかも……という感想を見かける気がする。

以下の引用箇所は、多分、先の大戦について巡りが原が語っている。あの戦争を語れば、まさにこういうことだった……と納得したり、発見させてくれたり、「私もこう言いたかった」と拍手したくなった箇所だ。
あと読点が一箇所だけあった。なくても大丈夫な気もする箇所だが、何か意図があるのだろうか?

はてさて
今回の終戦によって
果たしてどんな時代の入り口に立つことができたのだろう


前景へと踏み出せる勝ち戦だったのか


それとも、
後景へと退くしかない負け戦だったのか


現人神とやらの俗悪陳腐で悪趣味な偶像を
恥ずかしげもなく狭量な精神の軸に据え

本来同等の権利を持つはずの人間的尊厳を毛ほども尊重せず

国益の幅をまずます狭く限定し

地震列島の上を漂う
折衷案のない
押しつけがましい理念は
より徹底され
国民に窮乏生活を強いて軍事力を異様に肥大させ

戦争はもっと筋の通った合目的が必要だと唱える少数者を
拷問と処刑によって封じこめ
益なく血を流すことをなんとも思わぬ
破滅的な覇権主義に凝り固まり

とうとう狂気そのものの顔立ちになった帝国は
時代を衝動的欲求とも言える開戦へとひきずりこみ
有無を言わせぬ生き甲斐として戦死を強引に押しつけ
実際には人間の尺度に合わぬ戦争の極限に行き着いたのだ


そして恐ろしい神の仮面をつけた天皇の威信に惑わされ
弱い立場を宿命づけられ
一丸となって事大主義の虜となった魂の持ち主たる国民は

人格崩壊に突き落とされ
冷静な現実から切り離され
とてつもなく堅苦しい社会性を強いられ

その窮屈さから生じる
集団的にして感染的な怒りにかられ

白人の魔手をはね返すためのアジアの統一という
一理はある口実で捏造された欺瞞の理想をあたまから信じこみ

あまりに無謀な目的に囲いこまれたあげくに
みずからを拘束し

慈悲の心を完全にうしない
他国の人間を人間として認めぬ
大量殺戮を追う視線の果てに
いったい何を見たのだろう

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻35頁)

以下、戦争について、平和について、その間の歴史について語れば、確かにこうなのかもしれない……と内容と表現の格好良さに心惹かれた。

直感という名の羅針盤が
戦争と個人的な殺人についての終わりなき論争における
差異と類似のあいだでいまだに迷いつづけ
常に気まぐれで無責任なかたちで訪れる
平和の始点と終点のあいだをひっきりなしに行き来している

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻41頁

以下の引用箇所、やはり語り手が巡りが原という高原だから成立する言葉。人間が語り手だと、この思いはそっぽを向かれてしまうと思った。

死んだのは人間どもであって
山河ではない

より劣った生き物の特性として
自己疎外の葛藤を抱えこんだ人類の歴史は

空洞のごとき生から逃れんとして墓穴を掘り
みずからかくも残酷なきびしい裁きを下しつつ
陰々滅々とつづく

しかし

よしんば人間界に絶滅の戦争の嵐が吹き荒れることがあったとしても
究極の最終兵器によって人類が激越な最後の時代をむかえたとしても

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻56頁)

人間よりも大きな存在でありながら、巡りが原という少し頼りない高原が語っている……というところに面白さがあるのに、この面白さが感じられない人が多いのは残念なことだ。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月27日(金)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー人間でない「高原」が語り手になる面白さー
ー句読点がないのがこんなにスッキリ見えるとは!ー

私はごく最近丸山文学を読みはじめた。
それも余り人が読まない後期の作品から読みはじめた。
時の流れを遡るようにして、少しずつ丸山文学を遡ってゆくという天邪鬼的読み方だ。

最近では左右社から出ている三作品「おはぐろとんぼ夜話」「我ら亡きあとに津波よ来たれ」「夢の夜から口笛の朝まで」と幻想味あふれる作品を楽しんだ。

今回、もう一つ前の作品「トリカブトの花が咲く頃」を読むことにした。「トリカブトの花が咲く頃」も、後期の作品の特徴である斜めの形に文を揃える詩のようなスタイルである。
さらに「トリカブトの花が咲く頃」には句読点がない。
だが意味はとりやすいし、視覚的にも句読点がないのはスッキリする……というのが不思議な発見だった。
ざあっと見てみると、感嘆符は見かける。
なぜ、この後の作品では句読点が復活したのだろうか?

どうやら「トリカブトの花咲く頃」の語り手は「巡りが原」と呼ばれている高原らしい。
高原が語り手となってストーリーが進行する……とは、それだけで幻想文学読みの心を刺激するのではないだろうか……。

巡りが原が語る自分の姿。
客観的に語りながら、じつに生命の躍動感あふれる文だと思う。

動物で言うところの血管
植物で言うところの導管に匹敵する
わが体内を縦横無尽につらぬく水脈や
体外を好き勝手に走る細流の絶え間ない運動が
じつに生々しく自覚され

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻11頁)

巡りが原の真ん中に一本だけ生えているシラビソも、良識のシンボルなのだろうか?これも幻想的である。
さらに風が発する多様な言葉の面白さも、幻想文学読みを惹きつける気がする。

それまではたんなる草の海にすぎなかった私の真ん中に
一本だけ生えてきたシラビソの成長とともに

なんと
良識の徒を自負できるまでに育ち

私の意思の表れとしてさまざまな種類の嵐が発する
乾いた言葉や
偽りなき言葉や
辛辣な言葉や
空疎な言葉により

戦争と平和という
常に急を要し
幸福の根幹にかかわる課題について激論が交わされ
正義の尺度に波紋が投げかけられるようになり

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻28頁)

この不思議な巡りが原は、戦争が始まると眠りにつくらしい……。
巡りが原が戦いの気配を察知して、いつの間にか眠りにつく描写に、丸山先生の世界が始まる予感がする。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月26日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上下巻読了

ー明るくて詩人のようなドッペルゲンガーがしょっちゅう出てきた!ー

再度、砂浜に穴を掘ってドッペルゲンガーを埋めたところで、またしても大津波に襲われ、青年は穴に墜落。
だがドッペルゲンガーの上に落ちたかと思いきや、そこには誰もいなかった……。
去ってゆくドッペルゲンガーの姿が見えるのみ。

考えてみたら「我ら亡きあとに津波よ来たれ」は津波で死んだ青年、そのドッペルゲンガー、ドッペルゲンガーが映じる介護が必要な義母の忌まわしい思い出だけから成り立っている。

つまり実質、登場人物は一人だけなのである。たった一人の登場人物でこれだけ長い小説が書けるのか……と驚く。

「我ら亡きあとに津波よ来たれ」はドッペルゲンガーも主要登場人物で、しょっちゅうドッペルゲンガーが出てくる。

丸山先生がドッペルゲンガーをよく作品で取り上げるのは、量子力学にはこの宇宙と同じ宇宙が複数あるという考えがあるからとのこと。同じ宇宙があるなら、もう一人の自分は確実にいるとの考えがあるようだ。

そんな考えのもとに書かれるドッペルゲンガーはどこかユーモラスでもあり、哲学的でもあり……。

他の作家のドッペルゲンガー作品は不気味で、ドッペルゲンガーと会って主人公は死ぬ……という暗いパターンの短編が多い。

だが丸山文学のドッペルゲンガーは以下の引用箇所にもあるように、明るく、時も自由に駆けてゆき、どこか詩人のようである。そして不幸な生い立ちの現世とはかけ離れた姿をしている。
この他にはないドッペルゲンガーの捉え方こそが、「我ら亡きあとに津波よ来たれ」の魅力の一つでもある。

初回に匹敵する大津波の音が痛々しく響くなか、

どこまでも人懐っこい嘲弄を置きみやげに
おれを見捨てて
いずこへともなく去って行く、

高潔な態度と微温的な物腰の両方を持することによって
ほかの誰よりも人間的な風味を添え、
真っ当に生きて
幸福に死んだあ奴は、

なんと、

へだたりを広げるにつれてどんどん若返り、

たちまちにして少年時代を通り過ぎ、

今ではもうよちよち歩きの幼児そのものと化しており、


しかも、

いつしか孤立の状態から解き放たれていて、

驚くべきことに
その両側にはふたりのおとなの男女がぴったりと付き添い、
それは
誰が見ても生みの親に違いなく

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻579頁

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さりはま書房徒然日誌2023年10月25日(水)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー植物への愛情が滲む文は丸山先生ならではー


以下引用箇所は、庭づくり命!で毎日庭仕事をされている丸山先生にしか書けない文だと思った。

丸山塾で指導を受けていると、時々「その風の頃に咲く花は何?」と訊かれて狼狽えることがある。
丸山先生の頭の中には、季節の植物のカレンダーが組み込まれているのでは……とよく思う。
さらに丸山先生の植物カレンダーは信濃大町基準のカレンダーで、東京近郊とはずれがあるようだ。
とにかく植物と庭は丸山先生の人生の中心なのだろう。
「真剣そのものに咲き初める花々と 面白半分に咲き誇る花々」などという表現は、毎日いつも植物のことを見つめている丸山先生にしか書けない文だと思う。
「克服しがたい偏見のなかに見る影絵」という表現もはっきりとは分からないながら美しい文だと思う。

このあたりドッペルゲンガーについても面白い箇所があったが、寒さと雷がゆっくり体を休めるように……と言っているようだ。それはまた後日。

ごつごつした感触の終末の予感が処々方々で生まれかけている被災地に
真剣そのものに咲き初める花々と
面白半分に咲き誇る花々とが
克服しがたい偏見のなかに見る影絵のように
わが脳裏をかすめてゆくなかで

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻546頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月24日(火)

丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー丸山文学のドッペルゲンガーの面白さとは?ー

引用箇所で、主人公は自分のことを軽蔑しているドッペルゲンガーを仔細に観察している。
それが他のドッペルゲンガー文学にはない、丸山先生ならではの面白さである。
だいたいドッペルゲンガーが出てくる小説は、「ある日、自分のドッペルゲンガーを見た。しばらくして死んでしまった」というワンパターンが多い気がする。
怖がらせる存在に過ぎない多くのドッペルゲンガーと比べ、丸山文学では実に細かく観察している。
それは丸山先生が量子力学に基づいた多元宇宙というものを確信しているからだろうか?
現前すると同時に不在でもある畏友」というドッペルゲンガーの捉え方はいかにも丸山先生らしく、恐れずにもう一人の自分と対峙するところに丸山文学のドッペルゲンガーの面白さがある気がする。

やむなく、

所詮はおれの複製のくせに
現在することを盾に取って
抗弁らしき言葉をずらりと並べてみせ、

それでいて、

まさしくオリジナルそのものであるこのおれのことを
自分とは相容れない
はなはだ激しやすい性質の愚者と一方的に決めつけたらしく
敬遠を超えた嫌悪の素振りをあからさまに示し、

併せて、

完全に疎通を欠いてしまったことによる
痛々しいまでの自覚がほの見える体たらくを
いやというほどさらけ出したが、

しかし、

こう言ってよければ、
博愛心という固定観念を依然として存続するそ奴は
現前すると同時に不在でもある畏友
ということになるやもしれなかった。

(丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻502頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月23日(月)

丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー量子力学&パラレルワールドの影響から生まれた丸山健二文学のドッペルゲンガーの面白さ!ー

丸山先生になぜドッペルゲンガーがよく作品に出てくるのか質問したことがある。
丸山先生がドッペルゲンガーを書くのは、量子力学の影響が大きいらしい。
なんでも量子力学には、この世界が無数にある……というパラレルワールドの考えがあるそうだ(うろ覚え)。
この世界が無数にあるなら、もう一人の自分というものも確かにある……という思いからドッペルゲンガーを書かれているらしい。
ぼんやりした、うろ覚えの理解ではあるが)。
複数のページから一部ドッペルゲンガーの箇所を以下に抜粋した。
パラレルワールドを確信する丸山先生が書かれるドッペルゲンガーは、やけにリアル。
パラレルワールドの書き方も面白いと思う。
でもドッペルゲンガーと自分には微妙な差異がある。自分とドッペルゲンガーの違いを見つめ書いた作家というのは、あまり他にいないのではないだろうか?

げんに、

誰あらぬこのおれに化体し
真の自由への脈略をつける過程で頓挫した
知能も志も背丈も低いそ奴は、

紛うことなき死者のくせに
もっと大まかな言い方をすれば
<命を持たぬがらくた>であるにもかかわらず、

死者としての存在を拡大解釈しつつ
生者との境界を突き崩し、

本来生と同等の意味を持つはずの肉体から
魂の自由という権利をみずから剥奪して
あとはもう遺棄するしかない
無用なはずの身体を取り戻していたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻478頁)

呼吸音のみならず生きている人間そのものの臭いまで放ち

(丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻478頁)

あの世とこの世のどこの存在でもなく
恐れ入るほかない精緻な色合いの幻影の

(丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻483頁)

そうやって差し出される罪に関した言葉に大きな食い違いはなくても
実像としての本人のそれとは微妙な差異が感じられ、

たとえば、

前後の文言からして
地位や名誉という無化の宝以下の
死んだ価値を引きずっていることは確かで、

こちらの版元が出している丸山作品はどれも非常に幻想味があって好きなのだが、もう版元には在庫がないとのこと。
日本の古本屋にもあまりない。
だが図書館には比較的多く置かれているようだ。
幻想文学好きの方、丸山文学ファンの方が、図書館でこちらの版元の丸山作品に出会いますように。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月22日(日)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー丸山作品にトリスタン・ツァラ的精神を感じるー

丸山作品は後期になるにつれてストーリー性がどんどん薄くなって、言葉と記憶の断章の世界になってゆく……というようなことがよく言われている。
私もそう思う。
だがストーリー性が薄くなることを、難しくなるように捉えている人が多いが、果たしてそうなのだろうか?
学生時代、ダダやシュールレアリスムのフランス詩界隈が専門だった私にすれば、赤の他人がこしらえたストーリーにのって追体験することの方がはるかに難しく感じられる。
さらに他人が創ったストーリーを隅々まで記憶している人に出会うとびっくりする。
私は言葉は記憶しても、ストーリーはすぐに忘れてしまうところがある。

さて後期の丸山先生の作品を読んでいると、ダダの詩人トリスタン・ツァラの「帽子の中の言葉」を思い出す。
新聞の単語をチョキチョキ鋏で切って、帽子の中に入れて、取り出した単語を並べて、そのまま詩にする……というダダの詩の試みだ。
「帽子の中の言葉」というのは一種のポーズのような部分があるかもしれないが、アトランダムに並べられた言葉には機能性や意味性の手垢にまみれていない美しさを感じた。

後期の丸山作品にも、まったく思いがけない言葉と言葉を組み合わせることで、ある種の美しさが生まれ、新しい小宇宙が続々と誕生するような気がする。


トリスタン・ツァラで文学に触れた私にすれば、人生のカウントダウンをそろそろしようかな……というときに日本のトリスタン・ツァラと言いたくなる丸山文学に出会ったのは必然かも……と言うか、また出発点に戻ったという気がする。


思いもよらない言葉と言葉、概念と概念が出会って生まれる比喩の世界。面白いと思った箇所を抜き出してみた。

どこが面白いと思ったか分かって頂けるだろうか?

夕影がゆらめく生者と死者の夢幻的な境界という
神仏ですらうかつに接近できぬ帯域に身を置くことになり、


すると、

数千年ものあいだ収蔵されていた古文書を
なんの注釈を付けずにいきなり見せられたときに似た戸惑いを感じてしまい、

見境もなく我を忘れる混乱の終盤のあたりで
全的な人格崩壊に突き落とされ、

意味と尊厳を具えていたはずの人生が
たちまちにして没落してしまったのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻467頁)

妙音を奏でながら田園地帯を通過する村時雨のさなか
無紋の布地のごとき心になったかと思うと

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻473頁)

あたかも、

単調な歌を詠唱しながら
畜舎から逃げだした仔牛を連れ帰る農夫が味わうような、

心の堡塁のなかに
好ましい追憶と夢だけを集めることに成功したような、

さもなければ、

よもやま話を満載した夜船とすれ違うときにも似た
そんな豊かな印象をおぼえたような、

希望の光が射し始めたとしか聞こえぬ
年季の入った鳥笛の音を耳にしたような、

昔語りに時を忘れる懐かしき人々のかたわらを
そっと通り過ぎて行くような、

底なしに深い安堵感と
けっして限界づけられぬ崇高な陶酔感に
いっぱいに満たされた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻473頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月21日(土)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー丸山文学の四つの魅力が織り込まれた長いワンセンテンス!ー

津波を生きのびた青年は、死せる自分のドッペルゲンガーに出会い、その姿に過去の映像を見る。義母の介護にヘトヘトになり、ついに殺めてしまったことを。そして飛び出していったことも。

次の引用箇所は、長いワンセンテンスである。

出だしの表現の美しさに釣られて読み、さらに丸山先生らしい国家や社会への見方に頷きながら読む。
最後のあたりは哲学的な部分も多く、私にはよく分からないながらも、「物分かりのいい現実」とか面白い表現に思わず読んでしまう。

この長い一文には、丸山文学の三大魅力、表現の美しさ面白さ、国家や社会に流されない目、哲学的な文がすべて織り込まれているのだなあと思う。

全部わからなくてもいいから、その魅力のうちどれか一つでも感じて読み進めてゆく……のが、後期の丸山文学を読むポイントになるのかもしれない。

それから「さらさらと流れゆく者」も、丸山文学に度々出てくる魅力的な存在で、理想とされるような生き方だろうか。
「さらさらと流れゆく」生き方に魅力を感じるかどうかが、丸山文学を好きになれるかどうか……なのかの分かれ目になるのかもしれない。

とはいえ、

目を奪わんばかりの推進力をもって
月が夜を織り
日が昼を織るなか、

経済という名の化け物が
有無を言わせぬ強大な力を発揮して
仕事にあぶれた者たちを等しく根絶やしにするという、

上層階級のふところを肥やすだけの政策を遮二無二達成したがる
国家の統治者という、

資本主義体制において随時行われている
法律の空洞化という、

お上の統制下にある真理にしか仕えられない
親譲りの愚民という、

市場価値を持たぬ者に対しては即座に心を石にしてしまう
冷血な吝嗇家という、

そんな理不尽かつ過酷な社会情勢などいっさい度外視して
さらさらと流れゆく者にとっては、

たとえ
どこの地であっても、

よしんばそこが
資本家どもの驕りと
それに付帯する利潤の容赦ない争奪の場である
花の都とやらであっても、

人里離れた辺境という
さびれきった印象が強調され、

そのせいかはともかく、

標準的な意義を宿す生涯の始点と終点にも、

より明確な形であの世と境を接するこの世にも、

物分かりのいい現実から切り離された良風美俗にも、

合目的性などまったく不必要な生き残り競争の激化にも、

独力でおのれを守る理想的な自己完結性にも、

斬新かつ絶大な慈しみの再発見にも、

まったく興味を持てなくなってしまった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻438頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月20日

子規に、大道寺に、一箇所に留まることが書き手にとって大切な理由を見る思いがした

先週末、お庭見学のときに丸山健二先生は
「書き手はあちこちを移動したらダメなんだ。旅行しながら書くなんてもっての外」
というような趣旨のことを言われていた(うろ覚えだが)。
なぜか、その言葉が私の心に沈殿する。

そして20日、福島泰樹先生の「人間のバザール浅草」の講義は、中原中也、正岡子規、大道寺将司と濃密な講義。


子規にしても、大道寺にしても動くこと能わず、じっとしたままダイナミックで深い句を詠んでいるのはなぜだろう……と、その視線を想像する。

福島先生のヴォリュームたっぷりの資料からごく一部だけを引用させて頂く。

病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。わずかに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団ふとんの外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。はなはだしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤まひざい、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽をむさぼ果敢はかなさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、しゃくにさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものです

(正岡子規「病床六尺」より一部抜粋)

病に倒れてから、わずか六尺の布団の大きさの中で激痛に耐えながら生きた子規。
その歌の中でも、教科書によく採られているのが次の歌だそうだ。

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

この歌は教科書によく掲載されている有名な歌らしいが、結構、解釈は色々分かれている気がする。

私は、脊椎カリエスに侵された自分の寿命を藤の短い花房に例えた無念の歌のような気がするのだが。
あと房の短い藤は芳香の強い品種なのでは……とも想像する。
強い香りを放ちつつも畳に届かない藤の花は、まさに自分の人生そのものに思えたのでは?と私は想像した。

ただ人によって、房と畳の間に空いた隙間の発見を面白いと思って詠んだ歌とか解釈も色々あるようである。

それから大道寺将司の句も色々教えて頂く。
名前も初めて聞く俳人だ。
三菱重工爆破事件で民間人の犠牲を出してしまい、死刑宣告を受けた。
40年間も窓のない独房に過ごし、犠牲者の冥福を祈り、最後は病で亡くなったそうだ。

以下、引用は福島原発事故以後を詠んだ句。

窓もない独房でどうやって想像したのだろうか?
鞦韆はブランコのことらしい。

波荒き暗礁(いくり)に立てる海鵜(うみう)かな

漕ぐ人もなき鞦韆(しゅうせん)の揺れにけり

荒布(あらめ)揺る森を汚染の水浸す

人絶えし里に非理なし蝉時雨

死にしまま風に吹かれる秋の蝉

(大道寺将司「残(のこん)の月」)

それから次の句も、狭い独房の中にいて何故こんなにスケールの大きな、躍動感あふれる句を詠むことができたのかと不思議な気がした。

海底(うなぞこ)の山谷渡る鯨かな

(大道寺将司「残(のこん)の月」)

福島先生の「子規は、病になってから心象風景の中でしか生きられない。」「大道寺は外界から切り離され、追憶の中にしかいない」という趣旨の言葉(大体の記憶でおぼろ)が心に残る。

心象風景のみに、追憶のみに生きて書いたからこそ、心に迫る作品を残したのかもしれない。

書き手にとって大事なことは、あちらこちら見て回ることよりも、一点を見つめ追憶を、心の風景を引き出して言葉に結びつけてゆくことなのかもしれない。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月19日(木)

篠田真由美「螺鈿の小箱」より「暗い日曜日」を読む

ー箱はそれぞれ違うストーリーを秘めている!ー

(写真 楼閣人物蒔絵宝石箱 プラハ国立美術館 19世紀)

全部で七つの短編からなる「螺鈿の小箱」は、それぞれの短編に「螺鈿の小箱」が出てくるらしい……。
と、二つ目の短編「暗い日曜日」で気がつく。
一つ目の「人形遊び」では「鞭」が、二つ目の「暗い日曜日」にはまた違う身近なものが収められている。
それぞれの箱の中身の思いがけない使われ方が面白い。

またラストの幻想味あふれる、意外な終わり方も素敵。
トリックも上手くいくかドキドキして、無事にミッションが遂げられた時には思わず安堵。
シャンソン「暗い日曜日」や様々なカクテルも。
(ただしノンアル派の私にはまったく分からないがでも飲める方なら更に楽しめるだろう)

何よりもいいと思うのは、米兵相手に歌を歌い、時に子供を廊下に置いてホテルの部屋に行かざるをえない女たちを書きながら、作者の目は女たちを咎めることはなく、むしろ寄り添う視点が感じられる点である。

……それにしても箱にはストーリーがあるもの。
出先なので歌自体は思い出せないのだが……。
前回の歌会で、桐の小箱に自分の子供時代の写真をしまっている母親との、はるか昔のやりとりを詠んでらした年配の女性がいた。
桐の箱に我が子の写真をずっと入れている……という風景に、一つの物語を感じてしまった。
そう、箱には無限のストーリーがあるのかもしれない。
そんなストーリーを「螺鈿の小箱」で読んでいくのが、楽しみである。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月18日(水)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ードッペルゲンガーの心情も、ドッペルゲンガーを見る方の心情もつぶさに語られている!ー

自分のドッペルゲンガーを見つめている「おれ」。
ドッペルゲンガーの心情を考え、批判的に眺めている幽霊の「おれ」。
ドッペルゲンガーが伝える義母殺害、自殺してからの自分への「おれ」の今の思い。

だんだん誰が誰なのか分からなくなってくる。

いや、どれもが「おれ」なのだ。

「我ら亡きあとに津波よ来たれ」ほど、ドッペルゲンガーの心も、ドッペルゲンガーを見る方の心もつぶさに語っている作品はない気がする。

まずは「おれ」が観察する船の上のドッペルゲンガー。

その船首に物憂げな様子で独り座し、

紛うことなき死者でありながら
永遠化へと昇華される稀有な存在を気どり、

重大な意味を孕む蛮行に出た生者になりきり
根源的な罪を枝葉末節なものとして片づけたがるおれになりきっている
そ奴は今

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻408頁)

このドッペルゲンガーは、死んだ状態で「おれ」に発見され、すでに埋葬されている。
そんな埋められた筈のドッペルゲンガーが、あれこれ自殺するまでを演じてみせる滑稽さを、以下のようにこう表現するか!と思った。

しかし、

ひとたび埋葬された者が
何をどうやってみたところで
その行為のどれもがおのれを愚化する隠語のように伝わりづらく、

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻413頁)

そして「実際のおれ」は以下。
でも自殺しているから、生きているわけではない。

ならば、

陰々滅々とつづく空洞のごとき生からひたすら逃れんとする
あれからここに至るまでの
実際のおれはどうだったかというと、

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻419頁)

何が真実で、何がドッペルゲンガーなのやら……文字を追いかけるうちに混沌としてくる感覚。不思議な体験である。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月17日(火)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー「夏の流れ」冒頭の文と比べ、丸山先生の文体と格闘する旅路を思うー

「我ら亡きあとに津波よ来たれ」はワンセンテンスがとても長いが、今回の引用箇所はとりわけ長い。
これでワンセンテンスである。

長いから引用しようと思ったのではない。
「もう一人の自分」的発想に、ドッペルゲンガーの存在を思わせる箇所に、社会への想いが記された箇所に共感したから引用したのだ。

だが入力しているうちに、そういう当初の目的を忘れかける。
入力するだけでも疲れる。
これを頭の中で組み立てて文にまとめるとは、丸山先生はどんな発想で文を書き進めているのだろうか……。

ちなみに丸山先生の二十三歳の作品「夏の流れ」の冒頭の文は
「まだ五時なのに夏の強い朝の光は、カーテンのすきまから一気に差しこんできた。」
ととてもシンプルである。

通信士の文体のように簡潔な「夏の流れ」から半世紀以上、常に文体を進化させようと試みてきた丸山先生……。
このうねるような長文に到達するまでにどれほど手間と時間をかけてきたことか……。
ワンセンテンスに丸山先生が苦闘された長い時を感じてしまう。

文の中ほど「冷笑するもうひとりのおれを意識せざるをえなくなり」に、丸山先生にとってドッペルゲンガーは自分を冷ややかに眺めている存在なのだと思った。

文の最後「真っ昼間に出現した亡霊のように くっきりと透けて見えるのだった。」も、見えてくるのは望ましくない世界の姿ながら、もう一つの世界を示唆して、なんとなくドッペルゲンガー的。

冒頭「煢然」という言葉は知らず、辞書で調べてしまった。
日本国語大辞典によれば、「煢然」(けいぜん)は「孤独で寂しいさま。たよりないさま」とのこと。
「徹底的な煢然」とイカつい字面の漢字が並んでいると、半端ない孤独感が伝わってくる。

文の最後「惨めな未来」も、「独占社会」も大きく頷ける部分があった。
「現世」を「苦悩と情熱にあふれた色彩空間」と表現したのもまさにその通りだと心に残る

日本語は接続詞でつなげば、こんな風に長い文になるもの……だろうか。

昼間作業をしていたコワーキングでのこと。仕事の電話をしていた方が「文は長いと読んでもらえないから、できるだけ短く書いてください」と指示していた。


丸山先生は、そうした分かりやすい文を求める世の流れにわざわざ抗って、短い文体からこの長い文体に到達されたのだ……どれほど孤独な旅路であったことだろうか。

ゆえに、

その徹底的な煢然を
ありふれた空語にすぎぬなどとは軽々に決めつけられなくなり、

孤絶の道を一歩進むごとに
片時も気の休まらない状況に投げこまれて
これまでとはまた別種の厳しい日々を迎えそうな
そんな不安が急激に膨張し、

急に怒りっぽくなったかと思うと
今度はおのれ自身を虐待し始め、

その典拠を挙示することなく
自我を敵と見なして鎮撫に乗り出し、

だから、

よしや
虚偽ならぬ真理の含蓄全体が無意義であったとしても、

個々の人々の合図がいくら多種多様であったとしても、

かような現実の雛型はあまりにも厭わしく、

少しでももののわかった人間であるならば

絶対にこんな真似はしなかったはずだという意味を含めて
さかんに不平を鳴らし、

しからば
何ものにもましてこうした事態を避けるべきではなかったかと
そう言って冷笑する
もうひとりのおれを意識せざるをえなくなり、

果ては、

善の空白をいくら悪で補填したところで
なお虚無の疑念が残ってしまうばかりで、

両肩で世に吹き荒れる烈風をつんざきながら
満天下の耳目をそば立たせるほどの成果へと突き進むどころか、

病的な憎悪をかき立てる赤裸々な宿命や
取るに足らぬ出自を補って余りある
安逸な生活を送ることさえ不可能に思え、

かつ、

生き抜くための周到な努力を重ね、

真なるものを説く人物に親炙し、

絶対の信頼を置く相手に助言を求め、

のみならず修練を積み上げたものの、

暮らしそのものが虚飾に陥ることによって
心的に最大の損失を招くことになり、

それでもなお、

いかんともしがたい至らなさに付きまとわれ
純潔な精神を真剣に欲しながら終日のらくら過ごしてしまうという

そんな惨めな未来が、

悪業のみが報われる
代わり映えのしない独占社会と、

撹乱戦法がその出だしからしてきわめて順調に推移する
夏の凄まじい勢いの嵐と、

苦悩と情熱にあふれた色彩空間としての
無益に骨を折らせる無意味な奮起を強いる現世のかなたに、

真っ昼間に出現した亡霊のように
くっきりと透けて見えるのだった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻395頁

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さりはま書房徒然日誌2023年10月16日(月)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を読む

「風死す」にも繋がる世界がある!
ちなみに私が勝手に考える「風死す」を楽しむ方法

丸山先生の最後の長編小説「風死す」の話になると、悲しそうな顔をして全四巻のうちの1巻の最初あたりをまだ彷徨っているんです……と言われる方によく出会う。
先日、お庭見学のときもそんなことを言われている方がいた……。

そういう言葉を聞く度にに「なぜ、理解力の劣る私が全部読了したのだろうか?」と自分でも不思議に思う。
今も本棚で「風死す」の頁をペラペラ繰っては「読んだんだ、とりあえず」と確かめてきた。
「風死す」の読書体験は決して苦痛ではなく、すごく愉しみ溢れるものだった。
(学生時代、ダダの詩が専門だったので、私は元々ストーリー性や意味性のあまりない世界の方が親しみやすい特異体質、理解力軽視派なのかも)

私が考える「風死す」の楽しみ方を以下に四点ほど書いた。

「風死す」の楽しみ方其の1

「風死す」の頁を開けば、思いがけない言葉の組み合わせが怒涛の如く流れ込んでくる。意味を考えずに、童心に帰って、言葉のカレイドスコープをガシャガシャ動かして覗き込む気持ちでページを繰ってゆく……

「風死す」の楽しみ方其の2

普段無意識に思っていても言葉が思いつかなくて言えないような国家や偉い連中への鬱憤を語る部分をクローズアップして読んでスッキリする……

「風死す」の楽しみ方其の3

本のどこかに丸山先生自身が潜んでいることが多い。そんな隠れ丸山先生を探して「あ、いた!」と発見して、そういうことを考えていたんだ……と気づく

「風死す」の楽しみ方其の4

丸山先生の哲学、物理学などへの思いが語られていることも多く、たしかにその度に頭がついていけず優等生を前にした劣等生の気分になる。
でも大体の読者は丸山先生よりも年下ではないだろうか?
丸山先生の年まで頑張って勉強したら、こういう哲学的世界が分かるかも!と難しい考えはそのうち分かるかもとスルーして、ただ長生きしようと前向きに思う……もちろん理解できれば更に楽しいと思う。

以上、私が思う「風死す」の楽しみ方。
手にしている「風死す」は言葉のカレイドスコープだもの。ガシャガシャ動かす度に現れる言葉の形を楽しんで、ストーリーはあまり考えない方がいいのではないだろうか?

こんな「風死す」の楽しみ方を書けば、怒られてしまいそうだが。

でも先日、ある小説家(丸山先生ではない)が語られた言葉が心に残る(うろ覚えだけれど)。
ずっと詩歌の方が小説より格上だった。そもそも小説なんて詩歌と比べたら、たった200年の歴史しかないんだもの」と語られていたような……。
たしかに詩歌と比べたら、歴史の浅い小説だから形はこれから変わっていくだろうし、いろんな試みがあっていいのではないだろうか。

「我ら亡きあとに津波よ来たれ」は、そんな「風死す」の楽しみ方に繋がる部分のある、でも「風死す」よりはストーリー性のある作品だと思う。

「我ら亡きあとに津波よ来たれ」の以下引用部分は、丸山先生ご自身の書くことへの思い、それから社会への批判的思いがよく伝わってくる箇所のような気がする。
義母を殺めた青年がだんだん立ち直る場面。
ワンセンテンスの途中から部分的に引用。

それどころか、

心に刻印されている習熟した全てを語り尽くそうとし、

終わりなき服従を強いる文明を真正面から告発し、

理知に欠けるうらみがある伝統主義を墨守するための権威を失墜させ、

阿諛追従を重ねるしか能がない衆俗を激しく嫌悪し、

社会の仮面を暴く真理の片鱗をちりばめた、

それほどの熱い意志が言外に含まれている
まるで炎で書かれたのかのような、

そして、

絶品と目され
優雅な甘美さを具えた刀剣を想わせるような、

まさしく<次世代の詩>の濫觴をそこに見た思いがするような、

また
ありとあらゆる飾りを欠いた生の在り方を猛烈に欲するような、

その冷淡さはしかし
むしろ温情の裏返しではないかと思えるような、

生来の弱点を克服するという
おれをしてその境地へ至らしめるような、

自律的主体性を奪い
魂を縛るための拘禁服としての社会的統制を嗤えるような、

そんな斬新な作品を
干からびた心に命を吹きこむ文芸の蘊奥として
あざやかにものすることができそうに思えたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻347頁)

「風死す」は、丸山先生の出版組織いぬわし書房でまだ販売中だと思う。
興味のある方は以下をご覧ください。

https://inuwashishobo.amebaownd.com/pages/4062993/page_202007180848

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さりはま書房徒然日誌2023年10月15日(日)

信濃大町の丹精こめた丸山庭園が秋の歌を運んできた!

丸山健二先生の最後の長編小説「風死す」の購入特典で、信濃大町の丸山先生のお庭を見学する。

丸山先生が長い年月をかけてつくってきた庭。
毎日コツコツ草むしりをされ、庭木を掘っては配置換えをしたり、実生でツツジを育てたり、庭を横切る木の通路は先生みずからホームセンターで材木を購入して電動工具を使って補修されたり……

そんな時間と手間がたっぷりかけられた庭をゆっくり鑑賞した。

庭の至る所にある背の高い木はイロハカエデだろうか?
今年は暑さのせいで紅葉が遅れている……と丸山先生が残念そうにされていた。
それでも木の上の方はとても鮮やかな赤になっていた。

そんな庭の様子やら丸山先生の言葉やらに触発されたのだろうか。
帰りの電車の中で秋の短歌ばかりを読む。
ジャパンナレッジのおかげで、日本古典文学全集に収録されている万葉集やら古今和歌集などの歌集が、スマホでさっと読める時代はありがたい。
現代短歌もさっと読める時代だと更に嬉しいが……。

紅葉真っ盛りにならず残念そうな丸山先生の様子を思い出しながら読むうちに、次の歌が目にとまった。



しぐれよとなにいそげん紅葉(もみぢ)ばの千(知)しほになれば秋ぞとまらぬ

(為相百首「秋二十首」より)

意味

「しぐれなさい」と、どうして急がせるのだろうか。紅葉が紅に染められてしまば、秋という季節も留まらず逝ってしまうのに。


歌の心

早く時雨が来て紅葉を赤く染めよ、と思う一方、そうなると秋という季節も去ってしまう、と嘆く。


語句解説
・しぐれよとなにいそげん


 紅葉を染めるしぐれよ、早く降れ、というのである。

・千(ち)しほ

 幾度も染めること。紅の紅葉を「ちしほ」と形容することは鎌倉期から多くなる。


日本国語大辞典では、以下のように「ちしお」を説明
何回も染め液に浸して色を染めること。色濃く染めること。また、濃く染まった色や物。また、そのさま。

はるか昔1300年代の歌。

最初「しぐれよ」とサ行ラ行ヤ行でスタートするせいか勢いがあって、「いそぎけん」で加速する感があって面白い。
それに「しぐれよ」と「なに」の音の響きが清涼系の音、粘着系の音と対照的な気がする。


結句で「紅葉ば」と鮮やかに転換。
「千しほ」で更に強調。
スピードダッシュ、加速、華麗なる転換、強調とくるから、最後の「秋ぞとまらぬ」が印象的。秋がとまっちゃう……と不意打ちを喰らう気がする。


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さりはま書房徒然日誌2023年10月14日(土)

変わる言葉の風景ー喫茶店ー
時は経過すれど「ル・プティ・ニ」という空間は変わらず

もう35年以上前になるが、地下鉄早稲田駅を出てすぐの建物の2階に「ル・プティ・ニ」(フランス語で「小さな巣」の意味)という喫茶店があった。

昼でも薄暗い照明が心地よく、木の梁を見せるような内装、アンティーク調の家具、香りのいいコーヒー……。
学生には少し高い値段だったので、そうしょっちゅうは行けなかったけれど、私が喫茶店文化に触れた最初の店だ。

そんなル・プティ・ニも、社会人になってしばらくしてから早稲田の街を訪れてみれば、影も形もなく……。

駅の界隈から懐かしい蕎麦屋も、喫茶店も消えて、チェーンのコーヒー店とコンビニばかりが目立つ寂しい街になっていた。

それでも早稲田の街を訪れるたびに、ル・プティ・ニで過ごした友達との語らいのひとときがふと浮かんでくる。

その度に「あのときはどこに消えてしまったのだろうか……?」と思わずひっそり問いかけていた……。


さて今回、長野の方に用事があってきた。
途中どこかでコーヒーでも飲んで休憩しようと検索してみたら、「ル・プティ・ニ3」という店名の店が軽井沢にあるではないか。
同じ名前だ、ひょっとして……と物好きにも足を運べば、やはり同じ店だった。

早稲田に開店してから今年で45年め、早稲田のあとは目白、目白から軽井沢と、店の場所を変えつつ、続けられていたらしい。

店内の照明も、家具も早稲田のまま。
流れている音楽もあのときと同じ。
使われているコーヒーカップも見覚えがある……。
訊けば、カップは代えつつも同じメーカーの同じ柄のものを使われているそうだ。
コーヒーは、軽井沢に来てから自分で焙煎までするようになった……とのことで、更に美味しく、値段は多分早稲田の頃よりは安くなっていた。

大切な空間の光、音、香りが35年経過しても変わらず……学生を見守っていてくれたマスターたちは優しく軽井沢で迎えてくれ……変わらない空間があることに嬉しくなった。

(写真はル・プティ・ニ3の店内)

世界大百科事典で「喫茶店」の項目を調べてみる。

以下に英国の喫茶店、イスラム社会の喫茶店マクハー、日本の喫茶店について書かれている箇所を抜粋引用する。
それぞれ国ごとに喫茶店のミッションというか歴史が違うのだなと思った。

パリやロンドンの誰かが読み上げる新聞を聞く場としての喫茶店、
イスラム社会の若手作家が読者たちと語り合わす場としての喫茶店も魅力がある。
そして静かに軽井沢で時を刻むル・プティ・ニも……。

「喫茶店」についてー世界大百科事典より、英国、イスラム社会、日本の場合

イギリスの場合は,コーヒーと同時期にもたらされた紅茶,チョコレートなどのエキゾティックな飲料をも供した。しかし,喫茶店の歴史的意義は,それが文化面のみならず,政治や経済の面でも,情報交換と世論形成の場となった点にある。イギリスでは,新聞をはじめ初期のジャーナリズム,文芸批評,証券・商品取引などはほとんどコーヒー・ハウスを舞台として成立した。パリでもロンドンでも,初期の新聞は喫茶店でだれかが読みあげるのを〈聞く〉ものであったし,南海泡沫事件(1720)に至る異常な株式ブームの舞台もコーヒー・ハウスであった。世界の海運情報を独占し,大英帝国を支えたロイズ海上保険会社もコーヒー・ハウスから出発した。喫茶店はまた,反体制派のたまり場となることが多かったので,17,18世紀にはイギリスでもフランスでも,営業時間や内部での談論内容の規制が試みられた。しかし,イギリスの〈コーヒー・ハウス禁止令〉(1675)が11日で撤回されたように,規制は成功しなかった。 自由な雰囲気をもったイギリスのコーヒー・ハウスは18世紀中ごろから急に衰え,上流階級のクラブと都市下層民のパブにとって代わられてゆく。それは,コーヒーに代わって紅茶が国民的飲料となったうえ,紅茶が家庭内で飲まれるようになったこと,また大地主による支配体制が確立して社会の階層秩序が固定化したためである。コーヒー・ハウスとは異なり,クラブやパブは酒類を供し,各階層の表象となる。パリのカフェが芝居や音楽会と結びついて発展したのに対し,すでに19世紀のロンドンではコーヒー・ハウスはほとんどみられなくなる。

イスラム社会の場合

酒が厳しく禁じられているイスラム世界にあっては,マクハーこそが庶民のくつろぎの場であり,またマクハーには庶民の生活のたくましい鼓動が脈打っている。マクハーは娯楽の場であると同時に,社会生活に深く根ざしたものであり,アフガーニーやムハンマド・アブドゥフなど,近代のイスラムの改革思想家たちもカイロ下町のアタバ広場のマクハーに夜ごとに座り,エジプトの歴史を決する政治談義が繰り広げられた。またマクハーは文化を支える役割も果たしてきたが,その伝統は今でも残っており,たとえばエジプト文壇の第一人者,ナギーブ・マフフーズは金曜日の夜,カイロのリーシェというマクハーに必ず現れ,若手作家や読者たちと文学論を交わす風景が見られるが,そのような例はほかにも多い。

日本の場合

ヨーロッパの清涼飲料を飲ませる店であるソーダファウンテン,パリのコーヒーを飲ませる店のカフェをまねたのが,日本での喫茶店のはじまりであった。1888年(明治21)東京下谷黒門町にカフェをまねた〈可否茶館〉が開店したが,これは時期が早すぎて客の入りが少なく,すぐに閉店した。1911年東京銀座南鍋町に開店したカフェ・パウリスタをはじめとして,明治の末に東京や大阪の盛場にコーヒー等を飲ませる店としてカフエができた。日本の工業化を背景として,モダンな気分がするカフエは商売として成り立ち定着した。しかし,パリのカフェレストランをまねて,酒類や西洋料理を提供し,ウェートレスを客の横にはべらせてサービスをさせる店ができて,それはカフェーと称するようになった。昭和初期に音質,音量ともにすぐれた電気録音のレコードと電気蓄音器ができたので,それを使ってクラシック音楽を聞かせ,コーヒー等を飲ませる店として,まず名曲喫茶と称する喫茶店ができた。ミルクホールより高価にコーヒー等を売り,町娘風のウェートレスが持運びをしたので,カフェーよりも清楚で安価でモダンな感じがする喫茶店は知的な若者たちに支持された。つづいて軽音楽を聞かせる喫茶店ができてカフェーの客をうばった。それで,場末のカフェーなどのうち,歌謡曲や浪花節のレコードを聞かせて社交喫茶などと称する店ができた。江戸時代の水茶屋の現代化が喫茶店だとそのころはいわれた。


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さりはま書房徒然日誌2023年10月13日(金)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー言葉の思いがけない組み合わせを楽しむー

今日も読んだ箇所のあちらこちらから、気になった言葉を抜き出してみる。

こんなふうに、こんなところまで表現してもいいんだ!と思ったところもあれば、丸山先生らしい考えだなと思った箇所もある。

丸山健二塾ではオンラインだけれども、一語一語、一文一文、丸山先生と文の表現を確認してゆく。
「それはぶっ飛びすぎている」「それはわざとらしさが過ぎて嫌みな文である」「それは平板すぎる」……と細かくよく見てくださる。
それでは私がくじけると思うのか、たまにだけど優しく褒めてくれることもある。

そんなことをして何になるのか……と思う方も多いだろう。
芥川賞をはじめ文学賞のコメントを見ても、現在、文体について言及している方はほとんどいない。
大体の現代の文学関係者にとって、文体はどうでもいいことなのかもしれない。

でも短歌の方にとって、まずは文体(歌体?)ありき……のようである。

私が短歌をはじめたと知った知人は、その方の師である歌人、高瀬一誌の教えとして「他人と似ていない歌をつくれ」という言葉を引用されながら、
「歌はつくっているうちに自分の文体ができてくる」とヒヨッコの私にまず教えてくれた。

世間一般の小説と短歌の違いは、こうした文体へのこだわりの違いにあるように思う。

ただ、丸山先生の文体へのこだわりは、短歌の世界に匹敵するところがある。
丸山先生と短歌の福島先生は、指摘が重なる点も多い。
「それは説明的すぎる」とか……これは丸山先生が言ってらしたフレーズだと福島先生の短歌創作の講義でよく思う。

丸山先生は三十一文字をつくる感覚で、三十一文字を連ねるような感覚で、一語一語一文一文を大切にしながら小説を書いているのだと思う。それがわかる読者がとても少ないとしても決して妥協せず……。

丸山塾で指導を受けなかったら、たぶん短歌の世界に飛び込んでみようとは思わなかっただろう。丸山先生や福島先生のおかげで短歌まで世界が広がったなあと感謝しなければ。

浄福や薄幸の接ぎ目となる多彩な偶発

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻311頁)

まったくだしぬけに
比重がでたらめな複雑な感情が湧き起こって


(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻313頁)

世界は因果性の原理に支配されている

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻315頁)

けなげな労働者に対して目も耳も持たぬ搾取の世界を全面的に否定し

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻319頁)

自由は退却するという抜きがたい執念の棘を抜き取り

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻319頁)

歓喜と懸念はいつでも相関的な関係であり

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻321頁)

人は総じて根拠を欠いた存在であるとしながら

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻329頁)

宗教が善へと導くための目に余る不条理にも似た混濁

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻333頁)

精神の突然死

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻334頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月12日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー心に残った言葉を抜き出してみたー
ー五音七音が多い!日本語の美は五音七音に宿るのかもー

津波を生きのびた青年が思い出してゆく介護の果てに義母を殺めた記憶、おのれも自殺した記憶。
今日は義母を殺めた場面を読む。


そして今日はワンセンスではなく、心に残った語をあちこちの文からパパッと抜き出してみた。

丸山先生の作品には、「楕円軌道」とか「連鎖」とか時々見かけて、妙に印象に残る言葉が幾つかある。

そうした言葉は、その都度違う使われ方をしている。
紙の本の方がいいけれど、こういうときは電書の方が比較できて便利な気もする。

ちなみに短歌は、小説からいいなあと思ったフレーズを取り出して、歌に組み入れることはよいそうである。

トリビュート丸山健二」……なんてテーマの、丸山作品から好きな言葉を抜いて短歌をみんなでつくる歌会があれば楽しそう……とも夢想する。

とりあえず次回の八丁堀の歌会、七首のうちの二首は今日の引用部分にある「連鎖」が心に残ったのか、自然と「連鎖」をいじりたくなり歌ができた。

「連鎖」という言葉は、何を持ってくるかでイメージ、世界がガラリと変わる言葉だと思う。

引用した他の箇所「あるかなしかのおのが存在」も、タイトルの「我ら亡きあとに津波よ来たれ」も数えたらほぼ七七でそのまんま下の句になる。
あとは上の句を考えたら一首できるなあ、でも下の句丸々だと工夫がないし……

「楕円軌道」や「輪郭線」も一字足せば七音になる……
なんて指折り数えつ丸山作品を読んでいる酔狂な読者は私だけだろうか…。

それにしても丸山作品の語をカウントしてみると、五音七音のフレーズが多い。日本語の美を追求すると、五音七音になるのかも。

魂の無意識のフォルムはただもう素晴らしいの一語に尽きる

(「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻284頁)

人生の初口に立ち勝るその末尾が
くっきりとした輪郭線に縁取られ


(「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻285頁)

心情の楕円軌道

(「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻290頁)

のべつ先祖帰り的な動きをする
畜生同然の人間の生


(「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻290頁)

否認の余地がない因果の連鎖を背に

(「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻291頁)


互いに排除し合う無と有が織りなす
およそちんぷんかんぷんな意味における
あるかなしかのおのが存在


(「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻296頁)



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さりはま書房徒然日誌2023年10月12日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー平仮名、カタカナのさりげない選択で文が生き生きしている!ー

津波から助かった青年が、おのれのドッペルゲンガーを眺めるうちに自死した記憶、義母の介護の苦労を思い出し、ついには義母を殺してしまう。

引用箇所は、殺義母が最後の声にもならぬ声をあげて死んでゆく場面。
これもワンセンテンスである。

入力していると、「ここは漢字なんだ!」「ここは平仮名なんだ!」と読んでいるときはスルーしていたことを発見する。

丸山先生は「漢字、ひらがなは好みで、感覚で」と言われ、

短歌の福島先生は(短歌という限られた字数のせいもあるのだろうか)「漢字は象形文字。視覚的効果がある」と漢字にしたい箇所、ひらがなにしたい箇所のこだわりがあるようなことを言われ、

ちなみに女流義太夫の越若さんは「ここは漢字で語りたい。ここは平仮名で語りたい」と謎めいたことを言われ……(越若さんの言葉、いまだにどういうことなのか私には分からない。だが浄瑠璃をやっている方には分かる言葉のようである)、

とにかく日本語は平仮名、漢字、そしてカタカナから出来ている豊かな言葉なのだなあと思う。

丸山先生も「好みで、感覚で」と言われつつも、漢字とひらがなをしっかり使い分けされている……と入力しながら思った。

「強烈な圧迫によってすっかり閉じられた声門からわずかに漏れるのは」の箇所も、「強烈な圧迫」という漢字は目にずいぶんとインパクトがある。
「わずかに」と平仮名のせいで弱々しく絶えてゆく様が伝わってくる。

最後の「ほとんど解脱にも似た 喜ばしい最終回答が浮上」という表現は面白いなあと思う。「浮上」のパンチが効いて、天国にこれから行くんだという感じがある。

「魂の震撼が、妖異なる託宣に魅せられる神秘的な自意識が、忘れようとして忘れられぬ養母の生涯を包みこみ、渾然たるその精神をまるごと捉え、」という箇所、嫌でたまらない義母の姿がふっと消え、生は抜けてゆけど尊い存在に思えてくる。

最後の「なんだか……なんだかそうとしか思えなかったのだ。」の平仮名だらけの箇所は、平仮名ゆえに青年の慟哭が伝わってくる気がする。

漢字、平仮名、カタカナから成る日本語はほんとうに奥が深いと思う。

でも「誰とも似ていない歌をつくれ」と高瀬一志の言葉を教えてくれた知人が示すように、誰とも似ていない文を書かなくては……いや下手すぎて、タドタドしすぎて誰とも似ていないかもしれないとも思う。

だから、

もはや真情の結晶とやらを拠り所にして言い飾ることが困難な、

やむをえぬ場合以外はけっして慈愛のたぐいをせがまないという
悟性的理性の欠如が顕著な、

良識によって行いと言葉を律することができず、

不撓なはずの魂を改めて採寸してみれば
無に等しいただのがらくたにすぎないという、

そんなどこまでも本能的な自分と化し、

そこへもってきて、

魂を劫掠されっぱなしの
因業な老いさらばえた女という
哀れな犠牲者の口もとに締まりがないのは
すっかりがたがきた身体が最終的な休息を要求しているからだと気づき、

また、

強烈な圧迫によってすっかり閉じられた声門からわずかに漏れるのは
恐怖の悲鳴でもなければ
呪いつづけてきた世間にむけて救いを求める言葉でもなく、

いずれ灰燼と化す運命にある慰安を探し求めるかのような
無限に細分化できる
移ろいやすい呻きのみで、

おぞましいにもほどがある
その音源の道筋をたどってゆくと、

意図とは異なる結果によって
これが最後の生存となり
もはやふたたびこの世に生を受けないという、

ほとんど解脱にも似た

喜ばしい最終回答が浮上して、

歪曲された生と死の一体性が、

京楽的営為の終局に訪れる魂の震撼が、

妖異なる託宣に魅せられる神秘的な自意識が、

忘れようとして忘れられぬ養母の生涯を包みこみ、

渾然たるその精神をまるごと捉え、

なんだか……

なんだかそうとしか思えなかったのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻268頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月10日(火)

福島泰樹短歌絶叫コンサート「大正十二年九月一日」へ

吉祥寺のライブハウス曼荼羅で毎月10日に福島泰樹先生が開催されている短歌絶叫コンサートに行ってきた。

このライブハウスはそんなに広くはないけれど、入るとなぜか安堵を感じる。

まず内装がどこか少しロマネスクの石でできた素朴な教会を思わせるところがあるからだろうか。

周囲の席を見渡せば、早稲田の短歌創作講座やNHK青山カルチャー「人間のバザール浅草」で一緒に受けている方々の優しいお顔があちこちに見えて、さらにリラックスする。

ステージには、華道の池田柊月さんという方がその時のステージのテーマに合わせたお花を献花してくださるのが毎回楽しみ。

空間とそこにいる人間が醸す心地よさが、ステージ開始前から短歌絶叫コンサートにはある。

ステージが始まれば、岸上大作や樺美智子、寺山修司……道半ばにしてこの世を去っていった者たちの言葉が谺する……福島泰樹先生の「残していった言葉がある限り、死者は死んではいない。ここに戻ってくるんだ」の想いに支えられながら。

今回は袴田巌さんのお話や、大逆事件で死刑にされたアナーキストたちの歌、関東大震災で軍隊が活躍したこともあって震災後すぐに戦争へと進んでいった大正と現代を重ねる言葉が心に残った。

危機を鋭く予告、告発するのは、小説よりも、書き手の叫びである詩や短歌の方が適任なのかもしれない……という気もした。

「いい言葉だけを残して死んでいけばいいんだよ」という福島先生の言葉が心に残りつつ、こうして駄文を連ねてしまう。



私の駄文の口直しに以前にも引用したが、短歌絶叫コンサートの締めによく朗読される中原中也「別離」を引用する。

別離

中原中也

さよなら、さよなら!
  いろいろお世話になりました
  いろいろお世話になりましたねえ
  いろいろお世話になりました

さよなら、さよなら!
  こんなに良いお天気の日に
  お別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い
  こんなに良いお天気の日に

さよなら、さよなら!
  僕、午睡ひるねの夢から覚めてみると
  みなさん家をけておいでだつた
  あの時を妙に思ひ出します

さよなら、さよなら!
  そして明日あしたの今頃は
  長の年月見馴れてる
  故郷の土をば見てゐるのです

さよなら、さよなら!
  あなたはそんなにパラソルを振る
  僕にはあんまりまぶしいのです
  あなたはそんなにパラソルを振る

さよなら、さよなら!
さよなら、さよなら!

 僕、午睡から覚めてみると、
みなさん、家を空けてをられた
 あの時を、妙に、思ひ出します

 日向ぼつこをしながらに、
つめ摘んだ時のことも思ひ出します、
 みんな、みんな、思ひ出します

芝庭のことも、思ひ出します
 薄い陽の、物音のない昼下り
あの日、栗を食べたことも、思ひ出します

干された飯櫃おひつがよく乾き
裏山に、烏が呑気に啼いてゐた
あゝ、あのときのこと、あのときのこと……

 僕はなんでも思ひ出します
僕はなんでも思ひ出します
  でも、わけて思ひ出すことは
わけても思ひ出すことは……
――いいえ、もうもう云へません
決して、それは、云はないでせう

忘れがたない、にじと花
  忘れがたない、虹と花
  虹と花、虹と花
どこにまぎれてゆくのやら
  どこにまぎれてゆくのやら
  (そんなこと、考へるの馬鹿)
その手、そのくち、そのくちびるの、
  いつかは、消えてゆくでせう
  (みぞれとおんなじことですよ)
あなたは下を、向いてゐる
  向いてゐる、向いてゐる
  さも殊勝らしく向いてゐる
いいえ、かういつたからといつて
  なにも、おこつてゐるわけではないのです、
  怒つてゐるわけではないのです

忘れがたない虹と花、
  虹と花、虹と花、
  (霙とおんなじことですよ)

 何か、僕に、食べさして下さい。
何か、僕に、食べさして下さい。
  きんとんでもよい、何でもよい、
  何か、僕に食べさして下さい!

いいえ、これは、僕の無理だ、
    こんなに、野道を歩いてゐながら
    野道に、食物たべもの、ありはしない。
    ありません、ありはしません!

向ふに、水車が、見えてゐます、
  こけむした、小屋の傍、
ではもう、此処からお帰りなさい、お帰りなさい
  僕は一人で、行けます、行けます、
僕は、何を云つてるのでせう
  いいえ、僕とて文明人らしく
もつと、ほかの話も、すれば出来た
  いいえ、やつぱり、出来ません出来ません。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月9日(火)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ーはっきりと分からないながら格好よく思える表現、よく分かるって文の場合あまり格好よくないのかもー

津波を生きのびた青年が、死せるおのれのドッペルゲンガーに出会い、自死するまでの記憶を思い出す。
以下引用部分は、義母の介護に耐えられなくなって殺害へとどんどん心が傾きはじめる場面。これでワンセンテンスである。

しょっぱなから「晦渋な言い回しによって互いに罰し合う存在と無のごとき」と、ほんとうに晦渋な、でも格好いい言い回しで始まっているのが心に残る。

烈風を「恐ろしげな連中の刃にかかるほうがまだましに思えるほど」と形容するのも面白い。

「民意の写しにほかならぬ劣悪な住環境」という言葉も、丸山先生の社会への痛烈なパンチが効いた表現だと思う。

「死に神が名誉をかけて取り持つ仲となり」は、青年が義母に殺意を抱いたということなのだろうか……こういう言い方もひたすら格好いいと思う。

絶望のどん底という状態も、「心に点る灯明の明確な輪郭を失ってしまった」と言えば、やるせ無さがひしひしと伝わってくる。

「まさしく地獄へ通じているにちがいない 繊細ながらも角張った開口部」という表現も、どんな感じなのだろうと存在しないものを見せようと仕向ける表現である。

最後「粗雑な判断の結果ということは言を俟たない 猛悪な情念の眼目が鮮明になったのだ」は漢字のインパクトが強い文で、これから不吉なことが起きる……と予言しているようである。

そして、

晦渋な言い回しによって互いに罰し合う存在と無のごとき
凄まじいその流れに沿って、

今の今まで社会の底辺のまたその底辺で怖れと怒りの入り混じった変遷を重ね
苔むしたい岩の下で一生を過ごす虫けらのようにひっそりと生き
将来への希望を託すものとはいっさい相容れない日々を送ってきた、

悲惨な限りの養母と
孤独な限りの養子は、

恐ろしげな連中の刃にかかるほうがまだましに思えるほどの烈風のせいで
温かく思いやりに満ちた中流階級など見たくても見られない
民意の写しにほかならぬ劣悪な住環境がさらに乱されることによって
老朽家屋群がほとんど半壊状態に陥った
その夜を境に
死に神が名誉をかけて取り持つ仲となり、

人間の面汚しどもが暗躍する悲惨な貧困の世帯の片隅で
過剰なしがらみにぐいぐいと締めつけられ
心に点る灯明の明確な輪郭を失ってしまった双方は、

殺す者と殺される者という
立場における本質的な違いに対して
一点の疑念も感じぬまま
みるみる低落から消滅へと急接近し、

それが証拠に、

まさしく地獄へ通じているにちがいない
繊細ながらも角張った開口部が
あたかも天国の門のごとき華やかさでもって楚然として識別され、

なかば闇の状況にあっても決着をつけてしまおうと
ともあれ腹をくくって
そこをくぐり抜けるや
とたんに
無自覚のまま気が立ち、

粗雑な判断の結果ということは言を俟たない
猛悪な情念の眼目が鮮明になったのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻232頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月8日(日)

文学的才能についての丸山先生の「真文学の夜明け」にある言葉は当たっている……と思った

ミステリ読書会をひらくようになって数年。
ありがたいことに、たまに小説の書き手の方々も参加してくださることもある。
そうした書き手の方々を見ていると、丸山先生が「真文学の夜明け」という本の中で書かれている以下の文は、まさにその通りだと思う。

狂気と正気のあいだをひっきりなしに往復する際に飛び散る火花を
異様に素早い言語中枢の働きによって捉えることが可能な者こそが
まさしく文学的才能の持ち主というわけで、

もっと具体的に言うならば
生来饒舌な人間が適しており
それが基本中の基本となっている。

(丸山健二「真文学の夜明け」182頁)

丸山先生もどんな質問や相談をぶつけられても、言葉が途切れることなく、溢れるように次から次へと答えてくださる。

読書会に参加してくださった書き手の方々も、言葉が湧き出る泉のようにスラスラと出てくるのに驚く。
おかげで小説の書き手の方が参加してくださると、心地よい饒舌を愉しむことができる。

引用文は以下のように続いてゆく。文学者のイメージはこうだけど、実はそうではないんだ……という趣旨の文である。

一般的に文学者というのは
寡黙で
瞑想に耽りがちで
人間嫌いで
内向的に過ぎ
女々しく
破滅的で
いつ自殺してもおかしくないような
そんなイメージが固定しており、

(丸山健二「真文学の夜明け」182頁)

今回参加してくださった二人の書き手は、他の参加者が職場で日の丸を拒否したらどうなったか……という顛末を話したところ、二人ともパチパチと拍手してくださった。
あまり読書会でのことは書かないようにしているのだが、これからどうなるのか先行き不明な、暗い世において、書き手が強い視点を失わない姿に光明を感じて嬉しくなった。
そしてそういう書き手たちの作品、ぜひ読んでみたいとも思う。


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さりはま書房徒然日誌2023年10月7日(土)

変わりゆく日本語の風景ー釜飯ー

先日、福島泰樹先生の「人間のバザール浅草」講座を受けたとき、何気なく雑談で、私たちが昔からあるように思っているけれど、中原中也の青春時代にはなかった……という食べ物を幾つか教えてくださった。
今日は、その一つ「釜飯」について調べてみた。
今では日本中どこに行っても見かける釜飯である。駅弁にもなっている。さぞ昔からあったのだろう……と思っていた。だが福島先生が言われたように、比較的近年になって登場した食べ物なのだ。
世界大百科事典で「釜飯」を調べてみると、関東大震災以後に登場した食べ物なのである。

本来は、釜で炊いた飯を飯櫃 (めしびつ) などに移さず、直接釜から取り出して食べるのをいうが、小さい釜型容器に盛り込んだ駅弁などを釜飯と称するように、釜飯の語意は二義ある。一般に釜で飯を炊くようになったのは明治以降で、共同生活の食事や給食などは大釜で飯を炊いた。そこで、同じ釜の飯を食べた仲間はお互いに親近感がある意が転じて、同じ職場で働いた者の意にも用いる。関東大震災(1923)直後の焼け跡で、ありあわせの釜で炊いた飯を、釜からじかに、または器に移して食べた人が多かった。これにヒントを得て、まもなく1人前用の小さい釜を用意して種々の変わった具を入れて炊くのを釜飯と称するようになった。それを専門または売り物にする業者ができ、その後、釜飯を一度に数多く炊く専用の炊事器もできている。また、陶器の釜型容器に種々の炊き込みご飯を詰めての市販品は、全国各地でみられる。

日本国語大辞典で「釜飯」の例文を調べてみると、少ない。わずか一つしかない。

「天下に釜飯くらゐ旨いものはないと言ってる」

(縮図〔1941〕〈徳田秋声〉)

関東大震災(1923年)以前には、どうやら釜飯はなかったらしい。


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さりはま書房徒然日誌2023年10月6日(金)

篠田真由美「螺鈿の小箱」より「人形遊び」を読む
ー聖女と人形をテーマにした幻想短編を二度読みするー

螺鈿細工は持っていないけれど、螺鈿の妖しい光は好きである……という理由で、タイトルに惹かれて本書を開く。
怪奇幻想短編が七篇おさめられている

まず冒頭の「人形遊び」を読む。
乱歩の「人でなしの恋」を読んで、文楽を観に行くようになった私としては、「人形」テーマの幻想譚は嬉しい。
興味惹かれて読み始めれば、アッと驚くラストに思わず二回読んでしまった。

それぞれの登場人物の語りで話しが進行する。最初は、抱きかかえた人形に亡き母から聞いた聖女たちの受難を聞かせる娘。
思わず私も一緒に聞いている心地になって、素直に娘の語りに耳を傾けてゆく。
聖女たちはこんなに惨たらしい受難に遭遇したのか……。
語り口から、作者の聖女たちの歴史への関心の深さと同時に、宗教の残酷さを厭う気持ちが伝わってきて、思わず素直にウンウンと頷いて読んでしまう。

語り言葉で進行してゆく物語の場合、時々、ちょっとしたところに作者の素顔が感じられることもあって、その視点が相入れない時は読み続けられなくなるものだ、私の場合。
だが、「人形遊び」は聖女たちへの視点、聖女たちになれなかったその他大勢の人を思う視点、ひとりで生きていかなければいけない若くもない女の視点……と語りに素直に耳を傾けたくなるものがあった。

てっきり最初はどこか外国が舞台なのか……と思いつつ読んでいたが、舞台は西伊豆と出てきたので驚く。
ひとけのない奥まった地……というイメージには西伊豆はピッタリなのかもしれない。平坦地が少ないから洋館を建てるのは大変な気もするが……。

ラストは誰なんでしょうね。
誰であってももっともであるような、其々に切ない理由がある気がした。
あとに残るのが不思議さ、切なさ……であって、嫌な後味でないのが私的にはよかった。

それにしても文楽人形にしても、人形の果たす大きな役割は「ころりと落ちる首」……(文楽では、首桶に入れておいた首をすり替えておく……とか生首トリックが出てくる)
首が落ちるのは、人形の宿命、それとも人形の象徴なのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2023年10月5日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む
ー主人公が義母殺害の決心をする箇所は、表現が知らずぐんぐん迫ってくる!ー

ツィッターが不安定だから、こちらのブログを再開。ブログに移行してよかった……と思うのは、ツィッターだと字数の関係で「いいな」と思った箇所も、文の中のごく一部しか紹介できなかったが、ブログだと字数も写真も無制限だということ。丸山先生の文は、長い文の中にも、緻密に計算された構成がある……ことに入力していて初めて気がつくこともしょっちゅう。やはりワンセンテンスはそのままの形で、途中や前後を省略することなく引用したい気がする。

さて、これまでの筋は……。
津波を生きのびた青年……
自分のドッペルゲンガーの死体と遭遇した青年……
自死したことを思い出した青年……
彼の心に義母を介護する辛い記憶がよみがえったようだ。


この箇所を引用しようと思ったのは、途中に心ときめく表現が集中している箇所があるから。

文のなかば、「ひっきょう」から「認められたのかもしれず」の箇所だ。


まず私の好きな「百家争鳴」と言う言葉が、小説で使われているのを初めて見た。

「百家争鳴」とは、デジタル大辞泉によれば「多くの知識人・文化人がその思想・学術上の意見を自由に発表し論争すること。中国共産党の文化政策スローガンのひとつ」だそうだ。

この言葉を知ったのは割と最近で、文楽関係のとても博識なフォロワーさんが、自己紹介のところに「百家争鳴する、自由闊達な世界が理想」と書かれていたので、初めてこの言葉を知った。

滅多に使われない「百家争鳴」が使われている!

しかも「百家争鳴といった観がある 実存主義の鉛直的な広がりも嘲笑する」とはっきり分からないながら魅力的な配置で!
「実存主義」と「鉛直」を並べた形の不思議さ!
こう眺めてみると「実存主義」は水平じゃなく、「鉛直的な広がり」の方が相応しいのかも……。
はっきり分からないながら心に残る。

さらに次の箇所「全宇宙の真空に君臨するという 欺瞞の上に成り立っている非人格的な誰かの配慮」も、人地の及ばない、どうしようもない運命の力感がある!

罪の宮殿」という言葉も、これからの展開を何とも魅力的に象徴している!

長い文の最後にくれば、おそらく、この青年は要介護の義母を殺害するのでは……という今後が「そっちの方向へ」と示唆される。


そして、私が比喩やら表現にときめいた箇所は、青年が殺人を決意する箇所。

きっと読み手の心に青年の決意が響くように、丸山先生が精魂込めて書かれたのではないだろうか?

かくしておれは、

生き恥をさらさぬための奥義のなかの奥義などとはいっさい無縁な、

ただひとつの癒しの道である絶対の孤独から逃れられない、

自身と世界の関係を変える毒素が混入してしまっている、

ために
常に心して生の本題に立ち返ることができる者ではなくなり、


その代わりと言ってはなんだが、

他人の気を悪くさせるような側面をあれこれ具えたうえに
のべつろくでもない画策を包み隠し、

憮然とした面持ちで
外からの助けなしでは自分自身を支配できない
などと
臆面もなく
しゃあしゃあと嘘をつくたびに、
殊のほか凶暴な怒りがよく似合う
ある種の階級の人々に属したような心地になり、


ひっきょう、

天上のどこかに住まい
危険な生業からいつまでも足を洗えぬ件の者をもろに愚弄して楽しみつつ
百家争鳴といった観がある
実存主義の鉛直的な広がりも嘲笑する、

全宇宙の真空に君臨するという
欺瞞の上に成り立っている非人格的な誰かの配慮によって、

何をしたところでけっして厳しい裁きが下されることのない
罪の宮殿に立ち入ることが認められたのかもしれず、

だからといって、
悪それ自体を求める熱情が結局何になるかということについては
まったくもって知るところではないと自分に言い聞かせながら、

どの命も日限が定められているのだという真実に目をつぶり
不合理さが付きまとう微妙な局面を無視して、

いちじるしく緊張感に欠ける分だけ不愉快な体験を断ち切るための
それ相応のちゃんとした理由がある殺害行為を
この荒天が成功に導いてくれるものと確信して
稲妻と烈風に背中を押されながら
ぎしぎしと軋みつづけるぼろ家に引き返し、

今にも吹き飛ばれそうな玄関の戸を押し開け
横殴りの雨といっしょに素早く入りこみ、


それでもなお、

良心とやらに最後の忠告を与えられて
正気の自分自身に引き戻されることなどいっさいなく、

つんと鼻を突く汚物の激臭をものともせずに
敢えてそっちの方向へ
土足のままぐんぐん迫っていった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻215頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月4日(水)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む
ー降る雨を語る言葉は心のざわめきと重なりてー

津波を生きのび、自分の死せるドッペルゲンガーと出会った青年。
青年は実は自死していた。
その過去が語られ、義母の介護に追い詰められてゆく言葉も心に刺さったが……。

自分と対話するうちに耐えきれなくなって、大雨の中に飛び出してゆく以下引用部分、青年の心のざわめきが伝わってくる表現が並んでいて、非常に印象深いものがある。
やはり、これで一つのワンセンテンスである。

文頭、「精神に鋼鉄の焼きなましのごとき効果」は、青年の激しい苦しみがぶちまけられる感がある表現である。


「この天体上で起きる全てのことを水に流し」
「正当な怒りが沈黙」
「非人間的な世界を浄化」
「まともに息もつけないほどの豪雨のなか」
と激しい雨に青年の苦しい心情がオーバーラップして切ない。

「突飛で」「斬新で」「偉大な」という三文字の言葉が並ぶ箇所は、なんだか言葉の雨粒みたいで面白いと思った。

「人生に刺さった棘としての粗野なおのれ自身を抜こうと、」は、なんて辛い、強い自己否定の言葉だろう。

「桜の若木といっしょに横倒しになった心情をほったらかし」も、散る花が美しい桜の若木だからこそ、青年が「いっしょに横倒し」と語る言葉もぴったりくる。

漢字が連なる思考の過程を経て、「悪しき存在」「ふた心ある神々」「一刻の猶予もなく排除されるべき」と次なる展開を暗示する言葉で文が終わる。
文の終わりを何となく次の文に繋がるイメージの言葉で終わらせる……のも、後期丸山作品の特徴のように思う。

そして、

そうすることで
精神に鋼鉄の焼きなましのごとき効果が得られれば
それで充分と思いながら
ひどい面構えの恐るべき痴鈍者を演じて
その方向へと過たずに肉迫し、

この天体上で起きる全てのことを水に流し
正当な怒りが沈黙させられる非人間的な世界を浄化してくれそうな
まともに息もつけないほどの豪雨のなかを、

突飛で
斬新で
偉大な
至高の意識に満ちた哲学的な意図でも探すかのように、

あるいは人生に刺さった棘としての粗野なおのれ自身を抜こうと、

全身濡れ鼠になって右往左往し、

そのうち、

吹きつのる風をまともに受けて
桜の若木といっしょに横倒しになった心情をほったらかしにし、

どこまでも自分自身の自由を行使することで他者を混乱に陥れてやり、

法的や論理的な解決が不可能である以上は力尽くが望ましいと思い、

同情を誘う立場からの逸脱はいかにして可能なのかと考え、

不完全ながらも突出した自由の尊厳をどこまでも守ろうと決め、


そうなると
あとはただもう、

自分にとっての悪しき存在者が
ふた心ある神々と同様に
一刻の猶予もなく排除されるべきだと
そう強く願うばかりだった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻170頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月3日(火)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ーなんとドッペルゲンガーを見ている青年は自殺していた!
ということは、どっちがドッペルゲンガーやら?=

津波を生きのびた青年が、自宅で見つけた男の死体。それは自分のドッペルゲンガー。土中に埋めた筈なのに、いつの間にか復活しているではないか!
ドッペルゲンガーと対峙しているうちに、男は自分の過去を思い出す。

自殺したこと……。
辛い母子家庭の境遇……。

なんと、この青年は自殺していたのか!


すると幽霊が、幽霊のドッペルゲンガーを見ていることになるのか?
どういう展開になるのだろうか?

先は分からないながら、自死したことを思い出した青年の幽霊が、ドッペルゲンガーと向かいあう場面
これも一つの長い文、ワンセンテンスである。

前半の、青年の幽霊がおのれのドッペルゲンガーを語る言葉は、どこかユーモラスに観察している気がする。

「見かけだけは完璧なまでにおれ自身」
「そら音を吐くことが上手そう」
「至れり尽せりの環境でもって促成栽培」
……と突き放して、辛辣に自分のドッペルゲンガーを観察している。

それが段々非難めいた口調に移り変わってゆく。
「言語道断」「恩知らず」「からかうような挙」「面当て」「嫌味ったらしい芝居」と厳しい。

「第二幕」を語るあたりから、青年の幽霊はおのれのことを
身に覚えのない異界への参入を余儀なくされた ただひとりの観客」
とかなり被害者めいた意識で捉えている。

ドッペルゲンガーには「罪多くして死に至ったのかもしれぬ己を棚に上げ」と辛辣である。

文の最後は「自死を決意する直接の引き金」「冷酷無比に模写しよう」と次の暗くなりそうな展開が仄めかされる

一つの文の中で、トーンがユーモラス、非難がましい、被害者めく、辛辣と変わってゆく。

丸山先生から指導を受け、丸山先生の文にはたまたまそうなった……ということがないと知る。

丸山先生は隅々まで考えて言葉を選んでいる。
たとえ私をはじめ、殆どの読者が気がつかなくても絶対に手を抜かない。
そこから緊張感が生まれ、作品を引き締めているように思う。

さて、

今や見かけだけは完璧なまでにおれ自身である、

肩をそびやかしながらそら音を吐くことが上手そうな、

ちゃんとしたおとなに諭されているそばから大はしゃぎするような、

至れり尽せりの環境でもって促成栽培されたかのごとき、

二十歳そこそこの若造はというと、

死から復活して生を為す者を装うだけでも言語道断だというのに
恩知らずにも
埋葬してやった者をからかうような挙におよび、

ともすると山頂にそっくり移設させた建造物のように思えてしまう
大津波に押し上げられた漁船を舞台に見立てて、

そっとしておいてやりたい亡霊個人の活動の範疇をはるかに逸脱した
まったくもって面当てとしか思えぬ
目を背けたくなるような
嫌味ったらしい芝居をだらだらとつづけ、


それだけならまだしも、

いい加減にしてほしい
その第二幕においては、

おのれ自身との調和を達成できるという
かなり明確な世界観に至っていたにもかかわらず
身に覚えのない異界への参入を余儀なくされた
ただひとりの観客に
さらなる苦渋を与えんがために、

気随気儘な生により罪多くして死に至ったのかもしれぬ己を棚に上げ、

憂慮すべき歴程としての
つまり
自死を決意する直接の引き金となった直前のこのおれのありようを
冷酷無比に模写しようと
大づかみながら明晰な熱演を繰り広げていた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻133頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月2日

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む
ーこの世のものとは思われない風景が見えてくるような文、そこには作者の姿も見えた!ー

旧ツィッター(エックス)のフォロワーさんのなかに、毎日、朗読の練習をされては、どの箇所が、なぜ面白いのか考えて、投稿文を書かれている方がいる。

お若い方なのに偉いなあと思う。

私なんか若い頃は本の感想を聞かれても「面白かった」としか言えず、「どこがどんな風に面白いのか具体的に説明しなさい」と叱られたものだ。

今でも、いいなあと思った箇所があると、こうして写したりしているが、なぜいいと思ったのか……問われると答えにつまるところがある。

「いいと思ったからいいのだ」と答えたくなるが、お若いフォロワーさんがきちんと自分の言葉でいいと思う理由を説明されている姿に、「いけない」と反省する……。

さて引用文は、「心のぼろ船」で精神の旅に出た青年の心の旅を語る文。

長い文である。これで一つの文である。文そのものが旅しているような文である。

真ん中くらいの箇所「浮き世の波のまにまに漂よいながら」という一帯に、この世には実在しない風景がいっとき見える気がする……。
そんな視覚に訴えてくるパワーを感じて心惹かれた。
読んでいる方も、旅しているような錯覚に誘い込む文である。

そしてこの文には、丸山先生自身の姿も色濃く反映されている気がする。

「人類の御世が」から「不滅性」までのの嘆きや感慨は、丸山先生の思いそのものではないだろうか。

「そんな複雑怪奇な つかみどころのない世界のなんたるかを知りたくて」という言葉も、丸山先生の心からの叫びのような気がする。

「単なる傍観者であり目撃者であるにすぎぬ 自称<自由の回復に関する精通者>にして<傑出の詩人>という青年の姿に、丸山先生の姿が重なるようで感慨深く読んだ。

しかし写すだけで疲れる長い一文である。この文を書くのに、丸山先生はどれだけ言葉と想いの火花を散らされたことだろうか……。

さらに、

滑走とも言うべき奔放な推進の作用と反作用を存分に弁え
だしぬけの座礁や嵐による転覆や不注意がもたらす船火事といった
悲惨きわまりない遭難をとっくりと覚悟しながらも、


あるいは、

人類の御世が終わりを告げつつあるという認めがたい現実や、

世相を如実に活写する言葉などはもはや無用であることや、

偽装された不純な時代の終焉や、

今やすっかり色蒼ざめてしまった晴朗の世や、

人間の所業とは思えぬ行為と常に境を接している事実や、

天空の高みに息づいている不滅性といったことなどを、

それこそ充分過ぎるほど承知しつつ、


それでもやはり、

一方においては
色とりどりの多様性に満たされていることによって
ときとして美的作用が導き出されることもあり、

他方においては
万物をつかさどる自然の摂理によって
生類たちをその台座ごと打ち倒すこともある、

そんな複雑怪奇な
つかみどころのない世界のなんたるかを知りたくて、


もしくは、

聴く耳だけを持ち
どこまでも受動的な存在でしかない
騒乱のうちに影のように座している絶対者の幻影にいざなわれて、

浮き世の波のまにまに漂よいながら
ときおりじれったげな罵声を発して
うららかな朝空の下に満ちる静寂を乱したり
沈みゆく太陽のバラ色の頂を穢したりするばかりの
単なる傍観者であり目撃者であるにすぎぬ
自称<自由の回復に関する精通者>にして<傑出の詩人>は、

そのさすらいの最深の根底に
きっと喜ばしい何かが横たわっているものと確信し
苦い経験と甘い経験が相まって最善の答えを出すものと盲信して、

まるで肉欲のはけ口が見つかったときさながらに
瞳をらんらんと燃え上がらせ、

際限のない破壊という
最も顕著な結果に支配された
現世という大海原に乗り出し、

あとはもうよくなるばかりという崇高な宿命を予感し
「いかなる命も必ずや実り豊かな成果をもたらす
それが自然の法則というもの」
などと口走りながら、

どんな啓発も厭いはしない
終わりなき漂流を始めていたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻82頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月1日(日)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー「心のぼろ船」の航海を喩える言葉に心惹かれてー

引用部分の半分以降、「心のぼろ船」の航海の喩えに心惹かれる。

思いもよらない語と語の結びつきを文の中に幾度も見かけ、そのあとには言葉によって刺激された私の意識が以前とは違った速度で流れている。

「擦り切れてゆく命によってすっかり錆びついた怒りを揚げ」とか、

「永遠の逼迫という残酷な型で打ち抜かれた人生の港」という表現もとても好きである。
ぼんやりとしか分からないながら、人生とはほんとうに辛くシンドいもの……と思えてくる。

「流動の波紋を描く生のしなやかな発露」も「流動」「波紋」「しなやか」も斬新な組み合わせながら、不思議とイメージが重なり合う表現だと思う。

「今を盛りとはびこる破局の毒針」も「今を盛りとはびこる」「破局の毒針」という語の意外な組み合わせに、切なくなってくる。

それにしても、どの表現も「五文字」「七文字」が多い。「五」「七」は、日本語の表現で魔法の響きを生み出す数字なのだと思う。

ために、

過ぎた日を語ろうとも思わず
いかなる状況におちいっても無限を志向してやまぬ性情という
どうして今の今まで気づかなかったのか不思議でならぬ
これに過ぎたるものはない有利な一面を自認したおれは、


生きてもいなかったし死んでもいなかった失意の立場を放棄し
この世との懸念に満ちた和解を放棄すべく、

度を越えたものにただならぬ愛着をおぼえ、

より真実らしい響きを持った言葉への激しい反発をおぼえ、

悪の最たるものとしての理想的満足をおぼえる、

おのれの命の主人たる詩魂のみを乗せた
放逸のための時は成就したと言わんばかりの心のぼろ船を
どうにか出航させようと意を決し、


ほどなくしてそれは、

空々しい日々のなかで擦り切れてゆく命によってすっかり錆びついた錨を揚げ、

永遠の逼迫という残酷な型で撃ち抜かれた人生の港を離れ、

おのれの運命に絶えず付きまとう不安の雲気を追い風にして帆走し、

どんどん迫ってくる重苦しい現実の決定的な超克を得るという目標を掲げ、

流動の波紋を描く生のしなやかな発露に導かれ、

今を盛りとはびこる破局の毒針を巧みに避け、

言葉にならない言葉を発しながら快適な軌道上をするすると滑り、

沈黙の語らいを天体の輝きに覆われた夜を音もなくよぎって行った。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻80頁)

丸山先生が書く津波後の国家が崩壊した世界。

実際、関東大震災後は「法に拘束される者は皆無」となったせいで流言飛語、虐殺が起きたわけだ。

だが本書では違う方向に展開しそうな気もする。果たして、どうなるのだろうか?

維持されつづける富者の支配体制に貧者が馴致されつづけるという
所詮は金の番人でしかない国家の均衡を大きく破れたせいで
権力の崩壊と死滅を望む神聖な性格を帯び
圧政に反逆して単身闘う者がかもすような雰囲気に呑みこまれてゆき、


つまり
服従と忠誠を要求できる決定的な役割を持つ者はいなくなり、

厳密に言えば
法に拘束される人間はもはや皆無となったにちがいなく

((丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻72頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月30日(土)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ードッペルゲンガー君も慣れると親しみがわくみたいだー

津波を生きのびた青年が無人の被災地をさまよい、自宅にたどり着けば、寝台に横たわる裸の男。
男は死んでいた。
しかも自分のドッペルゲンガーだった。
青年はドッペルゲンガーを地中に埋めた。
だが、ふと気がつくつと丘に乗り上げた船のマストの上に、ふたたび砂まみれのドッペルゲンガーがいた……。

以下、緑の引用部分はドッペルゲンガーを眺め、観察し、最後には呼びかける……という情景を描いた一つの文

引用部分の中でも、「吹きつのる爽快な風にすっかり心を奪われて、見張り台の上から色鮮やかな罪が世界を睥睨し」という言葉に心惹かれる。

「吹きつのる爽快な風」で五七ではないか!

「色鮮やかな罪が世界を睥睨し」も七七五ではないか!
「色鮮やかな罪」とか「色鮮やかな悪」とか「色鮮やかな恋」を練り込んだ短歌をつくってみるのも面白そう……と、まずこの部分の表現に目がゆく。

せっかくだから、この長い一文を写してみようと思い、入力すると、読んでいときはスルーしていた部分も心に引っかかってくる。

ドッペルゲンガーにもだいぶ慣れたのか、呼び方も「そ奴」と親近感がある。

ドッペルゲンガー体験も「面妖なこと」とどこかユーモラスに言い聞かせている。

「いろいろさまざま」と似たような言葉を平仮名で繰り返すことで、本当に無尽蔵にある感じが出ている。

少し青年は無理をしているんだな……という文がリピートされ「平静さを装い」のあと、「吹きつのる爽快な風にすっかり心を奪われて、見張り台の上から色鮮やかな罪が世界を睥睨し」という文に心がスカッとする。

「その肉体からその霊魂から全部ひっくるめておのれの死を愛し」というフレーズも、「その」の反復で全部という感じが強く伝わり、「おのれの死を愛し」という言葉がグサリと心に突き刺さる。

ドッペルゲンガーを語る「神の伴侶を自任しそうな やんごとなき身分の愚者にも似た相手を、」という面白い言葉に、どんな存在なのだろうと思わず立ちどまって考えてみたくなる。

「振り仰ぎ」の箇所……
丸山健二塾の個人レッスンで私の「仰ぐ」という言葉を、「振り仰ぐ」と訂正された後、丸山先生は「『仰ぐ』とだけ書くより『振り仰ぐ』の方が動きが出ます」と言われていた……と懐かしく思い出す。
たしかに動きが出る。

長い文の最後、「それでも、おれはおれなんだ!」「で、おまえは誰なんだ?」とドッペルゲンガーとの対話はどこかユーモラスでもあり、谺のようでもあり……と思いつつ、長い文を読み終える。

色々ちまちまと語ったが……。
今年4月から受講している福島泰樹先生の短歌創作講座では、いきなり他の受講生の歌についてどう思うか、三十一文字の世界について感想や意見を求められる。

三十一文字について、私はまだ思うように語れない。

でも他の皆さんは歌の内容だけではなく、語彙や表現の可能性、文体について感想をさっと言われる。

小説の批評で、語彙や表現、文体についてのコメントを目にしたことは余りない気がするが……。丸山先生の作品は短歌的視点で語ってみたくなる……舌足らずの近眼的視点だけれども。

さりとて、

絶対に説明の要があるそ奴の復活を気にもとめずに放置したり、

世の中にはそんな面妖なこともあるのだと自分に言い聞かせて黙許したり、

容認しうるいろいろさまざまな現象に無理やり分類したりするわけにもゆかず、

そこで、

ひとまず恐怖心のたぐいを残らず取り下げ、

不平をもたらすほど肝が据わっている者を演じ、

おのれの勇気を頼みとし過ぎることによって直面する危機を自覚し、

あたかも再々あることだと言わんばかりの平静さを装いながら、

吹きつのる爽快な風にすっかり心を奪われて、
見張り台の上から色鮮やかな罪が世界を睥睨し、

その肉体からその霊魂から全部ひっくるめておのれの死を愛し
神の伴侶を自任しそうな
やんごとなき身分の愚者にも似た相手を、

半信半疑のまま
いや
頑強な対立者として
多少の敬意を払いつつ
振り仰ぎ、

そして、

別段挙動不審というわけでもない侵入者に
さらなる好奇の眼差しを向け、

「それでも、おれはおれなんだ!」
と言い張れる自分をはっきり感じつつ、

ずばり
「で、おまえは誰なんだ?」という
当然至極の質問を投げつけてやった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻11頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月29日(金)

藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」を読む

短歌とは「五七五七七」としか知らず、福島先生の短歌創作講座を受講したのが今年四月。

たしか福島先生はこう言われた。
「短歌という詩型の歌う主体は、宿命的にこの<私>である。この一人称詩型短歌の<私>を逆手にとり、「不特定多数の<私>」に降り立つことができる」
そんなことができるのか!……と、この言葉が強烈に印象に残った。

「不特定多数の私の視点におりたつ」という考えで歌をつくると、文楽人形の気持ちになったり、関東大震災で自警団に惨殺された青年の視点になったり……自由自在に万物になった気分で、とりあえず楽しく歌もどきを詠むことができた。

藤原氏は、「不特定多数の視点におり立つ」という福島先生の短歌を三人称短歌として語られている。

福島泰樹の短歌の世界でのポジションが微妙に変化をみせ始めるのは、次の歌集『中也断唱』(1983年、思潮社)以降である。つまりこの時期から福島泰樹は活字メディアのみの現行為にはあきたらず、ライヴ即ち短歌絶叫という新たなジャンルの創造に挑み始めたからだろう。
 これは同時に、ある特定の存在に成り変わって詠うという三人称短歌の実現の過程でもあった。

(藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」109頁)

藤原龍一郎氏は、この文の次に福島先生のこの三首を紹介している。
哀切な響きと地名が心に残る歌である。

ゆくのだよかなしい旅をするのだよ大正も末三月の事

さなり十年、そして十年ゆやゆよん咽喉(のみど)のほかに鳴るものも無き

中也死に京都寺町今出川 スペイン式の窓に風吹く

(福島泰樹)

福島先生は毎月一回10日に短歌絶叫コンサートを開催されている。
絶叫とは何か……について、福島先生はこう語られているそうだ。

「だから、なぜ叫ぶかというと、それは自分だけの叫びじゃない。彼らの無念をおれが体現しているんだ。おれの体で肉体で受け止めて、それぞれの時代の無念、死んでいった彼らの無念をおれが歌うんだ、そういう思いが絶叫だね。それが絶叫コンサートの意義というかな。」

(藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」111頁福島先生の言葉)

そして藤原龍一郎氏によれば、「彼らの無念」の「彼ら」とは以下であるそうだ。

彼らとは、中也に限らず、寺山修司や岸上大作や村山槐多や沖田総司といった志なかばで斃れていった者たちのことだ。

(藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」112頁)

短歌絶叫コンサートは毎月行っても、その度に聞こえてくる響きが違って飽きることがない。
福島先生の鎮魂の思い、無念の思いを抱く者たち……その都度、両者が異なる叫びを発しているのかもしれない。
そして何度読んでも、聴いても飽きない……というところが、詩歌の魅力だろうか。

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さりはま書房徒然日誌2023年9月28日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻読了

ーひとつの文の中に、ひとつの物語が内包されているようでもありー

津波を生きのびた青年。無人の被災地をさすらううちに、自分の家でおのれのドッペルゲンガーの死体を見つける。その死体を土に埋めるも……。

引用箇所はこれで一つの文。実に長い一つの文である。

長い文の中に読者の心を掴む導入、スイッチオンにする箇所、ドッペルゲンガー再来を予告するような箇所、だんだんやわに崩れようとする心が語られる。

一つの文の中に、一つのストーリーが内包されている。

長い文が始まる冒頭部分は、「朝の歓喜」とか「匂い立つ歓喜」という心を思わず引き寄せる言葉が並んでいる。
だから長い文も気にすることなくスッと入っていける。

次の「翼をいっぱいに広げた怪鳥」「いにしえのい日々」で、この長い文が語ろうとする世界へと、グッと心のスイッチが入る。

さらに「愛と憎悪の幻影」「無二の大舞台」と、このあとにまた復活するドッペルゲンガーを予告するような言葉が並んでいる。

だが「けだし」のあとに並べられている言葉は、凡庸な生き方へ堕ちてしまおうか……という自棄への誘惑である。

そういう言葉すらも「魂の方位盤が示す四方」「夢がふたたび若返る」「国家権力がもたらす害毒の呪縛」と魅力的な言葉が並び、いかにも丸山先生らしい考えが表れている。

世俗的考えに流されそうになったところで、このあと地中に埋めたはずのドッペルゲンガーが泥まみれの裸でマストの上に現れる。

丸山文学によく出てくるドッペルゲンガー……それは喝を入れるような存在なのだろうか?

すると、

夏のあいだずっと保たれそうな朝の活力を彷彿とさせる
匂い立つ歓喜が辺り一帯に放散されるなかで、

目もあやな空を背に巨大で頑丈な翼をいっぱいに広げた怪鳥にさらわれ
言葉を失うほど遠いいにしえの日々へと連れ去られ
世界観を曇らせる偏見のあれこれがことごとく払拭されたかのような
そんなさっぱりした心地になり、

しかも、

暗黒物質のさらなる増大によって天と地が分かたれるという
めくるめく偉大な物語の登場人物の一員であることが生々しく自覚され、

じつは、

始まりも終わりもないこの宇宙こそが
多大の犠牲を払いつづけるという苦い経験を通して
自身の胸から芽吹いた愛と憎悪の幻影を存分に楽しめる
唯一にして無二の大舞台ではないか、


さもなければ、

偏向なき自由意思によって
嬉々として破滅へ堕ちてゆくことが可能な
ほかのどこにも存在しえない天国ではないかと
そう思えてきて、


けだし、

ありとあらゆる悲劇や不幸のたぐいをいっさい含めて楽しむべきではないか、

人生の苦杯を舐めつづけるおのれを語ることになんの意味もないのではないか、

魂の方位盤が示す四方に沿って精神が純化されるという説は嘘ではないか、

精神生活が無為のうちに尽きてゆくことを恐れなくてもいいのではないか、

常に変わらぬ孤独に愛着をおぼえるのはあまりに危険ではないか、

遂げられなかった夢がふたたび若返ることなどないのではないか、

知性に依存する立場に正当な論拠を与えることは不可能ではないか、

面目躍如たるものがある反逆的行為など幻にすぎないのではないか、

国家権力がもたらす害毒の呪縛を脱することなど無理ではないか、

という
そんな結論にもならない結論が
速乾性の接着剤のように急激に固まりつつあった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻553頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月27日(水)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ー「ラウンド・ミッドナイト 風の言葉」(田畑書店)に採られていた言葉を発見!
このフレーズには定時制高校の生徒も惹きつけられていたと思い出す!ー

津波を生きのびた青年が無人の被災地で遭遇した死体。
それは自分のドッペルゲンガーだった。
おのれのドッペルゲンガーを葬ろうとして、もう一人の自分と対話するうちに前向きになってくる……
そんな場面。

さて、この箇所で丸山文学の素敵な言葉を集めた「ラウンド・ミッドナイト 風の言葉」(田畑書店)に採られている言葉を二つ発見。


「罪のうちに埋没する世界」と「おれがおれを生きるのに誰に遠慮がいるものか!」の二つだ。

「ラウンド・ミッドナイト 風の言葉」は弾き語りのthetaさんと言う方が言葉を選び、歌にされている。

thetaさんが歌う「ラウンドミッドナイト 風の言葉」を、いぬわし書房さんが素敵な動画に作成されたものがあった。リンクを下の方に貼らして頂く。

ちなみに、かつてこの歌を勤務していた夜間定時制高校のクラスの生徒に聞かせたことがあった。

生徒それぞれに、心に響く歌のフレーズがあるようだった。

引用箇所の「おれがおれを生きるのに誰に遠慮がいるものか!」と言う言葉は、断トツで定時制の生徒たちの心を捉えていた。

中には、この歌の歌詞に「(丸山先生のことを)尊敬します」ときっぱりと断言した生徒もいた。(非常に辛い過去と現在を生きる、尖った眼差しの生徒であった)

夜間定時制高校の生徒たちは過半数が外国籍の親のもとに育ち、非常にハードな人生を歩んできた者が多い。
そうした生徒たちの心を捉えるとは!と驚いた……。
丸山文学は、アプローチ次第では、厳しい状況の若者の心を捉える力だってある。
難しいと決めつけないで、もっと色々な人が読んでくれたら……と願う

そこで、

罪のうちに埋没する世界と
墓場へと急ぎ立てる嘆かわしい現状に抗して
自己の生存競争を遂行するという、

生の先頭に立って
独自の価値を熱望する
かくのごとき者を演技しながら
重大な経験によって鈍くなった曇りのない心を四方八方に飛ばし、

ややあって、

どうでもいい古い過去の追憶といっしょに
凡庸にして立派な訓戒のあれこれを視界から遠ざけながら
しこたま毒気を含んだ攻撃的な姿勢に切り替え、

目下推進している事態を正当に評価しつつ
「さあ、なんでもござれ!」
だの
「まさにこの時においてなすべきことをなせ!」
だのという
肉弾戦の先陣を切る者のように雄々しい
おのれ自身の力強いひと声で心を奮い立たせ

「おれがおれを生きるのに誰に遠慮がいるものか!」
という
古き良き時代の産物である
正当な権利に基づく主張を幾度もくり返した。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻537頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月26日(火)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む
ーひとつの文のなかに込められた問いかけやら比喩やら思索にときめいてー

以下引用の文はこれで一つの長い文。

まず、読み手の心を誘いかける「時はもう夕暮れ」という柔らかな響きの言葉で始まる。

そして作者の思考を感じさせる「横暴を生む母体」「罪の舞台」という言葉が、読み手に問いかけてくる。

ため息をつきたくなったところで「生彩と独創性に満ちた清夜」と言う美しい言葉に気を取り直す。

「骨灰を思わせる真白き月」と言う思いがけない比喩に、読んでいる私の感情も一気に高ぶる。

その勢いで「陳腐な価値評価が異様なまでの高まり」と言う謎に満ちた言葉も理解したかのような幸せな誤解に包まれる。

丸山先生の思考に裏打ちされた言葉を完全に分かったとは言えないけれど.…。
「星影の表現が不明確で粗雑」「豊麗な星々が押し合いへし合いする」「天啓のごとき雰囲気を具えた流星」「没落の未来」「底意地の悪い将来」「命の環状線」「沈黙に侮辱されながら」
……と宝石箱から溢れたような比喩の数々を愉しむ。

そうこうしているうちに長い文も終結となって、「生と死のいずれが存在の実相」という謎めいた問いかけの語句で、この文は終わる。

たった一つの文を読むだけなのに、宇宙の奥まで、思考の深淵まで旅した気分になる……そんなときめきを感じた。

時はもう夕暮れ
日も落ちようとしており、


やがて、

たとえば心無い因襲の徒に具わりがちな不滅の活力に支えられ
横暴を生む母体としての
あからさまな罪の舞台にあって、

万事よしと自信をもって判断できるほどの
生彩と独創性に満ちた清夜を迎え、

すると、

骨灰を想わせる真白き月の下で
世界は公正であるとする陳腐な価値評価が
異様なまでの高まりを見せ、

どんなに星影の表現が不明確で粗雑であっても
べつにこれといった不都合は感じず、

おかげさまと言うかなんと言うか
狂気染みた情熱に恵まれたこのおれは、

偏在性への漠然とした懐疑や
移ろいやすい超越主義が無制限にあふれて
豊麗な星々が押し合いへし合いする
宇宙の大偉観に圧倒され、

ゆえに、

あたかも天啓のごとき雰囲気を供えた流星が
没落の未来を暗示することなど間違ってもなく、

過去をもう一度生き直さざるをえないような悲しみに包まれるという
大きな錯誤が永続的に作用することもなく、

ひどく底意地の悪い将来によって
自己依存の行き着くところが呑みこまれてしまうこともなく、

好むと好まざるとにかかわらず
命の環状線を一巡して
沈黙に侮辱されながら帰途に就くしかないという
そんな無防備な孤立状態に気づかされてうんざりすることもなく、

また、

生と死のいずれが存在の実相であるにせよ
それ式のことではもはや驚かなくなっていた

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻495頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月25日(月)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む
ー自分のドッペルゲンガーを前にした時に思い出されることを言葉にすればー

津波から助かった青年が無人の被災地をさすらううちに、自分の家にたどり着く。
我が家の新台には、裸で男が死んでいた。
よく見れば、その死んだ男は自分自身だった……。

以下引用の長い、でも一つの文は、そんなドッペルゲンガーを見つめ埋葬を決意するまでの、青年の心に思い浮かんでくるあれこれを語っている。

長い文の最初は「波打つ草のごとき切なる追想に耽りつつ」と引き込むような美しい言葉で始まる。


そして続くドッペルゲンガーと「たわいもない局部的な過ちの染みについて」交わす会話。
その内容は具体的には書かれていない。
そのかわりに「たとえば」と繰り返すことで、読み手の方でイメージをどんどん膨らませていくことができる。


そう、一番最後の「たとえば」だけ、「娼館を女手ひとつで切り回していた育ての親」とやけに具体的なのはなぜなのだろうか?
読み手の意識を現実に引き戻す合図だろうか?

一つの文の中に、作者の意図が色々働いている気がする。

しばしのあいだ、

波打つ草のごとき切なる追想に耽りつつ
たわいもない局部的な過ちの染みについて
もうひとりの自分かもしれぬそいつを相手に無言の語らいを始め、

たとえば
神格化が可能なほど絶対的な孤立、

たとえば
おのれの涙にまみれた明けの明星、

たとえば
本来の人間に帰するための動と反動、

たとえば
中間的な存在である万物がもたらす粗雑な結果、

たとえば
八方の境界を超えてほとばしる新しい眺望、

たとえば
憎しみが恍惚に昇華してしまう光明なき時代、

たとえば
逃避を許さぬ荒涼たる空虚、

たとえば
娼館を女手ひとつで切り回していた育ての親、

そんなこんなを
思いつくままに喋りまくったあと、

地面の下が本当にふさわしいかどうか
念入りに再確認しようと
もう一度遺骸の前にしゃがみこんだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻455頁)

丸山先生も、短歌の福島先生も共通するお叱りのフレーズは「それは説明的すぎる」という言葉。

わかりやすく書くのではなく、かけ離れた語と語を結びつけてイメージの花束を読み手に差し出す……ことを理想とされているのではないだろうか。
読み手は、差し出された言葉の花束を自分の思考回路に流して自由に造形していく……という読み方を、丸山先生も福島先生も理想とされているのかもしれない……とふと思った.

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さりはま書房徒然日誌2023年9月24日(日)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ードッペルゲンガーの存在に疑念を抱かせない語り方ー

若い頃、歌人・高瀬一誌から指導を受けた歌人(福島先生ではありません)にこう教えて頂いた。
高瀬一誌が常々言っていたのは「他人と似ていない歌をつくれ」との言葉だと。
高瀬一誌に指導を受けたその方は「短歌は長くつくっているうちに自分の文体ができてきます」とも励ましてくださった。


小説でも、文芸翻訳でも「他人と似ていない」「自分の文体」ということは、あまり大事にされていない気がする。
(今の厳しい出版社サイドにすれば、少しでも多く売れてくれる……だけで精一杯なのかもしれないが。)

だが丸山先生も、そういう視点をすごく大事にされていると思う。

丸山先生の今の文体は、「丸山健二」という名前がなくても、一目でパッと「丸山先生の文だ!」と分かる。


そして私も、丸山先生とも似ていない自分の文体を作らなくてはいけない……とは思うが、いつになるやら。

でも「他人と似ていない」「自分の文体」を目指すところが、短歌や散文を書く醍醐味であり、苦労なのかもしれない。

さて「我ら亡き後に津波よ来たれ」だが……。

津波を逃れた青年は無人の被災地をさすらううちに、見覚えのある我が家にたどり着く。
中に入れば、寝台には裸の男。
よく見れば、男は死んでいた……
さらによく見てみれば、死んだ男は自分自身。
自分のドッペルゲンガーを見ているのだった。

そんなドッペルゲンガーとの出会いにつづく文は、不思議な状況に疑念を挟む隙を与えないような、格調の高い文だと思う。

「獄門が閉ざされてから吹き渡る」「上々吉の風」「異形の風」「裁きの庭のごとき」「夜々草のしとねに伏す悲しみ」「静かに輝く草原というたぐいの夢さえ尽き果てた現世の暗闇」……と畳みかけられたら、ドッペルゲンガーがたしかにいる気になってくるではないか!

また
ほんの少し視点を変えれば、

獄門が閉ざされてから吹き渡る上々吉の風とは真逆の
異形の風に導かれて可能になったこの異様な出会いは
永遠に未熟な魂同士の融合と言えるのかもしれず、

さもなければ
震撼の世におけるただ一度の歓喜の巡り合いということなのかもしれず、


早い話が、

特異な性格を具えた異端者同士が
生々躍動する秩序の崩壊にあまねく覆われた
あたかもたじろぐしかない戦いの場のごとき
もしくは裁きの庭のごとき
この被災地に濃い影を落としていることになるのやもしれず、


そして今後は、

夜々草のしとねに伏す悲しみを負う胸のうちをぶちまけ合い、

互いに赦し合い、

心地よい孤独を知覚し合い、

肝胆をかたむけて一夜語り合い、

思い詰めた瞳の奥に折り重なる言葉の影をつぶし合い、

大気に孔をうがつほどの光の狂乱を夢見合い、

天高く輝く魂の避難所という幻想を徹頭徹尾無視し合いながら、

静かに輝く草原というたぐいの夢さえ尽き果てた現世の暗闇を
手に手を取ってさまようことになるのかも知れなかった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻407頁)

ただしドッペルゲンガーも登場してやや経過すると、だんだん語り方が砕けたものになってくる。
おかげで青年や読み手とドッペルゲンガーとの距離が、縮まったようにも思えてくる。
それからドッペルゲンガーとの距離を喩える表現の連続「遠方の恋人同士」から始まる文も面白いなあと思った。

早い話が、

おれはどこまでもおれでありつづけ
そ奴はあくまでそ奴でありつづけ、


相手はというと、


無に等しい罪深さしか知らぬ
未確定な未来への到達を心待ちにし
常に喜びもまたひとしおといった面貌の
死後の幸福までまんまとせしめてしまうような楽天家であり、


当方はというと、


夢見ることもあたわぬ
怒るにつけ悲しむにつけ眼下に心の碧譚を望むしかない
そうであればこその苦境に追いこまれつづける
流竄の詩人であって、

ともあれ、


両者はそれ以外の何者でもなく、

遠方の恋人同士のように、

離婚して久しい男女のように、

別々の飼い主に引き取られた仔犬のように、

暗黒の空間ですれ違う小惑星のように、

互いに干渉し合う必要などない存在だった。


(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻421頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月23日(土)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ーひとつの文が長い記憶の旅路にも思えてー

1966年の「夏の流れ」から五十年の年月を経ての作品「我ら亡きあとに津波よ来たれ」
両作品の文体の違いに、「我ら亡きあとに津波よ来たれ」の文体に到達するまでの丸山先生の文体への試行錯誤の過程を思う。

「夏の流れ」の簡潔で、引き締まった美しさのある文。

そして「我ら亡きあとに津波よ来たれ」以下緑の引用文は、これで一つの、実に長い文である。

津波を生きのびた青年の意識をかけめぐる記憶の流れのような、目前にひらける海原のような、たゆたう流れを感じる素敵な文だと思う。

この長い一文の始まりは、「月光の金杯を満たす沈黙の語りとは似ても似つかぬ」という魅力的な語の組み合わせだ。
意味は定かに分からないながら、素敵な響きにあっという間に文に引き込まれる。

そして丸山文学によく出てくるテーマである「もうひとりのおれ」とのやりとりが出てくる。
「船上と岸壁で互いを呼び交わすような無意味にして虚しい押し問答」という文で、絵画を見るかのようなイメージ喚起力で「もうひとりのおれ」とのやりとりが喩えられている。

そして「もうひとりのおれ」にかき乱される記憶が悶々と文の闇間に散る。

長い一文の最後は、「いちいち未来に楯突く明日を思わぬ心といっしょに無窮と無限を孕んだ玻璃の海へと」
なんだか心がスーッとする言葉がきて、浄化された思いになってようやく一つの文を読み終えた。

丸山先生が一つの文を書くのに込めた思いを想像し、そうした時が凝縮された本がずしりと重く感じられてくる。

すると、

月光の金杯を満たす沈黙の語りとは似ても似つかぬ
自分に都合のよいときだけくどくどしく述べ立て
結局はぼやきで終わりそうな
呆れ返るほど単調な物思いが始まり、

それから、

うすうす感づいているおのれの不気味さと
幾多の謎を投げかける胸に咲く花を誰よりも強く意識した
もうひとりのおれとのあいだで
船上と岸壁で互いに呼びかわすような
無意味にして虚しい押し問答がくり返されたものの、

相手をへこますどころか
逆に言い負かされてしまい、

ひとしきりの沈黙の後、

まるで十年ぶりの再会に匹敵しそうな
官能とたわむれるしかなかった青春の放胆さに直結する
まことに奇妙な懐かしさに奇襲されて
不覚にも落涙しそうになり、

不幸と欠乏に付きまとわれっぱなしの生来的な自然人として
今もなお遁走の真っ最中であるおのれの体内に
望んでも得られぬ定めや
することなすこと裏目に出るという汚辱が
トラックに轢かれた蛇のようにのたうっていることが再認識させられ、

それでもなお、

いつまでも経済的に自立しないせいで
消費からの解放という理念が際限なく無価値なものとなるような
延々と切れ目なしにつづく灰色の日々のなかにあって、

借り物の力に復してしまわないほどに、

スノビズムからの解放を必要とする世俗世界の秩序を黙殺できるほどに、

いっさいの敬慕の念を頭から振り払えるほどに、

神仏に化託してみずからの心情を語れるほどに、

心を強化してくれそうな人生の慰めを求め、

また、

ひとえに絶望的な混乱をはっきりと物語る陸を離れたい一心から
いちいち未来に楯突く明日を思わぬ心といっしょに
無窮と無限を孕んだ玻璃の海へと
どこまでも強情を張りそうな
恐ろしいまでに血走った目を飛ばすのであった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻361頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月22日(金)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む
➖死を悼む万物の声を喩えるなら➖


津波から助かった青年が誰もいない地を彷徨う途中、心に聞こえてくる言葉……。
死者の言葉だろうか?それとも死者を悼む万物の言葉なのだろうか?

以下、緑の一番目の引用箇所について。
津波でみんな死んでしまった……を散文で表現すると、「平等この上ない死を理詰めで肯定し あっという間に生命線を断たれてしまった」になるのかと思い、そう書くことで伝わってくる感情を考えてみる。

「平等この上ない死を理詰めで肯定し」で逃れられない感がひしひしと迫ってくる。

「あっという間に生命線を断たれてしまった」で命のあっけなさ、無情さに胸が締めつけられる。

「遠雷」や「舟唄」「家鳴り」「つぶやき」の比喩が「のように」と繰り返されることで、悲しみの声があちらこちらから谺するような気がしてくる。
比喩の言葉の思いがけなさも面白い。「舟唄」や「家鳴り」に喩えるとは!


「非難の的の透明性を濁らせるつぶやきのように、」という一文がすごく気に入って、今日の文を書こうと思った。


切なくて不合理なイメージが湧いてくるけれど、具体的に何か……自分の心に作用する過程をきちんと説明することはできない……そして正確に説明はできないけれど、心に何かが伝わってくる、こういう表現が私は好き。


「分かるように文章は書きなさい」という実務志向の世の流れには逆行するのだろうけれど。
明確に説明はできないけれど、心がいいと叫びたくなる表現はいいのだ。

息をとめて心耳をかたむければ、

平等この上ない死を理詰めで肯定し
あっという間に生命線を断たれてしまった
目に見えない人々の生涯を飾る最期にふさわしい魂のこもった言葉が、

山の彼方で轟きわたる遠雷のように、

水路を巡りながら口ずさまれる舟歌のように、

歴数千数百年を経る古刹の家鳴りのように、

非難の的の透明性を濁らせるつぶやきのように、

ほんのかすかに聞こえてくるのだった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻302頁)

以下、二つの引用箇所は丸山先生の考えがよく現れて魅力的な箇所と思う。

一つめのところ……。

震災のせいで国家が瓦解したら、個人を抑えつけていたものが取っ払われるのだろうか? 
それとも丸山先生ご自身もよく言われるように、天災に乗じて国家が好き勝手に抑えにかかる方向に進むのだろうか?

「断固たる民意という列柱」という言葉も重い。今の日本のように望ましくない国家を支えているのも民意なのだろうか……と。


断固たる民意という列柱によって支えられた
国家的な目標という大屋根が取っ払われたせいで
個人の自由を留保しつづけてきた権威主義が溶解し
情熱的にして騒然たる時代の幕開けが強く予感され、

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻323頁)

次の引用箇所。
ラジオを見つけた青年がスイッチを入れても何も聞こえてこない……という場面。
まさに今の日本絶望をそのまま語っているような文だと心に残る。

つまり、

真っ当な希望に裏付けられた至高の統治者の登場など夢のまた夢でしかない
無定見にして無節操な経済力に支えられ
無知の代償としての間断なき堕落にさらされていたこの島国は、

可死的な存在という色合いに塗りこめられて
人間における反動物的なただひとつの側面である
無気力という精神上の危機を迎え、

各人がおのれの持ち場を放棄するという反社会的な自殺によって
未来を拒否する弱小な国家に成り下がってしまったのかもしれず、

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻341頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月21日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

かけ離れた語と語なのに、ぴったり結びつく比喩の愉しさー

丸山先生に比喩のことを何やら訊いたとき、「これからもどんな比喩が生み出せるか挑戦はずっとつづく」的なことを言われていた記憶がある。

丸山先生の考える思いがけない比喩を目にすると、日常のグダグダした思考からバッサリ切り離してくれるようで、私は爽快感を感じる。

でも比喩のウルトラCに「ついていけない」という思いの読者も多くなってしまったのかもしれない。

ただ「黒死館殺人事件」の中で、小栗虫太郎もギリシャの哲学者の言葉として「比喩には隔絶したものを選べ」と書いている。

結びつかないものを言葉の力で結びつける発想力……が、詩歌や散文を読んだり、書いたする楽しみの一つだと思う。

残念ながら、実用的な文章読解力要請を目指すという昨今の国語教育を受けてきたり、心地よくストレートに感動できるアニメだけで育ってしまうと、こうした比喩の面白みが分からない人が多いのではないだろうか……と残念に思う。

私も理解できたとは言えないけれど、丸山先生ならではの比喩に心惹かれ、答えは出ないけれどなぜこうなるのだろうと、せっせと駄文を連ねる。

さて以下引用部分は、津波から助かった青年の心境が海辺へと降りてゆく途中でだんだん変わる過程を書いている。

「急務でも背負う」と「こけつまろびつ」でよろよろ海へと下る姿が浮かぶ。

「危ない状況から生まれた忌まわしい怪物」で津波に衝撃を受けた青年の姿が見えてくる。

「はてさて、」で軽やかに風向きが変わる。

「発酵状態にある」「良識」も「有機的な」「心情」も目にしない語の組み合わせなんだけど、こうして結びつけると強く頷ける表現。

「ありうべからざる」と「正しい位置」の組み合わせも強烈に心に残る。

「死者と」「紙一重の」「倦み疲れた心身の持ち主」も新鮮な言葉の組み合わせだけど、思いがひしひしと伝わってくる。

「サンドブラストに掛けられた鉄錆のように」「きれいに滅しかけたのだ。」という組み合わせも鮮やか。
サンドブラストで始まるこの一文が好きなので、今日の文を書こうと思った次第。

すると、

あたかもより本質的な当面の急務でも背負うかのようにして
こけつまろびつしながら海へと近づいて行くおれ自身が、

かくもふさわしい状況のもとで
実在の一定の調和を保っているかのように思え、

さもなければ
危ない状況から生まれた忌まわしい怪物にでもなった気分で、

はてさて、
その根拠についてはまるで想像つかないのだが
少なくともかつては存在しなかった人生の幸福な瞬間を感じていることは確かで、

発酵状態にある良識と同様
常に有機的な心情を胸に忍ばせながらも
これまで疎んじられてきた穏やかな感情が勝手にぐんぐん膨張し、

ついで、

存在の基準を自己のうちに持つゆるぎない立場がはっきりと自覚され、

共存不能なものなど皆無であることがつくづくと思い知らされ、

どこまでも意味に即した迫真の観念が充分にありうるものとして解釈され、

連綿とつづく精神性の上昇発達がとてもあざやかに認識され、

ありうべからざる正しい位置につけたような心地になり、

きのうまでは死者と紙一重の倦み疲れた心身の持ち主だった記憶が

跡かたもなくかき消され、

かくして、

苦痛と死をもたらす人生最後の問題にはありがちな
精力を消耗するばかりの息が詰まる思いも、

サンドブラストに掛けられた鉄錆のように
きれいに滅しかけたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻287頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月20日(水)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ー平仮名の副詞を多用するか、漢字を多用するかで文体の印象が違ってくる気がするー

大津波を逃げのびた青年が、周りに生者が誰もいない状況で、徐々に落ち着きを取り戻して物思う場面。

このとき青年の心を駆けぬける思いの数々、
「国家にがんじがらめに縛りつけられていない」
「集団社会がもはや成り立っていない」
などは丸山先生が大事にされている考えとも重なる。
災害ですべてが崩れたとき、こうした考えが蘇るかどうかはわからないが、でも心に響く言葉だと思った。


引用箇所は同じ箇所からだが、途中で色を変えてみた。
写している途中で、前半、後半で文体が少し違うかも……という気がしたのだ。

前半紫字部分は「きれいさっぱり」「がんじがらめに」「もはや」「あっさりと」などの平仮名の副詞が文の色合いを深め、スピード感を増しているような感じがした。

後半赤字部分は、多用されている漢字のせいで、しっかり確立してゆく精神が表現されている気がしたのだが……。

ひいては、

自由を支配する普遍的な秩序がきれいさっぱり消え失せていることに気づき、

がっちりと形成された国家にがんじがらめに縛りつけられていない立場を思い知り、

個人を堕落させて窒息させる集団社会がもはや成り立っていないことを発見し、


さらには、

これまでしがみついてきた歪みのない尺度のあれこれをあっさりと棄て去り、

再評価すべき頑強な精神力に期待したくなり、

辺鄙な土地でくり広げられる粗雑な人生がそうでないものに感じられ、


そして、

野蛮な状態へ投げこまれた無用ながらくたという自覚がすっかり影をひそめ、

精神の存立に必要不可欠な感覚的世界が一段と輝きを増し、

孤独への倦怠を恐れながらも自己に専念することが可能に思え、

思考の細部の価値を捨象する作用が働き始め、

生の糸を切断しかねない無力感の残渣がすっとかき消えたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻235頁)



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さりはま書房徒然日誌2023年9月19日(火)

藤原龍一郎「歌集 202X」を少し読む

ー社会への大きな問いかけ、近未来或いは現在を語るSF的物語性に富んだ刺激的な歌にドキリとするー

2020年に刊行された歌集。

現代の日本の状況を糾弾し、読み手に大きく問いかける歌であふれている。

折にふれて頁をひらいては、鈍磨しがちな情けない己に喝を入れたくなる……そんな刺激的メッセージに富んだ歌集である。

短歌がこんなに社会に問いかけてくるものだとは……福島泰樹先生の歌にも、藤原龍一郎氏の歌にもメッセージ性の強さに驚く。

監視されている不気味さのある現代社会を詠んだ幾首かの歌、お洒落だけれど不気味さのある装丁(真田幸治)がとてもマッチしている。

ちなみに真田幸治氏が、こんなに不気味感のある装丁をされるとは思わなかった。でも不気味だけどセンスのいいところは、さすが真田幸治氏だと思う。

以下藤原龍一郎「202X」より引用
監視社会への懸念、問題意識がひしひしと伝わってくる。

夜は千の目をもち千の目に監視されて生き継ぐ昨日から今日 (11頁)

明日あらば明日とはいえど密告者街に潜みて潜みて溢れ (11頁)

詩歌書く行為といえど監視され肩越しにほら、大鴉が覗く (17頁)

スマホ操る君の行為はすでにしてビッグ・ブラザーに監視されている
(52頁)


反知性、思考停止の隷従の君はビッグ・ブラザーに愛されている (53頁)

上記引用の歌のなかでも、「肩越しにほら、大鴉が覗く」という結句の歌について……。

ポーの大鴉からくるイメージ性で心象風景が広がり、さらに「肩越しにほら」「覗く」で不気味さ、黒いユーモラスが際立つ。
「、」の句点で思わずドキリとする。
不気味だけれど物語性に富んだ歌だと思う。


この歌集については、まだ語りたいことは多々。それはそのうち後日に。

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さりはま書徒然日誌2023年9月18日

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

➖天気の急変の描写に社会への思いを重ねた比喩の面白さ➖

大津波から助かった青年が見つめる星空の空模様が、だんだんあやしくなってゆく。

天気の移り変わりにかぶせるようにして、あっけなく崩壊してゆくこの世の思想のあれこれを列挙して畳みかけてくる。

そうした喩えのイメージから聞こえてくる音、伝わってくる不穏な気配が、雷雲が近づく空模様と重なって読み手の心に揺さぶりをかける。

喩えの一番最初に「政府なき自由」がきている。
個人がそっと心の中で国家に背を向ける「国境なき意思団」という考えが大切……とよく語られる丸山先生らしいと思う。

あれほどまでに澄みきって晴れ渡り
流星群が光の鎖をなして降り注いでいた
深い瞑想による清らかな暮らしをどこまでも支えてくれ
単独の人間の行為のうちにいつまでも安んじていられそうな夜空が、

政府なき自由が嵐を巻き起こすという、

魂の炎さえ絶やさなければ恒久的に生を燃え立たせられるという、

真に恐るべきは群衆のなかの一員に堕することであるという、

辛抱強く待ち望めば道徳的な生活は実現するという、

人の心の善良性は思うがままに疾走するという、

精神の欠如によって命の影が薄まるという、

理性に反する美は死に絶えるという、

体勢への順応主義は去勢されるという、

悪が生の揺籃の役割を果たすという、

そうした種概念の
得手勝手な主観の持つ理念のように
どんどん怪しくなっていった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻171頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月17日(日)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

➖怒れども文に美しさが残る理由➖

大津波で助かった青年が矛盾だらけの社会に見切りをつけ、一歩踏み出す場面。

丸山文学の魅力の一つは、ふだん不平不満に思っている社会への怒り、疑問を、丸山先生が見事に言葉にしてくれる点にもあると思う。
こんなに私の怒りを代弁してくれる書き手は余りいない気がする。

ただ「次の自民党総裁にふさわしいのは?という世論調査の一位が小泉進次郎、二位が石破茂、三位が河野太郎」という時代である。
以下、引用箇所を読んでも、まったく心に響かない人の方が多いのではないだろうか?
たぶん圧倒的に読む人が少ないだろう状況でも、ビシッと書いてくれる姿勢に感謝する。

それから、
途方途轍もない不平等な状況がもたらす
ただただ落胆するほかない徒労感でいっぱいの
たわいのない老衰した社会と、

前世紀に一大勢力を築き損ねた帝国の悪夢に未だ毒されている愚民たちの
あまりに強過ぎる民族感情こそが却って国家の価値を低めるという
常識中の常識を無視した
命取りにもなりかねぬ品性のいやらしさを持て余したあげくに、

自由の精神を窒息させる異様に肥大した非人間的な機構に愛想を尽かし、

特権階級の奉仕者たちときっぱり袂を分かち、

欲望を騒然とさせるしか能がない都市景観に見切りをつけ、

政治的幻想でいっぱいの不毛の領域に別れを告げ、

絶対者をあっさり容認してしまう大衆の理性に背をむけ、

文明と人種の運命を決定する痛ましい危機を予感し、

停滞期に入って久しい人知の全部門から身を離し、

寄る辺ない身の上を恐れるにはおよばないと決めつけた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻162頁)

ただ、こういう内容の文を私なんかが書くと主義スローガン調になって、散文の面白さが消えてしまいがちで難しい……と思う。

「我ら亡きあとに津波よ来たれ」言いたいことは心に残るようにしっかり伝えられつつも、散文の美しさが残っている理由を考えてみる。

「途方途轍もない」と大袈裟に、漢字の圧力で不平等感を強調されている気が。

「たわいのない」と「老衰した」が「社会」にかかっているのも、どんぴしゃりと死にゆく社会のどうしようもなさを巧みに表現している感がある。

「絶対者をあっさり容認してしまう大衆の理性に背をむけ」という文も、「あっさり」という一語から、丸山先生の感じている歯痒さ、苛立ち、皮肉が伝わってくる気がする。

憤りを書く時であっても、こんな風に言葉と言葉を見えないところで複雑に結びつける冷静な視点が働いている。
それが読む者の心をグラグラ揺さぶるのではないだろうか?

それから、特にこういう文を書くとき、難じる分だけその人の心根が上から目線とか、はっきり見えて嫌になってしまうことがある。

丸山先生の場合、「痛ましい危機」の「痛ましい」に、「寄る辺ない身の上を恐れるにはおよばない」という文中の「寄る辺ない」に、寄り添おうとする気持ちを感じるから、しみじみと心打たれるのかもしれない。


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さりはま書房徒然日誌2023年9月16日(土)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ー寄せては返す波のうねりのような文体を愉しむー

丸山先生はよく「散文は本当は詩歌に劣らず凄いものなんだ」と悔しそうに言われる。

下記の引用箇所に、私でもそんな散文の凄さを感じた。

読み手がチラ見で理解できるようにと思うなら、「命拾いをしたようだ」「だんだん穏やかになる波の音が聞こえてきた」とワンフレーズで書くかもしれないが。

丸山文学に慣れていない人のために引用箇所ごとに色分けしてみた。最初の紫の引用箇所は、平板に言うと「命拾いをしたようだ」と言う箇所である。

紫の引用部分を読むときの私の心を追いかけてみた。
「心の投影」でウーン、どんな心だろう……と考える。
「おぞましき獄門」でさらに考えはじめる。
ぼんやりした頭を「ぴしゃり」という言葉が襲いかかる。この「ぴしゃり」が効いているなあと思う。

やがて、

命へのひたむきさをもう一歩押し進めて
とうてい人知のおよぶところではない溌剌たる生気を急速に回復し
生者の不可逆的な時間の流れに乗れるところまでどうにか漕ぎつけ、
一種謎めいた物言わぬ動物にでもなった心地で
ふたたび現世の魅力に惹かれてゆくうちに、

詩美にいちじるしく欠ける
心の投影としての
おぞましき獄門が
ぴしゃりと閉じられた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻128頁)

以下、赤字の引用箇所は津波から助かった青年が、だんだん穏やかになる波音を認識する箇所だと思う。

丸山塾での指導されるとき、先生は同じ言葉の使用を嫌う……と言うより許してくれない。
語彙貧弱な私はすぐに言葉が出尽くしてポカンとすることもしょっちゅうだ。
そういうとき丸山先生は優しく、まるでドラえもんのポケットのように、「こんなふうに言うことができる」と惜しみなく秘密の言葉の武器の使い方を教えてくださる……。
そんな丸山先生の講義を思い出してしまった。

ここでは、まず波という言葉が手を変え品を変え、「音波」「音韻」「懐かしい声」と繰り返される。

次に「〜でなく」と否定する形で、「幸福の残骸の摩擦音」「過去のこだま」「絶望の叫び」「良心の叫び」ではない……と否定してみせる。

そして「笑い声」「百千鳥の合唱」「独言」「薄幸のため息」と比喩をパワーアップさせてゆく。

肯定の比喩、否定する形での比喩、さらにパワーアップした肯定の比喩……と文を展開させながら波を表現してゆく文体は波のうねりそのもののようだ……
と、ここの文体に心地よくなる理由を考えてみたが、どうだろうか?


さらには、

失地回復のための魂の自殺をうながす
霊妙なる楽の調べのような
度が過ぎるほど抗しがたい音波に魅了され、

純粋な個人を不断に干渉する音韻にじっと耳をかたむけているうちに
常に危険に身をさらして生きる動物的な精気から一挙に離脱するという
思ってもみなかった鎮静の効果が得られ、

ほどなくして、

心を許した血縁者がおれの名を呼ばわる
なんだか懐かしい声のように思え、
星を頂いた天空の処々方々に
万物は神の影などではないとする
そんな自己発揚の楚然たるきらめきが
無数に星散しているのであった。

だからといって、

過去に呑みこまれてゆくばかりの幸福の残骸の摩擦音というわけではなく、

幽界の人となった者が聞くという過去のこだまでもなく、

飽和点を超えた絶望の叫びでもなく、

ましてや俗耳に入り易い良心の呼び声などでもなく、

むしろそれとは真逆の、

野に遊ぶ小娘たちの切れ切れな慎ましい笑い声や、

常夏の国を想わせる風光のなかでくり広げられる百千鳥の合唱や、

行方定まらぬ二重の意識を持つ屈折者の独言や、

いかな悲しみであっても共有できそうな薄幸のため息……、

そういったものに近く、

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻129頁)

国語教育が実用的な文の理解に重点が置かれるようになった今、こういう文の愉しさを理解する人は非常に少なくなってきているのではないだろうか。
そんな現状を寂しく思う限りである。

それから「星散」(せいさん)という言葉、意味は日本国語大辞典によれば「星が大空にまいたように散らばっていること。転じて、あちこちに散らばること」……なんとも綺麗な日本語だと思った。


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さりはま書房徒然日誌2023年9月15日

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ースッとは分からないけれど、読んでいるうちに心にリズムが生まれる不思議な文体ー

丸山文学を読み始めた当初……

漢字の読みも、意味も分からない言葉があったり(しかも私の場合は結構たくさんあった)、他の作家のなるべく読みやすく……という親切心で書かれた作品とは違って、深い意味を理解するまで、何度も往復して読みを繰り返したり……したものだ。

いや、今でもそうである。

でも多少意味がわからなくても読んでいれば、不思議にも心地よいリズムが生まれてくる。

丸山健二塾で指導を受けているとき、「の」の繰り返しが三回になってしまったことがあった。
文芸翻訳を勉強していたとき、翻訳家から三回「の」を繰り返すな……と教わった記憶がある。
丸山先生に「の」が三回ですがいいのですか……と質問したところ、先生はニヤリと笑って「五回『の』を繰り返すことだってある」言われた。

原著者の言わんとするところをなるべく正確に近い文体で分かりやすく伝える翻訳……。
文体のリズムに自分の叫びを刻もうとする丸山先生の散文への姿勢….
小説の翻訳と創作、両者は根本的に違うのだなと思った。

東日本大震災の被災地を実際に見てから数年後の丸山先生の叫びは、やはりこの文体なのだろう。
ちなみに当然ながら私の叫びはまた全く違う文体なのである….これが散文を書いたり、読んだりする面白さなのかもしれない。

以下の引用箇所は、最後の長編小説「風死す」に発展してゆく文体のような気がする。

丸山文学初めての方のために、内容で色分けしてみた。


紫の部分は、大地震の余震の凄まじさを書いている。
赤字部分は、地震によって否定されてしまう人間らしい諸々を、繰り返し連ねている。
読み慣れるとこの反復によって、リズムが、イメージが生まれてくる。

そのあとを継ぐ、

あたかも
ありったけの元素を強引に融合させてしまうかのごとき
とてつもなく重量感にあふれた大混乱をもたらし、

目もくらむような恐怖を差し招いて
空想上の歴史の到達点を現実のものとしたのかもしれぬ、

永遠の因果律を支える
非人間的で悪魔的な自然界の発作的な大激怒は、

いよいよもって人類滅亡という幻日が昇ったかの観を呈しつつ
およそ生命原理の根底からの崩壊を免れそうにない
恐ろしい必然に支えられた無限なる不幸を象徴し、

さらには、

神仏の意思をはるかに超えて
細心綿密に組み上げられたこの惑星が
無何有の郷には遠くおよばず
結局は砂上に描かれた要塞でしかなかったことを冷ややかに証明し、

また、

自分にできないことはないと高言してやまぬ
断然強い守護者という幻の存在を
にべもない解釈で斬って捨てたあと
陰鬱な後味を残す嘲笑に付し、

それから、

正義の原則なるものを、

我らを導く愚かな期待を、

共通の基盤に立つ世間の通念を、

形而上の世界と気脈通じる最良の日々を、

単に墓に下る者ではない人間らしい人間としての生涯を、

かけそき楽の音のごとき詩的香気を放つ言霊を、

万人のうちに本性的に具わる隣人愛を、

真っ正直に澄みきった知性を、

心を明るく照らす生きた力を、

良く生きるための崇高な善を、

慈悲深い美的行為を、

油然と湧いてくる詩想を、

醜怪な幻として

もしくは
慢性の凶器として
情け容赦なく斥けた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻100頁)

よく分かったとは言えないけど、リズムを感じながら読み進める……という読み方に丸山文学で慣れたせいだろうか。
今度、素天堂さん追悼読書会の課題本「黒死館殺人事件」も筋をよく把握していないけれど、読んでいるうちに不思議なリズムが心に生まれる過程を楽しんでいる気がする。

引用箇所に出てくる「無何有の郷」(むかうのさと)とは、日本国語大辞典によれば「物一つない世界の意味」で荘子に出てくる「架空の世界sw、無意・無作為で、天然・自然の郷。むかゆうきょう。ユートピア」だそうだ。
初めて知った。日本語の豊穣なることよ。

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さりはま書房徒然日誌2023年9月14日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに 津波よ来たれ」上巻を少し読む

ー様々な色が一つの人格をなす人間はステンドグラスさながらの存在ー

丸山健二塾でご指導頂いているときに、「この人物はすごく嫌な人間なのに、そういう風に表現すると嫌な部分が減ってしまうのでは?」と質問をしたことがあった。

丸山先生は「こういう人間だ……と決めつけて書くのはすごく古い書き方で、色んな矛盾をはらんだ存在として書くべき」というようなことを答えられたと思う。


丸山作品を読んでいると、やはり一人の人間の中に色んな面を見いだそうとする視点を感じる……。

たとえば「我ら亡きあとに 津波よ来たれ」で、大津波にのまれて三日間さまよいなながら、主人公が己を語る言葉も実に多様な姿を映している。

そんな自分のことを、

無責任な影法師に見せかけたがるやくざな根なし草、

あらゆる無法な特権が許される狂人、

他人に嫌悪を催させる
情の深い清廉な人物、

自身が国家であるという普遍的な叫び声を発する
熱烈な激情を秘めた道化役者、

青春の日は翳ってもなお心湧き立つ
反逆的な激情の持ち主、

どこまでも楽な暮らしをしたがる
根性の腐った奴、

常に万人と共に在る
夢見るような自由人、

それほど厄介ないつまでも超脱できない自分自身にのみ服従する
真っ正直と言えば真っ正直な無能な人種へと、

安産の過程のごとく
じつになめらかに移行してゆくのだった

(丸山健二「我ら亡きあとに 津波よ来たれ」上巻75頁)

人間とはステンドグラスのように様々な相反する色をはらみつつ、調和して生きる存在なのかもしれない。

写真は2枚とも、パリのノートルダム大聖堂のステンドグラス。

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さりはま書房徒然日誌2023年9月13日(水)

1969年11月3日、三島由紀夫が国立劇場屋上で楯の会のパレード行進を挙行。
そのときに小劇場で上演されていた文楽の演目は?


今日は国立劇場で文楽1部、2部を鑑賞。
今月で建て替えのため、この劇場は長い歴史をいったん閉じる。


劇場が建てられて間もない頃、三島由紀夫が国立劇場の屋上で楯の会結成一周年記念のパレード行進をした……という話を聞いたことがある。
いくら三島由紀夫とはいえ、よくぞ国立劇場が屋上を解放したものだ……と思っていた……。

だが、やはり許可をもらって……という形ではなかったようである。

パレードを行った1969年当時、三島由紀夫は国立劇場の非常勤理事をしていた。
さらに三島が書いた『椿説弓張月』を国立劇場で11月5日から上演することになっていた。
当然のことながら、三島は足繁く国立劇場に通っていた。


1969年5月には、国立劇場の技官に頼んで3階の屋上に通じる鍵を開けてもらい、歩いて時間をかけて屋上の広さやらを測って下見をしていたらしい。
1969年11月3日、三島は2日後に上演を控えていた自作『椿説弓張月』の舞台稽古に立ち会っていた。

だが途中で「あとはよろしく」と姿を消した。

そしてその日15時、三島は楯の会会員80人、来賓50人を連れて国立劇場3階から屋上に通じる人一人がやっと通れる階段を登ってパレードを挙行……したのだそうだ。
大劇場は、三島の『椿説弓張月』の舞台稽古中であった。


ちなみに小劇場の方は……
文春オンライン記事によれば「上演中だった下の小劇場では、照明器具を吊るす細長いバトンが揺れて、ライトの当たりが狂って大変だったそうです」とのこと。


この日、小劇場で上演中の演目は?と調べてみると、文楽「本朝廿四孝」が大序から道三最後までフルに通しで上演されていた。
今の演者の方で、三島が屋上でパレードしていたときに舞台に出ていた方は?と調べてみたら、和生さん、清治さん、呂太夫さん、団七さんは出演されていたようである。

今月、幕を閉じる国立劇場。
その長い歴史の中で、こんな出来事もあったのか……。

舞台では「本朝廿四孝」の狐火が縦横無尽に踊り、屋上では軍服を着こんだ縦の会会員が整列歩行をする……。
そのとき国立劇場の建物は、どんな思いで相矛盾する人間界を眺めていたのだろう?

国立劇場の長い歴史を思いつつ……

三島がパレードをするその下で舞台に出ていらした演者の方々が、今日も元気に舞台をつとめている文楽のパワーというものに驚嘆する次第である。

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さりはま書房徒然日誌2023年9月12日(火)旧暦7月27日

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を途中まで読む

ー死で、溺れゆく者たちで始まりてー

(絵は「出雲日乃御崎」川瀬巴水 出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」より )

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」を読了し、次に読む丸山健二作品はどれにしようか……と考えた。

ずっと丸山健二文学を読んできた歴史の長いファンとは違って、私は四、五年くらい前に読んだ「争いの樹の下で」が初めて読んだ丸山作品だ。

どちらかと言えば、読む人の多かった初期作品よりも、「ついていけない」とそれまでの読者が離れていった後期作品の方が好きである。読解力があるというわけではないが。

ただ後期作品の方が幻想味が強くなって、言葉が一段と研ぎ澄まれている感があると思う

まだ読んでいない丸山作品はたくさんあるのだが、後期作品の「我ら亡きあとに津波よ来たれ」(2016年左右社より刊行)を読むことにする。

おそらく東日本大震災を念頭に書かれた作品ではないだろうか。
大津波の場面ではじまる。

最初の60頁くらいを読み、てっきりこれは津波で死んだ死者の視点で語られているのか……と思うくらい、死というものが迫ってくる。

だが版元の作品紹介を見ると「養いの親を手に掛け、放浪に身をやつした青年を襲う大津波。三日三晩を生き延びたとき、あたりにはただのひとりも生者の姿はなかった。」とある。
どうやら生き延びた青年の視点らしい。

死者が語っているかと思うくらい、死というものがズバリと語られている。

「死」について言葉を連ねた以下の引用箇所、「たしかに死とはこういうことと思う。

得て勝手な心の遍歴の断絶、
天命を自覚するばかりの人間の営為の終了、
当を得た恐るべき非情、
のしかかってくる存在の解消、
大地に根づかせた命の雲散、
つまり
これぞまさしく
劫初以来逃れる術もない死というものであったのだ

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻35頁)

主人公の青年が大津波にのまれ、ぼんやりとした意識で語られる言葉。
ここで青年が語っているのは、かつて出会った人間なのか、それとも近くの水面を漂う人間の姿なのか……哀しい姿の数々。

ついで、

古色蒼然とした良識の枠に嵌められてしまった者や、

未完成を喜びとするような泥細工の精神が脈打つ者や、

俗悪な欺瞞のたぐいを万人が共有する財宝とする者や、

かなり厳しい条件付きの生殖力を大いに嘆く者や、

涙ぐましい策を弄して飽食の至福を得ようとする者や、

骨の折れる労働の連続によって肉体が崩壊しかけている者や、

幸先よいはずだった人生が初っ端で挫かれた者や、

救いがたい罠に落ちる罪なき者……、

そうしたたぐいの人種にでもなった心地で、

いつしか知らず希望の空費たる夢の迷路に誘いこまれ、

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻43頁)

冒頭からいきなり死が、溺れゆく人間が語られる「我ら亡きあとに津波よ来たれ」だが、このあとはどんな言葉が連なるのだろうか……。



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さりはま書房徒然日誌2023年9月11日(月)旧暦7月26日

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」読了

〜人の思いを読み取る不思議な吊り橋「渡らず橋」を舞台に、現在と過去が、生者と死者が交差する! 幻想文学ファンも殆ど知らない素敵な幻想文学〜

吊り橋「渡らず橋」のもとにクルマで現れた青年。
彼が幼い頃、両親は村を出てしまい、祖父の手で育てられた。
青年が口笛を吹けば、とうに亡くなった筈の父と母が姿を現す……
作者・丸山健二は丁寧に書くことで、そんな不思議に説得力をもたらす。
特に引用箇所の最後「ぐいと」という一語が、不思議を可能にしてしまう力強さがある。


いかにもおぼろげなその様相は、
じっくりと意を配った口笛の高まりにつれて濃密へとむかい、
それから卒然として一挙に凝縮され、
古くもなければ新しくもない、
かなり広い含みを持つ何かが空中いっぱいに満たされ、

ついには、
思いもかけぬこととして、
中間的存在としての万物が構成する次元の限界をあっさり超えてしまう、
絶対に予測しえない驚くべき作用がもたらされ、

なんと、数年前のなお遠くにある過去の一角がぐいと引き寄せられたかと思うと、
結末のない物語にでも登場しそうな、
一抹のお情けをもってしても救われそうにない、
青白く痩せた男女ふたりのまったき姿を、
森の暗闇と非現実の極みの奥からすっと誘い出したのだ

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」395頁)

生きている青年と過去に死んだ筈の両親が向かい合う瞬間……。
以下引用部分の表現に、抜群の説得力と格好良さを感じる。


しかし、
奇しくも、
過去の夜と現在の夜が今宵のこの時にぴたりと重なり合ったという、
厳然たる事実に疑いを差し挟む余地はなかった。

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」400頁)

以下、口笛の響きと時の流れの移ろいを繊細に描く文に、人の無力さを思う。
男親、女親の不甲斐なさ、醜さが最初に書かれているから、若者の口笛の純粋さが心に沁み渡る。


女親の心のすすり泣きと、
男親の自己弁護のつぶやきと、
かれらの子である若者のさまよえる光のごとき口笛とが、
入り乱れて交差する時が素早く流れ、
まもなく、
神秘にしてはるかな響きと化したそれは曇りのない静寂に包みこまれ、

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」408頁)

吊り橋が人間の思いを感じて心象風景を描いたり、死んだ筈の両親を連れてくる口笛、死者と生者の対峙……という不思議の数々を、ぴたりとした言葉によって表現した素敵な幻想文学だと思う。

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さりはま書房徒然日誌2023年9月10日(日)旧暦7月25日

歌人、小説家に共通する思いを心に刻んで

福島泰樹短歌絶叫コンサート「大正十二年九月一日」へ。

一部の最後、ブルガリアの詩人の詩を朗読する前に福島先生は語る。
「日本以外の国では……詩人は尊敬されているんだ。
 言葉という武器をつかって、いち早く危険を表現して、行動して戦うから」

丸山健二先生もたしか同じような趣旨のことを言われたような記憶がある。
丸山先生は「作家は、炭鉱のカナリアだ。
普通の人より早く危険の兆候を察知して、言葉をつかって文にしなければいけない」のだと。


短歌、小説と分野は違えど……
福島先生も、丸山先生も同じような思いを抱いて表現されている……と心に刻む



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さりはま書房徒然日誌2023年9月9日(土)旧暦7月24日

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『口笛の朝まで』を途中まで読む

ーモノである吊り橋が人の思いや過去を感じ取って語り出すという幻想譚ー

吊り橋「渡らず橋」にクルマで近づいてきた見知らぬ青年。
突如、「渡らず橋」に青年の思いや過去が見え、聞こえてくる……。その中には村を離れた者の声も混じっている。
人でないモノである吊り橋に、人の思いが、記憶がなだれ込んできて、吊り橋が語りだすという幻想味が好き。
たしかに吊り橋のグラグラ揺れる感じには、そんな不可能が可能になってしまう不思議さがある。


以下、なだれ込んでくる想いに、吊り橋が最後は「見ようではないか、聞こうではないか」と居直る箇所より。

青年の思いが一方的に「渡らず橋」の心眼に鮮明な映像として置き換えられ、
なお、
含蓄にあふれた生々しい肉声として心耳に響いてはいても、
当人にその自覚がまったくなく、

ただたんに、彼の記憶の底に雑然と積み上げられている、
本来は無形のはずのものが、
無数の多彩な原子のいたずらっぽい混乱から生じる波動となって、
工場地帯の廃液のようにでたらめに流入してくるだけのことなのかもしれず、
よしんばそうだそうしたそとしても、

吹雪もなければ、突風も吹かず、
ひたすら凍てついているばかりの、
まるで死者の国と化してしまったかのような、
退屈な冬の一夜をつくづく持て余す者にとっては、

常識のけじめをきちんと弁えながらも、
そうしたたぐい稀なる珍現象を拒む訳柄などあろうはずもなく、

お望みとあれば、
見えるものはすべて見させてもらい、
聞こえるものは余さず聞かせてもらうだけのことだと言う、
ふてぶてしい開き直りに寄りかかるしかほかにやりようがなかった。

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『口笛の朝まで』332頁)

丸山文学が幻想味に富み、日本幻想作家名鑑でもかなりの行数をさいて語られているのに、実際に読んだことのある幻想文学ファンがとても少ないのが残念でもあるが……。

あまり知られることのない、ひっそりとした輝き……というものが、すぐれた幻想文学の宿命なのかもしれない。

ちなみに「夢の夜から 口笛の朝まで」は、日本幻想作家名鑑よりずっと後の作品なので収録されていないが……。
ここで紹介されている作品より、さらに幻想味が強くなっていると思う。

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さりはま書房徒然日誌2023年9月8日(金)旧暦7月23日

拙い歌ですが……「ゆりかもめ」の歌

今日、提出した私の歌は

ゆりかもめ夢寐(むび)貪るなぬくぬくと哀しみたゆたうフクシマの海

これだと、「ぬくぬく」がかかるのが「ゆりかもめ」なのか「フクシマの海」か分かりにくいと言う助言をもとに、以下のように一字開けてみました。

ゆりかもめ夢寐貪るなぬくぬくと 哀しみたゆたうフクシマの海

あとで書きますが、二年半前に書いた短文の一節「夢寐をむさぼっている」を思い出し、口ずさんでいるうちに「ゆりかもめ」と言う言葉が浮かんできました。

「ゆりかもめ夢寐貪るなぬくぬくと」と考えたところで、「ゆりかもめ」とは?と自分でも考えてみました。

福島の海辺にいる鳥に向かって語りかけているようでもあり……
原発から離れたところで呑気に暮らしている自分に向けての自省の呼びかけでもあり……
また東京都民の足となっている交通機関「ゆりかもめ」を思い出し、福島の犠牲のもとに生活を営んでいる首都圏の人々に「ゆりかもめ」と呼びかけているようであり……。


「夢寐貪るな」という言葉が「ゆりかもめ」の風景を、「ぬくぬくと」と言う自嘲する心象を自然と運んできたように思います。

「夢寐」とは日本国語大辞典によれば「眠って夢を見ること」とあります。「ムビ」も「ユメ」も語数は同じですが、「夢」だと「希望にあふれる夢」とか未来につながってしまいそうなので、純粋に行為を表す印象のある「夢寐」にしました。

福島先生は初心者の短歌にも寛大で、「ぬくぬくと」と「たゆたう」の語の響きの呼応が面白い、「ゆりかもめ」の比喩が面白いと優しい言葉をくださり、自分では気がつかなかった見方を発見。

言葉をつかって表現するなんて思ったこともなかった私が、ひょんなきっかけから丸山健二塾に入ったのが2年半前。
最初の課題「40字以内で見たこともない日本語をつくる」という課題で作ったのが「夢寐をむさぼっている」という以下の表現でした。
「見たこともない」とは程遠いですが、文章に自分を託すヨチヨチ歩きの第一歩を踏み出したのだなあと懐かしい気がします。

テトラポットの上の磯鵯(イソヒヨドリ)は
歌うことも忘れて
波音に頭をゆらして
夢寐をむさぼっている

丸山先生は「夢寐をむさぼっている」の「むさぼっている」に続くように、次の文を書きなさい……と言われ、そんなふうにして無限に文を重ねてゆくうちに、初めての短編がとりあえず完成。

そんなことを懐かしく思い出し、「夢寐をむさぼっている」とハミングするうちに、「ゆりかもめ」が、「ぬくぬくと」が、「フクシマの海」と言う言葉がニョキニョキ生えてきて、散文とは全く違うこの歌ができました。


丸山先生は「ストーリーを考えてはいけない。言葉がストーリーに連れて行ってくれる」とよく言われます。この歌も「夢寐をむさぼっている」と言う言葉から、自然に「ゆりかもめ」が、「フクシマの海」が浮かんできたような気がします。

こんなふうにして言葉と戯れる丸山健二塾で過ごす丸山先生との時間。
勝手に好きな作品を翻訳するだけで、文章表現とは縁遠かった私でしたが……。
おかげで小説だけはなく、短歌の世界にまで冒険してみる気になったような気がします。
丸山先生にも、福島先生にもひたすら感謝です。

(丸山先生の塾はいぬわし書房の方で、福島先生の短歌創作講座は早稲田エクステンションエンターで、文学講座はNHK青山で受付けています)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月7日(木)旧暦7月22日

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『口笛の朝まで』を途中まで読む
ー自然を感じる心の大切さー

「夢の夜から 口笛の朝まで」に収録されている最後の短編である。
吊り橋「渡らず橋」のもとに故障した車を押す青年が現れるところまで読む。


冒頭の自然描写は、ずっと信濃大町にこもって暮らしてきた丸山先生でないと書けない文だなあと思う。以下紫字は引用。

真冬の夜の凍てつきがほとんど限界まで煮詰まり、
霜柱がもはやこれ以上伸びないところまで冷え込むと、

輝度によってさまざまな等級に仕分けされた、
寒天にひしめく色とりどりの星々が、
華麗なそのきらめきでもって有効な警告を発することをいっせいにやめたかと思うと、突然がらりと語調を変え、

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『口笛の朝まで』274頁)

私には、霜柱が伸びるなんて発想もなければ、ひしめく星々が語りかけるという夜空も想像できそうにない。
そもそも霜柱なんて、最近ほとんど見た記憶がない。

己の感性から、自然を感じる心が欠乏していることをしみじみ思う次第である。

丸山先生に指導してもらっていると、よく「その季節に咲く花は?」と問われてくる。
その都度、私の住んでいる東京近郊と信濃大町では咲く花のカレンダーのズレを感じたりもするが……。

ともあれ自然を身近に感じられない環境、感じない心は、文章を書くときにハンディキャップになるようにも思う。

いつかも指導してもらっているときに、菜の花の花吹雪……なんて文を書いたら、丸山先生は「菜の花は花吹雪にならない、落ちるものだ」と苦笑いされていた。
自然に乏しい環境で感性が鈍磨していることを反省しつつ、菜の花が花吹雪になったら綺麗なのに……と懲りずに夢想する

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さりはま書房徒然日誌2023年9月7日(水)旧暦7月21日

歌誌 月光80より福島泰樹「大正十二年九月一日」を読む

ー非道の歴史を語る視点、語り口の魅力ー

冒頭、幼い頃に聞いた関東大震災の思い出を語る叔母たちの声で始まる文が一気に大正時代へと引き込んでゆく。

明治末期から日本がいかに韓国にひどいことをしてきたか、抗議しようとした社会運動家たちをいかに弾圧してきたか……事実から目を背けずに語る簡潔な文。

その合間に挟まれた短歌が、無念、激動、無限の事実……を語る。

エピソード+事実+短歌というスタイルは、私のように日本史の知識が欠落した人間でも飽きずに読める、そして雄弁に時代を伝える……。
非常に魅力のある書き方だと思った。

明治四十三(1910)八月に調印された「韓国併合条約」には、韓国の統治権を完全かつ永久に日本に譲渡することなどが規定され、以後韓国を改め朝鮮と称し、朝鮮総督府を置き支配を強めてゆく。

水平社創立の朝、朝鮮総督府に日の丸は黒くはためく

(歌誌月光80より福島泰樹「大正十二年九月一日」)

「水平社」ではじまる短歌の「黒い旗」は、解放を求める水平社の黒い旗がはためく頃、朝鮮総督府にははためく日の丸が韓国の人にもたらした残酷非道を糾弾する歌なのだろうか……。

以下、私の知らなかった事実や朝鮮への弾圧を書いた文と短歌を幾つか引用。

警察協力団体として在郷軍人会、消防組、青年団などを中心とした自警団が組織されたのも、この年(大正九年)であった。

・日本の朝鮮統治によって最も深刻な打撃を受けたのは、朝鮮の農民たちであった。総督府は土地所有権をめぐり、農民を零細の小作農に転落させた。第一次世界大戦以後、貧窮に耐えかねた農民は、日本内地へ流入を図り、朝鮮人労働者の増加が顕著になってゆく。が、日本の雇用者たちは、彼らを冷遇、虐待した。

「何が私をかうさせたか」実感の震えるごときを思想とはいう

・大正十一年七月には、水力発電所十数人の朝鮮人労働者の虐殺死体が、信濃川に投げ捨てられる事件が発生。

(歌誌月光80より福島泰樹「大正十二年九月一日」)

大正時代は短く、歴史の授業ではあっという間に終わりがちだと思う。
だが日本の大きなターニングポイントとなった時代なのだと、以下の最後の文に思う。

関東大震災は、人々の意識にさまざまの変容をもたらせた。デモクラシーの嵐吹きまくる中、薩長以来の軍閥と非難され、無用の長物とみなされていた軍隊が、国民に一目置かれる機会を得たのである。関東大震災からわずかに三年八ヶ月、山東出兵はなされ、私達の父、母、祖父、祖母たちは戦争の時代を迎えるのである。

(歌誌月光80より福島泰樹「大正十二年九月一日」)

短歌も、関東大震災前後の歴史を語る視点も魅力的な福島泰樹「大正十二年九月一日」……。
掲載されている歌誌月光80は、神保町PASSAGE書店1階さりはま書房の棚にもあります。
よければご覧ください。

(水平社の旗)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月5日(火)旧暦7月20日

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』を読む
ー戦争への怒りみなぎる満月の夜の美しい幽霊譚ー

美しくも悲しく、戦争への怒りにあふれた月夜の幽霊幻想譚。

満月の夜に吊り橋「渡らず橋」が見た入水自殺した筈の老婆。

老婆は吊り橋の中央で花茣蓙を広げ、卓袱台を設え、三段の重箱に酒、薄を用意する。
そして歌いはじめると不思議!老婆は若やいだ娘の姿に変わり、「渡らず橋」は意識が朦朧としてくる……。

そんな不思議が言葉を尽くして語られると、眼前にリアルに見えてくるから言葉の力はすごい!と思う。

身に着けているものはなんら変わりはなくても、
その中身たるや、
なんと、
混濁の気配すらもない、
長い遍歴を経てきた生命の系譜にきっちりと則った、
陽気な暮らしや方正な美徳が最も似合いそうな、
ほっそりとした首にうっすらと流汗が認められる、
溌剌として初々しい、
忍従とはいっさい無縁な、
しとやかこのうえない娘盛りだったのだ。

動かしがたい過去数十年を一挙に圧縮してしまうという、
現世を司る理法を根底から分裂させる、
だからといって破壊的な激烈さをまったく感じさせぬ、
とほうもない瞬間をかいま見せられた仰天のなかにあって、
「渡らず橋」の動転はなおもつづき、

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』239頁)

やがて対岸に現れたのは血だらけの戦闘服を着た兵卒の姿。
老婆の双子の兄だった。とっくの昔に戦死している筈。

兄を戦争へと追い込んだ社会を作者・丸山健二は怒りを込めて書く。
森の美しさ、歌っているうちに若い娘へと変わる老婆の幻想を書いた後なので、この直球の怒りがなおさらズシンと響いてくる。

心貧しくて理不尽な、
富者による支配体制の永続的維持や、
個人を解体して家畜化することのみが眼目の国家権力の病的な欲望と、

ひたすら拝跪するしかない牽強としての現人神と、

国体の護持に欠かせぬ兵役という冷血なる従属関係と、
国家的英雄になれるかもしれないという危険な誘惑と、

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』243頁)

兄の惨めな戦死を書く言葉の隅々にまで静かな怒りがたぎっている。

侵略戦争という狂気の沙汰の最中、
縁もゆかりもない外地でまったく風味を欠いた日々を送り、
突撃一点張りの愚かで稚拙な作戦の犠牲者として貴重な生を閉じ、

命を剥奪された上に魂の放棄まで余儀なくされたまま、
荒涼たる戦場に打ち捨てられた存在としての長日月を耐え忍んだ実の兄を、

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』247頁)

幽霊となっても、戦争で犯した罪のため渡らず橋を渡ることができず、途中までしか進めない兄をこう語る。

図らずも国家的な悪行に手を染め、
大々的な暴力の集積たる戦争に加担し、
取り返しのつかぬ大罪を身に纏うことになった付けとしての、
犯してしまった誤りのあまりにおぞましい思い出をしこたま抱えて橋を渡り切るだけの力は残っておらず、

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』250頁)

だが満月の奇跡が!
二人は時を遡り、幼い少年少女に変わってゆく。
激しい怒りのあとで、心静かになる風景である。

そのとたん、
兄のほうもまたすかさず少年時代へと立ちもどり、

敵国も、
敵兵の殺害も、
戦場における不平等な死も、
まったく想像したことさえない、
ただ生きているだけで嬉しい、
天真爛漫な里山の童子と化し、

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』258頁)

あどけない童子となった兄と妹の姿に、これまでの怒りが薄らいでゆく。
でも戦争で亡くなったすべての方に、こうした幼い時期があった……と思うと、再び怒りと哀しみが押し寄せてくる。

やがて兄妹の幽霊は消え、森にはキツネやコノハズクの声が谺する………

谷川を見つめる吊り橋「渡らず橋」は、時を自由に行き来できる存在なのかもしれない。

幻想譚と戦争への強い怒りが一体となった魅力的な作品である。




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さりはま書房徒然日誌2023年9月4日(月)旧暦7月19日

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』を途中まで読む
ー幽霊がでそうな雰囲気を盛り上げる文ー

『今宵、寒月の宴に』を途中まで読む。
どうやらかつて谷川に入水自殺した老女の幽霊を、吊り橋「渡らず橋」が見る不思議な幽霊譚らしい。

いかにも幽霊がでてきそうな夜……というものを、実に細かく描いている。
だから老女の幽霊が出現した頃には、ようやく嵌めるべきジグソーパズルの最後の一片が見つかったような気になった…。

幽霊がでてきそうな夜の演出をいくつか引用してみたい。
まず地上では虫の音が哀れに鳴く。

目に立つ動きを見せているのは星のまたたきと谷川の水くらいで、
単調にして微細、
かつ、
心をかすめ取るほど蠱惑的なその震動にしても、
鳴くことによって存在の悲しみを包みこむために生まれてきた虫たちと同様、
むしろ静寂をより深める側に味方しており、

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』182頁)

地上の小さな虫を見つめた後、作者の目は突如として天の月に向けられる。
天も、地も自由に行き来するダイナミックな視点が、丸山文学の魅力だと思う。
ちっぽけな自分がとてつもなく大きな存在と隣り合わせている……と想像すれば、心が軽やかになる。

非常なる周到さでもって準備万端怠りなく構成され、
今は天高く輝き、
太陽系を司る運動と軌を一にしながらも、
「私は私であって、私以外の何者でもない!」
と、
そう胸を張って宣言できるほどの矜持を持った明月は、

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』182頁)

視覚に訴えるだけでない。
コノハズクの鳴き声を語ることで聴覚も刺激してゆく。それもどこか物悲しいコノハズクである。
ただならぬ事態への期待を高めてゆく。

かと思えば、
ひょっとすると地獄の神の化身かもしれぬ陰気な鳥、
コノハズクが放つ、
「ぶっぽうそう!」という、
心魂を撹乱し、
この夜の核心を端的に表現し、
存在の本質を誤認させかねぬほど深遠な鳴き声は

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』188頁)

森、月、コノハズク……と不穏な気配が語られるうちに、やがて「渡らず橋」の周辺の空気は少しずつ歪んでゆく……。
作者が丁寧に張りめぐらす文をゆっくり追いかければ、読み手も不思議な空間に居合わせているような気に。歪みはじめた空間を自然に受けとめている。

つまり、

ほんのわずかだが時空間にけっして不快ではない歪みが生じ、

最も遠い過去へといざなわれそうなほど魅力的な空気が立ちこめ、

生と死という絶大なる真理が相克しつつ互いに閉ざし合い、

「渡らず橋」の周辺が言うに言われぬ変形を呈した瞬間、

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『今宵、観月の宴に』190頁)

ざっと飛ばし読みしている時には気がつかない散文の魅力。
なぜだろう……とチマチマとメモしてゆくと、少しだけ作者の工夫が分かる気がする。

ただ世の人は私のようなスローテンポで生きている暇人は少ない。
超特急で筋のポイントだけ追いかける忙しい人の方が多くて、中々おもしろさが分かってもらえない…ことが残念である。



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さりはま書房徒然日誌2023年9月3日(日)旧暦7月18日

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より「水葬は深更におよび」を読了
ーどちらの最期がいいのだろうかー

雷鳴轟く中、喪服を着て父親を水葬する木こりの一部始終を見守る吊り橋「渡らず橋」……。
作者丸山健二の死生観、たぶん火葬を嫌悪して土葬に憧れ、もう一つの世界の存在を信じる……そんな死生観が色濃く滲んでいる作品だと思う。

ただ先日、他の方からこれとはと全く逆の死生観
「最後の時くらいは威勢よく火葬場から煙をあげてやりたい。でも、今ではそれもダメでなるべく煙を出さないように遠慮してしか焼けない」
と嘆く言葉を聞いた。

はたしてどちらの死生観がよいのだろうか……と思いつつ、「水葬が深更におよび」を読む。

併せて、
執拗に回帰する生と死についても充分すぎるほど承知している「渡らず橋」が、
緊張が解消されつつあるなかで祈ることは、
ただひとつだ。

激流に押し流される岩石といっしょに攪拌されて滅していった屍のうえに、
人間味にあふれた、
より類的な、
苦い経験が半分と、
甘い経験が半分の、
しめやかにしてふくよかな輪廻があらんことを!

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より「水葬は深更におよび」169頁)

丸山作品のこういう言葉を読めば、土葬、そしてもう一つの世界へ……という考えも納得してしまう。

でも「最期くらい勢いよく煙をあげてやりたい」という言葉にも頷いてしまう。

どちらにしても、私たちが自分の最後を思うような形でまっとうすることすら叶わない……そんな不自由な世であることは確かである。

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さりはま書房徒然日誌2023年9月2日(土)旧暦7月17日

移りゆく日本語の風景ー浄瑠璃、活弁士、朗読家、声優と名は変われど、語りを愛する心は変わらないのかもしれないー

神奈川県立図書館ボランティア朗読会へ行き、六人の方の朗読を聴く。
朗読する側と聴いている側が一体となって、一緒に本を読むような良い時だった。

日本では他の国よりも朗読をする、朗読を聴いて楽しむ……という文化が形を変えつつ、受け継がれているように思う。

先日、福島泰樹先生がNHK青山のカルチャーセンターの教室でたしかこう語られていた。

「日本には浄瑠璃のように舞台、語り、音楽と分けて楽しむ文化があった。

だから日本だけ活弁士と楽士が活躍する無声映画が盛んになった。

トーキーの時代になって、実際の俳優の声を聴いた観客は声がよくないからがっかりした。」とのこと。

無声映画からトーキーの時代になって、人々はさぞ嬉しかっただろうと思っていた私はびっくりした。

以下、ジャパンナレッジの日本百科大辞典の「活弁士」の項目より引用。少し長くなるが、やはり「活弁士」が愛されてきた経緯が分かって面白い。

活動写真弁士の略称。映画の旧名称である活動写真の説明者をいう。サイレント映画時代、スクリーンの傍らで映画の解説、登場人物の台詞 (せりふ) 、情景の説明などを行うのを職業とした芸人。日本における映画の初公開は1896年(明治29)であるが、公開の手配はすべて興行師が行ったため、客引きの口上言 (こうじょういい) がついた。これが活弁の元祖である。初期には上映前に映画の原理や作品の解説などをする前説 (まえせつ) と、上映中にしゃべる中説 (なかせつ) とがあったが、1920年代に入って前説は廃止になり、また活弁という名称にかわって、映画説明者あるいは映画解説者といわれるようにもなった。活弁は、スクリーンに映っている俳優自身がスクリーンの後ろで台詞をいう形式から、やがて弁士がその俳優の声色 (こわいろ) を使う声色屋の時代、サイレント末期になると弁士自身の個性ある話芸を聞かせる時代へと推移した。活弁の話芸が売り物であり、写真は添え物で、ファンは活動(写真)を見に行こうといわず、だれだれ(弁士の名前)を聞きに行こうといった。活弁がこのような主導権をもったのは日本の映画興行の特性で、外国では字幕と音楽伴奏だけの上映が普通であった。当時の日本の観客の大部分は外国映画の欧文字幕が読めないということもあり、また浄瑠璃 (じょうるり) をはじめとする語物の伝統も根強く、活弁は不可欠、当然のこととして定着した。観客が自己の鑑賞力に自信をもたず、感動の度合いまでも説明者の指示に従いたがったという側面もあった。当時の有名な説明者に、(途中省略)などがいた。政府統計によると、1926年(昭和1)には日本全国の弁士は女性も含め7576人であったが、30年代になり、トーキーの普及とともにほとんどの弁士は廃業せざるをえなくなり、活弁の時代は終わった。

さて、活弁士は絶えたかに思えるが……。
語りが途絶えたわけではない。
今でも声優に憧れる若者は多い。

自分の声で語る……ことに日本人がかくも魅力を感じるのはなぜ?と不思議に思う。

浄瑠璃、活弁士、声優、朗読……と時代によって形を変えつつ、語りの文化は日本から消えないかもしれない……
そんなふうに思えた本日のボランティア朗読会であった。お疲れ様です。



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さりはま書房徒然日誌2023年9月1日(金)旧暦7月16日

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『水葬は深更におよび』を途中まで読む

ー何を象徴しているのかと立ち止まって考える楽しさー

『水葬は深更におよび』は、作品中の物や人が、何かの象徴にも思えてくる。

例えば「存在と無の境界」であるかもしれない「渡らず橋」とは?
生と死の境目、三途の川のような存在?
それとも現在、過去、未来……時の流れにかかっている空間?


ひどく悲しい目をして、
しばらくのあいだ
存在と無の境界に当たるのかもしれない橋の袂で呆然と佇んでいたが、

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『水葬は深更におよび』115頁)

以下引用の木こりの様子を読んでいると、信濃大町で庭仕事をしながら過ごされる丸山先生の姿が浮かんでくる。
父親の遺体を抱えた喪服姿の木こりは丸山先生なのか?

ただひたすら日々の心情の要求に従い、

自然の掟を蔑ろにしないように心を配り、

変化する草木に合わせて魂を千々の色に染め、

緑がかった風に溶けこみながら飛び去る四季をやり過ごし、

おのれの静かな影を相手に無理のない黙考にふけり、

自分と世界を結ぶ絆を何よりも大切にし、

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『水葬は深更におよび』147頁)

文の奥に秘められた意味や象徴を考えてゆっくり読む……。
それが本書の楽しさの一つである気がする。




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さりはま書房徒然日誌2023年8月31日(木)旧暦7月15日

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『水葬は深更におよび』を途中まで読む
ー自然を語る言葉がいつしか哲学を語る言葉となり、

 はっきりと分からないかもだけど心地よくなるー

「夢の夜から 口笛の朝まで」に収録されている二篇目の短編である。

一篇目同様にやはり吊り橋「渡らず橋」を中心に、まるで「渡らず橋」が人間であるかのように語られてゆく。

この「渡らず橋」の擬人法が面白く感じられるのは……。
吊り橋というものが人間が使うものでありながら、同時に眺めたり、感慨に耽ったり、あるいは揺れに怯えたり、人生そのものみたいな存在でもあるからなのだろうか?

擬人法を使うときには、対象とするものを選ぶことも大切なのかもしれない。

冒頭で語られる夏空の美しさ。
その中で平穏に過ごす「渡らず橋」。
それが雷で一変してゆく展開の鮮やかさ。
急変した天気をきっかけに不確実な生を語る文につなげる展開……。

さりげなく作者の哲学を滲ませる文の展開に頭がついていけていないかもしれないが…。
でも意味がわからなくても前の雷の描写ですでに満ち足りている。
だから意味が完全に分かったとは言えなくても、分かっているような誤解をゆるりと楽しむことができる気がする。

もしも運命が許すのならば、
心温かい知性と物怖じ抜きの内向的な一貫性をしっかりと保てる、
平安に満ちあふれた「渡らず橋」ではあった。

しかし、
空中はるかな高みから一陣の生ぬるい風がさっと吹きつけてきた直後に、
粗野で単純ながらも、
どこか啓示的な一発の雷鳴が殷々と響きわたったことによって、
様相は一変し、

天衣無縫な夜と化すはずだった心浮き立つ気配がいっぺんで吹っ飛び、
天と地が融合してしまったかのごとき、
ただならぬ感情が一挙に巻き起こされ、

過ちの上に過ちが重ねられたかのような、
そんな不安がざわめいた。

とたんに天気は機嫌を損ね、
月も星もない暗黒の空となり、
すべての事態と成り行きが緊要の問題へと一気に傾斜し、
情の衣を纏っているはずの未来が不可知きわまりない色に染まり、
「常ならぬ幸福」という身も蓋もない真理が幅を利かせ始め、

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『水葬は深更におよび』75頁)

『水葬は深更におよび』というタイトルだが……
「水葬」と「深更」という漢字二語の並びの格好よさ、
「におよび」という文の途中で終わる言葉から連なる物語が期待されてくる。

「深更」(しんこう)、「夜更け」「真夜中」という言葉は初めて知ったが、引き締まった感じの言葉でいいなと思った。

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さりはま書房徒然日誌2023年8月30日(水)旧暦7月14日

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『夢の夜から』を読む

ー「かくあれ」という作者の思いー

ー「吊り橋」を語る擬人法の面白さー

夫に先立たれた老婆を変えた小さな存在とは……。

それは嵐の夜にやってきたフクロウの雛。

フクロウの雛との出会いをきっかけに変わる老婆。

その変貌ぶりを語る以下の文に、丸山健二の「人間とは本来こうあってほしい」という思いを強く感じる。

もはや亡夫の面影を内心の友とする必要がいっさいなくなり、

そして、
自分が末梢にすぎぬ甲斐なき存在ではないことを、

地表を這う憐れな生き物の仲間ではないことを、

社会への不平不満にあふれた年金生活者ではないことを、

はたまた、

近いうちに夫のあとを追って虚空に消え去るばかりの、
混沌に面したまま滅び去る一介の有機体なんぞではないことを、

存在における普遍的な原理という広い枠組みのなかで、
大きな錯誤に陥ることなく、
翻然と悟った。

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『夢の夜から』41頁)

吊り橋「渡らず橋」は、そんな老婆とフクロウを見守る。

そして或る日、夢を見る。

その夢で酔っ払った老婆は「渡らず橋」で転倒して川に墜落。
フクロウも跡を追いかけ溺死……。

そんな夢を見たあと、老婆の通行に気遣う「渡らず橋」の描写が、やはり擬人法を駆使した書き方で表現が面白いし、ユーモアも感じる。

読む者の心に吊り橋の揺れを再現し、それがなんとも言えない不安に繋がっていく。

そして今宵もまた、
いざ老婆が近づいてくると、
内的な親近感ゆえに、
「渡らず橋」はひとりでにおずおずと気遣い、
心のなかにあらずもがなの覚悟が準備されてしまい、
たちまちにして不安の感情に崩れ落ち、
面食らうほどのおぞましい緊張を強いられ、
怖れはいよいよつのり

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『夢の夜から』49頁)

ともあれ揺れの幅を最小限にとどめようと、
精根尽くして気持ちをぐっと引き締めにかかったものの、
当然ながらそんなことでどうにかなるはずもなく、
相手が一歩踏み出すたびに横揺れがどんどん激しくなってゆくのだった。

(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『夢の夜から』50頁)

それにしても老婆のペットのフクロウはどんな種類だったのだろうか?可愛らしいシマフクロウの写真にしたが……。


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さりはま書房徒然日誌2023年8月29日(火)旧暦7月13日

丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」より『夢の夜から』を途中まで読む
ー「吊り橋」が語ればうつつの世が幻想の世界へと見えはじめるー

ーこんな風に擬人法が使えるという面白さー

「夢の夜から 口笛の朝まで」というタイトルも心に残るし、青い装丁も、青の栞の紐も素敵な本である。

「夢の夜から 口笛の朝まで」は、おそらく「おはぐろとんぼ夜話」の前あたりに書かれた作品なのだろうか。
「おはぐろとんぼ夜話」の語り手は古びた屋形船「おはぐろとんぼ」。
「夢の夜から 口笛の朝まで」の語り手は見向きもされない吊り橋「渡らず橋」で、その様子はこう書かれている。

金属類にはいっさい頼らず、
蔓のみを材料にした、
今やほとんど見向きもされない吊り橋は、

ひとまず人間に酷似した精神的な枠づけが整ったところで、
誰にも感知できぬ声なき声で自分にそっと呼びかけ、
(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」8頁)

人間でないものが物語を語りはじめると、見えない世界があらわになってくるような不思議さがある。
物なのに物ではなくなってくる……
そんな擬人法の面白さが「誰にも感知できぬ声なき声で自分にそっと呼びかけ」という部分にある。
これから不思議な幻想の物語が始まってゆく感がある。

以下の引用部分は「渡らず橋」の、いや作者丸山健二の、人間への思いが伝わってくる。
ストレートに作者が「私」と出てくるよりも、どこか森の仙人様のようなおかしみがある。
思わずどんな話が出てくるのだろう……と聞きたくなる。

それでもなお「渡らず橋」は、
生来の情の深さとあまりに退屈な立場によって、
おのれをこの世に送り出してくれた人間に見切りをつけるような忘恩な真似はせず、

本能によってのみ条件づけられている他の生き物とは大きく異なる、
非常に特異な存在としての人間にどこまでも魅せられ、

まったく融通のきかない灰色の毎日にたいして無言の抵抗をつづける、
人の人たるゆえんとやらに強く惹かれてやまず、

謎がいよいよ深くなるばかりの精神界に戦慄的な認識を抱きながらも、
人間性の内奥にひそむ不気味さをもふくめた全体に取り込まれた。
(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」14頁)

「渡らず橋」が一目置いている、フクロウを飼う老婆。
老婆が近づいてくる時の「渡らず橋」の描写も、こういう風に擬人法を使えば、物が物でなくなって生き生きとしてくる。
そして不思議な幻想の世界が見えてくる……と興味深い。

すると今度は、
フクロウのみならず、
「渡らず橋」までもがあからさまに胸をおどらせ、
いつものように自分なりに歓迎の意を表したいと思い、
千鳥足でご帰還する年寄りをいたく気遣って、
蔓の結び目をぎゅっと引き締めた。
(丸山健二「夢の夜から 口笛の朝まで」32頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月28日(月)旧暦7月12日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」読了ー哲学小説でもあり長大な幻想文学でもありー

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上中下巻を読了。

屋形船おはぐろとんぼが森羅万象に想いをめぐらす哲学小説のようでもあり……。
生を持たない筈のおはぐろとんぼが語るからこそ見えてくる不思議な淡いの世界を描いた幻想小説のようでもある……。

今回が「おはぐろとんぼ夜話」を辿る初めての旅。
今後も幾度も「おはぐろとんぼ夜話」を読んで、言葉の海を、哲学的空間を旅するだろう。

丸山先生を思わせる屋形船おはぐろとんぼの俯瞰しているような仙人モードの語り……。
読めなかったり初めて知ったりした難しい、でも美しい言葉の数々……。思いがけない擬人法を散りばめた文章…….。
これから読む度に新しい発見がたくさんありそうで、再読するのが楽しみである。

屋形船おはぐろとんぼと過ごした最初の旅に名残惜しさを覚えつつ、本を閉じる。

実際には思いのほか短かったのかもしれないわが生涯が
あっさり夢幻の仲間に加わり、

高みへ
果てしのない高みへと移行する
人生の目標の濃い影
その下に佇むことに耐え切れなくなった
中途半端な傑物の心情が理解できたように思え、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻632頁)

「おはぐろとんぼ夜話」の最後の頁から、生と死、未知なる自然が隣り合わせている丸山先生の価値観が伝わってきた。丸山文学は、死があるからこそ生が輝く世界を言葉で表そうとする姿勢が魅力の一つなのだと思う。

屋形船から棺へと化した
偉大なる燃えカスとしての私が振り絞る
最後の意思の力によって

ひょっとすると極楽浄土とやらの入口であるかもしれぬ
いまだにその存在を知られていない海溝へと通じる
段切り灘の底なしの底へ

どうころんでも恐怖の対象になり得ない
美し過ぎる天体の輝きといっしょに

宿命の黒ずんだ申し出を峻拒することなく
在るがままを受け容れながら
するすると滑り降りて行くのだった。
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻638頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月27日(日)旧暦7月11日

移りゆく日本語の風景ー豆腐ー

今日は北区北とぴあで開催された「初めての文楽〜その参 妹背山婦女庭訓 金殿の段」を観てきた。

上演前の技芸員さんたちの対談で、入鹿の御殿から豆腐を買いに行く女中とお三輪がばたりと会う場面が話題になった。
そのとき呂勢太夫さんが言われた「この時代に豆腐があったのかはわかりませんが」という言葉が気になった。


妹背山婦女庭訓は近松半二らがつくった浄瑠璃で1771年に初演。
蘇我入鹿らを登場人物に、飛鳥時代を舞台設定にしている。

はたして日本に豆腐が入ってきたのは……と調べてみた。世界大百科事典によれば、以下の通り。

日本の文献では,1183年(寿永2)の奈良春日大社の記録に見えるのが古く,鎌倉時代には1280年(弘安3)の日蓮の手紙に〈すり豆腐〉の名が見える。南北朝から室町期に入ると,豆腐の記事は日記類を中心にして急増し,室町後期の《七十一番職人歌合》には白い鉢巻をした女の豆腐売が描かれ,〈とうふ召せ,奈良よりのぼりて候〉と書かれている。歌のほうには奈良豆腐,宇治豆腐の名が見え,当時奈良や宇治が豆腐どころであったこと,この両地から京都にまで豆腐売が通っていたことがわかる。やがて大消費地であり,水のよい京都でも盛んにつくられるようになり,豆腐は京都名物の一つに数えられるようになった。

蘇我入鹿(645年没)の時代には、どうやら豆腐はまだ日本には入ってきてなかったらしい。

だが室町時代には女の豆腐売りが出現、近松半二の時代には人々の食生活にすっかり馴染んでいたことだろう。

近松半二は資料の少ない時代に、遠い飛鳥時代を思い描いた。
豆腐なら昔からあっただろう……と女官が豆腐を買いに行く場面を入れたのだろうか

日本国語大辞典で豆腐の例文を調べてみると、時代ごとに豆腐のイメージは微妙に現代とは違うのかもしれない……とも思う。

*本草色葉抄〔1284〕「腐豆(タウフ)」

*日葡辞書〔1603~04〕「Tofu (タウフ)〈訳〉豆を粉にして作った食物の一種で、出来たてのチーズに似たもの」

*俳諧・春の日〔1686〕「朝朗(あさぼらけ)豆腐を鳶にとられける〈昌圭〉 念仏さぶげに秋あはれ也〈李風〉」

日葡辞典をつくったポルトガル人にすれば、チーズに思えたのだろうか。
それにしても鳶にとられる豆腐とは、相当しっかりしている気がする。高野豆腐に近いものだったのだろうか。それとも油揚げなのか?

現代では、豆腐屋も、豆腐売りのラッパも遠くなってしまった。

これから先、豆腐はどう変わっていくのだろうか?
豆腐の移り変わりを思いながら、コンビニで売っていた豆腐プリンを深夜にひっそり食べる……。


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さりはま書房徒然日誌2023年8月26日(土)旧暦7月10日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読む—海を語ればー

惨劇のあと、船頭の大男と屋形船おはぐろとんぼは、「段切り灘」という海にでる。

おはぐろとんぼが感じる初めての海は、まず聴覚から描かれている。

次に海の音が作用する心の動きの変化を「どうでもよくなり」「溺れかけ」と語る。

次第に朦朧としてゆく意識の中、おはぐろとんぼは娘や野良犬の幻覚を語りだす。

海鳴りが心に及ぼす影響がつぶさに語られているから、読んでいる方にも海の音が聞こえ、おはぐろとんぼと同じく初めて海を見るような新鮮な体験を経験する。

……やがていつもと違う世界に囲まれている気がする。

果ては

水平線のはるか彼方から
スタジアムに詰めかけた大観衆のどよめきのごとき
とても低い周波数の海鳴りに圧迫され

その音にもならぬ心地よい音によって
真実から目を逸らさずに正邪の声を聞き分けることが
まったくもってどうでもよくなり

無邪気に推し進めたものの
いまだ実現されぬ
大分不鮮明な夢の潮流に巻きこまれて溺れかけ

肉の誘惑に負けた
引く手あまたの娘のように
みだりがわしさでいっぱいの
脱出不可能な逸楽に追いこまれ

虎斑の野良犬が放つ
不気味な殺気をよみがえらせ

地獄への順路を
まさに嫌というほど思い知らされ、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」593頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月25日(金)旧暦7月9日

中原中也「別離」ーリフレインの美しさ、豊かさー

福島泰樹短歌絶叫コンサートでよく朗読される中原中也「別離」

福島先生の「別離」朗読を聞いていると、文字だけ追いかけて読んでいるときには浮かんでこなかった様々な景色が浮かんでくる。

それも毎回違う風景が見えてくるから不思議だ。

福島先生が語ることによって、リフレインの一つ一つに色の異なる情が宿り、「別離」の世界がその都度見え方の異なる万華鏡のように立体的に見えてくる。

特に「あなたはそんなにパラソルを振る」を語る時の福島先生の表情、身振り、声に込められた感情が毎回微妙に違うようで、その都度、別の場面が浮かんでくる。
「あなたはそんなにパラソルを振る」というフレーズがあるゆえに、思いが地上のドロドロした感情を遠く離れて、刹那の幻影を結ぶような気がする。

以下、中原中也「別離」より(1)を引用。

中原中也 別離

さよなら、さよなら!
  いろいろお世話になりました
  いろいろお世話になりましたねえ
  いろいろお世話になりました

さよなら、さよなら!
  こんなに良いお天気の日にお別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い
  こんなに良いお天気の日に

さよなら、さよなら!
  僕、午睡の夢から覚めてみると
  みなさん家を空けておいでだつた
  あの時を妙に思ひ出します

さよなら、さよなら!
 そして明日の今頃は
 長の年月見馴れてる
 故郷の土をば見てゐるのです

さよなら、さよなら!
  あなたはそんなにパラソルを振る
  僕にはあんまり眩しいのです
  あなたはそんなにパラソルを振る

さよなら、さよなら!
さよなら、さよなら!

福島先生の短歌絶叫コンサートは毎月10日に開催される。次回は9月10日(日)、3時開演、7時開演の2回。



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さりはま書房徒然日誌2023年8月24日(木)旧暦7月9日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読む
ー惨劇の前の美しさー

屋形船おはぐろとんぼが語る徒然川の美しさ……。
こんな風に意外な言葉を組み合わせて、川の美しさを語ることができるのか……。
散文の可能性を教えてもらった気がする。
この直後に惨劇が待ち構えているとは……まったく予想させないし、惨劇の前だから美しさが心に沁みてくる。

深い意味に染まった
死に制服されざるものに対して
素知らぬ風を装いながら
滔々と流れる徒然川は、

水面のあちこちに
もしかすると滅度を得られるかもしれない儚いひらめきを
月影の反射光のようにふんだんにちりばめ

ささやかで劇的な形態をまとう
地名にちなんだ伝説に生気を与えつづけ

春夏秋冬を愛でながら
幾つもの夜明けを重ねて
そろばん高い猜忌のあれこれを
きれいさっぱり帳消しにし、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻494頁)

この章の最後、惨劇の後の大男の声の不気味さが荒れ寺の鐘に喩えられている。
美と隣り合わせの惨たらしさ……が生きていることなのだろうか?
惨たらしくても思わず読んでしまう表現だなあと思う。

いずれそのうち
維持する檀家もいなくなると
そう取り沙汰されている
荒れ寺の割れ鐘のような調子で
不安一辺倒に響き渡った。
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻523頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月23日(水)旧暦7月8日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読む
ー冷静に選んだ言葉による表現の面白さ!ー

屋形船おはぐろとんぼを降りて、かつて自分を捨てた女の家に向かう船頭の大男。
その心を後押しする声が、16人ものまったく異なる人間のものとして描かれている(たぶん)。

中でも嫌で頭にくる歴史上のあの人間をズバズバ、でも冷静に語る言葉が心に残る。以下引用。

平気で人を踏みつけにするろくでもない性格をむき出しにして
戦犯の前歴をひけらかすことにより
却って巨利と名声を博すようになった
番外の成功者……
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻460頁)

ほんとうにその通りだ。よくもピッタリ表現されたもの……。

大男と女が寄りを戻す場面。
二人の愚かさを描きながら、やはり視点は冷静で言葉は美しく……
でも、この書き方を実践するのは難しいと思う。

頑なにだんまりを決めこんだまま
不吉な感じの雲が垂れ下がった雨催いの空を横切る弓張り月の真下

多少のばらつきはあるものの
夕方にはつぼむ白い花の真上で

首鼠両端を持しながらも
着々と情痴に狂ってゆく男と女が、

日々の暮らしに屈託したことから
飲酒に依存するようにして

肝胆相照らす仲という仮面で装う必要もないほどの
一方ではどこまでも性愛的な
他方ではどこまでも打算的な
らせん状の親密さを増してゆき、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻487頁)

二人を厳しい目で見ながら、同時に美しくポエティックに語る……のは難しい。
たぶん私なら「許せないこいつ」という思いが強くなって、冷静さが崩れて罵倒してしまう……。たぶん

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さりはま書房徒然日誌2023年8月22日(火)旧暦7月7日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読む
ー川の流れは記憶の流れ—
—「思い出す」という言葉を様々に言い換えてー

徒然川を下る屋形船おはぐろとんぼ。
その脳裏に浮かんでは消えてゆく様々な人々。
そうか….川は丸山先生がテーマとされている記憶の流れそのものなのか。
以下の箇所、そんな老いから若きまで、おはぐろとんぼの、いや丸山先生の意識に浮かんだ庶民の姿がありありと描かれている。

それから「思い出している」のに、「思い出す」という言葉は一度しか使わずに、あとは色々表現を変えている。
丸山先生の指導を受けていると、「また同じ言葉」とよく指摘されるも、私の語彙はすぐに尽きてしまう……。
同じ言葉を繰り返さないという努力は、読者は気がつかないがとても大変なもの。
でも繰り返しを避けることで、それぞれが別のストーリーのような、そんな引き締まった感じが出てくるように思う。

何がどうなってそうなるのかについては
さっぱり解せないのだが、

異界へと旅立つ前に
全生涯の歓びをそっくり想い起こす
瀕死の年寄りの歪んだ笑顔なんぞがよみがえり、

まさに芳紀十八歳の娘の残香が
水の匂いを押しのけて辺り一帯に漂い、

安くてけっこう食い出のある天丼が目当ての客が
連日大挙して押し寄せた村の食堂のことが思い出され、

呵々大笑だけが取り柄の
いたって無芸な炭焼きが
とんだ心得違いから生じた妄念に悩む
見るからに気の毒な姿が追憶され、

舟運の便が良い徒然川と共に流れる
根も葉もない噂のひとつひとつが
厳寒の打ち上げ花火のように
楚然として闇に浮かび、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻447頁)



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さりはま書房徒然日誌2023年8月21日(月)旧暦7月6日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー時も空間もぐんにゃり歪めることのできる言葉の威力ー

屋形船おはぐろとんぼは、丸山文学は、弱く小さな存在「そろそろ死ぬ覚悟を固めつつある草陰にすだく虫たち」やら「後期高齢者」について語っていたかと思えば……
次の頁では、いきなり宇宙の終わりや時の流れにワープする。

そうした思考の流れを追いかけていると……。
弱き者たちも宇宙や時の一部分、隣り合わせて存在しているのだなあという思いにうたれる。

太っ腹で小さなことにはこだわらない
つとに名高い理論物理学者が
それとなく警告する

宇宙の倒潰を予感せずにはいられない
銀河系の末路など
たやすく一笑に付すことができた。
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻416頁)

輝かしく思い出深い過去の頂点が
いつだって未来の霧のなかに隠されてしまうことを
自然の摂理のひとつと受けとめて
あっさり容認でき
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻417頁)

言葉をつかって文を書く……。
それは宇宙をぐんにゃり歪め、時を自由に行き来させてくれる……そんな魔法の杖をふるに等しい行為なのかもしれない。
……そんな気がしてきた。

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さりはま書房徒然日誌2023年8月20日(日)旧暦7月5日

移りゆく日本語の風景ー「闘茶」ー

暑さ厳しい日に飲む冷茶は美味しい。
ノンカフェインの麦茶やルイボスもいいけれど、冷茶の緑には一瞬だけ暑さを忘れてしまう力がある。
ずっと私たちの生活と共にあったように思える茶だが、元々は遣唐使の時代に唐から持ち帰られたもの。
荒波をこえて、この緑芳しい飲み物を運んでくれたお坊さんの勇気に感謝だ。ジャパンナレッジ日本国語大辞典によれば、以下のとおり。

日本における飲茶の起源は不明であるが、天平元年(七二九)、聖武天皇が百僧に茶を賜った記事が、明確な記録としては最古のものといわれている。当時のものは唐から帰国した僧侶が持ち帰った団茶であった。これは、茶の葉を蒸してつき、丸めて乾燥したもので、粉にして湯に入れて煎じ、塩、甘葛などで調味して飲んだ。煎じて飲むところから煎茶と呼ばれることもあったが、のちの煎茶とは別物。寺院や上流社会では、薬用、儀式用、あるいはもてなし用として茶が用いられたが、遣唐使の停止以後中絶した。

どうやら古代、天平の頃の茶はとても高貴な方々だけが口にできるものだったようだ。

さて茶の項目を眺めていると、「闘茶」という聞き慣れない、でも強烈なインパクトのある言葉があった。
ジャパンナレッジ日本国語大辞典で調べてみると、「闘茶」とは以下のとおり。

飲茶遊技。本茶・非茶などを判じて茶の品質の優劣を競って勝負を争った遊び。鎌倉末期に宋より輸入され、南北朝、および室町時代に流行した。

どうやら産地や品種を飲み分ける勝負らしい。
飲茶遊技という言葉も、闘茶という言葉も印象的。
闘茶の例文は14世紀から近代に至るまであった。その割には、今まで耳にしたことがなかったのはなぜだろう?

*洒落本・風俗八色談〔1756〕三・艸休茶の湯の事「唐にも闘茶(トウチャ)といふて茶の美悪を論ずる事はありと聞ども」

*随筆・筆のすさび〔1806〕二「三谷丹下は、後に宗鎮と改名す。〈略〉その家にては、茶かぶきは不用、そのかはり闘茶を教ゆ」

*旅‐昭和九年〔1934〕一一月号・首代金廿万両〈正木直彦〉「進んでは又『闘茶(トウチャ)』といふのが行はれるやうになった。これは茶の味を飲み分けるゲームであって」

14世紀からずっと見えていた「闘茶」という言葉がパタリと絶えたのはなぜなのだろう?
それとも茶道には残っているのだろうか?
闘茶」という言葉が醸す心のゆとりを思いながら、「闘茶」の消えた現代を残念に思う。
でも茶葉は気温の影響をダイレクトに受けやすいもの。「闘茶」どころか「茶」の緑が消えてしまうディストピアにならぬよう祈るばかりの暑さである。





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さりはま書房徒然日誌2023年8月19日(土)旧暦7月4日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー数多の物語を孕み、旅立ちへとうながす風景描写ー

女のことを忘れようとする船頭の大男。
その心を見つめながら、月は別の世界を照らしてくれる。
月光が射すところには無数の物語がある……
昼間の風景とは異なる妖しさ、美しさよ。
そんな月明かりの光景を語る文に、読み手も知らず知らずのうちに、船頭や屋形船おはぐろとんぼと一緒に再び船旅に出たくなる……。
静止した月が動きへ、旅立ちへと背を押す不思議さを感じた。

月はというと

孤立無援の放浪者を惹きつけてやまない
ぱったりと交通が途絶えた街道……

いかめしい門の佇まいに不似合いな
趣にあふれた庭園……

長日月にわたって一心不乱に考えつづけるという
重い思索の淵に沈んだ後
長編叙事詩を一気呵成にかきあげた
凡俗の顰蹙を買う怪童のおとなびた横顔……

真夜中の奥に聳立した山々を縫って滑翔する
槍の穂先のようなくちばしを持つ怪鳥……

廉潔の士として知られるよそ者の
救いがたい手落ち……

なんぞをどこまでも優しく照らした。
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻391頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月18日(金)旧暦7月3日

移りゆく日本語の風景ー蛙楽は遠くになりにけりー


何をうるさいと思うかは、感覚、価値観の問題があって個人差も大きい。
音に関しては、私の快適があなたの不快……になりがちで難しいと思う。
さて最近「水田のカエルの声がうるさいから何とかしてほしい」という話題をニュースで見かけた気がする。

私は一番最初の勤務先が四方を水田に囲まれた場所だったから、この時期の水田から吹いてくる風、カエルの大合唱には涼しさと懐かしさを覚える方だが……。
カエルも水田も馴染みのない人にとっては、受け入れ難い音なのかもしれない。

でもかつて「蛙楽」(あがく)という言葉が存在するほど、蛙の声に日本人は風情を感じてきた。
ジャパンナレッジの日本国語大辞典によれば、「蛙楽」の意味、例文は以下のとおり。

蛙の鳴くのを音楽にたとえていう。蛙の音楽。
*筑波問答〔1357~72頃〕「旧池の乱草をはらひて、蛙楽を愛することあり

ちなみに蛙に関する文は、ずいぶん昔からあるようである。
以下、ジャパンナレッジ国語大辞典「蛙」の項目より例文をいくつか。

*日本書紀〔720〕応神一九年一〇月(熱田本訓)「夫れ国樔は其の人と為り甚だ淳朴(すなほ)なり。毎に山の菓を取りて食ふ。亦蝦蟆(カヘル)を煮て上(よ)き味と為」

*徒然草〔1331頃〕一〇「烏の群れゐて、池のかへるをとりければ、御覧じかなしませ給ひてなん」

*蛙〔1938〕〈草野心平〉河童と蛙「ぐぶうと一と声。蛙がないた」

それにしても日本書紀の時代、蛙は煮て食べる食材でもあった。それが風情の対象となり、声を愛でられるようになり、そして今疎まれようとされている。
願わくば、心にも暮らしにもゆとりが生まれ「蛙楽」という言葉が生きながらえますように。



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さりはま書房徒然日誌2023年8月17日(木)旧暦7月2日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー屋形船おはぐろとんぼが語る自然の美しさー

オンボロ屋形船おはぐろとんぼが感じる自然の美しさ。

丸山先生が指導してくださるとき、その季節に咲く花は?とよく問われる様子が思い出される。

以下紫色の屋形船おはぐろとんぼが語る文は、じっと自然を観察してきた丸山先生ならではの文……だと思う。

私にはとてもタヌキの親子連れとか地蔵とか……文を書きながら浮かんでこない。

それから私は

土と石を交互に盛り上げただけの
従って
徒然川が放ってやまぬ情緒をいささかたりとも損ねていない
艶めかしい曲線を描き出す堤防すれすれのところをのろのろと下り

月影青く風さやかなる夜に
気持ちよさそうに空中を漂ってゆく死者の魂に思いを馳せて
どこまでもつづく桜並木に沿って進みながら

タヌキの親子連れの瞳の輝きや

不満らしい渋面を作っている野ざらしの地蔵や

ホタルのあまりにも静かなる乱舞や

みごとの一言に尽きる流星群の活動などに

ぼうっと見惚れている最中

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻337頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月16日(水)旧暦7月1日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー「どこにでもいるありふれたやつだった」を丸山健二の言葉で語ればー

なんでも知っている屋形船おはぐろとんぼ。
全知全能のおはぐろとんぼが、船頭の大男を語る次の言葉に悲劇の予感。
いつまでも、大男とおはぐろとんぼ……旅が続いていけばいいのに。
そんな思いが覆されるのでは……という気がしてくる。

知人はおろか
神仏にさえ気取られぬように
うつし身の世をそっと抜け出そうとしているとは
とても思えず

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話』下巻327頁)

おはぐろとんぼが大男を語る言葉。
最近よく見かける小説なら「どこにでもいるありふれたやつだった」と一行で書くだろう。
丸山先生はこれでもかと文を連ね、ありふれたやつ……のイメージを膨らませてくれる。
丸山文学では、言葉からイメージを紡ぎ出す過程がすごく楽しい。

ただ国語の授業でも、ひたすらわかりやすい実用的な文が求められる時代である。
こういう過程を楽しめない人が多くなり、チンプンカンプンの人が多い現状が寂しくもある。

さて、船頭の大男が「どこにでもいるありふれたやつだった」を丸山先生が表現すれば以下の通り。

その所を得てそれなりの花を咲かせる
単純率直な人間の代表にしか見えず、

さらには

手厳しい結論を強引に押しつけたあげくに
ドライアイスのごとき視線でもって最後の一撃を浴びせる
冷淡な観察者……

夜ごと安酒場に集まって陽気に騒いでも
いっこうに眼識を養えないことが容易に察せられる芸術家……

来るべき不幸に思い悩みつつも
ありふれた見解を脱することができない善良な大衆……

満を持して登場した
これに尽きる反逆者……

小賢しいうえに
骨なしときている教育者……

先天的な素質として弁才に長けた
きわめて魅力的な煽動者……

とまあ
そう解釈したくなった

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話』下巻327頁)

巷によくいる奴、しかも嫌な奴。
……をすっぱり語ってくれているからスッキリする。

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さりはま書房徒然日誌2023年8月15日(火)旧暦6月29日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー屋形船が語る都会のわびしさー

屋形船おはぐろとんぼは徒然川を旅して、露草村からうつせみ町へやってくる。

丸山文学は、地名や固有名詞の名前のつけ方にも特徴がある。
現実には多分あり得ないけれど抒情があふれる名前の数々……それは見慣れた風景をどこか不思議なものに変える魔力がある。

さて屋形船おはぐろとんぼが感じる「うつせみ町」の都会の寂しさも、「そうだなあ」と心に残る。

魂の舟が難破した件について
事の経過を思い返しながら雑感を述べる
いまだ自分が何者であるかを知らぬ人間の数が増え、

はるか沖合にまたたく魚燈をぼうっと眺める
家庭の事情で進学を思い切った少年のため息がかすかに届き、

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻292頁)

日本舞踏の会について、屋形船おはぐろとんぼが向ける非難の眼差しもパンチがある。
ただ、こうした骨太な問題意識と幻想性が両立するユニークさが、幻想文学読みからスルーされてしまう要因なのかもしれない……。
幻想文学読みから、丸山文学があまり読まれていない現状をひたすら残念に思う。

何よりも格式を重んじるはずなのに
それでいて
裏では冷たい感触の高額紙幣が飛び交う
日本舞踏の納会が終えたあとに漂う残り香にそっくりな
いかにも退廃的な甘酸っぱい匂いが感じられ

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻299頁)



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さりはま書房徒然日誌2023年8月14日(月)旧暦6月28日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むーユーモアもありロマンチストでもある屋形船おはぐろとんぼー

語り手である屋形船おはぐろとんぼは哲学者でもあり、皮肉屋でもあり、ユーモアあり、ロマンチストでもあり………人間ならこんな語り手はいない。

でも屋形船だから違和感なく、耳を傾けてしまう

屋形船おはぐろとんぼが、女に逃げられた船頭の大男を見る目のなんとユーモラスなことか。

妻帯生活に窒息させられない自由をこよなく愛したものの
恨むらくは
空想する自由しか得られないことであったが、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻273頁)

屋形船おはぐろとんぼが、船に訪れる変な人間どもを次々と語る描写もユーモラス。
こういう人っているなあと、その中から一つ引用。

報酬が部下と対等額であることに腹を立てて
任期の満了前にその職を退いた勤め人……
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻281頁)

そんな変な人間たちについて続々と語ったあとだから、おはぐろとんぼのユーモラスさも、描写の美しさも一際心に残る。

そのときどきの好みに応じて音源を選べる
都合のいいことこの上ない聴覚を
思う存分発揮しながら

里のわたりの夕間暮れ
おびただしい数の竜灯に
次々に注油してゆく
老いた神官の侘しい姿を
万感を込めて
眺めることができた。
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻283頁)




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さりはま書房徒然日誌2023年8月13日(日)旧暦6月27日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー葉っぱと人間の重ね方に散文ならではの面白さを思うー

古来、日本人は詩歌で季節の風景を歌うことで己の心情を託してきた。

「おはぐろとんぼ夜話」の紅葉の箇所を読むと、言葉を尽くして紅葉を表現しようとしている文に心うたれる。

そして言葉の数や韻の制限を受けない散文ならの複雑さが生み出す面白さを感じる。

以下の引用箇所は、社会への批判めいた思いを秋晴れの日の描写に託していて色々考えさせられる。

かなりの日照りつづきであったにもかかわらず
山峡の紅葉が例年通り見事に映え渡った

無気力によって窒息させられている
世間の大多数の判断などいっぺんで消し飛んでしまいそうなほど
すっきりと透徹した日本晴れのある朝のこと、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻221頁)

以下の引用箇所は、まろやかになってゆく紅葉とコントラストをなすように、船頭の大男から金を巻き上げて逃げていった女の強欲、激しさが示唆されて面白い。

全山紅葉の真っ盛りへと突き進む季節が
ぬくもりにあふれたその色彩でもって
非常な自然の角を削り取り始めたにもかかわらず

欲に生きる者は欲で死ぬだろうという
そんなたぐいの箴言が
多少なりとも効果が期待できたところで
激情の振り子を止めることはかなり難しく
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻230頁)

以下の引用箇所は、女に捨てられた船頭の大男があっという間に立ち直ってゆく様を、深緑に託した書き方が興味深い。

  そして

  その翌年の
 
  深緑の葉の一枚一枚に
  全宇宙の謎を解く鍵があまねく秘められた
  夏場にはもう

  よしんば心臓に達する傷を負わされたところで
  両の手にしっかりと財布を握り締めていそうな
  それほどしぶとい女の印象は

  澄明な夜空に架かる薄い虹のように曖昧なものと化して
  ひたすら無へと傾斜してゆき
 (丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻242頁)

散文の場合、文字数の制限がない分だけ擬人法で思いっきり冒険ができる。そんなチャレンジに溢れた散文が喚起するイメージは無限ではないだろうか?

詩歌の場合、文字数の制限が思いをシンプルにする。余計な贅肉を削ぎ落とされた叫びを聴く面白さ、限られた語の組み合わせで世界を切り取ってゆく複雑さ……が愉しい気がする。

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さりはま書房徒然日誌2023年8月12日(土)旧暦6月26日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー擬人法について考えるー

いぬわし書房のオンラインサロンで擬人法についての質問があった。

丸山先生が擬人法を考えるきっかけになったのは、カメラいじりから。

レンズを変えるように、擬人法を使うことで、表現の幅を変えたい、視点の幅を広げたいと思われたそう。

擬人法を使えば、どんな無茶な表現でもいい、生身の人間が語るよりワンクッション置くことになるから読者が受け入れやすい……とか語っていらしたと思う。

屋形船おはぐろとんぼが、船に子連れで転がりこんで、船頭の大男と情事を重ねる女について語る場面を読むと、やはり屋形船が女について辛辣に語っても腹がたたないなあ……とクッション効果を感じる。

またクドクド女のあれこれを説明されるより、ぶっ飛んだ例えの方がイメージが広がってゆく。

屋形船おはぐろとんぼは、女のことを以下のようにけちょんけちょんに言う。でもオンボロ船の独り言と思えば、さらさら頭を通過して、私なりの女のイメージが浮かんでくる。

たとえるならば

白バイに追尾されていることを承知で制限速度を破りつづける

とことん荒くれたドライバー……

たくさんの仕事を抱えこんで往生している部下を

さらに鞭撻して深夜まで働かせる上司……

たちどころに不法占拠の任務を終えて復命する

殺人に卓越した兵士……

厚顔にもひっきりなしに前言をひるがえし

現在の地位に執着する長老……

強情な生を剥ぎ取ろうと

荘重な足取りでやってくる死に神……

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻173頁)

……私も次回短歌の課題は、関東大震災の検見川事件について川の流れを視点に詠んだのだった……と思い出す。

川の視点だと、重い事件も、人間の愚かさも、何とか文字にできる気がする。私視点だときついものがある。擬人法はまことに偉大なり。

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さりはま書房徒然日誌2023年8月11日(金)旧暦6月25日

移りゆく日本語の風景ー蝶々ー

小学校の教室をのぞけば、かならずどこかに蝶々の絵があって、蝶々とは長い間私たちの生活で愛されてきたもの……と思い込んでいた。

だがジャパンナレッジ日本方言大辞典を見てみれば、そうではないらしい。以下、青字は日本方言大辞典より引用。

不思議なことに蝶(ちょう)はその美しい姿にもかかわらず、上代の日本人に好まれていなかったようである。不吉なものと考えられていたのか、文学作品にも採り上げられることがなかった。対して蜻蛉(とんぼ)は、古来日本人に愛されて、銅鐸の上にもその姿をとどめている。

かつて古代では、蝶は「かわびらこ」とも呼ばれていたようである。

日本国語大辞典を見てみれば、まったくない訳ではないが、たしかに蝶に不吉なものを感じていた気配がうかがえ、例文も非常に少ない。

*宇津保物語〔970~999頃〕藤原の君「我袖はやどとるむしもなかりしをあやしくてふのかよはざるらん」

日常見かけるものであっても、時代によってだいぶ感じ方は違うようである。

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さりはま書房徒然日誌2023年8月10日(木)旧暦6月24日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー人間という複雑怪奇な生き物を言葉にするとー

屋形船おはぐろとんぼに転がり込んできた女と不自由なところのある女の子供。

船頭の大男が女とわりない仲になってゆく様子を、おはぐろとんぼが語る言葉の紡ぐイメージの面白さ。

わかりやすい文にしてしまえば、うんざりするような展開だろう。

でも言葉の力によって陳腐さが消え、ただ人の心の不思議さにうたれるばかり。

例えば、押しかけてきた女に夢中になってゆく大男の関係は

その関係たるや

緑林の奥で立ち腐れになってゆく

ぼろぼろの空き家……

沈んだばかりの太陽の下で

だらりとぶら下がった素干しの魚……

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」159頁

どうしても離れることのできない二人を、死のイメージを重ね、美しく書く。

死ぬ直前まで減じない

人生そのものに受ける痛手……

しずしずと進む葬列と一対をなす

ぴかぴかの銀盤の月……

そういったもののように

いつまで経っても付きまとい、

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」161頁)

大男と女の幸とは縁遠いこれからを暗示する言葉も、そこまで幸せに縁遠い人生なのか……と心に残る。

踊り狂いたくなるほどの

一世一台の夜が訪れるどころか

食べ残しの弁当を開くや胸にそっと宿るような

その程度のささやかな平安すら得ることもあたわず

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」162頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月9日(水)旧暦6月23日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むーおはぐろとんぼが語る自然にどこか異界感がある理由を考えるー

古びた木造の屋形船おはぐろとんぼが語る周囲の自然。

それは人間の目に映る自然とはどこか違う、この世のものではない感じがどこかする。

見慣れた風景が、言葉の力によって異次元のものに見えてくる……のが丸山作品の魅力と思いつつ、なぜ?と読む。

昼といわず夜といわず

偶然に満ちた生命の営みにきびきびした態度で臨み

深い味わいにあふれて

ほろ苦い色調を帯びた大自然は、

物の道理を闡明してくれそうな青雲をたなびかせる天空の隅々までもが

魔道のごとき雰囲気をかもし

次々に図星を指しつづけることによって

瀕死の生き物に立ち直らせる隙を与えず

(丸山健二「おはぐろとんぼ」下巻121頁)

「昼といわず夜といわず」のリズム感、「きびきびした態度」の躍動感が自然の鼓動を伝えてくる。

「深い味わい」「ほろ苦い色調」という言葉に、自然の奥行きへと心が誘導されてゆく。

「物の道理を闡明してくれそうな青雲」「魔道のごとき雰囲気」で、私たちがイメージしたこともないような妖しい自然のイメージが、むくむくと湧き上がってくる。

「次々に図星を指しつづける」不思議な光景が見えてくるのは、人ではない「おはぐろとんぼ」ならでは。

「瀕死の生き物」で「生」と「死」のイメージが喚起されてゆく。

この世のものではない……に連なるイメージを積み重ねてゆくことで、屋形船おはぐろとんぼから、ここにあるんだけど、どこか違う世界の存在を教えてもらう気がする。

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さりはま書房徒然日誌2023年8月8日(火)旧暦6月22日

移りゆく日本語の風景ー妹背山婦女庭訓の烏帽子職人という設定に思うー

この夏、大阪の国立文楽劇場で上演されている文楽公演2部「妹背山婦女庭訓」は、蘇我入鹿、藤原鎌足、天智天皇の時代が舞台。

江戸時代の浄瑠璃作者・近松半二らが書いて1771年に上演された作品とのこと。

作者・近松半二にとっても遥か遠い時代、見たこともない雲の上の存在の人たちのことを想像をめぐらして書いたのだろう……と感慨にうたれる箇所が随分とある。

烏帽子も、江戸の作者が天智天皇の時代らしくしようと工夫をこらした、そんな設定のひとつだろう。

藤原鎌足の嫡男・淡海は烏帽子職人の求馬に身をやつしているとき、杉酒屋の娘お三輪に惚れられてしまう……。

そんなストーリーに烏帽子職人は江戸時代にも存在する職人だったのだろうか……と烏帽子を調べてみる。

ジャパンナレッジ日本大百科全書によれば、烏帽子とは

冠は公服に、烏帽子は私服に用いられた。形は上部が円形で、下辺が方形の袋状である。地質については、貴族は平絹や紗 (しゃ) で製し、黒漆を塗ったもの。庶民は麻布製のものであったが、中世末期より、庶民はほとんど烏帽子をかぶらなくなり、貴族は紙製のものを使うようになった。

ジャパンナレッジ日本国語大辞典によれば

鎌倉末期からいっそう形式化し、紙製が多くなり、皺(しぼ)を設けた漆の固塗が普通となったため、日常の実用は困難となった。一般に儀礼の時のほかは室町末期から用いなくなった。

ある時代までは庶民もかぶっていたが、中世末期から庶民はかぶらなくなり、室町末期からすべての身分において廃れていったものらしい。

たぶん作者・近松半二は天智天皇の時代らしさをだすために、求馬を烏帽子職人という設定にしたのではないだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2023年8月7日(月)旧暦6月21日

移りゆく日本語の風景ー街路樹ー

大阪は……と言っても文楽劇場界隈から難波にかけてだけなのかもしれないし(東京も木を切りたがる知事がいるから同じようなものだが)、どうも街路樹が寂しい街のような気がする。

どういう事情からかなのかは余所者には分からないが、根本から切り倒された街路樹の痕跡だけが点々と続いている悲しい通りもある。

街路樹が残っている通りにしても、どうも出来るだけ小さく切り詰められていたり、あまり手入れがされていない感じがある。

安全に、交通の妨げにならないように街路樹の手入れをするには財源も、意欲もいることだろう。自治体の財政状況もあるだろう。

しかし緑の貧弱な都市は、その都市の政治をあずかる人の心を反映しているような気もして、実に寂しいものである。

写真は、埼玉県所沢市の航空公園がある界隈である。文楽の地方公演で訪れたとき、堂々たる街路樹がつづく美しさに圧倒された。

ただジャパンナレッジの日本大百科全書で調べてみると、「難波の街路にクワが植えられたと日本書紀にある」そうだ。クワの街路樹が緑陰をつくる大阪の街……なんて、今では想像もできないが、そんな風に緑を愛しむ心の人がこの街を治めていた時代もあったのだ……。

以下、ジャパンナレッジの日本大百科全書の「街路樹」の説明より。

市街地の道路の両側に列植された樹木をいう。

(省略)

 世界でもっとも古い街路樹は、約3000年前にヒマラヤ山麓 (さんろく) につくられた街路グランド・トランクであろうといわれる。これはインドのコルカタ(カルカッタ)からアフガニスタンの国境にかけての幹線の街路であり、一部は舗石を敷き詰め、中央と左右の計3筋に並木が連なっていたという。中国では約2500年前の周 (しゅう) 時代にすでに壮大な並木、街路樹がつくられていた。

 日本の並木、街路樹の起源も古く、『日本書紀』によると、敏達 (びだつ) 天皇(在位572~585)のころ難波 (なにわ) の街路にクワが植えられたとある。聖武 (しょうむ) 天皇(在位724~749)のときには、平城京にタチバナとヤナギが植えられている。さらに遣唐使として入唐(にっとう) した東大寺の僧普照 (ふしょう) が754年(天平勝宝6)に帰朝し、唐の諸制度とともに並木、街路樹の状況を奏上し、759年(天平宝字3)に太政官符 (だいじょうかんぷ) で街路樹を植栽することが決められた。これが行政上の立場から街路樹が植えられた始まりである。桓武 (かんむ) 天皇(在位781~806)時代には、平安京にヤナギとエンジュが17メートル間隔に植えられ、地方には果樹の植栽が進められた。その後、鎌倉時代にはサクラ、ウメ、スギ、ヤナギが植えられている。江戸時代になると、各地にマツ、スギ、ツキ(ケヤキの古名)などが植えられた。

 近代的な街路樹は、1867年(慶応3)に横浜の馬車通りにヤナギとマツが植えられたことに始まる。1874年(明治7)には東京の銀座通りにサクラとクロマツが植えられたが、木の成長が悪く、1884年になってシダレヤナギに植えかえられている。(省略)

 1977年(昭和52)の調査(林弥栄ほか)によると、東京都23区内の街路樹総本数は15万5000本、三多摩地区5万1000本、総計20万6000本である。このうち、本数の多い樹種はイチョウ、プラタナス、トウカエデ、シダレヤナギ、エンジュ、サクラ、ケヤキの順となっている。(以下省略)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月6日(日)旧暦6月20日

移りゆく日本語の風景—鈴虫—

先日、江戸時代はほとんど無視されていたのに、近年になって取り上げられるようになった花、ヒマワリについて書いた。

ヒマワリとは逆に昔は文学作品によく取り上げられながら、近年あまり見かけないなあと思う存在がある。鈴虫である。

鈴虫は、源氏物語の第三八帖(源氏五十歳の夏から秋八月までを描いた)の巻名にもなるくらい、平安時代から親しまれてきた。

ジャパンナレッジで「鈴虫」を調べて見ると、「鈴虫の宴」とか「鈴虫の鉄棒」という言葉があって、人々の生活に鈴虫が親しまれていた様子が伝わってくる。

*源氏物語〔1001~14頃〕鈴虫「こよひは、すずむしのえんにてあかしてんとおぼしの給ふ」

「鈴虫の鉄棒」という言葉は初めて知った。「突きながら歩くと、鈴虫の鳴き声のように鳴りひびく鉄棒」だそうで、こんな例文がある。何やら涼しげである。

*随筆・守貞漫稿〔1837~53〕一六「鈴虫の鉄棒 ちりんちりんちりんと鳴る鉄棒也

鈴虫の例文はとても多く、折に触れて日本人の心を動かす存在だったのだなあと思う。

*枕草子〔10C終〕四三・虫は「虫は すずむし。ひぐらし。てふ。松虫

*藤六集〔11C初〕「おほしまにこころにもあらずすすむしはふるさとこふるねをやなくらん」

*源氏物語〔1001~14頃〕鈴虫「げに、こゑこゑ聞えたる中に、鈴虫のふり出でたるほど、はなやかにをかし」

*桂宮丙本忠岑集〔10C前〕「山のはに月まつむしうかがひては、きんのこゑにあやまたせ、あるときには、野辺のすずむしを聞ては、滝の水の音にあらかはれ」

*日葡辞書〔1603~04〕「Suzumuxi (スズムシ)」

*俳諧・鶉衣〔1727~79〕前・下・四八・百虫譜「促織(はたおり)鈴虫くつわむしは、その音の似たるを以て名によべる、松むしのその木にもよらで、いかでかく名を付たるならん」

*幼学読本〔1887〕〈鈴虫権左衛門鈴虫権左衛門西邨貞〉四「松虫と鈴虫とを父にもらひたり、いづれも小さなる虫籠の中に入れおけり」

その他、鈴虫勘兵衛とか鈴虫権左衛門という江戸時代の歌舞伎の唄い方もいるようで、美声だったのだろうなあと想像する。

鈴虫には、その他の意味として「主君の側近くにはべり仕える人。侍従。おもとびと」とか「(鈴口から殿様を迎えるところから)正妻のこと。妾を轡虫(くつわむし)というのに対していう」という意味もあるようである。

なお鈴虫と松虫の違いについて、ジャパンナレッジの日本国語大辞典によれば以下のように記されている。

「鈴虫」と「松虫」の名は、いずれも中古の作品から現われるが、現在のように「リーン、リーン」と鳴くのを「鈴虫」、「チンチロリン」と鳴くのを「松虫」というように、鳴き声によって区別することができる文献は近世に入るまで見当たらない。そのうえ、近世の文献においても両者は混同されており、一概にどちらとも決め難い。初期俳諧でも、現在の鈴虫と解せる例と松虫と解せる例と両様である。しかし現在では、中古の作品に現われるものについては、「鈴虫」を「松虫」と、「松虫」を「鈴虫」と解するようになっている。

かつては文学作品に、日常生活にあふれていた鈴虫だが、近代小説ではあまり見かけない気がする。

私自身も今年になってから、鈴虫の声を一度も聞いていない。

今回鈴虫の写真を探そうとして、フリーの写真サイトを探しても殆どなかった。

いまや鈴虫は遠い存在になってしまったのではないだろうか。寂しいことである。

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さりはま書房徒然日誌2023年8月5日(土)旧暦6月19日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー屋形船の放つ怒りに心ざわついてー

屋形船おはぐろとんぼは川をくだって、うつせみ町にさしかかる。

うつせみ町の様子に向ける、おはぐろとんぼの怒りの言葉の数々を読んでいると、うつせみ町とは今の日本そのものではないか……と思えてくる。

つまり、丸山先生が現代の日本に向けて放つ怒りの言葉なのだ。

最近好まれる文学は「わかりやすい」「共感できる」「心地よい」ものが多い気がするけれど、私は怒りの矢をドンピシャで放って、怒るべき状況をかわりに表現してくれる文学の方がいいな……。

でも怒りを含んだ文学はとても少なくなってきている気がする。

根拠が薄弱な悪税に苦しんでも

正面切って異を唱える度胸を示そうとはせず

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻44頁)

国民の最大の共有財産たる戦争放棄の憲法が蔑ろにされ

民主的で平和を愛する国家から

侵略的で帝国主義的な強国へ乗り換えようとしている

まさにこの時において

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻45頁)

自由と平等の全否定にほかならぬ国家権力に対し

怒りのかたまりとなって突進して行く者は皆無であり

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻45頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月4日(金)旧暦6月18日

移り変わる日本語の風景ーひまわりー

夏の花といえばヒマワリ。映画にも、ポピュラーミュージックにも、アニメにも、朝ドラにも、絵画にも……ヒマワリはテーマとして使われ、ヒマワリが氾濫している感じがある。

だが日本でヒマワリが題材として文学作品で扱われるようになったのは、近年になってからではないだろうか?

ヒマワリは北米原産、日本に渡来したのは江戸時代らしい。だが江戸時代、殆ど文学作品にヒマワリは登場しない。ヒマワリの異名、向日葵、ひぐるま、にちりんそう、てんがいばな等で調べても、どうも愛されているような気配のある例文はない。

ジャパンナレッジで調べてみると、多いのは植物図鑑からの例文。

*花壇地錦抄〔1695〕四、五「日廻(ヒマハリ) 中末 葉も大きく草立六七尺もあり。花黄色大りん」

*日本植物名彙〔1884〕〈松村任三〉「ヒマワリ 向日葵」

*訓蒙図彙〔1666〕二〇「丈菊(ぢゃうきく) 俗云てんがいばな 丈菊花(ぢゃうきくくゎ)一名迎陽花(げいやうくゎ)」

文学作品への登場はとても少ないし、たまに見かけてもヒマワリが可哀想になる例文である。

*雑俳・大花笠〔1716~36〕「日車じゃ・旦那にほれた下女が顔」

次の山口誓子の俳句になってから、だんだん風情を感じてもらうようになったのではないだろうか?

*炎昼〔1938〕〈山口誓子〉「向日葵(ヒマハリ)に天よりも地の夕焼くる」

中原淳一が少女向け雑誌「ひまわり」を刊行したのは、山口誓子の俳句から九年後のことである。だんだんヒマワリの華やかなイメージも受け入れられるようになってきたのではないだろうか?

なお「てんがいばな」という響きが素敵だな……と思ったけれど、「ヒガンバナ」と「ヒマワリ」、両方を指すらしい。ずいぶんかけ離れた花同士のように思うが、なぜなのだろう?

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さりはま書房徒然日誌2023年8月3日(木)旧暦6月17日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー屋形船おはぐろとんぼが徒然川の流れをたとえればー

「おはぐろとんぼ夜話」下巻の冒頭は結構手強かった。

屋形船おはぐろとんぼが徒然川の流れを見ながら、あれこれ思索に耽る場面。

「おはぐろとんぼ」は丸山先生自身でもあると思う。

つまり川の流れが丸山先生の心に喚起する概念が、どっと私の心に流れ込んでくるようなものだ。

その思念の深さに、気がつけば置いてけぼりをくらっている。でも落ちこぼれているのに日本語が心地よく苦にならない……それではいけないと二度繰り返して読む。

以下の引用箇所は、屋形船おはぐろとんぼが徒然川の流れをあれこれと色んなものにたとえている……のだと思う。

擬人法でずっと語られてゆく徒然川……その例えがとても面白く、今までとは違う世界が見えてくる。

とくに最後の「十字形花冠が似合う節足動物」という漢字が喚起するイメージに惹かれてしまった。

十字形花冠とは「4枚の同形同大の花弁が十字の形に並んでいる花冠で、アブラナ科の花がこれに属する」(旺文社 生物事典」)らしい。

節足動物はエビ、カニとかクモやダニらしい。

「十字形花冠が似合う節足動物」という言い方は思いもよらなかったけれど、ぴったり。

そしてカタカナで「ナノハナ」「クモ」と表現されるものとは、まったく別の生き物になるようなパワーがある。

言葉とは不思議なもの……言葉の力を感じた次第。

植物のあいだで交わされる言語を解すること

それ自体が無理だというのに

波音の波長をさかんに切り替えながら

執拗に迫り、

街角の小暗い場所に設置されている

青春の放胆さがいっぱいに書き殴られた

ぼろぼろの伝言板を

いかにも唐突に想起させるのだ。

もしくは

漢方薬のようにじわりと効いてくる

もってのほかの苛立ち……

端午の節句の由来をたどるくらい

どうでもいいこと……

悪評を買うばかりの

お上への泣訴……

恒常的に不快に思ってしまう

アルファにしてオメガなるもの……

それらを

なぜか十字形花冠が似合う節足動物といっしょに

みごとに連想させ

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻10ページ)

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さりはま書房徒然日誌2023年8月2日(火)旧暦6月16日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻を読みながら比喩を少し考える

丸山文学の面白さのひとつに、思いもよらない比喩表現がある。

こんな例えは出会ったことがない……という表現に次から次へと遭遇。

その度に、わたしの思い込みの激しい頭で決めつけていた世界が少しずつ崩壊して、新しい目でこの世を眺めている面白さがある。

だが考えてみれば、学校の国語教育では「比喩」の意味を教わることはあっても、その楽しみ方や比喩にチャレンジした作文なんて教えを受けることはほとんどなかった。

こんな現状では、たぶん丸山作品の面白い比喩に出会っても、たいがいの人は「これなに、分からない」で終わってしまうのではないだろうか?残念なことではある。

さて、船頭の大男がゆきずりの女との恋を楽しみ、屋形船おはぐろとんぼが憤りにかられつつも、次第に諦めてゆく場面。

全体にぬらりとした感じの妖美を漂わせる

紫がかった峰の端に

なぜか碾き割麦を彷彿とさせる月がゆらりと昇る頃には

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻582頁)

心になぜか「碾き割麦を彷彿とさせる月がゆらりと昇る頃」というフレーズが刺さり、イメージを反復したり、なぜ気になるのか……考えてしまう。

まず無知の悲しさで「碾き」という漢字の読みが自信なく、調べて「ひき」でよい……と確認。

さらに「碾き割麦」というものがイメージできないながら、麦畑の麦のイメージと月を重ねることで、心惹かれてゆく。

「碾き割麦」を調べてみると、イメージとは少し違うなあ……

ミューズリーの押し麦みたいなものかなあ……

サイズ感は違ってもゴツゴツした感じが月とぴったりかも……

小さい感じが夜空に遠く見える感じと重なってよいかも……などと思う。

碾き割麦」も、「月」も自然界のものだから、かなりイメージが違うようでも、意外とぴったりするのだろうか?

それとも、ここは大男の恋の場面だから、「ぬらり」「峰」「碾き麦」とかセクシュアルな意味も重ねているのだろうか?

英語だったら、”as”とか”like”が使われて、訳文も「〜のように」とワンパターンになりがちだけど、日本語だと「彷彿とさせる」という言い方でバリエーションをつけられるのも面白いと思う。

続く大男が女との恋に激情を感じる場面でも、麦関連の比喩で例えている。

有数の穀倉地帯に

突如として殷々たる砲声が轟くような

強烈な衝撃が立てつづけに走り

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻582頁)

読んでいると違和感がなく、かけ離れた例えが不思議に心に残る。穀倉地帯も、恋も自然の営みだからなのだろうか?

そういえば、丸山健二塾でご指導をいただいていると、こんな発想で比喩を使うのか!とやはり比喩がとても勉強になることを思い出した。

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さりはま書房徒然日誌2023年8月1日(火)旧暦6月15日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻を読む

まるで山の仙人さまみたいに俗世から離れた視点で、鋭い語りを続ける屋形船「おはぐろとんぼ」……この語り口は記憶にあるが、はて誰なのやら?

不思議な屋形船おはぐろとんぼ……それは作者の丸山健二先生が投影された姿なのかも……と、以下の文に思った。

どう頑張ったところで

でしゃばりな性状を自制することができなくても

人間観察に関してだけはいささか自信を持っている

この私からすれば

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻508頁)

これは丸山先生そのものだ。作者が船に姿をかりて語るとは……散文は面白い。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月31日(月)旧暦6月14日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻を読む

世に蔓延る嫌な風景を思うままに並べ、最後に「お盆前の雑草のごとくほとんど無制限にはびこっていった」と締めくくる。

嫌なことが書いてあるのに、思いも寄らない表現なので、どこか言葉を楽しみながら読むことができる。

突拍子もない言い方が最後に「お盆前の雑草」というドンピシャの、生活感にあふれる文で終結すると、「そうだなあ」と思わず納得する。

「おはぐろとんぼ夜話」は慣れるまでは読みにくいかもしれないが、慣れてしまうと詩のように次々とイメージが連なっていくのが楽しい。散文の醍醐味を感じる作品だと思う。

人生の舞台の中央に集光する

からかいの言葉にも似たどぎつい輝き……

肉体に縛りつけられていることが原因の

ひどく恥さらしな試練……

防潮林のごとき地味な役回りに甘んじている

心の安全弁の腐朽……

生き抜くためならなんでもござれの

度を越した善悪の逸脱……

結果的に魂を誤らせることになる

どこまでも欲望の流れに沿った放言……

そういったものが

お盆前の雑草のごとく

ほとんど無制限にはびこっていった…

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻488頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年7月30日(日)旧暦6月13日

ジャパンナレッジの日葡辞書の例文に暑さを忘れて

暑さや諸々の憂いを忘れるには……?

私の場合、異なる言葉に身をゆだね、その向こうの世界に想いをめぐらすことだろうか……?

異なる言葉が英語の場合もあるが、あまりにも違いがありすぎて、かえってストレスが高くなることもある。

その点、昔の日本語に身をゆだねると、今と繋がりがあるようでいて、どこか違う差異が驚きでもあり、楽しさでもある。

昔の日本語との出会い方は色々あるだろうが、ジャパンナレッジで日葡辞書の例文をボケッと眺めるのも楽しい。

ジャパンナレッジのサイトにある日葡辞書についての今野真二氏の説明は、以下のとおり。

イエズス会の宣教師たちと日本人信者とが協力して編んだと考えられている『日葡辞書(にっぽじしょ)』という辞書がある。慶長8(1603)年に本編が、翌9(1604)年に補編が出版されている。日本語を見出しとして、それにポルトガル語で語釈を配した、「日本語ポルトガル語対訳辞書」である。

 見出しはアルファベットによっていわゆるローマ字表記されている。例えば「松茸」は「Matçudaqe」というかたちで見出しになっている。イエズス会の宣教師たちはポルトガル語を母語としているので、このローマ字のつづり方はいわば「ポルトガル式」ということになる。

日葡辞書とは、1600年頃の日本語の発音、アクセント、意味がわかる言葉のタイムマシンなのだ。

ジャパンナレッジのサイトで、日本国語大辞典、日葡辞書と入力、さらに細かい言葉を入力する。

例えば「夏」と入力すると、日葡辞書にある「夏」関係の言葉が13件ヒットする。

その中の「夏熱」の項目は以下のとおり。

日葡辞書には「暑さ」「暑い」「寒さ」「寒い」という言葉はないようだ。昔が暑くなかった筈がない。そういう簡易な語彙は外したのだろうか……?

ジャパンナレッジは有料サイトだが、言葉のタイムトラベルを楽しむことができるのでオススメ。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月29日(土)旧暦6月12日

仁木悦子「子をとろ 子とろ」を読む

民話調のタイトルも響きがよく、「読んでみたい」と興味をそそられる。

子供を見ると追いかけてくる「子とろ女」の怪談が大切なベースとなっているのも面白い。

怪談に怯える子供たちの様子も生き生きとしている。

だが40ページの短さに登場人物がおそらく15人以上。人物への説明が多くなり、せっかくの怪談風味を打ち消している。こんなに人物説明が必要だろうか?

冒頭部分から母親が、自分の子供を「幼稚園から帰っておやつを食べていた息子の哲彦」とか「哲彦の妹の鈴子」と、読み手に説明するのも白ける思いがする。

最後、犯人の状況について色々説明して犯行動機を納得させようとするところも、何だかわざとらしいし、もう少しそういう雰囲気を書いておいて欲しかったと思う。

タイトルと怪談そのものがよかっただけに残念である。怪談とミステリーの両立は難しいのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2023年7月28日(金)旧暦6月11日

移りゆく日本語の風景ー病院ー

今日は定期通院で総合病院へ。通院している病院は遅くなればなるほど、診察、会計、薬局と雪だるま式に待ち時間が長くなってゆく。だから朝一番に予約する。

総合病院、病院、医院という言葉だが、もとは病院という言葉があって、だんだん区別するような形で総合病院、医院と別れていったらしい。他の言葉に比べると、文学上の例文はあるけれど、多くはない気がする。

日本国語大辞典によれば、病院は

もとは中国明代末にヨーロッパから渡来したキリスト教宣教師による漢訳語。日本へは、蘭学者によって、近世後期に紹介され、次第に広く使用されるようになった。

とのことで、例文も最初の頃は外国の話の聞き覚え的な本に出てくる。

*紅毛雑話〔1787〕一「病院 同国中にガストホイスといふ府あり、明人病院と訳す」

*七新薬〔1862〕七「プロムトン〈略〉の大病院にては、少壮の人肺労の素因ある者に之を常服せしめて、其病の発生を防ぐと云へり」

近代文学の中に出てくる病院、医院、総合病院。それぞれ雰囲気が出ているなあと思うが、やはりどこか寂しい心が伝ってくる。病気もしがちだったろう文学者たちにとって、病院は身近だけれど、あまり書く気のしない場所だったのかもしれない。

まずは病院から。

*悲しき玩具〔1912〕〈石川啄木〉「病院に入りて初めての夜といふに すぐ寝入りしが 物足らぬかな」

次に医院。こちらは病院より小規模のものを言うためか、裏寂しい描写が強まっている気がする。

*うもれ木〔1892〕〈樋口一葉〉五「押たてし杭(くひせ)の面に、博愛医院(イヰン)建築地と墨ぐろに記るして」

*田舎教師〔1909〕〈田山花袋〉五九「門にかけた原田医院といふ看板はもう古くなって居た」

最後に総合病院。安心と信頼を感じる描写のような気がする。

*マヤと一緒に〔1962〕〈島尾敏雄〉「K市にある設備のととのった綜合病院で一度診察してもらうことは」

*暗室〔1976〕〈吉行淳之介〉一四「週に二回、都心の綜合病院へ行って、アレルギーのための注射を打ってもらう」

(以上、青字は全て日本国語大辞典よりの引用)

読んでいるときは病院、医院、総合病院……全く意識しないで読んでいたけれど、こうして比べてみると、それぞれの描写に書き手の心境が現れているなあと思う。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月27日(木)旧暦6月10日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

屋形船おはぐろとんぼは徒然川を下ってゆくうちに、里山の露草村を離れ、都心部へと近づく。

だんだん見えてくる人間の在り方も寂しいものに変わっていって、都会に暮らすことへの丸山先生の嫌悪を感じる。

嫌悪しつつも都会の蝕まれてゆく雰囲気を美しく描いているなあと思う。

嫌な存在を、思わず読んでしまう書き方で表現されているところに散文の面白さを感じる。

生まれてこの方

推挙など誰からも受けたことがない

週日のようにつまらぬ個々の人々の

間尺に合わない一生が浮き彫りになり、

そんなかれらが次々に没してゆくしかない

朽ち葉色の沈黙の世界が

胸にじんとくる追憶を

ことごとく破壊し尽くし

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻453、454頁)

堀田季何「俳句ミーツ短歌」&「惑亂」でようやく枕言葉の面白さがわかった!

長い間、私にとって枕言葉とはただ一方的に教師から説明されるだけの存在で、昔の人はなぜこの言葉とこの言葉を結びつけたのだろう……どこが面白かったのだろう……と心の中で疑問に思いながら、「古典の公式だもの、仕方ない」的な感覚で受け入れていた。

堀田季何「俳句ミーツ短歌」は色々面白い視点に溢れているのだが、「第四章 歌語ネバー・ダイズ短歌、俳句の語彙」の中の「枕言葉は五文字の盛り上げ役」の箇所を読み、枕詞への明快で理論的な説明で、長い間の疑問がすっと溶けていった……気がする。以下、少し長くなるが青字は同書より引用部分。

 明確な意味は持たない枕詞ですが、枕詞があると修飾される言葉が際立ち、音の流れも美しくなります。そのため枕詞は生き残ったのでしょう。(途中省略)

 久方の光のどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ  紀友則

(光のおだやかな春の日に桜の花はなぜあわただしく散るのだろう)

 ここでは「ひさかたの」は「光」と「日」にかかって、ムードメーカー的な役割を果たしています。すなわち「ひ」のやわらかな音の連続が、春風駘蕩とした雰囲気をつくりだしているのです。しかし、「しづごころなく」と咎めるような言葉が、聞く人、読む人を少し驚かせます。そこに「花の散るらむ」と続き、やわらかに落ち着きます。

(青字は堀田季何「俳句ミーツ短歌 第四章 歌語ネバー・ダイズ短歌、俳句の語彙より」

枕詞について分かりやすく説明してくれた筆者・堀田季何の歌集「惑亂」も少しづつ読んでいるが、使われている枕詞が全然古びていない気がする。古くから使われている枕詞が現代の不気味さを伝える言葉に生まれ変わっているように思う。以下、堀田季何の歌集「惑亂」より。

ぬばたまの黒醋(ず)醋豚を切り分けて闇さらに濃く一家團欒 (堀田季何)

「ぬばたま」って独特の強烈な響きがある……ナ行のせいだろうか。ナ行の強さと「切り分け」という言葉の強さにやりきれなくなったところにくる言葉が「闇」だ。「一家團欒」と旧字が使われているせいで、昔からの家族を大事にする価値観にやり切れなさを感じてしまう。

ぬばたまの醤油からめてかつ喰らふセシウム検査證なき卵 (堀田季何)

ここでも私が「ぬばたま」から感じるのは不安である。その不安が「からめてかつ喰らふ」という慌ただしい動作で増幅され、さらに「セシウム検査證なき卵」で不安が確定される。ここで「セシウム検査證」と旧字体になっていることにより、時代が曖昧になって大昔あるいは未来のことを語っているようなSFチックな気分にもなる。

……などと勝手に書いてしまったが、この歌の私の解釈は違うのかもしれない。でも古くからの枕詞を現代に甦らせようと作者は試みているのだと思うし、その試みが楽しみである。

それにしても枕詞って面白いなあ……枕詞って五文字なんだと「俳句ミーツ短歌」で初めて気がついた……散文に枕詞を入れてみたいなあ、散文だと合わないだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2023年7月26日(水)旧暦6月9日

移り変わる日本語の風景ー花火ー

この時期、花火の予定をこまめにチェックしてから外出しないと、思わぬ人混みに巻き込まれる。

ふだんは改札が一箇所しかないような河辺の寂しい駅。それが花火大会ともなると人があふれ、ホームから改札に出るのも10分以上かかる。完全にキャパシティをオーバーした状態だ。

さて、かくも人を夢中にさせる花火とは……と、日本国語大辞典でその歴史を紐解く。以下、青字部分は日本国語大辞典の説明を抜粋。

花火は鉄砲とともに……。

1543年の鉄砲伝来以降、武器の一種として伝わった。

徳川家康も花火に夢中になった様子。

1613年、徳川家康が、唐人の上げた娯楽用の花火を見物したといい、その頃より花火師が現われた。瓦屋根が少ない江戸の町では火事の元ともなり、町中で打ち上げることに対する禁令が1648年以降度々出された。

「川開き」という言葉は花火に由来している。

場所を水際に限られてからも人気は衰えず、元祿の頃には町人の花火師による茶屋花火、花火船などで賑わった。その時期が旧暦五月二八日から八月二八日に定められたので、その初日を「川開き」と称し、隅田川の両国橋付近で大花火をあげるようになった。この花火の製造元は両国の鍵屋ならびに鍵屋の別家玉屋で、打上げの際に「カギヤ・タマヤ」と声をかけるのはこれによる。以後、第二次大戦中を除き、川の汚染で中止となる1961年まで毎年行なわれ、1978年復活した。

今でこそ「花火」=「夏」「夏休み」のイメージだ。

だが旧暦の時代、八月中旬以降は秋の扱い……なので、季語としては本来「花火」は秋の季語だそう。

現代の季節感覚とはずれがあるので、夏の季語として扱ってもよいらしい。

季語がいつであろうと、次の泉鏡花の俳句は涼やか。鏡花のように花火は遠くにて静かに見るもの……かもしれない。

花火遠く 木隠(こがくれ)の星 見ゆるなり(泉鏡花)

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さりはま書房徒然日誌2023年7月25日(火)旧暦6月8日

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

屋形船おはぐろとんぼは周囲の自然に思いを寄せる。

丸山先生の目に映る信濃大町の風景にも、山との対話にも思えてくる。

自然を語ると同時に生死を、時を語る雄大さがよいなあと思う。

夏の盛りであっても山嶺に雪をいただく山吹岳を軸とする

晴曇定めなき天候に感情の動きをぴたりと合わせ

朽ち葉にうずもれた墓のなかで魂を放棄する死者たちを

ひとり残らず黙って受け容れ、

時がもたらす善と悪の強固な結合を

胸がすくほどの手際によってすっぱりと断ち切り、

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中417頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年7月24日(月)旧暦6月7日

移りゆく身近な言葉ー海水浴ー

当たり前のようになじんでいる言葉も、少し時代が違うだけで言葉が喚起するイメージは違ってくる。

たとえば海水浴とか海の家もそうだろう。

わたしが時々出かける伊東市宇佐美の海岸も、20年くらい前までは海岸沿いに海の家が四、五軒たち、地元の民宿は一年分の稼ぎを一夏で稼いだという。

それが年を追うごとに海水浴客が減り、海の家も一軒ずつ減ってゆき、今では海の家は一軒もない。時折サーファーの姿が波間に見えるだけの静かな夏の浜が広がっている。

さて海水浴という言葉は、もともと英語からきた言葉らしい。

世界百科事典はその言葉の起源についてこう説明している。

18世紀の中ごろ,イギリスの医師R.ラッセルが,海浜の空気を呼吸し,海水に浸り,海水を飲むことの医療的効果を唱え,ブライトンの海岸に患者を集めて実行したのが近代の海水浴sea bathingの始まりとされる。

日本での海水浴の起源について、世界百科事典にはこうある。

日本で海水浴という用語(おそらく英語からの訳)を初めて用いたのは軍医総監松本順(良順)だが,1881年愛知県立病院長後藤新平が医療的効果を説いて,愛知県千鳥ヶ浜(もとの尾張大野)に日本最初の海水浴場を開き,85年には松本順らが神奈川県大磯の照ヶ崎海岸に海水浴場を開いた。

海水浴という言葉はどうやら歴史の浅い言葉のようで、同じ意味の「潮浴しおあみ」にしても、「潮湯治しおとう」にしても例文はとても少ない。

上記引用の説明のように海水浴場が開かれたあと、神戸の新聞に海水浴という言葉が使われ、やがて鉄道唱歌で「海水浴」と歌われるようになって、1907年には泉鏡花「婦系図」にも記されている。あっという間に海水浴が普及してゆく様が感じられる。(引用は日本国語大辞典「海水浴」の項目の例文)

*神戸又新日報‐明治二〇年〔1887〕八月二四日「一の谷の海水浴に付いては、前号の紙上に記する所ありしが」

*唱歌・鉄道唱歌〔1900〕〈大和田建樹〉東海道「海水浴(カイスヰヨク)に名を得たる 大磯見えて波すずし」

*婦系図〔1907〕〈泉鏡花〉前・五九「暑中休暇には海水浴に入(いら)しって下さい」

どちらかといえば健康療法的に始まった海水浴が、経済の成長と共にみるみるうちに国民的レジャーとなって、国の衰退と共にいままた静けさを取り戻しつつある……。

あと10年後、20年後、海水浴という言葉はどんなイメージの言葉になっているのだろうか?

母なる海に由来する言葉でありながら、人間の都合でイメージが変わってゆくことに戸惑いもある。一方で思いもよらない海水浴のイメージがこれから現れるのかも……という期待もある。さてどうなってゆくやら?

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さりはま書房徒然日誌2023年7月23日(日)旧暦6月6日

夏祭り……夏祭浪花鑑の鯵はお供え用?

この週末、夏祭り組……と思われる人がとても多かった。

考えてみれば真新しい浴衣の幼子たちも、着慣れない浴衣に居心地悪そうにしている娘さんたちも、コロナ禍のせいで久しぶり、あるいは初めて浴衣を着て参加する夏祭りなのだろう……うれしそうな様子も無理はない。

街は夏祭りへの期待感にあふれている。これから葛飾区、隅田川、江戸川区……祭はエンドレスに続き、この期待もますます膨らんでゆくのだろうか?

さてジャパンナレッジで「祭」の項目をチェックしたところ、日本国語大辞典(4)の説明と例文に目がいった。

祭礼の際に神仏にささげるもの。まつりもの。

浄瑠璃・夏祭浪花鑑1745「どりゃ焼物を焼立て祭(マツリ)進じょと立女房」

女房お辰(立)が自分の心根を証明するために鯵を焼いていた火箸を顔に押しつけ醜い火傷痕をわざとこさえる有名な場面。

あの鯵は神様仏様に供える鯵だったのか……とジャパンナレッジで知った次第。てっきり晩ご飯のおかずにするのかと思っていた……。夏の文楽公演でよく観てみよう。

浴衣の俳句を以下に引用。

口開けて 金魚のやうな 浴衣の子 (三吉みどり

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さりはま書房徒然日誌2023年7月22日(土)旧暦6月5日

勤め人人生のデトックスを……

勤めている頃は、みんな休日の終わりが哀しくて仕方なかった筈なのに…

退職すると、意外にも職場が恋しくなる人が多い気がする。

かつての同僚たちと畑仕事をしたり(退職後も管理職、ヒラとはっきり別れて別々に畑仕事をしている姿には笑ってしまった)、

旅行に出かけ、

何か少しでも職場繋がりの集まりがあれば参加する……そんな人が業種を問わず多い気がする。

人生の大半を職場で過ごし、嫌々であっても価値観を共にしてきたのだから、母体である職場消失に耐えられないのかもしれない。

そんな個人を見透かしたように、国は定年延長だの、再任用だの唱え、職場が永遠の運命共同体になるように仕掛けている。

でも可能なら仕事を離れる期間は必要だと思う。そのまま仕事を辞めるなら、職場からのデトックスを心がけなければ……と思う。

職場の価値観よ仲間よサヨウナラ、ハロー本来の自分新しい自分……そんなデトックス期間が必要だし、デトックスに踏み切れるだけの余力を残して働かなくてはいけない気がする。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

丸山作品を読んでいて心打たれることのひとつに、ありふれた生を送っていた人たちの終焉の描き方に言葉を尽くして心をこめて送り出している……という点。

感嘆するほかない

雪と見紛う亜高山帯に咲く純白の花々のなかで

大きく深呼吸をした際に

いきなり体調に乱れが生じたかと思うと

以後

それきり再起不能に陥ってしまい、

ほどなく

だしぬけに気が転倒したあげく

突風をくらった案山子のごとく

ばたんと卒倒し

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻345頁)

あるいはこんな風にも……。

淡雪を巡って春の光がゆらめくなか

風にかしぐ草を思わせる乱髪の老人が

寂滅の意味をやすやすと超越した絶命を迎え、

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻351頁)

とても辛辣な描写をすることもあるけれど、普通の人の最期をかくも美しく書く心に、凡庸な生へのレスペクトがあるように思う。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月21日(金)旧暦6月4日

白熊が恋しくなる……

連日の猛暑。カップアイスの白熊でなく、お店で白熊が食べたいなあと思う。

白熊をご存知ない方もいるかもしれない。鹿児島天文館むじゃきが昭和24年に販売を開始したとされるかき氷だ。

氷にかかった程よい甘みのシロップ。まるで白熊の顔になるようにフルーツで飾った氷の愛らしさと言ったら……。氷の外側と内側に添えられた煮豆も素朴な美味しさ。

白熊を食べると、昭和の右肩上がりの時代に迷い込んだような感じになって、お先真暗な時代の閉塞感が忘れられそうだ。

東京近郊では、有楽町駅前鹿児島物産館のレストランで食べられる。白熊だけでもOKだったと思う。ただし混んでいる店なので、昼時、夕飯時は外した方が無難。通常サイズだとあまりにも大きいので、ベビー白熊の方がおすすめ。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

屋形船おはぐろとんぼが露草村の村人たちのことを語る。

おはぐろとんぼの脳裏に浮かぶ村人一人一人の記憶が、それぞれ二行くらいの文で語られてゆく。

通常の小説なら、誰がどうした……次に誰がどうした……と進行するところ、丸山健二は二行単位の文で様々な記憶を連ねてゆく……。

最後の長編小説「風死す」を思わせる文体である。慣れてしまうと、こちらの方が様々な人間群像が浮かんで頭に入ってくる。

文字数をざっと目で数えると、以下の引用箇所は(34字19字 合計53字)(27字31字 合計58字)(27字20字 合計47字)である……。短歌の文字数にも近い……。

でも文を切ることなく、個々の村人を語る文を連ねてゆき、大きなひとつの流れを創り出している。人の頭の中を覗きこむような思いにもなる。

斜め後ろから飛ばされる険悪な視線を感じてふり返るたびに

そのつどそこに別な自分を発見し、

何気なく口走った冗談がもとで知己を傷つけて

せっかく築きあげてきた八十年来の親交を絶たれ、

ぼろぼろの人生の薄汚い舞台裏がお似合いの

無力にして無責任な影法師と化し、

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話)中339頁)

丸山文学によく出てくるもう一人の自分が出てきている……この自分は嫌な奴だなあと思わず引用。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月20日(木)旧暦6月3日

俳句や短歌雑誌の発行部数の多さは予想外!

失礼ながら、つい最近まで、俳句や短歌雑誌なんてあまり一般人は読まない……リタイアしたお年寄りの読み物……無知とは怖いものながら、そんなふうに私は思っていた。

それが短歌創作の講座を受け、短歌や俳句の本を読むようになってイメージが一変する。講座には若者からシニアたち、幅広い年齢層のひたむきな創作パワー&日本語への愛があふれているではないか!

さて短歌や俳句雑誌の発行部数を見てみれば、

角川「俳句」50000部(月刊)

角川「短歌」36000部(月刊)

文藝春秋「文学界」10000部(月刊)

「新潮」(月刊)&「群像」(月刊)6000部

ハヤカワミステリマガジン(奇数月刊)15000部

ちなみにAERAが64300部である。

単純に数字で比較してしまえば、小説の文芸誌よりも短歌や俳句の雑誌の発行部数の方が多いことになる。

この発行部数の違いをどう考えるべきなのだろうか……と時々思う。

私が知らなかっただけで、短歌や俳句を創作する人たちはとても多く、年齢も多岐にわたって裾野が広いということもあるだろう。

短歌や俳句の場合、読者であると同時に其々が創作者である……という状況も、専門誌を熱心に手に取らせるのだろう。

小説の文芸誌の場合、手にするのは一部の読み手か、自分も書いてみようと思う書き手だろうか……どっちにしても大した数ではあるまい。

中身にしても、「俳句」や「短歌」にはハッとする日本語に必ず遭遇できる楽しさがあって、永久保存にしておきたい密度がある。さらに電書で購入できるし、紙版がよければ図書館には必ずある。

それにしてもこんなに発行部数があるとは……部数がすべてではないだろうが、関心を持っている人の存在をあらわしてはいる。

小説や翻訳物を読む層の減少を感じる昨今、まずその数に驚き、理由を色々思う次第である。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月19日(水)旧暦6月2日

青空文庫で大杉栄「奴隷根性論」を読む

「奴隷根性論」で滑稽なくらいの奴隷の姿をこれでもか……と大杉栄は例としてあげ、こう述べる。

「服従を基礎とする今日のいっさいの道徳は、要するにこの奴隷根性のお名残である」

そんな話は大杉栄の時代……と笑う人もいるかもしれない。だが職場でも、学校でも、家庭でも、相手を奴隷としてしか見ることのできない人種とは、今でも結構多いものだ。

相手を奴隷視する、いつの間にか奴隷になってしまっている……という状況は無理やりそうなったのかと思っていた。

だが大杉栄の文を読んでいると、そういう感覚はもともと私たちのDNAに組み込まれているような気がしてきた。そう、気をつけないと、すぐに奴隷になってしまうし、相手を奴隷扱いしてしまう……。

主人に喜ばれる、主人に盲従する、主人を崇拝する。これが全社会組織の暴力と恐怖との上に築かれた、原始時代からホンの近代に至るまでの、ほとんど唯一の大道徳律であったのである。

 そしてこの道徳律が人類の脳髄の中に、容易に消え去ることのできない、深い溝を穿ってしまった。服従を基礎とする今日のいっさいの道徳は、要するにこの奴隷根性のお名残りである。

 政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたりするのは、何でもない仕事である。けれども過去数万年あるいは数十万年の間、われわれ人類の脳髄に刻み込まれたこの奴隷根性を消え去らしめることは、なかなかに容易な事業じゃない。(以上、大杉栄「奴隷根性論」)

すでに私も奴隷になりかけているようなものではないか……納税奴隷……マイナンバー奴隷……教育プロパガンダ奴隷……。

知らないうちに奴隷になっているこの状態から脱出するには、どうすればいいのだろうか?

まずは何者にも邪魔されず一人自分と対話すること、その思いを書きとめてゆくこと……そうした時の過ごし方が奴隷的思考から解き放つ一歩につながる気がする。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月18日(火)旧暦6月1日

堀田季何「俳句ミーツ短歌」を読む

万葉集の頃から現代の、そして海外の動きまで詳しく解説。短歌や俳句と言えば、不動のスタイル……かと思っていたが、そうでもなく少しずつ形を変えてきていることがよくわかった。

いにしえから現代までたくさん引用されている俳句、短歌も、その解説も楽しい。

でも不自由なところもあるんだなあ……と思ったり。例えば俳句についての以下の文。第五章より

師系が異なると俳句についての価値観が根本的に違い、どの結社にいるかで俳句の読み、解釈はまったく変わってきます。短歌にも結社や師系はありますが、俳句の方が「解釈共同体」の側面が強いです。

解釈共同体は嫌だなあ……と思う。

縁語についての説明もわかりやすく、そうか……と納得。以下、青字は第四章「難波潟短き葦の節の間も遭わでこの世を過ごしてよとや」の縁語についての説明より。

言葉と言葉を関係づけることで、「会ってほしい」という気持ちは強調されます。言葉がつながりによって導かれることによって、作者が訴えたい心情は必然的なもの、逃れられない運命的なものとして立ちあらわれるのです。

本を読み終えたとき、なぜか心に一番残ったのは渡邊白泉の次の句である。戦争の擬人法という有り得ない感が、なぜかピッタリのリアリティを生み出しているからだろうか?

戦争が廊下の奥に立つてゐた

憲兵の前で滑って転んぢやつた

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さりはま書房徒然日誌7月17日(月)旧暦5月30日

大阪のコーヒーはなぜ苦い?

この暑さにうつらうつらしていると、大阪の薬のように濃いコーヒーの味がふと恋しくなる。

大阪の喫茶店すべてのコーヒーが……というわけではないだろうが、文楽劇場近くの伊吹珈琲店、丸福珈琲店のコーヒーは驚くほど味が濃い。

日経新聞2017年11月9日に「大阪のコーヒー なぜ濃い? 茶道の「お濃茶」意識(もっと関西)」という見出しの丸福珈琲店についての記事があった。

その記事によれば、濃く淹れるために豆や焙煎にこだわるのはもちろん、抽出器具も濃く出るように工夫を凝らし、ミルクも濃いコーヒーに合う特別なミルクを頼んでいる……らしい。

そこまで濃いコーヒーにこだわる理由について、同記事によれば

「(丸福)創業者の伊吹貞雄氏が茶道に精通しており、少量で口をさっぱりさせるお濃(こい)茶の役割をコーヒーに求めたという。「伊吹貞雄は東京の洋食店でシェフをしていた関係で洋食コースの最後に、茶懐石で提供するお濃茶のようなコーヒーを出したいと考えていた」(伊吹取締役)」

たしかにお濃茶ようなコーヒーである。

丸福珈琲の取締役が伊吹さん……黒門市場にある濃いコーヒーの伊吹珈琲店とは名前が同じ。もしかしたら親戚なのだろうか……?

丸福も伊吹も私にとっての大阪の味である。この夏も懐かしい大阪の味を飲むために早く夏バテから回復しなくては……。

なお丸福珈琲は全国にある。コーヒーと合うミニプリンも美味しいし、コーヒーが苦手ならフレッシュジュースも美味しい。丸福で大阪を味わってはどうだろうか?普段は砂糖もミルクも入れないが、丸福の場合はまずブラックで楽しみ、次に砂糖を入れて、最後にミルクを入れて……と三段階の飲み方を堪能できる。

コーヒーの俳句を眺めていて心に残ったものを以下に引用。

コーヒーとでこぽん一つゆめひとつ/臼井文法

コーヒー代もなくなつた霧の夜である/下山英太郎

珈琲の香にいまは飢ゆ浜日傘/横山白虹

青空文庫にて幸徳秋水「翻訳の苦心」を読む

最近、国家の手で無残な死を遂げた人たち、その素顔は……という思いで彼らが書いた文を読む。大杉栄、伊藤野枝……気配りと同時に貪欲な知識欲にあふれる人柄がうかがえ、なぜ……?という思いにかられる。

幸徳秋水「翻訳の苦心」を読み、この時代に早くも翻訳の苦労、喜びを適切につかんでいる明治人の知性に圧倒される。以下、青空文庫へのリンク

https://www.aozora.gr.jp/cards/000261/files/48337_38450.html

師の中江兆民が翻訳について語った言葉。厳しいようだが、その通りだと思う。原著者の文体の良し悪しを見極め、欠点を補うつもりで翻訳しないといけないと思う。

例えば季刊さりはまで訳しているチェスタトンの場合、近い行で、あるいは同じ行で無駄な語の反復が非常に多い。リズムをとっているというよりも、気が緩んでいるとしか言いようがない。

兆民先生は曾て、ユーゴーなどの警句を日本語に訳出して其文勢筆致を其儘に顕はさうとすれば、ユーゴー以上の筆力がなくてはならぬ、総て完全な翻訳は、原著者以上に文章の力がなくては出来ぬと語られた

高徳秋水が目指した文体。実現すれば……と残念に思う。語学力、漢文力のある明治人だから可能な文体だったろうに。

一篇の文章の中でも、言文一致で訳したい所と、漢文調が能く適する所と、雅俗折衷体の方が訳し易い所と、色々あるので、若し将来、言文一致を土台として、之を程よく直訳趣味、漢文調、国語調を調和し得たる文体が出来たならば、翻訳は大にラクになるだろうと思はれる。

以下の文に明治の頃から翻訳は割のいい仕事ではなかったと思いつつ

斯く苦心を要する割合に、翻訳の文章は誰でも其著述に比すれば無論拙い、世間からは案外詰らぬことのやうに言ふ、割の良い仕事では決してない、

翻訳の魅力を語る言葉に、そうなんだよなあ、私もだから翻訳してみたいんだなあと頷くことしきり。

而も能く考へれば一方に於て非常な利益がある、夫は一回の翻訳は数十回の閲読にも増して、能く原書を理解し得ること、従つて読書力の非常に進歩する事、大に文章の修練に益する事等である、

翻訳の社会的必要性をアツく語る幸徳秋水。こんな知性あふれる人間が、なぜ犯していない大逆罪を着せられて半年ほどの審議で死刑に処せられなければならなかったのだろうか……?

是れ唯だ一身の上より云ふのであるが、社会公共の上より言へば、文芸学術政治経済、其他如何の種類を問はず世界の智識を吸収し普及し消化する為めに、翻訳書を多く出さんことは、実に今日の急務である、従つて技倆勝れたる翻訳家は、時勢の最も要求する所である。

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さりはま書房徒然日誌7月16日(日)旧暦5月29日

削り氷が「あてなるもの」(高貴なもの)に思えてくる暑さ!

酷暑の毎日にかき氷が恋しくなる。かき氷はいつ頃から食べられていたのだろうか?

枕草子には早くも登場…「あてなるもの(高貴なもの)……けずりひにあまづら(甘味料を採取するツルの一種)入れて、あたらしき金椀(かなまり)に入れたる」

当時は高貴な人しか食べることのなかった削り氷(けずりひと)。新しい金属のお椀に入れて食べたら美味しかっただろうなあと思う。

山口誓子のかき氷の句を引用…

匙なめて 童たのしも 夏氷

私も夏風邪か熱中症で数年ぶりに体調が良くない。かき氷を思い出して大人しくしていよう。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月15日(土)旧暦5月28日

朝顔を見かけない夏

以前ならこの時期、道を歩けばあちらこちらで目にした朝顔。

今年はまだ一鉢も見かけていない。

育てる人が少なくなったのか、朝顔にはあまりに暑すぎる夏となってしまったのか。

私の知っている夏ではないようで寂しい気がする。

以下、正岡子規の俳句より朝顔の句をいくつか。

かれかれになりて朝顏の花一つ

なかなかに朝顔つよき野分かな

朝顔やきのふなかりし花のいろ 

「かれかれ」とか「なかなかに」という言葉の語感や色合いが面白いなあと思った。

いぬわし書房のオンラインサロン「自我とは?」

いぬわし書房のオンラインサロンを視聴。丸山健二先生が多岐にわたって話してくれる90分間。

今回も夏バテ対策という軽めの話題からスタート

「自分を見失う」「自分を見失わない」とは?という話。

最近の小説を二作品取り上げ文体についてのコメント。

夏らしい表現と盛りだくさん……の90分。

特に心に残った「自我とは?」の話をふりかえって私的に勝手に思い出してメモ。青字は丸山先生の言われたことのメモだけど、勝手に都合よく解釈している部分が多々かも。

(1)「望んだ自分でない自分」と「望んだ自分」……自分はどこに?

風貌にしても自分の選んだものではない、環境だって自分で決めたものではない。私たちは望んだ自分でない自分と一生付き合っていかないといけない。「望んだ自分」というものが本当の自分なのだろうか?自分は別のところにいるとしたら、二重の人物だということになる。

丸山文学によく出てくるドッペルゲンガーは、こうした思いから現れるのだろうか……と思った。

(2)自分を見失わないように対処するには?青字は丸山先生の考え

たった一人になったときにどうやって過ごすかが大事。

グタッとしてストレス解消をしようと考えがちだが、愚痴りたくなって愚痴を止める者がいない。

また丸山先生は個人の自由を最優先したいと考えているが、孤立した個人であってはいけない。殻に閉じこもってはいけない。

殻に閉じこもると自分が絶対になって、他を認めない。言葉を表現する人にとってはナルシズムに陥るから危険。

大事なことは

人前でリラックスすること。個人に立ち帰ったときに気を抜かないこと。

丸山文学は、よく主人公が立ち去るときに綺麗に掃除して去っていく。私ならここで掃除するなんて思いもよらないのに……と思いつつ読むことしばしば。

「個人に立ち帰ったときに気を抜かない」という精神のあらわれかも……と思った。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月14日(金)旧暦5月27日

伊藤野枝「青鞜 編輯室より」を読む……伊藤野枝は故意に悪く語られすぎていないか?

大杉栄、伊藤野枝を世間は「悪魔」と非難し、二人は悪魔の子ならと居直って長女に「魔子」と名づけた。

悪魔とも言われた大杉栄……その手紙はおおらかで、優しく、向学心、感性にあふれている。悪魔では決してあり得ない。

同じく悪魔と言われた伊藤野枝。今でもWikiの説明を読むと平塚雷鳥から「青鞜」を奪い取った悪女のように非常に悪く書かれている。

事実か?と、伊藤野枝が書いた「青鞜 編輯室より」を青空文庫で全部読んでみる。

見えてくるのは出産などで千葉の御宿で過ごす平塚雷鳥。

伊藤野枝は出産、育児中の平塚をフォローするように原稿を待ち、応援者も10人と少なくなってきた青鞜を支える。

新聞ではスキャンダラスに評され、「お前ら殺してやる」という脅迫手紙も舞い込み、刊行予定の青鞜が発禁になって経済的に逼迫している中、なんとか発行を継続しようと奮闘している。

以下の文から、そんな伊藤野枝の一人奮闘する仕事ぶりが伺えるのではないだろうか?野枝は当時19歳で育児中。

広告をとりにゆく、原稿をえらぶ、印刷所にゆく、紙屋にゆく、そうして外出しつけない私はつかれきつて帰つて来る、お腹をすかした子供が待つてゐる、机の上には食ふ為めの無味な仕事がまつてゐる。ひまひまを見ては洗濯もせねばならず食事のことも考へねばならず、校正も来ると云ふ有様、本当にまごついてしまつた。その上に印刷所の引越しがあるし雑誌はすつかり後れそうになつてしまつた。広告は一つも貰へないで嘲笑や侮蔑は沢山貰つた。

『青鞜』第四巻第一〇号、一九一四年一一月号

ときに弱音も吐く。そんな姿に親近感を覚える。野枝は当時18歳。

校正つて本当に嫌やな仕事です。厄介な仕事です。出ない間ボンヤリして機械の廻る音を聞いてゐますと気が遠くなつてしまひます。

[『青鞜』第三巻第七号、一九一三年七月号]

催促しても集まらない原稿、販売金の回収……野枝の苦労がひしひしと伝わってくる。

欧洲戦争の為めに洋紙の価が非常に高くなりまして此の頃では以前の倍高くなりましたので情ない私の経済状態では思ふやうな紙も使ひきれなくなりました

こう書いた後、次の号から「青鞜」は休刊になってしまう。無理もない、むしろよく頑張ったと言いたい気がする。

野枝の文は強さ、パワーにあふれている。

政府が女権運動を取り締まろうという気配を見せても怯まない。野枝二十歳。

もし真に必要にせまられた、根底のある、権威のある運動ならばどうしたつて官権の禁止位は何でもなく抵抗が出来る筈だ。またそんなことを気にもしてはゐないだらう。

『青鞜』第五巻第五号、一九一五年五月号

「殺してやる」という長い脅迫状が届いても平然と楽しむ。強い。野枝18歳

中学あたりに通つてゐる坊ちやんのいたづらか、或は不良少年のいたづら位だらうと思ひました。とにかくおもしろいと手を叩いて笑つたのです。

『青鞜』第三巻第六号、一九一三年六月号

次の文を書いたとき、野枝はわずか二十歳。すごいパワーと可能性を秘めた女性だったのに……と彼女を悪く言い、惨たらしく殺し、今でも非難する声の背景とは何か……知りたくなる。

自分の歩いてゆく道をぢつと見てゐるとおもしろい。この頃私は自分の目前に展開して来る事象について多く考へるやうになつた。それ丈けでもよほど自分の歩いてゐる道が以前から見るとちがつて来たことが自覚される。ましていろいろな細かいことを考へてゐたら随分さういふ実証はあげられるだらうと思ふ。自分にその歩いてゆく道の変化が見える間は大丈夫だとひそかに思つてゐる。それがわからなくなつたときは、墓をさがす時だ。何時までも進んでゆきたい。

『青鞜』第五巻第五号、一九一五年五月号]

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

屋形船おはぐろとんぼの記憶は、突如、20年前の盗賊団の頭との出会いに飛ぶ……ということを散文を極めた形で表現するとこうなるんだなと思った。

旧態依然とした生物学の範疇にはけっしておさまらない

命を凌駕する命を授かった私を

直ちに二十年前に遡らせたかと思うと

なんと

あの日

あの時

あの出来事を

かたわらの品物を取るようにして

一挙に手元に引き寄せたのだ。

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中191頁)

窃盗団の頭が屋形船おはぐろとんぼに乗って逃げた……という文も、こう語ればワクワク不思議な人生になると面白く思った。

散文的人生とか散文は馬鹿にされるけど、本当は詩歌にも負けないイメージ喚起力があるのだと思う。

語るに値しない人間存在の基盤などとはまったく無縁な

路地という路地が抜け裏になっているかのごとき神話的空間を

純粋に所有する激情をもって遡り

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中237頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年7月13日(木)旧暦5月26日

松下竜一「ルイズ 父に貰いし名は」読了、大杉栄「獄中書簡」を読む

大杉栄の四女ルイズに取材した「ルイズ 父に貰いし名は」を読了。

大杉栄・伊藤野枝の娘だから……と言われつづけた辛い人生に静かに耐え、大杉・伊藤の娘ではなく「ルイズ」として生きようとした強さに心打たれる。

それにしてもなんと辛い人生であったことか……。

学校でも「同じクラスにしたくない」など差別の目に常に晒され……。

好きな青年との結婚を諦め……。

それでもいいと求婚した別の男とは、相手の親に許してもらえないまま結婚……。

満州に渡るときも常に尾行がついて監視され……。

東邦電力に就職するも上司は同僚に「大杉栄の娘だから親しくしないように」と忠告……。

労働運動をしていた夫が解雇されると「大杉の娘と結婚したから」と言われ……。

ルイズが40歳くらいの頃、中卒の勤労青年たちに勉強を教えていたことから、公民館運営委員に推薦される。でも、「親の思想が悪いので」と自治会長、小中学校校長、地域婦人会会長、PTA会長からなる審議委員会は大杉栄・伊藤野枝を理由に拒否……。

大杉たちの同士からはアナキストの娘にふさわしい人生をと望まれ……。

ルイズばかりでなく、他の子供たちも大杉栄・伊藤野枝の娘である辛さを背負った人生である。

大杉栄の残したシンボル的存在であった長女•魔子も、その期待に押しつぶされていったようにも本書からは思える。

魔子が残した言葉

「私たち、大杉の娘として生まれて、損なことばかりだったわね」

でもルイズには親の記憶がないのに、社会を見るその目には、やはり大杉栄・伊藤野枝の血が確実に流れていると思った。

中国では、中国人や朝鮮人を人間扱いしない日本人が嫌になり……。

「日本人の子供までが中国人や朝鮮人の大人をなぶって当然としている」

博打好きの夫を責めることなく心のゆとり、家庭の明るさを大切にするおおらかさ。また夫の借金返済の内職の合間に、ルソー「エミール」を5ページ、お金をかき集め「大杉栄全集」を購入して少しずつ読み……。

私生児だから父の名前がないのはともかく、長女、二女という数字のところにまで黒線を入れられた戸籍簿に「国家の厳たる秩序を目的とする法律の意思」を見て、「大杉たちが否定した法律というものを、もっとよく知りたい」と「憲法の構成原理」という本を書写し……。

普通高校をでて勤めている娘が夜間高校に入りたいと

「夜間高校の方に本当の教育がある気がする」言ってきたときも

娘の言葉を信じ応援し……。

晩年、ルイズは朝鮮人被爆者の救援運動の中心となるが、権力を相手に戦うことの厳しさ、怖さを思い知らされ……。

そんなルイズの困難だらけの人生を思いつつ、ルイズやその子にまで受け継がれる大杉栄・伊藤野枝の確固たる信念を感じた。

ルイズが「不屈の意志」「余裕を喪わない優しさ」を感じたという大杉栄全集、獄中からの幸徳秋水宛書簡を引用する。

政治寄りではなく、文学や詩に心が寄り添っているアナーキスト大杉栄の感性を感じる文である。他の書簡も、向学心に燃え、家族や周囲への気遣いにあふれている。

同時になぜ彼がなぶり殺しにされなければらなかったのか?そういうことをする国家という組織の恐ろしさを思う。

「バクウニン、クロポトキン、ルクリュス、マラテスタ、其他どのアナキストでも、先ず巻頭には天文を述べている。次に動植物を説いている。そして最後に人生社会のことを論じている。やがて読書にあきる。顔を上げて、空をながめる。先づ目に入るものは日月星辰、雲のゆきき、桐の青葉、雀、鳶、烏、更に下って向ふの監舎の屋根」

(幸徳秋水宛の獄中書簡明治40年9月16日)

下記リンクは青空文庫の大杉栄「獄中書簡」

https://www.aozora.gr.jp/cards/000169/files/4962_15425.html

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

山吹岳から雪崩と共に流されてきた二つの遺体のエピソードを読む。

山里の春の訪れを美しく描いた後だけに、それぞれ別の家庭がある男女の遺体の哀れさも、家族の思いの醜悪さも目立ち、人間であることの醜さを思ってしまう。

水ぬるむ徒然川の両岸に

もの思う花々が眼路の限り咲き乱れ

結局は短命に終わるしかない幻想の幸福感を巡って

春の鳥が頻繁に色鮮やかな姿を見せるようになり

おつに澄ましている

母親に生き写しの顔の娘が

野の草を踏みしだいているうちに旅心をそそられ

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻93頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年7月12日(水)旧暦5月25日

松下竜一「ルイズ 父に貰いし名は」と大杉栄「鎖工場」を読む

(大杉栄)

大正時代、大杉栄や周囲の人が社会、文学に与えた影響の大きさを知り、まず大杉栄とはどういう人だったのか……近い人の視点で語られた本を読むことに。

松下竜一「ルイズ 父に貰いし名は」は、大杉栄・伊藤野枝の娘ルイズに、一年半かけて取材して完成した本。途中まで読む。

関東大震災から二週間後。

時の政府は災害後の不安定を利用し、朝鮮人や労働運動関係者や無政府主義者を取り締まろうとしていた……

ルイズの両親(大杉栄・伊藤野枝)と6歳の従兄弟は憲兵隊にいきなり連行される。

三人が扼殺(何箇所も骨折するまで蹴られ、首を絞め殺され、裸にされてコモでまかれて井戸に放り込んで土で埋められた)されたとき、ルイズはわずか一歳三ヶ月であった……。

ルイズが父の作品の中で一番理解しやすく、印象が鮮明だと語る「鎖工場」を読む。私が初めて読む大杉栄作品だ。

現代に刊行されても強い印象と共感を与えるメッセージ性に驚く。もしお時間があれば、寓意性に富んだ短編なのでぜひ。

大杉栄「鎖工場」(青空文庫)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000169/files/1007_20610.html

ルイズは「鎖工場」について語る。

「大杉も野枝もこの鎖を断ち切って立ち上がったために殺されたのだと」

「大杉と野枝を殺したのが単なる個人の行為とは思えなかった。鎖に連なっている群衆が二人を取り囲んで」

人目を忍んで大杉栄・伊藤野枝の墓に手を合わせていた小間物売りの老婆がルイズに語った言葉に、田舎の庶民にまで大杉栄の考え方が浸透していたのかと驚く。

「あなたのおとうさんおかあさんが生きとんしゃったら、わたしらのくらしももうちょっと楽になっとりましたろうばってんね……」

国家にとっては、庶民に慕われる大杉栄・伊藤野枝の存在がさぞ脅威であったことだろう……と想像ができる。

ルイズという名前はフランスの無政府主義者でパリ・コミューンの闘志ルイズ・ミッシェルにちなみ、大杉栄が命名したもの。

だが学校でルイズは大杉栄の子供であるということで

「子供と同じクラスにしたくない」など保護者からも同級生からも差別の嵐に晒され……

教師からも露骨に「親の仇はうちたいか?」など集会で訊かれ……

エスペラントを学べば、暗号を使っていると通報され……

大杉栄の子供・ルイズにとっても至難の人生であった

それでも父母のことは語られることもなく育ちながら、両親の考えの核心部分をルイズが把握していたことに驚いた……。

(伊藤野枝)

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

亡くなっている校長、その教え子の少し知恵が遅れている大男……と人間について饒舌に語った後……

視点は徒然川に、伊吹岳に、山での遭難者に……と、自然、それから死に戻ってゆく。

丸山先生も信濃大町で日々こんなふうに山と対話されているのだろうか……。

色々心に残るけど、最後、登山者を見かける季節をふたたび迎えた山が人間味を急に帯びてきたように感じられ、表現が面白いなあと思った。

「頂を極めるためには為すべきことを為せ」という

単純明快な内容を

舌端火を吐くように熱く論じる

筋金入りの扇動家顔負けの山吹岳は

そうした紋切り型の教唆の言葉の陰で

暗くじめついた意図をちらつかせ

またしても死へいざなうための微笑を

にんまりと浮かべてみせるのだった。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻91頁

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さりはま書房徒然日誌2023年7月11日(水)旧暦5月24日

政治家や国家に与しない芸術家に憧れて

こんな暑い日に涼しくない話題を書かなくても……とも迷ったが。

私がとてもがっかりするもの……。

政治家と親しい関係にあることをしきりにPRする芸術家たちである。交流写真をアップしたり、あまり芸術がわからない政治家に文を書いてもらったり。

たしかに政治家は動員力も資金力も差配する力もあるだろう……弱い立場にある芸術家にとって心強いだろう……ステイタスアップの存在だろう……頼りたくなる気持ちはわかる。だが、とても嫌なのである。

さて昨夜、そうした政治家と仲良くしたい芸術家とは真逆の路線をいく福島泰樹先生の短歌絶叫コンサートへ行ってきた。

「大正十二年九月一日」という題のコンサートである。

関東大震災から三日後。

内務省警保局が海軍船橋送信所から「朝鮮人は各地に放火し、爆弾を所持し、放火する者あり。厳重なる取り締まりを加えられたし」との電文を各地方長官に送信。国家が朝鮮人虐殺に加担しながら謝罪しないまま百年経過。

(リンクは東京新聞の関連記事)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/242997

この事実に、小池知事が謝罪に来ない事実に、福島先生は怒りの絶叫を咆哮する。怒りが生む短歌の、朗読の、言葉の尊さよ……と拝聴。

芸術とは、政治家や国家に与せず、怒り、喜び、悲しみの感情の火花をいかに散らせるか……普通の人よりいかに早く、政治家や国家の悪を見抜くか……にある気がする。

丸山健二先生も、芸術家を炭鉱のカナリアに例えていらした……社会の悪、矛盾に普通の人より早く声をあげる存在なのだと。

福島泰樹先生や丸山健二先生、怒るべきところで怒ることのできる芸術家が私は好き。

芸術家が政治家や国家に与してしまったら、怒るべきところで怒ることができなくなる、それは芸術家の死を意味すると思う。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

「おはぐろとんぼ夜話」中巻27頁から47頁まで20頁にわたって、屋形船おはぐろとんぼの船頭、大男で少し知恵の遅れた男についての描写が続く。

一人の人間について、これほど言葉を尽くして語ることができるのか……。

一人の人間にこれほど複雑な世界が広がっているのか……。

と驚く。色々と気に入った文があるが、その中から「かくありたし」と思った文を一つ選んで引用したい。

茫漠とした荒野に等しい世界が長いこと沈黙しても

平気の平左で過ごせ

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中45頁)

大男とは反対の人生を生きる普通の人たちを語る言葉もとても心に残る

ゆるやかな楕円軌道を描きつづける

色調を失った生を背負って息づくそれとも大きく異なり

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中45頁)

ゆるやかな楕円軌道の生を歩いている……と思うと、なんだか悪くない生のように思えてきた。言葉は偉大なり。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月10日旧暦5月23日

伊藤裕作「寺山修司 母の歌、斧の歌、そして父の歌 鑑賞の試み」をPASSAGEに搬入

編著者の伊藤裕作さんをはじめとして、寺山修司をこよなく愛する六人が寺山短歌の魅力を語った本「寺山修司 母の歌、斧の歌、そして父の歌 鑑賞の試み」をPASSAGE書店さりはま書房の棚に搬入してきた。

「寺山修司は一筋縄では行かない。だから六人がかりで」との言葉がこの本のどこかにあった。

たしかにそれぞれの人生にもとづいた解釈の火花が飛び散っていて、あらためて寺山修司という世界の深みを思う。

最後、「跋文にかえて」で伊藤さんは寺山修司のこの言葉を引用する。

「100年たったら帰っておいで、百年たてばその意味わかる」

寺山修司の歌を読むということは、万華鏡を覗くようでもあり、天体望遠鏡ではるか彼方の星を探すようでもあり……なのかもしれない。

そんな寺山ワールドに魅せられた六人の言葉に耳を傾けてみませんか?

それにしても表紙の寺山修司、なんともいい表情をしていますね。

PASSAGEにて購入した小豆洗はじめ「季節の階調 夏」を読む

詩人・小豆洗はじめさんは神保町PASSAGEの棚主さん。自分でつくられた詩集や詩関係の本を扱われている。今日、購入した「季節の階調 夏」も小豆洗さんが一年前にご自分でつくられた詩集だ。

「季節の階調 夏」には自分で……という手作りの良さ、目配りが随所に感じられる。

途中までインクは心地よい青。

蝉がジジジ……と鳴いて

空を横切っていった

という最初の頁の次に広がるのは青い海の絵。蝉の声と海に暑さも消え、夏の広がりと静けさだけが心に沁みて夏の詩へと誘う。

青いインクで印刷された様々な夏を切り取った詩が続いたあと、

最後に近づいたところで、闇に視力を失う「Mr. Indianとの夜」の詩で文字が黒くなる……ああ、闇だ……と思わせる効果がある。

最後の読経の声と蝉の合唱を記した文も、読経のイメージが文字の黒インクと合っていて素敵だなあと思う。

蝉ではじまって蝉で終わる試みも印象的。同じ蝉なのに夏の詩を読んだ後では心に聞こえてくる声が違う気がする……。不思議

幾何学模様の詩も二箇所ほどだろうか……あいだに挿入されている。かたちと詩句が自然に溶け込んでいる……でもご苦労されたのでは……と思う。

「胡瓜」という詩の例え。初めて聞くけど、胡瓜をかじる感覚はたしかにそんな気がする……と頷いてしまった。

胡瓜をかじったら

夏の空があふれた

種の粒つぶが奥歯ではじけて

蝉の声が止んだ

詩や文だけでなく、インクの色、絵、幾何学模様の詩、蝉の声……を工夫して散りばめた素敵な詩集。さらに小豆洗さんのすごいところは、定期的に発行されているところ。

こうした個人の詩集に出会えるPASSAGEにも感謝。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月9日(日)旧暦5月22日

クロモジの香りが恋しい季節

(クロモジの黄色い花)

蒸し蒸しとした日が続くと、ミントをさらに甘く、清涼感のある香りにした味わいのクロモジ茶をアイスティーで飲みたくなる。

ただしクロモジ茶の場合、葉ではなく、おがくずのような、クロモジの木の屑を煎じて飲む。香りはわりと抜けやすいようで、欲張って大袋で買ったら香りがしなくなってしまった。ただ味と風味は残っている。

クロモジは爪楊枝として使われることも多い。

調べてみれば、その他の効能としては保温、芳香性健胃、頭髪の脱毛やフケ防止などがあるそうだ。真偽のほどは知らないが、いかにも効果がありそうな香りである。以下、wikiの説明。

https://ja.wikipedia.org/wiki/クロモジ

クロモジの花の季語は春。次にクロモジを詠んだ俳句を紹介。

くろもじを燻べて春の炉なごむかな 古沢太穂

黒文字と和菓子と八十八夜かな 玉木克子

黒文字を矯めて香らす垣手入れ 武田和郎

身近なところにクロモジのある生活がなんとも贅沢に思え、羨ましくなる句である。

丸山健二作品にもクロモジが出てきたことがある。

「銀の兜の夜」だっただろうか……(心許ない)。なんと死体の臭いを隠すためにクロモジを使用していた。

クロモジはそのくらい強く、清々しい香りである。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

上巻の終わり近くになってきた。

屋形船おはぐろとんぼが廃校跡の荒地に倒れている校長像を見かけ、生前から船の上で亡くなるまでを回想する。

これまでおはぐろとんぼが眺めてきた一貫した流れのある自然の世界から、突如、幾重にもわたって相反する校長の思いが渦巻く世界。

人間を構成する思いの複雑さに、この校長の箇所は思わず二回繰り返して読む。

丸山文学のテーマである「もうひとりの自分」が、ここでは何人もいるかのような思いにかられた。

もうひとりの自我とのあいだに

ぞっとするような沈黙が介在して

決定的な不和が生まれ

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻531頁)

校長が屋形船おはぐろとんぼの上で息絶えてゆく箇所の描写は、言葉を尽くして描かれとても美しい。

それから校長の死を見つめる船頭の大男も印象的。船頭は校長の教え子で知恵が遅れたところがある。

大男が語る校長の親切と優しさ。

それは丸山先生の記憶から生まれたのではないか。

丸山先生自身、小学校時代、皇室の誰かの死への敬礼を拒否したためか特殊学級に入れられた。

だが特殊学級の担任の先生も、体の弱い仲間たちも心温かく居心地のよい場所だった……そう。そんな特殊学級で過ごした体験がにじむ文章のように思う。

それというのも恩師が

知恵遅れという括られ方では差別をしないから

ほかの子とまったく同じように扱うから

教材のたぐいは全部用意してやるから

学業の遅れなど少しも問題にしないから

でかい図体のことでからかう生徒は厳しく罰するから

その気になったときだけ顔を見せてくれればいいからと

そう言ってしきりに登校を勧めてくれ

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上579頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年7月8日(土)旧暦5月21日

谷中生姜の風景も移り変わって

先日、畑から採ったばかりの谷中生姜を頂いた。根が美味しいのはもちろん、葉っぱもレモングラスのような香りがして冷蔵庫の脱臭をしてくれる気がする。

効能も免疫力アップ、体を温めるなど色々あるようだが、最近、地元の庶民的なスーパーでは見かけない気がする。高級スーパーなら扱いはあるのだろうか……。

谷中生姜の季語は夏。谷中生姜をテーマにした俳句を幾つか。

貧しさや葉生姜多き夜の市 (正岡子規)

朝川の薑(はじかみ)洗ふ匂かな(正岡子規)

一束の葉生姜ひたす野川哉(正岡子規)

子規の時代、谷中生姜は貧しい生活を彩る季節の匂いだったのだろうか……。生姜だけでも見える風景はずいぶん変わったものである。

仁木悦子「白い部屋」を読む

小説現代80年5月号収録。現在は短編集「赤い猫」に収録されている。亡くなる6年前、52歳の時の作品である。

文庫本にして50頁ほどの中短編である。

そこに病室のメンバーたち、アパートの住人たち、もと華族の子息たち、お屋敷のお爺さんと令嬢を登場させるものだから、人物の差が描ききれていない感がある。非ミステリ読みとしては、こじつけ感にあふれている気がして面白くない。

なんとか頁数を稼ぐために登場人物をむやみに登場させたのではないか……と思うくらいに冗長である。初期短編にキラっとしていた仁木悦子の輝きは失われているようで残念である。

ただ宝くじ、新幹線、黄色と淡緑のキオスクの紙包み……とか昭和感には満ちていて、なんだかそんな包装紙を見たことがあるなあと懐かしくはなった。

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さりはま書房徒然日誌2023年7月7日旧暦5月20日

中央区立図書館本の森ちゅうおうへ

今日は八丁堀早稲田校での短歌講座、夜はNHK青山で人間のバザール浅草と福島泰樹先生の講座をダブルで受けた。合間に中央区立図書館本の森ちゅうおうに滞在。

本の森ちゅうおうは快適な図書館である。中央区在住、在勤でなくても貸し出しカードを作成して利用可能とのこと。平日と土曜日は夜9時までと遅くまで開館。緑を眺めながら閲覧できる席や美味しいカフェ。

快適、便利な図書館が大都市に限られる現状は残念ではあるが……。

歌誌「月光」79号

早稲田八丁堀校での福島泰樹先生の講座「実作短歌入門」は、ふだんは前回に決まったテーマで短歌を三首詠んで、前々日までに福島先生に送信。当日は皆さんの歌を見ながら……というスタイル。他の方の話では、どうやら「短歌を詠む」ことに徹した講座は珍しいらしい。鑑賞と抱き合わせで……という講座が多いようだ。

だが今日は夏期講座の第一回ということで、福島先生の主宰誌「歌誌 月光79号」を題材に色々短歌について講義して頂く。

まず79号まで続いている事実がすごいなあ……と思う。

同じ講座をとっている方々のお名前も表紙に連なっていて、皆さん努力されて素敵な歌を詠まれていることに、すごいなあと思う。

福島先生の歌から印象に残った歌を以下に紹介させて頂く。4月28日東京大空襲前夜、雪が降った……という証言があるらしい。ガソリンをまかれ、そのあとでナバーム弾を落とされ10万人が命を落とした事実に目がゆき、前夜の雪について語る人は少ないようだが……。福島先生は東京大空襲を「史上最大のジェノサイド!」と語ったあとで、こう詠まれている。

ジェノサイド語り伝えてゆくからに前夜の雪は浄めにあらず

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さりはま書房徒然日誌7月6日(木)旧暦5月19日

幼子の笑顔は記憶攪拌装置

夏空に誘われたのか、日中、ゼロ歳から二歳くらいの幼子を連れた母親たちを何人も見かけた。年齢別人口を考えると、これだけ幼子たちに遭遇するのは珍しく、ラッキーな日だと思う。

なぜか幼子の無心な笑顔が呼び水となって、心に眠っていた意識が揺さぶられる。そんな風にして思い出したことを取り留めもなく二つほど。

かつて勤務していた夜間定時制高校で、たしか何かの新聞記事のコピーを配布したときのこと。

その記事にあった「教育は未来への投資」「若者は貴重な未来の資源」という言葉に生徒たちは敏感に反応した。

「教育が投資」という感覚も嫌だし、「私たちは資源じゃない」と反発。自分たちを利用するものとしてしか考えていない存在を見抜く感覚を頼もしく思うと同時に、そんな繊細な彼らが不登校生として長く過ごすことになった学校とは?と考えた。

もう一つ。たまに見かける双子用ベビーカーだが、バスの乗り降りのときお母さん一人だけではすごく大変そうだ。

車椅子と同じように、バスのステップに平板をかけてもらったら楽になるだろうに………と思う。

街で見かけた幼子の笑顔が、人を利用せんと貪ることかれ、優しい世界に生きよ……と呼びかけている気がした。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

屋形船おはぐろとんぼが荒地となった廃校に見つけた枝垂れの八重桜。

おはぐろとんぼがこの桜を見る眼差しに、丸山先生がこの世を見つめるときの理想と重なるものを感じる。

そしてその桜は

自立して存在することを執拗に阻む

底意地の悪い現今社会において

実り豊かなはずの理念が立ち消えてゆくなかにあっても

表情たっぷりの

爽やかに輝いた面持ちをしっかりと持続させ

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻494頁

八重桜はトンネル工事の犠牲者たちに衷心からの回向をたむけつつも語る言葉は、丸山先生のこの世とは別な世界がある……という世界観が反映されているように思う。読んでいるうちに、せかせかした現世が遠ざかってゆく……のが丸山文学の魅力だと思う

たとえいかなる悲劇が生じたとしても

たかがそれしきのことで嘆くことはないと

悠然たる笑みを浮かべつつ

そう耳もとでささやき

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻496頁

八重桜に国家との関係の在り方も語らせている。この考え方も魅力だし、同じことを人間が語ればうるさくなるところ、桜ならば素直に頷ける。

惰性的な慣習としての国家への帰属は

良心を棄て置いて

真っ当な答えを弾き出そうとするようなものだと

あっさり言ってのけ

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻496頁

福島泰樹「歌集 百四十字、老いらくの歌」より「桜花爛漫の歌」を読む

「桜花爛漫の歌」を読んでいると、とりわけ寺山修司について詠んだ歌が、寺山修司とはそういう辛い生い立ちの人だったのか……寺山修司のイメージはたしかに刹那を生きる人だなあ……と心に残る。以下に二首ほど引用する。

戦争で父を喪い夭(わか)くして母に棄てられつくつく法師

「存在と非罪」のせめぐ黄昏を寺山修司、笑みて消えゆく

次の歌は、私も福島先生のように生きたいもの……と怠惰を反省した。

暁闇に目醒めて朝をなすことは夢を呟き 歌を書くこと

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さりはま書房徒然日誌2023年7月5日旧暦5月18日

アゴラとは逆方向を目指す街

今日は所用で千葉駅西口広場方面へ。千葉駅西口はだだっ広い広場に小さな、寝転べない意地悪ベンチが二つあるのみ。改札に行く通路にもベンチはなし。駅のホームにもベンチは見かけなかった気がする。

なぜ人が足を休め、談笑する場をつくろうとしないのだろうか……?

そういう発想がないのか?それとも意識的に人が休めないようにしているのか?

南フランスの田舎町ペルピニャンの広場をふと思い出す。

ペルピニャンでは広場を囲むようにテラス席のあるカフェが並んでいる。夜になれば家々から皆カフェにやってきてテラス席で好き勝手なことを喋り、最後は広場で手を繋いで輪になってバスク地方のダンスを踊る……。

田舎町でもアゴラがある……そんなペルピニャンの夏が遠い風景に思われた。

デジタル大辞泉によれば、アゴラとは

古代ギリシャの都市国家の公共広場。アクロポリスの麓にあって神殿・役所などの公共建築物に囲まれ、市民の集会や談論・交易・裁判などの場になった。

人が休めない街とはただ不親切なだけではなく、集会や談論からも遠ざける街なのだと思う。こんなアゴラとは逆方向を目指す街が、日本中に増殖している気がする。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

丸山先生の大切なテーマのように思える生と死。生なき存在である筈の屋形船おはぐろとんぼが四季を生き生きと語ることで、不思議な妖しい美しさが風景に宿り、生と死というテーマをくっきり際立たせるように思う。

花の笑む頃になると

きまって気持ちが浮つく性分……

白南風がそよと吹き始める頃になると

必ず湧き上がる胸の泉……

屹然として聳える山吹岳の遠くに

蜘蛛手に弾ける花火が見える頃になると

ひたひたと押し寄せる充足感……

夢ならぬ現実として

銀色に輝く尾花の波が押し寄せる頃になると

ふんわりと包みこんでくる哀調……

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻415頁

福島泰樹「百四十字、老いらくの歌」を読む

福島泰樹「百四十字、老いらくの歌」より「道玄坂の歌」を読む。この本は、福島先生が毎日ツィッターに投稿した373首だそうだ。「ツイート文が長歌なら、短歌は反歌だろう」と帯にある。長歌があるおかげで、短歌の思いも分かりやすい。

「道玄坂の歌」には、戦争で、東北地方大震災で、色々思いを残して亡くなっていった死者を詠んだ歌がある。

この季節、道に咲く紅白のオシロイバナの花を見ていると、花々の影に歌に詠まれた死者の姿が見えてくる気がする。

百四十字、老いらくの歌」の「道玄坂の歌」 より、そうした死者を詠んだ福島泰樹先生の歌を次に五首ほど紹介させて頂く。

戦争で死んだ母さん、歴史とは……波に呑まれてゆきし人々

炎に灼かれ叫ぶ人々黒焦になった人々、ぼくは見ていた

死者は死んではいない 髪や指の影より淋しく寄り添っている

燃えながら逃げゆく人を 泣きながら背中に隠れ見ていたのだよ

暗い眼でおれを見据える男あり はるか記憶の闇のまなこか

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さりはま書房徒然日誌2023年7月4日旧暦5月17日

なぜ教育委員会の人は文を書くのが苦手なのか?

定時制高校で働いていた頃、不思議に思ったことの一つ……。

教育委員会の人たちは大量の通知文書を作成するのに、なぜか自分の言葉で文章が書けない……ということ。上手、下手ということではなく、ほんとうに文章を書くことができない……と思った

勤務していた定時制高校では、卒業式に発行する広報誌に教育委員会からの「卒業おめでとうございます」の文を毎年掲載していた。その関係で10月に1月初旬あたりの締切で頼む………

だが1月下旬になっても原稿があがらず、教育委員会の人どの人もナンダカンダと理由をつけて締切をひたすらのばす……が毎年の恒例。

勤労青年も多い定時制高校の卒業式への祝辞、書くネタはたくさんあるだろうに。なぜか言い訳ばかり、ひたすら締切を伸ばす……。

教育委員会の人は文を書けない……と思った理由、その二。各学校のホームページの校長挨拶は、普通の学校は4月中旬には更新される。

だが教育委員会から4月に赴任した校長がいる高校(教育委員会の人が校長になるのは、たいていすごい名門校だ)は、まだ校長挨拶が更新されず空白のままである。

なぜ教育委員会の人たちは、こうも文章を書けないのだろうか……と考えるうちに、文章を書く行為というものが少し見えてくる気がした。

文書を大量作成する教育委員会の人にとって、文をつくるとは文科省から降りてきた決定事項を漏れなく伝える伝達ミッションでしかない。文書作成のときには自分という存在は無色透明にして、ひたすら優秀なメッセンジャーたらんとする……のだろう。

でも本来、文章を書くということは、「卒業おめでとう」のように小さな文にしても、自分の内心を伝えるという行為。自分という核がないと言葉にまとまっていかない。

ふだん透明人間になって文書を大量生産してきた教育委員会の人たちにとって、伝えるべき文科省の伝達文もないシチュエーションで、思いを少しでも伝える……という行為には恐怖に近いものを感じるのかもしれない。

教育委員会の人たちの逆路線をいって、国からの言葉を忠実になぞるメッセンジャーなんて真っ平!と逆らおうとする精神から、もしかしたら文章の雛は生まれてくるのかもしれない。

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む

屋形船おはぐろとんぼが河辺の墓地に感じる妖しい雰囲気に、死がぐっと近いものに思えてくる。

生年も没年も不明のままのの古い墓が

いつもながらの非常に艶かしい燐光を発している

そのかたわらを通過する時には

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻355頁)

その直後に生と死の入り乱れた関係が示唆されて、自分がいるのはどっちなのだろうか……という思いにかられる。乱打される生と死の響き……それが丸山文学の魅力の一つだと思う。

生と死の密接な結び付きが

隠された意図を明らかにできぬまま

その意味を灰と化したように思え

(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻356頁)

「うたで描くエポック 大正行進曲 福島泰樹歌集」を読み終わった!

大正時代にこんなに激しい思いを抱いて短く散っていったアナーキスムの作家、画家、俳人がいたとは……。彼らの笑顔、無念が伝わってくる歌集だった。短歌にあまり関心のない方も、大正という時代を知ることのできる素晴らしい歌集だと思う。

最後の章「髑髏の歌」より有島武郎情死を詠んだ福島先生の歌を二首、次に引用させて頂く。

腐乱して垂れ下がってる揺れている牡丹の花と謳われし女(ひと)

ぽたぽたと白い雨降る変わり果て牡丹の花や髑髏となりし

跋文に福島先生が記されていた文が心に残る。

「歴史とは、それを意識する人々の中に、常に現在形として在り続ける。それが。一人称誌型にこだわり、歌を創り続けてきた私の実感である」

まさに目の前に、歌の中の人たちが現れるようなひとときを体験した。これまで知らなかった大正という時代を、短歌の力を、この歌集から教えてもらった。

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さりはま書房日誌2023年7月3日旧暦5月16日

水田を知らない若者たち


昨日は半夏生だった。
旧暦の時代、半夏生は田植え完了の目安だったらしい。
現代では稲の銘柄のせいか、気候が早く進んでいるせいか、家族構成の違いのせいか、連休あたりから田植えを開始、半夏生の一ヶ月前には田植えを完了ではないだろうか?

旧暦の風景に想いをはせたいという思いから、さりはま書房日誌には旧暦も記している。

同時に今の若い人達はどんな風に季節を感じるのか……重なる部分、相違点も気になる。

かつて定時制高校で英語を教えていた頃のこと。

教科書の英文に「水田」が出てきた。どうも生徒たちの反応が鈍いから、もしや……と確認してみたところ、誰一人として白米の元が稲穂であることも、稲が水田に育つという事実も知らなかった。

外国籍の親御さんのもとに育った生徒も多い、小学校低学年から不登校の生徒も多い……という定時制高校ならではの特殊事情もあるのかもしれない。

でもキラキラした感性はあれど、水田というものを知らない今の若者たち……彼らに言葉を使ってどう日々の感動を伝えればよいのだろうか……自問しつつ、まずは私自身に旧暦の感性をたらしてみることから一歩。

「うたで描くエポック 大正行進曲 福島泰樹歌集」より「大八車の歌」を読む

甘粕事件について、この歌集で初めて知る。https://ja.wikipedia.org/wiki/甘粕事件

大杉栄だけでなく、産後間もない妻の伊藤野枝も、わずか六歳の甥っ子・橘宗一も、いきなり連行してすぐに殺害。裸にして井戸に投げ込んだ残虐さ。

指示したと見られる甘粕正彦の写真の穏やかな顔、甘粕の母の「子供好きだった」という言葉に、人間性を変えてしまう国家や権力の恐ろしさに慄然とする。

現代にも通じる国家悪への怒りがほとばしる歌に心うたれ、福島泰樹先生の歌を次に五首引用させて頂く。( )内は、歌の前に書かれていた説明の言葉。

「巨悪のテロルは常裁かれず」の言葉の重さよ……。

(橘宗一いまだ六歳 憲兵隊本部の庭に絶えし蜩)

大逆罪震災虐殺白色の 巨悪のテロルは常裁かれず

(大正十二年十月八日、第一回軍法会議)

逆徒大杉榮屠りし甘粕正彦は天晴れ国家に殉じし者よ

「國法」よりも「國家」が重い其の故に甘粕見事と言い放ちけり

(女らのいとけきかな奔放に生きしは井戸に投げ捨てられき)

裁判を暴け国家を、銃殺を命じし者らは猛く眠るを

(村木源次郎市谷刑務所で臨終)

さようなら縛られてゆく棺桶の 大八車の遠ざかりゆく

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を少し読む

屋形船おはぐろとんぼが語る徒然川の岸辺に咲くタキユリの群落。

美しい花の暴力的な生命……

生への不信……

生のすぐ近くにある死の気配……

そういうものが入り乱れた瞬間を切り取るのが丸山文学の魅力の一つだなあと思う。

まさに絶妙な均衡によって

気品の白に情念の赤を散りばめたその妖花の

むせ返るほど濃密な香りは

ゆるゆるの意識の深層に深く入りこんだ

獣的な粗暴さを刺激しそうな恐ろしい力を秘めながらも、

死を意識する頃に

生の不信のどん底に墜ちこみ

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻317頁

屋形船おはぐろとんぼに向かって、国家を静かに罵り、宣戦布告をする徒然川。この怒りがこれからどう炸裂していくのだろうか……楽しみである。

国家の原汚い支配層によって欺かれつづけてきた人々の

口先ではない本当の怒りがはじまるのは

これからなのだとのたまい

為政者どもの良心を疑っているうちに

国家を相手に戦いを宣する

丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻325頁

仁木悦子「赤い猫」を読む

不幸な生い立ちの娘が孤独なお金持ちの老婦人と力を合わせて母親殺しの犯人を突きとめ、シンデレラに……という展開。心癒されるという人もいるだろうけど、私には安易で、あまりに偶然に頼りすぎている……これでいいのだろうか。ほんわかしたムードはあるが、ありえない感の方が強い。

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